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平日午後のお店。
すっかり大学をサボリ気味の僕がシフトに入っている時に、よく月山さんがやってくる。
この人も大学生のはずだけど、本当によく来るなあ…。
僕はもうマスターに甘えてこのお店で働かせてもらおうかななんて考えているけど、きっと月山さんはまだ人間の中に入って生活していくんだろうに。
勉強、大丈夫なのかな…?
前はそんなに常連さんじゃなかったみたいだけど。
自分があまりサボれる方じゃないので思わず他の人も心配になってしまうけれど、教授によっては本当に試験のレポート一本で単位を判断して日常の出席は一切考慮しない人もいるから、本当に効率のいい人は授業なんて出ないのかもしれない。
そうなると"勉強って何だっけ?"って話になってくるんだけど…。
…まあ、そんなわけで、今日も月山さんはお店にやってきている。

「…夏祭り、ですか?」
「Oui!」

いつもの通り、僕がオーダーを取りに行くと夏祭りの話が出てきた。
夏祭りというか、花火大会。
頷きながら、月山さんが携帯の画面をタップしてテーブルに置き、上を僕の方へ向けてくれる。
画面には、近くで行われる夏祭りのサイトが掲載されていた。
近くといっても、"東京の夏祭りと言えば?"で五本の指には入る大きなものだ。
いつもは人気のない河原の左右は本当に人で埋まってぎゅうぎゅうになるし、屋台や車の数もものすごくて交通が軽く麻痺する。
元々、人がいる場所は苦手だけど…喰種になってからはもっと苦手だし。
やんわりと断りたい。

「えっと…。でも、シフトが分からないかも…」
「おや。今日出たと霧島嬢は言っていたが?」
「え? …あ、そうなんですね。僕まだ見ていないです。じゃあきっと二階に置いてあるんですね」
「更に言うなら、実は芳村氏には既に提案させてもらっていてね。君がこの店と自宅を往復する生活をしていることを、とても案じていたよ?」

人差し指を立てて月山さんが言う。
その言葉に咄嗟に何も返せなくて、詰まってしまった。
彼の言うとおり、僕の行動範囲は以前にも増して狭くなってしまっている。
家とバイトを言ったり来たり。
その途中に本屋さんがあるから、唯一の趣味である読書に使う本もここで済んでしまう。
たまーに図書館に行くこともあるけど、"図書館"は何だか人間のものという印象が強くて、喰種になってからは気後れしてしまってなかなか入れないし使えない。
借りる時は申し訳ない気持ちになってしまう。
少し前に、マスターに「それは良くないかもしれないね」と困った顔で言われて、自分でもそうかもしれないとは思うけれど、やっぱり人と接することも人の中に入ることも怖いし…。
…けど、そんなに心配かけていたんだな。
じゃあ、マスターは僕が月山さんと出かけた方がいいと思ってくれているということだ。

「けど…。僕、人混みに酔ってしまうので」
「疲れたらすぐに帰ればいいのさ。夜の散歩とでも思えばいい。花火のよく見える席を用意しておくよ」

最後の抵抗のつもりで言ってみたけど、あっさりそう切り返されてしまう。
うーん…。
帰りたいと言ったら返してくれるのだろうか。
月山さんは行動や仕草が堂々としているし目立つから…僕みたいに大概の容姿に自信の無い同性はそうだろうけど、人が大勢集まる中で彼の横を歩くのは、ちょっと勇気がいる。
…というか、そんなイベントの日に同行するのが僕でいいのだろうか。
ずっと構えていたオーダープレートを少し下げて、試しに聞いてみた。

「月山さんは僕とでいいんですか? 折角ですし、彼女さんと行ったり…」
「生憎、僕は今フリーなのでね」
「え…」

片手を軽く開いて言う彼に、素直に驚く。
意外だ。
ヒデもモテてたけど、ヒデよりもずっと女性に好かれそうな気がするのに。
絶えず恋人がいそうな気がした。
人間卑しいなぁと思うけど、"彼女がいない"というのは、僕の月山さんに対する印象を少しだけ和らげた。
だってモテモテで知的でお洒落で何でもできてお金持ちそうな年上の男性というのが、僕の彼に対する印象だからだ。
頭が良すぎる人とか凄すぎる人って、大概ちょっと世間とずれてるし。
月山さんはそういう人かな…って。
年齢は大して違わないはずなのに、僕よりずっと大人に見えてしまうから近寄りがたい。
でも…。
…へえ。
そうなんだ…。
世の中の女性は僕が思う以上に難しそうだ。

「そうなんですか」
「残念ながらね…」

組んだ手を顎の下に添えて、月山さんが物憂げな、それでも困ったような表情で微笑する。
咄嗟に、悪いことを聞いてしまったかもしれないと思った。
もしかして、最近までいたけど何らかの事情で別れてしまって、月山さんも傷心の中にいてイベント事で気を紛らわせたいとか。
何だかそう思うと、そう思えてくる。
…うーん。
…。
迷って、口を開いた。

