今の事務所は好きだ。
広さ的には前ほどじゃないけど、間取りってわけじゃないはずなのに、事務所全体が明るく感じる。
気のいい人たちに、殆どが年上だけど可愛い後輩がたくさん。
けど…。
「……あーあ」
じっとりと、湿気のある暗い空を見上げる。
夕日は終わり、けど完全に夜空っていう夜空でもない。
中途半端な色が気持ち悪い。
ふとこぼれた声が我ながら辛気くさくて、空を見るのを止めた。
また、少し視線を下げる。
何もない時は、いつもなるべく斜め下向いて歩いていることが多いけど、今日は尚のことそうして歩く。
僕が行く方角とは正反対……つまり、僕が歩いてきた方へ、何人かが浴衣姿で歩いて行く。
夏祭りがあるらしい。
神社のお祭りで、土手の方で最後に花火が上がるやつ。
興味がないわけじゃないけど…。
「…」
丁度、歩道の横にあったショーウィンドウに映る自分の姿が目に留まる。
制服に、顔を隠す為に降ろした前髪。
やぼったい感じだけど、これでいい。
プライベートは地味にしていたいから。
イイコ過ぎるのは目立つから嫌だけど、ワルイコするのは疲れるし手間。
"フツー"が一番いい。
面倒臭くないもん。
"可愛い可愛い翔太君"でいる時間以外は、誰も僕のことを見てくれなくていいと思う。
僕のフツーじゃない時間は、別にあるから。
僕の世界の中心は、学校じゃない。
…ま、溢れ出るオーラはいくら隠したところで、隠し切れないわけだけど。
はー。
夏祭りかぁ…。
いつだったか、仕事で行ったなー。
イベントでお祭り参加は多いんだけど、どっちかっていうとお祭りの真似事をしたライブが多いから、本当の、ただの"夜祭り"って、あんまり行ったことないかも。
とはいえ、僕が行って、万一目立っちゃったら厄介だし、いくら気心知れる友達と行くって言っても、疲れちゃうし。
一緒にいても疲れない二人は変装ヘタだし、うち一人は確実にナンパに走るだろうし…。
てくてく歩いていて、目的のマンションが見えてきた。
目指す部屋がここからでも分かるから、そこを見上げると明かりが付いているのが見えて、何だか意味もなく口元が緩む。
「…冬馬君ちから、花火見えるかなぁ」
きっと見える気がする。
そういえば、今日は北斗君遅いって言ってたっけ。
肩に掛けていたカバンをかけ直し、前を向いて、少しだけ急ぎ足でそこへ向かった。
今の事務所は結構気に入ってる。
…けど、961プロでもよかったなって思う時がある。
Jupiterは、黒ちゃんの中では"プレミアムアイドル"だった。
分秒単位でガチガチにスケジュール決められて、リハも本番も直前に現場に入るみたいにして他の人たちとはあんまり話させてもらえなくて、ファンとの接点も必要最小限で、だからその分「会えるのがものすごく貴重で嬉しい」アイドル。
ガード堅すぎ!そこまでする!?ってことも多かった……けど、その分三人だけでいられる時間も長かったんだなって、今になって思う。
最近、大して広くもないくせに、それでも世界がもっと、小さかったらいいのにと思うようになった。
老けたなーって、自分で思う。
「アンズ飴ー!アンズ飴作って、冬馬くーん!!」
「だーもーっ!うっせーな!来て早々何なんだよ、いきなり!」
冬馬君ちにお邪魔してすぐ、片腕を挙げて無邪気にオネダリしてみる。
両手洗ってうがいして、制服の上着脱いで、いつもみたいにピッとヘアバンで前髪上げてからキッチンに飛び込んできた僕に、エプロンして今から何か作ろうとしていたらしい冬馬君は鬱陶しそうに声をあげた。
