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「お、和蘭さん…。少し休みませんか?」

タイミングを見計らい何とか告げてみると、漸く前を歩いていた和蘭さんが足を止めてくださった。
ちらりと背後に着いてきていた私を一瞥し、腕時計へと視線を下げる。

「まだ茶ぁにすんは早ぇげ」
「それは承知の上なのですが…」

平然としている和蘭さんに頭が下がる。
閑静な田舎町。
先日終わった欧羅巴での会議後、和蘭さんがそのまま休暇を取られるということで、「いいですねー私も着いていきたいですー」などと軽い気持ちで口にしたら、別宅に本当にお誘いいただいてしまった。
あまりの急展開。
手土産もないし、当初は焦ったもののこの別宅というのがまた素敵で、いつもお邪魔する街中にある本宅と違い、絵本に出てくるようなのどかな田舎町の奥にぽつんと建っている。
インテリアやガーデニングが趣味の和蘭さんらしく、これがまた見事な内外装、見事な庭で、目の保養すぎて家に帰りたくないくらいです、ああもう本当に帰りたくない…!
ここで鎖国ができたらどんなに素敵でしょう、引き篭もりたい!
良き欧羅巴の雰囲気に満ちた素敵なお家なのですが、和蘭さん本人多忙な日々の中であまりこの別宅にはいらっしゃれないらしく、のんびりするにはまず物資が足りない。
ということで買い出しに出たものの…。

「ちょ、ちょっと疲れました…」

ぜーはー言いながら白状する。
元々の感覚として、私の使う"ちょっと買い物"と和蘭さん始め欧羅巴の方々の"ちょっと買い物"は、まずその量が随分違う。
両手で精一杯抱えている紙袋は重かった。
三日間滞在すると伺っていたのですが、私の目にはどう見ても一週間以上保ちそうな気がする。
私に軽い方の荷物を預けてくださったはずなのに、もう一袋、重い方を片腕で軽々と持った和蘭さんが、呆れた様子で私を見下ろした。

「軟弱やのぉ…。んな細っこい腕しとっからじゃ。肩で息する程け?」
「…正直重いです」

情けないことは重々承知だが、本気で重かった。
…いいえ、重いだけならまだしも、如何せん歩く速度が速い。
今更のことですが、和蘭さんは歩幅も広ければ歩くのも速いので、いつもでしたら彼の足早に何とか付いていけるのですが、そこに荷物が加わってしまうとどうにも距離が開いてしまう。
一生懸命追いつこうと、時折小走りなどを入れて歩いていたせいか、気付けば汗をかいていた。
一言、歩くのを遅めてくださいませんかと言えばいいのだろうが、男のプライド的なものがあり、それよりは、疲れましたの方が言いやすかったのが本音だ。
それにこの方意外とSっ気があるので、いつだったか素直にもう少し遅く歩いて欲しいと頼んだところ、余計に足早になってしまったことを、私は今尚忘れていないのです。
顔を上げると、丁度少し先にコーヒーショップと書かれた看板が下がっているのが見えた。
ほっと一息吐いてそれを目線で示す。
彼が珈琲好きなことは、もう百年以上前から存じ上げていることです。

「あの、ちょっと休憩しませんか。丁度そこにお店もあることですし」
「店…?」

眉を寄せ、私の方を向いていた和蘭さんがちらりと背後を振り返る。
そうして何故か、数秒固まった。

「…和蘭さん?」
「…」
「どうかされましたか?」

身長差があるせいで、どうしても下から見上げるように覗き込むことになってしまう。
固まっていた和蘭さんは、今度は首を傾げて見上げる私を、同じようにちらりと一瞥した。
それから、思案顔で形の整っている顎に片手を添える。
…何か考えていらっしゃるらしい。
もしかして、お好きなお店ではないのでしょうか。
以前、嫌な応対をされたとか、マナーが無い店だとか…。
私も嫌な応対されたら、二度と行きませんし!
他のお店でもいいですよ…と言おうと口を開きかけたその前に、彼が片手を腰に添え、改めて私へ顔を向ける。
素っ気ない調子で尋ねた。

