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「だああああもうっ!ホンッマにアカン子やなああっ!!ちょっ、誰か!誰かーっ!!」

そんな悲鳴が、突如廊下に響き渡った。
偶然近くを歩いていたが、そんな声を聞いては当然そちらへと視線を向ける。
同じドアが並んでいるうちの一つが開かれており、どうやら声はそこからしているらしかった。
声と方言で叫んだ奴は分かる。織田だ。
何か手助けがいるのかと爪先をそちらへ向けて部屋を覗き込むと、丁度、織田がベッドからぐったりしている太宰を運びだそうとしているところだった。
なるほど、そう言えば、この辺は太宰の部屋があるとか言っていた。
どうも意識がないらしい。
例の、とても趣味が良いとは言えない外套は近くの椅子の背にかけてあったが、変わらぬ洋服に身を包んでいる太宰は、青い顔をして気を失っているようだ。
その左首には黒とも紫ともつかぬ靄が纏わり付いており、草書体のように原形を留めていない文字が、べったりと太宰の体の左半分に張り付いている。

「あっ、檀クン!ええところに。ちょお手伝ったってやー!」
「おう、いいぜ。太宰はどうしたんだ?」

太宰の片腕を肩に回していた織田の反対側に周り、体を滑り込ませて同じように逆側を支えてやる。
二人がかりになれば、今の太宰が小柄な分、案外と軽々運び出せて部屋を出た。
織田がげんなりした顔をする。

「どーもこーもあらへんわ…。いつもの発作や、発作」
「発作?」
「せや。昨日の昼から姿見ぃへんかったんや。今朝もおらんかったし、何や悪い予感してこーして部屋に見に来てみたんやけど…。錠はかかってへんかったし、開けてみたらこの様やで。何ぞまた一人で思い悩んでもうたんやろなぁ…。頼むから鬱になる時は人が居るとこで鬱っててほしいわーホンマ…」
「鍵をかけないところが太宰らしいが…。――ということは、この黒い靄と文字は、ひょっとして血のようなものなのか? 首でも切ったか」
「ああ…。檀クン最近招魂されてんもんな。本の中じゃ普通に血ぃ出とったやろうけど、現世に戻るとどうもこういう形で消耗するみたいなんや」
「へえ…。太宰の奴、いよいよ添い人無しでもできるようになっちまったのか。そりゃ厄介だな…。…あれ? けど、今の俺たちは外の怪我でもすぐ治るって聞いたぞ? 違うのか?」
「そら司書サンの特別な時計があればの話や。時計なくても治るんやけど、すぐ言うても痛いモンは痛い。傷が深ければ"喪失"言うて消えてまうんやし、何より、補修せなどんな小さい傷かて自然には治られへんねや。アカンやろ。…ちゅーか!自分何でそんな冷静やねん!!早よベッド!ベッド運んで補修したって!!」
「なんだ。急いだ方がいいのか。…なら」
「うおっ!?」

その場で一度背を屈め、太宰の背と膝裏を掴んで、ぐっと持ち上げて横抱きにした。
生前なら兎も角、今の太宰など軽いものだ。
…なるほど。顔色が悪い。
黒い靄も、ゆったりと体を這うように首から流れ出る文字も、止まる気配はない。
よいしょと弾ませるように一度抱え直し、歩く歩幅を広くする。
大きく歩き出した俺に、織田が両手を組み合わせて付いて来る。

「はあ~…。檀クン、君ごっつ男前やなあ!」
「いや、今更そんなお世辞言われてもな…。…で? その補修室は何処なんだって?」
「おっ、ハイハイ。案内しまっせ~!」

織田が俺の前に出て、案内をしてくれたお陰で、程なくその補修室という所へ辿り着いた。
医務室のような雰囲気だ。

「あとは放っとけばええからワイは戻るけど、檀クンはどーする?」
「俺は少しここにいるよ。補修ってのも実際にはあまり見たことないし、後学のためにな」
「そか。そんなら、太宰クンのこと頼むわ」
「…なあ。織田作、一つ聞いてもいいか?」

出ていこうとする織田があまりにもあっさりしているものだから、ふと疑問に思って聞いてみる。

「ひょっとして、太宰は今もよく死にたがってるのか?」
「せやでぇ。もう癖みたいなもんやな。一定間隔で、浮いたり沈んだり…君もよぉ知っとる通り、相変わらずの太宰クンや。部屋引っ掻き回してみぃ。遺書がぎょーさん出てくんの間違いなしやで」
「へえ、そうか…。サンキュ。悪いな」

