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どこまでも続く青い海と空。
美しい帆は絶えず両腕を広げて海風を抱く。
まっすぐ進む一隻の帆船は青く真下に広がる世界を純白の亀裂を作って裂き進む。
飽きもせず来る日も来る日も同じ風景。
青、青、青、白、時折黒となりまた青…。
もう目眩すら起きなくなった。
…無言で暫し海面を眺めた後、そっと、甲板の手摺に片手を添えた。
…。

「落ちるなよ」

不意に背後から声がして静かに振り返ると、あの男が仁王立ちで立っていた。
絹色の美しい髪と同じように、厚手の外套が風に広く靡く。

「自殺なんかさせないからな」
「…いい加減にしてくださいませんか」

再び男から海面へと視線を戻し、小さく反発を口にしてみる。
…この男に買われてから未だ日は浅い。
日は浅いが、酷だった。
何も労働をさせられている訳ではない。
部屋は個室、出入りは自由。
寧ろ客人扱いにも似ており、港町の小さな市場で買い上げた奴隷相手の待遇としては至上なのだろう。
だが、如何に扱いが上等であろうと、たった数日であろうと、絶えず船上に留まることは思った以上に精神を蝕んだ。
何が、と。
どこがと言われても困るが…。
…もう疲れた。
俯いて息を吐く私を男が嘲笑う。

「お前、東の奴だったな。嵐に呑まれて難破と言っていたが…。行く先は葡萄牙の家だったんじゃないか?」
「…」
「知り合いが遊びに来る中で行方不明になったって、あいつは今躍起になってそいつを探してる。この間賞金をかけてた。髪は黒、肌は月色。背は低くて、家からあまり出ないとかで人見知りだそうだ。家にはあいつしか上げたことがないらしい。…奴隷商に捕まってやしないかと心配してたぞ」
「ああ…。貴方みたいな方にですね」
「いい奴隷商に捕まって幸運だったな。神に感謝しとけよ」
「分かっているのでしたら返してくださいませんか。あまりご心配をかけたくありませんので」
「ああ、返してやるよ。今の3倍程度高値になったらな」
「…」
「いい加減そのボロ服は捨てろ。俺の買ってきてやった服があるだろ。宝石はどうした。香水は? お前の仕事は着飾って値を落とさないことだぞ」
「…放っておいてください」

嫌な笑い方をする男へ背を向け、部屋へ戻るべく船室へと繋がる戸へと歩を進める。
戸口へ指先を添えた瞬間、何かが頬を掠め風が起きた。
硬直する私の指先横に、ビィン…っと張った弦を指で弾くような音を立てて、小さく細いナイフが突き刺さっていた。

「…少しは媚びを覚えたらどうだ。この辺りで俺に逆らうと不幸になるぜ。…手渡す前に仕込んで更に値を釣り上げてやってもいいんだぞ」
「…」

最早相手にするのも面倒だ。
やはり外は野蛮な方々ばかり。
いくら見識を広げる為とはいえ、やはり外になど出るべきではなかった。
今まで通り葡萄牙さんさえ遊びにきていただければそれで。
…帰ったら、堅く門を閉ざし二度と表へは出まい。
胸中で静かに決意し、後ろ手に寂びた音を響かせる戸を閉め、船室へと戻った。

その後。
多大なご迷惑の後、葡萄牙さんの元へ無事に引き渡されることとなった。
対価は一体おいくらなのか、何度聞いても首を振るばかり。
噂には聞いていたが、こういうことはこの辺りでは珍しくはないらしい。
私を囲い時期を見計らっていたことも知らず、捜索してくれたものと思い、名も知らぬ奴隷商へ謝を述べる葡萄牙さんを見ると、真実を告げることはとてもできなかった。
歩き出した葡萄牙さんに従い男に背を向けた途端、ぐいと後ろ襟を掴まれ首が絞まった。
一言文句を言おうと振り返ったが、翡翠玉の如き双眸とかち合い意図せず身が硬直した。

「あいつはすぐに弱くなる。…それよりも、俺の顔を覚えとけよ」
「…」

言うだけ言って今度は背を突き押され、二歩程蹌踉けた後、自惚れた青二才を睨み据えた。
…覚えるものか。
私はそれ程暇ではない。
片眉を寄せ、不快を前面に押し出して男へと向き直った。
白い頬に平手を打つ。
乾いた音が響き、素っ頓狂な顔をした男と、背後で歩き出していた葡萄牙さんが振り返って足を止めたのが分かった。

「触れるな。粗野者が」
「…」
「私に覚えて欲しくば、最低限の礼儀を纏って出直して来てください」

失礼…と言い残し、ずかずかと葡萄牙さんの元へ大股で歩み寄った。
即刻忘却しようと試みたものの…。
久しぶりに腑が煮えくり返り、結果的に姿形を覚えなければならなくなった。
今でも鮮明に覚えている。
あの野蛮で無礼な言動。
何年先に再会しても、目にすれば嫌でも気付くだろうと思っていた。

異邦人


数十年後。
…家の側に一隻の難破船が漂流する。
嵐で流されただけでなく戦の痕跡も残っており、その船に乗っている者は皆疲労し切って気を失っていた。

「ほら。これ礼だ」

介抱し、出歩けるようになってから暫くして。
身なりの良い風体の、一団の頭とおぼしき男が、丁寧な謝辞と共に美しい器を何枚も差し出した。
外界の者にしては礼儀ができているので、ついつい滞在を許し色々と話を聞かせて頂くことにしていた。

「お気遣いなど結構ですのに…。此方も外のお話が聞けて日々為になります。貴方のお話はとても興味深いので」
「…なあ」
「はい。何でしょう」
「俺のこと覚えてるか…?」

鳥居の並ぶ参道を並び歩いている際、言い出し難そうに異邦の方は仰った。
仰っている意味が分からず、小首を傾げて見上げる。

「以前どこかでお会いしましたか?」

お返しすると、安堵と落胆半々といったお顔で苦笑なさる。
いいや、何でもない。気にするな。
一言仰って、照れ臭そうに笑う笑みには好感を持ち、私も僅かながらに微笑みを湛えた。

…私はどうやらこの方が好きらしい。



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日本に振り向いて欲しくて紳士になったとかだと萌えます。





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