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「桜庭。よかったら今夜泊まっていけよ」
「いや、結構だ」

キッチンの一角。
飲み終わったコーヒーのカップを引き出しの食洗機に入れて、夕食の時の食器とまとめてピッとスタートさせながら何気なく言うと、余ったつまみ類にラップをかけていた桜庭が、振り向きもせず淡々と応えた。
…即答か。
そーかそーか。
相変わらずだなお前。
望み薄だと分かってはいても、少し食い下がってみる。

「いいだろ、別に。明日は少しゆっくりなんだし、お前んちより俺んちの方が事務所に近いだろ?」
「今日の振り返りと明日の用意がある。もう時間も遅いし、帰らせてもらう」
「そんなの俺んちでやれって。振り返りなら俺も勉強になるしさ。…あ、そうだ!コーヒーもう一杯どうだ? 豆いいの買ったんだ。寝起きにお前がマズイって言ったから、わざわざ…」

俺の言葉を無視して、桜庭がラップのかかった皿を片手に冷蔵庫を開ける。
丁寧にその中へ置くと、ドアを片手に冷めた目で俺を振り返った。

「明日は仕事が入っているんだ。泊まるわけがないだろう」
「……おう」
「常識で考えてくれ」
「…」

本当に、心底下らないとばかりに冷蔵庫を閉め、桜庭がコートを取りに行く。
真顔で拒否されちゃ……どうしようもねえか…。
ぽりぽりと首の後ろを掻いてから、一足先に玄関に向かって、履きやすいように靴を手前に出しておいてやる。
暫くすると、コートを着た桜庭が、マフラーをしながらすたすたとやってきた。
しゃがんでいた体を立たせて、靴べらを手渡してやる。

「送るか?」
「必要ない。さっきタクシーを呼んだ」
「何だ。じゃあ来るまで待ってろよ。寒いだろ?」
「下で待っている。じゃあな。お邪魔し――」

さっさか靴を履き、出て行こうとする桜庭が、俺を振り返って言葉を止めた。
自覚がなくて、俺は"ん?"…と思ったが、どうやら俺の何かに違和感を持ったらしくて、片手でドアノブを握ったまま、桜庭が俺に聞く。

「…何だ。その顔は」
「あ?」
「妙な顔をしている」
「顔ぉ?」

どうやら俺の顔が変だったらしい……って、そんなのあるか??
玄関横のシューズボックスの戸にくっついてる縦長の鏡に顔を寄せて、むにゅっと自分の顎に手を添えてみるが……いや、普通の顔だろ。

「イイ男過ぎたか?」
「邪魔したな」
「突っ込めよ!」

颯爽と出て行こうとする桜庭に慌ててツッコミを入れると、ふん…という顔で振り返る。
か、可愛くねぇええ~…。
冗談くらい付き合えよ!と思いながら聞き返す。

「変な顔してたか?」
「…? 何か言いたげな顔に見えたが、違うならいい。気のせいだろう」
「言いたげ…」

桜庭の方は方で俺の反応が意外だったのか、俺の方に自覚がないなら気のせいだと思うことにしたらしい。
…が、今のコイツの一言で、俺は俺で思い当たることがある。
何か言いたげな顔?
人と人が一緒にいるんだ。
どんな形かは色々だとは思うが、人といる以上気持ちなんて勝手に色々沸いて出てくるし、気持ちが出てくれば言いたいことなんて、そりゃたくさんあるさ。
例えば今の今で言えば――。

「…あー。あるっちゃあるぜ。言いたいこと」
「何だ。あるならさっさと言え」

一瞬言いよどんだが、駄目元だ!
ぴっと人差し指を上へ向けて、びしっと提案してみる。

「帰る前に、せめてキスくらいしようぜ!」
「するわけないだろう」
「…って、オイ!何で"するわけない"んだよ!? おかしいだろ、その反応!」

やっぱり真顔で拒否してから突っ込む俺を無視して、突然俺の話を軽んじる桜庭が、今度こそガチャ…とドアを開けた。
ドアを開けられてしまったことによって、叫ぶことも出来なくなる。
悔しいが、ぐっと口を噤む俺を振り返りもせず、桜庭が出て行く。

「お邪魔しました」
「っ…また明日なっ!」

殆どやけくそで見送った先で、閉じたドアがカチャリと些細な金属音を響かせる。
適当な靴に爪先引っかけて、今閉じたドアに鍵をかけた。

「…はあ」

かけてから、のろのろと目の前のドアに片腕を添えて、そこに額を添えた。

「俺ばっかかよ…」

目を伏せて、ため息を吐く。
同じユニットメンバーである桜庭と付き合い出して二ヶ月弱。
突っ慳貪でキツいところがあるし、クールな態度ばっかり目についてたが、その下にある優しさとか純粋さというか…そういうところに惹かれて、とはいえ絶対無理だろうと思っていたが、せめて気持ちだけ!
…なんて当たった結果、ひょんなことで合意に至って……だから、ちゃんと恋人同士のはずだ。
だが、それにしては――。

 

 

「愛がないんだぜー、翼ぁ~」

自宅のリビング。
ソファセットのうち、窓際に背を向けている一人掛けのいつもの定位置に座って、背もたれに体を預け天井を見上げながらぼやく俺を、斜め前の三人掛けに腰掛けていた翼は面白いような困ったような顔をした。

「そんなわけないじゃないですか、輝さん。だって薫さんですよ?」
「………まあ」

今晩は桜庭だけ参加するイベントの収録があって、俺と翼だけが早帰りなもんで、そのままウチに夕食食べに来いよといつもの調子で誘った。
俺たちが付き合い出したのを唯一知ってる翼だから、こんなことを相談できるのも翼だけだ。
愚痴を色々言いたいわけだが、翼のたった一言、"だって桜庭だぞ?"という理由で、何故か納得しちまう自分がいるんだから、やっぱり俺もそんなわけないって思ってるんだろうな。
桜庭は冗談や無駄が嫌いだ。
ただ嫌いっていうんじゃなくて、何というか…そこには、"物事の偽りや、偽る心持ちが嫌い"という範囲まで広義的解釈として受け取れる。
要は、ちょっとだけ神経質なところがある気がするんだよな。
神経質っていうと聞こえは悪いが、それは悪い意味じゃなく、単純に純粋ってことによっている。そこは桜庭の美点だと思う。
最初はそれこそ冷徹人間だと思ったこともあったから、その性格の奥にある理由をひとつひとつ知るごとに、"こんなピュアな奴まだいるんだ"くらいの勢いで衝撃だったし、知ったが最後、傍にいてちょっとでも力になれたらいいなと思うし、何より俺自身が傍にいたいと思っちまったわけだから、気づいた時にはもうどうしようもないくらい好きになってたわけだしな。
…とにかく、だ。
プライドが高くて嘘偽りと無駄が嫌いな桜庭が「好きだ」と言ったらそれは間違いなく本心で、絶対に嘘じゃないし、そんな冗談に時間を割く気なんてないだろうし、まして俺が遊ばれているわけでもないって確信が、俺も翼にもある。
桜庭が俺と付き合うことに合意してくれたのであれば、たぶんアイツはちゃんと俺のことを好きでいてくれているはずだ。
…そう。
その、はず!
それでも、はあ~…と、ため息が出る。

「…でもアイツ、スキンシップ苦手みたいなんだよなー」
「薫さんがですか? そんなことないと思いますけど…。きっと、仕事優先ってだけだと思いますよ? 翌日に動く系のお仕事が入っていたとか」
「……だな。そう。そうなんだよ、たぶん」

その辺は俺も察しが付く。
アイツのストイックさだって俺が好きなところの一つだ。
何度か誘いをかけて悉く振られて察したことだが、たぶん桜庭は、仕事が入ってる前日に俺んちに泊まるのは有り得ないって判断付けてる。
いいだろ別に。
恋人って考えなくても、同じユニットだぜ?
つまりそうなると休みの日の前日だけが、アイツの条件クリアってことになるんだが…。
しかし、だ。

「…でもな、翼」

天井を向いてため息一つ吐いてから、懐に手を入れつつがばっと体を起こす。
内ポケットに入っている薄い必要最低限のスケジュール帳。
今月のところに栞紐が入っているから、指先でそこを開きながらテーブルの上に片手でバン!と置く。

「見ろ!このありがたいスケジュールを!!」
「ですよね~」

あはは…と翼が苦笑する。
開いた俺の手帳に広がる今月のスケジュールは、仕事マークがぎっしり詰まっている。
詳細は事務所が用意してくれる別紙にあるし俺も別ノートで管理しているが、要はここ最近は一ヶ月のうちの休みが少なめだ。
元々、イベント事に大きく左右される職業だし、一年間で何日休みって単位だからな。
トータルでいけば合法。
それに、プロデューサーは俺らに無理させないようにを常に気遣って様子を見てるって感じだし、お陰様で俺らも楽しく仕事ができているから体力的に無理が積もっているわけじゃないんだが…。
手帳を翼に差し出し、ソファの肘置きに片頬杖を着いて、またはーとため息を吐く。