軽く片手を挙げて、織田と分かれる。
何だかんだといつも遠くから太宰を見ていてくれる彼には、好感が持てる。
「補修」とは、俺たちが傷ついた場合、その回復を行うことだそうだ。
生身と違い、二時間も寝かせておけば、元の状態に戻れるだろという。
首を切って二時間で戻るのならば、なるほど、それは"すぐ治る"という表現で正しいが、詳しく聞けば、やはり傷が深いと姿形が保てず、再び俺たちイメージの魂は霧散され、本の中へ戻るという。これが「喪失」。
戻ってしまったら、また司書に探し出してもらって招魂されなければこの仮初めの姿で現世に戻ってこられないそうだ。
…ここでは、死はもっと軽くて身近なのかと思っていた。
すぐ治ると聞いていたから、傷はどんなものでも寧ろ生前より回復力が速く、瞬時に治り、本の中で敵にやられるとか以外は、何らかの特異な理由がない限り俺たちは死なないのだと思っていた。
ベッドで眠る太宰を見下ろす。
首に包帯を巻いてもらって、今はあの黒いどろどろした文字は流れ出ていないが、まだ首辺りに靄はかかっていた。
…。
ここにも、"死"はあるのか…。
"今の自分がなくなる"という意味での消失が存在しているのならば、やはり今でも、太宰はその"死"に引っ張られているのだろう。
何故なら、それが彼の、作家としての本質だからだ。


溺れるならば、甘い水




「………ぅ」

小さな呻き声を聞いて、最近のレシピ本から顔を上げる。
ベッドサイドにある椅子に腰掛けて本を読んだりうとうとしたり、小鳥の声を聞いたりしているうちに、二時間以上経っていたようだ。
体感時間が短い。
どうやら俺にとって、なかなか悪くない環境だったようだ。
ベッドで横たわっていた太宰は、ぼんやりと薄目を開けたり閉じたりしていた。
包帯の巻いてある首周辺には、もう靄は見当たらない。
いつの間にか、太宰の体に張り付いていた黒い文字も消えていた。
レシピ本を閉じる。

「起きたか?」
「檀…? ……あれ? ここ…」
「補修室だってよ。太宰、うどん食うだろ? 作ってあるんだ」
「うどん…。ああ…うん…。うどん…食べる…」
「よし。待ってろ」
「ふぁあぁ…。ねぇっむ……」

まだぼんやりした様子の太宰が、目を擦りながらそう言うので、椅子から立ち上がって部屋の端にある給湯台へと向かった。
そこにある一台のコンロに既に用意してあった土鍋の中身を温めるため、火を着ける。
暫く背中に視線を感じていたが、敢えて振り向かずにいると、太宰から次の言葉を発した。

「…? 俺、どうしてここで寝てるんだったっけ?」
「覚えてないのか? 自分で首切ってたみたいだぞ。織田作が見つけてくれたんだ」
「はっ…!そうだ!!」

食堂から持って来た食器を用意しながら一度振り返ると、かっと目を見開き、自分の首を確認する太宰が見えた。
まるで漫才のような反応だ。
包帯が巻かれ、傷がない首の感触を確かめると、血の気のない顔でしおしおとベッドに横倒しになっていく。

「うあぁ…。生きてる……。ああ…もう嫌だ……」
「うどん出来たぞ」
「…」

布巾で持ち手を覆い、土鍋をベッド横の棚の上へ置く。
前に使った奴の置き忘れだろうか、何故か近くにあった折り紙数枚のうち一枚を鍋敷き代わりにして、俺も椅子に座る。
土鍋の蓋を開けて小皿へうどんと具、汁を取り、箸を添えて差し出してやると、匂いに釣られて太宰はもそもそと起き出して素直に受け取った。

「どーぞ」
「…いただきます」

織田が昨日の昼から見ていないというのなら、太宰はその頃から沈んでいたのだろう。
どうせ飯など食べていなかろうから、取り敢えず胃に入れさせた方が良い。
太宰を落ち着かせるには、一先ず食わせて眠らせるのが一番だ。

