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やってきた2月14日。
パイカルは、久し振りに朝からうきうきと心が弾んでいた。
…いや、どきどきと、の方が相応しいかもしれない。それとも、わくわくと、だろうか。
とにかく、平素よりはいくらか高揚していた。
しかしそれを表に出さないように、相変わらず気配が薄くどこか詰まらなそうな表情でデスクワークをしているウァドエバーとオフィスで一日を過ごした。
電話を取り次いだり次がなかったり、メールを仕分け、オフィスの物品を補充し、時間をかけて手書きで報告書を書き、ウァドエバーは不要と言い張るが一応旅費の計算をして先の任務にかかった費用を計算して後学の資料とし、ルイーゼから届く任務をウァドエバーの興味を惹くであろう順番にそれとなく種類別に分けると同時に概要を把握しておく。
そうこうしているうちに、終業のベルは五分前に鳴った。

「三十分程、残業をしてもいいですか?」
「構わないが、就業時間内に終わるように調整したまえ。自分の力量を客観的に把握できていないと、いざという時に痛い目を見るぞ」
「気を付けます」

オフィスで仕事をしている時、ウァドエバーはパイカルより先に帰宅しない。
一緒に部屋を出ることはあるし、朝は自分の方が早い時がある。また、「オフィスで待機」と命じられてウァドエバーが単身で何処かへ向かってしまった時は勿論閉めるが、ウァドエバーと共にオフィスにいる時、パイカルは渡されている鍵で錠をかけたことはない。
これは偶然ではなく、理由があってそうさせないのだろう。
つまり、パイカルがいる間は、ウァドエバーも帰らない。
本気で残業を取るつもりなど、パイカルにはない。ほんの少し、足を止めて欲しいだけだ。
職務時間内に個人的でプライベートな行動を持ち込む程、パイカルは非常識ではない。
ここで自分がリラックスを求めてお茶を淹れる。
自分が飲む飲み物は何でもいいが、ウァドエバーには濃いめのエスプレッソを淹れた。少しでもチョコレートに合うものを淹れ、彼が手に取る確率を上げたい。
思い出した風を装って、引き出しから小さな長方形の小箱を取り出した。

「ウァドエバーさん。よかったら、お一つどうぞ。一緒に食べませんか?」

上司へ、パイカルがチョコレートの小箱を開く。
中には4つのチョコが、品良く縦列に並んでいる。
それぞれ同じ立方体の小さなチョコだ。
十五歳の少年が選ぶものにしては、洗練されている。
ウァドエバーはそれらを一瞥し、一度目を伏せた。
次に乾いた瞳を眼鏡の奥で開けると、彼は優雅に足を組み、その上に両手を重ねる。

「悪くないセンスだ」
「先日、ルイーゼさんオススメのショコラ店の前を通ったので、買ってみました」
「ふむ…。ところで、話は変わるがパイカルくん。人には、視線の方向というものがある。知っているね」

ウァドエバーは、自分のデスクの片隅にある一冊のファイルを手に取った。
そのファイル自体が重要ではなく、そこに収まっている文字列の向きを指でなぞる。

「目を惹くワンポイントがあればまた違うが、通常、人に白紙を見せた場合、紙の縦横のサイズが重要になってくる。だが正方形の白紙を見せた場合は、日常使用している文字が横書きなら、その人間は使用する文字の向きに動く。大凡の文字は左から右だが、右から左の文字もある。…だが、」

ファイルを元の場所へ戻し、掌でパイカルの持つ箱を示すウァドエバー。

「縦にすれば話は別だ。認識は揃う。上から下へ、だ。…きみは今、箱を縦にしてわたしに差し出したが、よく見ればこの箱は横長が正しいようだな」
「…」
「それから、きみは先程"お一つ"と言ったね。いい誘導だ」

