「桜庭、翼!来週の週末、ミュージカルを見に行かないか?」

レッスンの休憩時間、手持ちの荷物から四つ折りの跡が付いたチラシをオレたちに見せながら、輝さんがいつもみたいに溌剌と声をかけてくれた。
端に座って水分を取っていたオレたちは、揃って輝さんを見上げる。
ミュージカルのチラシだ。
演目は聞いたことがないけれど、前回三人で見に行った時はとても楽しかったから、オレの中でミュージカルはすっかり"楽しくて興奮するもの"になっている。
自然と手を伸ばし、輝さんからチラシを受け取った。
薫さんも横からオレの手元を覗き込むように少し顔を寄せたので、両手で持ったそれを片手にして、薫さんがもっと見やすいように持ち直す。

「わあ、いいですね!」
「前回ミュージカルの仕事が入った時、一緒に見てすげー参考になっただろ? だから、今回も事前に見ておくことは大切だと思うんだ」
「本当に参考になりましたよね。オレ、ミュージカルってあの時が初めてだったんですけど、舞台上の熱気って言うか…。声が響くと同時に、物語の雰囲気がパーン!と色を染めるみたいに会場全体に広がるっていうか…」
「だろっ? 俺たちもあれを目指して練習しているわけだが、ああやって肌で感じることも重要だよな!」
「ですね!」

まだ少し先になるけれど、またミュージカルの仕事をもらえている。
前回とは演目が違うけど、肌で体感するのは絶対必要だって、オレも思っていたところだ。
近いうちに休日を見つけて見に行くつもりだったけど、輝さんと薫さんと一緒に行けるのなら、勿論それが一番嬉しい。
やった。三人でまたミュージカル鑑賞ができる!
…ううん、ミュージカルじゃなくてもいいんですけど、仕事の延長線でも、時間を取って三人で集まれることが、オレはとても嬉しいし、楽しみだ。
必然的に夕食も取ることが多いから、つまりミュージカル鑑賞+ディナーを、きっと一緒に過ごせる。
オレと輝さんが鑑賞の必要性について同意している間に、薫さんはいつの間にかチラシを見るのを止めていて、自分の少ない手荷物の中から手帳を取りだしていた。

「スケジュールは空いているな…。君がどうしてもと言うのなら、付き合ってやってもいい」
「…!」

開いていたそれをパタンと閉じて、オレたちの方を向きながら、薫さんが了承する。
その受け答えを聞いて、オレは内心びっくりしていた。
おお…!
すごいっ。薫さんが二つ返事で"OK"だ!
…て言っても、他の人たちから見れば、きっと「今の受け答えのどこが二つ返事なんだろう?」って疑問に思われちゃうかもしれないですけど…。
無意識か意識的か分からないけど、こういう場合の返事って、薫さんよりもオレの方が先に受け答えをして、薫さんはどうしますか?ってオレか輝さんが聞いてから、最後に返事をすることが多い気がするから、今のは"珍しい!"って咄嗟に思っちゃうくらい珍しいことだ。
輝さんが、ごく自然な動作で薫さんの肩に手を置く。

「よっし!そんじゃ、桜庭は参加な!チケットは俺がまとめて取ってやるよ」
「重い。触るな」
「お…?」

さっと薫さんが一歩横に動いて逃げ、肩を触っていた輝さんの手がすかっと空に落ちる。
目の前で仲睦まじい二人のやり取りを見て、はっ…!と気づく。
…ちょっと待って。
これ、オレが身を引けば、輝さんと薫さんは二人っきりでデートになるんじゃ…。
口元に片手を添えて、瞬間的に色々考えてしまう。
薫さんが、こうして自分から「行く」って最初に言ったのは珍しい。
きっと、前回行った時が楽しかったお陰だろう。
一回目に三人で出かけた時は、最初本当に嫌々って感じだったから。
けど、今こうしてすぐに行くことを決めてくれたってことは、きっと輝さんやオレと一緒に出かけて、楽しかったと思ってくれたからに違いない。
そうじゃないと、もう一度同じく誘われたからって行こうとは思わないと思う。
特に、はっきりしている薫さんは。
もう一度オレたちに声をかけてくれた輝さんだって、きっと楽しかったからまた声をかけてくれたわけだし、勿論オレだって楽しかった。
また三人で行けるとしたら、何て素敵なことだろう。
でも、オレがここで行けないって言ったら、輝さんと薫さんは二人で出かけられる。
ちらり…と、輝さんと言い争っている薫さんを盗み見る。
…薫さん、オレのことも仲間だって認めてくれている。
三人で行けるってことになっても楽しんでくれると思うけど……輝さんと二人きりで出かけられたら、もっと嬉しいんじゃないかな。
最初は、考え方も姿勢もバラバラで、緊張していたメンバー。
けれど、最近はすっかり板に付いてきたと思う。
"仲間"っていう絆を、肌で感じる。
特に、薫さんがオレたちのことを認めてくれていることは、その言動で分かる。
時々びっくりしてしまうくらい、他人に対して良くも悪くも嘘をつかない人だから。
その薫さんが、悪い意味ではなく輝さんとの距離を測っているような気がするのは、オレの気のせいじゃないと思う。
少しだけ意地っ張りな人だから妙にこじれてしまうこともあるし、正反対の態度に見せてしまうことがあるけれど、それでも、輝さんへ歩み寄りを見せているような。
もっと直裁に言ってしまうと、薫さんから、輝さんともっと親しくなろうって思って近づいて、けどその度に上手くいかなくて苛々しているような…。
二人で出かけられたら、薫さんはその方が嬉しいかも。
それに、二人の仲が親しくなるのは、オレにとっても嬉しいことだ。
だってどちらもこんなに素敵な人なんですから、合わないわけがないです!
…ああ、けど、二人で出かけるように身を引くってことは、オレが二人と一緒にミュージカル見られないし、その後に話をしながら晩ご飯も食べられないってことで…。
でもその方が薫さんにはチャンスになるし…。
でも…。
けど……。

「ううう~…」
「…? どうした、翼。難しい顔して。お前も行くだろ?」
「あっ、え? えっと…!」

目を伏せてぐるぐると考えていたオレに、輝さんが問いかける。
急に問われて、考えがまとまらないまま、それでもさっとチラシを持っていない片手を前に挙げた。

「すごく行きたいんですがっ、あいにく、オレこの日は予定が入ってて!」
「行けないか?」
「は、はい…。残念ですが…」

オレがそわそわと断ると、輝さんは勿論、その向こうでペットボトルを片手に取っていた薫さんも、意外そうな顔でこっちを見た。
もしさっきの即答が無意識だったとしたら、オレが断ったことできっと、自分がオレより先に了承したことが希であったこととか、"二人で出かけることになる"ってことに気づいたはずだ。
両手を腰に添えて、眉を寄せた輝さんが残念そうな顔をしてくれる。