そのままごり押ししようとしたけど、その前にまな板の上にキャベツとかいくつかの野菜の他に焼きそばの袋が乗っていて、ぴくりとそっちに注目した。
横からその袋へ手を伸ばす。
「あ、今日ってもしかして焼きそば?」
「まーな。野菜たっぷりで目玉焼き付けてな。ベースは辛くしねーから、皿に盛ったら自分の分に七味かけたいだけかけていいぜ」
「本当? やったね!じゃあ、七味だけじゃなくて一味もほしい~」
「両方かけんのかよ…」
「混ぜた方が美味しいんだもん。…ていうか、焼きそばいいね。もしかして、お祭りに合わせたの?」
「…あ? 祭り?」
持った焼きそばの袋を開けてあげながら聞いてみたけど、両手を洗っていた冬馬君は眉を寄せた。
どうやら、全くの偶然らしい。
なーんだ。合わせたのかと思ったのに。
「近くでお祭りがあるみたいだったよ。浴衣の人が何人か歩いてたし」
「ああ…。そういや、回覧板が来てたな。今日だったか? 毎年行く暇ねーから、全然見てねーけど」
「ね、もしかしてここから花火見られる?」
「見られるぜ。そうか、翔太は花火の日にウチにいたことねーのか。スゲー綺麗に見られるんだぜ。こういう時、マンションはいいよな。特等席だ。八時半くらいにシメで打ち上げるんだよな……ああ、それでアンズ飴か?」
「そ!」
お祭り=アンズ飴がようやく繋がったらしく、冬馬君が納得する。
やっぱり、この部屋から花火が見られるんだ。
きっと冬馬君のいうとおり特等席だろう。
人混みでもみくちゃになりながら現地で見るより、ずっといいや。
花火が見られてメニューが焼きそばってなると、もっともっとお祭り感が欲しくなる。
野菜を切り始めていた冬馬君の片袖と背中をむんずと掴む。
「お祭り感を味わいたいから、アンズ飴作って~!」
「オイ、包丁使ってる時は触ってくんな!危ねーだろ!大体、アンズなんてあるわけねーだろうが」
「ま、そりゃそうか。これで常備してたらすごいよね。…じゃ、リンゴ飴でもいいよ?」
「リンゴだぁ?」
「ブドウ飴でもいいし」
微妙な顔をしている冬馬君から離れて、ひょいっと冷蔵庫へ向かう。
人んちの冷蔵庫勝手に開けるのはマナー違反って分かってるけど、冬馬君ちは殆ど冬馬君の一人暮らしだし、結構勝手に開けまくってる。
野菜室をガチャリと開けると、アンズもブドウもなかったけど…。
「リンゴ、はっけーん!」
「えっ、マジか!あったか!?」
目的の果物がバッチリあったから、右手に掲げて見せる。
えへん、と掲げていたリンゴを引き寄せて、ついでにぱぱっとポケットから取り出した携帯で、リンゴ飴のレシピを調べる。
「水飴とかねーから無理だろ」
「このレシピなら、なくても平気みたいだよ?」
クック様ですぐ見つかったので、右手にリンゴを持ったまま、左手でもった携帯のレシピを見ながら冬馬君の所にとてとて戻る。
「えっとねー、まず"砂糖"ある?」
「そりゃあるけどな…」
「あと"水"ー」
「どこにでもあるわ!」
「そして"リンゴ"ね。あとあれば"食紅"だけど、別になくてもいいってさ。…以上!」
「…。水飴から作れって?」
「作れるんでしょ?」
材料とかが一つでもなかったら断ろうと思っていたみたいだけど、そういう時に限って何故か全部あるーって不思議ね。
…ていうか、こんな少ない材料でできるんだ?
超簡単じゃない?
