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「あんていく」に来るお客さんは、基本的に穏便派なのだと思っていた。
マスターを始め、トーカちゃんや入見さんたち…お客さんも、喰種になった僕のことを"こっち側"として見ていてくれたから、僕が目障りで潰そうという喰種がいたとしても、まさか僕を食べようとする喰種がいるなんて、思いもしなかった。

「ちょっとしたジョークのつもりだったんだ。少しハードだったけど…」

腰が抜けて足が震えて、立つことができないどころか、その時は思い立てもしなかった。
一歩一歩近づいてくる血塗れの月山さんに体が恐怖してびくりと引きつるくせに、視線は彼を凝視するしかなかった。
近距離で屈まれ、耳元に顔を寄せられても、まだ動けなくて――…。

「忘れてくれないかな…」
「――!?」

そんな一言の直後に、腹部に拳を一撃。
ぶっ…と力尽くで押し出された体内の空気が食道を通って口から吐き出される前に、元々緊迫状態で参っていた僕の自我は、やっと見つけた理由を奪い取るかのような速度で気を失うことを選んだ。

 

暗転。
…ごぽごぽと、泥沼に落ちていく夢を見た。







目が覚めると、それこそ夢の中のような場所にいた。
まるでおとぎ話の王様の住むような広い部屋。
壁にかかった西洋風の絵画、並ぶ甲冑、色の濃い薔薇が生けられた花瓶、ワイングラスやカップがまるで宝石のような顔で並んでいる食器棚、洋書の並ぶ本棚…。
そんな部屋の主であるかのようにでんと構えている天蓋付きのベッドと大きな枕やクッションが並ぶ場所に自分が寝ていたら、そう思って当然だと思う。
…。
…?
ここは…何処だろう……。
見下ろせば、厚い布で出来たバスローブのような服を着ていた。
どれもこれも見覚えが無い。
直前の記憶を思い出そうと、片手をこめかみに添えた。
…ずきずきと頭が痛む。
"思い出そう"としたことで漸く月山さんと一緒にでかけたことを思い出し、そこから起こった一連の出来事も思い出せ、さっと血の気が引いていく。
そうだ。
喰種のレストランに踏み込んで、月山さんに食材にされそうになって、けどその月山さんが何だか分からないけど突然最後は助けてくれて――そこから…。
…。

――ガチャ。

「…!」

不意に扉が開く音がして、ビクッと全身を震わせた。
音に引っ張られるようにそちらへ目をやれば、月山さんが入ってきた。

「やあ、カネキくん。起きたかい?」
「ぁ…。うぁ…」

途端に、僕の意思とは無関係に肩が震え出し、握っていた布団の端を力任せに握った。
ガチガチと噛み合わない歯が鳴る。
震える僕に気付かないわけじゃないだろうに、月山さんは大学に来た時のように傍まで来ると、ベッドへ腰掛けた。

「気分はどうかな。疲れたんだろう。丸一日寝ていたからね」
「ひ…っ」

伸ばされた片手に、全身が跳ねる。
まるで跳ね上がるように痙攣した僕の反応に、月山さんが伸ばした腕を止めた。
哀しげにその手を胸元に戻して目を伏せるけれど、もうそんな行動に騙される僕じゃない。
警戒心をフルに広げたまま、シーツに震える片手を着いて少しでも月山さんと距離を取ろうと広いベッドの上を横へずれる。
僕のそんな行動を見詰め、彼はこれ見よがしに申し訳なさそうな顔をしてみせる。

「…Sorry。先日は随分驚かせてしまったね。本当にそう思っているんだ」
「…」
「もうあんな場所へ君を連れて行くことはしないと誓うよ。絶対にね。…水はいかがかな? ああ、コーヒーの方がいいかい? 何か飲めば落ち着くものだよ」

そう言って、一人芝居のようにベッドの横にある小さなテーブルに乗っている水差しを手にする。
クリスタルのような切り子のきらきらした水差しから、細工の細かいグラスへと、透明な液体が注がれた。
傍目に以上はないように見えるけれど、何か盛られていないとも限らない。
差し出されたそれを、月山さんから反らせない視線のまま、弱々しく首を振って断った。
…月山さんが小さく息を吐いて、自身でグラスを口元に運ぶとぐいと呷る。