「そうかー。先約があるんじゃ仕方ないな。…じゃあ、今回は俺と桜庭で見に行くか。な?」

くるっと背後を振り返って薫さんに言う輝さん。
見て聞いてるオレの方が、ぱっと明るい気持ちになれる。
うんうん、そうですよね。
輝さんは勿論そう来ますよね!
結成当時は難しかったかもしれないけれど、今なら、薫さんもきっと――。
期待を込めて、オレも薫さんを見詰める。
輝さんに問われ、薫さんはいつもみたいに呆れ気味で半眼で答えた。

「同じことを二度聞くな。時間の無駄だ」
「確認しただけだろーがっ」

少しむっとして言い返している輝さんの後ろで、ぐっと胸中で拳を握る。
よっし…!
輝さんと薫さん、二人でおでかけだ!
オレは二人と行けなくなっちゃったけど、それでもふわふわした嬉しい気持ちになれたから、きっとこれでよかったんだ。
輝さんはすぐに誰とでも親しくできる人だけれど、他の大部分の人がそうじゃないように、薫さんが同じわけじゃない。
そんな人が、頑張って…っていうと薫さんに怒られそうだけど…歩み寄ろうとしているのを見ると、力になりたいなって思う。
輝さんはいつだってオープンな人だけど、薫さんは寄ってこられるとまず警戒と防衛に走ってしまう人だと思う。
それが悪いわけじゃないけれど、このタイプの人たちが仲良くなろうと思うには、警戒タイプの人が、警戒を解いて近づいていくことが必要ですもんね。
薫さんがその気になれば、輝さんと距離を縮めるのは簡単なはずだ。
いい切っ掛けになれるといいな。

「…♪」

満たされた気持ちが胸いっぱいに広がって、後半のレッスンはいつも以上によくできた気がする。

 

 

「――と言いつつ、ミュージカル鑑賞には未練があるオレ…」

誘いを断ったその日の晩。
寮に戻って、結局自分でこそこそと同じ演目の別日チケットを予約してしまう。
輝さんは日にちを明確に指定して誘っていたし、一週間後とか他の日だったら大丈夫だろう。
スマホの方にチケット購入のお知らせが届いたところで、ほふ…と息を吐いて、パソコンデスクに両肘を付くと、そのまま頬杖をついた。

「…オレも行きたかったなぁ」

小さく一人でぼやいてみる。
だったら、色々深読みしないで行くって言えばよかったじゃないか、って自分で思いもするけど……でも、輝さんと薫さんがデートだなんて、素敵だと思う。
北斗君は、オレのことを二人の間の緩和剤なんて思ってくれているみたいだけど、オレがいない環境だからこそ見えてくる関係っていうのも、二人にはまだまだあると思う。
…薫さん、嬉しいかな?
ああ。本当によかったなあ。
最初の頃を思えば、ユニットとしても一人の友人としても、絆を感じられる人がいる今の状態って、すごく恵まれていると思う。
自分で言うのも何だけど、オレたち三人、とってもいいメンバーだもの。
だから今回は寂しいけれど、一人で見て来よう!

 

 

 

 

 

席を取った上演当日。
空が明るいうちに入った建物は、ミュージカルを終わって出る頃にはすっかり暗くなっていた。
人がざわざわと外へ出て行く。
オレ、背が高いから立つとすぐに目立っちゃうし、人並みが収まるのを待ってから最後の方に出た。
こういう時の人の動線って大体決まっているから、なるべくそれを避けるように、正面玄関ではなく、建物の横にこっそり付いているような、知っている人は知っている的な小さな出入り口を選んで外へ出る。
会場から正面玄関、正面玄関から最寄り駅かバス停…と、そういうルートは勿論混む。
予めそれが予測できるようだったら、そっち側じゃない方に出ると動きが楽だ。
輝さんや薫さん程じゃないにしても、ありがたいことに、オレも呼び止められることが増えてきた。
嬉しいことだし、時間があったらオレだってファンのみなさんとお話したりファンサービスに答えてあげたいけれど、大体時間が限られていたり、交通の邪魔や他の方の迷惑になってしまうこともあるから、イベント外ではやっぱりあまりバレない方がいいんだなって学べてきた。
こそこそとはしないけど、流れとは反対側に動いて、適当な所でタクシーを停めよう。
建物を出て、街灯はあるけれどちょっと暗い、海の近い公園を、てくてく歩いて行く。
両手に持ったパンフレットを見下ろしていると、今見てきたストーリーと歌声が蘇るようで、顎を上げるとパンフレットを口元に添えて、目を伏せた。
…はあ~。
本当に素敵なミュージカルだったな~。
舞台俳優さんって、やっぱり全然違う気がする。
あの声量と溢れ出る情熱!
わっ!…って歌の山場にさしかかると、体の中からぐわって何かがステージの方に引っ張られるような感じがした。
あんなに情熱的で、来てくれたみんなを引っ張れるような歌声が、オレも歌えたら…。

「…って、ダメダメ。憧れに止めちゃダメだ。オレもそれをやらないと!」

ぐっと片手を拳にして、一人固く決意する。
一度やってみて思ったけれど、アイドル俳優って、ちょっと現場では様子見って雰囲気があった。
輝さんのオープンな明るさや薫さんの完璧主義な仕事ぶりで、その雰囲気はすぐになくなったけれど、やっぱりいつもああいう世界にいる人から見れば、オレたちの歌唱力とかパフォーマンスはまた種類が違ってみえてしまうみたいだし、やっぱり実際に違うんだと思う。
オレたちにはオレたちの歌い方とパフォーマンスのやり方があるけれど、今度の仕事はミュージカルの舞台なんだから、こうやって体で感動を得ることは、やっぱり大切だ。
輝さんに紹介してもらえて、本当によかった。
三人で見たら、きっともっと感動的できたと思うし楽しいと思うけど、「日を改めてオレも見たんですよ」って言えば、これでオレも二人の話題について行ける。
輝さんと薫さんが見に行く予定日は、オレよりもちょうど一週間後だったはずだ。
だからオレが先行して見たことになるけど、一週間は内容も見に行ったことも黙っていよう。
…さて、帰りに何処かに寄って、何か食べようっと。
お腹が空いちゃった。
折角夜に外出したんだから、このまま好きなごはん屋さんとかに寄って帰れば、後はお風呂にはいって寝るだけだ。
足取り軽く、人気のない公園を突っ切っる……と。

