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「…ちっとやべえことんなったかもしれん」
「…あ?」

やっとこさ出てきた言葉はいきなりそんなもんだったから、コーヒーカップ口に運んでた俺は飲む直前、唇に縁を当てたまま手を止めて聞き返した。
その前に出てきた言葉の、あんな…っつー前置きが数分前。
偶然街中で会って、茶ぁでも飲むけって言われたんが数十分前。
茶ぁに誘われんのはまあちらほらあるにしても、こーんな天気がいい日に庭じゃなくてリビングに招かれちゃ、何かあるなと疑うなっつー方が無理な話だ。
この間模様替え手伝った頃から動いてないソファセットのうち、主人用の1人掛けソファに深く座って足組んで黙ってたノルの正面にある客用ソファで暫く待ってた訳だが、ここに来て漸く話題を振る気になったらしい。
カップの中にあるダークブラウンの水面を見下ろしてた俺は、顎を上げてオーバーにならない程度に視線を投げた。
肘置きに肘付いて、それで気怠げに頬杖ついてる親友は、テーブルの中央にある薄紫の薔薇を眺めながらワザと視線を合わせずぼんやりしていた。
…持ってたカップをソーサーに下ろして深く座ってたソファから前に身を乗り出し、浅く座って両腿に肘を置いて低い場所で手を組む。

「何。…どうかしたんけ?」
「…」
「深刻な話程早く言わねえと対応も対策も遅れっぺな。…あれけ。露西亜の原子船のことけ?」
「んなことじゃねえけど…」

呟きながら目を伏せ、頬杖を崩して両手を肘置きに乗せため息を吐く。
その様子から真剣味を帯びた話だっつーのは十分理解できてたんで、少し間を置いて話を整理する時間をやる。
もう一度ノルが小さく息を吐いたのを見て。

「んで、…どした?」

なるだけ気を使って柔らかく声をかけた。
何か一人で悩むのにキツイことがあるんなら、実際にあれやこれやの縛りで動けなくても話聞いて少しでも力になってやる覚悟だけは相当昔っから持ち合わせてっから。



とか何とかでカッコつけて真剣に聞いた話が…。

「アイスのダチ関係ってのが何と……いでっ」
「黙ぁってろ。…バレんべ」

横から脇腹に軽い肘鉄喰らい、ご希望通りに沈黙してやる。
二人して馬鹿みてえに表通りにあるカフェの路地へ入ってそれぞれ壁に背を預けていた訳だが、休日の午後ともなればここらで一番大きなこの通りは人が行き交い、混雑してるんでもっと距離縮めたって大して気付かれないと思うが…。
…打たれた脇腹に片手を添えたままちらっと真横を一瞥し、路地の角に張り付いて背を丸めてるノルを斜め上から見下ろす。

「…見えっけ?」
「ん」
「おめ眼鏡似合うんな」
「次関係ねえこと言ったらアイクロかますかんな」
「…俺の割れっぺな」

変装のつもりなのか、青縁の伊達眼鏡かけたままこっち見向きもしねえで淡々と褒め言葉への返しがくる。
この先いつアイラビュな親友兼恋人の不機嫌を買って顔面鷲掴みが来るか分からねえんで、家出る直前に俺用に手渡された赤縁の眼鏡を耳から外し、胸ポケットに縦に収めることにした。
大体、こんな眼鏡一つで変装になる訳がねえ。
尾行を提案した本人だって美人が眼鏡美人になったっつーだけで、別に顔が変わる訳がねえからアイスと目が合ったら一発でバレるだろう。
…つか、眼鏡がどうこうよりもまずその帽子が目立つんで、あんまり顔出しててもバレる気がするんだが。

「…ったく」

何となく悲しくなって、空を見上げる。
ああ…。
フツーにどっちかの家で茶でも飲みながら、二人っきりの休日とか過ごしたかった。
街に出るんならフツーに買い物とかカフェで楽しいデートと行きたかった。
角から表通りを覗き見してるノルの上に俺もひょっこり顔を覗かせる。
…十数メートル先のフラワーショップで花束を受け取る露西亜と、その隣で若い店員に好きなリボンを譲り受けては飼い鳥の首に結び直してる氷島が見えた。