「うまいか?」
「うまい!お前本当、料理上手いよなー!」
「おお。嬉しいこといってくれるな。お代わりもあるし、遠慮しないでたらふく食えよ」

見ていてやると、太宰は腹を空かせた野良猫のようにかつかつと食を進めた。
ここの食堂は、とても良いものを出す。
だが強いて言うなら、"食いに行かないと食えない"というのが、難点だろう。
無論ここには彼の細君がいるわけではないから、落ちている太宰の目の前に食を運ぶ役がいない。
沈んでいる時の太宰に「食堂へ行け」と言ったところで、足が動くわけがないのだ。
何度か小皿をお代わりし、土鍋を空にしたところでようやく一息着けたらしい。
太宰が、はあ…と深く満足げな息を吐く。

「ふぅ~…。腹一杯。ごちそーさーん!」
「はいよ。お粗末様でした」

腹を撫でる様子はのびのびとしていて、もう心配はないだろうとこちらも安堵する。
空になった小皿と箸を受け取りながら、努めて自然に話題にしてみる。
本当は酒を入れてから弱音を吐かせた方がいいんだろうが、どうも今の太宰の容姿に酒は勧め難い。

「しかし…、どうしてまた首なんか切ったりしたんだ? お前は随分な戦力だって聞いているし、ここでお前がいなくなったら皆困るだろう。 お前だって、現状が良くないと思っているから戦ってるわけだろう?」
「う…」
「何か思い詰めるようなことでもあったのか? …変だな。俺たちは本来もう死んでるんだから、生前の頃のように、少なくとも良いものが書けないって悩みじゃないだろう?」
「ううっ…」
「今どんなに良い作品が出来たって、絶対に大衆に見せることはないだろうし、賞なんかも関係ないわけだしな。他に何かあったのか?」
「……。………は…、」

しらばっくれて核心を突いてみると、少しの沈黙の後、太宰はぽつりと呟いた。

「春夫先生を…、見かけたんだ……」
「春夫先生?」
「中庭にいた…。何人かと、楽しそうに喋ってた……」
「ほう…」

それがどうしたというのか。
普通なら、そんなものは何ともないはずだ。太宰は、春夫先生とここに来て一定の和解をしたと聞いている。
だが、それで収まらないのが、太宰なのだ。

「辛かったのか? 春夫先生を見かけて」
「…。辛かった……」

太宰は俯き、自分の胸を片手で握った。
シャツをぎゅっと握る。
タイを外しておいてよかったと思った。あれば、そのまますぐに自分の首でも絞めそうな勢いだ。

「先生とは、ここに来て少しだけ歩み寄れたんだろう?」
「そうなんだよっ!」

唐突に顔を上げ、太宰が俺を見上げる。
その顔は青白く、まるで何かに取り付かれたように鬼気迫っている。
さっきまでの腹一杯で幸せそうな野良猫の面影は全く無い。

「おかしいんだよ俺!!春夫先生とは、最近は上手くいってたんだ!ぎこちないけど、生きていた頃のアレコレとか、何度か話題に出て、俺はそれを許せたし、先生もまた俺のことを見てくれるようになったんだ!…けど!!中庭にいるのを見かけた時は、そんなの全部なかったみたいな気がして、また初めの頃みたいに先生への怨みとか、そのことで先生を怨む自分とか、何だかまたぐちゃぐちゃしてきちまって…!」
「へえ…」
「こんなんじゃ…。折角、あんなに上手くいってたのに…、こんなんじゃ、きっとこの先何度春夫先生と和解したって、きっとまた同じだ……。きっと俺、何度も先生のことを怨むんだ…っ。もう嫌だ…。何て狭小な人間なんだろう、俺…。春夫先生と同じ場所になんか、いちゃいけないんだ。…あああ、死にたい…。死んでしまいたい…。いや、死にたいんじゃなくて死ぬべきなんだ…。俺なんか死んだ方が世は平和なんだぁ……」
「ふーん。春夫先生を見かけたせいだったのか…。何だよ。じゃあ、すぐにカーテンでも引いてしまえばよかったじゃないか」

そのまま服の上から自分の心臓を掴み取りそうな太宰の片手を、横からやんわりと取って離させる。
ぱたりと布団の上に落ちた太宰の両手は、そのまま顔を顰め、ガリガリと掛け布団を引っ掻きだした。

