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『すみません、ルイーゼさん。現在、ウァドエバーさんは何かの任務に就いていますか?』

パイカルからのそんな通信を取って、ルイーゼはまず瞬いた。
ウァドエバーはパイカルの上司。パイカルはウァドエバーの助手という立場だ。
基本的に人嫌いなウァドエバーは、ルイーゼが連絡を取ろうと思っても捉まらない。
どちらかと言えば、寧ろルイーゼがまず助手のパイカルに連絡を取り、パイカルを通してウァドエバーに言づてる……という流れが多い中、パイカルからウァドエバーの任務について聞かれることは、今まで一度も無かった。
あらぁ…と受話器を持っていない方の手を頬に添えて、ルイーゼは問いかける。

「ええ。先日、パイカルちゃんを通して伝えてもらった任務が継続中よ。サボってなければ、だけれども」
『サボってはいないと思います。指定された国へ入国したと、連絡はありました。…では、その任務は今も続いているんですね』
「教えてもらっていないの?」

はきはきとしたいつもの声が返って気の毒で、敢えて尋ねると、ハイ…とトーンの低い返事があった。

『ぼくも追って行こうと思ったんですが、対象国を教えてくれないんです…。今回も今のベースで待つようにと言われました』
「あら、そうなのね」

相づちを打ちながらも、賢明な判断だとルイーゼは思った。
今回ウァドエバーに命じた任務は、些か危険なものである。
探偵卿は皆ずば抜けて個性的で癖が強く、それぞれ才能の塊のような者達ばかりだが、その中で現実的に「危険な」地域に送れる人材となると限られてくる。
推理力はあるが力がない者、武術の心得がない者もいる。
逆に、一人で一軍以上の戦闘力を持ち、どんな荒れ地に放り込んでも余程のことがない限りしれっとした顔で帰って来るゴキブリ並の生命力と強さを持つ探偵卿もいる。
ウァドエバーは、専ら後者だ。
気分屋で気難しく独自の価値観を持つが、その外見からは信じられない程、彼は強い。
ルイーゼ自身は、実際にスーツ姿の中年男が誰かを殴る蹴るしているところを見たことはないが、どんな環境に放り込んでも最終的に傷一つなく帰って来るのがウァドエバーだ。
危険な場所への任務を依頼したが、言うことを聞かせるまでがとても大変だった。
見返りは、この任務が終わった後の長期休暇取得だ。
元々権利であるから見返りというのもおかしな話なのだが、とにかく彼が要求してきた。
いつも何処へ行って何をしているのかも分からないくせに、何が長期休暇よ…と、思っているのは内緒だが。

「そういうこともあるわね。任務完了の知らせが入るまで、待ちましょう」
『ルイーゼさん。ぼく、最近、ウァドエバーさんに着いてくるなと言われることが多いんです』
「そうなの?」
『前は、たまにありましたけど…。こんなに多くはなかった気がします。それに、最近は現地合流も少なくなりました』

しゅんとした声が、通信先からかかる。
問題児ばかりの探偵卿に囲まれているルイーゼとしては、その問題児たちに振り回される助手たちは、階級を無視すれば同士のようなものだ。
ましてウァドエバーの助手なんて、周囲からも哀れみの眼差しが降り注がれるポジションだ。
今まで彼に宛がってきた何十人という辞めていった助手たちは、皆そうだった。
けれど、パイカルがよく続いていることは、もちろんルイーゼも承知している。

「今回は少し危険な場所なの。ウァドエバーちゃんは、パイカルちゃんを危険な場所に連れて行きたくなかったのよ、きっと」
『それは、ぼくが足手まといだからでしょうか?』
「あらあら。そんな考えはいけないわ」