「…ほら。毒なんて入っていないさ。飲みたまえよ、カネキくん。心配ならば、僕が口付けた場所からね」
「…」

片手に持たされたグラスは…確かに、注がれた半分の量に減っていた。
…何かの罠かも知れない。
けど、目の前に透明な水があれば、喉が渇きを訴える。
丸一日寝ていたというのは、嘘じゃないのかもしれない。
少し考えた後、月山さんが飲んだ場所を確かめて、その場所に口を添え、ほんの少し口の中を湿らせる。
ちびちびと飲めないお酒を飲むように少しずつ水を飲む僕を、月山さんは妙に穏やかな目でじっと見詰めていた。
…やがてグラスが空になるも、体に変化はない。
どうやら本当に毒は入っていなかったようだ。

「もう一杯いかがかな?」
「…結構、です」

本当はまだ喉が渇いていたけど、もう一杯もらうにはやっぱり月山さんに先に半分飲んでもらわないと信用できなかった。
それをお願いするような仲ではない。
グラスを持つ両手を膝までかかっている布団の上へおろし、改めて恐る恐る彼を見る。

「…あの。ここ、は…」
「心配ご無用。僕の家さ」

にこりと微笑む月山さん。
何が心配ご無用なのか全然分からない。
僕は貴方に連れられて襲われ、喰種たちに食べられかけたのに。
じわじわと敵意が隠る僕の目に気付いたのか、月山さんが苦笑した。

「そんな顔をしないでおくれ、カネキくん」
「…。僕を、食べるんですね…」

強気に出ようと思っても、声が震えた。
気丈に振る舞おうとすればするだけ、怖くなる。
言い切った頃には俯いて、滲み出ていた涙が一滴、ぱた…と布団を握る手の甲に落ちた。
…あんまりだ。
こんな人生ってあるんだろうか。
成人にも充たない人生。
小さな幸せがなかったわけじゃないけど、幼少時からあまり良い方だとは言えないと思う。
何も傲慢に生きたいわけじゃなかった。
僕は人並みの…本当に、平凡な幸せが欲しいだけだったのに…。
喰種になって、人間を食べなきゃいけなくて…けどトーカちゃんやマスターに助けてもらって、喰種というものを受け入れる心が少しずつできたと思ったら、今度はその喰種に珍しい食材として見られる。
そうして、きっと僕は、今傍にいる月山さんに食べられてしまうのだろう…。
勿論、黙って食べられるつもりはない。
今だって、全身の神経を張り詰めて月山さんを警戒しているつもりだ。
最期の最後まで、足掻いてやる。
可能ならば、月山さんを殺してでも。
…でも、分かっている。
今の僕じゃ、きっと…最期は勝てない。

「っ…。ふ…」

悔しくて、目を瞑ると涙が溢れた。
唇を噛んで、何とか耐えようと思うけど嗚咽は溢れる。
ぱたぱたと次から次へ溢れる涙を俯いて隠そうと背中を丸めた。
涙で滲んだ視界に、ふ…と青いチェックのハンカチが差し出される。
驚いて顔を上げると、当然その差し出し主は月山さんだった。
困惑した顔で僕を見るその顔が、自分に全く責任が無く、まるで僕を同情するような顔をしていた。

「涙を拭きたまえ、カネキくん。僕は君の涙があまり見たくはないのだよ」
「…っ」

差し出されたハンカチを無視して、布団の中で伸ばしていた膝を引き寄せ、そこに顔を押しつけるようにして顔を覆う。
…来るなら来い。
背中に噛み付いてきたら、赫子で貫いて殺してやる…。
窮鼠猫を噛む。
追い詰められれば、僕だって…。
そう思って、ハリネズミの気持ちで丸くなっていたけれど、月山さんはすぐに僕に齧り付いてくるようなことはなかった。
たっぷり時間を取って、僕の嗚咽が収まってきて少し冷静になりつつある頃に、教え込むような声でゆっくり話しかけてくる。

「僕はね、カネキくん…。確かに君を食したいと思っている。…けれど、何も殺そうという話ではないんだ。そんな気はもう無くなったよ。二度とあのレストランへは連れてはいかないとも。他の詰まらない輩に君の味を分け与えるなんて…ああっ、考えただけでも哀しくなってくる!僕だけに、それもできれば同意の上で、君に肉体を分けて欲しいんだ」

