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その日は朝起きた時から背中に悪寒が走った。
やべェな、今日は絶対ェヤなことあんぞと思って覚悟はしていたが、ドンピシャだ。

「にーぃさぁん…」
「…」

背後から甘えるような蔑むような声がかかり、足を止めてため息を吐く。
ゆったりと振り返ると、丁度髪を払いながら歩み寄ってきていたジンと目が合う。
特に急いでいる様子はないが、どこかとろんとした双眸と足取りは不気味なことこの上ねえ。
肩越しに振り返ったままじゃ、コイツ相手にゃ油断が過ぎる。
いつ斬りかかられても、またいつ斬りかかってもいいように回れ右して正面向いてやった。
すぐ動けるよう、軽く足も開いとく。

「よう…。ジン」
「こんな所にいたんだね…。もう。探しちゃったよ」

程よい距離に詰めてから、ジンが両手をすっと開いた。
主人に呼び出され、ガラスが割れるような音と一緒に奴のすぐ足下から氷柱に包まれた刀が飛びだしてくる。
奴が柄を掴むと、途端に氷は砕けて刀だけが残った。
すらりと長い氷刀を片手に、ジンが細く微笑む。

「逢いたかったよ、兄さん。…ね。遊んでくれるでしょ? 僕と二人きりで…ね。…僕、兄さんの悲鳴が聞きたいなぁ」
「…ったく。今日も厄日だな畜生」

冒頭遊んでくれるでしょときた日にゃ相手するしか道は無い。
場違いに微笑みながら刀を構えるジンに舌打ちしてから改めて対峙し、片手に持っていた太刀を大きく振るって構えた。
…直後。

「ふぇ…っ」

鼻の頭がむず痒くなり、ぞくぞくと背中に悪寒が走る。
何か知らんが鳥肌が立った。
で、

「ぶえっくしょぃん…!!」
「…え?」

盛大にくしゃみをした拍子にちょろっと飛び出そうになった鼻水を啜る俺に、ジンがぽかんと薄い唇を開ける。
鼻の下を手の甲で一度撫でる。
…緊迫したこのタイミングで空気壊して悪かったな。
仕方ねーだろ。自然現象なんだから、くしゃみは。
…つか、何か今日寒くねぇか?
一端太刀をその辺にぶっ刺し、両手で自分の二の腕辺りを擦った。

「う~…。おい、ジン。何かここすげー寒くねえ? 別の所でやろうぜ。日陽っぽい所でよ」
「…。て言うか、兄さん。顔がすごく赤いけど…」
「あ?」

構えていた刀を下ろし、てくてくジンが歩いてくる。
逃げようかどうしようか迷ったが、さっきまで表情を歪めていた嫌な笑顔が消え去ってたんで俺もそのまま待っちまった。
…傍まで歩いてきたジンが、俺の額にそっと手を伸ばす。

「兄さん熱あるんじゃない?」
「あー? 馬鹿言え。俺ぁテメェと違って風邪ひいたことねえんだよ」
「でも、額が熱いよ。ちょっと屈んで」

自分の前髪を上げながら顔を上げるジンに言われて、風邪なんかひいちゃいねーが少し屈んでやるかと軽く背を折った途端、ぐわんと視界が揺れた。
自分の中にあった平衡感覚が一気に歪んでバランスが取れない。

「あ、あれ…?」
「…! 兄さん!?」

前に倒れる俺をジンが支えようとしてくれたようだが、奴の細腕じゃ不意打ちで倒れ込んできた俺の体重は支えきれなかったらしい。
ジン巻き込んで倒れ込んだ気もするが、その辺は既にぼんやりしてて殆ど覚えてねえや。



In lead narrowly widely badly




頭痛ぇ…。
頭痛ぇ頭痛ぇ、割れるように痛ぇ。
こめかみ辺りからずきずき変な重い響きみてえのが絶え間なく頭ん中を責める。
う~…畜生。んだコレ。
風邪?
ふざけんな。俺は風邪ひかねえよ。
別に誰も聞いちゃいねぇのに言い訳しながら、無意識に寝返りを打って眉を寄せた。
ぼと、と何かが鼻の頭を滑って横に落ちる。
すぐに反応するのは億劫で、数秒空けてからぼんやり目を開いた。