不安そうなパイカルの声に、ルイーゼは明るくその場で指を振った。

「確かに、あなたはまだ若いわ。他の何人かの探偵卿や助手ちゃんたちと同じく、武術の心得もないから危険な場所へは行けないわね。けれど、それがイコール足手まといという話ではないのよ。得策ではない、というだけ。誰にでも得意分野があるわ。現地には行っていないけれど、たまにウァドエバーちゃんから指示があるんでしょう?」
『たまに、ですけど…』
「でしょう? だからね、足手まといというわけではないの。今回のお仕事、ウァドエバーちゃんは、パイカルちゃんにお留守番を任せて、終わった時に『お帰りなさい』って言って欲しいのよ」
『おかりなさい…ですか?』
「あとは、『お疲れ様です』とかね。自分が出かけて、今使っているベースへ戻って来たいのよ。その時に誰かがいないと、寂しいでしょう?」
『はあ…』

曖昧な返事だけが返ってくる。
パイカルにはまだよく飲み込めていないらしい。
尊敬はしているが、それとは別にウァドエバーにそんな感情があるかどうか怪しんでいるのかもしれない。
恐らく、ウァドエバーにそんな感情はない。
自分で言っておいてなんだが、ルイーゼはそう思っている。
寂しいなんて感情は、彼にはないだろう。今のところは。
だが、この手のことにはわかりやすさと方便、そして多少の綺麗な嘘というエッセンスが必要だ。

「何か連絡があれば、わたしからもパイカルちゃんに連絡するわ。予定ではそろそろ任務も完了するはずだから」
『はい。宜しくお願いします』
「ええ。…でも、わたしよりもまずあなたの方に連絡が行くかもしれないわね。そうしたら、わたしへ連絡をちょうだい。それじゃあ、また」

 

 

 

 

ウァドエバーは、ルイーゼからの通信に出ない。
しかし、何度も何度も無視をしていると、最終的に彼女はアンゲルスが創った人工知能であるマガに頼む。
そうなると、マガから唇アイコン付きの脅迫メッセージが届くか、若しくはスマホやタブレットの機能を完全に乗っ取り、通話状態にもしていないのにスピーカーから一方的に声が届く。
あらゆる電気機器をショートされたくはないし、何なら空からミサイルを撃ち込まれたくないウァドエバーは、仕方なしに脅迫メッセージを読んだ後にかかってきたルイーゼからの通信に出た。
気配を押さえ、忙しなく歩きながら、片耳にかけるワイヤレスイヤホンで通信する。

「………何か用ですか」
『通信に出るときは、まずは挨拶!』

開口一番に注意され、ウァドエバーは思い切り顔を顰めた。
今すぐにでも通信を切ろうとする指先を何とか我慢して、目を伏せる。

「こんばんは、ルイーゼ。何か用ですか?」
『あら、今"こんばんは"の地域にいるのね?』
「何か用ですかと聞いているんです」

最短時間で切りたいのに、話が全く進まない。
苛々しながら語気を強めて言うと、ルイーゼが通信の向こうで小さく息を吐いた。

『やあね、そうカリカリしないで頂戴。お久し振りじゃないの』
「そんな雑談をするために連絡をしたわけではないでしょう。用がないのなら切りますよ。任務のことでしたらご心配なく。丁度今、終わったところです。跡形もなくね」
『跡形もなくしろなんて、言っていないわよ』
「犯罪の証拠であるデータは手に入れました。後で送ります」

ルイーゼの言葉には応えず、冷たく言い放つウァドエバー。
あとはICPOが乗り込めばいいだけだ。そこは勝手にやればいい。これ以上の面倒は見きれない。
もっとも、いざ警察隊を派遣したところで、そのアジトは既に破壊され人の影もないわけだが。
ルイーゼはそれを察したのか、数秒の間があった。
デスクに片肘を着いて、首を振っている様子が想像できる。
やがて、まるで一矢射るように、意地悪そうな声で言った。

