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「きょーすけ~っ!」

 

距離を開けた横から響いてきたそんな声に、思わず振り返る。
今し方、都築さんと一緒に出てきたホテルのロビーにあるラウンジ。
今わたしたちがいる対角線上のような向こう側を、同じ事務所の双子ユニット、Wの蒼井兄弟のうち、片方が距離のあったもう片方の方へぱたぱたと駆け寄っていた。
先ほど名前を呼んでいたようだが、そこまではっきり聞こえなかったし、彼らは一卵性双生児の為顔の作りは近距離でも違いなど殆ど無い。
故に、この距離だと駆け寄って行く方と立ち止まって待っている方、どちらがどちらなのかわたしには察することは難しかった。
…が、とにかく相も変わらずの仲睦まじい様子だ。
お二人ともわたしより年長者ではあるが、どこか無防備であどけない様子で笑い合い、手を繋いでエレベーター前へ向かっていく。
その様子を、足を止めて何気なく眺めてしまっていた。

「…」
「麗さん」
「…! あ、はいっ」

呼ばれて、ぱっと本来の進行方向へ振り返る。
足を止めてしまったわたしを待ってくれたのか、数歩先で都築さんも立ち止まっていた。
年末に行われる大型ライブ会場傍の宿泊先として、プロデューサーが選んでくれたこのホテルでは昨晩かららわたしの所属するプロダクションのアイドルたちを多く見かける。
同じ事務所であるとはいっても、イベントが重ならない限り姿を見かけることも希な方々もいる。
さっきのWの二人も、そのような中に含まれていた。
都築さんが、穏やかないつもの様子でふわりと小首を傾げる。

「どうかした?」
「いえ…。すみません。Wのお二人が歩いていらっしゃったので」
「W? ……ああ。エレベーターの方へ向かったのなら、きっと一緒になるね」

都築さんの言うとおり、我々が向かう場所もエレベーターなのだから、必然的にドアの前で顔を合わせることになった。
リハーサルあがりに既に挨拶は済ませている手前、またこうして宿泊場所で再会したときどう挨拶をすべきかと迷うわたしと違い、都築さんはただただ気さくな様子で片手をあげて前にいたお二人へ声をかけた。

「こんばんは。Wのお二人さん」
「ん? …あっ、Altessimoだ!こんばんはー!」
「本当だ。こんばんは。お疲れさまです」
「こんばんは。お疲れさまです」

両手を前で揃えて、頭を下げる。
お二人もまた、気さくな様子でわたしたちへ語りかけてくれる。
この距離になっても、やはりお二人のお顔はうり二つ。
…確か、双子の兄君が悠介さんで、弟君が享介さんだ。
仕事中は享介さんが眼鏡をかけていることがあり、その時は判断しやすいのだが…今は生憎かけておられないようだ。
あまりご縁のないわたしに判断は難しい。
けれど、おそらくこういう場合、予想として先に話される方が悠介さんで――…。

「この階にいたんだ? 気づかなかったな。なっ、享介?」
「俺は気づいてたよ。来た時、ラウンジの窓際奥でお茶してたの見えたから」

こうして、それに応える方が享介さん――という認識だ。
…よし、合っている。
心の中でぐっと確信を持ち、同時にほっとする。
音にならない程度の小さな安堵の息をつき、改めてお二人に伝える。

「はい。享介さんのおっしゃる通りです。少し静かな時間が欲しかったもので」
「え~? 何だよ、享介。なら教えてくれればよかったのに」
「別に伝えることでもないだろ。プライベートなんだからさ」

少々すねたような顔をする悠介さんと、得意げに笑う享介さん。
享介さんの笑顔は直前に笑った悠介さんと同じもので、やはり本当によく似ている。
何だか感心してしまう。

「…お二人は、本当に似ていらっしゃいますね」
「あー。何かそうらしいね」
「よく言われるよなー」
「そう…? 全然違うと思うけれどな」
「…」

会話の中に、ぽんと都築さん一人が反対意見を述べた。
にこにこふわふわとしたいつもの雰囲気で発せられる一般的に度胸ある一言に、お二人が一瞬虚を突かれる。
慣れていないと、都築さんの言動は時々こうして会話の停止を生じさせてしまう。
沈黙が違和感を持つ前に、次の話題を投げなければ。
都築さんから視線を離し、Wのお二人へ向いた。

「お、お二人は、何をなさっていたのですか。もう皆さんお部屋にいらっしゃるものとばかり思っていました」
「…え? あ、オレたち? えっとね、」
「監督に、今日は悠介が俺の部屋で寝るからねって伝えてきたんだ」
「…? お二人とも、わたしたちと同じく別部屋ではありませんでしたか」

大きなライブなので、こちらのホテルの大半が今夜関係者宿泊だ。
わたしたち舞台に立つ者もシングルとツインの部屋に割り当てられていき、頂いた用紙を確認した時、確かわたしたちと同じく、Wのお二人もそれぞれシングルであったと記憶している。
プロデューサー曰く、何でも声をかける機会がある順に「二人部屋でもいいか?」と尋ねて回った結果、大凡の方々が「構わない」という返答であったとのことだ。
うちの事務所のアイドルは皆仲睦まじく嬉しい、というのがプロデューサーの意見であった。
故に、その時声をかけるのが遅かったわたしたちは一人ずつ部屋が分け与えられたということだ。
わたしが問いかけると、悠介さんがいかにも悄気た様子で口を開く。

「そーなんだけどさ~。享介と部屋違うとつまんないんだよな。だからもう一緒に寝ちゃうから、オレに用事ある時は享介んトコ来てねって、監督に言いに行ってきたんだ」
「あと、次から俺たちにいちいち確認しなくても、ツインでいいからねって言いにね」

そこでエレベーターがやってきた。
幸い、中には誰もいなかったので、そのままわたしたちが乗り込む。
乗り込みながら、わたしは疑問を持ったので、近くにいた享介さんに尋ねた。

