キュ…とタイを締める。
細部に遊び心のある柄シャツとダークブラウンの上等なスーツ。
ハンカチにタイピン…と、どれも普段着ないようなセンスで、だけど生地の手触りとか相当気持ちいい。
どれもこれも立派なものだけれど、気持ち的には嬉しさなんて全然無かった。
気が重い。
吐きそうだ…。

「…はあ」
『カネキくん。用意はできたかな?』

コンコン…とノックがあり、ドアの向こうから月山さんの声がする。
はっとして、慌てて顔を上げてそちらを向いた。

「あ、ハイ…!」
『では、そろそろ出ようか』

言われて、慌ててクローゼットの前から離れる。
与えられている広々とした部屋を横切りドアノブを握ると、出てすぐの心に既に準備を終えていた月山さんが立っていた。
大凡日常的でない派手なスーツとどこかグロテスクな仮面。
いきなり知らない人みたいでぎくりとする僕の手を取り、彼は満足げに微笑した。

「tresbien。とても似合っているね」
「は、はぁ…。そ、ですかね…」
「君が"レストラン"を苦手なのは知っているけれど、今夜は僕に付き合ってもらうよ。…大丈夫。食事中はまた別室にいてもらうからね。まったく、君に会いたいという輩が多くて困ってしまうよ。君には災難だけれど、今夜ばかりは僕の顔を立てておくれ」
「あ、いえ…。僕で良ければ」

芝居がかって額に指を添えて軽く首を振る月山さんに、ぱっと返事をする。
「付き合って」「何々をして」…と言われた時に従う以外に、僕は彼に対して恩返しをすることができない。
喰種の集まる"レストラン"。
猟奇的快楽殺人とカニバリズムが蔓延るその場所で、参加回数が減ったとはいえ月山さんは"MM"としてやっぱり常連で顔が利く。
そして、そんなMMがある日唐突に連れてきた"飼い人"が、思いの外注目を浴びてしまっており、それについての質問や興味が絶えないという。
月山さんは片手で僕の髪を撫で、懐から小さな缶を取り出すと、蓋を開けて指先で中の軟膏のようなものを掬った。
ふわりと甘い香りがしたような気がするそれを両手で慣らし、僕の頭を左右の掌で包むように髪を撫で梳く。
何されるんだろうと思わず目を瞑ったけど、すぐに分かって開けた。
…どうやら整髪剤のようだ。
慣れた手付きで、日頃一切手を加えない僕の髪をくしゃりとラフに整える。

「君もたまには外に出ないと、退屈だろうからね」
「はは…」

場所にもよります…。
胸中でひっそり突っ込んでおく。
髪を撫でる手が引いて、月山さんがハンカチで自分の手を拭い、ポケットへ戻す。
ただ立ち尽くす僕の襟を、指先で整えてから少し離れて自分の顎に手を添え、じろじろと僕を見る。

「…うん。完璧。チャーミングだ」
「えっと、どうも…」
「さあ。では、そろそろ参ろうか。時間がないからね」
「…!」

近づいてきたと思ったらぐいっと腰に手を添えられ、引き寄せられて流れるようにキスされる。
びっくりする頃には既に顔は離れていて、何でもなかったように月山さんは僕の手を自分の腕にかけると歩き出してしまう…から、僕も慌てて足を進めるしかなかった。
…もうそろそろ慣れようよと自分で思うけど、やっぱり何度キスされても顔が死ぬほど熱くなり、俯くしかできなかった。

 

 

半喰種になってしまった僕の居場所は、月山さんの家の中になった。
正式に美食家の"飼い人"になった覚えはないけれど…その方が安全だろうと、他の喰種に会う時はそう呼ばれるように敢えて振る舞っているし、呼ばれても仕方がないと思っている。
彼には良くしてもらっている。
喰種の飢餓を知ってしまえば、"食事"をするからといって悪い人と呼べるわけがない。
寧ろ、個人ではそれぞれの人間の一部分しか食べない彼は良心的だと思う。
例えば眼球が無くなったとしても、殺さないでくれればそれは上等だと思うし。
片足が無くなっても生きていけるし、舌が無くなったって、筆談できる。
暴飲暴食する喰種より、よっぽどマシだ。
ちょっと変わった人だけど…彼のお陰で、僕は半喰種であろうとも、衣食住に困ることなく閉鎖的でありつつもとても安定した生活を送れているのだ。
どこまでも甘やかされる中で、堕落しないよう頑張っているけど…。
…いつの間にか、やっぱり"月山さんがいないと落ち着かない"状況に、僕はなってしまっている。

 

 


 

 

「あっらァん、まーっ!"隻眼"ちゃぁん…!お久し振りですことぉ~!!」
「まあ、本当!」
「これはこれは、MM氏。本日は飼い人連れですか?」
「相変わらずかわいいわぁあ~!美味しそぉう!頭から食べちゃいたいくらい!!」
「今日もお喋りはしないのかしらん? …ねーェ、また可愛い声で笑って頂戴よぉん。笑ってくれたらオネーサンたちがご褒美あげるわよぉ。あの脳天突き抜ける笑い声…。思い出すだけでぞくぞくしちゃァーう」
「いやまったく…あぁ、芳醇な香りの子ですこと。癖になるこの香り…堪らないわぁ。流石ミスターMMでいらっしゃる。…ねえ、仕入れはどちらから?」
「わたくしも伺いたいわ。丁度一匹欲っしておりますの」
「驚いたな…。まだ手付かずですか。食さないので?」
「男性でしょう? そろそろ肉が硬くなってしまいますよ」
「どうです、せっかくですから今晩そちらの美肉を振る舞って頂けませんかね。可愛がりすぎてナイフを入れられないというのでしたら、私めが代わりますぞ?」
「生憎ですが。…おっと、マダム。お手は触れないで。僕の可愛い子鹿が怯えます。お許し頂きたい」
「…」

仮面を着けて揚々と振る舞う月山さんの傍で、人形のように大人しくしている。
無反応を装っても内心ぞっとしていた仮面の女性の手が、彼の言葉で肩から離れてくれた。
最初に来たときも、一言も喋らないように言われていたし、今日もそうするつもりだけど…。
…相変わらず、喰種だらけのこの"レストラン"は恐い。
喋るなと言われるまでもなく、口を噤んで小さくなるしかなかった。
ここは互いの素性を隠して楽しむ仮面レストランだから、僕も今は顔の左半分を隠す仮面をかぶっている。
内側からは見えないことはないけど、鏡に写って自分を見てみると、普通の人間としての僕の目だけが晒されていて、左目は仮面で見えない。
MM氏の"隻眼"。
僕にはよく分からないけれど、隻眼というものは注目されるものらしい。
そんな仮面を着けている人はたくさんいるし、僕だって単に片目を隠しているというだけで本当に人間としての目が露出させている方だけだということは知られてないけど、月山さんが僕を"僕の可愛い隻眼くん"などと口にしたせいで、一斉に呼び名として広まった。
彼らにとって隻眼は一つの大きなキーワードのようで、みんな興味深そうに僕を見てくるし、面白がって僕を呼ぶ。
別室で待つように言われて、二時間弱待ち続けた。
ボーイのような仮面の人に呼ばれてフロアへ出て行くと、既に床に設置されている巨大な鉄の扉は閉まっていて、会員の人たちは珈琲を飲みながらそれぞれ好きに会話を愉しんでいた。
最初に来た時のことは…思い出したくもない。
生まれて初めて目の舞えて繰り広げられる快楽を目的とした惨劇に、頭と感情がついてこなかった。
取り敢えず匂いに嘔吐しかけて気持ち悪くなったところまでは覚えているけど、そこから先の記憶が全くない。
後で月山さんに聞いた話を総合すると、どうやら気持ち悪いとか恐怖心とかを通り越して泣きながら笑い出してしまったらしく、別室で休ませてくれていたらしいんだけど…。
その時の僕の反応が会員の人達には興味深かったみたいで、記憶に相当残っているらしい。
お陰で、顔だけは無駄に広がってしまったというわけだ。
今日もフロアに入り込んだ時は血の臭いに噎せて気持ち悪くなったけど、椅子に座って暫くすると麻痺してきたのか珈琲の匂いで消されてきたのか、何とか持ち直した。
…帰りたい。
最初に来た時から数ヶ月経ったところで、レストランはレストランだった。
改善されるはずもない。
そういう集まりで、そういう場所なんだから。
月山さん、早く帰らないかな…。
でも、彼はこの会では人気者だし、次から次へと話しかけにくる人が絶えない。