『…あなた、またパイカルちゃんにお留守番させているでしょう』
「何か問題でも?」

確かに、今ベースとしている場所へパイカルは置いてきた。
ウァドエバーが今居る場所とは、国も違う。隣国というわけでもない。
困るのよね、とルイーゼが続ける。

『あなたも知ってるでしょう? パイカルちゃんは将来の探偵卿候補なの。きっととても優秀になるわ。助手である彼らにとっては、今の探偵卿のお仕事を傍で見て、経験を積むこともまたお仕事なのよ。あんまり放置されると困っちゃうの』
「あれが使いものになるのは随分先の話だと思いますがね」
『あらそう? けど、一度でも彼を探偵卿に推薦した人の台詞じゃないわよね、それ』
「人数が欠けては困るだろうと思いましてね。最も手近な者を推しておけばそれらしいでしょう?」
『ねえ、ウァドエバーちゃん…。彼は素直にあなたを尊敬しているわ。あなたにとっても可愛い助手だと思うのよ、パイカルちゃんは。一人前になるために、色々教えてあげてほしいの』

まるで問題児を諭す先生のような発言に、ウァドエバーは複雑な気持ちになる。
子どもたちには子どもたちの、先生には見えない世界があり、人間関係があるものだ。
ましてウァドエバーは無論大人であるし、実年齢は不明だが恐らくルイーゼより長く生きている。
無理矢理寄こされた助手のパイカルのことも、少なくともルイーゼよりは自分の方が把握しているはずだ。外から理解者ぶられても困る。
しかしそんな感情論をぶつけるのも癪なので、仕方がないので目を伏せ、ため息を吐いてから白状した。

「……。3回」
『…? 何の数字かしら?』

突然の数字に、通信の向こうでルイーゼが疑問を浮かべる。

「無能な助手が狙われた回数ですよ。ケニアから戻ってからというもの、どうもわたしを黙らせるには助手を捕らえるのが上策だという噂が、一時的に裏に広がっているようです」

忌々しそうにウァドエバーが吐き捨てる。
ケニアから戻って以降、複数の組織からパイカルが狙われることがあった。
ただのチンピラの時もあったが、なかなか大きい組織の一派の時もあった。
元々犯罪者であったウァドエバーは、今でも裏の世界では有名だ。
何も積極的に犯罪組織を潰して歩いているわけではないが、ルイーゼから任務が与えられ、その対象となる犯罪が美しくなく、自身の美学に反する場合は任務を遂行する。
それ以外にも、向こうから喧嘩を売ってきた場合や邪魔な相手は容赦なく潰してきている為、多くの犯罪組織や単独犯からの怨みは買っているのだが、そんなのは今までもずっと続いてきた些細な話だ。
最近の問題は、それらの矛先が、助手のパイカルに向き始めた点にある。
今までウァドエバーの傍にいる歴代の助手たちは雑魚扱いで、彼らに見向きもされてこなかった。
ころころ変わるし、ウァドエバーが情を見せることもなかった。
ただの使い捨ての部下であろうと思われていたらしく、パイカルにも今まで危険が及ぶことは全くなかったのだが、どうやら、ウァドエバーがパイカルを助ける為に自分の計画を変更したり、反射的とはいえ身を挺して庇ってしまったところを、誰かが目撃したか話を流したかしたらしい。
これが、ウァドエバーにとってはひたすらに厄介だった。

『なるほど…。ねえ。それってパイカルちゃんには…』
「言ってませんよ。必要がないでしょう。無能な助手はそのことにはまだ気付いていませんからね。気付いたところで彼が何か出来るわけじゃない。気付かれる前に全て葬っ――…失礼。"お帰りいただいて"ますからね」
『…今のは聞こえなかったわ。電波がちょっと悪いみたいね』
「そうですか」

