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――…歩に会いたい。

平和で平和で、それはもう平和な臨床実験施設という名の牢獄。
ぼけー…と窓の外を見ながら、火澄はソファにごろ寝しながらぼんやりとそう思った。
窓の外のテラスになど何も無かろうに、小鳥が飛んできてはレンガで舗装されたその場所をいくつか突っついて、また飛び立っていく。

(翼があったらなええのになー……なんつって)

浅はかすぎる妄想には笑えもしない。
翼があるからといって、移動手段があるからといって、何になるというのだろう。
歩に会いに行って、何をするというのだろう。
会いたければ、会えばいい。
現実的に可能か不可能かで言ったら、可能だ。
「出たい」と一言言えば、火澄の体をあれこれ弄って知的探究心を満たしている連中は相当渋るだろうが、結果は出られるはずだ。
何をしようと、何処へ行こうとフリーパス。
今すぐ検査着を着替えて、歩に会いに行って、夕飯を作ってもらって…。

(ほんなら、オレは横でデザートでも作ったろかな。何がええやろ。そういや、バニラビーンズ使い切ったけど、アイツ買うたんやろか。…あー、せやけどラスト一回の手作りメシなんやったら、歩のプリン食べたいわー。せやったらオレがメシ担当か…)

くだらない、と思う気持ちを抱えながら、頭が勝手に想像を膨らませる。
今すぐに、あの家に飛び込めたら。
…けれど、それは何の意味も無い。
自らに鎖をつけたのは自分だ。
もう歩には会わない。
火澄はそう決めた。
すぐ来る自分の寿命まで、孤独を耐えると決めたのだ。
本当に、誰も自分の周りにいない。
親しい者など一人もいない。
けれど、歩を生かす為に、溢れ出す寂しさと虚しさと戦いながら、自分の終わりを一日でも長引かせる。
そういう"死"だ。
自分はいわば、鳴海歩を生かす為の外部部品。
火澄はそう決めた。
諦めたわけじゃない。決めたのだ。戦うことを。
荒れ地の中に進み出た、子供たちの先陣を切る。
大きな旗を振るって運命の弾を浴びる。
浴びた弾の分だけ、歩や他の子供たちの未来を生かす。
できるのは自分だけだと、ちゃんと理解している。
けれど…。

「……アホくさ」

ふ…と冷静さを取り戻す。
途端に、想像があほらしくなった。
あたたかい食卓が恋しい。
だが、もう戻れないのだから望んだところでさみしくなるだけだ。
そんなことより、崖っぷちの未来を見詰め、そこに向かって一歩一歩歩いて行くべきなのだと理性が訴えてくる。

「さーて…。何するかなー。本読むんも飽きてもーたし…」
「暇そうだな」
「うおっ…!?」

距離があるとはいえ、突然背後から声がして火澄はソファの上から飛び起きた。
勢いよく振り返り部屋の出入り口の方を見れば、銀髪のピアニスト様がおいでなさっている。
ソファの背に片腕をかけ、火澄はは…と息を吐いた。

「何や、またお前かいな…」
「まだ生きているようだな、火澄」
「おかげさんでな!」

いーっ、と顔を歪めて応える火澄。
銀髪のピアニスト…アイズは、僅かばかり穏やかな、とはいえ傍目に見れば十分"無表情"な表情で、ごてごてしい上着を脱ぎながら火澄の傍へやってくる。
脱いだ上着をソファの背にかけ、ソファの目の前にあるテーブルに、片手に持っていたケーキボックスを置いた。

「お前とは"オワカレ"したつもりなんやけど~?」
「俺もそのつもりだった。だが、日本でCDの収録があってな。どうせだから寄ってみた」
「あそ。…あんま来ぃひんといてやー。何度も何度もオワカレなんぞ恥ずいやろー?」

火澄の言葉を聞き流しながら、アイズはソファセットの片隅にある一人がけのソファに腰掛ける。
必然的に、お茶でも淹れなければならない空気になったような気がして、火澄は肩を落とした。
この少年はいつだって"お姫様"だ。
アイズがゲストなのだから当然なのかもしれないが、とはいえ火澄はもう殆ど病人だ。
普通ここはどかりと腰を下ろす前に、お茶の一杯二杯自分で淹れろと言いたい。
…とはいえ無視もできない。
火澄は元々、あれこれやりたがりな性格ではあるのだ。