「…」
「あ…。気が付いた?」

横向きっつーか、俯せに近いっつーか…そんな感じで布団の上かどっかに転がってる俺の横には、ジンが白い寝間着姿で正座してんのが見えた。
…ぼんやりする。
久し振りに嗅ぐ藺草の匂いが妙に落ち着く。
あんま長い間目ぇ開けてらんなくて、すぐにまた閉じた。
身体は寒いのに体内から吐き出す呼吸は熱い気がする。
いつもとは違う、犬みてーに短く浅い呼吸してる俺の鼻先に落ちた手拭いをジンの指が拾い、傍にある小さな桶に張ってる水ん中に沈めた。
ちゃぷ…というゆったりとした水音が妙に鼓膜に優しい。
…。

「仰向けで寝てね、兄さん。その方が呼吸が楽だよ」
「んー…」
「…まだ眠そうだね」

身体を伸ばしたジンが俺の肩に両手を置き、伏せていた身体をやんわりと仰向けに戻した。
微睡みの中に停滞してていまいち状況が把握できてねえ俺の額へ、再び冷たい布が置かれる。
冷たすぎて、手拭い当たった瞬間びくんと眉間に皺が寄ったのが自分で分かった。
だが驚いたのは最初だけで、すぐにその冷たさが心地良くなる。

「もう少し寝た方がいいよ。きっと身体が疲れているんだ。休まなきゃ。…僕が傍にいてあげる。心配しないで」
「…。ああ…」

ジンの小さな言葉に、俺はうとうとしながら片手を持ち上げた。
手探りで相手がいる辺りを探し、柔らかい髪に包まれた頭に手を置く。

「ありがとな…ジン……」

そのままスパッと意識がなくなって眠りに落ちた。
始めにジンと会ったのが夜近い夕方だったからな。
そんなに眠ったつもりはなかったが、次に目が覚めた時も夜で一晩丸々寝てたのかと仰天したが、実際は更にその次の日の夜だった。

 

 

「…!!」
「わ…っ」

唐突にカッと覚醒して、布団から飛び起きた。
白くて厚い布団に手を着いてがばっと上半身を起こした俺に驚いて、傍に座っていたジンがびくりと身を強張らせて退いたのが分かった。
身を起こしたまま呆然と数秒瞬いて状況を把握する。
木目の揃った天井に細かい欄間。
松と鷹の刺繍が入った襖に広い畳…。
和室だ。
その中央にでんと敷かれている布団にどうやら俺は転がっていたらしい。
着てる服もいつの間にか白い寝間着だ。
…いきなり異世界な感覚で、状況を把握してからもすぐには反応できず暫く瞬きまくってた。

「…は? …あ?何だ。何処だ、ここ」
「僕の部屋だよ」
「…。はあああ!?」

さらりと答えるジンの返答が信じられず、俺は大声で聞き返した。
流石に少し慌てて人差し指を口元に添え、ジンが身を乗り出す。

「駄目だよ、兄さん。静かにして」
「だってお前…!お前んちってことはアレだろ、キサラギんトコだろ!?」

敵陣ど真ん中…ってワケじゃねえが、それでも敵陣中枢の一つじゃねえか!
声を張る俺に対して、袴着てるジンは手を入れた着物の袖を口元に添え、くすくす場違いに笑ってみせる。

「僕の部屋は母屋とは離れてるから、たぶん大丈夫だよ。使用人も下がらせてるし」
「つってもよ…!」

どーやって俺のこと連れ込んだんだ、コイツ。
コイツの体格じゃ一人じゃ絶対ェ俺のこと運べねえはずだぞ。
誰か手伝った奴がいんのか?
…いや、でもこの家の頭に背いて俺を連れ帰るジンを手伝うような謀反人がこの家にいるとは到底思えない。
それとも何か。
ジン個人に忠誠誓うような奴がいるってのか?
…いや。ないないない。それはない。
たぶん無い。
無いと思いたい。

「テメェ…。んだコレ。どーゆーことだ!」
「どうもこうも…。だって、兄さん熱あるんだもん。放っておけないよ」
「熱だぁ?」
「僕のこと押し倒して倒れちゃったんだよ? 覚えてないの?」
「…」