Hans og hans yngre bror og tak til Gud



話は、俺も最近気付いたんだけどよ…という前置きを置いてここに来る途中にノルが話した専ら偏った内容によるが…。
ここ最近、人見知りで我関せずな氷島に友達ができたらしい。
良い交友も悪い交友も後々財産になってくる。
氷島に関しては、ちったぁ俺ら以外と接した方がええと思ってるし、ノルにしたってそう思ってたはずだ。
特に兄貴って肩書きが背中を押して、自分は一人でやれっからいいけど、アイスはあいつもこいつも集まってわーわーやってるEUに入れるようにそれとなく協力してやって欲しいつって、弟のプライドを守りながらこっそり俺に頼むくらいだ。
揃って南と無難にやってけるようになりゃいいけど…と思ってたんは変わりねえ手前、今までの内向的な性格を考えればいい事だと思うだろう。
素晴らしいことだと思うだろう。
…んが。しかし。

「…何で露西亜なん」
「んー?」
「……趣味悪ぃんかな」

追跡対象の二人が腰掛けたカフェのテラスが見える二件隣の窓際カウンターに片腕を乗せ、外を眺める。
頬杖着いて目線を下に下げたままぼけっとしてるノルの代わりに、手持ちのコーヒー持ってきた店員に愛想良く片手を上げて短く感謝しておく。
…さり気に酷ぇこと言ってる気ぃするが、身内だから言えることってのもあるだろう。
温かいうちに飲もうとカップに口付けながら、同じように湯気立つ彼の分のカップをその真正面にスライドさせてやる。

「ただ会って話しとるだけだべな。まっさかデートっつー訳じゃねっぺよ~。おめ心配し過ぎなんじゃねえのけ?」
「…アイスが俺ら以外と出かけるっつーんがまず異常だべ」
「んなことねえべ~。そらおめえの思いこみだって。…最近英国に突っつかれてっけどあいつが突っつき返してくれるみてえだし、結果的にフォローしてくれてっからその辺で話すようになったんじゃねえけ」
「…」

とか言ってみるも、不満げな表情は直らない。
どうやらノル的には、最愛の弟の友人としてあのマフラー男は不許可らしい。
…ま、そうだろうな。
大体、単純に考えたって露西亜だ。
不良…って訳じゃねえが、他の奴らよりゃ微笑ましく見守ろーって心境じゃなくなる。
とは言え、ノルの反応もどうしたもんかって感じだが…。

「なあ、ノル。もうアイスだってガキじゃねんだし、尾行は止めっぺよ。…んで、俺らは俺らでデー……っておいおい」

突然カップ片手に席を立ち、ノルが顔を上げて表通りの方を見ながら店を出て行く。
人の話なんか聞いちゃいねえ。
ふと窓の外へ視線を向けると、さっきまで座って紅茶を飲んでた二人がテラスを離れて歩き出しているのが見えた。
見失わないうちにまた追う気なんだろう。

「…ったぐよ~」

がっくり肩を落としながら、まだたっぷり残ってるコーヒー片手に、俺も席を立った。
テーブルに置き忘れてった帽子の固いツバを持ち、ぺふ…っと自分の頭に被せながら店を出ることにした。
店を出てノルの背中追っかけてる間にショーウィンドウに青の似合わない自分の姿が映り、これまたため息吐いてさっきかぶったばかりの帽子を脱ぐと指でくるくる回すことにした。
人通りは多いが、後ろ姿はばっちり見えてる。
別に急いで追った訳じゃなかったが、氷島と露西亜と距離を測ってゆっくり歩いていたノルには簡単に追いついた。
数歩分後ろに追いついたところで彼の歩幅に合わせ、ゆっくり歩きながら声をかける。