「…」

静かに目の前の珈琲カップを眺める。
飼い人には普通こういうものは出されないようだけど、月山さんの席の隣に席を用意してもらえている僕には出てくる。
けど、当然こんな環境で飲む気にはなれない。
…さっきまでいた別室の方が、気が休まる。
ちらりと円卓の隣に座る月山さんを見て、そっと片手を伸ばしてみる。

「…」
「…ん?」

彼のスーツの袖を引くと、他の人と喋っていた月山さんがこちらを向いてくれた。
袖を引く僕の手を取り、片手で包む。

「どうかしたかい? 僕の可愛いdolly」
「…」

またそういうことを言う…。
一瞬呆れそうになりつつも、気にしないようにして「別の場所へ行ってもいいか」と視線で訴える。
伝わるわけないかもと思っていたけど、月山さんは首を傾げて微笑した。

「おやおや。帰りたそうだね。…まあ、確かにそろそろ会食はお開きの頃合いだが」
「あら。もうお帰りなの、MM氏」
「もう少し宜しいではないですか。最近の貴方は、なかなか顔を見せないのだから」
「ああ、お引き留めありがとう、我が尊き同志諸君。僕としても名残惜しいのですが…」
「ラウンジで待たせておきたまえよ」

一人の喰種がそう提案する。

「オーナーに言ってみたまえ。君の可愛い飼い人ともなれば、構わないだろうさ」
「あら…。それはいいわねぇ」
「名案ですな」

周りを囲んでいた人達が、口々に微笑しながら同意する。
ありがたい。
月山さんがもう少しいたければ、僕だけ別の部屋にいればいいのだ。要はここにいたくないだけだから。
うんうん、それでいいですよと、小さく一度頷いた。
だが、それを聞いた月山さんは、顎に手を添えて何故か数秒考えていたようだった。
僕が疑問に思った頃、ちらりと投げられた視線が僕と合う。

「ふぅん…。…まあ、そうだねえ。ラウンジで待っていてもらおうかな」
「…?」
「丁度僕も所用を済ませたいと思っていたところだしね」

声が少し妙な気がしたが、顔半分がマスクで隠れている月山さんの表情はよく分からなかった。
気にしないことにして、す…と椅子から立ち上がる。
だってその方が嬉しい。
この場にいたくない。
彼は片手を上げ、近寄ってきたボーイに耳打ちし、指示してくれた。

「愉しんで待っておいで」

握っていた僕の片手をいかにも名残惜しそうに離す。
彼と一緒にいた喰種の人達も残念そうにそれぞれ声を零す。
ぺこりとその場にいた人達に一礼してから、無言でボーイについていくことで、僕は漸く惨状の余韻が残るフロアから脱出できたのだった。
今は飲めなかったけど、別室なら普通の部屋だから…。
僕も、そこで珈琲を頂こう。
そしてゆっくり、彼を待とう。
少なくとも、ここよりはリラックスできるはずだから。

 

 

 

――と、思っていたのに。
通された部屋は、事前に待っていた場所とは違う、初めて入った部屋だった。

僕のいる部屋自体は、何もない。
小さめだけど、テーブルがあってソファがあって、相変わらず豪華で、やっぱり仮面を着けたボーイが部屋の端に控えている。
テーブルの絵には珈琲があって、湯気を立てていた。
何てことのない部屋だ。
壁の一面に大きく設置されている、仕掛けガラス窓を覗けば…だが。
目を背けることも忘れ、そこを凝視したまま固まって、たぶんもう数分以上経っている気がする。
窓といっても開くものではない。
よく刑事ドラマとかで見るような、向こうからこっちは見えないであろう大きなガラス。
大きな額縁に飾られているそこからは、隣の部屋がよく見えるようになっていた。
…隣の部屋で行われている、惨劇と、乱交が。

「…」

音声は届かない。
けど、阿鼻叫喚の現場であることは見れば分かる。
鎖や檻といったものがごろごろし、比較的若そうな人間の男女が複数いて、彼らを、スーツを着込んだ喰種の男性やドレスを着込んだ女性が、それこそ気紛れに性行為をしたり虐げたりしている。
隣の部屋のこのソファからだと、まるでその光景が一枚の動く絵画であるかのように鑑賞できるというわけだ。
音は届かないのに、絶叫と狂った笑い声と多種多様な想像音が、頭の中に虫の様に響いている。
ただただ目の前の光景が信じられなくて、感想も出てこない。
"僕らは一体どこまで残酷になれるんだろう"…なんて、動かない思考の片隅で、一部だけ小さく考え始める。
…。
なんだか、苦しい気がした。

「――っ! ヒュ…はッ…!」

突然呼吸を思い出し、痙攣した喉で息を吸う。
それを機に、ガタガタ足が震え出した。
疲れても立ってもいないのに、膝が笑う。
両目を見開いてぎゅっと左右の手でそれぞれの膝を握りしめ、全力で俯く。
…いや。
いやいや。
ちょっと、待って…。
なんだこれ…。
僕はこんなの知らない。
ここは、確かに人間を愉しみながら屠って肉を食べるところだけれど、それだけだと思っていた。
なのに…。

「…っ」

頑なに目を瞑ると、いつのまにか滲んでいた涙が零れた気がした。
…なんだ、これ。
何だこれ何だこれなんだコレなんだこれなんだコレなン――…。

 

 ――"今更?"

 

「…!」

ぐるぐる回っていた思考に、どこからか、ぽん…と、鼻で嗤う誰かの声が飛んできた。
脳内に突如響いたその声にびくっとして、僕は肩を震わせ、再び目を見開く。
…いつの間にか、息が切れていた。
疲労感が全身を襲う。
平衡感覚が一瞬失せ、体が傾く。
貧血みたいに感じて、片手で口元を覆った。
…きもちわるい。

「は…。は…、…げほっ! う、ぐっ…」
「カネキくん。待たせたね」

不意に扉が開いた音がして、月山さんの声がした。
磨かれた床を歩く足音が徐々に近づいてくるけれど、僕は顔を上げられなかった。
すぐ背後で、ぎ…とソファの背が軋む。

「君はラウンジは初めてだったね。ここはVIP席だから。本来は飼い人連れはお断りなのだけれど、君は特別さ。オーナーもいつの間にやら君のファンという話だからね。…おや。珈琲は一口も飲んでいないのかい? 温くなってしまている。良くないね」
「…」
「君、新しい珈琲を二つ」

月山さんが誰かにそう言って、ソファをぐるりと回ると僕の隣に腰掛けた。
彼の個性的なスーツの一部が、俯いた僕の視界に映る。
彼は悠然と足を組んだ。

「"飼い人"には、いくつか種類がある。具体的な名前は決まっていないが、大きく分けると三つかな。勿論第一は食料だ。言ってみれば保存食。人間程柔らかく食べ応えがあり、一体一体味が違って個数の多いユニークな食材はない。手元で飼育して、磨き上げるのさ。…あとはどちらも趣味だね。"処刑人"のように微弱な肉体と精神を鍛えてどこまで強くできるのか、その過程と育みを楽しむものと…それから愛玩。愛でるだけでもいいし、体のつくりも似ているからね。人間だって、戦争下では良くあることなのだろう?」
「…」
「まあ、元は食料である彼らと好き好んで愛し合おうとする者は、変わり種と言えるだろうけれど…。だが必要な時もある。僕らは特にね。ここに集まる美食を愛する同志たちにとって、食事は時折性的興奮を上回ってしまうから、鎮める必要が出てくるというわけだ。…おっと。勿論僕は粗悪な肉に興味は無いよ? ただ、闘人飼育している以外の飼い人を連れてくる方々は、大体あの部屋で待たせているようだね。ご自慢の飼い人で皆に愉しんでもらえる。出来が良ければ、やはり褒めて見せびらかしたいものだ。鑑賞品とは、人に視られてこそ価値がある。君も分かるだろう?」