まるで秘め事を語るような、こそこそと内緒話でもするようにジンが耳打ちして小声で囁く。
顔を顰めて記憶をちょい探ってみた。
…ん。無理だな。
覚えてねえや。欠片もな。
ああ欠片もだ。

「覚えてねえな」
「そうなんだ…。残念だな…。あ、喉乾いてない?水飲む?」
「あ? …ああ、いや。いらねえ」
「…ねえ、兄さん。僕がキスしたことも覚えてない?」
「やっぱ水くれジン」
「え? …あ、うん」

続けられた言葉に片手で口を押さえる。
いつしたんだ、いつ!
少なくとも俺の記憶にはねえぞ、倒れた後勝手にか!
突然気分が悪くなってきたぞ、馬鹿野郎が。
…俺の要求に、ジンが枕元にあった水差しから優雅な手付きで湯飲みに水を差して俺に手渡す。
水を一気飲みする間、妙にジンがきらきらした目で俺を見てた気がするが、スルーして傾けていた湯飲みを戻した。
喉が乾燥していたのか、水分を得て妙に落ち着く。

「ぷは…。…あー」
「気分はどう?」
「まあまあだな。…ちょっと腹減ったか」
「食欲あるなら回復も早いよ。…何か作るね。お粥とお饂飩だったらどっちが好き?」
「んー…」

いつもラーメンとか肉まんばっか食ってるからな。
麺類よりは久し振りに米が食いたい気がする。

「粥だな」
「卵は?」
「無論入れとけ。常識だ」
「はぁーい」

間延びした声を残して、ジンが廊下に面しているらしい障子の方を開けて、そのまま出て行った。
とたとた…という静かで軽い足音が遠離ると、一気に場が静寂に包まれ、それまで聞こえてなかった柱時計の秒針が進む音がやけにでかく聞こえてきた。
…つか、この雰囲気。
本当に上層の名家ん中かよ…。
いつも俺が彷徨いてる下層の繁華街なんかとは別世界だ。
改めて自分の格好を見下ろしてみる。
着慣れない寝間着は寝てる間によれたらしく、合わせ目がかなり開いていた。
…ジンの奴は俺が体調不良的なこと言ってたが、今はそんなことはない。
おそらくもう回復したんだろ。
流石だな、俺。
なよっちいジンや病弱なサヤと比べると、俺は昔から健康そのもので風邪なんざひいたことがなかった。
日常の睡眠以外で自分がこうして布団の中に寝っ転がってんのが、何だか不思議だ。
一人になった部屋で、改めてごろりと仰向けに寝転がる。
飛び起きた拍子に落ちた手拭いがその辺に転がってたんで、自分で拾って適当に目元に乗せた。

「…ふう」

身体が疲れてんのか、久し振りの柔らかい布団に気が緩むのか、此処が敵陣であることも忘れそうなくらいリラックスしちまってる。
暫く目を伏せてぼんやりしていると、十分程度でジンが戻ってきた。

 

器用に片手で持ちながら障子を閉め、ジンは持ってきた盆を布団の横に置いた。
湯気立つ小さな土鍋と薬味と蓮華。
しかもご丁寧にもお絞り付きときたもんだ。
…どこの料亭でしょうかね、ここは。

「はい、兄さん」
「ん? …ああ。悪ぃな」

丸まってたお絞りを開いて渡され、ほこほこしてるその布で両手拭いてから顔を拭く。
さっきまで冷たい手拭いが乗っけてて気持ち良かったが、温かいのはこれはこれで気持ちいい。

「…何か、昔と逆だね」
「あん?」
「僕、風邪引いた時に目が覚めて、兄さんが横にいてくれるのすごく嬉しかったよ。だから、風邪は嫌いじゃなかったな」
「…」

土鍋の蓋を開けながら嬉しそうに昔話を始める弟の発言が居たたまれず、俺は目線を反らして軽く頬を掻いた。
戻れない昔話は、懐かしさ以上に現在の虚しさを連れてくる。
…土鍋の中は溶いた卵が半熟になってて、理想的な黄金色をしていた。
土鍋の蓋が丁度お椀になっていて、そこに蓮華で一杯分中身を盛る。
この感じが嫌なわけじゃねえが、始終嬉しげな顔で俺の介抱をするジンが不思議で、聞かずに入られずに俺は口を開いた。

