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万丈さんを刺した。
万丈さんを刺した。
僕が万丈さんを――…。
 

ガラガラと音を立てて"僕"という輪郭が崩れていった。
それでも彼が僕という罪人を許してくれて優しい言葉をかけてくれたからぎりぎり繋いだ"僕"の輪郭。
本当にあと"すこし"だったのが、自分でよく分かる。
あとすこしで僕はきっと壊れていただろう。
砕けた硝子の残りわずか。
涙で水の張った視力はもう使い物にならなくて、目の前すらよく見えない。
罅の入ったその輪郭で精一杯自我を保っていたけど、万丈さんが許してくれて顔を覆っていた赫子が消えてから、逃げるように意識が遠のいていった。
…。



in the shell syndrome




ふと意識が暗闇の深淵から戻った瞬間、誰かに抱き上げられていることはすぐに分かった。
定期的に揺れが僕の体を包む。
腫れぼったい目を開ける前に、直感的に僕を抱き上げるその人物が誰であるのか悟る。
男性用の香水か何なのか知らないけど、匂いに覚えがあった。
いつもならば目が覚めた以上は一刻も早く離れたく思う腕の中なのに、それでもそれまでの浅い呼吸を真似ながら気絶した振りを続けたのは、僕が今この瞬間誰とも顔を合わせたくなかったからに他ならない。
誰にも会いたくない。
僕を運んでくれるのは有難く思いはするけど、それでも誰とも顔を合わせたくはない。
…そうして気を失ったふりを続けていると、階段を上がる軋みがあり、器用に僕を抱えながらドアを開く音があり、そうして部屋のベッドに静かに僕を横たえた。
そこで、いい加減観念して目を開ける。
…どうせもうとっくにバレているんだろうし。

「…」
「お目覚めかな、我がプリンス?」

目が合う…という程、距離もない。
それこそ本当に目と鼻の先に月山さんがいた。
屈んで僕をベッドに下ろした状態のまま、覗き込むように僕を見ている。
やがて瞼を伏せて、熱い掌がさらりと涙の残る頬を撫でた。
その仕草に血の匂いが乗ってくる。
…きっと本当に帰ってきたばかりなのだろう。
僕も彼もまだシャワーも何も浴びていないせいか、鉄の臭いが僕らを包んでいた。
アジトに戻ってきた時はいつもそうだけど…リビングや部屋やベッドという、そういう日常的なものに囲まれている場所では、少し前の出来事がまるで夢の中のファンタジーに思える。
極端な現実の噛み合わせに、どちらが現実でどちらが夢なのか分からなくなりそうでくらくらする。
いつもながすぐにその手を払って追い払うけれど、今日はこんな血生臭くて気持ち悪い彼の手にすら縋り付いてしまいそうだ。
頬を撫でられ、気怠く瞬きをする。
少し目を伏せるだけで抵抗がないと知れば、調子に乗った月山さんが顔を詰めて涙の筋を下から上へと舐めあげる。
殺したいほど鬱陶しいのに、同時に熱い舌は僕が求めてしまっている温度でもあるから厄介だ。
内緒事のように月山さんが僕に囁く。

「…激情は収まらないかい、カネキくん?」

そう言っては、僕の左目の瞼へ口付けた。
どうやら左目はまだ赤いままらしい。
感情の昂ぶりとか肉体の昂ぶりとか、そういうのが無意識に外から判断されてしまうこの瞳はこういう時すごく厄介に思う。
喰種としての僕の瞳を気に入っている月山さんの声は嬉々としている。
…激情はまだ収まらない。
だって、もう少しだったのに。
リゼさんだって、結局僕の手は届かなかった。
彼女を助け出したのが四方さんであるだけマシだったけど、まだまだ僕の知らないことがたくさんあって、世の中はどこまでも深みがあり果てもない。
随分奥まで沈んできたつもりだったけど、結局、僕はまだ入口にも立っていないのかもしれない…。
それに、大切な仲間である万丈さんまで傷付けた。
両手で顔を覆って、蹲りたい。
僕を組み敷くようにしている距離の近い月山さんを無視して、自分で両腕を上げて顔を覆う。
…泣きたい。
今夜はもうかなり泣いたけど、もっと泣きたい。
感情的に泣くんじゃなくて、生理的に涙したい。
それがせめてもの…「僕は弱者ではない」という精一杯の主張であり、精神的ストレス解消の一方法であることを、僕はよく知っている。
生理的に泣く方法はいくつかあって、その中で最も簡単に泣ける方法に、目の前の月山さんは最適だ。
都合良く使えるし、お互い割り切っている。
けど…。

「…」

いくら待っても、それ以上は何も無かった。
いつも、喰種の集団をツブして帰ってきた夜なんかは頼まなくてもこうして部屋に来て、それとなく僕が抵抗をし、けれども押し切られる…という、妙な流れができているのに。
今日は何もしない。
ただ、続く沈黙に飽きた頃、熱い掌がゆっくり僕の髪を撫でる。
それだけだ。