不意に腕が伸びて、肩を抱かれる。
横に座った月山さんが、動かない僕を優しく抱き寄せた。
…振りではなく、今は体がそれこそ人形のように動かない。

「君を早くあの部屋へ入れておくれという声も、後を絶たない。何度も僕に誘いが来る。もし君が僕の心をこんなに見事なまでに盗んでいなかったら、あそこに繋いであげたかもしれない。綺麗な首輪と鎖でね。体を整えて…そうだな、特別なクリームを体中隅々まで塗って…ああ、爪も磨いてあげるとも。爪先まで念入りに。僕はタトゥーなどは好きでなくてね。洗練された肉体にして、いくつかのジュエリーで飾って…」
「…」

掌が、ゆっくりと肩を撫でて腕に伝い、手まで行くと手の甲を軽く握って爪を撫でる。
体を這うその手を、食い入るように無心で凝視していた。

「…なんてね。フフ。お互い感謝する必要があるというわけだ。出逢わせてくれた、運命の女神にね。…おっとそれから、芳村氏にもだ。勿論、僕らの仲人たる彼の存在は忘れてはいないよ?」
「…。月、山……さ…」

声が詰まる。
ぱくぱく…と、声が出たり出なかったりで、何度も唇を開閉する。

「あ、の…。ぼ……ぼく、ぼ……」
「…顔を上げて」

す…と指先が顎の下に添えられる。
微かな力で上を向くよう指示され、そろりと暗い瞳を擡げた。
震えながら顔を上げれば、近距離で月山さんが悠然と微笑していて、顔を近づける。
キスされるかと思ったらそうじゃなかった。
ぼそ…と低い声で耳打ちされる。

「今夜は、少し積極的になれるね…?」
「…」
「君はとても賢い子だ。それも僕の自慢の一つさ」

彼の言葉の裏にある意味はすぐに分かった。
いつもならキスしてもおかしくないこの距離で彼が止まっている意味も分かったから、少し躊躇ったけど、顎を上げてぎゅっと目を瞑り、自分からそっと月山さんへ唇を合わせる。
僕からでは触れるくらいしかできず、すぐに顔を離し、背けた。
珈琲が、テーブルの上に二つ届く。
ボーイの存在も気にせず、月山さんが僕の血の気のない手を取って、手の甲へキスした。
相変わらず凍った体でそれを見下ろす。

「飲んだら、そろそろ帰るとしよう」
「…」
「良くできたね、カネキくん。…嬉しいよ」

 

 

何てことだろう。
この数ヶ月間…甘やかされて、生きてきた。
たまに血を飲まれたり肉を一部噛まれたりはしたけれど…それ以外ではこれ程人にストレートに優しくしてもらえたのは、初めてだった。
月山さんはとても僕に甘くて、時々度が過ぎて困惑するくらいに優しくしてくれた。
…けど、思い出した。
すっかり忘れていた恐怖心が僕を支配する。
どうして忘れていたんだろう。"喰種"というものを。

僕は、こんなにも、彼に生かされている――。

 

 

 

 

 

 

 

ソファの上。
二人分の体重をかけ、時折軋みが走る。

「…は、…ぁ」

必死にキスをしてみても、呼吸負けして先に顔を離さざるを得ない。
膝の上に向かい合わせで乗り上げ、また自分から口を離した僕を月山さんが小さく笑った。

「君は苦しそうにキスをするね」
「…す、すみません」
「構わないよ。やがて慣れるだろう。初々しくてとてもいい。…おや。下着は穿いているの?」

指先で僕のシャツの裾を僅かにたくし上げ、月山さんが意外そうに尋ねる。
たったそれだけで僕は真っ赤になって言葉も出ない。
…月山さんの家に帰って来て、シャワーを浴びた。
帰路の途中、本当に色々考えた。
気持ち悪くなるくらいに。
彼が何故、あの部屋に僕を置いてあの光景を見せ、その結果僕にどういう反応を期待しているのか。
よく考えれば、飼い人はあの扱いが普通なのかもしれない。
奴隷のようなものなんだから。
月山さんの僕に対する対応の方が変わっていて、そして僕は彼に気に入られたことで命を繋いでいるんだ。
僕は喰種といっても半分は人間なんだし、蔑まれ当たられて当然のどっちつかずの蝙蝠のような存在。
忘れていたことを思い出す。
僕は、簡単に殺されてしまう存在だ。
家に着いて、お互いシャワーを浴びて……で、僕は湯上がりに鏡の前で三十分近く散々迷い抜き、下着とシャツ一枚で月山さんの部屋に乗り込んだ。
彼の求める積極性を、見せつけなければならないと思ったからだ。
自分で予定していた時間より彼の部屋へ行くのが随分遅くなってしまい、もしかして寝てしまったのではないだろうかと血の気が引いたけど、結局ドアの前でまた二十分近く立ち呆けた。
意を決して恐る恐るノックすると、窓際の読書用ソファで本を読んでいた彼は、全て見透かしたような様子で僕を待っていた。
いつも何となく疼く夜は月山さんが察して誘ってくれるから、考えたら、僕からそういう行為に誘うのは本当に初めてで、「一緒に寝ましょう」と言うだけで死ぬ気になれば死ねそうだった。
子供みたいな誘い文句が、馬鹿みたいだ…。
自分でそう思うんだから、相当だろう。
何とか彼をソファに座らせて膝に乗り上げてみたけど、そこから先どうしていいか分からず、キスくらいしかできていない。
焦る。
少し持ち上げられたシャツを、それとなく両手で下げ直す。

「あ…。は…穿かない方が、よかったですか…?」
「さあ。どうだろうね。君の好きにしたまえ」
「…すみません。シャツとか…それくらいしか、思いつかなくて…」
「とんでもない。とても魅力的な姿だよ、カネキくん。お誘いいただいて光栄だ」
「…。香水も…どうしようかと思ったんですけど、あの…」
「香水…!ああ止めてくれ!そんなもの、君は絶対につけてはいけない!香りが損なわれてしまうからね。手を出さなくて正解だ。どうしてもというのならば、断固僕が選定しよう。こればかりは覚えておいてくれたまえ。本当なら、君はシャワーだって浴びなくて良かった!」
「…そ、そうです…か」
「そうとも。…さて、次はどうしてくれるのかな?」

露出された僕の腿を撫でながら、月山さんが笑う。
見慣れたはずの伏し目がちの双眸が、今夜は鋭く尖って見えた。
もしかしたら、僕が知らないだけでいつもこうだったのかもしれない。
…場しのぎに、留めていた自分のシャツのボタンを外してみる。
指先が震えて上手くできない。
覚束ない僕の指先を、月山さんが見詰めて頷く。

「…うん」
「…」
「それで?」

ずしりと重さのある言葉と苦笑。
両手の指先が突然それまでと打って変わって、がくがくと震え出す。
恐怖心がまた掘り出された。
…何とかしないと。
何とか。
でも、一体何をすればいいんだ?
何かしないと、飽きられてしまう。
それは、嬲り殺されてしまうと同義語だ。
今日見た他の飼い人と一緒に、あの部屋に放り込まれてしまったら…?
鎖で繋がれて、知らない喰種たちに笑いながら犯されて、底まで飽きたら今度はきっと喰べられてしまう。
いつも取り囲んでくるあの喰種たちが、一斉に僕に襲いかかって来たら…?
目にしたガラス越しの惨劇を思い出し、体温が急激に下がっていく。
…今まで、僕はなんて愚かだったんだろう。
昨夜までとのこの違いはどうだ。
月山さんとたまに夜を過ごすのは、恥ずかしいけど、決して嫌いじゃなかった…。
けど、もう無理だ。
僕は知ってしまった。
吐きそうだ。
恐怖で気持ち悪いし、何より哀しい…。
息が詰まる。
くしゃり…と、紙を潰すように顔が歪んだ。