きっと冬馬君ならちょちょいのちょい、だよ。
リンゴと携帯をまとめて差し出す。
「はいっ!焼きそばなんてすぐ作れるし」
「……ったく」
「リンゴ飴冷やさなきゃだし、こっちから先に作ろうよ。手伝ってあげる♪」
「当然だろ!」
めんどくせえーって顔に満面笑顔でお願いすると、数秒後、ばっと僕の手からその二つを取った。
眉を寄せたまま、真剣にレシピを読み始めてくれる冬馬君の傍に寄っていって、一緒にディスプレイを覗き込んだ。
さすがに売っているみたいな小さなリンゴじゃなかったから、ちょっと大きめのサイズに切り分けてからだけど、何かそんなの理科だか家庭科でやったよねって感じで手際よく水飴作れるんだから、やっぱ冬馬君ってすごいなー。
ちょっと尊敬。
結構火加減が難しくて失敗作も混ざったし、食紅作ってないから赤くはならなかったけど、いくつかはそれなりにできた。
立方体のキューブ型とか、ウサギ型とか、バリエーションも富んでて、売ってるものよりも面白いかも。
てゆーか、普通に竹串があるのがすごい。
「…っしゃ!どーだ!」
「すごーい、冬馬君。売ってるやつみたいだよ!」
「そうだろ!?」
作り終わる頃には、冬馬君はすっかりやる気になっているっていういつものやつ。
横でパチパチ拍手して褒めてあげると、尚更どや顔になる。
たーんじゅん。
年上だけどさ、ホント、こーゆートコ可愛いんだよね。
上手くできると喜んじゃって、ちょっと褒めてあげるともっと嬉しそうになるんだよねー。
思わずくすくす笑っちゃう。
こうなると今度は完璧さを求め出すのも冬馬君の癖で、オーブンシート(とかっていう、何かくっつかない料理に使うシート?)の上に並んでいる完成品を前に、冬馬君が腕を組む。
「こーなるとやっぱ赤くなくちゃなって話になってくるよな。食紅買ってくるか?」
「確かに欲しくなるけどー、今日はこれで十分だよ。ちゃんと美味しそうだしさ」
「そうか?」
「うん。それよりさ、コンビニでサイダーとか買って来るってどう? お祭りって感じしない?」
「サイダーなら冷蔵庫にあったな。二缶くらいだが。…ビー玉ねーかな。俺どっかに集めてた気がするんだが…」
「…て、ビー玉入れる気?」
「よく洗って氷に混じってグラスに沈めてもいいだろ。涼しげだしな。夏祭りっぽいだろ? そうだな、後は……そうだ、焼きそばだけじゃなくて、お好み焼きでも作るか? キャベツまだ余ってるし、簡単だぜ?」
「おー。ノリノリ~。浴衣はないの?」
「さすがにあるかよ。…あ、いや、甚兵衛があったな。ただ、あるにはあるが、昔のだからサイズが――」
言ってる途中で、冬馬君がじっと僕を見る。
考えてること丸わかりだから、半眼で見詰め返した。
ちょっとむっとするところはあるけどー…。
「僕だったら着られるかもって?」
「出してきてやるか?」
「冬馬君のお下がりはともかくとして、一人だけ甚兵衛着てもつまんないよ。冬馬君の分はないの?」
「ねえってさっき言っただろ」
「お父さんの分とかは?」
「…」
聞いてみると、ぴたりと冬馬君が一瞬止まった。
見逃せない一瞬があったっていうのに、エプロンしたまま胸を張って主張する。
「…ねーよ!」
「うっそだー!冬馬君バレバレ!ハイ、どこどこ? 出してきて出してきてっ」
「はあ~? おい、マジか…。本当に祭り参加じゃねえか、これ…」
「僕たちが現地に行ったらパニックになっちゃって普通に参加なんてできないんだから。距離があるけどさ、せめて僕らもここで楽しもうよ。…そりゃ、本当なら、屋台とか気になるし…僕だって冬馬君と北斗君とお祭り行ってみたいけどさ…」
「ぐ…」
視線を少し下げて、わざとちょっとしゅんとして言ってみる。
"お年頃なのに、アイドルやってて人気者な僕だから、友達とかと夜祭りとか行けないよね。自分は中学の時はアイドルやってなかったから友達と行けていたけど、翔太は行けないんだなー。あ~、そう考えると確かにちょっと可哀想だなぁ、翔太…"。
――…て、冬馬君が思ってくれそうな表情と声色でね。
数秒の沈黙。
…けどね、もう分かってるんだ。
次に冬馬君が何て言うか。
「あーもーっ!ったく。分かったよ!こうなりゃトコトンやってやる!着りゃいいんだろ、着りゃ!」
「やったー!冬馬君、大好きー♪」
「嘘くせえ!」
思わず両腕を挙げてバンザイする僕に冬馬君が声を上げる。
これもう何十回も同じ流れやってるのに、何十回も譲ってくれるから、冬馬君ってやっぱり面白いし大好き!