「結果、全っ然恋人らしいことしてねえ…。桜庭はちょっとストイックすぎないか?」
「そこが薫さんのいいところですよ」
「なー。それがイコール悪いってわけじゃないことが、また難しいんだよな」

にこにこと翼の言うことが否定できなくて、肯定するしかない。
すぐにそう返してくれる翼の言葉に嬉しくなって、小さく笑う。
…たぶん、俺だってそんなにベタベタしいの方じゃないと思うんだ。
弁護士やってた頃は、寧ろ俺の方が「仕事ばかり優先する」って理由で別れたこともあるくらいだし、かといって仕事の手は抜けなかった。
プライベートが大切だってことは分かっているが、家に帰っても裁判記録や調書や判例読んどかなくちゃならないし、何なら証拠証言集めに奔走していて、仕事日と休日がごっちゃだった。どうしても自分のことが後になる。
たぶん、平気な方といえば方なんだよ。
だが、それにしたって桜庭とは何もなさすぎる。
当然俺は桜庭が好きだし、こういう関係になれてよかったと思っている。
仕事では一緒が当たり前だが、それとは全く別モノとして、俺はプライベートでも一緒にいたい。
…つーか、帰らないでほしいんだよなぁ。
泊まってほしい。
帰るの前提と泊まる予定前提じゃ、そこまでの時間の使い方が違ってくる。
顔を合わせてゆっくり一緒に食事がしたい。
食事した後、だらだらとシャンパンやコーヒーを飲みたい。
テレビを見たり仕事の話をしたり、最近読んだ本の話とか、くだらないことを話したい。
風呂に入った後の髪がぺったりしてる桜庭が見たいし、寝顔も見たい。
アイツの朝が弱い様子は見てると癒やされるし、やれコーヒーだ朝飯だ着替えだ何だと、あれこれ世話を焼きたくなるし、実際に面倒見るのが楽しい。
その後意識がはっきりしてきて完全に起きた頃、お約束みたいに露骨に不機嫌になるのも見ていて微笑ましいから俺は好きだ。
…けどなぁ、桜庭は妙に帰りたがる気がする。
そりゃあさ、本当に次の日に予定があれば帰ってもいいぜ?
けど、帰らなくてもいい日までさっさか帰るのは何なんだよ。
桜庭は、俺と一緒にいたいと思っている様子があまりない。
もう少し二人きりでいたい、もう一度、次はいつ……なんて、思っているのは俺だけなんだろうか。
…。
最近は仕事も本当に忙しくなってきたし、普通にしてたってプライベートの時間が取りづらくなってきた。
桜庭は、そこを俺に割く程じゃねえのかな…。
だとしたら、一度ちゃんと話し合わなきゃならないわけだが…。

「……あー」

ぐったりとまた天井を見上げる。
…つーか、キスの回数もたぶん翼が驚くくらい少ないぞ。
普通にしてる分には、本当にさせてもらえないからな。
人にはそれぞれペースがあるしタイミングもあるとは思うが、二ヶ月なんて俺にとってはまだまだ付き合いたての気分でいるってのに、既に恋人らしさが薄らぐってどうなんだ。
まあ、女の人と同じ感じでいちゃダメなのかもしれんが…。
どんより沈む俺の手帳を少しの間見ていた翼が、ひょいと顔を上げて尋ねた。

「薫さん、何となく好きな人には甘えたがりなイメージがありますけど…。違うんですか?」
「んー? ……んー」

即答せず、少し考えた。
…正直に言ったら、桜庭が怒り狂いそうだしな。
つか、翼がそれを予想できるのがちょっと意外だ。
だって普通思わないだろ。アイツのいつもの様子を見ていたら尚更だ。
テキパキ、ピシパシってイメージしかなかったわ、俺。
いつもとそんなに変わらないだろうなって思っていた俺とは、雲泥の差だな。
片手を軽く挙げて、苦笑気味に答える。

「全部桜庭の気分次第、って感じだな」
「ああ、なるほど…。ふふ。そうですね、きっと」
「やっぱり何にしてもあの調子が基本だからな。気持ちが優しいのはもう分かりきってるが、言い方がなー。ちょっと癖あるからな、桜庭の奴は」
「知っていれば、普段から嘘が嫌いで優しい人だって気づけるんですけどね。…でも、いいなぁ、輝さん」
「ん?」

はぁ…と憧れるような息の吐き方で、翼が俺の手帳を閉じた。
妙に万感が隠っている気がして、手帳を受け取りながら聞いてみる。

「そういや、翼はいないのか?」
「恋人ですか? はい。残念ながら、今はいませんよ。好きな人はいるんですけど…。ちょっと難しいかなって思っているんです」
「難しい? 何でだ?」
「えっと…。彼氏さんができちゃいました」
「…あー」

眉を寄せて、間延びした声をあげた。
それ聞くと一気にフォローが難しくなるな。
先を越されちまったわけか…。
まあ、残念だが、そういうこともあるよな。

「そっか…。確かにそれは難しいし、辛いな。…けどさ、諦める必要ないだろ。付き合ってるだけだろ? 結婚されちまったわけじゃないんだろ?」
「まあ、それは…」
「だろ? 好きでいるだけなら自由だぜ。翼は背も高いし、一緒にいると癒やされるっていうか、人をほっとさせるからな。勿論彼氏と上手くいっているうちは見守ってやんなきゃいけねーんだろうが、ある日突然相手が、お前のそういういいところに気付いて必要としてくれる可能性だってあるんだ。ゼロじゃないうちは諦める必要なんてないと俺は思うぜ」
「そう、ですかね…」
「ああ。そうだって。諦めたらそこで試合終了です、って名言もあるだろ?」
「あははっ、確かに。…ですかね。励ましてくれ、ありがとうございます、輝さん」
「励ましてねーよ。本心だって」

冗談めいて笑いかけると、いつものふんわりした調子で柏木も笑ってくれた。
…彼氏持ちか。
そりゃ辛いかもな。
フリーでただの片想いって状態ならやる気も出るし希望もあるが、誰かともう付き合っちまってると、同じ片想いでもまた違うからな。
…というか、翼がそうういう状態なら、俺らのこんな話聞きたくないんじゃないか?

「というか、悪いな、翼。そんな時に俺たちの相談なんかしちまって。こんなこと、お前にしか言えないからさ、つい甘えちまうんだ」
「え? …ああ、いえいえ!くだらなくないです、重要な話ですよ。同じメンバーとして、二人のモチベーションは俺にも影響が直結します。相談役はオレしかなれないと思いますし…。それに、仲間としても、やっぱり輝さんと薫さんには、幸せになってほしいです。俺にできるフォローがあったら、したいと思いますし」
「翼…っ」

両手それぞれでぐっと拳を作って意気込む翼。
いい奴過ぎてじーんと感動していると、翼がテーブルの上にあったつまみの一つである野菜スティックを一本手に取った。

「それに、こうして輝さんのご飯食べられるの、嬉しいですからね!」

今日はパスタにしてやろうと思ってかなり大盛りの翼用な量を作ったんだが、ぺろっと平らげてくれた。
前菜っていうほどのもんじゃないが、サラダやつまみ程度のものもいくつか用意はしたんだが、テーブルの上の食器は殆ど空で、残るは野菜系がちょっとって感じだ。
相変わらず、気持ちいい食べっぷりで、作った側としては嬉しいし見ていてすかっとする。

「ははっ、食い過ぎには気を付けろよ?」
「はーい。…あ、薫さん、今夜は長引くんでしたっけ?」
「いや? そうでもないはずだぞ。…つってもまあ、もうちょっとかかるだろうけどな」

ひょいっと、テレビ横の飾り時計へ視線を移す。
今時らしからぬ、気に入っているアナログ時計は、もう八時になっていた。

「今夜、ちょっとだけ薫さんに甘えてみたりとかどうですか。明日はゆっくりですし、泊まっていってもらうとか」
「うーん…」

翼のアドバイスを聞きながら、シャンパングラスを口に添えて一口飲む。
…結構声はかけてると思うんだがなー。
何かかわされる感があるんだよな…。
けどまあ、声かけを止めちまえば、今以上に泊まる回数も減ってくるか。
…つーか、最後に泊まったのだってかなり前だが。
飲んだグラスをテーブルに置きながら、翼へ顔を向ける。