「カネキくん、手が止まっているよ?」
「…!」
「少々ペースが遅いようだけれど…。緊張しないでいい。僕がいつも君にしていることをすればいいだけさ。何も難しいことは…」
「ご、ごめんなさいッ…!!」

感情が耐えきれなくて、ぼろぼろと涙が零れて泣き崩れた。
急に泣き出した僕に、月山さんが言葉と手を止める。
一度謝ると、止まらなかった。
自分の腹を見下ろすように俯き、肩を上げて声を張る。

「できませんっ!…っすみ、すみません…!!」
「…カネキくん?」
「ぼ、僕――…っ僕は!いつも、月山さんに気持ち良くしてもらってるから!逆に何をすれば貴方が喜ぶのか、全然分かりません…!!」
「…」
「見当もつきません!ごめんなさい!! …あのっ、僕本当にこう…こういうの、月山さんが初めてで…!経験としても乏しいんです!貴方がいつも僕に何をしてくれているのか、よく覚えていられないんです!…でも!でも頑張って覚えますだから…!だから殺さないで!!少しなら喰べて構いません!だからあの部屋に僕を入れないでください…っ!!」
「カネ…」
「他の人になんか触られたくない!!」

泣いている場合じゃない。
そんなことは分かっているけど、謝ることしかできなかった。
何をすればいいのか本当に、本当に分からない。
恐怖の塊が、目の前に迫っている。
指だけでなく、四肢が氷のように冷たく、がくがくと震えていた。
一歩間違えば殺される。
体中が冷たい。
まるで真冬の夜に外にいる時のような痛いほどの寒気が、体を襲う。
…考えれば分かることだった。
僕の何がそんなに魅力的だっていうんだ。
そんなこと、自分が一番解ってるじゃないか。
僕に気を使ってくれたのは、月山さんのちょっとした娯楽だったんだ。
いつだって切り捨てられる。
僕は、飽きられちゃいけない努力を、それこそ命がけでしなければいけなかった。
だって、どう考えてもちょっとした遊びだった可能性の方が、抜群に高いじゃないか。
それを本気で…本気で、この人は僕のことを好きなんだと思ってしまっていた。
…馬鹿だ。
救いようがない。
どうしようもない、愚か者だ…。

「す…、すみ…っませ…」
「…」

僕の嗚咽だけが部屋に響く少しの沈黙の後、彼の膝の上に居座ったまま俯いて泣いている僕の腰に、そっと片手が回った。
それだけで、びくっ…!と恐怖で体が竦む。

「ひ…!」
「…怖がらせてしまったようだね」

甘く囁く声は、明らかにこっちを気遣ってくれているもので…。
だから、僕は驚いた。

「顔をあげて」
「…」

少し迷ってしまったけど、言われたとおりそろりと顔を上げる。
泣きじゃくって涙は溢れているし、きっと酷い顔をしているだろう…。
目元を拭いながら肩を震わせてしゃっくりをしている僕の頬に手を添え、月山さんが親指で涙を拭ってくれた。
優しい手付きは僕の知っているもので、やっぱり驚く。

「…君は、本当に…僕の心を縛り付けるね。…凄まじい」
「……なに、が…ですか…?」

質問には答えず、月山さんは意味深に笑うと露出された僕の肩と腰を引き寄せて抱き締めた。
落ちるようにして、僕は彼の懐に沈む。
僕の上で、彼が困ったように苦笑して小さく息を吐いた。

「可哀想に。震えているのかい? …こんなに怯えてしまうとは、予想外だったよ。ちょっとでも君が積極的になってくれればと思っただけの、言葉遊びのようなものだったんだ。…すまなかったね」
「こ…」
「この僕が、君を手放すと本気で思うのかい? 他の輩に一口だって一触れだって許していない君を?」
「…」
「今夜だって、君に指先触れた女性をうっかり殺めてきてしまったというのに?」
「……え?」
「喰種の肉は人間のそれと比べると随分劣るし、僕に同胞喰らいの気は乏しいのだけれど…。後で二人で味をみようか。右脚一本頂いてきたからね。それに眼球くらいなら、寂しい時に君の口を慰めるお菓子にはなるだろう。そうはさせないつもりではいるけれどね。…勿論、口に合わないようなら結構だよ。捨ててしまおう」

濡れている頬にキスされ、目を見開いて固まる。
キスしたまま、涙を味わうように肉厚の舌が頬を舐める。
…。
……。
…ちょっと、待って。
まさか、本気で言ってるんだろうか…。
"言葉遊び"なんてレベルの話じゃない。
確実な強迫だっただろう、あれ。
生死がかかる脅しだったと思うんだけど…。

「…」
「冗談さ。何もかもね」

信じられないという顔で月山さんを見ると、彼は本当にすまなそうに眉を歪めていた。
カチン…と、何かがはまる。
恐怖心が一変して、怒りに早変わりした。
安全だと分かると、いつもの自分が戻ってくる。

「し、信じ…られない……」

唖然…と僕は怒りに震えて声を絞り出した。
今度は恐怖でなくて安心からか、またぶわっと涙が溢れ出て、ぱたぱた頬を伝って垂れる。
再び震えて涙を流し出す僕の涙を指先で拭い、首周りに許してとばかりに月山さんがキスして甘えてくる。
首を背けて逃げようとすると、抱き締められた腕がきつくなって逃げ出せない。
くっついてくる顔を闇雲に押し退ける。

「おっと…」
「あんな…あんなもの見せられて…っ。僕が!怖がらないとでも…思ったんですか!?」
「怖がるだろうとは思ったさ。だが、こんなに気にするとは思わなかったよ。君をあの部屋へ放り込む気は一切無い。今まで通り、僕のcageにいて美しく囀っておくれ」
「おくれじゃないですよ!感覚おかしいです!狂ってる!! …やだ!もう止めます!!離してください!」
「はっはっは!」
「はははじゃないです!!」

抱き締めたままの月山さんの腕を逃れようと彼の肩を突っぱねるけど、逃げさせてはもらえない。
それどころか、上手く体を小さくまとめられてソファに押し倒されてしまった。
倒されて、でもすぐに起きあがろうと体を横に向けて肘をつく。
怒ろうと口を開けて相手を見た瞬間、計ったように上から与えられる柔らかくて気持ちいいキスを、ついついいつものように何の抵抗もなくすんなりと受け取ってしまう。
…うう。力が抜ける。
涙は徐々に止まりつつあるけど、唇が離れて距離ができたから、水で濡れた目で頭上の彼を睨む。
鼻をすする僕を、反省の色が見えない笑みで月山さんが見下ろしている。

「…僕に触れられて、いつも気持ちがいいのかい?」
「…っ」
「何をされているか覚えられないくらい?」

するりと彼の片手が脇腹に触れ、ぴく…と反応してしまう。
さっきあれだけ泣き叫んだから今更発言を引っ込めるなんて無理だけど、二度と言わないぞと頑なに口を噤んだ。
ただし、赤面するのは止めようと思って止められるものじゃない。
率直な本音を晒した一二分前の発言を思い出し、かあ…と顔が熱くなる。

「怖がらせてしまってすまなかったね。…ああ。けれど、とても素敵だったよ。いつもとは違う初々しく積極的な君も、本音を隠さず伝えてくれる君も、久し振りに怯える君も…ね。そのどれもが僕にとっては初めて口にするデザートのように甘美なのさ」
「よ…余計なことを経由しないで、普通に希望を言ってください!」
「おや…。普通に言ったら、叶えてくれるのかな?」
「で、できるものだったら…。こんな…こんな本気で脅されるよりはマシです!本当に怖かったんだ…!!」
「ふぅん…?」
「…ぅ」

