一覧へ戻る


「――ねー、ニノ若子。一人での外出は控えろって、親父殿に言われなかった?」

薄暗い黄昏時の小さな祭。
不意に低い複数のような奇妙な声をかけられ、弁丸は特に驚くこともせず背後を振り返った。
そこには、白狐の面を付けた男が飄々と立っていた。

「て、天狐殿…!」

弁丸に名を呼ばれ、"天狐"は無言のまま片手で狐を作ると挨拶とした。
表を覆う白狐の面。
こんなにも目を惹く面なのに、周囲を歩く人々は弁丸の背後に立つこの男に気付かない。
けれど、それもまた珍しいことではなかった。
この男は、いつだって突然現れて、いつだって誰にも気付かれず、いつだって弁丸だけに語りかける。
最初は誰だろうと疑問に思いもしたが、こういった不思議な現象や神がかりめいた現象を見せられ、更に父親にも「そんな御仁もおるだろう」と言われ、素直な弁丸は天狐の存在を"そういうもの"として受け入れていた。
体ごと振り返り、弁丸は少し焦って応えた。

「皆、某を捜しておりましたか…!?」
「いんや。まだ気付いてないみたいだったよ。けど、そろそろ戻った方がいいだろうねえ」
「…」
「越後行きは明日だったっけ?」

天狐は何でも知っている。
弁丸自身が知らない弁丸のことも知っているのだから、真田の城内外の情報など筒抜けのようだ。
以前「すごい!」と感動したら、天狐は「俺様、神様のお使いだから」と気さくに返した。

「行く前に、城下の祭を見たかった?」
「はい…。少しだけならよいかと思って…。あ、ですが、すぐに戻りまする!」
「そ? じゃ、近くまで送ってあげる」
「わっ…」

無造作に腕を引き、天狐はひょいと弁丸を抱き上げる。
かと思ったら、次の瞬間には風を受け、神社の鳥居の上にいた……かと思ったら、次の瞬間にはそのずっと先の瓦屋根の上にいた。
普通なら目まいを起こしそうなものだが、天狐の抱える幼い体に不思議と負担は少なく、そういったこともない。
こうして抱き上げられるのが何度目かになる弁丸は、大して驚いた素振りはなかった。
町の鬼門を守る外れの社から、中央の城へ向け、闇夜の宙は我が道とばかりに迷いなく天狐は駆けていく。
囃子の音はもう聞こえない。
さっきまでいた場所の灯りを天狐の肩越しに遠く小さく見て、弁丸は彼に向き直った。

「天狐殿は凄いでござるな!」
「まあねえ。何たって俺様、神様のお使いだし~?」
「天狐殿のような方にこの上田と父上たちをお守りいただけておるのであれば、我が真田は安泰でござる。某も、見事役目を果たしてみせまするっ」
「ニノ若子は、町の子になりたかったの?」
「えっ…!?」

突然問われ、弁丸は驚いて面で覆われた天狐を見上げた。
ぎゅうと天狐の衣を小さな手で握り、子供ながらに動揺を隠そうとしてはみる。

「そ、そそそそ某でござるかっ!?」
「俺様は何でも知ってるよ~。ニノ若子も分かってると思うけどさ、越後行きと言ったって、実際は人質だ。楽しみにしてた元服も先延ばしだね。折角、毎日棒術の稽古をしてるってのにさ」
「う…」
「町の子になりたいの?」

もう一度、天狐が問う。
弁丸が気付いたか気付かぬかは分からないが、二度目の問いは過去形ではない。
詰まる弁丸の返事を待たず、畳み掛けるように次が来る。

「ならせてあげようか?」
「…え?」
「ニノ若子がそうしたいって言うなら、俺様、叶えてあげてもいいよ」

ト…、とそれまでの移動速度を考えれば、信じられないくらい軽やかに音もなく、天狐は足を止めた。
急停止の圧もなく、ただ風の壁が周囲からなくなり、気付けば弁丸は巨大な杉の木の上に居た。
落ちたらタダでは済まない高さなのだろうが、夜の闇はその高さすら覆い隠してくれる。
高さの恐怖は全くなく、ただ、てっきり城へ移動すると思っていたから、いきなり町外れの山林にいることには少し驚いた。

「おお…」
「吃驚するくらいの高さなんだけど、夜だと下が見えないからいいよね」

ぽつぽつと灯る灯りの奥に城の灯りも見えるが、宵闇に溶けて城自体は最早見えない。
灯りの高さで辛うじてそうであろうと思える程度だ。
昼間であれば、もう少し近くに感じたかもしれないが、闇に溶けた町や城はここから眺めると、随分距離があるように感じる。

「…」
「このまま、何処かに行っちゃう?」

弁丸を片腕に抱えたまま、天狐がのんびりと言う。
天狐の面は表情がないが、低い声の声色は随分穏やかな気がした。

「俺様神様のお使いだから、絶対にバレないようにできちゃうよ。ニノ若子が町の子になりたいってんなら、裕福な町の子にしてあげるけど」
「…。……いや。某、町の子にはならぬ」
「いいの? 越後行き、本当はヤなんでしょ?」
「うむ…」