切々と、同情を誘うように僕に訴えかけてくる。
…この人は馬鹿なのだろうか。
優しく語りかければ、僕が「あげますよ」と自分の体を差し出すとでも思っているのだろうか。
あの鉄板で髪の毛と人体が焼ける独特の匂い。
血が流れた時の鉄の臭い、悲鳴…。
絶対に嫌だ。
好き好んで食われる人間が、地球上の一体どこに存在するというのだろう。
そんな関係、あるわけない。
顔を覆ったまま、僕は子どものように首を振った。
パサパサ…と、僕の黒髪が布団を叩く。

「嫌、です…。そんなの…なるわけ、ない…っ」
「そう思うのは、今の君が傷付くのを恐れているからさ。傷付くことに対して慣れていけば、きっと僕らは良き関係になれると思うんだよ」

ぎゅ…っと背中を丸める。
だから、そんなの――。

「なに。そう難しいことではないよ」
「…え――ッひ!?」
「要は君が、マゾヒストになればいいのだからね」
「…!」

意味不明なことを言われた気がしてほんの僅か布団から顎を上げた直後、ガッ…!と勢いよく喉を掴まれた…気がした。
が、一瞬強く掴まれはしたものの、顔さえ上がれば月山さんの片手は僕の顎を持ち直し、気付かないうちに回されていた腕に腰を力任せに引き寄せられ、倒れ込むように彼の懐に入ってしまった。
その腕の中に体が傾く。
それなのに、顎を取られた顔だけが上を向き、気付けば息苦しく生温かく口の中が熱かった。
呼吸が塞がれる。
月山さんの顔が近すぎて、こんなに近くで他の人を見たことがなかったから、視覚が一瞬狂ってしまい、今自分が何を見ているのか分からなくなった。
熱い粘膜に舌が捉まり、喉が拒絶してひくつく。
…キスされているのだと気付くまでに数秒を要した。
だって初めてだったから。

「っ――! ――ッ!!」

顔を離そうとして、けれど僕の顎を押さえる月山さんの手は離れてくれない。
無茶苦茶に暴れて彼の肩を押し返してみたりするけど、びくりともしない。
そうしている間も狭い口の中を、他人の舌が我が物顔で蹂躙する。
舌の表面を舐められ、吸われ、歯の裏…喉の奥まで舌先を入れられて、何度もびくびくと喉が嗚咽する。

「っ……っぶ、は――!」

窒息できそうなくらい苦しくなって、月山さんのシャツを掴んでもう本当に無茶苦茶に振るうと、ようやく唇を離してくれた。
水の中からようやく水面に出られたみたいに、一気に呼吸する。
バッ…!と月山さんの体を払うつもりで片腕を振るった。
本当は突き飛ばして彼と離れたかったけど、僕に取れた距離は、結局彼の腕の中での最長だった。
僕の顎を掴んでいた彼の右手から逃げるために、彼の左腕の中へ逃げ込む。
どちらも結局は檻の中なのに。

「な、なに…っ」

片手を口の前にして、意味が分からなくて月山さんを見上げる。
顔が熱い。
体から力が抜けて動けなくなる。
口の中が熱い。
粘膜が…。
驚いて見上げた月山さんは、何故かすごく嬉しそうに僕を見詰めて詰め寄った。

「初めてだね?」
「…え」
「こういうことは。…女性とも?」
「…!」

僕の顎を掴んだ彼の右手が、さっきとは別物のように虚空を彷徨っていた僕の片手を取る。
下からそっと掬い上げるようなその仕草にさえ、怖くて大袈裟に体が反応する。

「はあ…。ああ…カネキくん…!」

かたかたと、今度は歯ではなくて足が震えた。
さっきとはまた別の意味で恐怖が生じる。
彼が僕に食材として以外のものを求めているのを、本能で悟ってしまった。
愕然とする。
それは僕の想像していた覚悟の、思いっきり枠外だった。
どんな顔をしていいか分からずくしゃりと歪む顔のまま、弱々しく首を振る。
何だこの人。
何なんだ…!