「えっと…。じゃあ、当日ご一緒していいでしょうか」
「…! 勿論だとも!」

僕が一緒に行くと告げた瞬間、それまで憂いでいた月山さんの表情がぱっと明るくなった。
本当に…何て言うか、子どもっぽいというか無邪気というか…そんな感じで、きらきらした目で見られて少しびっくりしてしまう。
そ、そんなに嬉しい…のかな?
僕なんかが一緒に行くだけでそんなに喜んでくれるのなら、僕もちょっと嬉しくなる。
足を組み替え、月山さんは組んでいた両手をテーブルの上に置いた。
思い出したように目を輝かせるのを止めて咳払いを一つし、いつものように余裕がある笑顔で僕に微笑みかける。

「では、プランを練って明日また伝えることにしよう。愉しみにしているよ、カネキくん」
「はい。僕も。…あ、で、ブレンドで宜しいですか?」
「今日は他のものにしようかな。一番高いコーヒーは何だったかな。コピ・ルアク?」
「えっと…。たぶん、ブラックアイボリー…ですかね」
「へえ…。珍しいものを置いているんだね。メニューにあったかな?」
「あ、メニューには載せていないんです。希少だし高価だしで…話題になるとあっというまになくなってしまうからって、マスターが」

教えてもらって一度リストを読んだことがあるから、何となく覚えている。
けど、あまりに高いし注文している人を見たことがない。
メニューにも載ってないし、裏メニューという感じだ。
それを聞くと、月山さんはメニュー表を閉じた。

「なるほど。では、今日はそれで。僕に出してもらえるのならばね」
「え…。いいんですか?」
「ご存じの通り、僕らは軽食が頼めないからね。ここのブレンドは本当に最高なのだが、そればかりではと心を痛めていたところさ。単純に豆に興味があるし、君が僕の招待を快く受けてくれたささやかなお礼と、日頃利用させていただいているこのお店に感謝を込めて、ね」

ウインクをしながら月山さんが僕へメニューを渡す。
様になるなあ…。
相変わらずちょっとぶっ飛んで気障だけど、それでも自然に見えるんだから本当にすごいと思う。
どう反応していいか分からないけど、そう言ってもらえると気分は悪い方へは転ばない。
自分が働いているお店やお世話になっているマスターに対する好意は素直に嬉しいし、きっと月山さんの注文ならマスターも出してくれるだろう。

「あの、じゃあ…。聞いてきますね」
「頼むよ」
「はい」

頷いて、カウンターの方へ向かう。
裏メニューであるブラックアイボリーのことを伝えると、やっぱりマスターは月山さんであればと、奥の棚から出してくれた。
滅多にお目にかかれない種類のコーヒーの淹れ方やコツを、スタッフが各々凝視して見守る中、ちょっと不思議な香りのするそれを月山さんの席に運んだ。
会計は僕がやったわけじゃないけど、店を出て行く時に月山さんが僕に向けて片手を上げる。
自然とそれに返して見送った後、入見さんがじっと僕を見ていたことに気付いた。

「あ…。何ですか?」
「…カネキくん。貴方、気を付けなさいよ? 人を判断する直感っていうのも、生きていく上で必要な能力なんだから」
「え…?」
「まだまだお子様ね。…まあ、鍛え上げるには好都合かもしれないけど」

片手をひらりと返して、入見さんはカウンターの内側へ戻ってしまった。
…?
言われたことが分からずトレイを片手にぼんやり立っていた僕を、別のお客さんが片手を上げて呼んだ。

 

 

帰り際、マスターに月山さんと夏祭りに行くことを伝えると、言葉少ないけれどとても嬉しそうに微笑してくれた。
ああ…。そんなに心配してくれていたんだな――…って、僕もちょっと嬉しくなる。
…お祭りなんて久し振りだ。
ヒデと高校の初めの頃に行ったけど、随分遠い記憶のような気がする。
屋台の食べ物はもう無理だけど、金魚すくいとかやりたいな。
花火も楽しみだ。
頭の中に残っているお祭りの記憶を思い出し、久し振りのプライベートな外出に不安がる一方、わくわく感を抱いてその日までをカウントしていた。
喰種の知り合いはあまりいないし、月山さんと仲良くなれたらいいなと思わないわけじゃない。
人混みは好きじゃないけれど、かといってお祭りのあの雰囲気が嫌いということではないから。
久し振りのイベント参加だ。
きっと楽しい一日になるだろう。
そんな気がする。

――と、期待して行った僕が、馬鹿だったというのだろうか。

 

 

 

 

 

「も…、止め――てくださ…って…ば!月山さ――!」

目隠しをされ、視覚ままならない顔をあちこち必死で背けたけど、どちらを向いても結局顎を取られてしまう。
身動ぎして歯向かおうにも両手は背中で拘束されてしまって体を縮めるくらいしか抵抗らしい抵抗はできなかった。

「おやおや、何を言っているんだいカネキくん。まだまだオードブルだよ」
「んぐ…!」

耐えられずに制止しようと開いてしまった僕の口に、物体が侵入してくる。
口を閉じようとするけど間に合わない。
小さくてコリコリした食感。
一部に硬い部分がある。
…うん。
舌の上で転がるこの感じ。
指ですね。
人の指。
細いから、たぶん、女性の…なの、かな。
ものを食べながら喋るなって、母さんや小学校などで教わってからそれがすっかり生活に馴染んでいる僕は、もごもご咀嚼している間には喋れない。
身を引くと、どん…っと月山さんにぶつかった。
ぎょっとして、今度は慌てて前へ傾き、背後の彼と距離を取る。
ようやく咀嚼が終わり呑み込んで、彼の居場所を見当つけて背後に声を発する。