「何や淹れたろか? お前、何飲むん?」
「お前と同じものでいい」

"でいい"ときたものだ。
かっちーん、と来る。

「ほんなら、待っとき」

ひらっと片手を振り、火澄は部屋の端にある簡易キッチンへ向かっていった。

 

 

 

 

「…スムージーか?」

数分後…。
差し出されたド緑色をした謎の飲み物を前に、足を組んで悠々と腰掛けていたアイズはぽつりと尋ねた。
火澄がにやりと笑う。

「阿呆。ホットやろ。抹茶や、抹茶!」
「抹茶…」
「そ。インスタントやけどな」

火澄が腕を組み、胸を張る。
日本のお抹茶。
噂には勿論聞いているが、実物を見るのはイギリス生まれのアイズとしては初めてだ。
グラスではなく茶碗に注がれているグリーン色をした日本食文化は、なんだかえげつない。
飲み物というよりはスープのような気がした。
どうやって飲むのか。
スープスプーンが欲しい…とぼんやり考えているアイズの斜め前で、火澄が自分の分を持って見せる。

「こーやって、このまま飲んでええんやで」
「…」
「本当はあれこれ色々作法があるんやけど、以下省略ってやつな」

アイズが茶碗をそっと手に持つ。
一端持っていた茶碗を置き、火澄はアイズが持ってきたケーキボックスへ手を伸ばした。

「これ、見舞い品やろ? 茶請けに開けてええ?」
「ああ」
「どれどれ~♪」

自分の方へ引き寄せて、開ける前に手をすりあわせる。
例え、顔を合わせるのがどことなく気後れするアイズであろうとも、やはり来訪者は嬉しいものだ。
そのくらい火澄は人に会っていない。
空腹は実のところもうあまりないのだが、それというのもこの施設でたった一人での食事を取っているからだ。
綺麗で広いだけの部屋に閉じ込められ、自分が死ぬその瞬間に絶えず抵抗し、戦いの幕が下ろされるまで自分の死を直視しながらあれこれと臨床実験を受ける。
せめて誰かとの楽しい食事での語らいがあれば随分違ったのかもしれないが、それも難しい。
精神状態が健康でいられるのが奇跡なのかもしれない。
そのあたりは流石といえるだろう。
だが、価値を見いだせなくなったものならたくさんある。
前は好きだったりこだわりがあったものが、今はそうでもない。
料理は好きだったが、自分以外に食べる人間がいないとわかると、なんだかどうでもよくなってきていた。
点滴で栄養がとれるのであればそれでいいし、栄養価さえ整っていれば量を求めなくなった。
だが不思議なもので、やはりこうして誰かが来訪した際には食欲も出てくるのだ。

「おー。プリンや!」

開けた白いケースの中、プリンが二つ入っていた。
さっきぼんやり思っていた手前、火澄はいそいそとケースから取り出し、一つをアイズの前に、もう一つを自分の前に置く。

「ええやんええやん。うまそう!」
「…プリンが好きなのか?」

未だ抹茶に口をつけないでじっと見詰めていたアイズが、火澄に尋ねる。
火澄は肩をこけさせた。

「好きなのか、って…。お前が買ってきたんちゃうんかい」
「いや。それはもらいものでな。鳴海歩から手渡されたものだ」
「――」

火澄が静止する。
驚愕に目を見開いて、アイズを凝視した。
彼は表情を変えぬまま、テーブルの上の容器を見下ろしながら続ける。

「ここに来る前に、あいつの所にも寄ってきた」
「…」
「お前の所に寄ることは伝えなかったんだがな」

火澄はアイズから視線を外し、片手に持った容器をじっと見詰める。
本当にたっぷりと、暫く時計が進むまでただただ見詰めていた。
斜め前でアイズが抹茶を半分飲み終わった頃、ようやく火澄はスプーンで一口ぱくりと口に含んだ。
そこでまた、暫く固まる。