「今夜は疲れたろう、カネキくん。…一度休んで、それからシャワーを浴びたまえ。何も抱える必要は無いよ。ムッシュ・バンジョイは既に君を許したのだから。お陰で赫子も出せたしね、いい機会であり必然であったはずさ。君が彼に与えた恩恵のひとつだよ」

そんな言葉は聞きたくない。
無視していると、月山さんの手が僕の髪から離れる。
ベッドの上に仰向けに横たわる僕の上から起きあがると、てきぱきと足下の方へ折り畳んであった布団を引いて僕の腹部までかけた。
…ベッドサイドに立ち布団から手を離す彼を、顔を覆う指の間から見上げる。
彼の好きな赤い瞳で見上げていると、こちらの視線に気付いた月山さんは、何もかも承知している顔で悠然と微笑した。
その笑顔を見て悔しくなる。
彼は、僕が今何を欲しているか分かっているはずなのに。
この人は、献身的に見えて…その実、ひどく冷めた人だ。
今夜はきっと、彼は僕を相手にしてくれない。
一人でこの部屋に置いていく気だ。
それが分かるから、そんな気はなかったのに唇から感情が溢れた。

「…月山さんは、僕が疎ましく思うことしかしませんね」
「僕は君の気を惹きたくて堪らないのさ。いつだってね」

舌打ち混じりの僕の言葉を軽くいなして、ウインクを一つ。
悔しい。
こういう時、何というか…僅かな年齢の差のみならず、余裕の違いを思い知る。
いつもは僕がこの人を"使っている"と思えるのに、こういうピンポイントで僕があしらわれる。
今はぶん殴る気力もない…。
再びベッドに片手を着いて前屈みになった月山さんを見て、一瞬だけ心臓が動いたけど、そんなのはフェイクで片手を顎に添えると頬にキスしてすぐに離れてしまう。
…こうやって、絶妙なタイミングで身を引くあたり本当に厄介だ。
いつもいつも前のめりに僕を好きだとか何だとか言うくせに、いざ僕が欲しい時は一度引かれてしまうから、僕から追わなきゃいけなくなる。
こういうところが、きっと経験なんだろうな…と、ぼんやり考える。
実際に今、僕は月山さんに行かないで欲しいと思っている。
けど…。

「ご命令があれば、伺うけれど?」
「…。出て行ってください」

まるで僕の反応を愉しむようにそんな質問をされれば、反骨精神が頭を上げる。
嘘だ。
本当は僕を慰めて欲しい。
…けど、そんなことはとても言えない。
彼を引き留めるのは簡単だ。
けれど、僕はそれをしない。
まだ彼の腕の中に落ちるつもりはない。
…月山さんは小さく息を吐き、僕の顔を両手で包むと額を寄せてきた。
近づく体温と呼吸にぞくりとする。
思わず腕を伸ばしてしまわないように、拳にした。

「…」
「Bonne nuit、カネキくん」

このままキスできる距離なのに、何もせずに月山さんは離れる。
おやすみの言葉だけを残して、本当に無情に、ドアは閉まってしまった。
…。
間を置いて、ほろ…と頬を涙が伝った。

「…、――っ」

それこそ、感情的な涙が次々に溢れてくる。
見詰めている天井が、じわじわと涙で曇っていった。
一人残された部屋。
改めて、両手で顔を覆う。
…僕にはまだ使ってはいけない力だった。
傲慢だった。
自惚れていた。
みんなごめん。
万丈さん、ごめんなさい…。
いくら思ったって言葉でなければ相手には伝わらないし、彼がもう許してくれた以上、あまり謝りすぎても重みになってしまうだろう。
逆に、万丈さんの言葉は傷付けた僕を救ってくれるものだった。
だけど、拭い去れない罪悪感だけはどうにもならない。
彼を傷付けてしまったのは紛れもない事実なのだ。
最悪の結果にはならなかったけれど、大切な仲間を、自我を失って傷付けた。
それが辛い。苦しい。
俯せに寝返り、腕に目元を押しつける。
…ああ。
こんなに辛く苦しい時に、いつの間にか僕は月山さんを求めるようになってしまっている。
じわじわと彼という存在が僕を犯しているのが解る。
甘ったれた自分の性根が悔しくて、そこに逃げに走ろうとする自分が悔しくて、次から次に涙が溢れた。
まだこんなに弱い。
まだこんなに甘ったれている。
こんな自分は殺さなきゃと思うのに、ドアのノブを回す音が聞こえやしないかと、頭の片隅で期待している。
…本当に、馬鹿みたいだ――。

 

背中を丸めて一人泣きながら眠る。
本当に苦しくて哀しい一夜になった。



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じわじわと侵食。
月山さんは変態だけどここぞという時々はぐるっと回って冷徹に見えます。
2015.10.3





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