「…だな。今日もちょっと声かけてみるわ」
「そうですよ。輝さんと一緒にいられる時間が増えて、嬉しくないわけがないんですから」

にこーと満面の笑顔で言ってくれるヒーリングボイス。
うーん…。やっぱ翼を見ていると落ち着くな~。
ソファの右の肘置きに頬杖ついて、ぐったりと背もたれに沈む。

「サンキュー、翼。…あーあ。同じ男相手なら、俺翼を好きになればよかったぜ。たまにホンットそう思うんだよなー」
「あはは。そうですか? そう言ってもらえると、オレも自信が持てますね。…あ、それじゃあ、輝さん。浮気したくなったら、いつでもオレに言って下くださいね」
「わはははっ!その時は頼むわ!」

冗談めいた翼の言葉に笑いながら、その後もくだらないことやちょっとした相談をしながら時間は過ぎていった。
八時半くらいには来るかと思っていた桜庭だが、思いの外長くかかっているらしい。
もう夕飯は終わっていたし明日も遅出とはいえレッスンがあるし、今夜は俺が桜庭に聞いてみるってこともあって、翼はその頃に帰って行った。
一人になって新聞も読み終わっちまって、ぼーっとワイン飲みながら読みかけの本を読んでいると、やがて呼び鈴が鳴った。

「お…」

いそいそと本に栞を挟んでリビングとキッチンの間に設置されている機械の所に行くと、カメラを確認して少し話してから、マンション入り口のドアを開けるボタンを押した。

 

 

 

「…柏木は?」
「翼なら、ちょっと前かな。帰ったぜ?」

リビングに入ってきてマフラーとコートを脱ぎながら、周囲へ視線を向けてから開口一番そう聞いてくる。
俺が答えると、そうか、と一言だけ相づちがあった。
…翼のこと好きだよなー、桜庭。
絶対俺のことなんか探さねえくせに、翼がいない時はすぐ聞いてくる気がする。
ハンガー片手に、ぽんと手を出してやる。

「ほれ、コートとマフラー」
「ああ…。悪い」
「メシは?」
「まだだ」
「一口もか? 腹減っただろ、この時間じゃ」

桜庭からそれらを受け取り、ハンガーにかけて部屋の端の引っかける所にかけておいてやる。
そのままキッチンへ向かった。
ダイニングテーブルの上には、もう予め三人分の食器の用意はしてあったから、食べ終わって帰った翼の分は片付けちまったが、俺の分はマット置きっ放しだし、桜庭の席は手つかずの状態でグラスやサラダの取り分け皿が置いてある。
予めある程度温めておいたお湯が入ったナベに火を付けて、定位置のイスに座ってタイとシャツの襟袖を緩めている桜庭に、キッチンの内側、冷蔵庫を開けながら声をかけた。

「何飲む?」
「ウーロン茶を頼む」
「今日パスタでさ、俺と翼ワイン飲んだんだ。明日遅いし、お前もたまには…」
「聞こえなかったか。ウーロン茶と言ったんだ僕は」
「わ、分かった分かった…!そー睨むなよ、こんなことで!」

「は?耳悪いのか君」…みたいな苛っとした顔で言われて、くっそーと思いながら言われたとおり烏龍茶のペットボトルを取り出す。
…ったく。
桜庭は、基本アルコールを飲まないようにしているらしい。
特別飲めないってわけじゃなさそうだが、いつか聞いた話じゃ、喉を痛めるかららしい。
夕食の時はさすがに冷たいのも飲むみたいだが、目の前にホットとアイスがあれば、選んで暖かい飲みものを取るのも喉にいいかららしいし…。
偉いよなぁ、その辺。
たまに疲れないのかと心配になって今みたいに誘ってみるが……打ち上げでもない限り、欠片も靡かねえしな、基本。
ペットボトルだが、つい癖でワインボトルみたいにボトルの下を布で押さえて、反対の手で冷蔵庫の中で冷やしといたサラダの皿も持って桜庭の方へ行くと、それをテーブルに置いてから、予めそこに用意しておいたワイングラスの中に烏龍茶を注いでやる。

「時間かかったな、案外。もうちょっと早く来られるかと思ってたんだが」
「ああ…。一部録り直しをしたら、全体のバランスが少々崩れた。他を調整するうちに、結局ほぼ全録りのような状態になったからな」
「うわ…。そりゃ大変だったな。お疲れさん」
「時間はかかったが、お陰でより良くなったと思う。寧ろ時間が取れて良かった。満足している」
「そっか。良かったな!」
「…ああ」

いつも通りの澄まし顔で……とはいえどこか清々しい様子で、桜庭がグラスに口を付ける。
遅くまで大変だったな。
腹一杯食べて、労んねーとな。
キッチンに戻るとまだ湯が沸ききってなかったんで、パスタの具材はもう用意できてるし、適当にもう一品作ってやるかと冷蔵庫を開ける。
そのタイミングで、リビングの方から背中に声がかかってきた。

「…おい、天道。ドレッシング」
「あれ? しまっちまったか、俺」

冷蔵庫の中を確認して必要な材料を出してから、最後に天道オリジナルドレッシングを詰めてある容器を片手に、また桜庭の方へ行って差し出してやる。

「ほいよ」
「…いただきます」

容器を受け取り、一度それを置いて両手を合わせる。
サラダを小皿に取り出す様子を見てから、よし…と思って両手を洗って料理を始めた。
つってもパスタだし、下準備は整ってるし、一品足して作るとしても、調理時間なんて殆どパスタの茹で時間オンリーみたいなもんだ。
ボウルに卵を割って混ぜて、フライパンでベーコン切ったの炒めて、茹で汁ちょっとと胡椒とチーズを入れ、茹で上がったパスタをそっちに移して絡めるだけ。

「ヘイお客さん、お待ちどう!初心に戻って、今夜はカルボナーラだ!軽めバージョンだがなっ」
「…」

数分後にできあがった皿を、テーブルに置く。
桜庭の真正面には食べ途中のサラダ皿が置いてあったんで、ちょい斜め上に持って来たやつを適当に置いていく。

「あと、これ野菜の肉巻きな。お前あんまり食べないんだし、このくらいでいいだろ? …と、スープもあるからな。少なかったら言えよ? すぐ作れるし」
「十分だ」
「俺も肉巻きはつまむかー。…あれ? 俺グラスどこやった?」

スープも持って来て、そのまま桜庭の正面に座ろうとイスに手をかけたが、自分のワイングラスがなくてその辺を見回す。
さっき座ってたソファセットのテーブルに見つけて、取りに行ってまた戻って来た。
イスに座りながら、静々と食事を進めている桜庭に問いかける。

「味どうだ?」
「悪くない。…が、量がいつもより多くないか」
「そっか? 生クリーム使ってねえから、軽いはずだぞ。そのくらい食えって。翼の奴なんか、それの三倍近く食べて行ったぞ?」
「…大丈夫なのか、彼の胃は」
「なー。背もでかくなるわけだよな。俺も結構食う方だと思ってたんだけど、翼には負けるな」

何気ない話をしながら、遅い夕食を取る桜庭に付き合って、俺もそのままテーブルにつく。
俺なんかは食べるスピードは"ちょっと早い"くらいだと思うが、一緒に食事していると、大食いの翼は"大丈夫か?さっき入れたのちゃんと呑み込んだのか?"と思う速度で食べていくし、対して桜庭は、俺よりちょっと遅いくらいだ。
バラバラの食事スピードのはずなのに、それでも仕事中など時間が決まっている間だと一緒に食べ始めるて同じくらいで食事が終わるんだから……要するに、翼がめちゃくちゃ食い早くて量入れてて、桜庭は食い量が少ないってことなんだよな。
こうして一人で食わせると、いつにも増してゆっくりな気がする。
そして、食べ方が綺麗だ。
人の食事している姿を見ていて飽きない…ってのは変かもしれないが、食べ終わるのを待てるくらいには見ていられる。

「他に誰かまだ事務所残っていたか?」
「ああ。Jupiterがいたな。ステージダンスの練習をしていて…だが、ちょうどあがるタイミングだったようだ。スタジオ内にいたので声はかけてこなかったが」
「アイツらも本当、ストイックだよな」
「引き続き見習いたいところだな」
「だなー。…」

会話を続けながら、その片隅でぼんやり考える。
…タイミングがなー。
この間は俺、何て言って断られたんだったか…。
「よかったら今夜泊まっていけよ」…だったか?
同じこと言ったって、それじゃ断られちまうってことだよな。
うーん…。
…というか、なーんで断られるんだ?
そもそもそこから謎なんだよな。
あれこれと考えていると、いつの間にか桜庭がフォークを置いて目を伏せ、手を合わせた。

