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「っしゃあ…!終了だ!!」

最後の一枚にサインを通しながら、左手で勢いよくその書類をデスクにぶっ叩いて宣言する。
走り書きで書き終え、そのまま振り抜いたペンがすっ飛とんで背後の窓ガラスに当たろうが割れようが知ったこっちゃない。
苛々しながらデスクワークをやっつけるため缶詰になっていたが、閉鎖的な一室に閉じこもってのストレスがどうこうよりも、延々部屋の端でティクティク時を刻んでる秒針の音に苛立った。
時計を変えてる時間はなかったが、戻ってきたらデジタルにしてやる。
アナログはアンティークでもない限りもうお払い箱だ。
リビングにはいいが仕事部屋には必要ない。
本気で必要ない。
ラスト十数枚になった頃には気ばかりが焦って脳天気にイスなんかに座ってられず、立ち作業でこなしてやった。
俺の仕事はこれで終わりだ。
時間外は権利で拒否する。
誰にも文句は言わせない。
法の下の権利だ、文句がある奴ぁかかってこい!
直ちにデスクから離れると、目の前のソファセットに置いてあった上着とバッグを片手に書斎を出た。

「終わったぞ。書類はデスクにある、勝手に持って行け。俺はもう出るからな!いいか、何があっても連絡するな!ホワイトタワーが折れでもしない限り帰らないからそのつもりで留守中しっかりやってろよ!」

繋がっている隣部屋を足早に突っ切りながら部下たちに空いた右手を突きつけて宣言と簡単な指示を出し、声を張って返答を受け、車が用意されていることを確認してから腕時計へ視線を落とした。
…良かった、間に合うな。
ぎりぎりだけど何とかなるだろ。
ほっと息を吐きながら廊下へ繋がるドアノブを握って勢いよく開け放った直後。

 __ばっしゃ!

水が顔面に飛んできた。
…。

「ぎゃははははははっ!やーいやーい、ひーっかかーったあ~!」

…数秒固まる。
量としては大したものじゃないが、真ん前からの放水。
タイとシャツは襟元、髪は前髪が水を吸ってべったり皮膚に張り付く状態で、目の前の前髪先からぱたり…と水が垂れるのを見送った。
そのまま漸く固まっていた数秒が経ち…。
呆然と廊下の床を移していた瞳孔を持ち上げ、顔を上げた。
続いてリズム良く垂れ落ちていく滴の向こうで、仏蘭西の野郎が大爆笑しながら左手の人差し指で人のことをしっかり指差しているのが見えた。
右手の人差しは、子供向けの高性能水鉄砲の引き金にかかっていた。

「いよ~ぉ、英国。水も滴る何とやらだなあ~。いつものお前と比べるとちょーっとだけ色男になったぜ。…いやまあ、お前が何しようとお兄さんには敵わないけどなあ」
「…」
「ところでどうよコレ。倉庫整理してたら出てきたんだよ。懐かしいだろ~?今日は結構温かいしさぁ、今から俺の家で久しぶりに対決しねえ?一発当たった方が一枚ずつ脱いでくってことに……って、え?なにその目。あぁ、ハイハイ。冗談だって。分ぁってるよ。別に脱がなくても……え?ちょ…なにおま…マジで怒…うわおっあ、痛いっ。痛いって何その縄どっか…痛ってええええっ!ちょっと止めてっ。針金付いてんじゃんそれ!お兄さんMじゃないから!いじめる方専門だから!確かに前々からちょっと興味はあったけどでもM初心者だから!ハジメテはもっと優しっ…ぎゃああああああああああああああああああっ!?」







「ああ、悪い…。あ?いや、違う。ただスケジュールが上手く回らなくて時間通りに着けそうにないから先に連絡しておいた方がいいと思って…。夕食は無理そうだ。遅くなる。けど日付が変わる前には何とか…。え?無理してこなくていい? ば…っ。違う!無理じゃないって!ちゃんと予定は組ん…っと、お、どわっ!」

