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「何を読んでいるんだい?」
「…え?」

不意に話しかけられ、驚いて頭上を見上げる。
僕の座っているソファの背に両手をかけ、月山さんが僕の手元を覗き込むように背後に立っていた。
…びっくりした。
ただいまの声も足音も、ドアを開ける音も全然聞こえなかった。
また本に夢中になっていたみたいだ。
慌てて栞を挟む。

「あ、お…お帰りなさい、月山さん」
「ただいま。…と口にするのは、三度目になるけどね」
「すみません…」
「構わないよ。本に夢中になっている君の横顔は美しい」
「は、はは…」

語りながらるぐりとソファを周り、月山さんが傍までやってくると僕の頬の左右に自分の頬を合わせ、離れる方の頬に音を立ててキスをする。
その間はぎゅっと目を閉じて顎を上げ、固まっていることにしてる。
あんまりスキンシップ過度で思わず調べた…。
フランス式挨拶の"bise"というものらしい。
親しい人にする挨拶だとか何だとかで、特に変なことではないらしいけど…。
歯の浮く台詞と挨拶に簡単に顔が赤くなって、思わず俯き肩を上げる。
…いい加減慣れよう、僕。
うん…。もうそろそろ慣れよう。
月山さんは本気でこれがスタンダードなんだから…。

「それで? 改めて、何を読んでいるんだい?」
「あ、楽譜です」
「楽譜…?」

隣に腰掛ける月山さんへ、持っていた本を手渡す。
本というか、楽譜なんだけど…。

「ふぅん…」
「今日図書館へ行ってきたんですけど、返却棚にあって…。図書館って楽譜もあるんですね。僕、基本的に小説しか読まないので、こんなのもあったんだな…って、物珍しさに負けて」
「君に音楽の心得があるとは思わなかったな。…ピアノの譜面だね。弾けるのかい?」
「まさか。触ったことも小学生の頃に学校で少し触ったくらいです」

パラパラと隣で楽譜を捲っていた月山さんが、意外そうな顔を上げた。

「譜面は読めるの?」
「いいえ。全然」
「けど読んでいるのかい?」
「え? はい。読んでいますけど…」
「…」
「…?」

月山さんが不思議そうに瞬く。
え…。何か変かな…?
楽譜が読めないのに読んでいることが変なのかな。
けど、だって…紙である以上目で追えるし、時間も潰せる。
曲のメロディを知っていれば、音符の数を個数合わせで追える。
音楽の心得なんて、僕には全く無い。
彼が持っている譜面とは別に、目の前のテーブルに置いてある別の本を手に取る。

「でも、ピアノ初心者の本は一緒に借りてきました。えっと…この、横の棒が入っている…五線譜の下にはみ出ているやつが、"ド"なんですよね?」

教本の最初の方のページを開きつつ、月山さんの持っている楽譜にある、UFOみたいな音符を指差す。
ドレミとか、本気で懐かしすぎて中学までは楽譜が読めたような気がするけど、もう随分前のことに感じる。
これが"ド"…と。
…で、上にいくごとに、上がっていくんだよね。
ドレミファソラシドは覚えられたと思うんだ。
それから…。

「ちょっとまだ全貌が掴めてない気がしているんですけど…。これがト音記号で、これがヘ音記号…。この梵字みたいな記号は"一拍休み"って意味で合ってますか?」
「四分休符だね。…んー。正確に言えば、その名の通り四分音符分を休むという意味なんだが」
「四分音符…。えっと…これですよね? 音符で、棒がついているもの」
「そうだね」
「けど、日常的によく見る音符マークはこれじゃなくて…オタマジャクシみたいなこれは」
「八分音符」
「はい。…でも、楽譜ではこの四分音符が基準になるんですか?」
「基準…。難しいね。曲によってはそうだけれど、言い切れはしないかな。分かりやすいという点では、四分音符基準で考えた方がいいだろうけれど」
「四分音符というのは、一小節を四分割した一つ分ってことです…よ――ねッ!?」

ばっ…!と膝の上で開いていた本を掴む。
僕がそれを持ち上げたのと、いつの間にか僕の方へ身を乗り出していた月山さんが角度をつけて顔を詰め寄せてきたのがほぼ同時だった。
バサ…!といくつかのページが風圧で動く音がして、月山さんが僕の上げた本にキスをする。

「…」
「…」

流れる冷や汗の中で、数秒間硬直した。
…。
か、間一髪…。
青い顔で、ばくばくと勢いよく鳴り出す心臓の音を聞く。
う、うわぁ…。よく見れば気付けば月山さん、いつの間にか僕の後ろのソファの背に片腕乗せてた…。
固まる僕との間を本で遮られた月山さんが、不満そうな顔で寄せていた体を離してくれた。
セットされている横髪を指で撫でながら、切れ長の目で微笑して僕を見据える。