「ノール~。…ほれ、帽ー子。おめこれお気に入りだっぺな。忘れんなって」
「…」
「お…?」

正面睨んだまま、肩越しにノルが片手一本を背後に着いてきてた俺に伸ばした。
その手に真っ青な帽子を置いてやると奪い取るみたいに勢いよく引き寄せたが、頭上には被らず片手でツバを持ったままカツカツと景気よく歩く。
無愛想なその態度に、一度足を止めて両肩を竦めた。
軽く俯いてやれやれと首を振ってから、また追いついていく。

「なあおい、親友。もうえがっぺー? どっか座ってゆっくりコーヒー飲むべな~」
「…」
「なーにぃ。シカトけ、兄弟」
「…」
「…。なあノル。愛……ぶっ」
「うっせ」

無視してんならとさり気なく愛の言葉でも囁こうかと思いきや、不意打ちでさっき渡した帽子で横っ面を叩かれた。
多少骨組みはあるが布地なもんで、ツバでもない限りは痛くはない。
…が、かと言って全く衝撃が来ない訳でもない。
金具の部分が当たってちょっとだけ痛かった頬の一部に片手を添えて、漸く足を止めて振り返った不機嫌顔へ軽く笑いかけながら声をかける。

「なあ、よお。…どしたん?」
「…何が」
「えれえ殺気立ってねえけ? 何か焦ってるみてえだけどよ」
「…」

見たまんまを言ってみただけだが、まるで指摘されたことが意外だとでもいうように青い海色の瞳がちらりと俺を一瞥した。
…それから、詰まらなそうに半眼になっては腕を組んでそっぽを向く。
その外した視線を追うように見ると、向いた先では人混みの向こうを歩いていた氷島が本屋で足を止めて雑誌を手に取り、それに気付かず歩いていた露西亜が数メートル行って青いマフラーを尾のように揺らしながら本屋の前に戻ってきているのが見えた。
まだ距離があるとは言え、こっちを向いた彼を目が合わないよう、俺もノルもそれとなく背を向けて丁度横にあった雑貨屋のウィンドウを向く。
もう必需品のマフラーや防寒具の一足遅れた新作が、温かさを主張してライトの中で毛を立てている。
ガラスに映った背後の映像じゃ、よーく目を凝らさねえと二人の姿は見えなかった。
目を細くして人差し指で左右に目尻を引っ張り、顰めっ面して目を凝らしてっと…。

「…。…こないだ」
「ん?」
「風邪ひいたべな。…あん子」

呟きが聞こえたんでガラス越しに隣のノルを見ると、俯いたノルが無意味に自分の右手の爪を見下ろしていた。
…風邪?
最近の氷島は一貫して病弱なんで、言ってる風邪がいつの風邪なのかピンと来なかったが、取り敢えず分かった振りして聞いとくと、彼は俯いていた顔を上げ、ガラスに映った半透明の人混みと弟を見詰めた。

「俺、すぐ帰って看病できんくてよ。…色々許可取って、漸く帰ったら露西亜がしとったん」
「あー…。そーいやそんなこたぁあったな~」

追加情報でいつの風邪のことか思い当たり、斜め上を向いてこくこく頷く。
…俺らがそろってバタバタやってた頃だ。
やっぱりその日も氷島が体調悪かったらしいが、いつものことだから大丈夫。大人しくしてるからと言われて、俺らは揃ってそれを信じた。
ところがどっこい、その日の彼はいつも以上に体調が悪く、終いには人気のない所で倒れる始末。
それを見つけて運んで、看病したのが偶然通りかかったらしい露西亜だ。
俺らがそれを知ったのは数日後のことだが、それでも氷島じゃ俺ら以外にゃ看病されんの嫌だろうと思って知った直後に慌てて駆けつけてやった。
ノルなんかは情報が入った即日淡々と血相変えて足早に部屋を出ると上司の所に直談判しに行った。
俺は彼からまた遅れて行ったんで現場は見てねえが、交渉の末何とかぎっしりスケジュールに空白を作り、その時間に氷島の家に彼が飛んで帰った頃には、ベッドで身を起こして本読んでた少し回復した氷島と、ベッドサイドにスープを運んでた露西亜がいたらしい。
聞いた話じゃ、ノルが来たと同時に兄貴が来たんじゃ帰るっつってすぐ帰ったらしいが…。
…とか。
普通に聞いてて数秒後。
そこではっと思い至って、驚いて真横を向いた。