頬を撫でられついでに親指を唇にかけられる。
口の中に入り込んできたその指を少し舌で舐めてから、恐る恐る月山さんを見上げた。
目が合うと、彼は気が抜けたように笑った。

「ふふ…。泣き顔もチャーミングだけれど、僕の好みとしては、やっぱりそうしてとろけている君の方が魅力的だ。与えられる愛撫に翻弄されている君は、いつだって汚れを知らない子羊のようで堪らない」
「…」
「おっと。指を噛まないでおくれ、僕の可愛いlumb」

ガリ…と月山さんの親指を軽く噛むと、片手を引いて僕が噛んだ親指を彼が自分で舐める。
僕の歯形が残る形のいい指を見せつけるように唾液で濡らす仕草が、いつにも増して色っぽく見えてぎくりと肩が震えた。
…舐め終わって片手を下げ、月山さんが僕を悪戯っぽい瞳で見下ろす。

「――噛むのなら、」
「…!」

男性的な彼の広い両手が、僕の頭の左右に伸びる。
一瞬ぞくりとしたけど、悪寒に反してふわりと優しく頭部を抑えられ、顔が近づく。

「僕の舌を噛んでごらん。…上手にね」

ガラス細工でも扱うかのようなふわりとした手付きに反して、逆光の彼の双眸が鋭く僕を射抜いた。

 

 

 

押し倒されたまま、呼吸もままならないくらいにキスを続ける。
言われたとおり月山さんの舌に舌を絡め、いつもされる側だったディープキスに挑戦する。
息があがって仕方ない。
…ヘタなんだろうなぁ、僕。
月山さん、キスする時こんなに苦しそうじゃないし。
けど、弾力ある舌触りは癖になる。
舌先と前歯で相手の舌を軽く挟んで、擽るようにその裏を撫でる。
僕が必死になっている間、月山さんの片手が下着を取り払い、横たわる僕のものを触ってくれていて、びくびくと腿がひきつる。

「月ひゃ…っ。ゃ…、は……」
「そんなに必死にならなくていいよ。肩の力を抜いてごらん」

今夜は覚えていようと思うけど、頑張らないと触られている場所が気持ち良すぎて動けなくなる。
くちくちと卑猥な音が耳について、濡れた彼の手が性器に触れて、より気持ちが昂ぶってしまう。
最初はゆっくりだった彼の手が次第に早く、しかも的確に攻めてくるものだから、情けないし恥ずかしいけどあっというまに硬くしてしまう。

「ふ、ふぁ…」

広い掌に包まれて触られ、思わずキスしていた口を離して、ぶるっ…と震えた。
前がすっかり硬くなってしまって、とろりと体液が溢れる。
真っ赤になって縮こまっていたけど、気付いたら月山さんの指先が後ろに触れた。
ぎょっとする。
…え、ちょっと。
あれ?
ペースが…何だかいつもと違う、ような…。
…とはいえ、最中は自主的に彼の顔を見られない。
目線を思いっきり外しながら、月山さんの体に何とか片手を添えて狼狽する。

「あ、ぁの…。ちょ、ちょっ、と…っ」
「…何かな?」
「は、早…早くないですか? あの、いきなり、すぎです…!」
「ああ…。そうだろうね。けど、そんな日もあっていいだろう?」
「…!」

く…と指先で背けていた顔を正される。
視線が合わされて、目を細めて微笑した月山さんが、やんわりと僕の体をソファに寝かせ直し、肩を支えて少し横向きにさせた。
彼の指が、流れた先走りで湿っていたその場所に宛がわれ、反射的に目を伏せて肩を上げ縮こまる。
ゆっくり体内に侵入してくる指の感覚。
はっ…と息が詰まって、大きく口を開けて呼吸した。
…うわぁ。
ダメだ、気持ちいい…。
ちょっと指入れるの早くて怖いけど…やっぱり快感に足が震えてしまう。
すっかり僕から目的としていた積極性は失われて、いつものようにソファに弱々しく横たわるだけで、快感を与えてくれる月山さんを何とか見上げた。
何処から取り出したのか、高揚した表情の月山さんがローションを片手に出しながら僕へ顔を近づけ、喉を熱い舌で舐めあげる。
反射的に顎を上げ、彼の肩に手を添えた。

「月、山さ…。なに、焦って……」
「僕はね、カネキくん」
「ひ…!」

がっ…!と唐突に足を開かされて、赤面する。
閉じる間もなく彼の掌が足の間に添えられ、ローションをまとった指先が、さっきよりも遠慮なく、卑猥な音を立てて後ろを解していく。
何度やっても恥ずかしくて恥ずかしくて、左手で自分の口元を覆った。
それでもどうしてか、音を立てて月山さんの指が出し入れされるところを凝視したまま目が離せない。
長い指が、奥の凝りを押す度に陰茎が震える。
無理矢理快感を引っ張り出されるこの感じが、怖いけど…嫌いじゃない。

「う…っ、ゃ、は……っ」
「君の新たなtasteを知って紳士的でいられる程…人ができてはいないのさ」
「ふ…」

口を抑えていた手を剥がされ、近づいた顔でキスされる。
舌を絡ませている間に、すっかり溶けた体内から指が抜けた。
埋められていたものが抜けてすかすかに感じた。
腰が震えてしまう。
性懲りもなく、無理なのに閉じようとする僕の腿が、月山さんに捕まって結局支え直されてしまう。
熱の塊が、露骨に後ろの口へと当てられた。
ぎく…と全身が固まる。
おそるおそる上げた涙目の視線の先に、息を熱くしている彼がいた。
僕を見る目は余裕が無くて熱っぽいのが分かるから、もう本当に恥ずかしい。
こんなのまるで、本当に…何て言うか、恋仲みたいだ。
…早く欲しい。

「…っ」

ぎゅっと目を伏せて、次の衝撃に備えた……が。
すぐに来ない。
せっかく伏せた目を、再び怖々と開ける。
にこり…と月山さんが微笑する。

「…?」
「さあッ。誘ってごらんカネキくん!君が思いつく言葉で、僕を!!」
「…な、何で今このタイミングで止めるんですかぁああ!」

片手で僕を示してのとんでもないご希望に、涙目で肩を震わせ自棄になって声を張った。
この人はぁあああ…!
こんな所で一旦停止してしまっては、余計に恥ずかしいのに!
僕の悲鳴に、月山さんが嬉しそうに笑う。

「ああ…。耳までこんなに赤くして…。美味しそうだ」
「ひぁ…!」

不意打ちで耳を触られ、全身が震える。
歯に引っかけるように、ガリ…と骨を噛む音がして、次の瞬間には耳が急激に熱くなる。

「tresbien…!」
「っ…たぁ…」
「はぁ…。熱くてとても美味だよ、カネキくん。濃厚でいてそれでいてしつこくなく、体に染み込む。何より、この香り…」

うっとりと月山さんが目を伏せ、しみじみと呟く。
その唇が少し赤くて、でもそれを見られたのは一瞬ですぐに彼の舌が拭ってしまった。
…ああ。
ちょっと喰べられたかも…。
凹凸複雑な耳の形を、血が流れる感覚がする。
ぼうっと見上げていると、月山さんと目が合って、目元を緩ませると顔を近づけてきた。

「mignon…」
「…ぁ」

その耳の凹凸に舌を入れられ、ぴちゃり…と露骨に舐められる。
だけど、今は耳の小さな痛みより快感が圧倒的に勝っているから、そんなに気にならない。
それに、半分喰種になってしまった僕では、血の匂いは感情を高ぶらせる甘さを感じてしまう。
ぎ…!と今できる精一杯の睨みをきかせて月山さんを見てみるけど、どちらにせよ彼は嬉しそうだ。
赤く濡れてる唇を自ら舐め、僕の味に極端に幸せそうな顔をしてから、上半身を近づけて僕に迫る。

「早く。…僕も我慢できない。お預けはお互い辛いだろう?」
「せ…性格…悪いですね…」
「君の魅力をもっと知りたいだけさ。…僕しか聞いていない。大丈夫。遠慮は無用だ」
「そ…。え? だって…そんなの…。わ、かん…な…ぁ」