パイカルの首筋をひやりとした冷気が撫でる。
さっきまでうきうきどきどきと弾んでいた心が、す…っと落ち着く。
今、白状すべきか。…いや、中途半端に白状する方が、美しくない。堂々としているべきだ。
ウァドエバーが続ける。

「例えば、味や見た目が違うというのなら話は別だが、こうして見た目も同じものが上から下へ4つ並んでいる時、人は基本的に端を取る。最も多いのは一番上だ。次に、最もわたしに近い一番下。だが、わたしは違う。取るとしたら……ここだ」

下から二番目を指差すウァドエバー。
パイカルは黙ってそれを見ている。

「わたしは疑り深い人間だ。選びやすい選択肢は採らない。縦4つのものから一つを選び取れと言われたら、下から二番目を取るだろう……ということを、きみはよく知っている。そして、"きみがよく知っているということを、わたしもまたよく知っている"――ということも、きみはよく知っている」

ウァドエバーは言いながら指先を上へ移動させ、下から二番目から一番上のチョコレートへ移すと、それを指先で取った。
にこりと、実に紳士的な笑みで微笑する。

「わたしは後でいただこう。パイカルくん、どうやらきみが食べた方がいいな。適度な休息と甘味は、時間外職務の効率をあげるだろう」
「…」

そうして、指先で取ったチョコをパイカルの口元へ差し出す。
パイカルはちらりとウァドエバーを見上げたが、有無を言わさぬ笑みに、再び目の前のチョコへ視線を移した。

「どうした? 元々、一つを先に食べてみせるつもりだったんだろう?」
「はい…」
「きみには量が多いだろう。一囓りにしなさい」

チョコは全て一口サイズだ。
それでも"量が多い"のは、こっそり含ませた薬のことを言っているのだろう。
睡眠薬だ。
成人男性の適量を、5倍にして染みこませた。
決して多くはない。ウァドエバーに効かせるつもりならば、それだって少ないはずだ。果たして気付くかどうかという量である。
分かりやすく普通の感覚に例えて言えば、塩をひとつまみ入れるようなものだ。
成人男性適量5倍は、その塩が、薄すぎるだろうか?と心配になる量なのであって、そもそもウァドエバーはこんな量で睡魔を感じることなど、まずない。
また、パイカルにも悪意はない。
何ら害がなく、ちょっとしたイタズラ、で許される量をパイカルなりに真剣に計算した結果だが、もちろん、普通の少年であるパイカルには危険極まりない量だ。
自ら、薬という名の毒を食す。
緊張からか危険警報か、どくんどくんと心音が昂ぶる。

「食べたまえ」
「…はい」

これは罰だ。
パイカルは目を瞑ると、差し出されたチョコを震える唇で一口囓った。
無味無臭の睡眠薬だ。
チョコレートの味に変化はなく美味しいはずだが、舌上に膜が張ったような舌触り以外は、緊張のためか味を感じない。
高級なチョコは口の中で瞬く間に解け、後味に多少不思議な風味を感じた気がしたが、それが本来のチョコの風味なのか気のせいかどうかは分からない。
助手が片手で口を押さえてつつも素直に食べたのを見届けて、ウァドエバーは笑むのを止めてパイカルの手から小箱を取ると、デスクに置いた。

「たまにはこんなゲームもいいだろう。だが、実弾のありかが判りきっているロシアンルーレットなど、面白味も何もない。くだらないことに時間を割く暇があったら、もっと有意義なことに使うんだな」
「すみません。気晴らしになるかと思いました」

冷たい声に、パイカルが何とか応える。
少しずつ、頭がくらくらしてきた。片手で頭を押さえる。

「きみにこんな入れ知恵をしたのは、どこのどいつだ?」
「仙太郎さんです。今日は、バレンタインなので……」
「バレンタイン?」

ウァドエバーが、デスク上のカレンダーを見る。
2月14日。
ヨーロッパでは専ら愛の日で、妻か恋人の類がいない者にとっては平日だ。
だが、日本人探偵卿である仙太郎の名前が出て来たことで、ウァドエバーは全てを察した。
八方美人と優柔不断を義理と人情などという美称に変える、日本人らしい歪曲したオリジナルイベントには辟易する。

