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みーんみんみん、と蝉が鳴く午後三時。
徳田が水饅頭を手土産に司書の使いから戻って来たんで、呼んでやろうと二人を探していたわけだが、中庭から大きく離れた図書館の東側で、ようやく花袋と島崎を見つけた。
――が、

「…………何してんだ?」
「あれ? 独歩」

蝉の大合唱と刺さる日差しを背中に受けて、殆ど呆然と問いかける。
目の前の大木と巨大な図書館の日陰の中で、丁度両腕を広げたくらいのビニール桶のようなものに水を溜め、膝丈ズボンを穿いたままの花袋が我が物顔で浸かっていた。
深さはさして無く浅いものだから、全身を大の字に投げ出すようにみっともなく開いている。
傍にある椅子に腰掛けている島崎も、素足を水に浸らせている。
流石に、この炎天下では外套とブーツはまとっておらず、襟を開き、袖は折っていた。

「えー。何って……えーっと」
「行水……かな」
「あ、それ!行水!!藤村、あったまいい!」
「お前のは行水じゃなくて水風呂だろ、水風呂!」
「いってっ!」

パァン、と反射的に花袋の頭を引っぱたいた後で、話が通じる島崎へ向く。

「確かに今日は干涸らびそうなくらいに暑い。どういうわけか、今の世の夏ってのは俺たちの頃と比べものにならないくらいだ。だが、何もこんな所で行水なんてしていないで、雑談室へ来ればいいだろう。あそこは"クウラー"とかいう冷風の機械があるし、部屋にだってあるだろう?」
「うん…。でも、あの冷風機はとても便利だけれど、数日使い続けると、体の芯が冷えて困るんだ。腑が固くなって、体がだるくなるし…。かといって窓を開けても熱風が来るし…。困っていたら、花袋が司書さんにプールを貸してもらったって来て…」
「すっげー気持ちいいぜ? 独歩も入れよ」

言いながら、バッシャ、と花袋が俺を目がけて水をかける。
片腕を上げ、何とか顔を覆った。

「馬鹿、止めろって…!大体、着衣のままで水に入るなよ」
「それが、これが今の水着らしいんだよ。一着だけ、プールと一緒にくれたんだ」
「普通の服に見えるのにね…」

花袋の身に纏っている水着とやらは、殆ど普通の膝丈のズボンに見えた。
だが、その場に屈んで布地に触らせてもらえば、なるほど、一般的な布ではないようだ。

「へえ…。面白いな。これはなかなか取材し甲斐がある」
「水を弾くわけじゃないみたいなんだけどなー」
「たぶん、乾きやすいんじゃないかな…。興味深いよね」

見れば、島崎の傍には既に手記が置いてあった。
あれこれと準備やこの状況に至る様子を書いたに違いない。後で見せてもらおう。
…まあ、いくら表からは見えない死角とはいえ、間違っても花袋のようにこんな小さなプールで全身を水に浸そうとは思わないが、島崎くらいに足を浸けて涼を愉しむには良いかもしれない。
考えたら、和装の時は兎も角、彼が平素の時に洋装の袖を捲ったりブーツを脱いだりしているところは、あまり見かけたことがなかった。

「島崎も、今日は涼しげだな」
「うん…。暑いから」
「藤村も入ったらいいのに、なっ」

バシャッ、と花袋が両手で水を掬い、それを島崎の足にかける(俺にかける時と違って加減を心得てやがる。服は濡らさないよう気を付けているようだった)。
淡々とした表情を変えず、しかし彼はどこか嬉しげに白い脚の爪先で水を少しかいた。

「二人は入れないよ…。狭いもの」
「そりゃそうだ」

尤もな話だ。
我が物顔で花袋が寝そべっているのだから、ここにもう一人入るというのは無理があるだろう。
だが、俺たちの会話を聞いていた花袋はそうは思っていないらしい。

「そんなことないだろ。二人くらい、入れるって」
「いやー、入れねーよ」
「詰めれば入れるかもしれないけど…。花袋も、窮屈だとそうのびのびできないよ」
「そうしたらいいよ。くっついて水に浸かればいいんだ」
「お前なあ…」