「へ…? なーに! おめまさかンなこと気にしてんけ!?」
「…」
「ちょ…おいおい。何てこたねっぺな、んなことよ~。しゃーねえべ、忙しかったんだし。…第一、一番に気付いたんは露西亜でも、最終的にはおめが看てやって体調治ったんだべ?」
「けどよ、遅かったべな。一番苦しい時おれんかったし。…それに、露西亜の奴ぁ結構ちゃんと看病してたみてえでよ。おめが言う通り、たぶんその辺から仲良くなっとんだわ」

見下ろしていた右手を降ろし、今度は左手の指先を軽く額に添えて今までと違い小さく息を吐いた。

「…そんでこの先、俺よか奴の方に懐いちったら…。どーすんべ…」
「いや、どーすんべっておめ…」
「何かな、腹立つん。…ええべな、別に。余所と仲良くせんでも俺らとおればよ。露西亜とか、いんねえべ。…ちゅか俺ら以外いんねえべな」

俺からしてみれば予想外に小さなストーカー理由で最初は鼻で笑いかけたが、ぽつぽつとした呟きとため息と眼鏡越しの伏せ目に深刻さが伺えて口を挟むのを止めた。
…嫉妬か。
家族が離れていく寂しさは誰にだってあるもんだ。
互いに口数少ない性分だからってのもあるが、どうもノルの弟に向ける愛情は常に遠回りだ。
氷島も氷島で大人しいもんだから、両手広げて「お兄ちゃーん☆」ってタイプな訳がなく、しかも最近は俺らに迷惑がかからねえようにっつって昔程色々あれしてこれしてとか言わなくなってきた気がする。
表面上素っ気ない弟にどう接していいか分からないってのが兄貴の立ち位置なんだろうが、ご覧の通り昔っから愛は溢れててブラコンも甚だしい。
ただそれがお互い水面下なもんでいっつも妙なすれ違いが起きて、見ててこっちが疲れてきちまう。
ただ、美味しいケーキとコーヒーでも用意して、心配してるんだ、この間はすぐに飛んで来れなくて悪かったが変わらず愛してるって、一言素直に言えばいいだけだというのに。
…とは言え、それができないから遠回りしている訳で。

「…。んー…」

片手を首の後ろに添えて、少しの間考える。
再び正面のガラスに反射してる二人へ目をやると、まだ本屋前から動いていなかった。

「…。あんな。俺ぁ元々、嫉妬深ぇ方だっぺな」
「…?」

この手の話は抽象的だ。
ちゃんとした家族間での巣立ちの寂しさってのは俺にはよく分かんねえが、愛情の嫉妬だったらいくらでも事例を挙げられる。
突然切り口新しく話し出す俺を、ノルは無表情のまま一瞥した。

「おめえの言ってるこた分かるわ。…何か、嫌ぁなんだよなぁ。自分が好きな相手に別の友達やら好きな野郎ができんのぁよ。そいつに矢印が向く分、俺のこた見なくなっちまう気がしてよ。…できることなら、ずーっと俺以外に会わせねえで閉じこめとくのが一番だ。アポイントも全部俺が管理して、何だって上手くやる」
「…」
「けどそれじゃ…嫌んなっちったべ? おめえ」