「ですが、シングルですとベッドは一台だと思うのですが…」
「まあ、狭いのが難点だよね」
「…」
「でも、何かその方が落ち着くし。なあ、悠介?」

内心驚き、一瞬言葉を失ってから彼の向こうにいる悠介さんを見た。
悠介さんもまた、当然という様子で笑顔を向ける。

「そうそう。狭いのくらい全然ヘーキ!…あと、享介一緒だと朝寝坊もしないし!」
「悠介、朝弱いんだ。別部屋だとその辺も面倒だし、一緒の部屋の方が俺も楽。…お。着いた」
「階はAltessimoとは別々なんだよな」

わたしたちの部屋がある階より二階下に着いたエレベーターがドアを開き、お二人が左右対称の笑顔で振り返る。

「じゃあねっ、おやすみ!」
「また明日、宜しくお願いします!」
「うん。おやすみ」
「お、おやすみなさい…!」

挨拶をして、お二人がエレベーターを出て行く。
本当に楽しそうに語らいながら廊下を進んでいく背中は、感心するものがあった。
ドアが閉まる。
…。
わたしには、姉しかないから…。
男兄弟は、ああも仲がいいものなのだろうか。
確かに、異性である姉と違い友人感覚という要素が入ってくるのかもしれない。
しかし、一台のベッドで男性二人は普通に考えて狭いと思うが……それとも、こう考えるのもわたしに兄や弟がないからかもしれない。
…いや、兄弟だけではなく、わたしには特別親しい友人というものもあまりなかった。
通っている学校は、どうやら他の学校の生徒に聞けば少々風変わりな校風という話であるし、通常授業以外の音楽授業も楽器が違えば全く別の内容であり、ほぼ個別指導だ。
逆に楽器が同じだと、やはり対抗心のようなものが芽生えることも多い。
特に、ピアノとヴァイオリンで上位を得る生徒はそれとなく他と距離が生じることも肌で感じてきた。
誰かと寝る、か…。
お二人は、当たり前のような顔をしていたが…。

「…」
「同じベッドで寝る、か…」
「…!」

ウィーン…と低く軽い音を立てながら動くエレベーターの中、わたしの横で都築さんがぽつりと呟いた。
思わず顔を上げる。
同じ事を考えていたから、一瞬自分の声が出たのかと思った。

「それはとても、気持ちがよさそうだなぁ」
「…都築さん?」

都築さんは片手を顎に添え、ぼんやりとしまったドアを見ていたが、わたしの視線に気づくとこちらを向いてにこりとした。

「僕たちも、今夜一緒に寝てみようか、麗さん」
「………え?」

チーン、と突如目が覚めるような高音が響き、エレベーターのドアが開いた。


some other day




…約束の時間、十五分前。
三十分前から一応準備はできているつもりだが、再び不安になり、数分前と同じくもう一度部屋のバスルームへと向かう。
ドアを開けて正面にある鏡に自分が映り、右、左と確認。
…うむ。
大丈夫だろう。たぶん。
…あ、いや。だが、念のためにもう一度髪を梳かしておこう。
櫛を手に取り、髪を梳いていく。
入浴は済ませているし髪はドライヤーで乾かしてあるので清潔であるし見栄え悪くはないと思うが……服は本当に寝間着で良いのだろうか。
元々就寝の衣類は自宅から持ってくる癖があるのでまだよかったが、こんなことならばもう少しまともな夜着を持ってくればよかったと後悔する。

「…」

コト…と櫛を置き、片手を胸に添えて鏡に映る自分を見る。
コンクールの前などの癖で、無意識に胸に添えていた両手に気づいてぱっと開いた。
目を伏せる。
両手を合わせるようにして口の左右を覆い、深呼吸をすると気に入っているハンドクリームの香りがし、いくらか落ち着く。
目を開け、一呼吸してから踵を返した。
そろそろ時間だ。
…クローゼットを開き、アウターを取って袖を通す。
ホテルという公共の場ではこの姿で廊下へ出るのは気が引けるが、裾の長いものであったので一瞬見ただけでは夜着だとは思われないかもしれないし、それに都築さんの部屋は近い。
おそらく誰にも会わないだろう。

「…よし」

わたしなりに気合いを入れて、ベッドから枕を持ち上げるとキーを持って部屋を出た。
すぐ近いから大丈夫だろう。
誰にも会わない。
そう思っていたのだが――…。

「おっ。麗っちーっ!」
「…!」

予想に反してわたしが部屋を出た直後、背後から声が…しかもそれなりに大きな声が…かかり、飛び上がりそうになった。
この声は…!と、夜の廊下で声を大に名を呼ぶ相手を咎めようと勢いよく振り返った……が、声の主の隣にもう一方いらっしゃったので、強く咎めようとした勢いが瞬時に弱まる。
「High×Joker」の伊瀬谷が案の定大きく手を振り、隣には同じユニットの秋山さんがいた。
二人とも、部屋に備えられていた白い簡易パジャマのようなものを着ていた。
伊瀬谷の隣で、秋山さんが片手を上げる。

「やっほ。おつかれー」
「こんばんは。お疲れさまです」
「バンバンワーっす!麗っちもアイスっすか~!?」

伊瀬谷一人だけならまだしも、秋山さんは私よりも年上。
枕を持った手で申し訳ないが、彼に向かって会釈をしていると、横から伊瀬谷がぐっと近づいてきて持っていたアイスクリームのカップを手の平に乗せ、まるで宝玉のように掲げる。

「ホテルの夜はやっぱいつもよりちょいリッチなアイスっすよね~!あと恋バナ!!も~今日はハヤトっちとマジラブトーク満載の夜っすよーっ!!セイシュンな夜はやっぱ男同士だからこーそーのっ、アゲアゲウラネタ満載でいかねーとっすよね!?」
「え、わ…っ」
「…貴殿が何を言ってるかさっぱり分からないのだが」

満面の笑みでわたしにアイスを見せたかと思えば、くるっとその場で回転してそのまま踊るように秋山さんの腕を一方的に組む。
相変わらず喧しい男だ。
それに、途中から何を言っているのか全く分からない…。
要は、同室になった秋山さんとアイスを食べながら話をすることがとても楽しみ…という感じだろうか。
そう言えば、彼らはこの階のツインルームだったはずだ。
…都築さんの部屋に行くことを特別なことのように感じていたが、考えたら、わたしたちが彼らのようにツインルームになる可能性もあったのだから、同じ部屋で眠ること自体はいつものミニライブやロケ地ではよくある話だった。
ということは、今の特別感の要点は同じベッドで寝るという点のみということだ。
そうか…。
そうだな。
少しハードルが低くなった。