「…ゃ」
「こんなに素晴らしいことは無い!君が今まで経験が無かったのは、きっとこの僕と今日という日を迎えるためだったんだ!!」
「ぃ…。いや、で……ひっ!」
「そう怯えないでくれたまえ」

顔を近づける月山さんに一瞬噛まれるのではないかと全身が震えたけれど、並びの良い歯が僕の皮膚に食い込むことはなく、右の耳にキスされた。
そのまま、耳の後ろを辿るように月山さんの舌が這う。
怖くて、体が固くなって動かなくて…抵抗もできない。
取っていた僕の手を甲から包むように持ち直し、僕の手ごと僕のシャツの下へ滑り込ませた。
直接腹部に触れる自分の手が、氷のように冷たくてびっくりする。

「…"パブロフの犬"を知っているね?」

僕の耳元で、月山さんが小声で囁く。
正直、何を言っているのか頭まで情報が来てくれない。
愕然と、無心でシャツの下を這い上がってくる自分の手と月山さんの手を凝視してしまう。

「ソ連の生理学者だ。大脳生理の基本的な法則を解明した人物でね、犬を持ってして条件反射を……ああ。君は既に心得ている話だね。要は、僕の愛と食事を、いずれは君も好んでくれるはずという話だよ。僕らが良き関係になる為に必要なのはたった一点…。回数だけだ!」
「ぁ、う…あ…っ」
「何もしなくていい。君はただ感じてくれるだけでいいよ、カネキくん。君の中の良質な脂が溶け出すくらいに熱く、また緊張を解き四肢を柔らかく解すのも全て僕の役目だ。内側からレアに…。まずは気持ち良く、君の快感が極まったところで一口。その瞬間が、君が最も美味なる瞬間だからね!繰り返していけばいずれは痛みも刺激になるものだ。お互いに悪くないはずだよ? すぐに血の匂いと僕の咀嚼無しではいられなくしてあげよう。善くしてあげるとも。君の体もきっとすぐにそれらを覚えてくれるだろう!」
「うあ…!?」

ばっと僕の背中を支えていた腕が無くなる。
支えを無くして、あっけなく僕は背中からベッドへ倒れた。
反射的に、飛び起きるように身を起こしてみたけれど、起こせたのは上半身だけで、起きた僕の体に重なるように月山さんが僕の左右に手を置いて詰め寄っていた。
足が彼の体の下に入って動かせない。
密着する足が怖い。熱い。
それまで知っていたはずの人肌の温度じゃない。
毛を逆立てる猫のように、フー…フー…と息があがる。

「おや…。恐怖で泣く必要はないよ、カネキくん」

ぐしゃぐしゃの顔で凝視する僕へ、月山さんが微笑む。
顔を近づけられて仰け反る僕の涙を、肉厚の彼の舌がべろりと舐めた。
…熱い。

「涙は僕と愛しあう為に取っておいてくれたまえ。…ああ。君の涙を見ていると堪らなくなる。塩気が出てより肉の旨みを引き立てる。君の汗、涙……ふふ。どれも君をより良くするものだ。僕には分かる…」
「っ…!」
「君を最高の味で食するのに、ベッドが最も適している!最高の食材は最高の食器で…だ!」

後ろ腰を支えられ、ぐっとキスで押し倒される。
僕なんかが、逃げられる訳もない。
全身から溢れる我慢できない羞恥心に本気で泣きじゃくって無茶苦茶に抵抗したけど、そんなのは最初ばかりで、生まれて初めて与えられる快感にぐるぐると頭が狂ってくる。
圧倒的な快感は、痛みと同じくらい強い衝撃だった。
これを知る前と後では、"僕"という一人格は一度崩れてまた真似て創られる…それくらいの衝撃で…。
頭から爪先まで痺れて動けなくなる。
麻酔みたいだ。
…だから、月山さんにいざ肩を噛まれた時、それ自体の痛みは、自分が考えていたよりもずっと"大したことの無い"ものだった。
そんなことよりも、肌の上を溢れ出る血の流れる気持ち悪さの方が、ずっとずっと気になった。
――。




愛猫のなりかた




鬱々とした日々が繰り返されていく。
月山さんに捕まって連れてこられた日から、結構経っている気がする。
昼か夜かの違いは分かるけど、月山さんが寝室からカレンダーを取ってしまった日から、僕には正確な日付を知る術がなくなりつつある。
それは良くないと思って最初は何日目か覚えておいたけど、段々と自分の記憶に自信が無くなってきてしまい、今は部屋のクローゼットの中にあるアンティーク調の引き出し一番下の裏側に、こっそりと一日一つ爪で傷を付けて数えることにした。
高そうな家具に傷を付けるのは忍びないけど、こうでもしないと僕の自我だけでなく、年月日という生きていく上で基礎中の基礎知識も消え失せてしまいそうで怖い。
最近、気付くと何かを忘れている。
信じられないけど、自分が今起きているのか寝ているのかも曖昧な時がある。
頭の中がからっぽで…時々月山さんが撫でてくれないと"起きている"ことにすら気付けない時がある。
そのくせ小説は読めていて、けど内容は覚えているのにタイトルと著者はあまり覚えていられない。
途中まで読んで「あ、これ読んだことある…」と思い出せるんだ。