「出してくるから待ってろ」って隣の部屋に行く背中を、両手を後ろで組んでわくわくしながら見送る。
ちゃんとわくわくしてるけど、その背中がドアの向こうに入って見えなくなると、ちょっと賢者タイムが入る。
すっと差し込む落ち着いた感情。
何となく視線を上げて、天井の照明を見上げた。
「……"大好き"って言うの、こーんなに簡単なのになー」
簡単に言えるし実際言ってるのに、"伝えない"っていう高等テクだけどー…。
たまにこうして、ふと虚しくなったりしちゃうんだよね。
…けどま、そんなこと誰かに言うことでもないから、二着の甚兵衛を腕に引っかけて戻って来た冬馬君を、やっぱり両手を開いて出迎えた。
僕の好きな人は、嘘が吐けないくらい正直だし、たぶん本人それなりに頑張るしそれなりにできるだろうけど、最終的には告った振った付き合ったをしらばっくれることができないくらい素直だ。
正直な所も素直な所も、格好いい所も男気がある所も優しい所も、料理が美味しい所も意外と押しに弱い所も、全部好き。
だけど、それら全部が邪魔でもある。
北斗君くらい恋愛マスターじゃなくても、僕くらいでも、言ったら終わりだなってことが分かる。
冬馬君がいつもの冬馬君じゃなくなるし、Jupiterのバランスも絶対崩れる。
近くて遠い。
こんなに近くにいるのに、目の前にある扉を開ける鍵を持てないのって、何なんだろう。
どうして僕と北斗君だけが、鍵を持てないのか。
…て、違うか。
鍵はあるんだ。
きっともう、僕も北斗君も持っている。
ただ、差し込んだら、扉を開けたら、きっと"今"は終わる。
「あー。あっちぃ…」
「…」
横で、冬馬君が少し気怠そうに片手で浴衣の襟をぐっと開いて、袖を肩まで捲り上げる。
それを、ベランダの手摺りに乗せた両腕の中に顎を置いて、横から何となく見ていた。
…格好いいなって思う。
北斗君みたいに色々言えないからあんまり言ったことないけど、周りの何人かと見比べたとしても、やっぱり冬馬君は格好いい方だ。
特に何もしていないくせに、格好いいし基本的なセンスがある。
人を惹き付ける力も、本当に強い。
その素材の上に胡座をかいてるナマケモノさんだったらこんなことにはならなかったのに、無駄に素直で、見ていて疲れるくらい努力家で、しかも嘘が吐けないレベルの誠実さとか…何なのって思う。
「…」
音にしないように気を付けながら、ひっそりため息を吐く。
あーあ。
こんなの、面倒くさすぎ。
ちやほやされるのは好きだけど、必要以上に突っ込んでくるのもいくのも好きじゃない。
だから恋とかも、ちょっと煩わしい。ペース崩れる。
けど、冬馬君の傍は好き。
北斗君もそうだけど、傍にいると仕事中でもプライベートでも、気が抜けるっていうか、リラックスできるし、普通に僕でいて、そうして当然みたいに前向きになれる。
友達とも家族とも、女の子とかとも、またちょっと違う感じ。
他人だけど、家族よりも他の人よりも、一番近いところにいられて、ずっと一緒にいていい特別なチケットが「付き合う」とか「恋人」であるなら、僕は冬馬君と北斗君のチケットが欲しい。
こんなシチュエーションだと、まるで僕が冬馬君の、その特別チケットを、世界でただ一人、自分だけ持っているみたいだ。
本当に、丸ごと全部、僕のものだったらいいのにな。
そんなの有り得ないってわかってるけど、二人だけの時間が、ちょっと嬉しい。
「ねえねえ、冬馬君」
「あ?」
「こーして浴衣着て一緒に部屋から花火とかだとさ、恋人同士みたいだね~。僕みたいな可愛い彼氏と花火見られるなんて、最高だね。世界で一番幸せかもしれないよ?」
「いや、誰が可愛い彼氏だよ。…つーかお前――」