「っ…、カーテンなんて引いたって…!」
「そういう時は、誰にだってある。自分が嫌いで仕方がない時がな。太宰はそれが多いだけだって。…カーテン引いて、部屋から出なけりゃ良いだろう? 食事や酒なら、俺が持って行ってやるよ。そんな時は、昔みたいに飲み食いして気張らしでもしようぜ。付き合ってやるよ」
「……」
「太宰は、他者と会うから辛くなるんだ。今は無理に作品を書く必要はないし、潜書に行く日以外は、落ち着くまでずっと部屋に閉じこもってればいいだろ? 無駄に人と触れ合わなきゃいい」
「……。でも…」
「いいから、試しに数日籠もってみろよ。俺や織田作や、安吾あたりだけ出入りさせて、嫌だと思ったらすぐに出ればいいわけだろ? 何事も試した方がいいぞ。今日みたいになるよりは、余程いいだろう? 織田作だって随分気にしてたぞ」
「…」
「ほら、兎に角寝てろ」

太宰へ横になるように促し、胸元までひっかき傷の残る布団をかける。
自分で傷つけて喪失だなんて、笑えない。
少し冷ややかなことを言えば、そんな兵隊を、国が何度も使ってくれるとは思えない。
一度や二度なら許されるかもしれないが、何度もそんなことが続けば、戦力外と見なされる。
戦力外が即退場ということはないそうだが、俺たちに死があるのなら、何らかの理由で"喪失"に陥った場合、その後にもう招魂されない可能性だってあるんだ。
まして、太宰を招魂するのは、難しいと聞いた。
折角会えたのに。今ここにいる太宰をむざむざ手放したら、俺にはリスクしかない。

「春夫先生が好きとか嫌いとか、お前が良いとか悪いとかの話をしているんじゃない。少なくとも今は、単純に、春夫先生に会いたくないんだろう?」
「……。会いたくない…」
「じゃあそうしろよ。会わなくて良いんだよ。見なくて良いんだ」

姿も見たくないというのなら、よっぽどだ。
正直な所、春夫先生だって、その方が良いかもしれない。
太宰が一旦落ち着いたところで、安堵して棚の上にあった折り紙のうち一枚を取ると、会話を続けながら手慰みに、凝った紙飛行機を作ることにした。

「部屋に籠もるのなら、食事と一緒にいくつか本を持っていってやるよ」
「…。誰か…、俺がいないことに気付くかな…」
「すぐ気付くだろう。半日見ないだけで、織田作が気付いたんだ。きっと皆心配するさ。部屋に行くかもな」
「…。そ、そうかな…?」
「そりゃそうだろ」

お前は目立つしうるさいしな、と心の中で足しておく。
太宰は俺の切り返しに、いくらかは気を良くしたようだった。
心配されることを期待して機嫌が良くなり、両手を頭の後ろで組んで、のんびりと天井を見上げている。

「そ、そっかー。そうだよなっ。でもやっぱ檀の言う通りそういう時間も必要かもしれないし、仕方ないよな。…あー、でもさ、ずっと部屋にいると鬱憤が溜まりそうじゃね?」
「大丈夫なんじゃないか、太宰は。…生前は、誰か真っ当な奴が、そうやって飼い殺してくれればいいのにと思ってたよ、俺」
「ん? 飼い殺す? 誰を?」
「お前だよ、お前」
「俺!?」

どんだけ自覚がないんだ。
素で驚いている太宰に呆れ果てる。
俺の即答に、太宰は上半身を跳ね起こすと、両腕で自分を抱いて叫きだした。

「うええっ、俺!?飼い殺されるの!? 飼い犬みたいに鎖で繋がれるとかか!? 恐っ、恐いヤダ絶対そんなの嫌だぞ俺っ!」
「突拍子なく聞こえるか?」

こちらも、一度太宰を見詰める。
本気で驚いているらしい彼を一瞥し、再び程よい距離を保つために折り紙を進める手元に視線を戻した。

「現実的な話さ。気付いたのは、太宰がもういなくなった後だったけど…。逃げることも書くこともできずに誰かに無理矢理愛されていれば、たぶんその方が、お前は生きていけたよ。そういう奴だからさ。…安吾の言う通りだ。沈むなら、ずっと水底に沈んでいた方がいいんだ。偶に水面に浮かんでくるから、落ち所ができて苦しくなる」