「…残念」
「きゅ、急に何ですか!やめてくださいっ。そーゆーのは"食事"の時だけって…!」
「そうとも。来週だね。…ふふ。君が待ちきれない。今のは単にテイスティングさ。君の味を確かめたくてね」
「今のはどっちかっていうと盗み食いですっ!」
「おやおや。手厳しい」

教本を両手に持って、慌ててソファを離れる。
ぐるっと回ってテーブルを挟んだ反対側の端…月山さんが今座っている場所と一番離れる対角線上に改めて腰掛けた。
…ああもう。
顔が熱い…ってゆーか疲れる…。
ぱたぱたと片手で顔を扇ぐ。
視線を感じるけど敢えてそれには気付かない振りを続けていると、月山さんは足を組んで楽譜を閉じた。

「ピアノか…。そう言えば、ここには無いね」

整った顎に指先を添え、ゆったりリビングを見回す。
無いね、って…。
無いのが普通だと思うけど…。
まして、ここは月山さんが僕に用意してくれたセカンドハウス(果たして本当に2ndかどうかは怪しいけど…)のようだし。
オシャレなお店とかには、ある所もあるけど…。

「月山さんの家にはあるんですか?」
「部屋にあるよ」
「…」

さらりと言う。
…部屋にピアノ、か。
月山さんの家には一度も行ったことないけど、大豪邸っぽいもんな…。
部屋にピアノとか置けちゃうんだ。広いんだな。
…あ、じゃあ――。

「ピアノ、弾けるんですね」
「一応ね。簡単なものならば」
「へえ…。すごいです。…いいなあ」
「…」

月山さんを見てから、再び手元の教本を見下ろし、指先で表紙を撫でた。
…クラシック、あんまり聞く機会はないけど、嫌いじゃない。
何気なく聞いてるけど…当然だけどあの曲って、全部楽譜があって、それを演奏する人が弾いているんだよなぁ。
僕は楽器といえば、高校の時に授業で触ったクラシックギターが最後って感じだけど…。
あんなに色々なメロディやリズムが、全部共通のルールで書き表せるのって、すごいや。
僕なんかじゃ全然イメージもできない音楽の奥深さ。
その入口をぼや~っと想像していると、月山さんがソファから立ち上がった。

「さて、と…。そろそろ僕はお暇しようかな」
「え…」

その言葉に驚いて、顔を上げる。
…あれ?
泊まっていかないのかな…。
特にこれといって用事が無くても、最近はこの家に泊まっていくことが多いのに。
月山さんが残念そうに目を伏せる。

「すまないね、カネキくん…。大学でやっかいなレポートを出されてね。家に資料があるもので」
「あ、いえ…。大変ですね」
「何か生活に必要なものは?」
「今の所十分です。ありがとうございます」
「下着とか」
「じゅ、十分です…」

ピ…と指立てる月山さんに、微妙な指摘に苦虫を噛み潰したような顔で答える。
僕の衣類関係は大体この人に把握されてしまっているから…。
…まあ、"食事"の時に着ている服はそのまま駄目になってしまうから、必然的に月一で新しい服と下着は必要なんだけど。
下着は…服と違って、あんまり血で濡れるってことないと思うのに…どうして一緒に回収されてしまうんでしょうね、本当に。
…。
…いや、止めよう。
考えちゃいけないと思う、ここから先は。
知らない方がいいことは、世の中にたくさんあるじゃないか。

「それなら良かった。必要なものがあれば、遠慮無く言いたまえ」
「ありがとうございます。…あ、送ります」
「Merci」

荷物を持ってソファを離れる月山さんについて、廊下へ出て玄関へ向かう。
こんなに急いで月山さんが帰るのは、ちょっと珍しい。
レポートが大変なのかもしれない。
こんなに急いで帰るってことは、忙しいけれど僕の顔を見に来てくれたということだろう。
些細なことだけど、僕には大切なことに思える。
ちょっと嬉しい。
僕の今の世界は、この人の所かあんていくかという感じだから。
玄関を出てデザイン階段を降り、ゲートの所で月山さんが足を止めて振り返った。

「それじゃあ、また明日寄らせてもらうよ」
「は…――!?」

はい、と返事をしている途中を狙われ、月山さんが僕の唇にキスした。
ビャッ…!と背筋が伸びて、一瞬にして体が強張る。
肉厚の唇の感覚とふわっとする感触は一瞬で、すぐ離れた…け、ど!
平然としている月山さんを、混乱してる頭で何とか睨み上げる。
…。