にやにやと含み笑いで言ってみた言葉に、冬馬君が片肘を手摺りにかけてた。
ビー玉と氷入りサイダーの入ったグラスを持った手で、人差し指をこっちに向けて、くしゃりと笑う。
「北斗と同じこと言ってやがんの!」
「――」
言葉を返された一瞬だけ、ぴた…って時間が止まった気がした。
うわ…。
チクッてきた、今の。
あーもー。北斗君、相変わらず抜け目ないなぁ。
一歩出遅れた感があって、ちょっと悔しい。
…まったく。
油断も隙もないよ。
さっきまでの機嫌の良さが何割か減って、半眼で軽く息を吐いた。
「へー。北斗君も言ったの? ていうか言いそ~」
「去年だったかな…。いつだったか、やっぱたまたま花火の日に当たってよ。そういや、お前いなかったな。予定入ってたんだろうな」
「ふーん…」
一瞬、胸がぽっかりになったけど、動揺なんて格好悪い。
隠すけど、全然僕の不愉快を分かってもらえないのも嫌だから、頬杖を付いて嫌な顔をつくる。
「北斗君と同じ反応とか、やだなぁ。今のナシにして!」
「ばーか。できねーよ。聞いちまったし。…ま、お前にしろ北斗にしろ、考えが十人並みってことだな」
「一緒に見る恋人もない冬馬君に言われたくなーい」
「い、いらねーよ!俺は別に…っ」
可愛い女の子と一緒に花火を見るなんてシーンを想像したのか、一瞬でぼっと冬馬君の耳が赤くなる。
…ちらっと考えるだけで具体的な女の子もイメージできないくせして、よくもまあそれで照れられるもんだよね。
照れ隠しに、ぷいっと冬馬君が目を伏せて顎を上げた。
「女子と祭りに行ったって、疲れるだけだろ。いいんだよ、俺は。お前らと見られりゃそれで」
「そーなの?」
言葉なんてどうとでもできる。
普通だったら分かりやすい照れ隠しで本心どうだかしらないけど、冬馬君の場合、口から出た言葉は100%嘘ってことはまずない。
本心の欠片が、結構多分に入っていることが分かるから、そんな程度のちょろっとした言葉でもさっきまでのもやもやした気持ちが吹っ飛んでいった。
「女子とお祭りなんか行ったことないくせにぃ~」
「うるせーな!」
「あはは。怒らない怒らない。…でもね、僕もね」
「…あ?」
にやりと笑って、ぴょんと一歩冬馬君の方へ近づいた。
左の肘がぴっとり冬馬君の右腕につくくらい傍に行って、冬馬君に笑いかける。
「女子とか中途半端に知ってる人と行くと絶対疲れるから、冬馬君とこーしてる方がいいかな!」
えへへ、と笑いかけてみる。
突然横にくっついてきた僕に一瞬きょとんとした感じだったけど、間を置いて冬馬君も擽ったそうに笑う。
「ははっ。…だろ?」
ステージ上で見せる、爽やかで強気な笑顔じゃないやつ。
可愛い方の笑い方。
冬馬君、油断してると本当に可愛く笑うんだよ。
思わずつられちゃうくらい。
見たことある人なんて、そんなにいないと思うけどね。
午後八時半。
かなり距離があるのに、微かに流れてくるうすーい火薬の臭い。
日はすっかり暮れて、淀んだ夏の空に大輪の花が上がる。
僕、花火は見た目よりも音の方が好き。
ドンドン、パチパチ…って、爽快なんだもん。
マンションの上の階であるここからだと、殆ど真正面くらいに見える。
人にもみくちゃになるのは好きじゃないけど、花火が上がる音を聞いているだけで、ゲリラサマーライブとかやりたくなってきちゃう。
「おー!いいじゃねーか」
「すごーい!本当によく見えるねーっ!」
「って…おいバカ翔太ッ!」
「え? …わっ」
下に両足乗せて、手摺りにぎりぎりまで身を乗り出し、音に誘われるまま思いっきり右腕を花火に伸ばしていた。
危ないなんてことないと思うけど、途端に、冬馬君がバッ…!と僕と手摺りの間に無理矢理片腕差し込んで、横から抱き留める。