「…」
「ところでさ、枕なんか持ってどこか行くの?」
「あ、これは…。いや、その…っ」

指を唇に添えて思案していたところ、不意に秋山さんに尋ねられて肩が跳ねた。
右に左に視線を動かし、一度両手で枕を背へ隠したが隠れるはずもなく、再び両腕で前に持つ。
秋山さんの横で、きらんと伊瀬谷の眼鏡が光った。

「おおおぉおおっ!? ちょっ、麗っち!よく見たらパジャマじゃないっすか!?」
「え? …あ、本当だ」
「…!」

アウターの裾から出ている膝下へ注目され、思わず一歩後退する。
お二人のように備え付けの寝間着ならばいいということだが、持ち前の夜着で公共の場に出るのはおそらくマナー違反であるだろう。
短い距離ならばと思っていたのだが、現にこうして誰かに見つかってしまうと流石に罪悪感が生じ、頬が熱くなった。

「へ~、何かいい生地っぽいパジャマだな。持ってきたの?」
「ぁ…こ、これは…。…いや、すまない、見苦しい姿で。すぐそこなので、誰にも会わないだろうと…」
「論点ちっがーうっ!自前カワパジャで枕持って、一体全体ドコ行くっつー話っす!!」

ぶんぶん両腕を振るったあと、仁王立ちした四季が片手を腰に添え、アイスを持つ手の平でびしりとわたしを指す。
指先ではないにしろ手の平で示され、少々むっとせざるをえない。

「そのいつにもましてサラサラ~なヘアとこの匂いはどー考えても風呂上がりっすね!? 髪良し体良しパジャマ良し枕良しで、行く先は誰っすか!?」
「え…。……あっ!え!?」
「都築さんの部屋だが」
「ええ~…?」「うええええええっ!!?」

急に秋山さんがわたしと伊瀬谷を交互に見、今から行く部屋の主を教えると双方とも声をあげた。
思いの外その声が大きかったもので、人差し指を立てて「静かに!」と伝えると、慌てて声量を抑える。
ここが廊下であることをお互い思い出し、直前よりも頭を寄せ合って小声に変えた。
伊瀬谷が随分渋い顔をする。

「マジっすかぁ~麗っち。…あ~。いや、別にいーんすけど、麗っちレベルだともーちょい上を狙えるっつーか、あのヒトで大丈夫かどーかオレ的心配っつーか…」
「伊瀬谷、貴殿の言っていることは先ほどから意味が不明だ。…今夜は、都築さんにお誘い頂いたので、あちらで休む約束をしたのだ。…。その…内密にしてくれないか。折角部屋を用意していただいたのに、使わないというのは心苦しくて…」
「了解っすー!後でカンソーヨロ!!」
「あ、ああ…。機会があれば…」
「……」
「…秋山さん? 大丈夫ですか。顔色が…」
「えっ!? あ、いや…!!だだだだだいじょーぶっ!!」

わたしと伊瀬谷が話している間に、ふらふらとすぐ横の壁に片手をついて首を垂れていた秋山さんの顔色が赤く、心配になったが、声をかけるとぶんぶんと手を振って応えてくれた。
…湯中りだろうか。
足下がふらついたのかもしれない。
部屋の浴槽を借りたわたしとは違い、お二人は大浴場へ行ったようだから。
わたしがこの場にいては気を遣わせてしまうだろうし、そもそも都築さんをあまりお待たせしたくはない。

「早めに休んでください。体調を崩さぬよう、お互い気をつけましょう。…では、あまり都築さんを待たせたくないので、この辺りで失礼します。おやすみなさい」
「あ、ああぁ…。お、おやすみいぃ…」
「麗っち、ファイトっすよー!」

二人から離れかけた時、伊瀬谷がぐっと片腕で拳をつくりわたしへ向けてくれた。
それに倣い、わたしも片手を固める。

「…ああ!」

喧しいが少しずつ砕けてきた伊瀬谷と、軽く片手をあげて見送ってくださった秋山さんから離れ、ぱたぱたと足早に廊下を進んだ。

 

 

彼らの姿がまだ見えるくらいの距離のドア前へ進み、深呼吸してノックする。
…だが、数秒経っても反応がない。
寝ているのだろうか…?
心配になってもう一度ノックをしようとした時、ガチャリを内側からドアが開いた。
わたしと同じく、持って来た自分の寝間着に身を包み、肩にカーディガンを羽織っている都築さんが迎えてくれてほっとする。

「やあ、麗さん。待ってたよ」
「すみません。お待たせしました」
「大丈夫。ちゃんと起きていられたから。…さあ、どうぞ」

都築さんはいつかのイベントで着ていた、見たことのある寝間着だった。
それが少し嬉しく感じる。
一歩部屋に入ってしまえば、誰かに見つかるとびくびくする必要もなくなり、腕で覆い隠すように抱いて持っていた枕も両手で普通に持ち直す。
第三者の存在の心配が消え、ほっと息を吐いた。
都築さんが、羽織っていたカーディガンをイスの背にかけながらわたしへ尋ねる。

「麗さん、歯は磨いてきた? すぐに寝られるかな」
「あ、はい」
「そう……。僕も磨いたから、じゃあさっそく寝――…」
「…?」

会話の途中で、ふと都築さんが今わたしが入ってきたドアの方を見た。
何だろうと視線を追ってそちらを見るが、鍵のかかったドアがあるだけで違和感はない。

「…どうかされましたか?」
「し…」

人差し指を口元に添えて「静かに」と示し、ふわふわといつもの浮かぶような足取りで都築さんがドアへと向かう。
わたしも脱いでいたアウターを腕にかけながらその様子を見守っていると、彼はゆっくりと慎重に鍵をはずし、ドアノブを回した。
途端――、