「日本のバレンタインは…日頃のお礼に、職場の上司に…チョコを……。どうせなら、ちょっとした…ゲーム性を…もた――…」

頭の中に片手を突っ込まれ、ぐるりと混ぜられたような強烈な睡魔がパイカルを襲う。
瞼が重い。気持ちが悪くなるくらいに眠い。
立っているのもつらくなり、せめて応接セットのソファへ移動する許可を得たかったが、もうそれを伝えることも難しい。

「ウァドエバーさ…。ぼく、少し…休憩を…いただ――…」

限界のようだ。
そこでぐらりとパイカルの体が傾く。
膝からがくりと崩れるその体が冷たい床に落ちる前に、ウァドエバーは細腕を引いた。
自分の方へ倒れ込んだ助手の体重を掴んだ片腕で支え、そのままずるずると安定させて沈ませていく。
両膝から下と尻を床に着け、足を組むのを止めたウァドエバーの膝に頭を預けるような形でパイカルは意識を失った。
最後に持っていた彼の片腕を放り落とせば、膝の上に頭を預けて眠っている少年のできあがりだ。
ウァドエバーは忌々しそうに舌打ちをする。
食してもいないのに、頭痛がしてきた。
気晴らしにと、デスクに置いたチョコのうち、パイカルが囓った睡眠薬入りのものを躊躇いなく指で抓んで口へ放り込む。
どんなものかと思ったら、彼にしてみれば全く微々たる量だった。
パイカルの正確な計算通り、それはウァドエバーが気付くか気付かないかという量だ。
助手が「ゲームをしましょう」という姿勢で自分に挑んできたことに関しては、いい暇つぶしにもなりなかなか愉快にも感じもするが、入れ知恵元が仙太郎ということがウァドエバーの気に入らない。
また自分の知らないタイミングで、くだらない連中に、くだらない俗な話題を与えられている。

「まったく…。あの日本人はろくな事をしない」

薄い愛を振りまく日本のバレンタインなど、自分の助手には不必要だとウァドエバーは考えている。
世の中に要らぬ知識はないが、要らぬ習慣は山程ある。
変人が多い探偵卿の中では下手に会話が成り立つから、パイカルは花菱仙太郎と会話をする機会が比較的多い。
どうやら、仙太郎がいる間は、オフィスから離れる方が得策のようだ。
ウァドエバーは助手を膝に寝かせたまま、デスク周辺を片付けた。
その後、自分が立ち上がり、代わりに、実に質の悪い睡眠を取っているパイカルを自分のチェアへ座らせ、彼のデスクも含めてオフィスの戸締まりをし、パソコンを落とした。
いつものように上着を整え、コートを羽織り、片手に自分以外は開けられないアタッシュケースを持って、もう片腕に大きな荷物である顔色悪い助手を抱き上げる。
自分の肩に上半身を乗せるようにしてパイカルを運ぶ動作は、軽々としたものだ。
オリジナルのちょっとした罠をオフィスに仕掛け、錠をかけて部屋を出る。
表のエレベーターでは目立つため、清掃スタッフなどが使うエレベーターへ歩みを進めていたところ、ウァドエバー的には最悪のタイミングで、ルイーゼに会った。
ひらひらと、脳天気に片手を振るってくるルイーゼ。

「はぁい、ウァドエバーちゃん。お帰り?」
「どうも、ルイーゼ」
「パイカルちゃんはどうしたの? おねむなのかしら?」
「ええ。困ったものです」

パイカルが居眠りなどしない性格なのは、誰もが知っている。
飄々と肯定するウァドエバーはそのまま歩みを止めず、ルイーゼの横を通過する。
通り際、パイカルの顔色が悪いことに気付いたルイーゼは、腕を組み、ぴしりと人差し指を立てた。