耳や頬にキスされ、涙目のままひたすら狼狽える。
思いつかない。
月山さんじゃないんだから、こんな時にどう言えばいいかなんて分からない。
…ぁああ、でもこの熱をどうにかしたい早く欲しいさっさと動いてくれればいいのに!
頭の中が、欲情と羞恥に支配されてぐるぐる目が回る。
月山さんの好きそうな言葉?
何だろうそれ、そんなの考えたことない。
"トレビアン"とか?
そんなわけないし…。
じっとしているとぞわぞわが極まって背中を伝い、ぶるりと体が震えた。
出したい。

「…っ」
「今はダメだよ」

死ぬほど恥ずかしいけど、自分の手を硬くなっているその場所に伸ばそうとしたのに、手首を取り上げられてしまって泣きそうになる…ていうかもう泣いてるけど。
…けど、お腹の裏から押してもらわないと出せそうにないことは、もう解っている。
それで癖がついちゃっているんだ。

「は…、…っぁ…。だめ…」
「おっと」

後ろの口に添えられている熱が堪らなくて、少し腰を動かせて先端を中に促すけど、それすら許してくれなかった。
一度皮膚から離れてしまい、その後でまた物欲しそうに収縮している菊孔に熱を添えてくる。
あぁぁ…焦れったい。
ぞわぞわする。
おかしくなりそう、耐えられない…。

「ぁ…。月山さ…ん…っ」
「いい子だから焦らさないでおくれ。…それとも、このままずっと焦らしていて欲しいのかな?」

促すように、月山さんが僕の鎖骨に長いキスをする。
帰ってきてシャワーをあびたせいで、真新しいシャンプーの匂いが鼻にくる。
月山さんの手とか匂いとかで、体が熱を帯びる。
気持ち良さに息が上がって本当に苦しい。

「はっ、はぁっ…。ゃ…」

えっと…えっと……。
天井の細かい模様を見詰めながら、熱い息を吐いて朦朧とする頭で無いセンスを絞り出す。

「…えっと、じゃあ…じゃ…。…ぁ、ぼ、僕…に」

顔を見られながら誘いをかけるなんて無理だ。
腕を伸ばして月山さんに抱きつきながら、泣きそうになりつつもぼそりと耳打ちする。

「…月山さんを、喰べさせて、ください。……とか、で」
「ふふ。キュートだね。…精一杯かな?」
「ひぅ…」

ちゅ…と触れるだけのキスを軽くして、月山さんの体が少し浮く。
月並みな言葉しか出てこない。
自分の表現力の乏しさに泣きそうになる。
だって、卑猥な言葉なんてあんまり口にしたことない人生だったんだから、仕方ないじゃないか…!
どうしていいか分からず狼狽えている僕の髪に、月山さんが指を通す。
頭を横から支えるように添えられたその手に、何も考えず擦り寄ってしまった。

「まあいいだろう。…全く君は品が良すぎるね。そんな所も君の魅力だけれども」
「ぁ…。すみま、せ…」
「もっとも遠慮無く乱れたまえ。僕の前では品行方正でいる必要はない。我が侭でいておいで。夜は特にね。僕は、君の全てが見たいのだから」

さっきよりは離れてしまった月山さんの顔をぼんやり見上げて、何とか満足してくれたようなので、ほ…と安堵した。
羞恥が逃げるように引いていく。
指に溶かされて余裕ができた孔が、月山さんの熱を期待して疼いている。
ぼぉっとする頭を、まるで子供のように軽く撫でられて、再度腰を抱え直される。
口を開けて、上下する自分の胸を感じていた。
熱い。
体中がどきどきしている。
月山さんが僕の前髪を、掻き上げるようにして長い指で撫でた。
その指先が気持ち良くて、うっとり瞬きをする。

「さて。では存分にご堪能あれ、カネキくん」
「え…。ぁ、はい…。……こぼさないよう、がんばります…」
「…」

ぼんやりしていた意識で慌てて応えると、腿を支えていた月山さんの片手が一度止まった。
少し驚いた顔で僕を見下ろす顔に気付いて、彼を見上げる。
…?

「あの…。月山さん…?」
「…tres bien!」
「い…!」

突然凄絶に暗く笑むと、僕の腰を掴んで引き寄せた。
ぐっ…と入口が熱量に広げられる。

「…え、っうわ!? ちょ、な…ひ――ッ…!」

ゆっくり挿れてくれるかと思ったのに、急激な圧迫感と頭まで突き抜ける快感に、痺れて動けない。
じぃん…と四肢の先まで痺れが走っていく。
恥骨を、月山さんが指で撫でる。
熱くて苦しくていっぱいいっぱいなのに、撫でられたその場所だけふんわり甘く痺れる。

「ハ…。今のは…とてもいいよ、カネキくん!」
「ひ…ぁ…。はあ…っ」
「っ…。ふふ…そんなに欲しかったのかい? 吸い付くように締め付けてくる。狭くてとても心地良い。そうとも、溢さないようにしなければね。…さて。お味はいかがか…な?」
「…! 動っ…あっ、ぁっ待っ…や、だあ…!」

まだ熱が体に馴染まないうちから引き抜かれ、再び勢いをつけて動かれてしまう。
月山さんはもうとっくに僕がおかしくなる場所を知っていて、的確にそこを狙われてしまえば、為す術なく泣きじゃくるしかなかった。
強弱をつけて嬲られ、僕は僕で腰の振り方をすっかり覚えてしまっていて、だから彼に合わせることができてしまっている。
ゆさゆさと横たわる体が、シャツのなめらかさも手伝ってソファの上で上下に滑った。
気持ち良すぎて、何一つ抵抗できない。
快感の前には理性なんて脆弱だ。

「や、待っ…待ぁ、ひぁ、ぁ、んっ、ゃ、ああっ…!」
「ふ、ハハ…。君の中はいつだって柔らかくて熱い。蠢くその体内の美しい色彩を思い描くだけで、体が昂ぶる!…しかし…あぁ。悔しい。あの、あの女ァ…。僕のカネキくんに汚い手で触るなんて…何てッ常識無い!これだから嫌なんだ!!マナーの無い奴は!!」
「ひっ…!」

急に勢いよく抱きつき、月山さんが僕の肩を撫で回す。

「僕のだッ!これは僕のだぞ!!食していいのはこの僕だけだッ!そうだろう!?」
「っ…!」
「この汗の一滴までも僕のものだ!」

僕の肩に顔を寄せ、舌で汗ばんだ皮膚をねっとりと舐められる。
嫌が応でも発汗していた皮膚が、彼の唾液で濡れていく。
ぞくぞく背中が震え、彼を受け入れている場所がきゅっと締まった。
何度も同じ場所を舐め上げられ、痣どころかまるで黴のようになるまでキスマークをつけ、やがて満足したのか片手で喘いでいた僕の前髪を撫で上げた。
直前までの声とは打って変わって、甘い声で耳に囁く。

「可哀想に…。怖かったね。もうあのレストランに君を連れて行くのは止めることにしよう…」
「はぁ…は…、はあー…。…んっぁ」
「あぁ…この痺れる快楽は何だろうねカネキくん…。何度君を喰べても足りないよ」
「ふ…。…ぇ? な、ん……です…」

暫くがたがた揺すられて、やっと止まってくれてシャツを脱いだ月山さんが、僕の顔を両手で包んで上から、舌の平を合わせるようにねっとりとキスをする。

「何でもないよ。…いい子だ。口を開けて舌を出してごらん」
「…ふぁ」

開いていた口の中で絡み合い、まるで教えるようにゆったりと口内を舐められる。
噛み付かれることはなく、強引でもなければ痛くも無い。
ちゃんと僕に気持ちよさが広がるのを確認しながらキスしてるのが分かる。
ふんわりしていて優しく甘い。
敵意がないから、優しいから…だからどんどん、彼に許してしまう。
…お腹が熱い。
静かにしていれば、どくんどくんと脈が聞こえる。
汗だくになった体の中に、月山さんを感じる。
抱き締められて挿入されて、外も中も取り囲まれてくらくらする。
密着する体が熱くて心地良い。