「あのっ、ホントこれ、何なんですか…!」
「君と僕とのディナーさ。夜景が綺麗で静かだろう? これなら人混みが苦手な君も――」
「見えませんよっ!」

背後から僕の肩を抱く月山さんに声を立てる。
そろそろ泣きたくなってくるくらいに意味が分からないけれど、とにかく場所は…たぶん、月山さんが持っているクルーザーの中…のはずだ。


見えない花火と強制ディナー




花火を見に行くにあたり、アドレスを交換した。
僕はLINEはやめてしまったし、人とアドレスを交換することが僕の人生にはあまりなくて、赤外線がどこにあるのか分からなくて、結局アドレスをメモ用紙に書いてもらって登録し、月山さんにメールを送るというレトロな方法になってしまったけれど、とにかく交換できた。
約束の時間は祭が始まるより随分前で、まだ道路渋滞も電車のラッシュもない。
日の高いうちから待ち合わせの駅前へ向かうと、自分でも結構早めに来たはずなのに、僕より早く来ていた月山さんが日陰の壁際に立って文庫本を読んでいた。
周りに関心なく静かに文字を追っている姿は、喋っている時とだいぶ印象が違う。
もう見慣れたつもりでいても、こういう人の行き交いが激しいところで彼を見ると、やっぱり背が高くてシュッとしているなぁと思い出す。
月山さんの顔を見つけて駆け寄ろうとしたけど、その立ち姿に言葉にできない劣等感を感じて、そんな気はないのに一度足を止めてしまった。
…ああ、やだなぁ。
そんなこと幼い頃から分かってるつもりだけど、本当に世の中って不公平なんだから…。
遊びに行き始めるこのタイミングで帰りたくなってしまうのは、いつもの僕の悪い癖だ。
駆け寄るのを止め、肩に掛けているボディバックのベルトを片手で掴んで、ぎくしゃくと月山さんの傍まで歩み寄った。
…本に集中しているだろうか。
何て声をかけたらいいんだろう。こんにちはだよね…?
…などと心配していたけれど、僕に気付いて月山さんが顔を上げてくれた。

「ぁ…月山さん。こんにちは」
「やあ、カネキくん」

目の前に立って挨拶をすれば、月山さんがぱたんと文庫本を閉じる。
何の本を読んでいたのだろう。
興味があるけど、ブックカバーがかかっていてタイトルは見えなかった。

「早かったんですね。遅くなってすみません」
「なに。待ち合わせの時間はまだだよ。どうにも気が急いでしまってね。友人と出かけるのは久し振りだから」
「そうなんですか?」

友達多そうだけどな。
ちょっと意外だ。
…って、喰種なんだから、日常生活でそんなにたくさん友達なんてつくらないのかもしれない。
"誰かと外出"という些細な予定が何となく嬉しいのは、それがとても希である証拠だ。

「サークルとかにも特に入ってはいないしね。交友は限られてしまうよ。無闇に広げようとも思わないから。それはそうと…ふぅん?」
「…?」

顎に片手を添え、月山さんがまじまじと僕を見る。
靴の爪先から順に頭の先までじっくりなめ回すように見られ、彼の視線が髪になったあたりでまさか寝癖があるのだろうかと、ばっと両手で髪を押さえた。

「え…。あの、寝癖ありますか…?」
「ああ…。いや、そういうわけではないけれどね。案の定だと思って」
「案の定?」
「カネキくん。君の私服はスタンダードで使い勝手は良いけれど、遊び心が足りないね」
「はあ…」

片手を軽く開き、月山さんが言う。
そういう彼の服は黒や灰色など、暗めの色のボーダーティシャツだ。
けど、襟の部分や袖口にちょっとした刺繍やボタンが付いている遊び心があって、きっとそこが高いんだろうなとぼんやり思う。
いつもタイを身に着けてシャツ姿が多いけれど、今日は比較的ラフのような気がする。
…そりゃそうだよね。夜祭りに行こうっていうんだから。
僕の方はポロシャツだ。
汗かくかなって思って。

「そりゃ、月山さんみたいにオシャレというわけにはいかないです…」

あと、スペックも違います…。
心の中でそんな一言を付け足す僕に、月山さんが困ったような顔をする。

「いけないよ、カネキくん。君はとても魅力ある人間だ。その魅力をアピールしなくてどうするんだい?」
「いやでも、アピールする相手もいないし…」
「Non!まずそこがいけない。どのような人物が相手であろうと、対峙する者の心を掴むことを常に忘れてはいけないよ。自分という人間をアピールする。主張しなければ君という一個性は死んでしまう!」
「そ、そーでしょーか…」
「そうとも!…が、今日という日はその点での心配は無用だよ。君がファッションに興味がないということは予想がつけられたからね。日が落ちるまで時間がある。まずは君と僕の浴衣を選ぶことから始めよう」
「…。え…?」
「この駅を選んだ理由はね、近くに贔屓にしている呉服店があるからさ。本来ならば、反物から選んで欲しかったのだけれど、流石に仕上げる時間は無いからね」

一度それとなく月山さんが僕の肩を抱いて、歩き出す。
押される形で僕も歩き出し、隣を歩く彼について行かざるを得なかった。
歩きながら横を見上げる。
…スキンシップ過度だよな、この人。