は…と軽く鼻で嗤って、ウァドエバーが皮肉気に顔を歪める。
任務直前にパイカルを狙った組織の一グループを、徹底的に葬った。
ブラック・クイーンの能力を使う時は<怪盗の美学>として殺人はしないが、ウァドエバーとして動く時はその制限はない。
生き残りはいないはずだから、組織内の他グループからは忽然と姿を消したように見えるだろう。
しかし、そのグループが何をやろうとしていたかくらいの痕跡は残っているから、何をやろうとして全員が跡形も無く消えたのかさえ分かってくれれば、ひとまず、今すぐにパイカルに手出しをしようとする輩はいないだろう。
しかし、いずれはどうせまた出てくる。
美しくない悪とは、総じて浅はかで似たような手法を繰り返す。
だからそれまでに今の任務を完了させ、パイカルのいるベースへ戻らねばならない。
治安の良い街中のホテルや高級住宅地などにベースを設け、常に人目があるような場所へ放置してやっているが、長時間は空けていられない。何故なら、襲われたが最後、彼の無能な助手は体術どころか、受け身も運動もからきしだからだ。
仕事自体は訳ない。問題は任務にかかる移動だ。
世界規模で国を股にかけて仕事をしている探偵卿としては、最速で終わらせる仕事自体よりも、行って帰っての移動時間の方がかかる。
今も、彼のいる場所は南半球にある異国の飛行場だ。人工的な灯りは少なく、そのため素晴らしく星空が美しい。
空港ではない。施設は充実しているとは言い難い。
だが、飛行機が飛び立てる場所ならまだマシな方だ。場所によっては鉄道で何時間もかかる時もあるし、船の時もある。ラクダや牛なんて動物で移動する地域もある。
プライベートで持っている飛行機が離着できるなら、何処へでもそれで行くだろう。
しかし、そうでない場所も多い。

『傍に付けていた方が、逆に安全なんじゃない?』
「まさか。邪魔なだけですよ」

ウァドエバーが吐き捨てる。
確かに、ルイーゼが言うようにパイカルを連れて回った方が「安全を確保する」という意味ではいいだろう。
目の届く所に置いておけば、誰かに狙われたところで自分がいる限り全く脅威ではないし、傷一つ付けない自信がある。
だが、そうなるとケニアの時のようにまた咄嗟に動きが制限される可能性が高い。
それを見てまた噂が広まるのも面倒だ。
五十歩百歩の気はするのだが、ウァドエバー的には「荒れそうな場所には助手を連れて行かない」のが一番だという結論が出た。

「全く迷惑な話です。助手を人質に取ったところで、何だと言うのだ。それをカードにわたしを脅す気だというのなら、嗤わせる。代わりなどいくらでもいるし、寧ろ助手など必要ない」
『あら。それなら、いっそ危険な場所へ連れて行って、パイカルちゃんを置いて来ちゃえばいいんじゃないの? 或いは、誘拐されてしまっても助けない、とか』
「できることならそうしたいものですな」

さらりと言うルイーゼに、さらりと返す。

「ですが今、彼は名目上わたしの助手だ。わたしの管理下のものを他人にどうこうされるのは、気分が悪い」
『あらまあ。大変ねえ』

電波の向こうで深々と吐かれたため息には、何故か少しばかり柔らかさが入っていた。

『そんな時こそ、仲間に頼ってほしいものだわ。パイカルちゃんに護衛を送りましょう』
「法なんてものを守る一介の警察に何ができるのか、甚だ疑問ですね。使いものになるわけがないでしょう」
『けど、資金にものを言わせた装備と国際権力を振りかざせるわ。…まあ、それもその気になればあなたは手に入るのでしょうけど、唯一持っていないのは、"人手"ね。人数は大切よ。平和を守るうえでも、争いをするうえでも』
「数の暴力、ですか…。全く美しくない」
『でもいないよりマシだわ。…ねえ、ウァドエバーちゃん。あなたの考えも分かるわ。でもね、パイカルちゃんはどうも最近不安がっているみたいよ』
「不安? 命を狙われていることに気付いたということですか?」
『いいえ。あなたが前ほど連れて出歩かなくなったから、自分が足手まといだということに気づき始めたみたいね。留守を任せるとか言っているみたいだけれど、それも連続しちゃえばねえ…』
「…」
『賢い子だから、最も手近でシンプル且つネガティブな解決策を見つけなきゃいいけれど』

うふふ、とルイーゼが笑う。
何も面白くない。ウァドエバーは眉を寄せた。
得体の知れない不愉快が胸を埋める。
「足手まとい」と、確かにあちこちには言っている。クイーンにも言ったし、ルイーゼにも言った。
だが、本人に伝えたことはない。
「最も手近でシンプル且つネガティブな解決策」。簡単だ。誰もがまずは行き着く。
「自分は邪魔かもしれない」から始まり、「自分がいなくなればいい」という、解決方法だ。
フン…と、ウァドエバーは鼻で嗤う。