「…俺の看病なんかして、どーするってんだ」
「…?」
「殺したいんだろ。俺のこと」
「…ああ」

今更…という顔でジンが小さく笑う。
その一瞬だけは少しぞっとする薄い笑顔だった。

「今はいいや」
「…」

一言で否定するジンの横顔を一瞥してから、俺は静かにため息を吐いた。
…今だ後だのの軽い話かい。
あの刀型の魔導書を召喚してねえからか、今は随分と落ち着いているらしい。
しかしジンに看病とか…。
あんなに小さかったのに、いつの間にかんなことできるようになったのか。
でかくなったなー…などと、ちょっと父親の心境だ。

「ちょっと熱いかも…」

土鍋は勿論、盛った粥からも白い湯気が惜しみなく上っている。
毒味っつーか熱さの確認で、蓮華で掬った粥をジンがちびっと口に含んだ。
…んなこといーからとっとと渡せ。
素直に腹減ったぞ。

「いーって、熱くても。そのまま寄こせよ」
「そう? 結構熱いから、火傷しないでね。…はい、兄さん!」
「…あ?」

てっきりお椀と蓮華まんま渡されるかと思いきや、ジンは自分で椀を持ったまま、利き腕を伸ばして蓮華を俺の眼前に差し出した。
何がしたいのか想像に易く、ひくっと喉と眉が痙ってる間に笑顔全開で俺が身を引いた分だけジンが乗り出してくる。

「あーん」
「一人で喰うわ、馬鹿野郎!!」

ぐわっと声を張ってジンの手から椀と蓮華をひっ取ろうとしたが、その手はすかっと空を切った。
野郎がさっきまで乗り出していた身を引いて捻り、粥を俺から離す。

「駄目だよ。僕が食べさせてあげるから兄さんは安静にしてて」
「ただ横んなったまま飯食うだけだろ!安静この上ねえじゃねえか!!」
「兄さんいつもこうしてくれてたじゃない。今度は僕がやってあげるの。あーんじゃないとあげないからね!」

ぷいっとガキ丸出しでジンがそっぽを向く。
おいおいおいおい…。
止めてくれ、テメェそんな態度で世間様の英雄かよ。
何が「あげないからね」だ!
コイツのこと英雄だ優等生だ何だと持て囃してる連中に一連の流れを動画かなんかにして見せてやりてぇもんだ。

「うっせえ!キメェんだよテメェは!ごたごた言ってねえで寄こせ!」
「嫌だよ」
「お前俺の看病してんだろ!? 病人困らせてどーすんだよ!」
「困らなくていいじゃない。僕に任せ……やっ、ちょっとっ。危ないよ、兄さん!」

ぐわしとジンの細腕掴んで持ってるお椀を奪い取ろうと奮闘するが、ジンは頑なに拒みやがった。
ぐぬぬ…と暫く互いの腕力の拮抗が続いたが、不意に我に返って馬鹿馬鹿しくなる。
…阿呆くさ。
馬鹿みてーなことしてるうちに更に腹が減ってきた。
喰わせてーっていうなら勝手にやらせときゃいいんじゃねえか?
ここで反論してても何にもなんねー気がする。
意外と強情だからな、コイツ。
はあ、と息を吐いて俺が力を抜いたのを察し、ジンの険しい顔に微笑が戻ってくる。
勝利を確信してか、またずいと身を乗り出した。
…げんきんな奴だな。
片手を蓮華に添えて、粥を差し出す。
あそこまで湯気立って熱々そうだった粥は、何だかんだやっている間に少し冷めたようだ。

「はい、兄さん。あーん」
「…。あー」

諦めて大きく口を開けると、口ん中に蓮華が差し込まれた。
そのまま口閉じると、そっと抜かれる。
…ん。旨い。
熱さも丁度良いし、卵もいい感じだ。
やっぱ米旨ぇな…。
咀嚼してる俺の横で、ジンが嬉しそうに両肩を上げて人の顔を覗き込む。