「あの…。今から浴衣を買うんですか?」
「そうだよ。君に似合うものを選んであげよう」
「え、いや…。でも僕、持ち合わせが…」
「心配ご無用。プレゼントするよ」
「そんな…!いやいやいやっ、いいです!僕はこのままで…!」
「今日というイベントをより楽しむためにも、適した服は必要だよ、カネキくん。連れだって歩くのに僕一人に浴衣を着せるつもりかい? 気取らせてくれたまえ」
「えっと…」

歩きながらさらりとそう告げる月山さんは、とても嬉しそうに見える。
何だかいつもの印象と違う。
お店で一瞬見た時のような無邪気な感じだ。
こういう顔もするんだな、月山さん。
けど…。
でも、ちゃんとした浴衣を買ってもらうなんて、そんな…。
いいのかな…。
彼からすれば大したことではないかもしれないけど、僕にとっては呉服店で浴衣とか、ちょっとどころか感覚的に相当距離がある。
困惑して何度か断ったがそのまま連行され、結局月山さんとお店の人が選んでくれた浴衣をプレゼントされてしまった。
普通のフロアでなくて個室のような場所に通されて、あれこれと付きっきりで見てもらったり着せてもらったり、あとは月山さんが銀色のシンプルなカードを出した瞬間ざわっと店員さんに波紋が広がったりと色々と新鮮な出来事があって面白く過ごしている間に時間は思ったより過ぎていた。
"浴衣"とか言って、本当に浴衣一着だけという訳には勿論いかない。
帯とか下駄とか…あと男性用のちょっとした小物とか扇子とか…――というか扇子までいらないのに…。
まるでシンデレラになった気分だ。

「…」

…浴衣なんて本当に久し振りだ。
まさか大人になって着るなんて思わなかった。
いよいよ花火祭っぽくなってきて、思わずわくわくしてしまう。
試着してそのまま服を預かってくれ、すっかりお祭りモードで店を出る頃には、既に西日になっていた。
行き交う人達も、ああ…お祭りに来たんだな…という姿が目立ち始める。
柄は違うけど同じく浴衣姿で、すっかり様になっている月山さんを見上げた。
…似合うなあ。
足長い人って、浴衣に合わないんじゃなかったんだっけ?
やっぱりここでも理不尽を感じていると、不意に目が合った。
お店でもそうだけど、ぎくりとして反射的に反らそうとする僕と違って、月山さんは目が合うと必ず微笑してくれる。

「着心地はどうだい?」
「え、あ…はいっ」
「いい柄だね。…うん。…ああ、いいね」

ぱぱぱ…と月山さんが最初にお店に来たように、あちこちの角度から僕を見てチェックする。
…そ、そんなにチェックしないと駄目かな。
そりゃ、浴衣なんて本当に十数年ぶりくらいだけど…。
…やがて満足したらしい月山さんは、ふう…と息を吐いてから、普通に隣に並んでくれた。

「とてもよく似合っているよ」
「あ…。ど、どうも…」

月山さんも…と言うのは、何故か躊躇われた。
何か他に会話の材料を探そうと、腕にしっぱなしだった時計を外しながら見る。

「日が暮れますね。そろそろ会場に向かいますか?」
「それがいいね。人混みが苦手と言っていたからクルーザーを用意したのだけれど、ホテルの上階とどちらがいいかな? 希望はあるかい?」
「く…」

びしっと固まる。
クルーザー……って、船?
…。
…冗談でしょう?
この人、どれくらいお金持ちなんだろう…。

「あの、クルーザーって…船、ですよね?」
「ああ…。船酔いする体質かな?」
「あ、いえ…」

どうしよう。本気で船だ。
結局、こんな機会でもなければ絶対もう一生縁もないだろうしってことで、クルーザーを希望してしまった。
呉服店の前で僕が驚いている間に目の前で静かに高級車が停まり、細身の黒スーツを着た女性が僕らを送ってくれた。
松前さんと呼ばれたその人も喰種のようで、会話に遠慮は必要ないと言ってくれたから一気に気が楽になる。
革製だけど座り心地のいいシートで移動している車内の中で、月山さんが僕に尋ねる。

「時にカネキくん。最近、食事はしたかい?」
「え…」

いきなり問われてぎくりとする。
実は、あまりしていない。
未だに僕は人を食べることが苦手で、コーヒーとマスターからもらっているキューブでぎりぎりまで食事はしない。
幻覚を見たり幻聴が出てきたりしたら諦めてマスターに人肉をもらうけど、それまでは何とか耐えているという生活をしていた。
…けど、それが美食家と呼ばれる月山さんには理解してもらえなくて、ちょっと会話をするとすぐにこうして最後に食事したのはいつなのかとか、最近何か食べたかなどと聞かれる。
僕のことを心配してくれているんだと思うんだけど、彼は何とか僕に、せめて平均的には食事を取らせようとしている節があるし、何なら自分と同じくらい愉しめるようになって一緒にあちこち行きたいと近い未来予想図みたいなことをたまに話してくる。
しました…と言えば、もしかしたら無難に流せるかもしれない。
けど、月山さんに嘘はあまりつきたくない。