何でも知っている相手に嘘は吐けまいと、弁丸は正直に口にした。
そう思うことも、口にしてしまうことも、全て罪だと思っていた。真田の者に相応しくない軟弱者だと、自分を奮い立たせてきた。
けれど、天狐相手では隠せるものではない。
口にしたことで、自分の中で区切りが付いたのか、俯きつつあった弁丸がぱっと顔を上げた。

「天狐殿。お気遣い、忝いでござる。貴殿は、某が幼い頃からいつも某を気に掛けてくださるな」
「いや、今も幼いからね。無理する必要ないんじゃない?」
「無理ではござらん。…いや、無理なら無理で構わん。某は、真田の子として生まれ申した。我が血肉は真田のものでござる。町の子になるのは、次の世としようぞ」
「あら、そーお?」
「うむ」
「ご立派なこって。…んー。ニノ若子がそう言うんじゃ、仕方ないか…。じゃ、帰ろっか」
「うむ!」

真っ直ぐな返事を受けて、天狐は諦めのため息を吐き、そのまま枝先からぽんと一歩踏み出すと落下した。
勿論、落下の風を感じ取る前には幹を蹴り、町の灯りを目指して再び闇夜を飛び行く。

「故郷や身内から離れると、寂しくなるでしょ」
「うむ。だが、某は平気でござる」
「おっ、強いねえ」
「うむ!某は真田の子故!…それに、某には佐助がおるのです」

ぽんと何気なく出た言葉に、天狐の反応が一瞬遅れる。
しかしそれは本当に一瞬で、弁丸は全く違和感を持たなかった。

「…へえー。サスケってだあれ~?」
「おおっ…!天狐殿でもご存知ないことがあるのですな!」
「まーね。たまーにね」
「佐助は、某付きの忍でござるよ。天狐殿程ではありますまいが、博識で技に長け、いずれは近隣の者が羨む程の者になろうと、御館様も父上も。某と共に越後に行くでござる。然るに某、寂しくなどないでござるよ!」
「ほほーん。んー、でもさぁ、忍なんていつ裏切るかも分かんないんじゃない? 思い出したけど、"佐助"って、確か甲賀の爪弾き者だったはずだよ。気に入らないと、主殺して次のにしちゃうんだって聞いたことあるなぁ~、俺様」
「…? それは別の佐助殿ではござらぬか? 某の佐助は忠義者でござるよ」
「えええぇ? ちょっと待って。何その謎の信用」
「いつも団子をくれるでござる!」
「いやいやいや!団子=善い人の図式は危険すぎるんでない!?」

天狐の言葉は弁丸にはピンと来ないようで、不思議そうに首を傾げるばかりだ。
天狐は呆れて、それ以上は何も言わなかった。
トン、ト…と軽やかに城内の弁丸の室近くに降り立ち、腕に抱えていた弁丸を静かに下ろした。
片手で弁丸の寄れた袴の裾を直し、天狐はすっと立ち上がる。

「じゃあね、ニノ若子。元気でまた戻ってきてよ」
「はい!天狐殿も、どうぞお元気で。何卒、上田と真田をお守りくだされ!某、立派な武者となりこの地に戻ってまいります!」
「はいはい。お待ちしてますよ。……あとね」

白狐の仮面を付けた男はその場に屈むと、再び片手で狐をつくり、つんと弁丸の鼻先を突いた。

「ふぁっ…!」
「町の子になりたくなったら、いつでも"天狐"を呼びな。…じゃーねー!」

目の前に立っていたというのに、次の瞬間には天狐は陰も形もなく消えていた。
そんなことは見慣れたもので、弁丸は暫くその場に立って空を見上げていたが、やがて踵を返して室へと戻った。
夜だというのに、どこか遠くで烏が一声鳴いた。

 

烏と小さな赤い花


 

 

翌日。
越後へ旅立つ一行は、少ない人数だった。
昌幸は弁丸へ同行させる者を、随分と時間をかけて厳選した。
信之は弁丸の越後行きが最後まで不服と見えて、いつものむっつりとした顔を更に顰めていたように見えたが、弟の一種の門出をしっかりと見送ってはくれた。
一行は、一つ目の山を越える。
道中、周囲を囲われて歩を進める弁丸の乗る馬の尻に、唐突に男が立って現れた。
揺れる足場にバランスを崩すことなく、馬に重さを与えることなく。
視界が陰になり、弁丸が後ろを振り返ると、殆ど真上から下を見るような形で、男――佐助が立っていた。
弁丸の周囲を囲む者達は、自分たちをまとめる長の登場に何の反応もない。

「やー。良い天気だねぇ旦那。旅立ちには持って来いってね」
「うむ!晴れてよかったでござる」
「雨の山越えなんて悲惨だからね~。そこまで長旅ってワケじゃあないけど、越後までそこそこの時間がかかるからね。の~んびり行くとしましょーか。疲れたとかお腹空いたとかあったら言ってねー。団子は持ってきてるけど、まだ早いから休憩の時に食べようよ」
「心得た!」
「いい返事。もう暫く家には帰れないけど、早速寂しくなってたりしない?」