「はぁ…、っ…」
「ん~…甘い…。極上だ。こんなに素晴らしいものはない。…誰にも渡さない。君は僕のものだよカネキくん。見せるだけは許してやるがね。皆が君の虜になるのは気分がいいから。…が、あげる気はないね。その目に映させてやることが、最大の譲歩というものだ」
「…。月、山さ…」

涙で濡れた視界。
キスの合間に名前を呼ぶと、少し乱れかけた横髪を指先で耳にかけていた彼が僕の頬を掌で撫でた。

「何だい? …ああ。君から動いてみる?」
「…肩…噛んでも…、い、ですか…?」

僕も、突然とても彼が喰べたくなった。
彼があまりに美味しそうに僕を食べるから。
…月山さんは嬉しそうに目を細めると、ゆったりと笑って僕に首筋を差し出してくれた。
肩よりも鎖骨上の首周りの方が、柔らかくて骨がさして邪魔にならず美味しいことは、勿論僕も知っている。
血管がすぐそこだ。
肉も軟らかくて骨からすぐ剥がれてくれるから噛みやすい。
血液の流れる甘い匂いが、皮膚の向こうから漂う。
ぴと…と月山さんの首筋に鼻を添える。

「召しあがれ」

くらくらする。
月山さんが笑う声が遠くで聞こえる気がした。
必死になって月山さんにしがみついてその首に噛み付く。
がぶりと噛んで肉を喰らえば、その後は血を啜れる。

「はあ…」

溢れ出る血で、べたっと口が濡れた。
…うわ。
おいしい…。
噛み締めるように口にの中に溶ける肉片を咀嚼して、唇で傷を覆ってこくこくと血を飲み、一度離してはさっきのお返しに舌を少し出して彼の皮膚を控えめに舐める。
血の甘さと皮膚の苦みが口に広がった。
細胞の溝に通ってしまった血を舐めようと、まるで空になった皿を舐める犬猫のように何度も何度も舌を這わせる。

「ン…ぁ…」
「…君の食事している姿は…本当に、興奮するね…。堪らない」
「ふっぁ…!」
「っ…は…。そういえば、そろそろ君の食事の周期だね…。上質の食材を用意してあげよう。…だから、また食事中の君を抱かせてくれるかい?」
「…っ」
「…おや。思い出して興奮したかな? 中が締まったよ」

月山さんの体を舐めながらも、いやいやと首を振る。
前にやられたとき、あまりの痴態に気を失ったから。
けど、きっと僕の主張なんか、今このタイミングじゃ正しく伝わってくれそうにない。
自ら身を寄せた僕を抱き直し、開いた足を支え直すと再び月山さんが幾度となく腰を進める。
ギシギシとソファが揺れ、体を貫かれながら不平等を思った。
僕も彼の体内に何か埋められやしないかと、今さっき噛んだ傷口に、抱きつく振りして肉を割きながら中指を入れる。
人の体内はあったかくて、無意識のうちに口元が緩んだ気がした。
口の中に残る満足感。
たっぷりのぬるま湯に、顎まで浸かったかのような気の緩む快感。
…ああ。
おいしい。
気持ちいいよ…。
月山さん大好き…。
我慢するとかしないとかじゃなくて、無意識にぎゅうっと目の前の体に抱きついた。
そういう気分だった。
どうすればいいか全然分からないけど、誰かが、耳元で…「そうしなさいよ」って言ってくれた気がして…。

 

 ――…。

 

「はぁ…は……」
「疲れたかい? …ふふ。前も後ろも、熱く溶けてきたね」
「…。…もっ…とぉ…」
「おや…」

顎を上げて彼の血で濡れた唇をぺろりと舌で舐め取り、けど、もう一度赤く熟れているその傷口にキスして自分もまた赤く濡らす。
子供のように小さくなって、構って欲しくて全身で甘える。

 

 ――…そう。そのまま彼に腕を伸ばして。

 

甘くて美麗な笑い声が、耳の奥から内緒話のように小声で囁きかけてくる。
力ないくたりとした腕で、月山さんを捕まえる。

 

   擦り寄って甘えてあげなさい。
   何だってやらせてあげるの。
   爪先着いて腰を浮かせてみて。
   ちょっとでいいのよ。できるでしょ?
   腿に力を入れて、彼を挟むの。直腸を締めて。根本まで誘い込んで深く呑み込んで。
   陰茎の先端に自分のお腹を擦りつけてあげなさい。
   大体はそんなことで喜ぶの。
   …ほら。簡単でしょ? 興奮されたの、分かる?
   ただこれだけでよ? 笑っちゃうわね。ふふ。
   もう何したって許されるわ。ほら、目を開けてみて。
   見てよこの馬鹿っぽく溶けた顔。
   もう"僕"に夢中。これぜぇーんぶあなたと"僕"のものよ。
   ちゃんと躾けないといけないわ。
   だってこの"僕"の隣に置いてあげるんだから。
   けど、まずは甘えてあげるの。分かるでしょ?
   調子に乗らせてあげないと、男は使いモノにならないの。
   簡単よ。だからもっと腰を動かさないとね。
   気持ち良くなりたいし、させてあげたいんでしょ? それでいいのよ。
   ――ねェ…?
   ――…。

 

「――…ふ、…ふふ」

目の前の胸に擦り寄って甘えていると、くすくす誰かが笑う笑い声が聞こえてきた。
押し倒されたまま背を反らせ、腰をソファから浮かせようとして、もう浮いていた。
それを支える爪先が痙りそうで、何だかとても面白い。

「あ…、あは。……はは」
「…カネキくん?」
「ん~? …あぁ。あハ…ん、…んあぁんもぉ……全っ然、足りないわぁあ…!アッハハハッ!!」
「…!」

ぼぉ…と月山さんの瞳を見つめて、首の所に擦り寄り、その喉仏を下からねっとりと舐めあげる。
ああ、喉の凹凸…すごくおいしそう。
月山さんだったら喰べてもいいわ、まずくても。
噛み千切って引っ張ったらきっと食道とかもずるりと出てきてそれで……いやけどまだ駄目だ。今日じゃない。
今日じゃないのよ、分かるでしょ?
誰かが僕の右手を動かして、彼の首にかけ、誘うように狭いソファの上で体を捻る。
左手で首の後ろを下から上へ…まるで見えない邪魔な長髪を払うように撫でて、その指で僅かに色を持っている自分の胸の飾りを、示すように添え、指先でピン…と弾く。
挑むように、誰かが目を細めて月山さんを見上げる。

「…こっちは食べないの? …小食なのねえ、月山くん?」
「…!」
「…ッ、ひ…!」

一拍おいて、ガッ…!と月山さんが僕の胸に吸い付いてきた。
微睡んでいた意識の中で、その時だけびっくりして逃げようとしたのに、一度びくりとするだけでそれ以上体が動かない。
強い力で吸い付かれて、じんじん痛いくらいに痺れてる。
ガリッ…と本気で肉共々胸に歯を立てられて、優しく触られたことしかない僕は本気で喰われるのではないかと恐怖に身を震わせた。
"やだ!"と上げた声は声にならない。口は開くのに。
噛まれて傷になり赤く染まるその場所を、今度は舌が優しく舐る。
片手でぎゅぅと無い胸を集められ、うっすら丘になった天辺の赤い乳頭は、僕のものじゃないみたいだ。
痛い。
滲みる…。
いつの間にか先端から溢れる液で濡れていた僕自身も、彼の広い掌で無茶苦茶に擦られ、快感に負けて腰が浮いてきてはピストンされている彼のものを締め付ける。
泣きそうなくらいには痛いのに、口から出るのは笑い声だけだ。
甲高い笑い声が喉から出て、けど訳の分からない感覚といつもと違う月山さんが怖くて、ぼろぼろ涙が溢れ出てくる。
恐い、気持ちいい、嫌だ、愉快ね。
――ああ…。
好き嫌いスキ冗談よ最悪気のせいよ止めて好キなお腹空いもっと擦らなで堪らな触頭撫で馬っ鹿みた――…。