「まったく…。黒猫風情が」

背後でぶつぶつ悪態を付きながら、今日も叶さんがぼんやりしている僕の髪を櫛で梳いてくれる。
まるで清楚な女の子が使うような細工が綺麗な化粧台が目の前にあり、その前にただ座って彼に言われたとおり大人しくしている。
僕の知らない色々な薬品が、オシャレな瓶に入れられてずらりと鏡の前に並んでいるけれど、とても自分じゃやり方も順番も覚えきれない。
一応自分で髪を梳いて着替えているけれど、マメに庭の薔薇を飾りに来る叶さんが来れば、洋服も髪も全部あれが駄目これが駄目と取り替えられてしまうから、最近は寝間着を脱ぐことすら億劫になっている。
まるで僕がこの部屋を彩る家具の一つみたいに、悪態着きながらも世話をやいてくれる。
もしかしたら、本当に僕は家具なのかもしれない。
叶さんは月山さんのことを慕っているみたいだし、この間来た人間の堀さんも色んなことを言っていたけど月山さんのことを嫌いというわけではなさそうだった。
どうやら、月山さんは僕が思った以上に慕われているみたいだ。
…今日は、起きたら月山さんがいなかった。
昨晩からいなかった。
レストランへ行ったのだ。
ここの所殆どレストランへは行っていなかったようで、数日前、いい加減に出てきて欲しいと仲間の喰種から熱烈な手紙をもらってしまったと僕に見せてきた。
中には女性のサインも多くて、物語みたいに、便箋に口紅が着いているものもあった。
そこで僕に嫉妬して欲しがっていたのは流石に僕でも分かったので、敢えて無視して寝入ってしまう夜が続いていたけど、数日間の間に我慢ができなくなったのは恐ろしいことに僕の方だった。
そして昨晩から今日にかけて、たった一晩姿が見えないだけで落ち着かなくて仕方ない。
心配になる…。
何が心配かは分からないけど、月山さんがいない夜は僕を不安にさせる。

「おい、猫。顔を上げろ」
「――!」

ぐっと顎を取られ、いつの間にか俯いていた顔を叶さんが無理矢理持ち上げた。
目の前の鏡越しに、不機嫌な彼の顔が映る。

「覇気のない奴だな。貴様の元気が無いと、習様がお気にされる。習様に愛でられて、一体何が不満なんだ。貴様の穢らわしい身に余る光栄だぞ」
「…」
「貴様が人間であったなら、あの方の舌を愉しませられるのは一晩だけだったのにな。…半喰種で隻眼か。フン…。忌々しい!」

投げ払うように掴まれていた顎を解かれる。
反動で蹌踉けた上半身が倒れきる前にバランスを取って、ゆっくりをまた顔を上げる。
…鏡に写る自分は、ぼんやりとした死んだような顔をしていた。
これのどこがいいのだろう。
自分の両手を淡々と見下ろしてみる。
黒髪黒目、服も白いシャツと濃い黒のジレ…。
黒の中で目立つのは、この赤い左目だけだ。
あと彼に僕があげられる色は、血液と内臓と筋肉と…。

「…」

…食べて欲しい。
毎晩のように躾けられて、もう僕の根本は変わってしまった。
夜になると体が疼いて誰かにくっつきたくて仕方ない。
そうじゃないと自分の身の上を不意に思い返して泣きたくなる。
誰かに噛んで欲しい。
できれば肩を。
けど、月山さん以外にそういうのを見せたくない。
一人じゃもうイけなくなってしまった。
どうしたらいいんだ、こんなの…。
…。