「無能な助手の考えることは、わたしには分かりかねますが…。まあ、人生をどうするか、選ぶのは本人だ。わたしには関係ない話ですね」
『せめて連絡くらいはマメに入れてあげたら? あなたの声を聞くだけで、安心すると思うわよ。一番いいのは、会う機会を増やしてあげることだけど』
「ご用件は終わりですか?」
『そうね、大体は』
「では」
「電話を切る時は挨拶をしてから!」
「はいはい…」
「はいは一回!」

ブツリと通話を切る。
掌のスマホを見下ろし、再び深々とため息を吐いた。
…それから、アドレスを呼び出す。
何故自分が…。そう思いながらも指が通話ボタンを押す。
コールが二回も鳴らないうちに、慌てた様子で、しかしそれを隠そうとしている声で、通話相手が出る。

『はい、パイカルです』
「わたしだ」
『お疲れ様です』

はっきりとパイカルが挨拶する。
通話に出た直後は声に乱れがあったが、一秒に充たない間にそれは消え失せた。
声には特にこれといった感情の抑揚もなく、年齢の割に落ち着いているいつもの平淡な声だ。
ルイーゼと不安がどうのというやりとりがあったのか疑問を感じる。ひょっとしたら、全て彼女の作り話で、また上手く乗せられた可能性もある…などと考えながら、ウァドエバーは冷ややかに言い放った。

「任務が完了したのでこのままICPOのオフィスに戻る。暫くは報告書をまとめることになるだろう。移す荷物は最低限のものでいい。優先順位の高いと思われるものから、わたしときみのスーツケースに詰めて持って来るように。ついでに、きみもオフィスへ移動しておきたまえ」
『はい!』
「…」

最後の返事だけ特別に溌剌としており、思わずウァドエバーは足を止めた。
用件は終わった。
いつも通話を切るのは自分からなので、習慣としてあっさりと指が通話を終了させたが、微かな驚きの余韻が残る。
やがて、小さく息を吐いた。
ルイーゼとの通話の後に吐いたため息とは随分種類が違うということに、恐らく本人は気づきはしないのだろう。


管理主義者による安全上仕方のない帰還




地球のほぼ反対側の現地から約20時間かけてICPOのビルに向かい、ウァドエバーが久し振りに自分のオフィスのドアを開けると、既に中にはパイカルがいた。
元々アジアとヨーロッパの間にいた彼の方が、オフィスへは早く着いたらしい。
かなり長い間留守にしており、しかも留守中に絶対に他人を中に入れないウァドエバーのオフィスだったが、きっと来てから掃除をしたのだろう。床にホコリはなく、空気も淀んでいない。
ブラインドは適度に角度を考えて開いており、デスクや応接テーブルは物が少なく整理されていて、綺麗に拭かれていた。
自分のデスクに座ってタブレットを弄っていた彼は、現れた上司にすぐさま立ち上がり、体の向きを彼へと変えると素早く敬礼した。

「お帰りなさい、ウァドエバーさん。任務お疲れ様です」
「…」

無言で室内へ入り、つかつかとパイカルの傍へ行くと、ウァドエバーは上着も脱がないうちからいきなりパイカルの片頬をつねった。

「わたしの万年筆が出ていない」
「ふふぃふぁふぇん!」
「まさか置いてきてはいないだろうな」
「ふぃふぇ、ふぉっふぇふぃふぇふぁふ」

つねられながらも何とか答えるパイカルに渋い顔をしたまま、ウァドエバーが指を離す。
彼がそのまま脇を通過して上着をクローゼットへ掛けている間に、パイカルはつねられた頬を撫でながらも、上司のデスクの引き出しにしまっていた万年筆を取り出すと、デスク上のペン立てに置いた。
満足してウァドエバーが席に着くと、パイカルも少し離れた場所にある助手用のデスクへ戻って、静かに腰掛けた。

「わたしの留守中、何か変わったことがあったかね」
「何度かルイーゼさんから連絡が入りました」
「彼女のことはいい。他には?」
「特にありません」
「待機中のきみの感想でもいい」