「……ぁ…。ぅ、ぁああ、ア…っ」

体内がぐるぐるしている。
横たわる体を仰け反らせ、また月山さんを深く呑み込む。
ちょっとよく状況が分からなくて、パニクった頭はやがて考えることを放棄しだし、その分"彼女"が僕という無法地帯の主権を握る。
けど、僕は僕で微力ながらそれに抗う。
もっとやっちゃえと囁く彼女と、もう既に恥ずかしすぎてギブアップ気味の僕が混同する。
少し前とは逆に、獣みたいに力任せに抱いてくる月山さんが恐くて、僕はじたばた足を振り乱して嗤う。
全然優しくない。
いつもと触り方が全然違う。
僕のことを捕まえようとしてる。
怖い。けど、面白い。
確かにその二つが混在していた。
彼を払うように手を弾き、自分の両手で涙の溢れる顔を覆う。
僕のその手を奪おうと月山さんが手首を取るけど、またそれを泣きながら払う。
捕まっては振り払い、振り払うくせにしがみついてキスをする。
笑い声と涙だけが止まらない。

「あっは…!アハはハッは…!おぉっかしいぃ~ッ!!」
「っ…。ああっ、カネキくん…っ、カネキくん…ッ!」
「おいしい? おいしいでしょおっ? 可愛いなあ、もお!ふ、ふふ…ぁあっ、ぁ…やだ止めて月山さっ…ぅあ、痛い!痛い痛い痛いからぁあアッハハハハハッ!!」

まるでからかうように統一しない僕を捕まえようと、月山さんが妙に必死に僕を抱き締めキスをする。
あんまり可愛いから、クソまっずいけど、口を開いてまた傷口に噛み付いて少し中の肉を喰べてあげた。
グチャグチャと傷口を食べながら、彼の後ろ腰を指先で擽ってあげる。
まだお腹の中の異物が大きくなった気がした。
不意に耳鳴りがする。
キーン…ッという高音と同時に、ふ…と聴力による遠近感覚が失せて…。

「――」

誰かが何かを叫んで、直腸の奥に熱い液体が流れた気がした。
反応して収縮した体から一気に熱が放出され、僕の体が急に軽く弛緩する。
ぼんやり、涙で濁っている視界に映るものを眺める。
…。
…?
月山さん…?
漸く相手を確認できた頃には、頬を包まれてキスされていた。
ぴちゃ…と舌を絡ませる音がする。
そんな他愛もないことで、せっかく涼しくなりかけた下腹部にまた熱が集まり、投げ出していた爪先をソファの上で少し引いた。
頭の中で、くすくす誰かが相変わらず笑っている。

 

   ――上手じゃない。意外ね。

 

……本当?

 

   ――あら、本当よ。いい子ね。あなたも、彼も。

 

頭の中で応えが返ってくる。
…本当に?
本当にこれでよかった…?
ああ…でも、月山さんは嬉しそう…かも…。
荒い呼吸で、何度も僕の中へやってくる。
苦しそうなくらい切羽詰まってて、いつものように余裕はなくて。
必死で僕の名前を呼んでキスしてくるのが、何だか、ちょっと可哀想だけど…可愛く見える…。

「…」

止めよう…。
ふ…とそう思う。
疲れたし。
それにもう、すごく眠いんだ。
目を開けていられない。
月山さん、今日は恐いし騙されたし…僕はもう寝る。
好きにすればいい。
だから、今日の記憶はここで終了。
…いや。ここよりも少し前を最後に終了。
鬱陶しいの、嫌いなんだよね。
それじゃあ。
おやすみなさい…。

サク…と、銀色のハサミで本のページを切る音がした。


砂糖の致死量




「…」
「おはよう、僕のお姫様」

布団の柔らかい感触にしがみついて薄目を開けたまま、目の前の見知った顔をぼー…と見据える。
…うん。
月山さんだ…。
いつの間にかベッドにいた。
布団の柄やベッドの形とか匂いとか、そういうの色々考えるまでもなく、直感で月山さんの部屋だと分かるから、窓の配置も覚えがあった。
ちらりとそちらを見れば、かかっているカーテンの輪郭にまだ光はない。
薄い青白さがあるだけで、だからたぶん明け方なんだろう。
…眠い。
また目を閉じると、唇にキスが与えられる。
ちょっと鬱陶しい。
今は止めて欲しい。

「…」
「おっと…」

片手で月山さんを押し退け、彼に背を向けて布団をかけ直す。
体中…というか主に腰がだるくて重い。
頭だけは妙にすっきりしているけど、太股が確実に筋肉痛だ。
そんな気がする。何度かなったことあるから。
それが僕に羞恥を与える。
けど…昨晩のことを、やっぱりよく思い出せない。
また寝落ちしてしまったようだ。
横向きになった体で腕に赤い顔を隠し、無言で背中を丸めるけれど…すぐにぴとりと体温が背中にくっついた。
裸で抱き締められて、かあ…っと益々顔が赤くなる。
何も考えないうちに二度寝しようとしたのに、そんなことをされたら眠れない。
…翌朝なんて嫌いだ。

「朝一番に背中を向けるなんて…マナー違反だと思わないかい?」
「…っ」

意味深に掌が腿を撫で、朝で硬くなっているその場所を包む。
慌てて布団の中でその手を取って離させた。

「…いや、です…っ」
「嫌? どうして。もっともっとって啼いていたのは誰かな?」
「し、知りません…!」
「ふふ…。とても上手だったよカネキくん。積極的にもなれるじゃないか。興奮した」
「…へ?」

月山さんの言葉に違和感を覚える。
シャツ一枚での僕の殴り込みはかなり幼稚だったと思うのだけれど…あの程度で満足してくれたのだろうか。
だとしたら、かなり譲歩されている気がした。
期待されていない…とも取れる。
…。

「君があんなに誘い上手だったとは…新たな発見だね。今日はもう大学にいく気も失せたよ」
「…!」
「もっと隅々まで君のことを知らないといけなくなってしまったからね」
「い、いやです!い…っ、ぅぁあぁあっ…。ゃ、あ…めて…っ」

キスが耳のところに雨霰と降ってくる。
わざと音を立てて、耳の穴に舌を入れてくる。
逃げるように首を竦めて、布団を頭までかぶった。
ああもう…!
本当に止めて欲しい!
この朝のベタベタを、どう対応していいか分からなくていつも困る…!

「ぁ、明るいうちは、しません…!」

布団の中から必死に叫ぶ。
…喉ががらがらだ。
喉が支えている気がして、そのままごほごほと数回咳をする。
月山さんが笑う声がした。

「シュガーでありスパイスでもある…。君は最高だね」
「は…? …うわっ!?」
「絶ッッッ対に、手放さないよ!」
「んっ…!」

バッ…!と布団を払われ、逃げる間もなく顎が捕まってキスされた。
唇が重なったまま押し倒されるけど、両腕で押し返して、じたばた全力拒否する。
いつだってやられる一方だ。
ああ…。
手足がバキバキいってる…。
腿も痛いし、お腹の中に…その…まだ、違和感あるし…!

「やだ…!嫌ですっ、絶対嫌だ!すごく疲れているんです!」
「結構。では、今日は一日ここにいたまえ、Cheri!」
「ちがっ…嫌ですってば!」

もうこれ以上口にキスはされないよう、枕を引き寄せて顔を埋めるとそのまま俯せになり抱き締めた。
シーツもそうだけど、一晩ですっかり血を吸って殆ど赤茶色に染まっている枕の甘い香りと、人の腰に勝手に手を添えてそれとなく浮かせ膝立ちにさせようとしている月山さん。
迷惑な朝に、それでも僕はふんわりした幸福感を感じていた。


 


 





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