「…あれ?」

数メートル先の暗がりに、人影があった。
海側に面して設置されているベンチに、若い男性が一人でぽつんと座っている。
暗がりでよくは見えないけど……何だろう。ちょっと意味深な感じだなぁ…。
虚無感があるっていうか、暗いっていうか、訳あり的な雰囲気が出ている。
…。
悩み事かな…。
自殺とかを考えている人とかだったらどうしよう的な心配が、近づいてくる度に増していく。

「…」

この道を歩いて行くなら、彼の目の前を通ることになる。
内心どきどきしながら、少し俯き気味で近づいていったけれど、一定の距離まで近づくと、明らかになってきたシルエットに思わずぱちっと瞬いた。
癖のないさらさらの艶ある黒髪。
整った鼻の上に乗っている格好いい眼鏡。
全体的に細身のシルエット…。
…え、いやいやでも、そんなはずは――。
今までチラ見だったそのシルエットを、思わず直視してしまう。
直視する勇気さえ持ってしまえば、そうなのかそうじゃないのかは、すぐに分かった。

「ぇ…。…か、薫さん!?」
「…?」

俺の声に、薫さんもこちらを見た。
ぎょっと声を上げてしまったオレとは対照的に、オレが現れたことについて、薫さんは大して驚かない。
オレを一瞥すると、少し気が抜けたように肩を落として、指先で横髪を耳にかけた。

「ああ…。何だ、君か…」
「こ、こんばんは。…どうしたんですか、こんな所で。一人ですか?」
「……今の舞台を見てきたのか?」
「え? あ、ハイ」

オレが手に持っていたパンフレットを見て、薫さんがどこか投げやりに聞く。
薫さんが座っているベンチにはまだまだ余裕があるし、何となく隣に腰を下ろしてみる。
手に持っていたパンフレットを、薫さんの方へ差し出した。

「薫さんたちは来週でしたよね? その日は行けませんでしたけど、オレも見たくて、今日でチケット取っちゃいました」
「…。僕もさっきの公演を鑑賞していた」
「そうなんですか!? …あれ? でも来週じゃなかったですか?」

オレが尋ねると、薫さんはそこで一度黙った。
…?
何だろう?…と思った頃に、答えてくれる。

「…当初予定していた日の席が完売だったそうだ。日にちをずらした今日になった」
「なるほど。そうだったんですね」
「悪かった。考えたら、日付がズレた段階で、君に声を掛けることもできたというのに。他意はない」
「気にしないで下さい。たまたま忘れてしまうことだってありますよ。…それに、実はオレ、輝さんと薫さんで出かけるって、ちょっと嬉しかったんです。最初の頃を思えば、今ってオレたち三人、仲がいいなって、誇らしい気持ちになるんです」
「…。そうか」
「はい。…あ、じゃあ、輝さんも一緒ですか?」

わくわくした気持ちで、聞きながら首を上げて周囲へ視線を走らせてみる。
もし輝さんもいるのなら、三人でご飯に行ける!
しかも舞台も見たのであれば感想も言い合えるし、輝さんと薫さん二人の時間を過ごしてもらいつつ、オレの三人でご飯な理想も叶う!
ラッキーすぎるっ。オレってすごく幸せ!
ところが、輝さんを探してきょろきょろしていたオレを横目で見ていた薫さんが、間を置いて、ため息を吐いてから口を開いた。

「天道は帰ったぞ」
「えっ!?」

薫さんの言葉に驚く。
…帰った??
どうしたんだろう。急用でも入ったのだろうか。
けど、この薫さんの雰囲気からすると…。
輝さんを探すのを止めて、隣に座る薫さんの様子を窺う。
…それじゃあ、この何となく静かというか落ち込んでいるというか、そういう空気は輝さんとまた口論でもしたのだろうか。
けど、普通の口論だったら、こんな風にならないと思うんだけど…。
腹を立てている風でもないし、怒っていると言うよりは……考えている?っていうのかな…。
今何があったか聞いても、きっと答えてもらえない。
オレは体を少し薫さんの方へ向けて、なるべくいつも通りを意識しながら片手を少し開いた。

「それじゃあ薫さん、オレと食事に行きませんか?」
「…食事?」
「はい。オレ、まだ食べてないんです。お腹が空いちゃって」
「…」

視線を動かすことなく、薫さんはぼんやり正面の距離ある海…というか、もうすぐ海になる大きな川というか…の方を見ている。
このままじゃ断られてしまいそう。
少し焦って、瞬間的に色々考えてから、追って付け足してみた。

「オレ、最近疲れやすくて…。なかなか体力が回復しない気がしているんですけど、そういう時って何を食べればいいんでしょう。やっぱり、お肉ですかね?」
「…単純な肉体疲労の回復なら、乳酸を解しビタミンB1と鉄分を取るべきだな。君の言うとおり、牛肉やレバー、大豆などを摂取するといい」
「なるほど…。それじゃあ、お店はオレが決めますから、メニューは薫さんが決めてくれませんか? そうしてくれると助かります」

少し強引だけれど、早速ポケットからスマホを取りだして、付いてきてくれる前提でお店の検索をする。
オレがそうすることで、ようやく薫さんは顔を向けてくれた。
立ち上がって、オレを見上げてくれているその顔にそっと笑いかける。

「さ、行きましょう? この時間になると、お腹空いちゃいますよね」

――と、連れ出せたまではよかったのに…。

 

 

「り、りんじきゅうぎょう…」

寄ろうと思っていた最寄りのお店の入口に掛かっている札を、力なく読み上げる。
そんな…。
大盛りで値段もそんなに高くないし、何よりとっても美味しい大好きな店だった。
この辺りに来るのなら…って、ミュージカルと併せてとっても楽しみにしていたのに、今日に限って臨時休業だなんて。
ショックだ。
シャッターの下りている入口傍にある、料理の写真が載っている看板を手で撫でて、がくっと肩を落とした。
けど、すぐに後ろに薫さんがいることを思い出して、振り返る。

「すみません、薫さん…。ここ、オレのおすすめの店なんですけど、今日は臨時休業みたいです」
「そのようだな」
「歩かせてしまってすみませんでした。また後で一緒に来ましょうね。…じゃあ、他に適当なお店を……あ、ラーメン屋さんが向かいにありますが」

取り敢えず何か食べようと思って向かいのラーメン屋さんを指さしてみたけど、薫さんはそちらを一瞥しただけですぐに首を振った。

「賛同できないな。君の疲労回復を重視するなら、避けた方がいい」

おお…。
さっきオレが言ったこと、薫さんはちゃんと考えてくれているようだ。
本当にオレの疲労回復に適したメニューを選んでくれようとしているみたい。嬉しい。
確かに疲れを回復したいっていうのは本心だけど、さっきの場所から薫さんを動かしたいっていうのが第一の目的だたから、誘い文句だけってこともあったんだけど……こうやって本当に考えてくれていると分かると、「俺が言ったこと、大して気にしないでください。口実ですから!」とも言いにくい。
これは……今日はオレ、お肉を食べないといけない流れですねっ。
全然イケますけど!