パイカルが小首を傾げる。
変な質問だ。今まで聞かれたことはない。
今更、特別に告げる留守中の感想なんて、ない。
ウァドエバーがパイカルを置いていくことは多々ある。
最近はそれが多くて不安を感じてもいたが、感じた矢先にウァドエバーから連絡が入ったりもして、それも気のせいなのだろうと理解した。
例えばこれが友人からの質問だったら、気楽に愚痴のようなものを言えただろうが、まさか上司本人に「現場に連れて行ってほしかったです」などと言えるわけがない。
それに、それが道徳的に良いか悪いかは別として、ウァドエバーが判断力のある大人であることをパイカルは分かっている。
自分を連れて行かない任務は、自分を連れて行く理由がないか、若しくはルイーゼの言う通り危険が多い任務なのだろう。
そう思えるからこそ、大人しく待機をしているのだ。
ウァドエバーの力になりたいし色々と学びたいが、ウァドエバーの荷物にはなりたくない。
パイカルはさっきと同じように淡々と答えた。

「特にありません」
「…そうか」

どことなく渋い顔をして、ウァドエバーが頷く。
質問の真意が分からないまま、パイカルはウァドエバーから今回の任務の内容を記した手帳を渡された。
勿論、死者や怪我人など出していない、取り繕ってある内容の手帳だが。

「報告書の原案を作成するように」
「はい」

デジタルは容易に侵入も改竄も可能だからと、手書き主義のウァドエバーへの書類は、パイカルも全て手書きだ。
また腱鞘炎になるかもしれない。
けれど、ウァドエバーが行った任務の経緯を辿ってまとめていくのは、面白い。
まるで一緒に任務に就いていたような気持ちになるので、パイカルにとっては好きとは言えないが嫌いともいえない。
素直に黙々と目を通し始める助手の姿を一瞥してから、ウァドエバーが足を組んでイスを回し、窓の方を向いた。
久し振りに戻って来たオフィスからの景色は、彼のオフィスがある階の関係上、いくつかの高層ビル以外は空ばかりが見える。
最近は忙しなかったこともあるだろう。
ふ…と気が緩むような感覚を得て、ウァドエバーは自分がリラックス状態にあることに気付いた。
割り当てられてはいるものの、殆どいないこのオフィスに愛着はない。
要因といえば、安全のために距離を取ったり時間を気にしていたりと気を回してやっていた助手が、すぐそこにいることかもしれない。
苦い結論に至り、ウァドエバーは眉間に皺を寄せ、腕を組んだ右手で眼鏡のブリッジを軽く持ち上げた。

「……やはり、目の届く場所に置いておいた方が楽か」
「何か言いましたか?」

ウァドエバーの呟きに、メモを取りながら黙読していたパイカルが、手帳から顔を上げて上司の背中を不思議そうに見る。

「余計なことは気にせず仕事に集中したまえ」
「失礼しました」

冷ややかな言葉に、背筋を伸ばして敬礼し、パイカルは今度こそ手元の資料に集中することにした。
本来なら、ウァドエバーが戻って来たことを聞いて内線や通信が入りまくるものだが、それではパイカルが煩わしいだろうと、オフィス内の電話回線をPC上で操作したり、妨害電波を発生させて外部からのコンタクトを遮断した。
長い間無言のオフィス内も、本人たちにとってはうるさい他者のいない、静かでとても心地好いものだ。
やがて、定時を知らせるベルが鳴る。
当然パイカルの仕事はまだ終わらないが、その音でふと彼は一旦集中を切って顔を上げた。

「…? 今日、内線が鳴りませんね」
「そうだな」

ウァドエバーがいるのに内線が鳴らないなんて、あるわけがない。
敢えて言わないでいるようだが、パイカルにも察しは付いているだろう。
静かに過ごしたい時、ウァドエバーが外部からの通信を遮断するのはいつものことだ。