さらっと言ってくる花袋に呆れて、再びため息を吐く。
この大きさの浅いプールに、今は小柄とはいえ男二人が入ればどんな密着度になるのか容易に想像が付く。
それは最早行水ではない。
呆れる俺の前で、花袋が島崎の素足に横から片腕を絡め、膝に頭を添えてぐりぐりと擦り寄る。

「とーそんも入ろーぜー。気持ちいいからさー」
「水着がないよ。司書さんにもらったのは、それ一着だけなんでしょう?」
「別に下着でいいんじゃないか? 部屋に替えはあるだろ?」
「それは…あるけど……」
「下着が嫌なら、そのまま入っちゃえば? 替えを持って来てさ。どうせシャツなんて、西洋で言う肌着じゃないか。そこまでおかしくないと思うけどな。なあ藤村、そうしろよ。せっかく司書が貸してくれたんだし、一緒に入りたいじゃん!」
「…」

口元に片手を添えて島崎が考え出したので、これはまずいと思った。
このまま花袋が押していけば、島崎は冗談抜きで入ってしまいそうな気もする。
慌てて止めに入ろうと口を開きかけた時、背後から足音が聞こえてきた。

「…居た。君たち、こんな場所に居たのか」

いつもの、どこか疲れた投げやりな様子で、徳田がこの場へやってきた。
俺の戻りが遅いので、探しに来たのだろう。
俺たち三対の視線を受けながら現場を見渡すと、俺がやってきた時と同じように呆れ果てた顔をした。

「…何やってるの?」
「プール!いいだろ?」
「そんなことは見れば分かるよ。そうじゃなくて、君の、手」

笑顔で即答する花袋に、淡々と徳田が返して花袋の片手を示した。
島崎の素足に添えられている花袋の手や腿に寄せている頭は、流れを承知していればまだしも、飛び込んできた光景としては確かに些か異様だろう。
半分はフォローのつもりで、片手を軽く振って徳田に現状を教えてやる。

「花袋の奴が、島崎に入れと迫っているんだ」
「ふーん。また奇特なことをしているね。…でもこの大きさじゃ、二人なんて入れるわけないじゃないか」
「そんなことない。くっつけば入れる!俺が抱っこしてやってもいいし!」
「ンなの駄目に決まってんだろ。それは最早行水でも水風呂でもないだろ」

思わず俺が反論してしまう。
しかし甘ったれた花袋は、ひしっと両腕で尚のこと島崎の脚を抱える。

「いいじゃんいいじゃん。なー、藤村? くっついてプール入ったって涼しいし、悪くはないよなー? たまにはいつもと違う場所で仲良くしたいじゃん。ああぁ…クソ。お前らが来なけりゃ…」
「おまっ…、せめて本音は隠せよ!!」
「花袋、そんなこと考えてたんだ…。ただ涼んでいるだけかと思ってた」
「いいや。今の会話の流れで思い立った。それもいいかな、と」
「へえ…」
「ふざけんなお前っ、離れろよ…!島崎が濡れるだろ!」
「濡れてないって。気を付けてるし」
「俺にはぶっかけておいてか」
「独歩は暑そうだからな。お前も、タイなんて緩めちまえばいいのに」
「はあ…。島崎…。君、嫌なら嫌って言わないと。冗談じゃないと蹴りつけるくらいしたって、罰は当たらないよ」
「…」

ただ座っているだけでされるがままな島崎の様子に、徳田が言う。
島崎は花袋を縋り付かせたまま、ちらりと俺たちの方を一瞥し、それから足下の花袋を見下ろした。
そして再び、徳田を見上げる。

「……嫌じゃない時は、どうしたらいいの?」
「…」「…」

島崎の言葉に、俺も徳田も一瞬固まった。
こ、こいつは…。
頭を押さえたくなるのを我慢して目を伏せていると、下から花袋が図に乗る。

「そーだそーだー!嫌じゃないのなら一緒に入ったっていいじゃないかー!」
「うるさい」
「ぶわっ!」

近くにあった手桶を素速く持ち上げ、それで水を花袋へぶっかける。
花袋の顔面を狙ってぶっかけたそれは、いくらか島崎まで水しぶきが飛んでしまったが、お陰で花袋はその手を彼から離して両手で顔を拭うとそのまま前髪を後ろへ掻き上げた。