「そ…。外、です…けど!?」

声が上擦る。
引きつった顔で告げた僕の言葉を、月山さんは笑顔で軽く流し、爽やかに片手を上げた。

「Aurevoir、カネキくん!」
「聞けっ!」

笑って去る月山さんに両手を拳にして声を張ってみる
…けど、その背中が去っていくと、やっぱりちょっと寂しい気がした。
…。
絆されてるなぁ、僕…。
20区の危険人物だってトーカちゃん言ってたけど…僕には比較的優しいし。
月山さんが釣った魚を溺愛するタイプだっていうことは、主観的に見ても客観的に見ても、見ていれば良く分かる。

「…どうして僕が釣られたんだろうなぁ」

自分はそんなに美味しいのだろうか。
半喰種になって人間の美味しさというものは味覚が変わったから分かるけど、自分の肉片を少しだけ齧ってみても、美味しいとは思えなかった。
…月山さんかぁ。
ぼんやり考えながら、ゲートを閉める。
階段を上がりながら、改めて彼のことを考えた。
危ない人って噂はあちこちから聞くけど、ちょっと変わった人ってだけで、今の所僕には普通に見える。
スキンシップが激しいのは国際派だからかも。
意外と何でも知ってるし何でも器用にこなせるし、お金持ちみたいだし紳士的…かな、一応。
少なくとも、僕がイメージしていた肉を喰らって血を啜るバケモノのような喰種からは、少し離れている気がする。
そんな彼だから、マスターが僕を紹介してくれたのかも。
玄関を閉めて鍵を掛け、廊下をリビングへ戻る。
廊下とリビングの境界線に立ってふと室内を見回すと、白を基調とした広々とした空間が、何だか白々しかった。

「…」

つい十数分前まではここに一人が普通だったのに、この喪失感は何だろう。
とぼとぼソファまで戻り、元の場所に腰掛ける。
楽譜を膝に置いて栞のページを開いてみたけれど、集中できない。
真上を見上げてみても、誰もいない。

「…。早く明日にならないかな…」


白と黒の玩具




翌朝。
最近堕落が進んでいる。
今日はバイトも無いから余計だ。
何の予定が無くても寝過ぎちゃよくないと八時に目覚ましをかけ、ごろごろ三十分くらいベッドの中でしぶとく起きない。
三十分を過ぎると流石に罪悪感が出てきて、一応起きて着替えようかなと顔を洗って着替えての一連の流れに突入するのだが、これが相当時間をかけてたらたらとやっているものだから、部屋を出る頃に時計を見ると、もう九時近くて…。

――ガタガタ…。

「…!」

部屋がある二階から階段のある廊下へ出た直後、下から物音がした。
足音や数人の人の声、音…。
驚いて思わず足を止める。
…何?
一体誰だ。
この建物に他の人は滅多に来ないのに。
泥棒…?
そろりと階段の上から下を覗き込む。
相変わらず続く物音の中に、よく知った声が聞こえた。

「ああ…そうだね、そこがいい。置いてくれたまえ」

…あれ?
月山さんの声だ。
聞き間違えるはずがない。
彼なら当然ここの鍵を持っている。
不安が薄らぎ、トントン…と様子を窺いながら階段を降りていく。
降りきってすぐ目の前に広がるリビングに出ると、月山さんが僕に気付いてこちらを向いた。
奥でツナギを着た複数人が作業をしている。
その複数人の中央に、どかんと置かれた一台の――。

「…」
「おや。bonjour、カネキくん。すまない、起こしたかい?」
「…月山さん。あの、これって…まさか…」
「ああ。グランドピアノをね、一台用意したよ」

やっぱり…!
がんっとショックを受ける僕の前で、作業をしている人達が、リビングに運び込まれたピアノから包装シートを取っているところだった。
飾り気のあまりなかった部屋だけど、置かれたピアノの下には厚手の絨毯が敷かれている。
重さで床が凹まないために、かかる力を緩和しているのだろうが、一気に空間が華やいだ。
ピアノの存在感が思ったより大きくて、何故かモノを相手に萎縮し、こそこそと月山さんの影にかくれてみる。
遠くから様子を窺い、目の前の彼に尋ねた。

「か、買ったんですか…?」
「いいや。ひとまずレンタルさ。気に入ったのならそのまま購入もできるけれどね」
「え…。あの、"気に入ったのなら"…って…」
「スイマセーン。搬入終わりました。こちらにサインをお願いします」
「勿論」
「わー!ちょ…えええ!?」
「…?」