問いかけると、ノルは短く鼻で笑って横を向いた。
…嫌な嫌な昔話だ。
とは言え、誰もが持ってる欲求でもある。
家族やら恋人やら。
自分の好きな相手が別の誰かにちょっとでも興味があると、こっちが本気の分不安になってくるし寂しくなってくるし、終いにゃ憎らしくもなってくる。
仮に周りを思いっきり排除して綺麗な部屋に押し込んで安心するのはいいが、余程のMでもない限り今度はその好きな相手に思いっきりプレッシャーとストレスを与えることになり、想いは徐々にエスカレートして一方通行になってくる。
…まあ、要するに自分に自信がないか相手からの愛情を信じられねえから、取られねえように閉じこめようとする訳だが。
とにかく、心配になるってのはすごく分かる。
分かるが、だからって家庭内ストーカーや軟禁に繋げるのは間違いだ。
細波が立つ程度のちっとな揺れや衝撃でブッツンブッツン他人との繋がりってのは切れるもんだが、逆に残る絆は本当、驚くべき強度で残るものだ。
昔馴染みのこの兄弟の絆は後者に決まってる。
見目がいい氷島の所にゃあちこちからお声かかって案外ちやほやされてるが、結局最終的に頼るのは兄貴の所だ。
…ぽんっと。
軽い調子でノルの肩を叩いてやった。

「信じてやれな。アイスはダチができたところで、おめんこと軽視したりしねえって。…それにほれ。見てみろな。別に連れ去られてる訳じゃねえべ? 自分の意思であいつと一緒に買い物だか何だかしてんだべ」
「…」
「平気だってえ。ホントの繋がりってのは切れねえからよ。…俺らだって、何だかんだで上手くいってっぺな。…な?」
「…気のせいだべ」

場を明るくさせようとウインク投げてみるが、淡々としたツッコミと同時に帽子持った手がすぱし…!と、肩に置いた手が払われた。
苦笑しながら少し赤くなった手の甲を撫でて、今度は肩越しに背後を振り返る。
増える一方の人混みの向こうで、分厚い本を一冊店員から受け取った氷島と露西亜がまた背を向けて歩き出した。
…隣で、遅れてノルも振り返るとそれを見遣る。

「…んで。どーすん。追ってくけ? …でもよ、アイスが帰ってくんのはおめえんトコだべ?」
「…」
「それとも、茶ぁにしてから買い物でもすっけ? …焼き菓子でも作ってやりゃ、あいつ帰った時に喜ぶべな」
「…。何なん、その説教面」
「んお?」

笑いかけると、人を小馬鹿にした気怠げな半眼が返ってきた。
不意に人の胸にコーヒーを押しつけると、ずっと持ってた帽子を目深くいつものように被って角度を整える。
氷島たちが向かった公園の方とは真逆の今歩いてきたモール街の方へ、俺のの横を通過して石畳の歩道をツカツカ音を立てながら歩き出した。
…どうやら、スパイごっこは終了らしい。
安心して普通の休日が過ごせそうだ。
足早にその場を去っていこうとするノルの後ろ姿を、数歩遅れて両手にコーヒー持ったまま着いていく。

「なあ。買い物の前に映画でも見てかねねえけ?」
「おめえとなんぞ誰が見っか」
「んなこと言うなって~! 今から帰って作ったって、早すぎるべなー?」
「…」

不機嫌な声について回って数メートル。
表通りの角を曲がる直前、前を歩いていたノルが足を止めて一度だけ振り返った。
後を追って後ろにいた俺の肩を通り越して、ずっと奥の方を覗く。
…俺も振り返ってみたが、勿論、反対側に歩いていった氷島と露西亜の後ろ姿はおろか、奴らがさっきいた本屋だってもうとっくに見えなくなっていた。

「…」
「…。アイスがおめえの弟でえがったな」

僅かに俯いて無音の息を吐くノルを見て、穏やかに笑いかけてみる。
疑問符を浮かべて顔を上げた彼に、言ってやった。

「他人だったら、殺ってたかもしんねえからよ。…昔っからおめえの矢印全部持ってきやがる」
「…」

もちっと高いいつもの声で言うつもりだったが、意図せず声が低くなった。
あんま器量の狭いとこは見せたくねえんで、場が真剣味を増す前に軽く笑い飛ばしておく。

「とかな。…な? 嫌だべ?」
「…。阿呆か」
「はは。…ほ~れ。行ぐべ行ぐべ~! …って、あれ? 眼鏡取っちまうんけ? しとってええべな~!」

立ち止まっていた足を動かし、鼻歌歌いながらノルの横を通過して前に出る。
変装用の眼鏡を耳から取り外し、俺と同じように胸ポケットに入れながらやっぱり最後にもう一度背後を振り返り、彼は俺の隣に並んで歩道の端を歩き出した。
そして車や他の歩行者から彼を守るというよりは、突然何処かへ駆け出されないよう、横髪を耳にかけてる仕草を視界に収められる一歩半後ろの立ち位置をキープしつつ、自分自身に呆れながら預かっていたコーヒーを手渡した。