「おい、独歩!…あぁくっそ。目に入った~」
「フン。ざまぁー」
「何すんだよー、もー」
「…。島崎。島崎は、嫌がらなきゃいけないんだ」

俺たちが下らないやりとりをしている間に、冷静に、徳田が島崎を諭す。

「田山は悪い男じゃないが、あまり周りに合わせることはせず、些か品性や礼節に外れることがあるのは、君もよく知ってるだろう?」
「…うん」「だな」
「うえええっ、肯定!?」
「しかも、本人はそれを欠点とは思っていない。太宰なんかと違って、他者の視線に束縛されない。寧ろ容赦なく切り捨てることができる奴だ。特に、今の彼は自由を謳歌しすぎている。…気持ちは分かるけど、何事も"過ぎ"は良くない」

さらりと卑下されている花袋が、ずぶ濡れになりながらも辛うじて突っ込みをいれるも、相手にされない。
当の島崎は不思議そうに首を傾げるくらいだ。

「けど…。花袋の自由さと豪胆さは、良い所だと思うけど…。僕は小胆者だから…、それは魅力に感じるんだ」
「と、藤村…っ。ううっ、良い奴だなお前は!そうだぞ!!俺の自由さと豪胆さは長所なんだ!」
「だから、黙ってろってお前は」
「ぶっ…!オイ独歩、それで顔面に水ぶっかけるの止めろよっ!せめて手でかけろ!!」

再び勢いよく顔面から水を被る花袋。
再び水しぶきが飛んだが、島崎と離れ、且つ角度を考えてかけたたために、今度は島崎にかかることはなかった。

「田山を万年春頭で節操なしの輩にするか、時と場所を弁える分別ある男にするかは、島崎にかかってる。島崎が良くても、周囲の人たちが田山を見る目が、間違いなくそれで変わるんだ。現に今、僕と国木田は田山に呆れてしまっている」
「…」
「彼を視る目が落ちていく。君は、それで良いの?」
「…。…良くない」

ふるふると島崎が首を振るのを見て、ほっと安堵する。
流石だ、徳田。
徳田も目を伏せて、一度息を吐いていた。
何だかんだと、彼も彼で花袋と島崎を含め、あちこちのいいまとめ役っちゃまとめ役だ。

「君たちの関係につべこべ言う気は無いよ。けど、こんなところで情事に至ろうなんてする奴にしちゃいけないんだ。田山も、それでいいだろう? 今の島崎の返答だけでも、君にとって悪いものじゃなかったはずだよ」
「分かった、分かったよ。…つーか!こっちだって、半分冗談だったんだからな!それに、藤村は良いけど、お前らは酷いぞ!?」

徳田と俺に向かって花袋が反論してくるが、半眼で切り返してやる。

「半分冗談ってことは、半分本気だったんだろ。墓穴だぞ」
「ぐ…っ」
「さあ、いいからそろそろ戻っておいでよ。水饅頭がぬるくなる。冷やしてはいるけど、氷はいずれ溶けるよ」
「…水饅頭?」
「あれ? 国木田に聞かなかったのか?」

徳田が俺へ視線を投げたので、俺は肩を竦めた。

「悪い。インパクトが強すぎて、話を振る前に花袋を諫めちまった」
「ああ…まあ、そうだよな。分かるよ」
「徳田が買ってきてくれたんだ。そもそもはお茶にしようぜって、誘いに来たんだよ。…島崎、靴は?」
「下駄があるから、大丈夫」
「花袋は……お前それ、すぐにあがれるのか?」
「脱いで体拭いて着替えりゃいいだけだろ。片付けは後でやるし、俺もすぐだよ。…あらよっと」
「おい、ここで脱ぐなよ。汚いものを見せるな」
「馬鹿言え。こんなに若くて瑞々しい肉体なんだぞ。汚いところなどあるものか。若さは美しいじゃないか」
「ああ…。まあ、お前中年頃は恰幅が良すぎたらしいな」
「お前だって、その頃まで生きてたらそうなってたかもしれないだろ。…いやー、身軽っていいよな~!若いって素晴らしい!」

気心知れた奴以外の他者の目がないとはいえ、いきなり着替え出す花袋に呆れ果てる。
確かに、タオルと着物は近くに置いてあったので、脱いで拭いて着てしまえば、それこそ一分二分だ。
横では、徳田が離れた場所に置いてあった下駄を摘まみ上げ、屈んで島崎の足下に置いてやっていた。