慌てて遮ろうとするも、こんなにすぐに動いたのに、人が一筆サインをするという動作は思った以上に短時間で終わるものらしい。
差し出されたボードに月山さんのサインが入るのは止められなかった。
月山さんのシャツの後ろを片手で掴んだまま、後の祭りな現状に衝撃を受けてひたすら俯く。
ちらりと月山さんが背中にいる僕を振り返ったけど、その前にサインをもらって挨拶し、帰ろうとする業者の人達にチップを渡した。
露骨に嬉しそうに引き上げていく彼らが全開にされていたリビングの窓を閉めて見えなくなってから、月山さんはシャツを握ってた僕の手を取る。
手の甲にキスされていつもなら騒ぐけど、今朝はちょっとそんな元気ない…。
そのまま今度は言葉無く佇む僕の掌へキスし、熱い舌が舐める。

「ああ…。いい香りだ。朝の君の香りはまた格別だね。この少し蒸れた感じがより君の甘みを…」

何か言って抱きついてくるけどそんなの耳に入らない。
…ピアノって、高いよね?
レンタルだって相当なんじゃないだろうか。
昨日今日で契約して持ち込めるものっていうのが僕の考えには無かった…っていうかごり押し感がある。
申し訳なくて堪らない。

「ピアノって…。月山さん、僕…そんなつもりじゃ……って、噛まないでください!」

抱きつかれている目の前の肩を真っ赤になって叩く。
歯は立てられてないけど、首の右側を軽く噛まれていい加減会話をしなきゃと思った。
怒ると、今度は噛むのを止めて同じ場所を舐めてくる。

「っ、や…」

びくっと体が震えた。
…やばい。
これ頑張らないと流されるやつだ。
本能的に危険を察して身を捩り、月山さんの肩を押す。
動かないと流されるから。

「っ…。ちょ…止めてください!どさくさに紛れて何してるんですか…!」
「まだ髪を梳かしていないね? 薬品の匂いが全くしない。鼻孔を突き抜けて僕の中に流れ込むこの独特の甘さと爽やかさ…」
「だからっ、来週にしてくださいってば!」

全力で月山さんを拒否し、何とか離れてもらうのに朝っぱらから相当な労力と時間を使った。
僕がピアノの傍まで行くまで、たった数メートルの距離を十五分近くかかってしまったのだから。

 

 

 

 

試しに弾いてくれた月山さんは、僕の想像以上にピアノが上手だった。
借りてきた楽譜を用意して立てかけようとしたのに、不要だよと言って楽譜を見ずに鍵盤を押す。
CDとは全然違う力ある音色に、僕は圧倒された。
生演奏ってすごい。
なんだろう、音に、目に見えない圧力がある。
それに、弾いている月山さんも、変な本性を知っていても惚れ惚れするくらい格好良く見えた。
一曲終わり、少し離れた場所でソファに座って聞き惚れていた僕は、心から拍手した。

「すごい…!本当に弾けるんですね。感動しました」
「まあ、これくらいはね」
「どうして右手と左手がバラバラに動けるんですか? それに、楽譜が無くても弾けるんですね」
「少しずつ慣れていくのさ。暗譜は、何度か弾いていれば自然と覚えるよ。…こちらへ来て弾いてごらん?」
「あ…。いいんですか…?」

とかいいつつ内心そわそわしていた僕は、言われるままにソファから離れてピアノへ近づいた。
子供の頃は気にしたことなかったけど…ピアノって綺麗だな。
黒い光沢が、角度によって白く輝く。
あんまり近くで見たことがないから、ピアノの周りをゆっくり一周してみる。

「…漆で塗ったみたいだ」
「いい感想だね、カネキくん。現在ではポリエステルの樹脂だけれど、ピアノという楽器がこの色になったのは、中世に日本の漆がヨーロッパで高級色とされていたからだ。実際、漆塗りのピアノも希少だが現存しているらしい。樹脂の目指すところは今でも漆の美しさなのだろうね」
「へえ…」

一周して、月山さんの傍へ行く。
彼は横にずれてくれて、けど男二人じゃかなり狭いけど隣に座らせてもらえた。
…わあ。
すごい、鍵盤だ。
促されるまま、どきどきしながら人差し指で白い鍵盤を押す。
ポーン…と軽い音がした。
水に石を投げ込んで、円状の水紋ができるみたいに部屋に音が広がる。
…楽しい。