「いま戻ったよ!僕のシャノワール!!」
「習様…!」

バンッ――!と扉が開いて、月山さんが帰ってきた。
僕だけでなく、叶さんもびくりと反射し、ぱっと僕から離れて背筋を伸ばし、片腕を胸に添えて頭を下げる。

「お帰りなさいませ、習様」
「やあ、叶。ただいま。…ああっ、カネキくん!」
「…!」

爽やかに片手を軽く挙げて叶さんには挨拶するだけのくせに、そのままスタスタ歩いてきていきなり僕に両腕で抱きつく。
密着する肌に、一気に体が熱くなって肩を竦めた。

「昨晩は戻って来られずにすまないね!僕が不在の間寂しかったかい!? 小説をまた何冊か買ってきたよ。使用人に預けたからいずれここに運んでくれるだろう。君の喜ぶ顔が見た――」
「っ…!」

肩を抱かれて椅子に座る僕の傍へ片膝を付き、流れるようにキスのモーションに入る。
それが分かって焦り、がっと月山さんの顎を両手で押さえた。
はた…と月山さんが瞬き、傍で見ていた叶さんが驚いた顔の後で僕を怒鳴る。

「黒猫!貴様…っ!」
「…ああ」

ところが、僕が拒絶している月山さんは冷静に僕の手を取ると指先にキスをしてから叶さんの方を向いて立ち上がった。

「叶、君はもういいよ。留守の間ありがとう。休憩でもしてきたまえ」
「しかし習様…!」
「コーヒーを淹れるのならば、僕らの分も頼むよ」

月山さんがそう言ってウインクすれば、もう叶さんは反論できないみたいだった。
ぎろりと一度僕を睨んで、踵を合わせて一礼し、部屋を出て行く。
カチャ…と金の金具が噛み合ってから、月山さんは改めて僕の手を取り僕へ立つよう促した。
黙ってそれに従う。

「ふふ…。叶がいると恥ずかしいんだね。堀の時もそうだった。夜の君を知っているとついつい君がシャイであることを忘れてしまうよ。僕にはとても甘えたがりだものね」
「…」

丁寧に抱き寄せられて、温度の高い手で髪を首を撫でられてキスを交わす。
舌を絡め合い、唾液が分泌されてぐちゃぐちゃになる。
呼吸が苦しくなってきた頃、月山さんから唇を離した。
…もう一度キスしたい。
全然足りない。
いや、キスなんて正直どうでもいい。そんなことより…。
行動を起こさないのだから、疼く僕の内心が伝わってくれるはずもない。
胸の前でぎゅっと両手を握っている僕の喉へ、月山さんの親指が触れて慈しむように撫でた。
ぞくぞくして、反射的に喉を反らした。

「…」
「喉の調子は変わりないかな? 堀はどうやら精神的なものだろうという意見の持ち主でね。鳴き声が聞きたければ君から少し離れるようアドヴァイスもあったし、レストランへの招待もあって一晩離れてはみたけれど……ああ!一晩だって僕には永遠の夜のように感じたとも!!君と離れるなんてとても無理だ!だが…だがっ!君の為というのであれば、どんなに辛くても僕は君との距離を取らねばならない…!!」

え…。
月山さんが空いている片手で拳を握っていかにも辛そうに叫ぶ内容に、僕は驚く。
…離れる?
何。どういう意味だ?
衝撃を受けている僕の手を取り、月山さんはぎゅっと握ってこちらを見詰める。

「月山グループの中に医療機関もあってね。勿論、喰種の出入りに支障はないよ。パパンや松前がいうには、少しばかり君にもリフレッシュする時間が必要なのではないかという話だった…」

医療機関…?
リフレッシュって…今更何を言っているんだろう、この人は。
沸々と激情が湧いてくる。
怒りとよく似ているけれど、微妙に違うことが自分で分かっていた。
そんなの嫌だ。
寂しい。
辛い。
いつの間にか、一晩でこんなに寂しくなるように変えられてしまった。
勝手に僕を連れてきて、勝手に僕を好きになって、勝手に造りかえて…そうして一方的な思い遣りと罪悪感で捨てられてしまうというのだろうか。
…泣きたくなってくる。

「…」
「君に触れられない日が続くなんて耐えられない。僕の日常から花が無くなるようなものさ。けれど君の声を取り戻す希望があるというのなら、僕は――」
「…。――ぃ、ゃ…」
「…!」
「ぃ…。嫌、だ…っ!」