「じゃあ、焼き肉とかステーキ屋さんを検索して…」
「あそこにあるのは違うのか?」
「え?」

振り返ると、薫さんが数軒先の灯りを見詰めていた。
オレもそちらへ視線を送る。
そこには、夜遅くまでやっている精肉店があった。
表通りから入っているとは言え、今の時間にまだ明かりが付いている精肉店は珍しい。
オレも何回か前を通ったことがあるけれど、確かにあそこは夜遅くまでやっているお肉屋さんで、しかもワニ肉とかカンガルー肉とか、そういうちょっと変わっている色々な種類の肉も売っているお店だ。
もちろん、普通の牛肉や豚肉もあった気がする。

「あそこは食べ物屋さんというよりは、精肉店なんです。変わったお肉を売っていて、結構遅くまでやっているんですよ。でも、店内で食べられる感じではないですから」
「そうか。君さえ良ければ、僕が適した食事を作ることもできるが」
「…!? 薫さん、ごはん作ってくれるんですか!?」

薫さんのごはん!食べたいっ!
思わず両手をグーにして力一杯聞き返すと、オレの反応に少し驚いて、薫さんが瞬いた後に難しそうに眉を寄せた。

「自炊はしている。簡単なものならば僕でも可能だ。天道 のように――…」
「…?」
「…。凝ったものは、できないが…」
「構いません!ぜひ、お願いします!」

薫さんの言葉が一瞬詰まった気がしたけど、その提案はオレにとっては手放しで嬉しいことだ。

「それじゃ、近くに僕の借りているマンションがあるので、そこでごはんにしましょう!」
「君の部屋? …君は寮ではなかったか」
「実は、倉庫代わりに、以前借りていたマンションをそのままにしてあるんです。オレ、荷物が多くて…。もう殆ど趣味の部屋になってるんですけど、料理して食べるスペースくらいはありますから」

どこかぼんやりしている薫さんを引っ張るように、まずはその明かりの付いている精肉店の方へ爪先を向け、片腕を開く。
足取り軽くオレが動き出すと、薫さんも付いてきてくれた。
夜の精肉店は意外と人が入っていて、ワニ肉とかもちょっと興味があったけど、買い物は薫さんにお任せして、オレの借りている部屋へ移動することにした。

 

 

お肉屋さんからさほど離れていないマンション。
事務所の寮が居心地いいから、自分が借りているマンションへ戻ってくる時間は少しずつ少なくなっていた。
「男の子のオモチャ箱をひっくり返したような部屋だな」…というのが、薫さんのオレの部屋に対する感想だ。
反論はできない。
寧ろ、的確だと思ってしまうかも…。
玄関を入ってすぐの靴箱の上には飛行機の模型が並んでいるし、部屋の本棚は航空写真や空の写真集が所狭しって感じで、宇宙のポスターや自衛隊のブルーインパルスのポスターなんかも貼ってある。
棚には飛行機のプラモデルが並んでいるし、いくつかの飛行機は透明な糸で吊って天井から邪魔にならない程度の高さに下がっている。
リビングの天井から下がっている紙でできた飛行機を見上げながら、小さなソファに座ってる薫さんがコーヒーカップを片手に小さく息を吐いた。

「天道の部屋が予想以上に整っていたのも意外だったが…。君もまた、君の印象と違う部屋だな」
「あはは…。好きなものはどうしても捨てられなくて…」

洗い物を終えて、オレもコーヒーカップ片手に隣に座りながらそれに応える。
オレ自身は、決して掃除や整理整頓が苦手な方じゃない。
現に、寮の部屋はそこそこ綺麗だ。
けど、大好きなものは捨てられなくて、ついついキープしてしまう。
本当は輝さんみたいに、フィギュアとか、ちょっとオモチャっぽいものがあっても格好よく見えるような大人っぽい部屋だったらいいんだけど、オレにはやっぱり難しいな。

「それより薫さん。夕飯、ご馳走様でした!」

改めてお礼を言う。
薫さんが作ってくれた本日のメインメニューは豚肉とナスの味噌炒め。
あとサイドメニューにサラダとかスープとか、市販の買ってきたものに一手間って感じだ。
よく噂は聞く気がするけど、体力回復にはビタミンB1と鉄分がいいらしい。
元お医者さんの薫さんが言うんだから、間違いないだろう。
かしこまった綺麗で豪華でおいしいメニューもいいけど、何にせよ手作りとできたてには叶わない。
オレたちの中では、料理と言えば輝さん!っていうイメージだけど、薫さんだってよく輝さんの横で手伝っているし、少なくともオレよりは手際もいいし知識も豊富だ。
てきぱきと作ってくれた炒めものは熱くておいしくて、ご飯が進みすぎた。
三杯目は「食べ過ぎだ」と言われてよそってもらえなかったのが、ちょっと残念。まだまだ入ったのに。
大皿で作ってくれたけど、あと一皿食べる気になれば余裕で入ったかもしれない。
けど、薫さんが自分用に盛った分の五倍くらいオレの皿にはあったから、やっぱりちょっと食べ過ぎなんだろうか…。
いや、でも薫さんはどちらかといえば小食…という程ではないにしても、普通よりちょっと少なめって感じだと思うから、余計にオレがたくさん食べて見えるだけって可能性もある。
ああ…、おいしかったな~。
思い出すだけで、唾液がまた口の中にたくさん出てきそう。
オレがお礼を言うと、薫さんは持っていたカップをソーサーに置いて足を組み替えた。
料理をしたので、タイを外して両袖を折り上げている。