その言葉が聞きたくて、態とからかうような口ぶりで佐助が飄々と問う。
弁丸は佐助を真っ直ぐ見上げて、昨夜と同じことを口にした。
偽りでも飾りでもないのだ。
問う相手が誰であろうと関係ない。何度聞いたとしても、同じだろう。

「佐助が共にきてくれたのだから、寂しくなどないでござる!」
「…そ?」
「うむ!」

濁りのない茶色い瞳に多少気圧されして、佐助は軽く首を傾けてみせた。
弁丸は「うむ」ともう一度しっかり笑顔で頷く。
佐助が指先で化粧を施した頬を掻いた。

「あらら~。そんなに期待されちゃうと、俺様も応えないとねぇ」
「道中頼むぞ、佐助。某、正直何をどうすれば越後に行き付くのか、皆目見当も付かぬでござる!」
「うんうん、そーだろーねぇ。そんじゃーまずは迷子にならずに越後に行けるようにしないとだわ。…旦那、俺様ちょいと隠れるけど、傍にはいるからね。何かあったら呼んでよ」
「何処へ行くのだ? 城を出た時も思ったが、皆と共にいればよいではないか」
「旦那たちとお馬さんが歩きやすいように、先に行って道をちょっとだけお掃除してんの。歩きやすい方が早く着くでしょ?」

弁丸にからからと笑みを向けながら、背中で部下に合図を送り、現状を伝える。
知謀家・真田昌幸。
強かに聡く、世渡り上手で口上手な昌幸の、そのニノ若が、上杉景勝に見初められて越後へ渡る。
兄の信之は剛の者。手を出すには難しい。
交通の要所にある真田の土地。
ここを何とか手に入れたい者は多いが、昌幸も信之も難しい。
そんな最中にひょこひょこと少人数で移動する弁丸は、既に移動の瞬間から格好の餌である。
移動ついでに撒き餌に食らいついた魚を釣り上げ、片っ端から刺身にして獣の餌に、これぞ一石二鳥!…と、あっけらかんと膝を打って言う昌幸をどうかと思うが、その策の下には佐助への信用が十二分にあるらしい。
人面獣心の一流の忍。
主を殺してさあ次へ…という噂は、実のところそこまで外れてもいない。
理由はその都度違うが、佐助が仕えてきた主は異常なまでに短命に終わる。
裏があったりなかったりは、その時の気分だ。
扱いの難しい佐助であるが、偶然会った弁丸にだけは妙に昔から執着しており、まだまだ主従としての力量はアンバランスではあるが、ならばいっそのことと佐助を直で弁丸へ仕えさせてみるあたり、流石は真田昌幸といったところだ。
今回の撒き餌も、佐助の実力を信頼してこそ。
そして佐助が忠実に働く為には、標的となる餌は常に"弁丸"でなければならない。
数多の刺客が何だと言うのだ。
佐助にとっては、とても気分の良いお仕事だ。
本当は弁丸を連れて何処かへ消えてしまおうかとも思ったが、弁丸が己の境遇を嘆くことなく歩くというのなら、傍にいられればそれでもまあいいだろうと、佐助は思った。
それに、弁丸が武士であろうとすれば、人を殺めることに長けた己の力はきっと弁丸の役に立つ。
何も今更、ころころ変わる人の情を信じる気はない。
弁丸が自分を好いてもいいし、好かなくとも別に構わない。
だからこそ、佐助の有能さが彼にとっては魅力となるだろう。
役に立つとは、「傍に置く」、ということだ。
己がいなければ何も立ち行かなくなるくらい、己が弁丸にとって有能であればいい。
意のままにならぬ他者の情を繋ぎ止めておこうとするよりも、ずっと簡単な話だ。
――道の先を行く。
弁丸を狙う輩を殺め、屍を処理し、痕跡を消す。
"何でもない道"を確保するのだ。
…一度屈んで、佐助が弁丸の背中を両手でぽんと戯けて叩く。

「んじゃ、取り敢えず一山越えたら休憩にしよっか。それまでは辛抱だよ、旦那」
「団子は何の串でござるか?」
「みたらし~」
「おお!でかしたぞ佐助!!」
「でしょ? 俺様デキル男だからさァー!」

のほほんとそんな会話をした後で、再び佐助は立ち上がった。
弁丸が再び、真っ直ぐ彼を見上げる。

「のんびり行こうよ。危ないことなんて、滅多ないって」
「うむ!」
「いい返事。…偉いね、旦那」

少し照れくさそうに弁丸が笑うのを見て、佐助もとても陽気に、軽く笑う。
その背後に見える空を、二匹の大きな烏が翼を広げて飛んで行った。



一覧へ戻る


BASARAの真田主従。
佐助の幸村にたいするおかん的激甘が好きです。
BASARAはいいゲームだ…。
2019.9.21





inserted by FC2 system