"水底"という単語がキーワードだったのか、びくっと一瞬太宰が反応した気がした。
…何だ。怖かったんじゃないか、と妙な安心感を覚える。
太宰は死にたがりだ。
その狂い方は常人の理解を外れていて、真っ当な奴からしたらどう見ても病的だった。
生き苦しむくらいなら、死なせてやった方がいいんじゃないかと思うこともあったが、そのぎりぎりの境目にいる時間こそが、奴の書く文章が広がりを見せ、いざ浮いた時こそ冴え渡る瞬間でもあった。
生きるか死ぬか、また、そのことで悩む自分のことを認めるか否定するかの間で苦しんでいるところに堕とさないと書けない……という特徴が、憐れすぎて敵わない。
だが、そこで発揮される才覚が素晴らしいのだから、太宰はこれでいい。
俺も彼のようにふらふらと生死を行き来すればあの才覚が得られるのかと思って真似をしてみた頃もあったが、俺にはとても無理だった。
誰もが務まるわけじゃない。
つまり、やはり太宰は初めから才能を持っているんだ。
ただ、それを発揮できる環境が特殊なだけで。
ふらふらと苦しみ、周囲に不安がられ、心配させ、頭を抱えて蹲っているくらいで合っていたのだろう。
苦しい生き方をした奴だ。
太宰が自殺したと聞いた時も、驚いたが、驚き切らず、哀しんだが、哀しみ切れず、片隅で確かにひっそりと安堵したものだ。
もう苦しまなくてすむんだろうな、と。
彼の、脆い足場を進むことで書き上げられる作風は常に劣等感に包まれ、死が隣にいるからこそ芯から誠実で、魅力がある。
誠実に書くから、酷評されれば夫れ則ち自己否定になってしまい、また沈んでいく。
だが、一友人として、一方では、そんなに苦しいのならもう止めてしまえばいいのに、と思わなかったわけじゃなかった。
太宰は早々と、文学に死するつもりだった。
戦争があって、志半ばの同士を見送り、いよいよ他の道を選ぶは裏切り、という気概でいた。
もう自分では止まれなかったはずだ。
誰か良い理解者が、彼からペンを取り上げて、囲って愛してやれば良かったのだ。
泣き喚いていたって構わないだろう。大した問題じゃない。
どうせ、太宰はどこに放り込んでも、勝手に自分で追い詰められて泣き喚く奴だ。
何処にいても苦しみを探し出し泣き喚くのならば、周りの連中が適当に環境を整えてやった方が、本人に任せるより余程良い。
太宰の周りには、真っ当な人たちが何人もいた。
逆に言えば、真っ当で懐深い一定の人格者でなければ、彼に近寄ろうとも、心配とも思わないのだ。
澄んだ空と泥水とで美しく咲くその才が見えず、「狂人」の一言で片付けてしまうから。
だから、彼らのうちの誰かが、いつか突然、思い立ったかのように、そしてそれが予め定められた天啓であるかのように、太宰を捕らえて愛してくれればいいのに、と思っていた。
ああ、だが、結局――、

「――井伏先生でも、春夫先生でも、駄目だったんだもんな…。困った奴だ」

折り紙で作った紙飛行機を、開け放たれていた窓へ向けて飛ばす。
枠にでも当たって落ちるだろうと思っていた赤いそれは、まるで自由な鳥のように、投げた俺の予想に反して空へと飛び立ってしまった。

「――」

太宰が、それを目で追う。
頭の中で俺の言葉を齟齬しているのか、ぽかんと呆けた顔をしていた。それを視線だけで盗み見る。
その横顔が、信じられないくらい幼い。
随分、本質と不釣り合いな可憐な姿で招魂されてきたものだ。これは殆ど少年だ。
…いや。結局は愛されたがりなのだから、これが適している姿なのかもしれない。
ふ…と肩の力を抜いて、俺も遠くなる赤色を見詰め、ぼやく。

「ま、じゃあ…。次に試すとしたら、俺かな?」
「……へ?」

やはり呆けた顔のまま、太宰が円らな瞳で俺を振り返る。
死と自己否定で陰らず、澄み切っている時のそれに真っ直ぐに見上げられると、今も昔も、胸が苦しくなる。
恋ではなかろう。愛でもなかろう。
濁っている時は親友面して掬い上げたくなるくせに、こうして澄んでいる時はといえば、ドンと背中を突き落としてやりたくなるのだから、こんな恋や愛があるものか。