「ごちそうさまでした」
「お。お粗末様。…よっし。それじゃ、コーヒーでも飲もうぜ」

イスから立ち上がって、空いている食器をぱっぱと重ねてキッチンへ向かう。
コーヒーメイカーのボタンを押して、ざっと食器を水で濯いですぐ隣の食洗機の引き出しへ並べていると、桜庭がテーブルの上に残っていた、まだ多少中身が残っている皿を持って来た。
最初は、ご馳走になるなら片付けを手伝うと言ってくれたが、食洗機があるから必要ないし、食後のコーヒーだってボタン一つだし、特にすることといえばそんなになくて、結果、あまりものがあった時に皿にラップをかけて冷蔵庫に入れてくれることが多い。
それも俺がやってもいいんだが、その気持ちが嬉しいよな。

「なあ、この間も言いかけたんだけどさ、コーヒー豆いいの買ったんだぜ? 今淹れるのは違うが、後でそっちの味を見てくれよ」
「ああ」
「それが朝用にブレンドされてるやつでさ、明日朝ゆっくりでいいだろ? だから、泊まってって明日の朝飲まないか?」
「いや、結構だ。別に朝飲まなくても、味くらい分かるだろう。次に来た時に淹れてくれ」
「…」

目を伏せて、思わず苦い顔になる。
今日も帰る気か…。そーかそーか。
…ダメだ。
もうこうやってぐだぐだ悩んでるのも疲れてきちまうし、性に合わない。
やっぱり何にせよ伝えなきゃ話になんねえ。
丁度手に取ったコーヒーポットを片手に、くるっと桜庭の方へ体を向けた。

「…なあ、桜庭」
「何だ」
「泊まってってくれよ。今日は翼ももう先に帰っちまったんだし、明日も遅出だぜ? いいだろ?」
「断る」
「…。たまにはお前と過ごしたいんだけど、俺」
「君と僕はいつも時間を共有してるだろう」
「いや、そーじゃなくて…。恋人としてって言ってるのくらい分かるだろ?」

ここまで言って断られると、桜庭の性格を知っていても、本格的に嫌がっているようにも見えてくる。
ポットを一旦置いて、近くのシンクに片手を添えると、もう片方の手を軽く開いた。

「何か思っていることがあるなら聞くぜ? お前がどうしてそんなに嫌がるのか、俺馬鹿だから分からないんだよ。今夜はちょっと話さないか? …あのな、桜庭。何かもー絵に描いたような台詞だから言うの嫌なんだが…。毎回、お前がうちに来る度、帰したくないんだからな、お前のこと。何なら、一緒に住みたいくらいなんだぜ?」
「…」

真意を知りたくて正面切って聞いてみるが、桜庭はどこ吹く風で、淡々とラップをかけた皿を冷蔵庫へ入れようとしている。
桜庭の移動に合わせて、自然俺の視線の先も動いていく。

「お前がどうかは知らないし、取り巻く環境を考えて、それが現実的に無理なことも分かってる。お前が、翌日の仕事のことを考えているのも分かるぜ? 仕事に妥協しない姿勢は尊敬してるし、尊重してやりたいと思ってる。けどな、だからこそ、たまに翌日に余裕がある時くらいは傍にいてほしいんだ。お前はどうだ? お前の考えを聞きたい」

数秒間待ってみても、返事が来ない。
パタン…と冷蔵庫を閉める音が、妙に乾いて聞こえるだけだった。
…いつもグサグサ辛辣なくせに、こういう時だけだんまりっていうのはよくないだろー?
流石にむっとして、半眼にもなる。

「反対意見がないのなら、今夜は帰さないからな。…一緒に寝ようぜ。な?」
「…。――…んなんだ」
「あ?」

ぼそ…と小さな声が聞こえて、聞き返す。
冷蔵庫に片手を添えたまま、顔をうつむけた桜庭が、絞り出すように声を発する。

「…何なんだ。君は…、この間から…」
「この間…?」
「泊まれ泊まれと鬱陶しい…。翌日に予定があるのに、君の家になんか泊まるはずないだろう…!」
「な…。はあっ? 何で泊まるはずないんだよ!?」
「……何で?」

あんまりな拒絶に驚いていると、今度は桜庭がぎっと俺を睨み付けた。
急に睨まれて、思わずたじろぐ。

「翌日に響くからに決まってるだろう!何回言わせるんだ、君と違ってこっちには準備が必要だし負担が大きい。気分次第でどうこうできるものではないし、僕は翌日に疲労や筋肉痛を少しでも持ち込みたくない!…だが、君といるとどうしてもそう流れてしまう可能性が高いだろう!互いの精神衛生上もよくない。君の望む恋人的な価値のない僕が夜に傍にいて、一体君に何のメリットがあるというんだ!」
「何――…え?はっ??」
「距離を取った方が堅実だろう」

はん、と言い切る桜庭に、唖然とする。
…ん!?
何かちょっと今俺の頭の中にない切り返しが来て、一瞬追いつかない。
いや、言っている意味自体はそりゃ分かるが…。

「生憎だが今夜も断る。君とはしない」
「ちょ、ちょっと待て!しようなんて一言も言ってないだろ!"寝よう"って言ってるんだぜ!?」
「だから――…」
「や…セックスしなくてもそれはそれでいいんだからな!?」
「――」

慌てて片腕を前に出し、苛々してまた何か言おうとしていた桜庭を遮って咄嗟に声を張ると、はた…と桜庭が瞬いて止まった。
力の入っていた表情と肩から、虚を突かれたように、見る間に力みが落ちていく。
…。
そこか…。
…っていうか、そこかよ!?
俺の方も一気に脱力し、シンクに手を置いたまま、がくりと肩を落とすともう片方の手で顔を覆った。

「……そうか」
「――…、何…」
「…あああぁ~。なるほど。…分かった。そーかそーか、それでか…。…んだよーっ!もぉおおおっ!すっげー心配しちまっただろーがっ!!」

なよった顔と体を勢いよく上げると、距離を置いた桜庭がびくっとしたような気がした。
…よかった。
そんな理由かよ。
何だ、それじゃあ言葉が足りなかったってだけじゃねーか!
くそっ、そんなことで毎回帰られちまってたとしたら、今までが勿体なさ過ぎた。
思わず大きな声出しちまったが、いつもの声量に戻してシンクに腰を預けて寄りかかり、ひらりと片腕を振るう。
一気に気が抜けて、自然と顔が緩んだ。

「いや、俺…。ほら、お前本気で毎回帰るだろ? いつもは仕方がないとして、二人っきりの時に泊まれよって言っても何言ってるんだくらいの勢いで跳ね返されるから…。俺本気で嫌われたか、興味なくされちまったのかと思ってさ」
「……。君が? ……誰に」
「お前だよ!」
「…。そんなことを言った覚えは一切ないが」
「でも思うだろ、あんだけ拒否られちゃ!…まあ、勘違いでよかったぜ。やっぱ言ってみるもんだな~。言葉にしないと伝わらないってのは真理だな。…よし来いっ、桜庭!」
「な…っ。おい!引っ張るな…!」

ぱっと押し出すようにシンクを離れて、キッチンを出がてら桜庭の手首を取って引っ張る。
残りの食器も淹れっぱなしのコーヒーも、こうなりゃ全部後回しだ。
少し強引にリビングを横切って寝室に引っ張り込み、両肩に手を置いて押し下げ、ベッドに桜庭を座らせる。
むっとした顔をしてはいるが、いつもみたいな拒絶の言葉や抵抗が殆どなくて、もうそれだけで嬉しくなる。

「泊まってけ!」
「……は?」
「意味が共有できてなかったからもう一度言うけどな、俺はお前が泊まってってくれればそれで結構満足なんだよ。お前が、今日は無理と言えば無理で何もしなくていい。何なら、俺はソファで寝てもいいぜ? だからお前ここ使えよ。なっ? 今日は俺んちに泊まり!決定だっ!」
「…」
「よっし!じゃあ俺風呂の準備してく――」
「待て」
「…あ?」

回れ右して意気揚々とバスルームに向けて一歩踏み出した途端、ぐんっと背中が引っ張られる。
振り返ると、ジレからはみ出てるシャツの後ろ腰のところを、桜庭が掴んでいた。
びろん、とシャツの一部だけパンツからはみ出る。

「何だよ? パジャマなんかいいだろ別に、俺のだって。…あ、下着なら下ろしてないのあるからやるぜ? サイズ同じだろ?」
「誰もそんな話はしていない!」
「は? ……おい、待て。まさか今更帰るとか言うなよ?」
「違う。帰りはしないが――…」

流れるように不愉快げに言ってから、は…と桜庭が言葉を止める。
一拍置いてちらりと視線を上げられて目が合う頃には、ついついへらりと頬が緩んでいる自覚があった。
俺の顔を見た途端、露骨に桜庭の眉がつり上がる。