「ダメよ、ウァドエバーちゃん。強引なのは紳士的ではないわ」
「同感です。無能な助手が起きている時に、あなたからも言ってやってほしいものですね」
「というか、何処へ行くつもり?」
「帰宅するだけです」
「嘘おっしゃい。今月はオフィスにいるっていうから、信じて色々とデスクワークのスケジュールを立てているのよ?」

「会議とか研修とか会議とか研修とか…」と、ルイーゼが指折り数える。

「花菱がいる間は、教育的悪影響が強いのでフィールドワークに切り替えます。奴は一見常識がある青年だが、人の懐に入り込むのが巧い。くだらない知識を無能な助手に植え付けられて困るのでね」
「何が教育的悪影響よ…。単にパイカルちゃんが仙太郎ちゃんに懐いちゃうのが嫌なんでしょう?」
「…」

その言葉に、ウァドエバーは足を止めた。
と同時に、足を止めた自分に驚いた。
それは考えもしなかったことだったが、この急所を射られたような感覚は否定できない。
核心めいていればいるほど、反射的に隠す癖がついている彼は、今止めてしまった足が不自然にならないように、にこやかに嗤ってルイーゼを振り返った。
徐に、ポケットからチョコレートの小箱を取り出す。

「面白いジョークを言うあなたに、チョコのプレゼントです。あいにく一つ欠けていますが、あなたのお好きな店だと聞きました」
「あら、ホント。ありがとう。美味しいのよ、このお店」
「言っておきますが、断じて――」
「バレンタインとは関係ないのよね分かってるわ」

半眼で、呆れた笑みを見せるルイーゼ。
それでも、箱に刻印されている店名を見て、彼女は嬉しそうに中を確かめようとする。
赤子と獣を大人しくさせるには、口に餌を放り込んでやればいい。人もまた獣だ。
さっそく蓋を開ける彼女へ背を向けると、再び声が飛んできた。

「ああ、そうそう。仙太郎ちゃんは、今夜もう日本へ行っちゃったわよ。もし彼と距離を置きたいのなら、反対側にあるブラジルなんてどうかしら? ちょうどねえ、そっち方面に困ったお仕事が一件あるのよ~」
「…」

ウァドエバーが肩越しに振り返る。
にこにこチョコを抓んでいるルイーゼがいた。バチリと視線が絡み合う。
<伏兵>ルイーゼ――この女は本当に厄介だ、とウァドエバーはいつか彼女を始末する機会を得ることを夢見る。

「仕事の用件でしたら、まずは助手へどうぞ」
「ええ。そうするわ」

ウァドエバーは、今度こそ背後を振り返らずに業務用エレベーターを目指した。
彼の背中を見守りながら、ルイーゼは抓んだチョコを、ぽいと口に放り込む。
まろやかな口当たりの高級チョコと南アメリカの難事件解決の見通しが立ち、彼女は機嫌良く自分のオフィスへと歩を進めた。

 

 

 

パイカルが最悪な眠りから覚めると、場所は飛行機の中だった。
頭が重い。瞼が腫れぼったい。全身が怠い。
それでも視線を周囲にさっと走らせる。見慣れたシートは、何度か利用したことのある航空会社のファーストクラスのものだ。
軽く目を擦りながらも、自分が何故こんな場所にいるのかを瞬時に考える。
爆睡した理由を思い出し、ばっと体をシートから浮かせ、通路側である隣を見た。
ウァドエバーが、何事もなかったかのようにマイナー言語の小説を読んでいる。
上司の姿が傍にあることを見て無条件にほっとし、パイカルはシートへ座り直した。