握っている手を振り払い、月山さんへ勢いよく抱きつく。
体内でもやもやと堪っていた鬱憤が、声になって喉を通っていったのが分かった。
…ああ。
人は、自分の欲求を主張する為に、声を出すんだ…。
随分久し振りに声を発して抱きついた僕を、月山さんが驚いた顔をしながらも受け止めてくれる。
恋しかった匂いのする胸に顔を寄せて首を振る。
発声の感覚は思い出せたけど、想いを上手く言葉に出来るか否かは声を出す能力とは全く関係ない。
人恋しいと思ったことは、今までの人生で何度もある。
けど、今までで一番仲が良かったヒデだって、僕があまり掴まえておいてはいけないと思ったし、他の人だってそうだ。
なのに月山さんは強制的に僕のこと掴まえるから……もうすっかり、この人の傍にはいていいんだって思ったのに、今更気遣いなんていらない。
食べられるのは思ったより痛くなかったしもう慣れた。
だって痛いのは一瞬だ、すぐ治る。
食事なんてもうどうでもいい。
結局、僕らを無理矢理繋ぐものは、彼の言っていた通り回数だった。
月山さんになら食べられたって構わない、そうじゃなくて…普通に、月山さんに傍にいて欲しい。
…何て言えばいいんだろう。
ぱくぱくと何度も口を開いて、でも上手く言葉を見つけられなくて僕の方も狼狽える。

「…、さ、寂し…かった、です…。昨日…」
「カネキくん…。声が…」
「ぁ…。か、噛んで、ください。…あの、」

ば…っと月山さんから両腕を離し、急いで襟の上質なタイを取る。
折角叶さんが着せてくれたけど、一刻も早く月山さんの食欲を刺激しないといけない気がした。
ジレの間から慌ててシャツのボタンを上半分外し、彼の好きな鎖骨から肩にかけての部分を開いて見せる。
食事帰りなのは承知している。
でも――。

「僕のこと…。レストランへ行ってお腹いっぱいなら、食べなくていいので…噛んでくれれば――お願いします…!」
「――」
「僕もう…もうパブロフの犬でいいです!月山さんの犬でいい…!!」

月山さんの歯が恋しい。
肉を裂き骨を探るあの感覚が無いと、僕はもう眠れない。
恥も体裁も捨てて泣きながらに訴えると、月山さんは一瞬固まった後、不意に勢いよく僕を抱き寄せて口を開けてくれた。
開いた襟元から露出していた肩へ、強い顎の力で噛み付いてくれる。
ぞくぞくと全身に快感が奔り、立っていられない体を彼が支えてくれた。
皮膚を剔る灼熱。
ごうごうと血液が流れる音。
血が足りなくなってチカチカと視界に白い靄がかかり始めて体幹が揺らぐ。
それを気持ちいいと感じてしまうのだから、僕はもう戻れない。
繰り返される行為でこんな体にした月山さんのことを恨まないわけじゃないけど、今はもうこうなってしまった以上、月山さんがいないと寂しいし落ち着かないし眠れないことに気付いてしまった。
こんなに広い部屋とベッドで一人は余計に孤独を感じる。
どうせ人間の生活になんか戻れない。
僕はもう、彼の犬でも猫でも、何でもいい。
ただ、捨てずに一緒にいて欲しい……それだけだ。

だって、お母さんが死んで、一人になって…。
元々、世の中にもう"家族"は無理だから。
一緒にいてくれる他人なら、ヒデだってトーカちゃんだって月山さんだって――…一緒だ。
誰だって構わない。
もう個体差なんて気にしていられない。
一緒にいて欲しい。
本当、それだけだ…。

 

 

 

 

 

 

 

喰種レストラン――。
久し振りに来たところで、その場所はあまり変わっていなかった。
ただ、前来たときと感じ方が全く違うのは席のせいだろう。
名誉会員であるMMの席は、高い場所にある。
だから彼に付き添う僕もそこに用意されている椅子へ腰掛けていた。
オペラ劇場のバルコニー席のようなもので、他の人達と違って何度来てもここのバルコニーは月山さんの席として決まっているらしい。
この席なら他の喰種は傍にいない。
前来たときは下のステージだった僕も、今は観る側だ。
…世の中って予想ができない。
まだ食事会が始まるまでは時間があるから、会場はざわざわしている。