「…っ笑うな!」
「いや…ははっ、悪い悪い!嬉しくなっちまって…」
「…」
「あ、何だよ。逃げるなよな」
「…!」

何となく隣に座ると、ざ…と桜庭が一人分身を引いた。
おい…と思い、片腕と腰を掴んで元いた場所へ引っ張り寄せる。
一度体に触れると手を離すのが惜しくなって、調子にのって少し引き寄せた。
お遊び程度に抱き締めて、目を伏せる。
ふわりと鼻腔に、最近忘れ気味だった桜庭の匂いが入ってくる。

「……」
「挿れさせてくれる気だったんだな…。…そっか。そりゃ緊張もするし、迂闊に泊まれないよな。俺の言葉が足りてなかったんだな。困らせちまって悪かったな、桜庭」
「…」
「けどさ、どんなに仲いい恋人同士だって、365日交わしてるわけじゃないと思うぜ? そりゃお互い男だし、機会があればいいなとは思うけど…さっきも言っただろ? お前が帰っちまうのが何か嫌なんだよ、俺。急に静かになるっていうか、花がなくなるっていうか…」
「……。…本当に何もしないぞ、僕は」
「いーって!」

腕の中でぽつりと小さい不機嫌そうな声が聞こえて、苦く笑う。
よっぽど心配してたんだな、桜庭の奴。
俺のことをちゃんと恋人として考えてくれていたからそうなったんだろうが…そんながっついてねーよ!
抱き寄せていた腕を緩めて、大人しくしている顔を覗き込む。

「でもお前なぁ…。たまたまセックスできない日が続くからって、自分が俺の傍にいる価値がないだろうなんて、よくそんなことが言えるな。今結構じわじわ傷ついてるからな、それ」
「事実だろう? 女性と同じことはできない」
「んなわけあるかよ。反対意見に回るぞ、俺は。現に俺は何もしなくてもいいから桜庭が俺ん家に泊まってってほしいなってずっと思ってたわけだし、お前が食後それなりにだらだらして帰っていくのは、少しでも俺と一緒にいたかったからなんじゃないのか? そういうのこそ大切だろ?」
「…」
「…何だよ?」
「君は、あまり意欲的ではないんだな…」
「あ?」

解せない、という顔で桜庭が俺を一瞥してから、ふいと横を向いた。
…?
その反応が不思議で、少し考え、思い至る。
…もしかしたら桜庭の奴は、夜に俺と一緒にいると、セックスをしたくて堪らなくなる…とか?
俺だってできるもんならそうしたいさ。
けど、桜庭が翌日に仕事がある時はしないってスタンスであることに気付いてからは、そりゃそうかもなって思うようになった。
受け入れる側の方が負担でかいに決まってるし、そっちの体調とか気分とか優先して当然だろうと思うようになってからは、男同士じゃ基本そんなにできないよな、って普通に考えるようになったし。
だから例えば、ある意味冷静さを得た俺と比べて桜庭の方がしたい気持ちが大きかったとしたら、"泊まり=セックス"の図式が自然と成り立つのは当然で、それを前提に考えちまった…って解釈ができる。
…。
…て、いやいや。まさかな。
理想的解釈が過ぎるよな。自惚れてると、後で痛い目見るからな。
けど、そうだったらすげえ嬉しいが…。

「…」

ちらり…と桜庭を盗み見る。
一瞬聞こうかどうか迷ったが、答えがどっちであろうと質問した段階で怒り出しそうな気がして…気になるけど止めた。
むすっとしている桜庭の額に、コツンと額を合わせる。

「最後までしようと思わなくていいって。…な?」
「…」
「俺だって、これくらいでいいんだか――…って、おいいっ!?」

桜庭を抱き締めながら気持ちを伝えてめでたしめでたし…と持って行きたかったが、話の途中で大人しくしていた桜庭がいきなり俺の脚の間に触れた。
ガッ…!とすぐさま手首を掴んで離させる、が、当然バレるわけだ。

「止ぁめろ!」
「……嘘だ」
「はあっ!?」
「最後までしようと思わなくていい? この状況で勃たせている君のその発言を僕に信じろというのか?」
「おまっ……そりゃそうだろ!無茶苦茶言うなよ!仕方ないだろ!? 好きな奴をベッドで抱き締めてるんだぞ!男なんだからそりゃ勃つだろ!」
「――」

眉を逆ハの字にしてむっとした顔をしていた桜庭が、俺がそう言った途端に勢いを弱める。
…だからっ、その驚いたような顔は一体何なんだ!当然だろ!
後ろ頭を掻いて、はあ…とため息を吐く。

「…ちょっと硬くなってるだけだろ。だからお前に何かさせようなんて、思ってないって。普通でいいんだよ、普通で。…じゃ、コーヒーと風呂の用――」
「ちょっと待て」
「うおっ…!?」

立ち上がって改めて出て行こうとして、またガッ…!と体が止まる。
振り返ると、今度は後ろ腰辺りのパンツの穿き口をがっつり捕まれていた。
後ろ手に、桜庭の手首を掴んで離させる。

「何だよ。伸びちまうだろ」
「君のベッドなのだから、半分譲ってやってもいい」
「………あ?」

相変わらず不愉快そうな顔で、桜庭が上から目線で告げる。
…。
…そうだな。
間違いなく俺のベッドだな、これは。
…で、だから「半分譲ってやってもいい」…は、おかしいよな?――というところはいつものことだから置いておくとして、今の桜庭の言葉は、翼の通訳がなくても分かった。
「隣で寝てやってもいい」――…だな。

「…」

すげー嬉しいお誘いではあるんだが…それは流石にな、理性が難しいかもしれない。
今日一日のこの流れがなければたぶん普通に隣に寝て爆睡できる自信があるが、今までのやり取りがあったことによって、今晩隣寝は正直キツい。
剥がした桜庭の手首を取ったまま、目を泳がせる。

「嬉しいけどなー…。うーん…」
「――…」
「………ぐ」

俺が迷ったのが意外だったのか、一瞬、桜庭の眼が不安げに揺らいだ。
それが分かっちまって、思わず固まる。
たった一瞬だったが、そんな眼をされると弱い。
頭の中で天秤が揺れ動く。
あー…っと……。
折衷案折衷案…。
この状況だと、許される落ち所はどの辺だ…?

「…んー」

考えて、一応聞いてみることを選ぶ。
手を握ったまま、すとん…とまた隣に腰を下ろした。
そっと桜庭に顔を寄せてみる。

「――じゃ、触り合うか?」
「…!」

ぼそ…と小声で言ってみると、一瞬ビクッと肩が跳ねた。
いつもそうだが、今夜もすげー緊張してるのが分かる。
本当にただ一緒に寝るだけでいいと思っていたはずなのに、ここで「言ってることが違う」「するわけないだろう」「ほら見たことか」といつもみたいに拒否られても、「嘘だって、冗談だよ」で済ませるはずだったのに…。
そんな肯定的な反応と目をされると、本気でどうしようもなくなりそうで危うい。

「…」

バレないように息を吐いて落ち着いてから、そっと腕を回して、もう一度桜庭を引き寄せ、ぎゅっと抱き締めた。
否定も肯定ももらえないまま、ぽんぽんと背中を叩いたりして暫くそうしていると、緊張が抜けてくるのが触れ合う体で分かる。
途中から片手で髪に指を入れて撫でると、じわじわ俺の方に体重がかかってくる。

「…それくらいなら、明日の負担にならないだろ。な? いや、まあ…実際、普通に寝るだけでもいいしな。桜庭が無理ない方でいいぜ。俺はお前が今夜帰らないで傍にいてくれれば、それで十分……て言うとお前的には嘘になるんだろうが…。ま、それだけでかなり嬉しいしな」
「…」
「どうする?」

言って、笑いかけながらしれっと両手で眼鏡を取ってやる。
暫く無反応だったが……よし。
たぶん、平気なはずだ。
断固拒否!の時は泥棒呼ばわりですぐに奪い返しに来る眼鏡を、片腕伸ばしてベッドヘッドに静かに置く。
置かれた自分の眼鏡を横目で見てから、桜庭の視線がこっちに来る。

「……。君が、そうしたいのなら…。少しくらいは、付き合ってやってもい――っ!?」
「よっし!!」

小さい子を抱っこする要領で、桜庭の両脇下に手を入れて、一瞬ぐわっと持ち上げるとそのまま後ろに典型的に押し倒した。
桜庭の方が微妙に身長はあるが、体重が軽いお陰で一瞬なら俺でも持ち上げられる。
ギシっ…!と大きくベッドが軋んで、受け身も取れず投げ出された体が起き上がる前に、素早く体を膝で跨いで乗り上げてやる。
俺の膝に両手を置いて逃げようとして、だができないと分かると、桜庭が下から不満げな声をあげる。