「わっ!?」
「うおあっ!?」
「…!? 伊瀬谷、秋山さん!」

荷物がなだれ込んでくるかのように、何故か伊瀬谷と秋山さんが内側へ倒れ込んできた。
予想外の現状に一瞬頭が着いてこなくなる。
…??
な、何だ?
何故二人が?
疑問が生じるが、それよりも枕を傍のイスへ一度置き、倒れているお二人の傍へ足早に歩み寄り手を差し出す。

「一体どうしたのだ。二人とも…」
「あ、あっはははは…。いや、その…」
「悪気はないっすよ!? ただ、オレら的に麗っちが心配で!」
「んーっと……。麗さんが招いたのかな?」
「いいえ。ですが、先ほど廊下で会ったので…」

都築さんに尋ねられ、彼の方を向いて応える。
きっと、遅くに一人で、しかも夜着で出歩いていたので、目的地に着いたかどうかを案じてくれたのだろう。
同じフロアであるし、流石に心配は無用だと思うのだが。
伊瀬谷に手を貸して立たせ、相変わらず顔色が落ち着かない秋山さんもその横で立ち上がる。
都築さんは顎に片手を添え、困ったような顔をした。

「四人は……少し多いかなぁ。ベッドは一人用だからね」
「そう…ですね」
「えっ…!いやいやいやいやっ!!俺はっ、俺はいいですっハイっ!」
「マジっすか、ハヤトっち!こんなレアイベント滅多ねーっすよ!? …ハイッ!オレ、メガキョーミあるっす!3Pとかどっすか、3P!!」
「ばっ…!おいシキっ、止めろって…!!」
「う~ん……。三人もちょっと多いなぁ。…それに、君たちの音を夜にずっと聞いているのは、楽しそうだけれど、少しだけ疲れてしまうかもしれないし……。君たちの音は、太陽の下が似合うよ。また明日聞かせてくれる?」

伊瀬谷が勢いよく片腕を上げるが、都築さんがそう答えてくれてほっとした。
ぼんやりとした発言にお二人は首を傾げているが、最近彼の言うことが解ってきたわたしとしては一度だけ小さく同意の為に頷く。
元々、一人用のベッドに四人なんて無理な話だ。
断られたことは伝わったのか、伊瀬谷は両手を頬に添えてあらか様にショックを受けた顔をつくる。

「ガーン!一発フられとかメガショックっす…」
「そういうわけで、申し訳ないのだが…」
「い、いや…。俺たちの方が悪いし、その…勝手にあと着いて来ちゃって……すみませんでしたっ!」

勢いよく秋山さんが頭を下げたかと思ったら、そのまま伊瀬谷の腕を掴んだ。

「じゃ、じゃあ…!俺たち帰りますっ!あの、ホント、邪魔してスミマセンでした!」
「おわっ、ハヤトっち何急いで……っと、あ、そんじゃ麗っち圭っち!また明日!バイバイシュー☆」

勢いよく駆け出す秋山さんに引っ張られ、伊瀬谷もウインクを残して出て行った。
何もできずただ見送っていたわたしたちの前で、支える手を失ったドアがゆっくり閉まり、やがてバタンと閉じる。
残されたのは突然の静寂だった。
…まさしく嵐、だな。

「彼らはとても賑やかだね」
「…そうですね」

のんびり言う都築さんの言葉に、呆れ半分で同意する。
…結局、何しに来たんだ、彼らは。
わたしと都築さんが同じ部屋で寝るということを意外に感じて、様子が気になったのであろうが…。
そういえば、伊瀬谷は「大丈夫かどうか」とか「心配」とかを口にしていた。
それが興味本位であろうとも、形は同あれわたしのことを案じてくれたのだろう。
…。
そんなに、わたしは見るからに心配そうであろうか。
確かに、こういったことは初めてであるが…。
あれこれ考えていると、もう一度鍵をかけなおした都築さんがこちらを振り返った。

「それじゃあ、寝ようか」
「あ、はい…!」

都築さんに続いて再び部屋の奥へと戻る。
途中にあるクローゼットへ、腕にかけていたアウターを仕舞った。
都築さんはもうすっかり寝支度を整えていたようで、特に何を語らうつもりもなさそうにベッドの側へ行くと布団を開いていたので、わたしも改めて持って来た枕を持つとそちらへ歩み寄った。
そっとベッドの端へ枕を置いてみる。

「…都築さん、こちらで宜しいでしょうか」
「うん。…ああ、もっとこっちへ置いていいよ」

中央に元々あった枕を、都築さんが横へと動かしてくれた。
持って来たわたしの枕と合わせて二つ並べると、まるでダブルベッドのようになる。
シングルの部屋ではあるが、普通のベッドよりは広いもののようだし……幸い、わたしも都築さんも体つきが大柄な方ではない。
これならば、二人寝ても問題はない…だろう。おそらく。
眠ることが好きな都築さんが早速ベッドへあがるのを見て、緊張が増す。

「…」
「今は、珍しく"Allegretto"だね」
「え…?」
「麗さんの音が。…ほら、いつも夜に会うと、麗さんはLentの時が多いから。麗さんは、昼よりも朝や夜の方が好きなんだよね。さっき、下でお茶を飲んでいた時もそうだったよ。けど今は、随分落ち着いていないように聞こえる」
「…!」

ベッドの上に正座し、軽く片手をあげて何気なく告げる都築さんの言葉にかっと僅かに頬が熱くなる。
非現実的ではあるものの、都築さんの持っている対峙する相手の心音や感情を察する感受性の高さは分かっているつもりだ。
緊張しているのは確かだが、それをずばりと"やや速い"などと言われては入る穴もない。
…これはいけない。
隠すことは到底無理そうなので、視線を落として正直に白状することにした。

「…あの、お恥ずかしい話なのですが…。わたしは、こういったことには慣れていなくて…」
「そうなの?」
「はい…。誰かと床を共にするというのは初めてで…。至らないことも多く、都築さんへご不便おかけすると思います。不束者ですが、今夜はどうぞ宜しくお願いします」