「えっと…。実は、あんまり…」
「そう…。まだ食事は苦手のようだね」

まるで哀れなものでも見るかのように、僕を見詰めて息を吐く。
軽く首を振ってから、片手を開いた。

「人を傷付けることも苦手だといっていたものね。ならば、今日はチャンスだよ。君の為にあれこれと用意してあるから、たくさん召しあがれ」
「ありがとうございます。…けど、今日は遠慮しておきます」
「カネキくん…。そんな調子では、本当に身体を壊してしまうよ?」
「いいんです。本当に耐えられなくなったら、ちょっとだけ食べています」
「今夜、君と食事をしたいのだが」
「…ごめんなさい」

はっきり断る。
このやりとりは実は結構回数を重ねているのだけれど、月山さんは一定間隔を空けてめげずに何度も誘ってくれる。
…けど、僕にはもうちょっと時間が必要だ。
何も人肉を口にしていない訳じゃないんだ。
ただ、彼が求める頻度と僕が必要と考えている頻度が違うだけだ。
誰かと親しくご飯を食べたいと思う月山さんの願いは僕だって分かるし、そうできたらいいなと思うけど、それにはまだ早すぎる。
食事を楽しみにしている彼と極力回数を控えたい僕では根本的に合わない。
そして更に言うのなら、まだ僕は喰種が人間の肉を食べているところを、あまり見たくない。
だから彼と…というより、誰かと食事を共にはなるべくならしたくないし、僕の娯楽にはなり得ない。
けど、今夜彼が食べるというのなら、それを止めることはしないし、一緒にいるくらいはできる。

「僕、今は食欲がないんです。だから、月山さんだけご飯食べてください。きっと美味しいものを用意してあるんでしょうから。でもあの…生きているのなら、僕はどうか、別室にいさせてください…」
「カネキくん…」

もう本当に心底残念そうな顔で、月山さんが僕を見る。
年上の男の人にしゅんとされてしまうと困ります…。
何かちょっと、よしよしってしてあげたい心境になるくらいには残念がってくれている。
食後のコーヒーは一緒に飲みましょうと言ってみたけど、彼の表情は晴れない。
広くて座り心地のいい車内に、沈黙が訪れる。
…。
困った…。
ここまで、それなりに今日楽しいのにな。
楽しい気分のまま花火を見たいと思ったけど、きっと月山さんにとってはディナーこそがメインだったんだろう。
何とか機嫌を直してもらえないかなと考えていると、地味に俯いていた月山さんが少し顔をあげてくれた。

「…。僕がいくら頼んでも、無理そうだね…」
「…すみません」
「そうか…。人を襲うことが苦手と聞いているから、出来上がったものが用意できていればあるいはと思ったけれど……仕方がない。それなら」
「――!」
「方法を変えよう!!」

がばっと月山さんが僕の口元にハンカチを押しつける。
――は!?
ぱちっと瞬いて一瞬遅れで脳が状況を把握した直後、ぐわん…っとその脳が揺れる。
そのまま、急速に意識が遠のいた。

 

 

 

 

 

 

――で、時間軸は今に戻る。

「お願いですから、もう止めてくださいってば!!」

目が覚めたら既に両手は背中で拘束されていて、縄とか手錠とかじゃなさそうだけど、手首に布っぽい感触があって、けどちょっと身動ぎすると軽い金属音がする。
両目も何かで塞がれていて、何も見えない。

「嫌なんです…!食べたくないんです僕は!」
「葛藤する気持ちは分かるけれどね、こういうものは多かれ少なかれ慣れだよ、カネキくん」

ぺたぺたと月山さんが僕の肩を触りながら、いつもの通りの落ち着いた声色で言う。
声が近くて流石に困る。
思いっきり顔を反らした。
…食事を拒否してしまったのがそんなに気に触ったのだろうか。
だとしても、ここまでしなくていいと思う。
どうやら月山さんはどうあっても僕に食事をして欲しいらしく、こうして両手と目を塞いで動けなくしておいて、隣に座ると親鳥のようにさっきから僕に一口ずつ肉を与えている。
指とか目玉とか、普通に肉とか。
何が楽しいんだ。
食事がそんなにも大切だろうか。
…いや、大切だけれども!
何だか多分に他意を感じる。
月山さんの指がまた顎にかかって、びくりと身を引いた。

「あ、あの…!僕、本当に…食事は必要最低限でいいんです!だから今日は…っ!」
「ああ…。そんな哀しいことを言わないでおくれ。一人きりのディナーなんて寂しいものだよ。君が餓えているなんて、そんなことあってはならない。君の苦しみを僕が充たしてあげたいんだ」
「いやもうほんといらな……っ」

引き続き僕の口の中に肉を置きながら、哀しげな月山さんの声が聞こえる。
いつもの声だけれど、その一方でどこか恍惚と聞こえるのは僕の気のせいだろうか。
食べたくないと思っていても、実際口に入れられてしまえば一つ一つは小さいし、吐き出すのが惜しいくらいには美味しい。
もごもごとまた咀嚼し、手早く呑み込んでからまた口を開く。
目隠しされて肩を抱かれたまま食事を与えられるなんて…何だろう、ものすごく異常な気がするんだけど。
さっきから首の後ろがぞわぞわして、どうしてか分からないけど変な気になりそう。

「ちょ…、やめ…。お願いですから待ってください…っ。僕もうお腹いっぱいで…!」
「嘘はいけないな、カネキくん。与えれば食してくれるじゃないか。体が栄養を欲しているんだ。君がいつだってあの紛い物とコーヒーでぎりぎりまで餓えを先延ばしにしていることはお見通しだよ。それとも、口に合わないかな?」
「合う合わないとかじゃなくて……っむぐ」
「美味しいかい?」
「~っ!」
「ああ…」