「…カフェやのぉてええんけ?」
「え? …ああ、いえ、そんなお洒落さを求めてはいないので…。ああいうシンプルな風体の店も好きですよ」

確かに、今まで仕事柄滞在していた大きな街にある店と比べると小さいお店かもしれません。
けれど、それはそれで味があるというもの。
大きな街にあるような洒落たお店で無くても私は一向に気にしませんとも。
私が片手を上げてぱたぱたと振るうと、何故か和蘭さんが僅かに表情を和らげた。
いつも鋭い目尻と引き締まった口元が、その一瞬だけ柔らかくなる。
ふ…と気が抜けたように笑う彼のこういう笑みはその殆どが不意打ちで、かなり希少です。
これをされると、いつも無意識に魅入ってしまいます。

「ほんなら、入っせ」

ドアを顎先で示し、和蘭さんが歩き出す。
…良かった。これで少しは休めますね。
ほっと安堵して、私も彼の後を追ってドアへ近づき…。
一瞬、ふわり…と、あまり嗅いだことのない独特の匂いが鼻を突いた。
何でしょう、甘い匂い…と思ったら、ドアの前から覗ける店内の奥に、ガラスケースに入ったマフィンなどが並んでいるのを見つけ、ああと納得する。
…でも、ちょっと変わった匂いですね。
普通の焼き菓子とは違うような。

「…ん」

奥のガラスケースを興味深く覗いていると、先に入ってしまうと思っていた和蘭さんが、荷物片手にもう片方の腕でドアを支えてくれていた。
慌てて顔を上げる。

「あ…す、すみません。ありがとうございます」

ドアを支えているオランダさんの腕の下を潜って、店内に入る。
店内は閑散としていた。
いくつかのテーブルと焼き菓子がやたら高級そうに並んでいるガラスケース。
入口入って縦にカウンターがあるものの人はいない。
困惑してドアを閉めた和蘭さんを振り返ると、太く短いが良く澄んだ声で奥に一声かける。
ひょいと店員と思しき男が一人奥から顔を出し、少し驚いた後に、和蘭さんへ陽気な調子で声をかけた。

「おえ、旦那!久し振りやないですかぁ!」
「おう」

短い挨拶の後、和蘭さんは狭い店の奥へと慣れた様子でずかずか入っていく。
私も後に続いた…が、やけに刺さる視線に気付いて振り返ると、店員がにんまりとした笑顔で私を見ていた。
不思議に思ったものの、ぺこりと会釈をし、和蘭さんの座ったイスの正面へ、荷物を置いてから腰掛ける。
…ふう。
重かったです、本当に。

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閑散とした店でしたけれど、出された食品の味は決して悪いものではなかった。
ケーキマフィンと珈琲を頂いて、お腹は十分膨れましたし足も休まりました。
何か変わったハーブを使っているようで、どうやら店に入った時のあの奇妙に甘い香りはやはりこのお菓子のようでした。
決して悪い匂いではないのですが、あまり嗅いでいるとちょっと酔いそうな。
けど、美味しくいただいて、満足です。
珈琲一つ頼んだだけの和蘭さんは特に何を食べたわけでもありませんが、店員の方に店で売っている煙草を勧められ、それを断って自分の煙草だけを吸って一服していた。
お気に入りの銘柄があるのだろう。
気に入ったものを見つけると、なかなか他に流れようという気持ちは起きにくいもの。
以前は私も煙管を吸っておりましたし、その気持ちは分かります。

「おう、坊。えれぇしこらしねぇ。クッキーくれるたるで。サービスじゃ」
「ぼ…」

帰り際。
お勘定を済ませると、やっぱりにやにやした笑みの店員がレジの横にクッキーが三枚入った袋を置きながら言った。
いやそれは大変有難いのですけれど…。
こんな御歳四桁のおじいさんを掴まえて坊って、坊って…。
若いと言われると実はそれなりに嬉しいのですが、幼いと思われるといっそ惨めになってしまいます。
どう反応していいか困っていると、店員はまたにんまりと私に笑いかけた。

「坊、旦那のお気に入りじゃろ? ええのぉ。旦那のは太ぇで巧いじゃろ」
「…!?」
「別宅にゃぁヤリに来とんですもんねーえ? ここいらじゃ旦那ぁ確かにタラシで有名やけどのぉ、こーんちぇえ坊主ぁ珍しなあ。女は飽いたんですかい? キツくてえさそーですけどねーえ」

ハハッと短く笑う彼の言葉に、今度こそ絶句する。
ぶぼっと顔に火が入り、さっきの比ではない程あわあわして荷物を両手で抱き締めていると、後ろで聞いていた和蘭さんが溜息を吐いて近寄ってきてくださった。