両手を握り合わせ、深く頭を垂れる。
…と、都築さんも真似て頭を下げた。
同じ仕草のはずだが、何故かわたしと違ってそのままぼとりとシーツに倒れそうで心配になる。

「こちらこそ、宜しくお願いします。……けど、難しいことはないよ。僕は麗さんの音を聞いていたいだけだもの」
「はい。…えっと、それでわたしは…まずはどうしたらよいのでしょうか。無知なもので、都築さんのなさりたいよう、何でも言ってください」
「そう? ……ああ。じゃあ、はい」

す…と、都築さんが私へ片手を差し出した。
…何だろうか。
白くて美しい手の平を見詰めてから再び都築さんへ顔を向けると、にこりと微笑される。

「それじゃあ、まずは横になるといいよ。お手をどうぞ、麗さん」
「あ…。はいっ」

その手を取って、こわごわベッドへ膝を乗り上げる。
…二人で一台使うとなると、一人の取り分としてこの辺り……と、色々考えながら、行き過ぎない場所へ、わたしも座した。
繋いだ手の向こうで、都築さんがどこか満ち足りた様子で目を伏せる。

「…こうして目を閉じて耳を澄ませば、こんなに近くに麗さんの音が聞こえる。……うん。いいね」
「そう、ですか…」

そう言ってくださるとほっとする。
暫くそうしていたかと思うと、どこか眠たげな双眸を再び開いて微笑みかけてくれた。
何とか緊張も解けてきて、わたしも少しくすぐったいような気持ちのままほんの少し首を傾け微笑みを返せたと思う。

 

 

 

 

 

 

「――…っっっで!でっ!でっっ!?」

…と、向かい合って座った伊勢谷が妙に瞳を輝かせ、前のめりにテーブルに身を乗り出してくる。
「報告を」という希望もあったし、わたしのことを案じてくれた恩もある。
早めに伝えたくはあったが、翌日は朝から忙しく、結局こうして話せるのは昼食後になってしまった。
会場ロビーのソファセットが一つ空いていたのでそこで休憩がてら話をすると、さっきまで普通に座っていたはずの伊瀬谷が両手をテーブルに着いて、いつの間にか腰まで浮かせてずいと向かい合う私の方へ寄ってきている。
横にいる秋山さんも、そこまでではないにしろやはりいつの間にか当初座っていた場所よりもわたしとの距離が近くなっていた。
今日も顔色がお悪い気がするが、大丈夫なのだろうか。
…というか、こうも接近されると、わたしの方が身を引かざるを得ない。
軽く後退しつつ、右手を少し挙げて伊瀬谷を制する。

「伊瀬谷、落ち着け。話くらい座って聞かないか」
「はぁ~!? こんなん落ち着いて聞けるワケないじゃないっすかー!真っ昼間からテンションアゲアゲもいいとこっすよぉん!!」
「わっ…」

妙に猫撫で声で、しかもいつにも増しての喧しさで立ち上がったかと思うと、伊瀬谷は跳ねるようにテーブルを回って急に私の隣へ滑り込むようにやってきて座った。
がっと肩を組まれ、思わずびくりと体が跳ねてしまった。
一瞬遅れで、咎める意を瞳に込めて顔が近い伊瀬谷を見る。

「何をするんだ貴殿はっ、急に――」
「とりまソコはおいといてーっ!」
「と、とりま…? とは何だ?」
「そんでそんでっ? 実際どーだったんすか!? 圭っちとラブラブのベタベタでグチャグチャな感じっすか!? てかちゃんと最後までできたんすか!」
「勿論だ。朝まで都築さんと一緒にいたぞ」
「おおおおっ!! え、圭っちと寝るの何回目なんすか?」
「それは――…初めて、だが…」
「初めてっ、とか!!」
「な…何か問題でもあるのか? 誰しも一回目があるだろう。わたしは…確かにこういったことは疎く、貴殿らにしてみれば他愛もないことかもしれないが…」
「ハヤトっちハヤトっちっ!!聞きたっすか!? うおーっ!!テー卒!? いや、ジン卒っ!?」
「…? てーそ…?」
「圭っちはどーだったんすか!優しかったっすか!?」
「それは無論だ。都築さんであってよかった。初めは緊張していたが、都築さんのお陰でわたしも心地よく朝を迎えられ――」
「うおーっ!マジめでとーっす、麗っちーっ!!」
「あ…ああ。ありが…」
「――…いや、ていうか…さ、」

喧しい伊瀬谷と違い、ずっと黙って聞いていた秋山さんが小さく右手を挙げる。

「ここまで聞いてると何ていうか……違う感がひしひしと、っていうか…」
「…違う感?」
「えー? 何が違うんすか、ハヤトっち?」
「えっと…」

一人対峙した座席に残った秋山さんが、指先で頬を掻きあらぬ方向へ一度視線を泳がせる。
それから、わたしへ申し訳なさそうな顔を向けた。

「変なこと聞くけど…。麗君、昨日俺たちと会った時、お風呂上がりだったじゃん?」
「はい」

昨晩、都築さんの部屋へ行く道中に彼らに会ったとき、確かにわたしは風呂上がりであった。
床を共にするのだから、都築さんに嫌な思いはさせられないので――。
…昨晩のことを思い出していると、続けて秋山さんが人差し指を立てる。

「…でさ、その後、今この瞬間まで、もう一回、がっつりお風呂入ったりした? シャワーでもいいけど」
「…? いいえ?」
「………………へ?」

朝起きて勿論身支度は調えるが、風呂に浸かることはない。
唐突な秋山さんの質問に答えると、隣で伊瀬谷が固まった。
秋山さんが再び笑いかける。

「えーっと…。じゃあ、昨夜は都築さんと一緒で、よく眠れた?」
「はい。とても。誰かと同じ布団で眠ったのは初めての経験でしたので…。慣れるまでは緊張しましたが、先ほど申し上げたように相手が都築さんであったので程なくそれも解れ…」
「うん…。…うん、だよね」

数秒間の沈黙があり、その後、秋山さんが伊瀬谷へ笑いかける。

「ほら。…な?」
「ほわあああぁあぁ――いっ!?」

またも、急に伊瀬谷が大声を上げる。
ひときわフロアに響き、数名がこちらを振り返る程だ。
だが、そんな他者の視線を気にも留めず、伊瀬谷は両手で顔を覆って何故か勢いよく天を仰いだ。