「君…っ、言っていることが違う…!」
「何言ってるんだよ、違わないだろ? できるんだったらそりゃ嬉しい、けどお前に無理はさせるつもりはないし、お前の気分と予定を優先させる、いてくれるだけで嬉しいって。触らせてもらえるんじゃ、俺には上々だぜ!待ってろ、すぐ――ぶっ」

早速脱がそうと浮かれ気分で桜庭へ手を伸ばした矢先、べちっ…!…と、顔面に小さな袋が押しつけられる。
赤い顔した桜庭が、それでも眉を釣り上げて言う。

「…触れ合いでも、ゴムは付けるように!」
「…………おう」

真面目か…。
いや、悪いことじゃないが…。
…。
両目の間に押し当てられた、近距離過ぎてぼやけているそれを寄り目で一度見てから、また桜庭を見下ろす。
当然俺は出した覚えはないし、使っているのとは違うパッケージ。

「…というか、持って来てたのか?」
「…」
「かぁっわいいな~!桜庭ぁ~っ!」
「ッ、君に任せておくと不安要素しかないんだっ!」

どんなにキツい顔をされても怒鳴られても、耳まで赤くされると頬が緩むしかない。
目の前にあるそれをあぐっとそれを口で咥えながら、素早く伸ばされている桜庭の袖のボタンを外すと、バッと腕を引かれたが、気にせずもう片方も外して、一気にシャツとその下のインナーを引き上げ、無理矢理万歳させる。

「…!?」
「…ほっ!」
「おいっ…!何故脱が――」

バサッと頭がすっぽ抜けた途端、桜庭がまた慌てて起きようとする。
口に咥えたゴムを指に持ってから、それを上からのキスで押さえつけた。
まあまあ、という宥める気持ちが少しと、今夜はこうできることの嬉しさが勢い余って強めに押していくと、起き上がろうとしていた桜庭が大人しくなる。

「…っ」

一瞬戸惑って、柔らかい舌がちゃんと応えてくれる。
キスをしながら指の背で頬を撫でると、ぴくんと辛そうに震えて、そんな反応だけで俺も嬉しくなる。
…ああー。
狡いよなー、そのギャップ。
今まで、たぶん多い方じゃないが、それなりに人と付き合ったことはある。
大した差じゃないが、付き合うに至らなかった恋は、当然それ以上の数がある。
けど、今までの誰よりも…性格や反応やものの考え方とか、全部ひっくるめて…今までの誰よりも、可愛い奴だと思う。
…長いキスを終えて、お互い少し上がった息のまま、近距離で内緒話みたいに小声で語った。

「…汚れちまうかもしれないだろ?」
「…」
「脱いどくに越したことないって。俺も脱ぐしな」
「…。っ……ぁ、明日は…。次のライブの、ダンスレッスンがある…」
「あ?」

桜庭組み敷いたまま、首のとこにキスしながら片手で自分のジレのボタンを外していると、下でぼそぼそ声があがる。

「君だってそうだ。ドラスタとして予定が入っている。…絶対にしないぞ、僕は。君が何と言おうと――」
「いやだからいいって!止めようぜって話してただろ?…というか、何でそんなに信用ないんだ? 俺そんなにがっついて見えるか?」
「見える」
「即答!?」

そんな騙し討ちでもするように見えるのか!
ひでえな、信用なさ過ぎるだろ。
漫才みたいな言い合いをした結果、ムードがどこかに飛んでいった……て、いや、元々ねーけど。
脱いだジレをベッド端に払いながら、目を伏せて、何気なくはあ…とため息を吐く。

「まったく…。いいって。そこまで期待してないから」

やれやれ…と、次に目を開けると、俺の影の中で、桜庭が少し驚いたような顔で俺の顔を見ていた。
はた…と、目が合う。
よくない合い方だ。

「――」
「…ぁ」

ぁ…。
まずい、と反射的に思う。
今のため息と言葉が、桜庭に響いたのが分かった。
絶対今変に取ったぞ、コイツ。
ぐ…と何かを耐えるような顔で、桜庭が俺をひたと見上げた。

「――…絶対にしない」
「え? や、違…」
「今夜は、本当に…君とはできない」
「ぇ、わ…!」

違う、悪い、と俺が口を開く前に、桜庭が俺の手首に指を添えて、ぐっと首を伸ばした。
猫が鼻先をくっつけるような、そんな他愛もない大切なキスが、下から…桜庭から俺に来る。
最中後半ならまだしも、素面の時は珍しいその行動に、今度は俺が一瞬固まる。
キスする側にあまり慣れ感のない唇が、戸惑いがちに離れる。

「…っ中途半端な仕事はしたくないんだ。君だってそうすべきだ。だがそれは、君を拒絶しているわけでは――…」
「ちょ、ちょっと待て…!違う違うっ!いいって、いい!今のはそういうため息じゃない!!」

いつもなら到底見られないような、弱腰の桜庭はガツンと来る。
不安にさせちまったのか、俺の機嫌を取ろうとするような仕草に慌てて、軽く肩を押してまた寝かせてやる。

「俺だって仕事に影響なんか出したくないって。お前のそういうところは凄いと思うぜ。さっきも言ったけど、単純に尊敬するし、いいところだと思ってる。さっきのは言い方が悪かった。今夜は最後までを期待ないってだけなんだ。…俺は怒ってないし、困ってもいないから大丈夫だって。今夜は本当に触るだけ!触らせてくれるんだろ?」
「…」
「信用しろよ。準備だって必要だし、寧ろ勢い余ってとか無理だろ。第一、お前が今日は嫌だって言ってるんだから、単純にそこ無理強いなんてするわけないだろ?」

ベッドに横たわった桜庭の横髪を、くしゃくしゃと後ろへ流すように梳きながら頬を撫でる。
その手を止めると、目を伏せて俺の手を受けていた桜庭が窺うようにそっと目を開けた。
目が合って、にっと笑いかけてから上半身を下げ、顔を耳元へ近づける。

「ただし、次の共通の休み前は、絶っ対に相手してもらうからな。…な、薫?」
「…」
「…お?」

数える程しかまだないが、最中にだけ呼ぶ下の名前で呼んでみると、数秒後、ぷいっと桜庭が顔を反らした。
それが照れ隠しなのが分かっているから、ただただ頬が緩む。
桜庭の顔の左右に両腕の肘から上を付けて、殆ど上に乗りかかるようにして閉じ込めると、凄まじく鬱陶しそうに体ごと横を向けて、ますます顔を反らす。
そんな仕草が可愛くて堪らない。

「おーい、桜庭~。返事はー?」
「…………スケジュールには入れておいてやる」
「おま…。たまには素直にYESで返事してみろって!」
「…? してるだろう」
「ど こ が だ!"分かった"で返したことなんて片手で足りるくせによ。言わないと髭でジョリジョリしてやるぜ~!」
「っ…、止めろ!!」
「うごっ」

抱きついて髭攻撃をしかけようとしたが、その前に全力拒否で顔面鷲掴まれ、舌を噛む。
いでで…。
たぶん俺を真上から引き剥がそうとしたんだと思うが、ぐいぐい両腕で押しても俺が動かないと分かると、何とも言えない顔で、まるで相手にしてられないとばかりに、またぷいっと顔を背けた。

「子供か、君は!」
「へへっ。…あーっ。嬉しい!」
「…何が」
「今夜、お前がウチにいるのが。気が抜けてるっつーか…リラックスしてるお前を見てると、俺も落ち着くんだよ。何だか嬉しくなるんだ。ほっとするし、ついついはしゃいじまうんだよな~」
「…」
「特に朝!寝起きな。案外起きるのに時間かかるもんな、お前さ。あんなに時間かかるのに、よく毎日遅刻もせずに来られてるよなー。ちゃんと自己管理できてるんだから、偉いと思うぜ」

ごろん、と隣に寝っ転がって、片腕で抱いて桜庭の方を向いて笑いかける。
実際、本当に偉いと思ってるんだ。
俺なんか朝は得意だから、てっきり桜庭もそうだと思っていた。
現に仕事の移動中とかで仮眠を取っている時は、呼べばすぐ起きるしキチッとしているから、その印象しかない。
けど、プライベートでの寝起きはまた全く違うんだよな。
それを初めて知ることが出来た時の嬉しさは格別だった。
日頃水面下で桜庭なりに頑張っていて、普通にしていれば気付くことのできないことを、俺だけに隠さないってことは、それだけ俺に気を許しているってことでもあると思う。
朝の弱い桜庭を見るのが好きだ。
夜から朝にかけてのコイツの時間を、誰にも渡さずここに閉じ込めておければ、こんなに嬉しいことはない。