「阿呆なこと言いね」
「あれぇ? ちゃうんですかー?」
「ただのツレじゃ」
「ほぉん…。ほやけど、ココにつんだって来るツレなんじゃろー?」
「こいつが休みてーっちゅうたんじゃ」

びっと私を親指で指差して、露骨に和蘭さんが詰まらなそうな顔をする。
店員はまた面白そうに笑って、値踏みするように私を見た。
鋭く濁った眼差しに、ぎくっとして一歩後退する。

「ふーん…。まーええですけどぉ。…ほーれ、坊。クッキーくれたるで~」
「え…。あ、はい…」
「ほらえらんわ」

カウンター越しに差し出されたクッキー袋。
思わず両手で受け皿をつくったが、彼の手首を和蘭さんが掴んで、持ち上げる。
店員は詰まらなそうに顔を顰めた。

「ありゃりゃ…。旦那ぁ。何しに坊つんだって来たんですか」
「無知すぎっからの。ちぃっと躾じゃ」

吐き捨てるように和蘭さん。
…躾?
展開が分からなくて目を白黒させる私を、店員は「ああ…」とちらりと一瞥してにやにや笑った。
彼と和蘭さんを見比べていた私へ、和蘭さんがドアを開けて店を出るよう促し、私は店員の視線から逃げるように外へと飛び出した。
外の新鮮な空気が肺に入る。
…が、飛びだしたせいか、一瞬くらりと貧血じみて視界がぶれた。
軽く首を振って振り返る。

「な、何ですか、今の方…」
「だんねえ。変わりモンじゃ」

いつもの素っ気ない態度で、私の横を通り過ぎ和蘭さんが前に出る。
私もやはり足早にそれに続いた。
…ああもう、それにしても何て不愉快な方でしょう。
さっきからかわれたせいか、恥ずかしすぎて顔が熱い。
溜息を一つ吐いて、気合いを入れて荷物を抱え直す。
休んだおかげか、和蘭さんの別宅へ戻るまでの間、荷物は重く感じなかった。

 

 

「…ふう」

和蘭さんの別宅に到着し、リビングのテーブルへ荷物の袋をどさりと置いた。
そのまま両手を左右に着いて、ふう…ともう一度息を吐く。
…何か、変です。
体が熱い。
もしかしたら風邪でもひいてしまったのかも。
けど…熱い?
熱いのでしょうか?
いえ、何だかこう、ふわふわしているというか、体が軽い気が…。
何でしょう、何だか…無性に動きたい気がする。
そわそわするというか、何かがしたい、何かが。
今何かしないのは勿体ない気がします。

「…」
「…おう。日本」

不意に呼ばれて俯いていた顔を上げる。
同じく荷物をテーブルに置いてすぐに奥へと入っていった和蘭さんが、リビングへ戻ってらした。
何故か右手にネクタイを持っていらっしゃる。

「手ぇ出しねま」
「…?」
「ちゃうわ。両手や」

ひょいと出した片手に言われ、改めて両手を出す。
疑問符を浮かべてぼんやりしている私の両手首を、ネクタイできゅきゅっと……って。

「ほわぁああ…!?」

ぎゅっと和蘭さんがネクタイの端を引っ張った途端、少し隙間が空いていた両手首の感覚がぴたりと合わさり離れなくなる。
固く結ばれてしまったネクタイに驚愕する間もなく、彼は片腕で私を抱え上げ、軽々と肩に担いで歩き出した。
リビングを突っ切り、階段を昇る。
唐突な展開に驚いて、私はばたばたと彼の肩で暴れた。

「な、何ですか何ですか何ですかー!?」
「暴れなや」
「ひ…っ!」

勢いよく尻を叩かれ、体を貫通する些細な衝撃に唇を噛む。
遅れて、ぞわぞわと悪寒にも似たものが背中を走った。
密着している体温をやけに意識し始める。
…。
あ、何か…。
まずい、ような…。
真っ赤になって沈黙し、僅かに身動ぎをするだけになってしまった私を、和蘭さんが意地悪く鼻で嗤う。
言葉より先にその嘲笑があったが、それだけで全て暴かれた気がして、ますます赤くなった。