「わたしのところになど、かける用はないのだろう」
「そんなことはないと思いますが…。現に、僕が先にここへ戻ってきて挨拶した時、ルイーゼさんもいらっしゃった皆さんも、僕が来たならウァドエバーさんもオフィスに来るのか、ってとても気にしていました」
「ふん。厄介者が来ると思っているんだろう」
「ウァドエバーさんは必要最低限であまり人前に出ませんから、皆さん姿を見るだけで安心するんじゃないでしょうか。ぼくもそうですから」
「きみも?」
「え? はい」
「ふむ…。だが、連絡は入れているだろう」
「この間、マガさんがウァドエバーさんの真似をして電話をかけてきたことがありました。始めのほんの数秒で、彼女にしてみれば冗談交じりの挨拶だったんでしょうが、僕は本当にウァドエバーさんだと思いました。あれ以降、ぼくは通信だけのコンタクトに不安を覚えています」

初耳だ。
ウァドエバーは眉間に皺を寄せた。
マガとしては軽い冗談だったのだろうが、自分が知らない間に助手に変な懐疑心を植え付けないでもらいたい。

「確かに、声を似せたり回線を乗っ取り、本人のように振る舞うことは比較的簡単だ。長期的に電話連絡だけでは、時間が経過すると共に信用性が欠けるかもしれんな」
「直接会うのが確実ではあると思います。ぼくは長い間ウァドエバーさんに会わないこともありますが、それが長ければ長い程、やっぱりちょっと不安になってきます」

何の裏表もなく、素直にパイカルが言う。
ウァドエバーが分かりやすく不愉快顔をつくってみせた。

「それは一体、何に対する不安だ?」
「えっと…」

問われて、パイカルは首を捻る。
頭脳派としても武闘派としても、ウァドエバーは探偵卿の中で引けを取らない。
普通の犯罪者程度なら、束でかかってこようが話にならないということは、パイカル自身もよく分かっている。
改めて問われれば、会わない時間が長くなればなるほど生じる、もやもやとしたあの不安は一体何なのだろう。

「わたしがその辺の連中にやられるとでも? 不愉快な話だ」

上司の不機嫌を本気にして、パイカルが自分の失言に気付き、「すみません…」と反省するように謝る。
ウァドエバーは足を組み直し、イスの背もたれに体を預けた。
肘掛けに両腕をかけ、指先で秒針に合わせるように肘掛けを叩いていたが、少しの間何かを考え、話題を変えた。

「…ところで、せっかくインターポールへ戻ってきたのだから、今夜はワインとエスカルゴでも味わいたいものだな。近くにある店を、休憩の合間にでも調査してくれ」

果たしてそれは休憩だろうか?……とか思いながらも、パイカルがすぐに反応する。

「それならルイーゼさんに聞いたことがあります。駅前の方ですが、割と近いはずですよ。彼女はフランス人ですから、国内で勧める店はよほど自信があり、美味しい可能性が高いです」
「では案内したまえ。予定時刻は二十時にしよう」
「八時ですか?」

パイカルが腕時計を見る。
作業量的には、なかなかシビアだと思う。返事を迷う。
しかし、ウァドエバーは彼よりいっそう緻密に計算ができ、今までの経験と助手の能力を鑑みて、数分の余裕を持ってぎりぎり終わる時間であることが分かっている。

「…間に合うように、頑張ります」
「弱音は聞きたくない。間に合わせるんだ」
「はい!」

自信なさげに言って、パイカルが気合いを入れて仕事を再開する。
イスを回して助手へ背を向け、ウァドエバーは窓の向こうを見た。もうすっかり夜景だ。

 

ICPOのオフィスなら、安全性は十分だ。
報告書だけを仕上げたら、今度はここにパイカルを置いてあと一件ほど危険度の高い任務をクリアしようと思っていたが、気が変わった。
たまにはデスクワークも片付けないといけない。
Mからの指令にも飽きてきた。正規の指令しか出しにくいオフィス内にいれば、いくらかは気休めになる。
暫くはオフィスにいてやろう、とウァドエバーは思った。



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探偵卿と可愛い助手君。
パイカル君を狙っちゃった日には確実に消される…。
2020.2.6





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