「アイス。今日は何処か遊び行ったんけ? できたて食わせてやりたかったけどおめなかなかノルん家来ねえからよ~」

夕食後。
一杯のカフェオレと一緒に、ノルと作ったアップルパイに生クリームとカスタード半々にスライスしたリンゴを添えて出してやると、特別表情を変えぬまま氷島はぺろりと平らげた。
フォークを置いたタイミングを計って斜め前に座ってた俺がそれとなく聞いてみると、即答はなく、彼は湯気立つカップを口に運んで一口飲んだ。
ばさ…っと短い翼を広げ、明るい柄した真新しいリボンを身に着けている飼い鳥が彼の肩からテーブルの上に飛び降りると、パイクズの残った皿をリズム良く突っつきだす。
カップを置いてそれを一瞥し、視線を上げずに氷島が頬杖を着いた。

「…本買いに行ってきた」
「おお、そっけ。…んだよなあ。そろそろ寒くなってきたもんな。買い溜めしとかねえと退屈で死んじゃーよなあ」
「…ねえ。パイもうないの?」
「…」

氷島から催促が出たと同時に、キッチンから出てきたノルがことり…とテーブルの上に二皿目を置いた。
…ついでに俺の前にはコーヒーのお代わりで、自分が座る前には自分用のカップを持ってきた。

「…。ありがと」
「…ん」

妙に素っ気ない感謝をしてから、一皿目の上に置いたフォークを再び握って二切れ目のパイに矛先を刺す。
テレビもラジオも今はかかってねえから、食器の音を少し響かせた落ち着いたいつもの沈黙がダイニングに落ちてくる。
やがて二皿目も綺麗に平らげた氷島が、カフェオレを飲み干してからほっと一息吐いた。

「どした。何か疲れてんじゃねえけ?」
「まあね。街中とか疲れる。…やっぱり休日は家でのんびりする方が気が楽」
「俺もノルもいっしな♪」
「あんたいらない」
「またまたあ~!俺がいねえと俺の作るケーキも食えねえぞっ」
「ノーレが作るの食べるし」
「…」

そんな会話を俺と氷島でしてたのを聞いて、ノルはも小さく無音の息を吐いた。
心境を察してなければ、恐らく安堵ではなく呆れ半分のため息に聞こえただろう。



「ほーらな。全然平気だっぺ?」

食後のお茶も終わり、食器を洗ってるノルから濡れた皿を受け取りながら軽い調子で声をかける。
乾いた布で食器を拭き取り、そのまま彼に背を向けてキッチン端にある食器棚を開けて同じ皿が並んでいる場所に重ねる。

「だいじなんだって、おめえらはよ。兄弟なんだから」
「…」
「嫌われってことあるか。いらぬ心配ってもん…お?」
「ん」

話ながら食器棚から離れると、近寄っていた俺にノルが次の食器を強く手渡した。
水が床の上に垂れる前に縁の広いカップを受け取り、また拭きながら食器棚に歩いていく。
水滴のなくなったカップをやっぱり同じ種類の並んでいる場所に口を下にして置いた直後。

「…。何がええ」
「ふぇ?」
「相談料」
「相談料…?」

背後から妙な単語が飛んできて思わず振り返った。
洗い物が終わって両手を洗ってから水道を止め、少しずり落ちてた髪留めを引っかけ直してたノルを距離のある斜め後ろ辺りからぽけっと眺めてると、髪留めかけ終わった彼も肩越しに俺の方へ視線を投げた。