「すみません。眠っていました」
「随分疲れていたようだな」

オフィス内で日常的に使っているフランス語に対して、ポルトガル語でウァドエバーが返してくる。
どうやら、なかったことにしてくれるようだ。
ゲームには負けてしまったが、パイカルは満足感を得た。
何だか、時間を取ってテーブルゲームで一緒に遊んでもらった後のような気持ちだ。
それはそうと、何故ポルトガル語なのだろうと思いつつ、反射的にまた周囲を探る。
彼が尋ねる前に、ウァドエバーは引き続きポルトガル語で疑問に答えた。

「南アメリカへ移動している。どうもそちらに仕事があるようでね。落ち着いたらルイーゼからの連絡を確認したまえ。どうせ君のIDに入っているだろう。それと、きみに一つ言っておくが、適量5倍程度では、薄すぎてわたしには察することも難しかったな」

食べたんだ…と、パイカルは驚いた。
そして、やはり薄かったようだ。
ウァドエバーが片手を挙げ、傍に来たアテンダントに何事か告げる。
彼女は一度立ち去り、すぐにプラスチックグラスに入ったジュースと、銀の皿に載った二粒のチョコレートを持ってきて、パイカルの前に置いた。
ポルトガル語でお礼を言いつつも、パイカルの頬を冷たい汗が流れる。

「日本のバレンタインは、部下にもチョコレートをプレゼントすることがあるらしいと、花菱は言っていなかったか?」
「…。不思議な国ですね」

微笑むウァドエバー。この上なく胡散臭い。
会話をポルトガル語に切り替えたパイカルが、お礼を言いながらもチョコではなくジュースのグラスを両手に取る。
たぶん普通のチョコなのだということは分かるが、オフィスで食べた直後の気持ち悪さを思い出して手が伸びない。

「次は10倍にするんだな。…もっとも、仮に10倍だとしたたら、今回のケースではきみの生死に関わったかもしれんがね」

小説から視線を外さずに言うウァドエバー。
確かに、10倍の量を入れていたらパイカルは今頃目を覚まさなかったかもしれない。

「まあ、食べたは食べたからな。礼は言っておこうか」

ウァドエバーのその一言だけでも、パイカルは贈ってよかったと思った。
他の三個全てをウァドエバーが食べたとは思えないが、"薄すぎた"というのなら、少なくとも一個は食べたのだろうと判断する。
だが、ウァドエバーはやはりチョコレートは好まないようだ。そもそも甘い物を好き好んで食べているところを見かけない。
もし来年も何か贈るとしたら、好まないお菓子よりも、普通に赤い薔薇を一輪贈った方がよさそうだ…と、パイカルは思った。
日本の文化だと知らない人から見れば、店先で薔薇を買えば、まるでぼくが好きな人に贈るように見えるんだろうと予想したところで可笑しくなって、声には出さずに小さく微笑む。
端から見れば常に沈着冷静な助手の表情が、それでもどこか楽しげに見えて、ふとウァドエバーは思い至る。
わざわざ、バレンタインに贈り物をしてきたのだ。
日本には、やけに重要なライフプロセスの一つとして、"返礼"という習慣がある。
律儀なことに、バレンタインの一ヶ月にも、しっかりとそれがイベントとして用意されている。
この助手が、知識と経験以外の何かを欲しがっているところを今まで見たこともないし何か物を求められたこともなかったが、ひょっとすると、何か欲しいものでもあるのかもしれない。
得たいものがあり、その入手方法として先に返礼品必須の日本の妙なイベントを利用した。
そうであれば、ウァドエバーにとっては、話はずっと分かりやすい。
ふむ…と隣の助手を見下ろす。
この少年は、自分の上司が莫大な資金をいくらでも入手できることを知っている。
それでもこんな回りくどいルートを用意するのであれば、相当に高価なものか、それとも希少なものか…。
だとしたら、暇つぶしに入手してやるのも吝かではない。