「……うまい」
「そうか」

ぼんやり呟く火澄を敢えて気にしないようにして、アイズは再び茶碗に口付ける。
…濃すぎるプリンが好きではない火澄の好みに合わせた、なめらかさ重視のプリン。
キャラメルは甘すぎず液体すぎず、バニラビーンズはたっぷりと。
二度と食べることはないだろうと思っていた。

「…」

ぼろ…と火澄の目から涙が零れた。
一粒溢れるともう止まらない。

「っ、…っ……」
「…」

歩に会いたい。
歩に会いたい。
やっと会えた同朋だった。
死ぬまで一緒にいたかった。
なんなら一緒に、上手い死に方をしたかった。
一緒にいるのが罪だというのなら、彼に殺して欲しかった。
首を絞めて欲しかった。銃で撃ち抜いて欲しかった。事切れるまで滅多刺しにしてほしかった――。
死ぬなら歩の傍がよかった。
けれど、それでは希望は繋がらない。
何もかもなげうって、他人なんか知るかと悲鳴をあげて、歩を殺すか若しくは殺されて、一緒の場所で眠れたらどんなによかっただろう。
もう会わない。
死によって別れが生じるなら、まだいい。
お互い生きているのに、もう死ぬまで会わない。
会えないんじゃない、"会わない"。
――これが、どんなに辛いか。
希望は時に、残酷な犠牲を要求する。
俯いて肩を振るわせ、腕で目元を覆う火澄に何を言うこともなく、アイズはそこに座り続けた。

 

 

 

 

 

 

 

 

「火澄が死んだぞ」
「らしいな」

鳴海歩の為の臨床実験体である水城火澄が亡くなってから、アイズが歩を訪れ報告したところで、彼は顔色一つ変えなかった。
情報が届いているので当然ではあるのだろう。
別の施設に入った歩もまた個室を与えられ、白いベッドの左右にはあれこれと機材が用意されているが、特異なのはベッドの右側にあるグランドピアノだ。
ぱらぱらと楽譜を見ていた歩へ、アイズは紙袋を差し出す。

「…ほら」
「…? 何だ?」
「あいつの代わりに器を返してやる」

ベッドの端に袋を置き、アイズは中身を取り出した。
紙袋の中は小さな保冷ボックスだった。
中を開ければ、冷凍された半分食べかけのプリンが入っていた。

「火澄の部屋の冷凍庫に入っていたらしい」
「…」

それは、いつだったか歩がアイズに持たせたプリンだ。
彼が空港からまっすぐ自分の所に来たのは分かっていた。
だとしたら、情に厚いこの男のことだ。わざわざ日本に来た機会、次の行き先は決まっているも同然だった。
渡すか渡さないかは任せることにして、ひとまずくれてやったのだ。
濃すぎるプリンが好きではない火澄の好みに合わせた、なめらかさ重視で、キャラメルが甘すぎず、バニラビーンズをたっぷり入れた…。

「…」

歩はそれを見て、はあ…と肩を落とした。
素っ気なく口を開く。

「人がせっかく作ってやったのに……あの馬鹿、残しやがって」

言いながら、歩はアイズへ片手を差し出す。
黙って差し出されたそれを受け取ると、それはまるでついさっきまで誰かが食べていたかのように中途半端な形で凍っていた。


キミがくれたたくさんのものと私の遺したいくらかのもの




若き天才ピアニスト、アイズ・ラザフォードは年に一度、中途半端な時期に必ず日本でチャリティコンサートを行う。
コンサート前の日が高いうちに、世界に忘れられたような場所にある二つの墓標に花を添えた。
ついでに片方にはプリンを置いてやった。
それだけでは不平等な気がして、もう片方にはリストの楽譜を一冊置いてやった。
風が吹いて花びらが舞い上がる。

「…」

銀髪が揺れ、アイズは片手でサイドを抑えた。
視線を上げてそれを追う。

彼はすっかり背が伸びた。



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ヒズミ君と歩君。
最期までの期間を思えば、ヒズミ君の強さは泣けてきちゃうよ。
チルドレンたちは全員…は無理だろうけど、大人になったと思いたいです。
2016.9.9





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