「えっ、え!? そんなんあるんすか!? …はああーっ!? だって……え!? ハヤトっち一緒に見たっしょ!あの完成度!何なんすかヲワってんすか!? 一晩一緒でなんもねーとか!一体オレの麗っちの何が不満なんっすかぁああああ――っ!?」
「わたしは断じて貴殿のものではないが」

流石に喧しすぎて頭痛がしてきたので、そろそろと暴走する伊瀬谷から離れ、わたしが逆に秋山さんの隣へ移動する。
伊瀬谷の言っていることは常々意味不明であるが、今日は特に意味が通じない。
さっきと違い、ソファの背に体を預けて妙に疲れている様子の秋山さんへ、小声で語りかけた。

「…今日の伊瀬谷は、情緒不安定なようですが」
「ああ…。うん、いいよ。ほっといて。…ていうか、俺も今結構な衝撃だから。…ぷあ~。でも、俺はちょっとほっとしてる。…そっかぁ。よかったあ~。寝ただけかー…だよな~」
「寝た、だけ……」

突然、掌を返したように安堵を見せる秋山さんと、いつもの三割増しで喧しい伊瀬谷の言動を観察し、ふと不安にかられる。
もしかして……わたしは、昨夜何かミスをしたのだろうか。
共に寝る以外に、やはり何かすることがあったのではないだろうか。
わたしも都築さんの部屋へ行き、すぐに横になったことに多少の違和感は持っていた。
少なくとも、少しは彼と語らうものだと予想をしていたから…。
例えば……例えば、わたしはこれもまたやったことはないのだが、噂によるところの……トランプ、とか、こいばな(恋愛の話をすることらしい)とか…。
そこまでいかなくとも、せめて音楽史の話や最近の音や曲のことについて語らう時間があってもよかったのではないだろうか。
…考えたら、本当に都築さんの部屋で眠るだけだった。
折角床を同じくしたのに、会話らしい会話も特になくすぐに寝入ってしまったが……あれでは本末転倒だったのではないだろうか。
共に夜を過ごして、日頃は話せないことを話す。
それが、主立った目的だったのでは…?

「…」
「すんごい難しい顔してる」

いつの間にか片手を顎に添えて思案していたわたしを見て、秋山さんが苦笑される。
伊瀬谷は、相変わらず向かいのソファで何事か喚いているようだ。
どちらに尋ねるべきかは一目瞭然で、両手を膝で重ね、秋山さんへ小声で尋ねる。

「…わたしは、何か至らぬ点があったのでしょうか」
「えっ…!それ俺に聞かれても…Altessimoのことは俺らじゃ分からないし…。だよな?シキ?」
「いやっ!!百パー圭っちが悪い!麗っちは悪くないっすっ!!」
「…!都築さんに至らぬところがあったわけじゃない…!おそらくわたしが何か――」
「いやだから別にそーゆーのじゃないんだってっ!」
「つーかそんなんじゃ昨日はオレとハヤトっちの方が――」
「わーっ!!バカバカシキっ!しーっ!しーっ!!」
「…?」

秋山さんに聞かれたからとはいえ、それまで一人喚いていた伊瀬谷が唐突に話に参加してきて、それを秋山さんが諫める。
どうやら伊瀬谷はわたしのことをフォローしているつもりらしいが、都築さんが悪いと言っている手前、やはり昨夜のわたしたちは何か一般的な過程を欠いていたのだろう。
わたしも都築さんも少々変わり者に属するようであるから……まして都築さんはわたし以上に浮き世離れしているところもあるし……自分たちではなかなか気づきにくいのかもしれない。
…とはいえ、危なっかしいところも無きにしも非ずだが、都築さんはわたしよりもずっと大人だ。
彼から"一緒に寝てみよう"とお誘いいただいたわけだし、流れを知らないということはないと思う。
おそらく、誘ったはいいものの、わたしが何か常識を欠いていて、わたしに伊瀬谷や秋山さんの言う過程を求めるのは酷であろうと途中で諦めたのかもしれない。

「…」
「あー…。…そんなに落ち込むことないって」

自然と落ちていたらしいわたしの肩を、秋山さんがぽんぽんと気さくに叩いてくださる。

「その…ごめんな。俺らが一方的に騒いじゃったから、不安になるよな。散々言っといて何だけど、俺らのことは気にしないでくれていいから。変なのは俺たちの方だったって話」
「そう…なのか…? …いえ。ですが、わたしの方があまり貴殿らのいう"普通"を知らぬことが多いので…」
「いーんっすよ、麗っち!」

正面にいたはずの伊瀬谷が再びその席を離れ、ずざーっ!と再び滑り込むようにわたしの背後から抱きついてきた。
…騒がしい上にしつこく、また鬱陶しい。
腹部に回された両腕を外しにかかる。

「こーゆーのは野郎側の男気の問題っす!」
「…」
「シキ、話ややこしくなるから。…ていうかさ」

密着している伊瀬谷を押しのけていると、秋山さんが再びわたしを見た。
今度は、朗らかな日差しのような柔らかさで笑いかけながら。

「俺もなかなか難しいけど…。"普通"なんて人の数程あるんだし、あんまりそれ気にしすぎない方がいいんだと思うよ。それが自分なんだからさ」
「…はい」

秋山さんの笑顔にその時は安堵できた。
確かに、わたしは閉鎖的な自分の育ちと環境にコンプレックスを持っている。
それが大袈裟すぎてしまうのは自惚れと変わりない。
小さく頷いて納得し、伊瀬谷を引きはがして立ち上がると深く一例してその場を立ち去った。

とはいえ――…。

 

 

 

 