「ん…? 悪い。聞いてなかった。試すって、何を?」
「ん?」

白々しく、それを至って素知らぬ表情で見返してやった。
次は俺だろう。たぶん。
織田や安吾よりは自分だ、という自負がある。
ましてや、芥川大作家などでは、決してあるまい。
一般的によく聞く面倒臭いじゃじゃ馬は、大概根気よく躾ければ懐いて名馬になるものだ。それだけのポテンシャルがあるから、どうしてよいか分からずに暴れるしかないだけだ。
人には厄介だろう。だが、往々にして、そこが可愛げであるとも言える。
答えずに微笑む俺に、何故か太宰はベッドの上で身を引いた。

「…ん? ……なんか…。檀、今悪いこと考えてない?」
「どうして?」
「笑顔が善人っぽいよーな…」
「どーゆー意味だよ。俺は善い奴なはずだぞ。お前よりはな」

笑顔で片腕を伸ばして、太宰の肩をコツンと叩く。
太宰は嫌がる素振りも見せず、ただ訝しげに俺を見ていたが、やがて飽きると俺を真似て折り紙に手を伸ばした。
徐々に、太宰の(また、或いは俺自身も)機嫌は直って、落ち着いてきた。
可愛いものだな、と思う。

 

ここにいる太宰はもう、"作家"である必要はない。
文学を守る為に戦いに身を投じる必要はあるが、新しく書いて誰かに存在を認めてもらう為に、生きるか死ぬかの境目をふらふらと命綱無く歩く必要は、もうない。
苦しむ必要がないのなら、やっと、甘露水に頭まで漬け込んでやってもいいはずだ。
すぐに自傷を止めろといっても、無理だろう。習慣とは、そういうものだ。
けれどそのうち、そんなことも思い立たないくらい、ここの日常が太宰にとって心地好いものにしてやればいい。
それでも死を求めるというのならば、今度は俺が閉じ込めて、無理矢理愛してやればいいのだ。
例え本人が辛くても、その方が、太宰はこれ以上"死なない"はずだ。
"作家・太宰治"を失いたくなくて、生前はうろうろと痴呆のように見守るしかできなかったが、俺の敬愛する彼の作家は、もう死んだ。
今目の前にいるのは、ただの大切な、繊細で理窟屋で、心底面倒臭い質の、愛されたがりの青年だ。
彼だけは何としても、"彼の死"から遠ざけなければならない。
同じ轍は踏まない。
俺は、時の実力者に期待しすぎた。
誰も出来ないというのなら、最初から、俺がやれば良かったのだ。
太宰を沈める為の甘露水の作り方ならば、きっと俺が、一番よく知っている。
溺れるならば、甘い水。
断じて恋でもなければ、善良な愛でもない。だが、善良ではない愛の可能性はここに来て少なからずあるかもしれない。
正体不確かなこれにつけるべきであろう名を、俺はいくつか知っている。
これは「独占欲」。紛う方なき「物欲」。
そして、「虜」だ。
俺という人間が善くなるのも悪くなるのも、どのような形にせよ、全て太宰にかかっている。
それが虜というものだ。
…不格好に出来上がった折り鶴を、積み木宜しく懸命に積み上げている太宰を暫く長め、後に飄々と問いかける。

「冷やし善哉もあるけど、食うか?」
「食う!!」

びしりと無邪気に右腕を上げる太宰に、苦笑する。鶴は崩れた。
ハイハイと気負いなく返して、空になった鍋や食器を持って再び流しへと向かった。

 

暫くは様子見だ。
誰かが、太宰を捕まえておいてくれれば、それで良いのだ。
俺は彼にとって、相変わらずの"善い味方""安定剤"でいられる。
太宰に好かれる今の立場は、とても心地が良い。手放せない。
しかし、もう二度と、お前を死なせるわけにはいかない。

再び生まれ落ちたこの場所に、器量のある男がいることを願う。

 



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檀さんと太宰さん。
奔放な末っ子タイプと面倒見の良い年下兄貴肌。
太宰さん最初は五月蠅いなと思ったけど、段々可愛く見えてきました。
2020.11.07





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