襟と袖の濡れたシャツを脱いで頭の上にタオルをかぶったまま、急いでクローゼットを開けていた途中。
耳と肩に挟んだ携帯電話がずり落ちないよう気をつけていたが、不意を突いてずるっと鎖骨を滑った。
床に落ちる前に反射的に宙でキャッチできたが、背を屈めたついでにそのままその場に屈んで一息を吐いてから再び携帯を耳に添える。

『英国さん?…英国さん、大丈夫ですか?』
「ああ平気だ。携帯落としかけただけだから…」

電波の向こうで驚いたらしい日本が、それを聞いて小さく安堵の息を吐いたのが聞こえた。
些細なことだが、そんな安堵の息づかいに日本らしさを感じてその呼吸と一緒に顔とか仕草とかが見られないのが既に残念で、同時にちょっと恋しくもなる。
普段なら絶対しないが、クローゼットの前に一人屈んだまま俯いた。
足下の絨毯の毛を意味無く抓んで引っ張ってみる。

「だ、だからな…。これでもちゃんと予定は組んでたんだ。それにその…前々からそれなりに…」
『ですがお忙しいのでしょう?』

間髪入れず、日本が気遣うような声色できっぱりと遮った。
俺の方が言い淀んでいた間を縫うようにして、柔らかい低声が耳に響く。

『久方ぶりにお会いできるのを愉しみにしていましたが、無理をされてはお体を壊しますよ。それに、夜中にいらっしゃったとしてもお床をご用意するくらいで何のお持て成しもできませんし、できればきちんとした形でお迎えしたいと思っておりますので』
「…」

できることが色々ある気がするのは俺だけか…。
まあ、うん…。
そうだよな。
ああそうさ、そうだろうよ…。
完全に脈がない。
がっくり頭を垂れ下げると、足下にぱさりとタオルが落ちた。 
…けどまあ、確かに真夜中に日本の家に到着したところで、迷惑かけるのは目に見えてる。
大体、当初の名目が「日本料理が食いたい」だった以上、夕食の予定が潰れてしまえばキャンセルになるのは必須だ。
勿論、前に食べた美味い料理をもう一度食いたいっていうのが今回の目的の殆どだ。
けど本当の本当は、ちょっとだけ…まあ、かなり僅かだが、別に何もなくても、もてなしとかそんなのはどうでもいいから、日本の顔がちらっと見たいなとか思ったりしてやってる部分もあるわけで…。
そんな俺の感情が欠片も伝わってないらしくて、軽く意地が焼けた。

『ではまた後日ということで』
「…。…ん」
『あまりご無理をなさらず、御身お慈いください。…それでは』
「ああ。…おやすみ」
『お休みなさいませ』

淡々とした、心底丁寧な返し。
引っ張っていた絨毯の毛をそのままぶちりと一撮み引き抜いといた。
何となく切るのが惜しくて携帯を耳に添えたまま俯いていた。
…。
……。
数秒経っても電話を切る音がせず、違和感に再び口を開く。

「…何してんだよ。切っていいぞ」
『あ、はい。…。…あの、英国さん。そちらはまだ日が高いですか』
「あ?…ああまあ、まだ昼前だけど」

また随分話が飛んだ。
時々あることだが、日本は唐突に天気の話をしたりする。
…そう言えば、昨日の昼頃からカーテンは私室書斎共に閉めっぱなしだ。
顔を上げて、厚いベージュ色の布が垂れかかっている窓へ視線を投げた。

『英国さんのお宅からはどうかは分かりませんが…。今夜此方の月は綺麗ですよ』
「月?…ああそうか。お前の所はもう夜なのか」
『夜という程ではありませんが…。ご覧頂けないのは残念です。ですがまた機会もありますよ。場所は違えど同じ空の下なのですから』
「…。…そうか?」

柔らかく髪を撫でられるような声に、突然胸の中を空風が吹いた。
何気ない一言に、凄まじい距離を感じる。
同じ空の下?
だから何だ。
現実的な話、時間も場所も違う。
時間さえ違うなら、別世界も同じだ。
直に会いでもしない限り、俺たちは本当に、何一つ共有してない。
無意識に低くなっていた俺の声色に気づかなかったのか、遙か彼方で日本が小さく笑った。