「…あの、ドってどこでしたっけ?」
「ああ…。ここだよ」

月山さんの大きな手が僕の甲に添えられ、人差し指を白い鍵盤に置いてくれる。
早速押してみると、ボーン…とさっき押したのよりも低い音が出た。
ここがドか…。
…ってことは。
ド、レ、ミ、ファ、ソ、ラ…。
順番に右にあがっていくと、その通りに音が出る。
高いドまでいくとちょっとした快感だった。
昨日読んだ楽譜の右手のところだけを人差し指で辿ってみる。
うん…。案外覚えているものらしい。
飽きもせず暫くそのまま遊んでみる。
…が、やがて重要なことを思い出して顔を上げた。

「…あ」
「ん?」
「す、すいません…。あの、」

すぐ隣に座っている月山さんも、急に振り返った僕を不思議そうに見ていた。
彼を見上げて、慌ててお礼を言う。
ピアノを触ることに夢中ですっかり忘れてた。

「お礼、まだ言ってませんでした。ありがとうございます」
「ああ…。どういたしまして。なに、せっかく話に出たからね」
「こんなに高いもの、突然用意してくれて…。嬉しいですけど、びっくりしました。…なんか、すみません。…けど、あの…前々から言わなきゃと思っていたんですが…僕みたいな奴のこと、そんなに気にしなくても…」

あんなに些細な会話でまさか本物のピアノを持ってくるとは思わなかったけど、触ることができて嬉しいし興味深い。
だけど、その一方でやっぱり申し訳なさが溢れ出る。
…月山さん、僕にどのくらいお金使っちゃってるんだろうか。
彼にとってはそれほどの金額じゃないのかもしれないけど、庶民の僕からすればきっと目玉が飛び出るくらいの桁になっている気がする。
何も返せないから…困る。
この使わせてもらっている別宅だって、本当は家賃とか払うべきなのに。
何から何まで頼り切りで…。

「ピアノ、嬉しいですけど…。僕、あまり月山さんにご迷惑かけたくないので、こういうことはもう…」
「し…」
「ぁ…。…え?」

こんなに高額なお気遣いはこれから先止めて欲しいと告げる傍ら、月山さんの手が僕の腰を抱いて引き寄せた。
脇腹下に添えられた熱に体が強張った僕に顔を近づけ、月山さんが人差し指を自分の唇に添え、静かにするようジェスチャーする。
何となく、それに従わなくちゃいけない気がして、身を縮めて口を閉ざした。

「そんな言葉は聞きたくないよ、カネキくん。君の笑顔が僕にとっての報酬だというのに、そんな哀しげな顔では心が痛い…。こういう時は、一言感謝してヴェーゼを添えるものさ。それで十分」
「え…」

言うなり、目を伏せてしまう月山さん。
…あ、うそ。
まさか、僕からしろっていうのだろうか。
ぅ…。
…。
な、何か…うまくやられた感があるけど…。
でも、あんな些細な会話でピアノを用意してくれたことは、本当に感謝しているし…。

「…えっと。…じゃあ」

たぶん期待されている口へはしない。
少し迷って、顎を上げ、月山さんの左右の頬へ頬を合わせる。
恥ずかしくない。フランス式の挨拶ってだけだ…。
離れる直前の頬へキスの振りをするbiseで勘弁してもら……うつもりだったのに!

「…Bravo!」
「い…!?」

顔を離した瞬間、ぐっと片手で顎を取られた。
悲鳴を上げる間もなく、唇が塞がれて、声ごとぱくりと食べられて、じわりと滲んだ涙ついでに右腕を振り上げた。

 

 

 

 

 

「…これからは、ピアノを教える時間も取らなければならないね」

離れたソファセットで僕が引っ掻いた手の甲の傷を確認している月山さんが呟いた言葉に、ピアノの前に座っていた僕は思わず彼の方を見た。
僕がメチャクチャに引っ掻いた手と頬の傷は既に治りつつあるけど、まるでその治癒自体を鑑賞しているかのようにうっとりと自分の手を見詰めている。
彼の呟きを聞こえない振りして、目の前に立てかけてみた楽譜から手元に視線を移動させる。

「…」

…もう今日は月山さんと口は利かない。
そもそも、そんな一言がとても嬉しい気がしていることを口に出したら大変なことになりそうだから、唇を頑なに閉じてじっと鍵盤を凝視し、また人差し指で押してみた。
ポーン…と明るい音が、ちょっとした風のように室内に響いた。



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意図的に甘くしてみました。
黒カネキ君は月山さんに流されてるところが可愛いです。
ピアノも出来るしヴァイオリンもできるし…月山さんて本当残念で素敵。
2015.4.5





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