「…!」
ぶわっと視界の半分が、冬馬君の着てる浴衣で埋まる。
別にぎゅって抱きしめられたわけじゃない。
緩く横から抑えられたってだけなのに、一瞬遅れて体温を感じた。
浴衣着る時にシャワー浴びたからか、お風呂上がりの甘い匂いがした。
ちょっとぽかんとしている間に、手摺りから手が離れて、無理強いにならない程度にちょっと後ろに引っ張られて、足を掛けていた手摺りの下の部分からも降ろされる。
「…」
「お前…、あんま身を乗り出すなよ。危ねーだろ」
「えー。そーお?」
反射的に、ついつい半眼で、近距離から腕を放した冬馬君を見上げる。
そんなわけないじゃんって感じで、ひらりと片手を振った。
「まさか落ちるわけないでしょ。胸まで手摺りの高さあるし。冬馬君ってば、心配性~」
「そーやって油断してる奴が落ちんだよ。…ほら、これでも食って大人しくしてろ」
手が空いているから身を乗り出して前に腕を出したとでも思ったのか、冬馬君がリンゴ飴をもう一本僕に差し出す。
あんまり心配かけたくないし、単純にもう一本食べてもいいかなとも思ったし、素直に受け取ってあげた。
仕方ないなぁって雰囲気で一口囓る。
水飴がほどよく硬くて、けどリンゴはやっぱり囓るとシャリっと音がする。
…ちょっと暑い気がして、ぱたぱたと片手で自分を扇いだ。
その間も、花火はどんどん空へ放たれる。
片肘を手摺りにかけて、僕を見ていた冬馬君がふいとそっちを向いた。
「あんまりまともに見たことねーけど、やっぱ綺麗だな」
「だねー。部屋にいながらお祭り感もゲットできたし。こんなに見晴らしいいのに毎年スルーしてたなんて、勿体なさ過ぎなんじゃない?」
「確かにな。けど、一人じゃわざわざ見ようとも思わねーし、近いと逆に距離ができちまうんだよな。…つーか、北斗の奴、間に合わなかったな」
窓からクーラーの効いた室内の方を振り返り、壁掛けの時計を確認しながら、冬馬君が言う。
花火には間に合うかもって言っていた北斗君は、まだ来てない。
そこでピーンと思い立ち、悪戯心っていうか…ちょっとした意地悪を思いついて、にやりとした。
「ほーんと。残念だね。…ま、自業自得だけど」
「自業自得?」
「だって、女の人に電話かけてたもん」
「それが今夜の予定か? またかよ。…ったく。アイツは」
冬馬君が呆れた顔を作って、今いない北斗君に舌打ちする。
…実際問題、そんなに浮いた話でもないと思うけどね。
やることはやってるんだろうけど、たぶん単に北斗君が優しすぎて、お姉さんたちに誘われたら恥かかせられないから断れないって感じの方が正しい気がする。
しかも嫌な顔もできないから、自主的にあっちへふわふわこっちへふわふわって見えるけど、実際はなかなか自分の時間も取りづらくなるし、シビアだと思うんだよなぁ…"モテ男クン"っていうのはさ。
僕、ぜぇーったいムリ。
気に入った人以外と長時間なんて、なるべくなら一緒にいたくないもん。
しかも、そのせいで自分の時間が減るなんて絶対イヤ。
長い間一緒にいたり同じ部屋に泊まったりっていうのはさ、本当に気に入ってる人とじゃないとね。
花火はまだバンバン言ってるけど、もう結構見たし、手摺りに添えていた両腕を伸ばして、体を後ろに引いた。
「あー、汗かいた!…さて、花火見たし、クーラーのとこ戻ろう、冬馬君。お祭り感終了!私服にチェーンジ!」
「お前ほんっと気分屋だな!」
冬馬君の甚兵衛の袖を握って、中に入ろうと誘う。
眉の寄った顔をしているけど、優しいから僕が袖を引っ張ると冬馬君も空になったグラスを片手にベランダから部屋へ戻る。
…北斗君が来る前に、私服に戻ってもらおう。
僕に内緒で一緒に花火見たんでしょ?