「…」

抱いていない方の手で、桜庭の片手をぎゅっと握る。
むすっとしたまま黙って聞いていた桜庭は、間を置いてようやくちらりと俺へ視線を投げた。
さっきキッチンで言いかけたことを、改めてまた伝えておく。
絶対ちゃんと聞いてなかったもんな。

「なあ、桜庭。ブルマンのコーヒー豆、いいの買ったんだ。目覚めにいいやつ。専門店に行って聞いて来たんだぜ? 淹れ方も教わってきたし、本も読んだ。前よりは旨くなったはずだからな、明日朝一で淹れてやるよ。一緒に飲もうな」
「……」

口を噤んでいる顔に笑いかけ、自然に肩を抱いて引き寄せる。
目を伏せると、そっと顔を近づけた。
場合によってはここで顔面張り手が飛んできたりするが…。
ぎりぎり部分でちらりと片目を開けてみると、大人しく目を伏せて少しだけ顎をあげて待っている桜庭がいて、何というかもう…じたばたして大声で叫びたくなる衝動が体中を走る。

「…~っ」

…だ、ダメだっ。
頬が緩みまくる。
変な意味じゃなくて笑っちまう。にやける。
…いや~。
これ公開しちゃダメなやつだよなぁ。
桜庭の印象が相当変わっちまうんだろうからな。
録画したい……って言ったら、確実に怒鳴られるんだろうな。そりゃあもう、怒濤の如く。
ああ、惜しいなー。何とか記憶に残すしか…。
ムズムズするくすぐったい気持ちを抱いたまま思わず見惚れていると、うっかり時間が空きすぎた。

「……」
「わっ、お…。いやっ、悪い!」

些細な疑問符を浮かべた表情で、桜庭がそっと目を開けたんで、慌てて抱いていた肩から一度手を浮かせてフォローに入る。

「悪ぃ悪ぃ。待ってる顔が可愛くて、思わず眺めちまったぜ」
「――…」
「仕切り直しな、仕切り直し。今度はすぐ――…って、オイ!桜庭!?」

改めて肩を抱こうとしたら、バッシ…!と思いっきり触れていた腕をぶっ叩いて払い落とされた。
げ、と思う間もなく、桜庭は片手で布団を掴み上げると、自分だけにかけながら素早く背中を向けて一気に俺との距離を取られちまう。
あーもーっ!
片肘着いて、少し体を浮かせると速攻宥めに入った。

「ちょ…。オイ、待てって!悪かったってっ!」
「うるさい。もういい。……もういい!僕は寝る!!」
「ちょっとお前に見惚れてただけだろーが!悪いことじゃないだろ? ほら、キスしようぜ、キス!」
「断る!」
「そう言うなよ~。な? こういうの久し振りだろ? さっきだってキスできて、俺すげー嬉しかったんだぜ?」
「断固拒否だ。今夜君とは一切――…っ離せ!しがみついてくるな!僕に触るなっ!」
「さ、触るなってことないだろ!?」

完全に背中を向けちまったイモムシ状態の桜庭を、布団の上から両手両足で捕まえる。
抱き枕よろしく引っ付いて暫くぎゃあぎゃあ言い争っていたが、何とか押さえつけて少し強引に首の横にキスしてすり寄ってると、反発的な態度もようやく収まってきた。
…まあ、さっきのは俺が悪かったしな。
いやでも、見ときたくてつい…。
大人しくなったのを見計らって、仕切り直しにまた組み敷いておく。
だいぶぐちゃぐっちゃになった布団以外はさっきと同じような状態で俺の下にいる桜庭が、むすっとした顔で呪詛のように低い声で口を開いた。
目元が陰っていて、思いっきり不機嫌だが…。

「…口以外は止めろ。跡が付く」
「目つき恐ェよお前!そんな怒った顔しなくてもいいだろ!…分かってるよ。大丈夫だって。今のは付けてない。お前にこっち向いてほしかっただけだって。他のところはちょっと舐めるくらいにしとくから」
「……」
「ちゃんとキスしようぜ。現実的にセックスは日にちが難しいんだ。触ったりキスしたりでくらい、お前のこと好きだって表現させてくれたっていいだろ? たくさんしたいんだよ、俺は」
「…。き――…」
「ん?」
「……」
「何だ?」

何か言おうとした桜庭が、一瞬言葉を止める。
言いたいことあるなら聞くぞと思って促してやると、間を置いて、一度は視線を逃がした桜庭が俺を睨み上げた。
…が、それで言ってくる言葉ってのが。

「君とのキスは――…息が切れて、疲れるんだ!」
「――」

一瞬、頭の中の思考が本気で止まった。
一拍置いて、間抜けな声で聞き返す。

「……へ?」

…は?
やけくそみたいに言ってるが、顔赤いし上裸だし……え、何だそれ、誘い文句か?
だってお前そりゃ……長くなっちまうだろ!好きな奴としてんだから!
何だ、まさか本気で触れるだけのキスで抑えろってのか? 無理だろ。
第一、確かに出だし俺からだが、律儀にそれに応えてくれてんのお前の方だろーが!
いつもキスで大人しくなったりぐったりして息が切れるのは、お前も参加してるからだからな!?
かーっと俺の方が顔が赤くなってきて、頭の中が反論で埋まる。
熱い。
この歳になって、今更そんなことを言われるとは思わなかった。

「お、おまえそれ…。天然か?本気で? 冗談だろ??」
「冗、談…? っ…この状況で誰が冗談など言うか!君はいつもしつこ――」
「あーあーあーっ!待て待て。これまた口論になっちまう。ストップだ、ストップ!」

いつもの流れになりかけて、慌てて一旦停止させる。
翼がいない俺たち二人だけだと、一度その流れに乗っちまうとどこまでも走り出してその場は喧嘩別れ、ってことが多いからな。絶対止めた方がいい。
桜庭もそう思うのか、かなりむっとした顔をしているが、大人しく一旦口を噤んでくれた。
お互い黙って静かになったところで、すーと深く息を吸って自分を落ち着かせ、冷静になったところで伝えたいことを伝える。

「…あのな、確かに、お前からのキスに比べりゃ、俺のが回数は多いし長くなっちまってるかもしれねえぜ? お前がどうかは知らないが、俺は好きな奴とは隙あらばディープの方をしたいんだ。俺のキスが、長くてしつこくてすげー巧くて、すぐに息が上がっちまって気持ちよくなっちまうってんなら、確かに桜庭は疲れるかもしれないが…」
「ちょっと待て。誰も巧いなんて言った覚えはな――っ!」
「でもな、今夜に限って言えば、」

すぐに反論してくる桜庭の言葉を流して、中途半端にその体にかかっている布団の中、腕一本忍ばせて、桜庭の脚の間に触れる。
びくっ…と、露骨に、思わず膝を立ち上げるくらいに、たったこれだけで素直に反応が返ってくる。
それなりに硬くなっている手触りに内心ほっとしつつ、片腕で組み敷いている桜庭にまた顔を近づける。

「悪いことじゃないだろ? 今夜はこーやってさ、一緒に気持ちよくなろーなって言ってるんだからな。…ちょっとくらい疲れるの、いいじゃねーか。一回分くらい、お互い素直に気持ちよく疲れようぜ」
「…」
「…てーことで!さーっ、やるぞーっ!!」
「…!?」

桜庭の体を脚の間に跨いだまま体を起こすと、自分のシャツのボタンを外して脱ぎ、思いっきり横にぶん投げた。
桜庭と同じように上半身裸になっていそいそとパンツも脱ぎ捨て、下着だけでがばーっと改めて桜庭に上から抱きつく。

「く~っ!桜庭に触るのひっさしぶりだな~っ!泊まるの本当久し振りだよな?いつぶりだ? いつも俺を置いて翼と帰りやがって!寂しいったらないんだからな!…うあーもーっ、すっげー嬉しいぜ!」
「っ…、…一回だけだぞ!」
「おう!」
「君がどうであろうが、僕の一回で止めるからな僕は!」
「分かってるって」
「後ろには絶対に触らないでもらおうか!最後までせずとも君がはしゃぐと明日に響――」
「信用なさすぎだろっ!」

まだいまいち信用してないらしい桜庭へ、上からがぶっと噛み付くように例のしつこい呼ばわりのキスをする。
舌で舌を捉まえて、弾力のあるそれを絡ませあうと、桜庭の匂いが頭の中にまで香ってくる気がする。
一度合わせると、もう離すのが惜しくなる。
人間、鼻で呼吸できるんだから、口はこのままでいいだろって思う。
あったかい。
キスだけで、もう既に気持ちいい。
くちくちとキスをしながら片腕を後ろに伸ばして、桜庭の体から穿いているパンツと下着をずり下げた……が、足首の方まで腕が届かず仕舞いで、完全に脱がすにはキスを止めなきゃいけないから、仕方なしに一度唇を離す。