「何や。今ので感じたんけ?」
「か、感じてません…!」
「相変わらずドMの変態やの、爺さんは」
「感じてませんってば!大体、Mじゃないですからね私!和蘭さんが一方的にSなだけです!」
「今セックスしよったら、えっらい気持ちええやろなぁー」

棒読みのその言葉に、びっと全神経が奮い立つ。
…何でしょう。
やっぱり、変です。こんなの。
咄嗟に頭の中に"媚薬"という言葉が浮かんでくる。
嘗てはちらちら使われてしまったこともありましたけど、現代ではこの単語は似合わない。
もっとリアリティのある薬がある。
興奮剤だ。
でも、何処で…?
…って、考えるまでもなくさっきの店ですけど。
青筋立てて、私は和蘭さんの後頭部を睨んだ。
肩に担がれている私の視線など気にも留めず、二階に辿り着いた彼はいよいよ寝室のドアを開けてしまった。
高鳴る心臓を抑え込み、怨みがましく呻く。

「…一服盛りましたね?」
「俺が盛ったんやないわ。おめえが勝手に選んで喰ったんじゃろが」
「喰ったって…。まさか、あのケーキですか?」
「手前でオーダーしもたじゃろ。俺は一っ言も言うてへんわ」
「どうしてあんな普通の店が普通のメニューにいかがわしい薬なんか混ぜ……うわっ!?」

唐突に下ろされる…というか、落とされる。
クッションの強い広いベッドは初めて見た時から、何というか本当に"二人で寝る"為のサイズに思えた。
ぴしっとメイキングされたベッドの上に両手を縛られた状態で転がされ、慌てて起きようとした所で、ぐっと和蘭さんが片足をベッドに乗せ、上半身を私に詰めた。
押し倒され、両足の間に置かれた片膝に動けなくなる。

「あ、あの…」
「…おめぇが何喰ったんか、教えてやっけ?」

唇を寄せられて小声で囁き、耳にキスされる。
湿った音が体を益々過敏にさせた。
狼狽している私を楽しむように見て、和蘭さんの指先が顎を撫でる。
それだけで期待に両足の指先に力が入る。

「おめぇが喰ったんはな…」

美しい碧眼が背を屈めて覗き見る。
平素とは格段に違う甘さのある低声に快感を引っ張り出された矢先…。

「マリファナや」
「…」

固。
囁かれた言葉に、快感も一瞬何処かへ飛んでいく。
…。
マリファナ…?
…。
……た、大麻…ですよね?
あまりの予想外過ぎる単語に脳が着いてこない。
ぱちくりと目を瞬かせ、私の耳元から顔を離して見下ろしている和蘭さんの陰った顔を見上げた。
さっきまで纏っていた雰囲気は何処へやら。
平然としたいつもの態度と表情で、和蘭さんが私の上から身を引き、寝転がっているその隣へ腰を下ろす。
懐からシガーケースを取りだして一本咥え、火を着けた。
呆然と、その様子を眺めるだけ眺める。

「…。あの、マリファナって…。麻薬のマリファナですか…?」
「それ以外に何ぞあんけ」
「…。えぇええええええっ!?」

ふー…と煙を吐き出す彼の無責任な言葉に仰天も仰天。
今度こそ上半身を飛び起こして、彼に詰め寄る。
そんな、まさか…。
薬物なんて。

「う、嘘ですよね!嘘ですよね!?」
「ジョークならもーちょいマシなの選ぶわ」

詰め寄った私の額をシガーケースでぺちりとやる気無く叩き、和蘭さんが私の足下へ両手を伸ばす。
自分で今されていたタイを解し、それで今度は私の両足を縛った。
芋虫になり、もぞもぞと両足を動かし体を捻る。
泣きそうになった。
…というか、大事とはいえこれしきの衝撃で、容易く本当に涙が零れ始めた。
ぶわっと涙が溢れる。

「そんな、そんな…!何てことなさるんですか!?」
「…んな泣くなや。ものげぇ奴やの」

子供のようにぼろぼろ涙を零し始めた私の動揺具合に呆れつつ、和蘭さんが溜息を吐く。
片手を伸ばし、私の目元を親指でざっくり拭ってくださった後、煙草を咥えながらもごもごと続ける。

「少量や。依存性は薄い。…ま、これっきしの量なら興奮剤みてぇなもんじゃの」
「どうして、どうしてこんなこと…っ」
「どうしてって、気持ちええセックスできんじゃろが。…やろ?」
「…!」
「まえーも俺とおった時ゃ薬やっとったやろ、おめえ。気持ちよさそーに。…のぉ?」