「僕のchat noir、寒くはないかい?」
「はい…。ありがとうございます」

月山さんの手に支えられて腰掛けた僕の手を握ったまま、仮面の向こうでそう気遣ってくれる。
それなりの人がいるから、会場は少し温度低めに設定されているみたいだ。
傍に控えていた給仕の人に膝掛けを一つ持ってくるよう頼んでくれた。
…MMの飼い人としてここに来る時、彼は僕をシャノワール…"黒猫"と呼ぶことにしたらしい。
マスクもそれをモチーフにした隻眼のものを与えられた。
僕らが雑談していると、不意に手摺りの下の会員席から、「MM氏…!」と月山さんを呼ぶ声があがった。
月山さんが席を立って、手摺りに片手をかけてバルコニー下の席の人達と何か会話をする。
少し待ったけど、何となく寂しくなり、僕も無意味に席を立って月山さんの傍へ寄っていくことにした。
話していた会話の内容というのは、「先日月山さんがシェフに言ってその日店に来ていた人に振る舞った"ステーキ"が、大変美味しかった」というものだった。
仮面を着けてドレスアップした会員の中、数人が熱心にそのことを聞き出そうと耳を傾けている。

「まったく、素晴らしい味でしたよ、MM氏!」
「そうでしょうとも!皆様の肥えた舌を満足させる味であろうと自負があります。私が突き詰めた最高の美食ですからね!」
「まァ…。それほどに?」
「何たる羨ましいことだ。私もその日来られていたら…」
「美味しいとか美味しくないとか、そういう次元の話じゃなかった。新しい境地ですよ、あの味は!」
「一体全体、食材をどこで調達したのか是非教えていただきたい」
「はははっ。企業秘密ですよ」
「次回は是非わたくしにも恵んでくださいなっ」
「機会がありましたら是非とも、マダム」

愉しそうに笑いながら、月山さんが彼らを適当にあしらってから斜め後ろに立っていた僕の方を見た。
誘われるように片手を差し出され、殆ど反射的にその手をそっと取ると手摺りの方へ導かれる。
…バルコニーの下には、たくさんの喰種たちがまるでドールハウスの人形のごとくテーブルセットの席に着いていた。
うふふはははと、仮面を着けてドレスやタキシードを着て気取っている。
数人の女性らしき喰種からは、羨望の敵意ある眼差しを向けられた。
…滑稽だ。
一人一人は喰種のくせに、なんだか存在が小さく見える…。
喰種は燃費がいいから、流石に月山さんが毎晩僕の肉を食べるわけにはいかない。
元々"お腹いっぱい"は食べない主義らしい。
…けど、どこかしら噛んでもらったりねじ切ってもらったりしないと感じなくなってしまった僕だから、気紛れに月山さんはレストランに僕の肉を提供することにしたらしい。
彼曰く、他人に僕の肉を味わわせるのは身を切り裂くほど辛いけど、欠けた僕の肉を芥として処理する方がずっと辛いとのことだ。
相変わらずちょっと意味が分からない。
けど、それが月山さんの感性なんだろう。
僕は自分の肉片がどうなろうとどうでもいい。僕にとっては快感と安心を得る為の痛みだから。
その瞬間瞬間で痛ければ、気持ち良ければ、それでいい。
レストランはその食材をとても褒めてくれるらしいけど、誰も毎回彼と一緒に来る僕の肉だとは思っていないだろう。
…ぼんやり会場を眺める僕の腰を抱いて引き寄せ、月山さんが耳元で囁く。

「…皆が君の虜だよ、カネキくん」
「…」
「そして僕もね。この世で最も自由で美しく気高く、また周りを虜にするのに秀でた生き物は"猫"なのさ。魔性のもの。歴史に残る才ある者の傍には、いつだって猫がいる。…僕の猫こそは君だよ、chat noir」

月山さんが僕の喉にキスをして、チリン…と首の鈴が鳴る。
…それでいいのかもしれない。
月山さんのように言葉にはとてもできないけれど、僕だって月山さんがいないと困る。
彼は確かに僕を食べるけど…それ以外ではとても優しい。
せっかく忘れていたぬくもりとか人の温かさとか優しさとか、またうっかり手にしてしまった。
今更手放せない。
別の未来もあったかもしれない。
けどもう…僕はここでいい。
泥沼は馴染めば気持ちいい。

顎に手を添えられる。
それだけでとろんとした気持ちになる。
…けど、こんなに人がいるところでキスはしたくないから、断る意味も甘える意味も込めて、ぐり…と月山さんの片腕に額を添えて顔を埋めた。



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美食家の飼い人カネキ君。
何かね…やっぱり飼われた方が彼は幸せだった気がしてしまいます。
前回の「beautiful pic」が好評でした。
ありがとうございます。
2015.7.21





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