「あれくらいは僕にもできる。…あとは、浴槽の中や風呂上がりに軽くマッサージなどで筋肉を解すといい」
「はい、そうしますね。やっぱり薫さんに相談して正解でした。今日はオレのごはんに付き合ってくれてありがとうございます。さっきのお店に寄って帰るつもりだったから、薫さんがいなかったら、しょんぼりしながらラーメン屋さんで済ませて帰ってくるところでした」
「そんな大それたことはしていないがな」
「いいえ、大それたことです。誰かとごはんが食べられるって、オレにとっては幸せ要素の一つなんです。だから、一人でおいしいお店の料理を食べることも好きですけど、知っている人とご飯を…しかも作ってもらったご飯を食べられる方が、もっと嬉しいですから」
「…」

ありがとうございますを伝えるオレを、何故だか薫さんは少し困ったような顔で見ていた。
ついと目をそらし、かと思ったら一呼吸置いてから、横目でほんの少し笑ってくれた。

「そうか…。まあ、喜んでもらえたのなら、よかった」
「…!」

薫さんが笑ってる…!
びっと思わず背筋が伸びる。
笑うっていっても、ほんのちょっと目元が緩むだけだけど、普段笑わない薫さんはその"ほんのちょっと"で印象が全然違う。
年上の男性にこんな表現は申し訳ないけど、かわいらしい笑みだから、オレの方もふんわりな気持ちになれる。
最初、帰り道で見かけた時は一体どうしたのかと思ったけど…少しくらいは気持ちが落ち着いてくれたかな?
薫さんが落ち込んでいると、オレも悲しい。
ミュージカルが終わってからあんな所で一人座っていたんだから、詳しくは分からないけど、きっと輝さんと何かあったんだろう。
でも、今はオレからは聞かないようにしよう。
話したいって思ってくれれば、薫さんや、それから輝さんが伝えてくれるはずだ。
だからオレは、二人が聞いて欲しいって思った時に、聞いてあげられるような環境を用意するのが役目だと思う。
…と、出過ぎちゃいけないなって思っていたけれど、他ならぬ薫さんの方から追って独り言のように切っ掛けの言葉が投げられる。

「…君とは平気なんだがな」
「…? 何がですか?」
「二人きりでプライベートを過ごすことだ。…君とは平気だが、天道とはもう懲りた。度々君を含め三人で出かけたことはあるが、それとはまた違うな。今日、彼と過ごしたのは誤りだった」

ため息付きで疲れ気味に吐き出された言葉に、驚いてすぐに否定する。
輝さんと過ごすことが誤りなんて、そんなことあるはずがない。
そんな言葉、聞いているだけで悲しくなってくる。

「そんなこと、嘘でも言わないでください、薫さん。オレ、悲しいです…」
「…」
「一体どうしたんですか? 輝さんと、喧嘩でもしたんですか?」
「喧嘩はしていない。ただ――何となくだが、虚しさを感じた」
「虚しさ?」

輝さんと一緒の時間は、薫さんにとって楽しいものだと思っていた。
直接態度に出なくても、少なくとも嫌なんてことはないはずだ。
だって、薫さんは輝さんのことが好きなんだから。
けど、それが"虚しい"なんてことになるなんて…どうしてだろう?
疑問が顔に出ていたのか、オレを一瞥してから、薫さんは敢えて素っ気なく目を伏せて告げた。

「…天道といると調子が狂う」
「狂っていいじゃないですか。たまには、いつもと違う自分も、いいと思いますよ?」
「だが、狂うのは常に周りばかりだ。天道自身は揺らがないだろう。…彼は、誰かの掌に収まる奴じゃないと再確認した」

それを聞いて、ああ…と思った。
それは、オレにも何となく分かる感覚だからだ。
輝さんは、本人がよく目標として言うように、夜空の輝く一番星のような人だ。
本人は目指しているつもりらしいけど、オレからすると、もう既に"そういう人"だと思う。
常にきらきらしていて魅力的。
誰もが彼を見上げて、あそこまで行って一緒に走ろうと、航海の道しるべのように駆けだしてしまう。
アイドルとしての"天道輝"を求めるなら、それでいいと思う。
けど、一人の人間として"輝さん"を好きになってしまった人にとって、彼との距離はとても遠く感じてしまうんじゃないだろうか。
今夜二人で出かけて、きっと薫さんは、改めて輝さんを好きだなと思ったんだ。
けど同時に、この人を得るのは無理だ…と思ってしまう何かがあったに違いない。
無理だなんて思わないで欲しい。
薫さんと輝さんはお似合いだと思うのに…。
オレの方も妙に感傷的になってしまって、ついつい言葉が零れてしまった。

「確かに輝さんは、誰かの腕の中や掌に収まる人ではないと思います。…けど、それならやっぱり、薫さんが輝さんの腕の中に落ちてみても、いいんじゃないですか?」
「……」
「ハ…! あっ、いえ…!すみません、あの…っ」

薫さんが驚いた顔でオレを見たので、はっとして慌ててオレも片手を口に添えて言葉を止めた。
うわっ…。
しまった。
言ってしまった!
今のは、薫さんは輝さんのことが好きですよね?って聞いているのと同じことなのに…!
どうしていいか分からなくて狼狽えたけれど、思いの外冷静に薫さんはソファの背もたれに背を預けた。

「……そんなに分かりやすいか?」
「え…」
「僕の好意は。やはり目立つのか」

その聞き返しに、今度はオレが驚いてしまう。
正面から言ったら、薫さんは絶対に全力で否定してしまうだろうと思っていたから言わなかったのに。
こんなにあっさり肯定されるとは思っていなかった。
予想外の反応にちょっとほっとしつつ、ぽつぽつと告げる。

「ぁ…いえ、それ程は目立っていないと思います…。外から見ると、やはり口論している印象の方が強いと思いますし…輝さんも気付いていないと思います。きっと、時間を一緒にしているオレだから気付けたことなんじゃないかな、って…」
「そうか。…では、もう少し気を付けることにしよう」
「……。あの…」

あんまり触れられたくないことだろうなとは思いつつ、触れられるとしたらオレだけだってことも分かるから、何とか感情の捌け口になりたくて、敢えて突っ込んでみる。

「焦らないんですね。その、言い当てられても…」
「そうだな。君だからだろうな。…君は、他言などはしないだろう?」
「もちろんです!」
「それくらいの信頼は君に持っている。気にするな。見透かされる僕が未熟なだけだろう。…そうだな。いい時間を過ごせると思っていた。君の予定が合わないことも、偶然とはいえ一歩歩み寄るにはいい機会だと思った。だが、現実はそう上手くはいかないな」

片肘をソファの肘おきにかけ、薫さんが指の背で目元を覆う。
自然と顔が俯いてしまっている。
こんなに分かりやすく落ち込んでいる姿を見るのは初めてで、何とか元気づけたくて、ソファの上で距離を詰めた。