「おいしい?」
「ん…。不味くはねえな」
「よかった!」
「…」

無邪気な笑顔に軽く引く。
へらへらしやがって。
何がそんなに嬉しーってんだ。馬っ鹿じゃねーの?
相変わらずの愚弟のブラコン具合に呆れながらも、気分が悪いワケではない。
…少し考えて首の後ろを掻いてから、またジンに向けて口を開けた。
今日の所は甘やかしてやるか…と、そんな気になってくる。

「…ん」
「塩加減とか、どう?」
「いいんひゃへーほ?」

一度やっちまえば、二度目からは抵抗は殆どないってんだから怖ぇもんだ。
二度三度と口に含まされた粥を味わっているうちに、こんなままごとみてぇな行動にも、ジンの言うとおり何だか懐かしさを覚えてきた。
逐一口元に運ばれるのは面倒臭いし、自分で喰った方が百万倍早く腹一杯になれるもんだが、ジンのペースで遊ばせておくことにする。
お椀の中が空になると、ジンは漸く運ぶ手を止めた。
椀を膝に置いて、片手を俺の額に伸ばすと熱を測る。

「ん。もうすっかりいいみたい。…お代わりはいる?」
「まだあんなら喰いてぇが…。もう自分で喰うって。面倒だろ?」
「面倒ではないけど、兄さんは早く食べたいみたいだね」

仕方ないなぁ、と独りごちながら、土鍋に入ってる残り分をお椀へ盛り始めた。
一杯分を俺に差し出したことで満足したらしい。
…ままごとだよな、ホント。
そう言えば、昔ままごとで遊ぶ時も、俺が親父役で、決まって母さん役をサヤとジャンケンで決めていた気がする。

「はい、兄……」
「ん?」

二杯目を差し出されて受け取ろうとした俺の正面で、ジンが途端に双眸を鋭くした。
そのまま睨み付けるように、一度部屋を出て行った時に開けた障子の方へ視線を向ける。
ピリッと一気に空気が張った。

「ジン…?」
「し…っ」

俺の言葉を遮って、ジンが人差し指を唇に立てる。
…別に俺の耳にゃ物音も何も聞こえなかったが、長年ここで暮らしているジンに分かるものがあったのだろう。
遅れて俺も人の気配を察し、顔を顰めた。
誰か来たらしい。

「静かにして、兄さん。誰か来る。…気配消せる?」

無言のうちに頷いて、気配を消す。
それまでぎゃあぎゃあ騒いでいた場だが、嘘のように静寂になった。
あんま忍んであれこれ行動とか苦手で、他の連中と比べると気配を消すこと自体巧くはないんだが…それでも素人相手じゃ十分欺せる。
念のためか、ジンは立ち上がって障子の方へと歩いて行った。
自分から相手を出迎える気なんだろう。
…やがて、ギシ…と廊下が鳴る音がした。

『若。失礼致します』

やがて、障子の向こう側に背の低い女の影が見えた。
声からして年配の女中ってところか。
障子を開けないまま、ジンが手前で軽く腕を組む。

「何だ。何か用か」
「…」

それまでとは別人のような低い抑揚のない冷声に、ひやっとした。
一瞬誰が話しているのか疑問を持ったくらいだ。
ここじゃジンの声色はこれで普通なのか、相手の女は特別尻込みもせず続ける。

『粥をお作りになったとか…。仰って頂ければ、私どもがお作りしましたのに。若が台所にお入りになったとあっては旦那様にお叱りを受けてしまいます。以降はどうぞ仰ってくださいな』
「悪かった。気晴らしだ。お前の言は意に留めておく」
『お風邪は如何です? 移ろうとも構いませんから、身の回りのことは私どもが…』
「昨晩に比べ体調は良い。介抱は既に不要だ。必要になったら人を呼ぶ。感染の疑いがあるうちは誰も部屋には入るな。要件はそれだけか」
『いえ、もう一つ。旦那様が戻り次第様子を見にお渡りになると、先程ご連絡がありました』
「…」