「日本風のバレンタインか…。きみは、ホワイトデーに、何か欲しい物でもあるのかね?」
「…? 何ですか、ホワイトデーって」
「…」

違うらしい。
なら、例え睡眠薬を含ませてゲーム性を持たせてみたとしても、パイカルは本気で「日本のバレンタイン」に参加するつもりで、日頃の礼にと、見返りなくチョコレートを贈ってきたというわけだ。
馬鹿馬鹿しくなって、ウァドエバーは再び小説へ視線を移した。
隣では、早速タブレットでパイカルが「ホワイトデー」を検索し始めた。

 


日本風の愛を込めて その3




「ホワイトデーのお返しは結構です」ときちんと断ったが、一ヶ月後の3月14日、まるで嫌がらせのように、パイカルはプレゼントした高級チョコレートの500倍はするであろう、まだ市場に出回っていない新種の白薔薇の大きな花束を返されてしまった。
それは明らかに十代の少年が持つものとして不相応で、公道を歩く時も、戻って来たICPOの建物の中でも、もっぱら注目の的だった。
園芸や植物に殊更詳しい道行く一人二人には、「その薔薇は一体どこで手に入れたのか」と血相を変えた顔で問われる始末だ。
他にも、道行く女性は羨ましそうに見ていた。ルイーゼと人工知能マガは、特に羨ましそうだった。
だが、十代の少年には、些か喜びよりも困惑の方が勝る。

「ええと…。ありがとうございます」

一応、礼を言うパイカル。

「きみに喜んでもらえて嬉しいよ」

皮肉たっぷりにウァドエバーは嗤った。
薔薇は美しく繊細で、香りは甘くて強く、気品がある。
急いで花瓶をいくつか購入し、ウァドエバーの許可を得たので、周囲へ配ろうと考えた。
小分けにして近くの…特に女性がいるオフィスルームへ配っていたが、数分も経たないうちに不愉快げなウァドエバーに「他人にくれてやるのは構わんが、花売りの真似事は止めたまえ」と指摘されて止めた。
花束の大半はまるっとビルの管理会社に渡し、正面玄関の一角に飾られることになった。
結果、パイカルは自分たちのオフィスに一本だけ持って帰って来た。
その一本を小さく切り詰め、水に差して自分のデスクの端に置く。
するとようやく、パイカルにもとても落ち着いた、気品ある美しい花の一つに見えてきた。
一本に減ったことで、芳香はほのかに香り、あれだけ華やかだった花弁に慎ましさを感じる。
純白の薔薇は、確かにホワイトデーとしては相応しいな、と素直な少年助手は改めて感謝した。
元々、ウァドエバーの趣味がいいことを、彼は誰よりも知っている。

「ウァドエバーさん、綺麗な薔薇を、ありがとうございます」
「礼はさっき聞いた。二度はいらんよ」

いかにも下らなそうに、投げやりに応えるウァドエバー。
パイカルの管理がいいのか、薔薇は不思議と長いこと枯れずにそこに咲いていた。

 

 

 

 

 

果たして、ホワイトデーから数日後…。
またまた廊下で会ったパイカルとシドへ、いつものように陽気に仙太郎が片手を上げる。

「よお、二人とも。聞いたぜ。バレンタインに参加してみたんだって? だったら、ホワイトデーは何か返してもらったか? 3倍返ししてもらわなくちゃな。それだって、日本のイベントなんだぜ?」
「仙太郎さんの言う"3倍返し"というのは不案内で分かりませんが、ホワイトデーにと、白い薔薇の花束をもらいました。美しかったですよ」
「ホワイトデーには頂きませんでしたが、ネア様よりお心として薔薇の花束と南の島をお一ついただきました。それから、友人からは手紙を」
「…………薔薇と…島?」

そんな会話を以て、富豪探偵卿二人によって多少ヨーロッパ経済を動かしたICPOのバレンタインは、無事に終了した。



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ウァドエバー師弟のバレンタイン。
負の倫理観がきれいに肌に馴染んできている少年助手と、彼には甘い悪徳探偵卿。
パイカルくんにかけるお金は一切惜しまない。
2020.3.16





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