――そう、とはいえ、だ。
物が入り乱れているステージ裏の通行路を進みながら、複雑な心境を自身で考える。
秋山さんの言葉や考え方はとてもありがたい。
人の数だけ"普通"と呼べる常識も考えもある。
だからわたしは、無理に他者に合わせることはないのだと言ってくれた優しさは嬉しいが…ここで咄嗟に頭に浮かんだ人物がいた。
Jupiterの伊集院さんだ。
同じくクラシック一家として有名な伊集院家だが、彼はとても社会に溶け込んでいる気がするし、コミュニケーション能力も長けていると感じる。
年齢が違うと言われればそれまでだが、彼がわたしの年齢であった頃をイメージしても、やはり長けた少年だったに違いない。
…気づけば急ぎ足でステージ裏を歩き、建物の端にあるドアから最後に屋外に出る。
業者の出入りが少ない昼休みは人影もなく、建物周囲の森林に吹く風が通って爽やかだ。
少し離れた場所に、探していた後ろ姿を見つけてほっとする。

「都築さん」
「…うん?」

花弁が揺れるような自然な柔らかさで、都築さんが振り返った。
その時に足下に猫がいることに気づく。
猫はわたしの姿を見るなり、都築さんを見上げて一声高く鳴いた。
都築さんが足下の猫を見下ろし、低く片手を上げる。

「ああ…。うん。それじゃあ、またね」
「…」

そう言うと、猫はさっとその場を後にした。
…。
また謎の対話を…。
けれど、こうも目撃例が多いとそろそろ信憑性が出てきてしまう。
感受性が豊かすぎるのだろう。
それは都築さんの素晴らしいところでもあるわけだが…。
猫が立ち去ったのを見届けてから、傍へと近づく。

「えっと…。すみません、お邪魔して」
「ううん。彼女はそろそろ帰ると言っていたから、丁度良かったくらいなんじゃないかな。また後で来るって」
「そう、ですか…」
「うん。…ところで麗さん、何か僕に用事かな?」
「…はい」

胸の前で組んだ両手に、ぎゅっと決意を込める。
一度目を伏せ、すぅ…と息を吸ってから覚悟を決めた。
双眸を開き、都築さんへ面と向かって尋ねる。

「あの、昨晩のことですが」
「昨晩?」
「はい。わたしに、何か至らぬ点があったのではないでしょうか」
「…?」

少し距離のある都築さんを、真っ直ぐ見詰めて尋ねてみる。
きっとそうだ。
隣人の短所を指摘することが難しいのは分かる。
かくいう私も、そう容易く行えるものではない。
だが今は、共に同じ道を歩くと決めた以上、都築さんと共に成長していきたい。
わたしは、都築さんがわたしの短所に気づいたのならば、指摘していただきたいのだ。
そういった意思を込めて見詰めるわたしの視線の中で、どこかぼんやりと瞬いていた都築さんは、少し表情を崩してから僅かに首を傾げた。

「麗さん、それは……誰かに、何か言われたのかな?」
「え…。あ、はい」
「麗さんは、昨晩僕といて、何かが足りなかったと思っているみたいだけど……。何かしたいことがあったということ?」
「いえ、わたしは…」

てっきり、明確な返答があるかと思っていた。
予想外の切り返しに、今度はわたしの方が顎に片手の指先を添えて考え始める。
…したいこと。
都築さんとしたいこと…。
…。
正直、枕投げやこいばなをするよりも、わたしは昨夜のような落ち着いた夜の方が好ましい…。
可能ならば一曲くらいセッションをしたかった気もするが、私のヴァイオリンならともかく都築さんのピアノがあるわけではないので、それは不可能だろう。
それ以外、という意味のはずだ。
わたしは、昨晩でとても満足だった。
だが、何か行程を踏んでいないのであれば、都築さんが不満であったろうと思い…。
どう伝えようかと迷っていると、都築さんが緩く両手を開いて目を伏せた。
歌うように薄い唇を開く。

「僕は、昨日の夜麗さんと一緒に眠れて、とても気持ちが良かった。途中までは緊張していたみたいだけれど……やがては君の心音、寝息が夜気と絡み合い、心を解す優しく広い音が降りてきた……」
「音が降りて、って…。まさか…」
「うん。三曲程書いて、プロデューサーに渡してきたんだけどね。あれは……何になるんだろうなぁ。一応、曲だけで勿論歌詞はまだないんだけど……」
「なっ…」

愕然とする。
そう言えば朝起きて室内の様子に違和感を持ったが、それは今思えば窓際のテーブル上に、寝る前はなかった数枚の譜面があったからではなかったか。
…何てことだろう。
わたしとしたことが、都築さんが夜間起きていたことも気づかずに一人熟睡を…?
猛烈に羞恥を覚え、頬を押さえる。
パートナーが作曲をしている間、わたしは同じ部屋でひたすら眠りこけていたわけだ。
きっとはしたなく思われたに違いない。

「申し訳ない…!」
「? 何がだい? ……ああ。寝ていたことかな。別に謝るようなことじゃないよ。麗さんが眠っていないと、その曲はたぶん降りてきてくれなかったと思うし……。そうじゃなくてね、僕は昨夜はとても満ち足りていたんだ。麗さんもそうだろうと思っていたんだけれど……違ったかな?」
「いえ…!わたしも心地よく、満ち足りました…!」

首を傾げて尋ねる都築さんに、慌てて否定する。
確かに初めは慣れなかったが、やがてはまるで『亡き王女のためのパヴァーヌ』を聞いている時のように心が静まり穏やかだった。
だからこそ熟睡ができたのだ。
わたしは十分満足していた。
都築さんもそうであるのならば、不安は杞憂ということになる。
改めてこうして尋ねて尚、都築さんが正直な気持ちをわたしから隠すということはないのだと思いたい。
彼は、わたしの敬愛するパートナーなのだから。
わたしがそう応えると、都築さんはどこか眠たげないつもの笑顔を向けてくれた。

「それじゃあ、何も問題じゃないんじゃないかな?」
「…。本当に、落ち度はなかったのでしょうか…。どうも、伊瀬谷たちが言うには何か足りていないという様子で…」
「ああ……。彼らか」

わずかな風にそよぐ髪を片手で押さえながら、都築さんが瞬きをした。
どう結論づけていいか分からず躊躇っていると、距離のあった都築さんが数歩わたしの方へ歩み寄ってきた。
近づいてきた彼に視線を上げると、ふ…と軽い動作でわたしの片手を取り両手で包み込むように握る。