咥えていた煙草を指に挟み、その手で不意に顎を取られ、上を向かされる。
頬のすぐ横にある火元がちょっとした恐怖で顔が反らせず、そのまま為す術なくキスをした。
深く交わり、舌を奪われる。
いつもなら逃げる舌が、今日はその薬のせいか大胆になれてしまい、自ら顎を上げて無意識に強請ってしまった。
からかうように逃げる唇を追いかけて首を上げる。

「ん、…っ」
「…可愛らしぃやないけ」
「ぁ…」
「いつもそれっくれぇだとえんじゃがの」

唇がそっと離れ、追いかける体が前につんのめりそうになる。
倒れそうになった私の肩を和蘭さんが支え、改めてベッドへ寝かされた。
横に座る和蘭さんが笑い、広い手でくしゃりと髪を撫でられてうっとり目を細めてしまう。
…ふわふわする。
ああ、薬なんてそんな…。
でも、今のこの感じは決して悪いものではない。
もっと触れて欲しくて堪らず、縛られた足を摺り合わせて軽く折った。

「気持ちええやろ。寝たらもっと気持ちよぅなる」
「…で、ですけど」
「抱いて欲しいけ?」

片腕を伸ばしてベッドヘッドに置いてある灰皿に灰を落とし、また煙草を咥えながら言い放つ。

「強請れや」
「…」
「じょーずに強請れたら突っ込んだるわ」

直截な物言いに真っ赤になりながらも、耳から犯す声にくらくらする。
暫く沈黙して葛藤をする間、和蘭さんはつんとした顔で無関係な方向を向き、横で煙草を吹かせているだけだった。
…時間と共にうずうずが酷くなる。
唇を噛み締めてベッドの上で熱くなる体を冷やそうと、無関係にも程がある我が家の六法全書などを頭の中で思い出してみる…が、無駄に終わった。
若くはありませんが、私とて健全な一大和男子です。
第一、そう作用する薬盛られて好いている方とこんなに近距離で寝室にいる状況を前に、どう抵抗しろというのでしょう。
そこまで枯れてませんよ、私。
袖で顔を覆って耐えてみようとしても、身体中を駆け回る熱が引かない。
自ら処理ができればいいのですけど、生憎両手両足封じられて身動きが取れませんし…泣きたくなってくる。

「っ…」
「強情やな。一言やろ。ぶっ飛ぶ時ゃ散々よがっとるやろが」
「理性があるんです、私にも!」
「ほーん…。ほらご苦労なこっちゃ」

当てつけに叫いてみても、和蘭さんは詰まらなそうな顔をするばかりだ。
…ええい、もう、いいですよ。
言ってしまえばいいんでしょう、言ってしまえば。
ああ、まだ日も高いうちからこんな…。
羞恥が体を蝕むが、覚悟を決めて視線を上げる。
横に座っている和蘭さんのシャツの後ろを、縛られている両手でぐいっと引っ張った。
興味なさそうに、彼が首だけ振り返って私を見下ろす。

「ぁ…。だ…抱い、て……ください…」
「…。あー…」

必死になって紡いでみた言葉は、どうやらお気に召さないらしい。
短くなった煙草を灰皿でもみ消し、和蘭さんが私の頬をまた擽るように撫でた。
背中がぞくぞくして、気持ち良すぎていけません。
雲の上にでもいるような感覚で、体を任せて目を伏せてしまうものの、そこから先には進んでくださらなかった。

「いまいちやのぉ…。テキスト通りの台詞じゃ気ぃも起きんわ」
「っ、何て言って欲しいんですかぁ…!」

あんまりな反応に、わあっと涙目で責め立てる。
人が覚悟して発した言葉だというのに…!
どんっとやけくそで体当たりした体は、大した衝撃を受けた様子もなく、あっさりと片腕で私の背を支えた。
わざと悠々と顎に片手を添え、これ見よがしに眉を寄せて悩んでみせる。

「ほやのぉ…。愛しとるとか」
「愛してますよ!」
「俺ぁおらんと死んでまうとか」
「和蘭さんがいないと寂しくて死んでしまいます…!」
「ぐちゃぐちゃにしてくれんねとか」
「ぐ…」