「濡れたままでいいよ。履いてしまいな。あっちに行けばタオルはいくらでもある」
「うん…。ありがとう、秋声」
「さて…。二人とも、悪いけど、僕らは先に行っているよ」

言うが早く、片手を出して島崎を立たせると、二人は図書館の方へと戻って行った。
鮮やかで達者なやり取りが意外で、俺は徳田の背中を見詰めた。

「手慣れた奴だな…。島崎は、徳田と仲が良かったのか? 俺にはあまりその記憶はないんだよな」
「ああ、仲良いぜ。藤村の方が秋声の才に惚れてるから、秋声としても悪い気はしないんだろ。お互い人見知りの気があるし、合うみたいだ」
「…」

あっけらかんと言う花袋もまた意外で、俺は瞬いて彼を振り返った。
着物を惚れ惚れする程きちんと着付けた後、律儀というか野暮というか、わざわざ袖を捲り、袷を片手でぐっと開いて台無しにさせる。
着物は一気に着崩され、いつものお調子者でどこかだらしのない、よく知る田山花袋となる。
だが、前髪を全て後ろに流している分、いつもよりはいくらか大人びて見えた。

「ん? 何?」
「いや…。お前は、もう少し独占欲のある男だと思っていたから、少し意外に感じただけだ」
「ええ~?俺?? 何言ってんだよ。独占欲強かったら、俺もうとっくに独歩を刺してなきゃいけないだろ?」
「んー…何つーか…。俺にだけは、許してくれているのかと…」

自惚れに近いが、花袋は俺のことを"親友"と呼んでいる。俺も、そう思っている。
その位があるからこそ、島崎に近づいている現状を、特別に許してくれているのかと思っていた。
両手を頭の後ろで組み、からからと花袋が笑う。

「んなことないって!だって、藤村が誰かを好きなら、邪魔なんかするわけないじゃん。藤村はこれと決めたら情に厚いしな。ここにはまだ来てないけど、透谷とか國男がもし招魂されたらまた違うだろうしさー」
「ああ…。まあ、そうだよな…」

何を以てして招魂される条件になるのかは不明だが、まだここに引っ張られて来ていない奴なんて大勢居る。
その中には当然、島崎の好意的な知り合いもいるはずだ。
この後、勿論俺の親しい知り合いも増えるかもしれないが、どういうわけか、新しく俺たちに近しい者が来ることに対して、不安しか感じない。
花袋は、そういった不安が一切ないようだ。
…島崎を取られるかもしれないとは思わないのか?
それとも、それだけの自信があるのだろうか。何故だ。
俺の不安を表に出したつもりはないが、花袋は言い切る。

「秋声と仲が良いのは、いいことだ。だって藤村にとっていいことだからな。そんなことで一一嫉妬なんて、疲れるだろう? 自分が、藤村に認めてもらえるような奴になりゃいいだけなんだからさ。あいつは、ホントよく人を視てるから、それで十分気付いてくれるって」
「…」
「独歩は自分が独占欲強いから、余計にそう思うんだろ。マメなのはいいが、管理主義も大概にしないと独善的で自分を傷めるぞー。あんまり思い詰めて疲れ…――ぶっ!」

得意気に右手の指を軽く振る花袋にムッとして、屈んで片手で水を弾いてやった。
折角着替えた着物に、早速水を被る。
…まあ、ずぶ濡れという程ではないから構わないだろう。

「ひでえ!折角着替えたのに!!」
「すぐ乾くだろ。生意気なこと言うからだ」
「何でだよ!アドバイスのつもりだったんだぞ!」
「さぁーて、水饅頭水饅頭。夏の甘味は目にも涼しくていいよなー」
「あっ、おい、謝れって!独歩!!」
「…」

一足先にその場を去ろうとした俺を追いかけ、後ろから濡れ花袋が付いてくる。
何だか自分だけが酷く子供めいているような気がして、自然歩く歩が広く速くなり、下駄を履く花袋がぎりぎり追いつけないくらいの速度で図書館へ急いだ。


夏の暑い日東の陰で




蝉が鳴いている。
まるで、俺を嘲笑っているような気がした。

 



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微妙な三角関係というか3P推奨ですし、秋藤も好きです。
独歩さんは「自分の居場所」が崩れることが好きじゃないイメージがあります。
2021.3.14






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