「何ぞお礼。…今日一日付き合ってもらったべ」
「…」
「何もねんなら、後でコーヒー豆でもやっけど。ええの入ったんでよ」
「ん? あ、あー。…んー、いや。…んなのは別にええんだけどよ。そんなら、眼鏡かけたまんまいっか…ふごッ!!」

ついつい可愛さにふらふら近寄りながら言ってみた直後、ずご…ッと危険な音と同時に首筋横に肘鉄が物凄い勢いで入ってきて、一瞬内臓が痙ったような奇妙な感覚が全身に響くと同時に膝から力が抜けて首筋押さえて倒れ込んだ。
キッチンにうっ俯せてどっくんどっくん体内で打ってる脈の音に青筋立てる。

「ば、馬っ鹿おめ…。け、頸動みゃ…」
「触んな」
「ねえ。今の音何?」

さっきまでの可愛さは何処へやら。
冬の海みてえに冷めた目で俺を見下ろしてたノルの後から、氷島の足音が聞こえてきた。
ところが、彼がキッチンに来る前にノルの方がこの場を出て行く。

「何でもねえ。…それよか、疲れてんなら早よシャワー浴びて休み」
「…丁抹は?」
「知らん」
「だぁあああー!! へいへいコーヒー豆すっげ嬉しい!だぁらちょ…なあノル!手ぇ貸せって!起きれねえからガチで!!」

叫いて漸くノルが心底面倒臭そうに返ってきて、俯せにぶっ倒れたままの俺の後ろ襟を掴んでマグロでも引っ張ってくみてえにずるずるフローリングの上を引き摺ってリビングに場所を移し、俺はというとよたよた彼の手を借りながらソファに横になった。
首に入った肘鉄は思いの外深く入ったらしく、その日は首が曲がんねえで一応怪我人だってことで、その場を借りての急遽お泊まりになった訳だが、勿論眼鏡もキスも何一つないまま色気のない夜に内心ちっとがっかりする。
…だがまあ、しかし。
寝る前にリビングでこっそりお休みのキスとして頬を合わせたノルたちを見れて、妙に心がぽかぽかしたんで良しとする。
だがホント。マジな話、弟で良かった。
…本当に良かった。
本当に。

始終にやにやしてたら、氷島がリビングから出てった後でノルが投げたクッションが顔面に当たったが、丁度いいんでそのまま頭の下に敷いて枕にすることにした。
お休みのキスを強請ったが拒否され、速攻でリビングの電気を消されて悲しくなったが…。

 __Hei,Norg!
 __あら。今日は丁抹リビングで寝るの?

「ん…。相手にしねえで部屋行くべ」
「…」

明かりが消えた途端、いつからいたのか、彼の周囲を友達らしいエルフ達が小さな花弁の幻影を落としながら彼の周りに集まりだした。
今日一日の出来事を、まるで小さな子供におとぎ話を聞かせるかのように表情を緩めてるノルへ我先にと囁き出す。
リビングを出る直前。
思い出したように足を止め、いくつかの淡い光に囲まれたまま振り返り。

「…God natt、デン」
「ん…? あ、…ああ。Godnat」
「…。首、悪ぃな」

大して悪びれてもなさげな淡々とした一言を残して、今度こそリビングを去っていく。
部屋へ帰る後ろ姿はそれはもう幻想的で…。
…。
闇の中に一人残されて、俺は深々とため息を吐いて黒い天井を見上げた。

「…っとにえがった。……弟で」

間違いなく嫉妬と名付けていい胸の黒いもやもやを周囲の闇に散らし、もう一度深く呼吸をして眠ることにした。
首はまだ痛いが、明日には治っているだろう。
たぶん朝起きるのは俺が一番早ぇから、朝食作ってやろう。

そんで俺とノルと彼の弟とで、三人で食卓に着こうと思う。



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近くて遠い存在、それは家族。
たぶん弟じゃなかったら氷君は結構な度合いできつく当たられてたと思います。
2011.12.8






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