「は…」
「…っ、は…。…ぁ…」

さっきまでの元気とツンツンした態度はどこへやらで、今まで以上に顔を赤くして、微妙に肩を上げて顔を背けまくっている桜庭を見ているだけで、俺の中心にどんどん熱が集まっていく。
油断するとあっという間に勃ち上がりそうだが、それじゃあちょっと触るだけですぐ終わっちまうから、なるべく冷静な自分を取っておかないといけない。
はぁ…と大口開けて息を吐いて、少しでも体内の熱を散らそうと深く呼吸した。

「…キスがしつこくて悪かったなぁ。いいんだぞ? テクニシャンと呼んでくれても」
「…っ」

意地悪く言うと、口元を片手の甲で押させていた桜庭は、それでも無理して視線だけで俺を睨み上げた。
可愛いだけだからな、それ。ホントに。
どういう顔をしていいか分からないらしいからあんまり見るなとよく言うが……どんな顔でもいいのにな。好きな奴の顔なんだからさ。
最中の相手のなんて、どんなのだって可愛いと思うと思うぞ。
実際、俺はそうだし。
寧ろ全種類見ておきたいというか……と思っていると、強がりつつも思いっきり小馬鹿にしたような顔がくる。

「…テクニシャン? 君程度が?」
「それ恋人に吐き捨てる言葉じゃねーだろ!」

取り払った桜庭の分の服は、自分のと違って腕を伸ばしてそっとベッド横の床に落とす。
横に傾いていた体を戻しながら、口元を覆っている桜庭の片手をぐいと掴んで引き剥がした。
そのまま、ぱっと指を組み合わせるように手を握り合わせる。

「今夜一緒にいられて、俺本当に嬉しいぜ、桜庭。…お前の言う通り最後まではできないが、ちょっとした触れ合い程度でもさ、こうしてると、すげー気持ちいいよ、俺」
「……」

格好つけて、桜庭の手の甲へキスをする。
少し上がってきた息で俺を見上げていた桜庭が、ふ…とシーツに肘を着いて、俺が腹に乗ってるってのに、強引に体を起こしてきた。

「…」
「…お?」

ず…と、俺の脚の間から、下半身を引きずるように、少し抜ける。
のたのたと起きたと思ったら、そのまま流れるように、正面から俺の方へ身を寄せた。
腕こそ回してくれないが、白い体が控えめに寄り添って、こつ…と桜庭の額が俺の左肩に置かれる。
…。

「おおっ…」
「…」
「……ははっ。…かわいいなー、桜庭」

返事はない。
顔も上げない。
ただ、密着したせいで、下着越しではあるが、お互いの硬い熱が当たる。
…ああ。
気持ちいい。
心も気持ちいい。
浮かれすぎて、こんなことで息が上がる。十代の時みたいだ。
この歳で笑われるかもしれないが…"恋"をしているなって思う。
…名残惜しいけど絡み合っていた指を離して、片腕でぎゅっと桜庭の腰を抱き締めながら、もう片方の手でお互いの熱を包み込んだ。
火傷しそうなくらい熱く感じるそれらを握ると、顔を上げないまま、桜庭の体が一瞬震えた。
ちらりと覗ける範囲で顔を見たかったが全然見られず、小さく笑って、薄暗い部屋の中、すぐそこの寄れたシーツを何となく見下ろしながら口を開く。

「…夜にさ、可愛いって言われても、あんまり怒らなくなったよな」
「………そんなに悪い気はしなくなった」
「おー。そっかそっか!」

ぽんぽんと抱き締めていた腰を軽く叩いて、黒い艶髪にすり…と頬擦りする。
特に促したわけじゃないが、たっぷり間を置いて、ふ…と桜庭が鼻先を肩から浮かせたのが分かった。

「…」
「…」

とろんとした、良くも悪くも嘘の吐けない優しい瞳から、どこか弱気そうに窺うような視線を受けて、ずぐんと胸を重く打つ。
…キスをするのはまるで俺からの一方的みたいな言い方をされるが、そーやってちょいちょい促しているのはどっちだよ、と思う。
口にしたらまた言い争いになるから、黙秘に限るけどな。

今度こそ、衝動に任せて溜めずにすぐにキスをした。
欲しがっているというのなら、溢れるくらい、両手いっぱいに与えてやりたい。
キスをしながら片手を動かし出すと、乱れ始める呼吸に圧されて、口の中で熱を持った空気と唾液がよく混ざった。


Goodmorning My Honey




――んで、翌朝。

待ちに待った翌朝。
本格的にではないにしろ、久し振りに一緒に夜を過ごせて、心も体も晴れやかだ。
自然、調子も上がる。
つくづく男って単純だなと思うが……ま、いいだろ!
単純な方が、物事は調整しやすいしな。
人間だって複雑よりは単純がいいってもんだ。

「…よーっし。完璧だな!」

ふん、と息巻いて、両腕を腰に添えて朝食の用意をしたダイニングテーブルを見下ろす。
今朝は洋食だ!
典型的だが、ハムエッグにウインナーにサラダのワンプレート。
ここにトーストと思ったが、何だか嬉しくなっちまってフレンチトーストに変更した。
アイツもうちょっとカロリー取った方がいいと思うしな。
はちみつにメープルシロップだろ?
ココアパウダー、アーモンドフレーク…もちろんバターは切ってあるし。
ヨーグルトに、ジャムも三種類。
ここんとこ泊まってくれねえから、アイツに朝飯作ってやること全然ないおかげで、何のジャムが好きかすっかり忘れちまった。
なので、種類多めに用意した。
今日どれを選ぶかで、覚えておいてやらねーとな。
…やー。遅出出勤だと、朝飯しっかり食えるからいいよなー。
コーヒーの準備もばっちりだ。
食事が始まった時に本番は淹れるとして、先に淹れた少量を、エスプレッソ用の小さいカップに注ぐ。
味見兼寝起き用にな。

「~♪」

カップを持ったまま、片腕でエプロンを外して適当にイスに引っかけ、ベッドルームに向かった。
まだ灯りの消えている部屋の中は、それでも窓から差し込む灯りが、閉まっているカーテンの縁を白く照らして暗くはない。

「ぃよっ…っと」

持って来たカップをベッドサイドのミニテーブルに置いて、ベッドに片膝を乗り上げた。
ギ…と、控えめにベッドが鳴る。
両手を布団の上に着いて身を乗り出すように上から覗き込むと、俺の貸してやったパジャマ姿ですうすう寝ている桜庭の横顔が見えた。

「――…」
「これであのいつものビシッと感で事務所に来てるんだからなー。それだけ頑張ってるってことだよな」

警戒心無く背中を丸めて寝ているのを見ると、謎の満足感がくる。
欲を言えばそりゃああれこれ出てくるが…とはいえ、これも俺がやりたかったことの一つだ。
この、朝!
見よっ、この爆睡する桜庭を…!
…と、翼や事務所の連中に言いふらして見せてやりたいぜ。
それだけでたぶん大分親しみやすい気がするんだがなー。
二十歳半ばの男に使う表現じゃないのは分かっているが、この無邪気な寝顔を見てるとほっとする。
起こさない方が可愛いんじゃねえか?とはちらっと思うが……ま、あのいつもの調子が桜庭なわけだしな。
我ながら不毛な戯言だ。
それに、コイツの性格上、やっぱこういう姿を見せる相手はかなり選んでいるだろうから、俺にだけ見せてくれていると思えば、やっぱり嬉しいもんだよな。

「はぁ…。ホント、なーんか俺だけ知ってるのが勿体ねえな…。…あ~。俺ってすげー幸せ者だなっ!」

苦笑しながら、昨晩と同じように指先の背で頬を下から上へ撫でてやる。
違和感を感じたらしくて、桜庭が少しだけ眉を寄せて、逃げるように枕に鼻先を埋めると、さらりと黒髪が流れる。
それがまた面白くて笑っちまう。
よっとベッドから立ち上がって離れると、広い窓の方へ歩いて行く。
…さーて。
気合い入れに袖を捲り上げるマネをしてから、窓端にあるカーテン用の紐をぐっと握る。
いっせーのっ!…で、勢いよく手にした紐を引くと、ジャッ…!と広い窓のカーテンが一気に左右に開いた。

「起きろー!桜庭ーっ!朝だぞーっ!!」
「…っ」

それまでと比べると、突然ライトを照らされたように朝日に染まる室内。
目に痛い白い光に照らされて、寝ている桜庭が目を閉じたまま、それでも思いっきり顔を顰めた。

 

 



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思いの外、自分にしてはらぶらぶになりました…。
自分でビックリ。でも嬉しいです。
やったぜ感があります。自分の文章はいつもどこかが寂しくなるから。
輝薫は本当「会えてよかったね!」感を出したいです。
2018.1.16






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