僕だって、これくらい特別感もらっても、とーぜんだよね。
今夜の冬馬君の浴衣姿は、世界中で僕だけのもの、ってことで。
グラスを流しに置いて、そのまま冬馬君は甚兵衛の紐を解きながらリビングの隣の部屋にずかずかと歩いて行く。
「さっきシャワー浴びたし、もう浴びなくていいよな。先に着替えてきちまうぜ」
「うん。…ね、冬馬君。ありがとう」
リビングに立ってた僕の傍を通る時に言ってみる。
リンゴ飴を用意してくれたり、夕飯のメニューをお祭りっぽくしてくれたり、浴衣じゃないけど甚兵衛に着替えてくれたり…。
せっかく冬馬君と二人だと思って、あれこれ調子に乗ってわがまま言っちゃったけど、振り返れば全部律儀に叶えてくれた。
歩くのを止めないで、冬馬君が軽く片手を挙げる。
「いいって。俺も楽しかったしな。マジで祭り気分になれたぜ。お前もさっさと脱いで着替えろよ?」
「ん? 僕もうちょっと着てる」
「あ…? さっき着替えるって言ったくせにか?」
「思ったより涼しいんだもん。気に入っちゃった。北斗君に見せたいな」
「そうか? …まーいいが、悪いが俺は着替えるぜ」
「いってらっしゃーい」
隣の部屋へ冬馬君が入っていって、ドアが閉まる。
静かになったリビングのソファに、ぼとっと一人、落ちるように腰掛けた。
そのままころりと横になって、両足を伸ばして天井を見る。
たった4時間くらいだけど…。
この狭い空間で、冬馬君を独り占めできたことを振り返る。
一緒にいるっていうたったそれだけなのに、まるで勝ち誇ったようなこの気持ち。
子供だなぁ…って、自分で思うけどさ。
そんなもんだと思うんだよね。好きって気持ちって。
ごそごそとソファの上で横向きになる。
甚兵衛の左袖を、右手で少し抓んだ。
…柄のセンスは悪くない。
冬馬君、そういうところはムダに天然良質だからなー。
…。
「…♪」
ソファに横たえた両腕を少し高い位置にあげて、袖に鼻先を埋めて目を伏せた。
北斗君が着たら自慢してやろーっと。
冬馬君が私服に戻っちゃってから二十分後くらい。
ようやく、北斗君がやってきた。
「あと何分くらいで行くよ」っていうメッセをもらっていたから、今北斗君の為に焼きそばとお好み焼きを焼いている冬馬君の代わりに、僕が玄関まで迎え出てあげる。
「北斗君、おつかれー!」
「お邪魔します。悪いな、遅くなっ……ん? どうしたんだ、翔太。甚兵衛なんて風流だな。いいね」
「格好いいでしょ?」
「ああ。とてもよく似合うよ。持って来たのか?」
「ふっふっふ~」
「…?」
北斗君に自慢しながら、リビングとキッチンに入る。
僕の自慢話を聞いて、北斗君は口元に拳を添えてくつくつと笑いながら、自分ももっと早くくればよかったって残念そうに言った。
彼氏発言が先を越されたから、これでプラマイゼロで許してあげよう。
僕ってホントやっさし~。
「冬馬君、北斗君が甚兵衛いいなってさー」
「冬馬、どうして脱いじゃったんだ?」
「着てらんねーだろっ、お前のメシ作ってんだから!」
しみじみ不思議そうに、何ならもう一回着ればいいのにテイストで北斗君が冬馬君に言ってみてるけど、勿論冬馬君はもう着ないだろう。
…二人の時間が終わっちゃったけど、北斗君がいるのは嬉しいっていう矛盾。
やっぱり、三人でもいいかも。
言い合っている冬馬君と北斗君を見ながら、両腕を後ろで組んで、何となくそんな当たり前のことを思う。
来年は、三人で一緒に花火を見よーっと。
リンゴ飴作って、かき氷作って、ビー玉入れたサイダーを飲む。
三人で浴衣を着るのもいいかもしれない。
だからその為に、北斗君には今から先約しておかないとね。
先約さえあれば、お姉さんたちからお誘いが入っても、たぶん無理しないでちゃんと断れるし、ね。
「ねー!来年はさ、三人でここで見ようよ!」
声をかけながら、料理を運んでいる北斗君とキッチンの内側にいる冬馬君に声をかけた。
三人で、他に誰もいないこの空間から、空に上がる花火を見る。
それって最高かも。
二人も、「そうだな」って返してくれたから、もう約束は確定だからねっ。
僕らが"僕らだけ"でいられる時間が少ないというのなら、こうしてつくっていけばいいんだ。
開けた世界の中で、それでも三人でいる時間と空間。
来年の花火は、今年よりももっと綺麗に見えるかもしれない。