はあ…と近距離で吐息が聞こえた。
ああぁあ…。
目隠しされているのに、満面の笑みが見える気がする。
絶対にこにこしてる。
別に傷付けられてるわけでもないのに、すごく怖い。
柔らかい一口サイズの塊を呑み込んで、首を竦める。

「月山さん…。もう止めましょう。何でここまで…」
「言ったはずだよ。君が心配なんだ。食事に対して不安を感じるのは慣れていないからだよ。一度口に入れれば食べられるじゃないか」
「だって…!人の命を頂いているんですから、どんなに嫌でも吐き戻せるわけないじゃないですか!」
「そうとも。君のために厳選した食材なのだからね。君は視覚的に苦手だと言っていたから、ならこうしたらどうかと思っただけさ。遠慮はいらないよ。よく味わいたまえ。…ああ、そうだ。なら部位を当てられたら食事を終わりにしようか?」
「…っ!」

再び差し出される気配を感じて、思いっきり首を反らして頑なに口を結ぶ。
開けてやるもんか!…と思ったけど。

「ふふ。実にキュートなことをするね」
「ふっ…!」

口を閉ざした僕の鼻を、月山さんの指先が情け容赦なく抓む。
呼吸する術がなくなり、僕はぎりぎりまで息を止めていたけど、結局――。

「ぶっは…!」
「召しあがれ」
「っ…」

呼吸を求めて大口あけた僕の口…舌の上へ、フォークの金属質と再び新しい肉を感じる。
顔を俯けて肩を縮め、泣きたくなりながら生々しい咀嚼をする。
…まずくない。
ていうか美味しい。
いや美味しいよ。そりゃ美味しいんだけど…!
けど、これは間違いなく"人肉"なんだ。
だって口の中に甘い血の風味が広がる。
未練たらしく咀嚼をするだけして長引かせようと思うけど、元々とても柔らかい肉だからすぐに形は崩れて、ごくん…とまた一つ呑み込んでしまう。

「ぅ…」
「さて、どこの部位なのか分かるかな?」
「知らな…。分かりません、そんなの…」

そもそも人間だった頃だって、肉の部位とか詳しくない。
聞いたことがあるのは焼き肉屋とかでのロースとかレバーとか、タンとかモモ肉とかだけでピンと来ない。
暗闇の中にいる僕の口端に何かついていたのか、月山さんの指が触れ、唇のひとつ外側をゆったり撫でられる。
びくりとして、自然と顎を上げた。
バランスを崩して体が後ろに倒れたけど、ソファの背が受け止める。

「考えたまえ。一般常識だと思うけれどね。このきめの細かい柔らかさ…。脂肪が少ないのが分かるかい? 品のある風味と淡白な味。だからこそソースとして血液と一緒に食すのが本当はおすすめなのだけれど。よく聞く部位のはずだよ?」
「ぁ…え? えっと…。ロース…とか、ですか?」
「ロース?」

僕の答えに、月山さんの気配が愉快そうに一瞬緩んだ。
小さく笑われてしまう。
知らないよ!
牛とか豚とか、ロースとか言ってたけど、食に疎い僕では具体的にどの部分なのかも知らないんだから!
大体、人間の体にロースなんかあるのかって話だ。

「残念。今のは"ヒレ"だ。そこは間違えないで欲しいな。ロースは脂肪がほど良く霜降り状にあるものだ。特有のコクがある風味も愉しめる。少なくともヒレほど淡泊ではないね。特徴をよく覚えておきたまえ、カネキくん。このチャーミンマウスでね。…なら次はロースを食べて違いを」
「もういいですって!」

カチャ…とまた微かな食器音。
月山さんが少し動く気配がし、再び鼻先に何かが運ばれる気配を察して身を竦めるけど、彼が僕の肩を抱いて逃げられないようにしてしまう。
差し出される食器を、直感で避けまくった。
俯いて顔を背け、滅茶苦茶に首を振る。
無駄なことは分かっているけど、月山さんの腕の中で思いっきり彼を避ける。

「カネキくん、どうか落ち着きたまえ」
「無茶言わないでくださいっ!」
「君の体が心配なんだ」
「それ言えば何でも許されると…――嫌だ!やです!や…。もういらな…っいやです月山さっ…ぁ…ちょ、あの本当に!本当にもういらないんです!僕もうお腹いっぱいで…。もうこれ以上はいりませんから止めてください…!」
「…」
「…。…あれ?」

僕の口にぐいぐいフォークを押しつけていた月山さんの動きが、ぴたりと止まってくれた。
とうとう…とうとうっ、分かってくれた!
…かと思ったら。

「カネキくんっ!!」
「ひぃいいいっ…!?」

急に、両腕が横から僕を抱き締めた。
死ぬほどびっくりする。
今の間は何!?
…ていうか両手使ってますけど、フォークどうしたんですかフォーク!
さっきまで片手で持ってただろうに、まさか投げ捨てたんだろうか。
ざわっと鳥肌が立ってしまう。
流石に抱きつかれてまで何もしないわけじゃない。
いよいよ我慢できなくなって…というよりは反射的に、月山さんの顔があるあたりを見当つけて肘を当てにいった。