「薫さん…。元気出してください。またチャンスはありますよ」

励まそうとしたけれど、更にふいっと薫さんは顔を向こうに反らしてしまう。
ソファと窓の間に置いてあった小さな丸テーブルの上にある、くるくる回る飛行機の振り子を、指先でいたずらに突っつく。

「どうだろうな。無い方が理想的のような気もする。……そもそも、僕は人に好かれる性格ではないし、幸い今のところ天道は僕を認めているようだが、ビジネスパートナーとして妥協しているのかもしれない。君だって、そのうち僕に愛想を尽かすかもしれない」
「そんなことありません!もう一緒にたくさんの仕事をして、壁にも当たって乗り越えてきたじゃないですか。今更、輝さんもオレも、薫さんのことを嫌いになったりしませんよ。寧ろ、薫さんは親しくなってよく知れば知る程、一緒にいたいって思えるタイプの人です。どっちかっていうとツンデレじゃないですか。ツンデレの人はお得なんですよ?」
「…。ファンにもよく言われるが、僕にツンデレの自覚はないのだが…」
「そ……ええっ!? それでないんですか!?」
「……」
「わ、わ…。す、すみません!拗ねないでください、薫さんっ。いいことです、いいことっ!」

ますます肘を置いている方へ体が傾いていく薫さんを、両手を出して宥める。
つ、ツンデレの自覚ないんだ、薫さん…。
それはそれですごい…。

「それじゃあ今夜は、輝さんと過ごせましたけど、楽しかった分少し寂しくなってしまったんですね…」
「まあ…。いや、いい。僕のことはもう――」
「それなら、何かをぎゅって、してみたらどうですか?」
「…は?」
「ぎゅっ、です。クッションを持つだけでも、いいって聞きますよ。こうやって…ぎゅ~!って」

寂しいのなら、ハグはどうだろう。
オレの横にあった、機内専用のクッションを両手で持って自分で抱き締めて見せてみる。
オレももやもやとした気持ちの時、よく何かを全力で抱き締めたりしているし、試してみてほしくて薫さんの膝にぽんと置いてみる。

「…」

けど、薫さんにはクッションを抱き締めるという行為はあんまりピンと来ないらしい。
たし…と片手をその上に置いてみるけど、両手でぎゅっという流れにはならないみたい。
何となく猫のような印象を受けるその様子を見詰めていたけれど……クッションじゃダメなのかな。

「嫌ですか?」
「…そうだな。ちょっと…」
「それじゃ、クッションじゃなくて、オレとハグしてみますか?」

両腕を薫さんに開いてみたけど、薫さんは何とも言えない顔でオレを一瞥した。

「君をか?」
「はい。ハグはストレス発散にもいいんですよ……って、薫さんなら知っていますよね。…あ、ほら。オレも人とハグするのは嫌いじゃないですし、お互いのストレス発散の為に。たまにはいいですよ、きっと」
「…ふむ」

口元に指を添えて、薫さんが考える。
…ダメかな?
と思ったけど、思いの外あっさり、薫さんは頷いた。

「確かに、そういった効果は実証されている。…そうだな。成人した男性としては取りにくい行動ではあるが、君がいいのなら、有効な手段だろう」
「はい、ぜひ!それじゃ、失礼しますね」

もう一歩分隣に近寄って、開いていた両腕で横からぎゅっと薫さんをハグする。
予想した感覚とは違ったので驚いて、わあ、と口を開けた。

「…何だ?」
「細いですね!」
「君と比べればな」

実際腕の中に収めてみると、オレの予想より一回り小さい感じだ。
おお…。
抱き心地がいいっ。
すっぽり感。
ライブとかの時に、肩を組んだりどーんと背中をたたき合ったり、がっと一瞬ハグしたりはするけど、こういうしっかりしたハグは輝さんとだってなかなかない。

「はあ~…。癒やされます~」
「そうか。よかったな。…とはいえ、これでは君が僕を抱いている状態ではないのか」
「はっ…!あ、そうもそうですね。オレはじっとしれいればいいですよね!」

薫さんに添えていた腕を、ぱっと離す。
ついついオレも抱き返してしまったけれど、薫さんが何かをぎゅってやってリラックスできればいいんだから、オレからハグし返す必要はなかったかも。
オレの方が体格がいいから、ついつい一方的に抱きつくみたいになってしまう。
距離を取ろうとオレが腕を降ろすと、片手で自分の襟をぴっと一度整えてから、薫さんがオレのシャツの背に指を掛けるように腕を回す。

「…」
「わ…」

一瞬前はオレが抱きついちゃったからそんなに感じなかったけど、薫さんがやんわりとオレへハグをする。
ハグっていうか"身を寄せる"ってくらいの軽さだけど、それでもちょっとした衝撃だ。
何でもないはずなのにドキドキしてしまうのは、きっと相手が薫さんだからだ。
ぐらりと、何だかオレの中の芯みたいなものが動いた気がした。
いや…でもそんなことない、と思い込む為にも、普通を装って薫さんに聞いてみる。

「えっと…。どうですか? 少しは落ち着きますか?」
「そうだな。気晴らしになった。礼を言う」
「……本当ですか?」

すぐ横にある薫さんの顔へ視線を向ける。
あっさりとしたお礼の言葉。
この方法で自分の気分が晴れるから、きっと薫さんもそうだと思って、少なくともそうなればいいと思って勧めた。
だけど、視線に入った覗き見える表情は、とてもそうは見えない。

「薫さん…。余計に悲しそうな顔してますよ…?」
「……」
「…ごめんなさい。逆に辛くなっちゃいましたね」
「…いや」

オレの肩に額を預けて俯く薫さんは、今にも泣いてしまいそうな表情をしていた。
間を置いて、薫さんが眼鏡の内側で静かに目を伏せると、はぁ…と小さく息を吐く音が聞こえた。
ぎゅっと胸が詰まる。
さっきまで感じていた浮ついたドキドキも、どこかへ吹っ飛んでしまった。

「すまない…。今夜はどうも気が弱く――…っ!?」
「失礼しますっ!」

反射的に、ばっと薫さんを横に抱き上げていた。
距離なんて殆どない隣のベッドルームへ入る。
部屋の灯りは切ってあるままだけど、発光するインテリアや星形の蛍光シールが部屋のあちこちに貼ってあったりするから、真っ暗というわけではない。
驚いている薫さんをベッドの真ん中に下ろし、両手を布団に着いてオレもずいっと茶室に入るみたいに膝で上がって、そのままベッドの上に正座した。
突然ベッドに運ばれた薫さんは、片手を後ろに着いて、怒ってはいないけれど不愉快そうだ。
ちょっとむっとしたその顔をさせてしまって申し訳なく思うけど、公園で見た時やついさっきみたいな悲しそうな顔よりはまだマシだ。