また顔が赤くなる。
その一言は私にとってはあまりに非日常な台詞で、勢いに背中を押されても口から出てはくれなかった。
私の中にあった勢いが急速に鎮火し、振るっていた腕を腹の上に置いて俯くしかできない。
やはり安定しない感情は、元々潤んでいた目元から滴を零して左右の頬へ落ちていく。
体が熱くて堪らない。
薬なんて…やりすぎです。
そんなに非人道的な方とは思ってもいなかった。
ひどい…。
子供のように呻いて、それでも唇を噛み何とか嗚咽を耐えようとする。
そんな私の態度に呆れたのか、和蘭さんがため息を吐いた音が聞こえた。

「だぁら…泣くなや。これきしで」
「っ…ぅぅ~…!」
「…ったく情緒不安定なやっちゃなー。気ぃ反れるわ」

めそめそしている私の頭を、わしゃわしゃと大きな手が掻き回す。
乱れた髪に満足したのか、両手を拘束していたタイを漸く外してくださった。
期待に満ちた眼差しで見上げると、案の定、呆れ顔の和蘭さんがいる。
何故か苦虫を噛み潰したようなお顔をなさっていた。
けれど、タイを解いてくださったということは、その…なんというか、熱を解放してくださる…はず。
その手がそっと乱れた横髪を撫で梳いてくださって、ぴくりと震えた。
恐る恐る、震える唇を開いて強請ってみる。

「…。だ、抱いて…」

恥じらいながらも精一杯主張してみる。
私にしては上々に思えた。
元来、どちらかと言えばこの方の方がそういった房事はお好みで、頼めばお応えくださるはず。
というか、その為にこんな薬なんか盛ったんでしょうし。
…と、思ったのですが。

「ほら無理な相談やな」

きぱっと真顔で、思いがけない返答が返ってくる。
…。
…へ?
涙の乾かぬ目で、ぱちぱちと瞬いた。

「…む、無理?」
「ほーや。…言うたやろ。躾や、て」
「ひわっ…!」

仰向けに横たわっていた私の体を、和蘭さんが片手でひっくり返す。
広いベッドの上、ごろりと横に転がり、俯せに転じた。
すぐさま起きあがろうと膝を着いたところに、ぐしゃりと背中に肘をくらって潰れる。
意味が分からなくてじたばた暴れてみた。

「な、何ですかああっ!?」
「大人しせな」
「や、ちょ、ちょっと…!」

折角解いてくださったタイで、今度は両手を背中で縛られてしまった。
さっき以上にますます拘束され、また交わりを否定されて意味が分からない。
じたばた暴れる私から両手を離し、和蘭さんが改めてベッドの端に腰掛けて足を組んだ。
二本目の煙草を口に咥え、火を着ける。

「…さっきおめえ、何処で茶ぁ飲んだ?」
「はあ…?」

思わず素っ頓狂な声を上げてしまった。
何の冗談かと思ってあげた顔に、存外真顔な和蘭さんがいらっしゃり、どきりとする。
…うう。辛い。
もぞもぞ身動ぎしながら、上目に答えた。

「何処って…。カフェじゃないですか…」
「"Coffeeshop"や」

言い直す和蘭さん。
言っている意味が分からなくて、眉を寄せた。
コーヒーショップ…。
カフェじゃ駄目なんでしょうか。

「何か違うんですか?」

追って尋ねると、深々とため息を吐かれてしまう。
長い指先で煙草を挟む手を下ろし、横目で彼が諭すように私を見下ろした。

「ええけ…。俺んちのCoffeeshopってのは、ソフトドラッグのショップや」

さらりと言ってのける和蘭さんの言葉に、私は思わず瞬いた。
変な薬を盛られたとはいっても、それは彼自身か、若しくは変わり者と仰っていたあの店員が勝手に盛ったものだと思っていた。
店自体がそのようなものであるということは、ほとほと念頭になかった。
薬物を売っている店をお持ちの方がいらっしゃることは存じ上げておりますが、和蘭さんの所でそれがこのように親しみやすい俗称がそういった店だとは思いもよらず。

「覚えや。おめえが言うとんは"Cafe"じゃ」
「え、でも…。そんな感じには見えませんでしたし、ケーキとかコーヒーとか、普通に…」
「おめえが喰っとったんにも含まれてんで。薄ぇが、吸うんと違って食ったら長ぇで」