「止めてくださいっ…!」
「おっと」
「っ…!」

当たればよかったけどそううまくはいかなくて、肘は空を切りかわされてしまう。
けど、一瞬緩んだ彼の両腕を逃れ、僕は意図的に横に倒れた。
ぼふっ…!と固めのソファーのようなシートに、俯せに倒れる。
伏せてしまえば、月山さんに口を開けられずに済むし、食事を放り込まれずに済むと思ったからだ。
俯せたまま、ぎゅっと体を硬くする。
そんな僕を見てだろう。
上から、急に心配そうな申し訳なさそうな月山さんの声がかかった。

「大丈夫かい、カネキくん?」
「…」
「ああ…。なるほど。そうやって伏せて食事を拒もうという話だね。…ふふ。まるで気を引く為に手を焼かせる子どものようだ。そんなに嫌かい?」
「…っ」
「おや…。失礼」

くすくす笑われたのが分かって、悔しさに尚のこと小さく丸くなる。
僕には本当に嫌だったし怖かったし必死だったのに、月山さんにとっては軽く笑えるくらいの悪戯だったのかと思うと悔しい。
僕が本気で泣きそうになっていることに気付いたのか、彼は突然気付いたように慌てて声のトーンを抑えた。
もう悪戯なのか本気なのか、悪意があるのか無いのか分からない…。

「僕としたことが…。少し調子にのってしまったね。…けれど、君が食事を取ってくれて安心できたよカネキくん。重ね重ねになるが、いつ君が空腹で倒れやしないかと心配でね。今日は絶対に君に人を口にしてもらおうと思っていたんだ」
「…」
「カネキくん…。すまない、強引すぎたね。怖がらせてしまったかな? どうか機嫌を直しておくれ。他意はないよ。勿論だとも」

月山さんが拘束された僕の腕を宥めるように何度か撫で、ようやく束縛を解いてくれた。
ベルトが剥がれる音と微かな金属音。

「…っ!」

自由になった両腕で急いで目隠しを首へずらしながら、慌てて彼と距離を取るためがばっと起きあがる。
気を失ってから初めて光を得た両目で、一瞬の状況認識。
ソファは思ったよりも長く…というか、半円形をしていて、テーブルセットというよりはフロアのカーブ一角にあるという感じだった。
床も壁も白く天井には小振りだけどシャンデリアがあるから、一瞬ここが船の上であることを思い出せず、よくある部屋の一室かと思ったけれど、窓の向こうが真っ暗で遠くに夜景が見えるような気がする。
両手をソファに着いてぽかん…としている自分の顔が映る漆黒の窓を、数秒見詰める。
そんな気はなかったのに外して首に落ちた目隠しは少し滲んだ涙で濡れていて、冷たかった。

「…」
「落ち着いたかい?」

僕の見詰めるガラス窓に、月山さんも反射していた。
ガラス越しに微笑されて、ばたばたとソファの上を更に距離を取るため横に移動する。
たっぷり五メートルくらい空けて、不意に気が緩む。
ようやく口を開けて発した声は、やっぱり震えていた。

「…。全然、です…」

心臓がすごくどきどきしている。
こ、怖かった…。
何なら泣き出しそうだ。
鼻をすすりながら、さっきまですぐ隣に座っていた月山さんを振り返ると、暴れてすっかり浴衣が緩んでいる僕と違い、彼は乱れなど何一つなかった。
スマートにソファに腰掛けているだけで、気遣うように僕を見ている。
何だか酷く自尊心が傷付けられた気がして、またうっかり目元が滲みそうになる。
遅れて確認すれば、目の前のテーブルにはまるで赤い花のように微妙に色の違う人肉がテーブのお皿に並んでいた。
美味しく感じて食べられたのだからそうだと分かっていても、やっぱり人の肉を食べたんだなと再認識して、じわじわ辛くなってくる。
少し落ち着くと、同じフロアの端に車を運転してくれていた松前さんがいるのにも気付いて、急いで緩んでいる浴衣を合わせて帯を締め直した。
…今すぐ帰りたいけど、ここは海の上だ。
僕って何て馬鹿なんだろう。
一時の好奇心に負けて、すぐに帰れない場所を選ぶなんて。
もし本当に月山さんが敵対する喰種とかだったら、僕なんてあっという間にやられてしまっただろう。
今の所彼にそんな気はなさそうだけど…。
敵意がない…ということは、今の行動は本気で僕に対する彼なりの好意だったとでもいうのだろうか。
…。
いや、無理…。
無意識に僅かに首を振っていた。
そんな好意いらない…。
緊張の糸が切れて、逃げ出せた今の方がともすれば泣いてしまいそうだ。

「空腹は無くなったかな?」

両手を拘束していた器具をテーブルの上に置きながら、ごく自然に月山さんが僕に問う。
そりゃ、嫌でもあれだけ食べさせられたら、お腹はいっぱいだ。
だけど…。
…どうしよう。
この人、思っていた以上に怖いかもしれない。
変な人だ。
初めて人の家に来た猫のように、じりじりと彼を警戒しながら観察する。
月山さんは組んでいた足を解き、小さく息を吐くと部屋の端に控えていた松前さんに軽く片手を上げた。