「おい…。急に何だ、柏木。僕は泊まる気はないぞ」
「いえ、泊まってください。今夜はもう遅いし、外は真っ暗ですよ。…それと!」

意を決して言ったせいで、少し声が大きくなる。
布団に着いていた両手を、その場でぐっとそれぞれ握った。

「こういうことは嫌いですかっ?」
「こういうこと?」
「はい。オレが薫さんを慰めてみせます!ご飯のお礼に、オレに薫さんを気持ちよくさせてくださいっ!」
「……」
「待って…!」
「…!」

しれっと薫さんがベッドから下りようとするので、その腰を勢いよく抱き締めて止めに入る。
再び中央へ引っ張り込もうとするオレと、ベッドヘッドを片手で握って前に出ようとする薫さんで、みしみしベッドが鳴った。

「離せ…!何を言っているんだ君は!」
「あんな寂しそうな顔されて、放っておけません…!薫さんは横になってくれていればそれでいいですからっ」
「僕にそういう趣味はない!第一、君にそんなことをさせるわけがないだろう!」
「どうしてですかっ!? 今の薫さんの気持ちを知っているのは、世界中でオレだけなんですよ? そのことで虚しとか寂しいとか思っているのなら、解消する為に協力できるのだって、オレだけですよ!」
「何を馬鹿な――…っ!」
「わっ!」

ぐぐぐとヘッドを握っていた指先が外れたみたいで、反動で、途端に薫さんの体がオレの腕の中に飛び込んでくる。
膝立ちになっていたオレも、薫さんをキャッチしたまま尻餅をついた。

「~~…」
「あ、あはは…」

思いっきり不機嫌な薫さん。
…けど、そのまま数秒、沈黙になる。
直前までの逃げだそうという素振りがないから、オレも離さずにそのまま背を向けている薫さんを緩く捕まえていた。
…何だろう。この感覚。
何というか、もう一押し!っていうのが分かる。
次に何を言うかで、薫さんがオレに任せてくれるのかくれないかが分かれるってことが分かる。
言おうとして、でもそれでいいのかと迷って、ぱくぱくと口が小さく開いたり閉じたりを繰り返す。
な、何だろう。
何て言えばいいんだろう…!
瞬間的に頭の中で必死に色々考えたけど、やっぱり伝えたい気持ちはさっき口にした通りだ。
薫さんと輝さんは、事務所の中では言い合っている印象が強い。
それでも二人の間に信頼があることを誰も疑っていないとは思うけれど、薫さんがもう少し輝さんと仲良くしてもいいかなって思っている…と、そこまでは思えても、そこに薫さんの恋心があるなんて、きっとまだ、殆どの人が思っていない。
よっぽど傍で見ていないと、薫さんの好意や優しさは分かりにくいから。
だから今、片恋で薫さんが感じている寂しさや虚しさを何のリスクもなく埋められるのは……それから、例え埋めたとして、薫さんのプライドを傷つけないのは、絶対にオレだけなんだっていう自負がある。

「…薫さん?」

ぽつり…と薄暗い部屋の中、腕の中へ、なるべく柔らかく声をかけてみる。
気持ちを込めて伝えたくて、静かに目を伏せた。

「気持ちを隠すって、きっとそれだけでストレスになります。…自惚れているかもしれませんけど、今、薫さんにこういう安心のさせ方ができるのは、世界中できっとオレだけなんです。…オレには、何も隠さなくていいんですよ。お願いですから、甘えてくれませんか? 力になれたら、オレも嬉しいです」
「――」

無反応…。
そのまま、十秒待ってみる。
心の中で「1,2,3…」と数えて、10をカウントし終わったところで、ぐっとやっぱり心の中でガッツポーズをした。
通った!…気がするっ。
そろりと一度腕を離し、薫さんの背に片腕を添えて、そのままそろそろと割れ物を扱うくらいのゆっくりとした手つきで薫さんを静かに横たえる。

「…眼鏡、外しますね?」
「……」

両手の指先で眼鏡に触れて、そっと顔から外す。
ずっと目線を横にしてオレと視線を合わせなかったけど、眼鏡を取った瞬間、視線をこっちへ向けてくれた。
薫さんは眼鏡を外すと、ぐっと優しく、また線の細い印象になる。
勘違いされやすい性格をしているから、いつも傍にいてちょっとでもフォローできればって思うけど、眼鏡を外すとそれよりももっとずっと端的に"守りたくなる人"になる。
サイドを折りたたんで、大切にベッドヘッドへ置く。
ギ…となるべくベッドが鳴らないように静かに体重移動をして、横たわっている薫さんを膝で跨がせてもらった。
右手の指の背で、薫さんの頬をするりと撫でて横髪を流して、一番上だけ外れているシャツのボタンを、プレゼントのリボンを解くみたいに二つ三つと外していく。
ベルトも外させてもらって、これでだいぶ楽になったんじゃないだろうか。
…ていうか緊張する。
初めての時より緊張してるかもしれない。
緊張するけど、本当ならもっと早く進めたい。
無言の肯定をもらえた時点で、わっ!と抱きついて始めたいくらいだ。
でも、そんなことをしたら薫さんを驚かせてしまうだろうし、ゆっくりやらなきゃ。
そう思って、実際ゆっくりと進めていくけれど、その分だけ不思議と息が上がってくる。
ゆっくりやらなきゃって気持ちと、早く早くって気持ちがこんがらがって、そわそわしてしまう。

「……」
「…意外と、雄っぽい所があるんだな」
「…!」

オレの行動を観察していた薫さんの言葉に、ぶわっと内側から熱い波みたいなのが四肢に広がる。
咄嗟に力任せに抱き締めて始めそうになった指先が何とか理性を思い出し、中途半端に飛び出しかけたその手をそろそろとシーツの上に一旦戻す。
あ、危ない…。
待て。ストップ。
落ち着け、オレ。
ああ、でもでも、どうしていいか分からないけど、とにかく嬉しいっ…!
思わずふにゃりと緩む頬を何とか制御しながら、我慢できなくてずいと顔を近づけて瞳を覗き込んだ。
急に接近してしまったから、薫さんは逆に少し顎を上げてオレから逃げるように枕に沈む。