『そうですよ。…では、切らせて頂きますね』
「あ…。悪いな。ホント…」
『いいえ。お気になさらずに。…それでは、お休みなさい』

今度こそ本当に通話は切れて、漸く俺も携帯を耳から離した。
ふらりと立ち上がり、軽く手にした携帯を宙に放ってキャッチし、息を吐く。
軽く髪を撫で梳き、自虐的に笑った。

「…俺ばっかりか」

何気なく視線を上げ、窓辺に歩み寄る。
すぐ横の壁に左肩を凭れかけながら、片腕を伸ばしてシャッと勢いよくカーテンを開けると…。
簀巻きにして屋根から吊り下げていた仏蘭西の白目と目が合った。

「…」

一度その場を離れ、棚からハサミを持ってきて窓を開け、吊っている縄を切る。
支えを失ってひゅー…と遠くなる落下音の後重いモノが玄関脇の地面にのめり込む音が響いたが、目で追う程興味はなかったので、無かったことにして開けた窓を閉め、再び壁にもたれかかった。
部屋に差し込む日光。
今日は珍しく晴れてるみたいだが、まだ太陽は高い。
それぞれの空に浮かぶものまで対照的で、哀愁が胸を支配する。
…何でこんなに離れてるんだ。
どうしてこんなに違うんだろうな。
間を置いて拳を作り、それで力一杯壁を叩いた。
流石に欠けたり崩れたり穴が空いたり何てことはないが、窓ガラスが音を立てて震える。
いっそ割れれば多少すっきりするのに…とは思うが、やらない。
紳士だからな。
けど…。

「…」

振り向きざま、低く息を吐きながら勢いよく片足を上げた。
脛の骨が側にあったイスを捉え、ちょっとばかし荒っぽい音を立ててイスがクローゼットの方にぶっ飛んで行く。
離れた床に倒れ落ち、カラカラ…と虚しく空を回るローラーの音を聞いてから、肩を落として両手をポケットに入れる。

「…。ばーか」

誰に対して言っているのかは自分でもよく分からないが…。
取りあえず、午後は暇になった。
…紅茶でも飲もう。
折角開けたカーテンを勢いよく閉め、新しいシャツに袖を通してから部屋を出た。
ため息を吐きながら廊下を歩き、階段に差し掛かったところで天窓から太陽を睨んだ。
…。

時々、あいつを支配しなかったことを後悔する。

My sky & Your moon


電話を切って、小さく息を吐いた。
空を見上げれば細い三日月。
暫し眺めていたところ、不意にぽてっと膝を何かが叩き、視線を下ろすと暖を取るためか傍に寄り添っていた飼い犬の尾が緩やかに振られていた。
何だって?と言わんばかりの態度に苦笑しながら応えてみる。

「お越しになれないようですよ。…お忙しい方ですからね。移動時間も勿体無いですし」

以前お越し頂いた際何が気に入ったのか、飼い犬は英国さんに懐いているようだった。
…いえ、英国さんにというのは語弊がありますかね。
英国さん自身というよりは、英国さんの…何でしょう、周りの空気…とでも言いましょうか。
人見知りはしないものの自ら人に懐くこともないはずが、お茶を点てている間見えない何かにじゃれつくように英国さんの周囲をどたんばたんとはしゃいで飛び回り、英国さんの方が慌ててご友人が危ないとかどうとか、少々意味不明なことを言いながら飼い犬を押さえだしたので久方ぶりに「待て」の命を出し漸く静かになった。
そんな記憶を思い出し、片手を伸ばして頭を一撫でしてやる。

「残念ですが、仕方ありませんね。…あまり我が儘を申して嫌われてしまったら、それこそ二度とお会いになってくださらないかもしれませんから。我慢しましょうね」

二人分仕込んでいた夕食の用意。
独りで食すには多すぎる為、一人分を残しラップをかけて冷蔵庫に入れなければと、爪先立てて膝を浮かせ台所へ向かった。

願わくば、彼方の地にも美しい月が昇りますように。




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時差は確か9時間ですよね。
兄ちゃんは悪気があった訳じゃないんです。
2011.10.16





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