「もういい。下げてくれ」

僕に語りかける声とは少し違う、はっきりした声に命じられ、一礼して彼女と奥からやってきた二人のお手伝いさんみたいな人が、テーブルの上に並んでいる皿を下げ始めた。
すっかり綺麗になったテーブルに、入れ替わりにキャンドルが置かれ、火が灯される。
…異常な食事会が場を退き、じわじわと落ち着いてきた。
改めて周りを見れば、ホテルのロビーのような印象を受けるけれど、やっぱり察する限り船の上のようだ。
"クルーザー"と聞いて僕は漁師さんが乗っているような船を想像していたけれど、もっとずっと大きい。
呆けている僕を、月山さんが片手で示す。
松前さんが傍にやってきて、僕にメニュー表のような縦長のボードを差し出してくれた。
びくびくしながらそれを受け取る。

「コーヒーを飲もう。これなら君も怖くはないだろう? カネキくん、好きな豆を選びたまえ」
「…月山さんは、食べないんですか?」

目が覚めてからの記憶しかないから分からないけれど、僕が起きてからは月山さんは付きっきりで僕の餌付けをしていたから、本人は食べていないんじゃないだろうか。
不思議に思って聞いてみると、彼は微笑した。

「僕はいつも食べているからね。…言っただろう? 今日は君とディナーを楽しみたかったと」
「けど…。一緒にというよりは…」
「とても愉しかったから僕は満足だよ。言葉にはとても表現できない!今日は付き合ってくれてありがとう、カネキくん」
「はあ…」

胸に片手を添えて、月山さんが心からという様子でそう告げる。
…愉しかったんだ?
どの辺が…だろう。
僕をからかってそんなに面白かったのだろうか。
…けど、からかうって感じじゃなかったような気がする。
何かこう…上手くは言えないけど…。

「そろそろ花火が上がる時間のはずだね。外へ出ようか」
「っ…」

当然のように差し伸ばされた手は距離的に届くわけがないのだけれど、それでも背を反らして避けてしまう。
月山さんが不思議そうに首を傾げるけど、逆にどうしてここでそんなに不思議そうな顔ができるのかが僕には分かりません…。
戸惑う僕に彼は笑って席を立つと、たっぷり空いていた距離を歩いて来て、その場に片膝を立てて屈んだ。
目線が月山さんの方が下になる。
改めて伸ばされた手は最初やっぱり怖くてびくっとしたけど、普通に前髪を指の背で横に流しただけだった。

「顔色が良くなってきた」
「…」
「人間と違って、僕らはすぐにエネルギーが四肢に渡るからね。君に健全でいてもらうために、僕は悪役を厭わないよ」

前髪を撫でた手が、そのまま肩から腕を撫でて僕の手を取る。
すごくべたべたする人だなと思うけど、発せられた声はどこか思い詰めているようで、本心でありそうな気がした。
少し狼狽えた後、口を開く。

「ご心配は、ありがとうございます。あの、確かに…美味しかったです…。でも…怖いので、本当もう…こんなことは、二度としないでください」
「なら、これからは極普通に、僕とディナーを取ってくれるかい?」
「それは…」
「たまに僕と出かけて、食事をするような間柄になってほしい。君の好きな本を紹介してもらって、感想を伝えるような仲だ。これがどんなに尊いものか、君は知っているだろう? 僕には今まで、それが無かった。君を見た時、仲良くなれそうだと思ったんだ」
「…」
「君には運命を感じる。身体を壊して欲しく無いんだ。君は僕を惹き付ける。君のその怖々と食事する姿が……堪らなく好い!」
「…。……は?」

好い?
…。
好いって、何が好いんだ…?
突然がっつり話の路線がずれた気がして、思わず聞き返してしまった。
僕の手を握ったまま、もう片方の手で自分の顔をやんわり覆い、月山さんは首を振る。

「君のその色の薄い唇、小さな口、整った歯並びに色の良い舌…!怯えながらゆっくり人を口にする君の様子はこの僕を滾らせる…!」
「…」

ぶんっ…!と握られている片手を振ってみる。
月山さんの手は離れない。
仕方ないので冷や汗を流しながら、僕の手を握っている一本一本の指をはがしにかかる。
一本一本慎重に指を抓んでいく僕を気にせず、月山さんは続ける。

「君の食する姿は危険だ。こんなに扇情的な姿を他の者に晒してはいけない。食事は必ず僕が選んだものを、僕の前で、僕だけにっ見せてくれ…!」
「ぇえぇええ…。なん…何ですかそれ。何の冗…」
「ああっカネキくん!!」
「…!? ちょ、抱きつかないでくださいぃ!」

いきなりがばっと正面から抱きつかれて、目を白黒させる。
当然だけど、抱かれ心地硬い…。
初めて見る月山さんの異常な言動についていけなくて、どうしていいか分からずわたわたと彼の浴衣の背へ指をひっかける。
ヒュゥ…と聞き慣れた大きな音がして、はっとする間もなく花火が打ち上がる音が辺りに響いた。
ああぁあ、花火始まっちゃったじゃないか。
…ていうか本当、何しに来たんだよ今日って話ですから!

とにかくこの状況から逃げたくて、「分かりましたから…!」と悲鳴を上げしまった自分を、先々呪うことになるわけだ。
…。
…はあ。



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黒カネキ君は甘くできるので楽しいです。
夏だ花火だ浴衣だっ!
好きな人の浴衣姿とか、襲うしかない。
2015.6.12





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