義理の親父の話が上がった瞬間、それまで畳み掛けるように間髪入れず返答していたジンが一瞬黙り込んだ。
妙な間を空けて、引いていた顎を上げる。

「分かった。…もう行け」

軽く腕を振るう奴の仕草は、障子越しに女にも見えただろう。
失礼いたします、と一言残して、女は去っていった。
来た奴が素人で良かった。
部屋の中にいた俺の存在には気づきもしなかったようだ。
…女中が立ち去った後すぐに俺の方へ飛んでくるかと思ったが、ジンは障子を向いたまま暫く動かなかった。
周囲の気配を探るが、さっきの女が立ち去って他の気配もないし、もういいだろうと口を開く。

「…おい。ジン」
「…!」

背後から声をかけると、びくっとジンの細肩が震えた。
腕を組んだまま、肩越しに布団の上にいる俺を振り返る。
あそこまでぎゃーぎゃーやってたくせに、まるで俺がここにいるのが初めて気付いたような素振りだ。
澄んだ碧眼が珍しく揺れ動くのが見て取れた。

「ぁ…。ごめん、兄さん…」
「…」
「養父が渡って来るってさ。これ以上は兄さんの介抱はできなそうだ」

俺といつも話してる時の口調に戻り、部屋の端の桐箪笥の中から俺の服を取り出した。
それを持って布団の傍に歩んでくると膝を着く。
綺麗に折り畳まれた服を俺へ差し出すと、嬉しそうに柔らかく微笑した。

「はい、兄さん。アイロン掛けておいたからね」
「…」
「この離れの裏から出れば誰も気付かないと思うよ。…風邪が治って良かった。短い間だったけど、兄さんと一緒に過ごせたし。道中気を付けて帰……!!」

気付いたら腕が伸びていた。
顔面ぶん殴る前に相手を引き寄せる時によくする、襟首掴んで勢いよく胴体引き寄せた。
不意打ちに加え、軽いジンの身体はあっけなく前のめりになる。
…が、いつものようにそのままぶん殴るんじゃなく、抱き留めた。
俺の胸ん中に落ちたジンが、双眸を見開いて瞬く。
コイツの阿呆面はレアだな…などと冗談を思う傍ら、きりきりとした痛みが胸を刺していた。
たったワンシーンだが、コイツがいつもどれほど無理してるのか、確実に垣間見た。
使用人にも気を許してねえし、養父とも上手くいってねえんだろうことは、反応を見ていれば普通に分かる。
まさか俺相手に仮面を被ってるってワケはねえだろうから、俺以外と会う時は、常に気を張ってるんだろう。
…ジンが俺と離れて何年経った?
何千日をこんな所でこんな風に過ごしてきたんだ。
広く豪華なこの部屋が、酷ェ檻に見えた。
…。

「…粥、旨かったぜ」
「……」
「看病してくれてありがとな。…お前のお陰で、兄ちゃん元気になったからな」

頭を撫でながらぽつりと呟いてやる。
息を呑む気配の後で、ぎゅっと俺の背中に爪が立った。
俯いて俺の鎖骨に額を押し当てるジンの表情は見えない。

「……うん」

俺の腕の中から返ってきた声は、くぐもってて震えていた。

 

 

 

たんたんと軽く跳ねて塀の上の瓦へ飛び乗る。
大屋敷から出る前に振り返ると、母屋から橋渡しで繋がってるジンの離れがよく見えた。
…どうせ何もしてなくても史上最高額な賞金首だ。
いっそ勢いに任せて誘拐でもしてやろうかと思ったが、俺と弟の組み合わせは"有り得ない"。
引き合う反面、反発する。
まずは根底を…基礎の基礎をぶっ壊さねえことには始まらない。
"今の俺"が幸せになれずとも、"いつかのジン"が本気で笑える日がくる可能性があるなら、行動する利点は十二分だ。
…悪寒はすっかり無くなっていた。
寒気もない。
コンディションは最高だ。

「…待ってろよ。もうすぐだからな」

この言葉を吐くのは何回目なのか。
言ってて未だ達成できてねえのが我ながらクズだが、何回だっていい。
嘘じゃねえんだ。何度だって誓ってやる。
いつか絶対届くはずだ。

虚しさを払い飛ばし、俺は塀の屋根から外へと飛び出した。



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風邪っぴき兄さんの看病とか幸せですね。
今年の秋からアニメ化がするようなので、期待しています。
でも、BBがアニメ化するならGGもやってほしい。
2013.7.17





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