さっと青くなる私を珍しく柔らかく横目で見て、和蘭さんが愉快そうにくつくつと笑う。
ふと、店に入ろうと告げた時の、彼の希な笑みを思い出す。
…なるほど。
私がそのことを存じ上げないから、今回身をもって…とうことですね。
…。
せ、性格悪いですねえぇえ…!
今更ながらの彼の性分を思い、私は身を捩った。
芋虫の如く蠢く私を、和蘭さんが鼻で嗤う。

「辛そうやの」
「辛いですよ!」
「ほらええこっちゃ。…せーぜー苦しんで覚えや」
「え…!?」

ベッドから立ち上がってしまう彼にぎょっとして、私も顔を上げる。
縋るように見上げる和蘭さんは、あくまで飄々としていた。

「俺んちに来よったら、二度とCoffeeshopには入んね。こっから吸ぅたら今日みたいな目ぇに遭わせたるわ。よーく覚えま」
「ちょ、ちょっと待ってくださ…!」

まさかこのまま放置されるのでしょうか。
慌てて再度起きあがろうと膝を着いた私の肩を、ベッドに片手を着いて前屈みになった和蘭さんがぐっと引き寄せた。
一瞬の間に密着し、鼻孔を彼の香りが突いたかと思うと首筋に熱いキスが触れる。
不意打ちも不意打ちで、かっと体が発熱した。
ぴく…っと身体中の筋が一瞬攣る。

「…は、…っあ…!」

そんな気はなくても、過敏になった体で下肢が滲んだのが分かった。
一気に来る悪くない脱力感。
…ああ。
熱い息のまま、顔を上げられず羞恥に折り畳まれ俯いて小さくなっていると、すぐ横で和蘭さんが笑う。

「…はげしまぁまで何回独りでイケんかの」
「…っ」

茶化すその顔をきっと睨み上げる。
近距離の明るいグリーンの瞳が、何故か嬉しげに揺れた。
猫にでもそうするように、指先が私の顎下を撫でる。

「おめえはのんびりが過ぎんからの。連んだって喰うんは簡単じゃ。…じゃがまぁ、他のモンに喰われんよう、躾んのがちっと手間なんが、おめえの欠点やな」

自棄になりつつあって逃げる私の顎を捉え、キス一つしてから今度こそ背筋を伸ばして立ち上がる。
少々寄れたシャツとジレをぴっと下に引いて整えてから、軽く肩を竦めて見せた。

「尻軽は嫌いや。隙見せとって余所モンに喰われた日ぃにゃ痛い目見るで。…覚えときや」

言うだけ言って、情け容赦なく本当に部屋を出て行く。
バタン…とドアを閉まる音を絶望的な気持ちで聞きながら、固く目を瞑る。
今触れられた場所を這う快感を感じるように目を伏せるしかなかった。

 

 

 

夕方になり、漸く和蘭さんが寝室へやってきた。
片手で顎を押さえ、淡々とした双眸でベッドに伏せて丸くなる私を見下ろす。

「ほぉん…。そこそこええ眺めやの」
「…。鬼…」

いい加減体からから薬が抜ければ、後に残るのは羞恥しかない。
心身共に疲れしまって暴れることもできない。
涙目で枕に顔を埋め悪態付く私を、これまた珍しく吹き出すように笑ってから、ひょいと軽々しく子供をそうするように片腕に抱き上げる。
もう片方の手で背中に回してある手首のタイを解きながら問うた。

「覚えたやろ?」
「…覚えましたよ!」

近距離で叫く私を喧しそうに見てから音を立てて唇にキスし、首もとに鼻先を埋めるようにしてハグをなさる。
自由になった右手を振り上げ、その肩胛骨を力一杯一回叩いた。
私とは随分違う、筋肉質な整った背中。
叩いたところで手応えが無く、私の手が痛いだけだ。
拳を解いて掌とし、そろそろと今叩いた背中に添えて目を伏せた。
この人を好いて損をするのは、二百年前から分かっていた。
だというのに…。

…ああ。
これだから厄介なのだ、恋心というものは。



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調教気味なのは浮気されたくないくらい本気だから。
自分はあちこちで遊んでいて浮気三昧だけど本命に浮気されるのは絶対嫌っぽいイメージ。
基本的な好みや嗜好は似ているけれど、紳士との微妙な違い(笑)
2014.4.7







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