「…ねえ、麗さん。僕はね、彼らが何を言っているのか、何となく予想ができるよ」
「…! そうですか。よかった、それなら…」
「うん。けれどね、それは僕らには必要のないことだと、僕は思うな……。万人に適した常識や習慣は、ないからね。……昨夜、僕は麗さんと一緒に眠れてとても気持ちが良かった。だから新しい音も降りてきた。麗さんもそうならば、僕らはこれでいいんだ」
「…。いいんで…しょうか…」
「それとも……、やっぱり楽しくなかったかい?」
「いいえ…!」

ぶんぶんと首を振る。
流れ包み込むような声が、耳から頭と心へとしみこんでくる。
包まれた手にあたたかみを感じる。
都築さんが丁寧にそう諭してくれたので、細波立っていた胸がようやく少し落ち着いた。
…そうか。
そうだな。
秋山さんもそう言っていたではないか。
考え始めれば切りがないが、原点に返ればわたしが心地よく、都築さんが良いのならば……無理に、周囲に合わせずとも構わないのだ。
わたしがいきなり伊瀬谷たちに合わせようと思ったところで、土台無理な話なのだ。
…わたしの手を両手で包んだまま、いつの間にか目を伏せていた都築さんが、ふっとその双眸を開く。

「…音とリズムが戻った。……落ち着いた? 麗さん」
「はい」
「それはよかった。麗さんが困っていると、僕までテンポが狂う気がするよ。あまり僕は乱れない方なのだけど、僕らは組曲だからね。…彼らの言うことは、あまり気にしなくていいと思うよ」
「はい。そうします」
「うん」

両手が離れる。
都築さんは体温が低めだが、それでも手が離れれば寒く感じた。
再び首を軽く傾げ、わたしへ語りかける。

「それに、どうしても麗さんが興味があるのなら、僕が何を伝えたところで止まらないだろうしね」
「そんなことはありません。都築さんの助言は、とても参考にさせていただいています」
「そう…? それはよかった。僕も、麗さんといるのは楽しいよ。僕よりずっとしっかりしているしね」

そう言われ、は…っと気づいて顔を上げる。
建物の外側に設置されている大きな飾り時計があり、それは昼食休みの残り十分を示していた。
自分のことばかり気にしていたが、嫌な予感がして再び都築さんへ視線を戻す。

「都築さん、昼食は召し上がりましたか?」
「昼食…? ……ああ、うん」
「…因みに何を?」
「あれを」

体を僅かにずらして、先ほど都築さんが猫といた場所を示した。
だが、そこにあるのは案の定ミネラルウォーターのペットボトルが一本だけだ。
ぐらりと一気に焦りを覚える。
ライブのリハーサルは、想像以上にハードなのだ。

「せめて固形物を召し上がってくださいと申し上げたはずです…!」
「う~ん……。でもね、十分なんだよ」
「いいえ、いけません!途中で倒れたり眠ったりされては困ります。…さあ、いただいたお弁当があるはずです。一口でいいので口にしてください。どちらに置いてきたのですか」
「ん? もらいに行ってないよ?」

一気に体が脱力する。
…ああ、自分のことなど放っておいて、まずは都築さんと共に昼食を取るべきだった。
都築さんと一夜を過ごしたことが誇らしくて、すぐに伊瀬谷たちの所へ行ってしまった。
後悔先に立たず。
今からではとても難しいけれど、本当に一口くらいでも口にしていただかなければ。
置きっ放しになっているボトルのところまで行って拾い上げると、そのまま戻ってきて今度はわたしから都築さんの片手を握った。

「さあ、中へ行きましょう。きっと都築さんの分が部屋にあるはずです」
「けど……もう午後の時間に入るから」
「わたしたちの順番までには時間があります。プロデューサーに伝えて、少々猶予をいただきましょう。取れなければ次の休憩にでも召し上がっていただきます」
「おっと……」

足早に歩き出すわたしに引っ張られるような形で、都築さんも庭を出る。
わたしが歩いてきた時は人影も多かったが、もう皆移動し始めているのか、建物内に戻ってすぐの廊下には誰もいなくなっていた。
焦りが出て、更に足早になる。
ええと、ここからだとわたしたちの控え室は…。
頭の中に記憶している建物の案内板を広げる。

「……そうそう、麗さん。さっきの話の続きだけれどね」
「はい。…えっと、ここが東側だから」
「もし麗さんが自身で……自分のタイミングでそれを欲したのなら――」

歩きながら振り返る。
繋いだ手の先で、都築さんがふんわりと笑った。

「僕はもちろん、君の音と重なる準備はあるからね」
「…?」

実のところ、話半分で直前に都築さんが何を言ったのかよく聞いていなかった。
だが、その笑みからして良きことを言ったことは分かった。
わたしが何かしらの反応をする前に、再度都築さんが口を開く。

「ねえ、麗さん。よかったら、今日の夜も一緒にどうだろう?」
「…!」

今度の言葉ははっきりと聞いていたし、願ってもいないことだった。
昨夜は本当に心地よかったのだ。
二つ返事で応えてしまいそうなところを、一瞬ぐっととどまる。

「…。ちゃんと、眠ってくれますか」
「うん?」
「夜中に起きて、譜面など仕上げないでいただきたいのです」
「何かいけない? 降りてきた時に書き留めてあげたいんだけどな……」
「約束していただかないと、困ります」
「そう?」

こてん、という擬音が似合いそうな様子で都築さんが首を傾げる。
こくこくと頷いて同意を求めると、やがてその首を縦に振ってくれた。

「そう……。それじゃあ、朝起きた後ならいいかな?」
「ええ…!もちろんです。それでは、ぜひお願いします!」

与えられた言葉に、わたしも笑みを返す。
今夜も都築さんと一緒。
約束だけで、今からとても心が弾む。

…とはいえ、まずは昼食、です!



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浮き世離れしてる都築さんとしっかり者麗ちゃん。
どろどろでもいいけど、ひとまずはきれいな関係で。
タイミングがあるよねー。
2017.1.18





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