「…そう見てくれているんですか?」
「は…?」
「オレ、薫さんから見て、ちゃんと雄っぽく見えてますか? だとしたら、すごく嬉しいです」
「…? 喜ぶような――…っ」

シーツの上で片手を握って、もう片方の手で頬に触れる。
ちゅっと鼻先にキスをすると、びくっと薫さんの肩が震えた。

「女の人っぽいとはまた違いますけど…。オレも今、薫さんがとってもかわいいなって思ってます。いつもは格好いいですけど…今はすごく可愛い」
「…可愛い?」

思いっきり眉を寄せる薫さん。
でも、今はその表情も可愛い。
きっと、今夜は何をしたって可愛いって感じるはずだ。
じりじりと、恐くないように精一杯雰囲気を読んでみるけれど、どうしても前のめりになってしまう。
薫さんが逃げないように頬を押さえたまま、そっと顔を近づけてみる。
一度でも、一瞬でも抵抗されたら止めるつもりだったけど、恐る恐る近づけた口は、多少体が強張ったくらいで、止まることなく唇へ触れた。
…うん。
嫌じゃなさそう。
キスしてから目を閉じて、一拍置いてからぐっと前へ押す。

「…っ」
「――」

そのまま、半ば押さえつけるようにして、オレもベッドへ俯せる。
近距離で漏れる吐息が聞こえるだけでぞわぞわする。
表面に触れるキスは大丈夫そう。
柔らかい感触に、ますます衝動が強くなる。
これが大丈夫なら、きっともう一歩踏み込んでも大丈夫…と思って、そのまま舌を差し出してみる。
唇の合わせ目を辿って、少しだけ開いていたそこへほんの僅か滑り込む。
薫さんの舌と触れ合った瞬間そのまま食べたくなるけど、それだときっと驚かせてしまうから、先を少し合わせる程度に止めておく。

「…!」

舌先で薫さんの舌を軽く舐めると、舌が逃げてしまった。
…あ、嫌なんだ……と思って、すぐに唇自体を離す。
ゆっくり眼を開くと、眼前にまだ目を閉じて顔を真っ赤にしている薫さんがいる。
眉間に皺が寄ってる。
難しそうな顔が、これもやっぱり可愛い。

「…嫌でした?」
「ゃ…。キスはいい…。不要だろう……」
「はぁい…」

やっぱりダメか…。
ちくりと胸が痛んだけど、ごまかすみたいに小さく笑ってみる。
けど、少し息があがってるみたいだ。
興奮してくれたかな。
昔からそうだけど、相手がキスで昂ぶってくれるのは嬉しい。
でもオレ、結構キス魔の自覚あるから……気持ち控えた方がいいかも。ついついやってしまいそう。
薄く開いた口内の赤に煽られて、もう一度すぐにキスしたくなるのをぐっと抑え、薫さんの腰へ片手を添える。
やっぱりオレのウエストよりもずっと細くて、内心ちょっと驚いた。
ちゃんと分かりやすくくびれがあるのがすごい。
オレもそうだけど、男の体ってこう…すとーんって感じで…。
触ってみたくなって、掌で横腹を伝っていく。

「…ぁ」

そのままシャツの下へ片手を入れて、肌を撫で上げながらシャツをあげていくと、薫さんが慌てた顔でオレの肩へ片手を置いた。

「ちょ、ちょっと待て。急かしす――」
「すみません」

焦る薫さんに謝りながらも、今更止められない。
ふにゃふにゃ顔が緩む。
まずい、オレ今変な顔してるかもしれない。
…ああ。でもいい匂い。
他の人がどうかは知らないけれど、好きだなって人からはとてもいい匂いを感じることが多くて、今はそれだ。
可愛い。薫さんが焦ってる。
いつも頼りになるクールな薫さんだけど、今はオレに可愛い顔を見せてくれている。
もっと色んな顔を見てみたい。
どうしよう。
我慢できないかもしれない。
せめてがっつかないようにしなきゃ…。
なるべくゆっくりを意識して、下からシャツのボタンを外していく。
首筋に上からキスするオレから顔をそらしながら、薫さんが不満そうな声を零した。

「…"すみません"に反省がないようだが」
「あはは…。そうですね。煽られちゃって…余裕ないです」
「誰も煽った覚えなどないのだが…」
「はい。オレが勝手に煽られちゃってるんです。ごめんなさい。薫さんに触れているだけで、オレも気持ちがいいです。…薫さんも、気持ちよくなれればいいけど」

シャツのボタンを外していき、襟まで外して左右に開く。
体のラインを確かめるみたいに中に着ていたインナーをたくし上げる途中、親指の腹で胸の突起を撫でると、ぴくっと薫さんが顎を引いて目を瞑った。

「ッ…」

男の人相手は初めてだから、正直よく分からない。
触って反応しやすいのは、たぶん単純に下半身だと思う。
けど、そこだけ触れて出して終わりっていうのは…薫さんはもしかしたらそれをイメージしているかもしれないけど…オレは、それじゃ嫌だな。
さっきのキスもそうだけど、他に何か…ただそれだけじゃなくて、何て言うか、心も解して気持ちよくさせてあげたい。
…とはいえ、肝心の下半身に触らないと、硬くもならないかも…。
何気なく途中、片手を脚の間へ伸ばし、パンツの上からそっと触れてみた。
全然かなと思ったけれど、掌に僅かな硬さを感じて、ほっとした。
服越しとはいえオレが下半身に触れたので、かっと薫さんの頬が染まり、オレの手首を掴んで身を起こしかける。

「待て、柏――」
「ダメですっ。寝ていてください!」
「…!」

起き上がりかけた薫さんを、片腕と上半身でやんわり押さえ、また枕へ戻す。

「寂しいとか虚しいなんて言ってる暇があるのなら、今夜はオレに甘えてください…って、言いましたよね? 感じてくれているのなら、オレも本当に嬉しいですから」
「っ…」
「ね、そのまま。…そのままで」

片手を添えたその場所を指先で撫でながら、再び胸の突起を弾くと、途端に薫さんの手から力が抜ける。
さっきも気持ちよさそうに見えた。
何か他の場所で気持ちよくできるヒントはないかと表情を見ながらだったから、すぐにその反応に気づけた。
触って反応してくれるのなら…と思って、上げたインナーの下ですぐに顔を寄せて、舌を出して今触った胸を数回舐め上げる。
下半身を弄る手と併せて、その場所を唾液で濡らして軽く口に含んで吸ってみた。

「ぁ…。…っ」

眉は寄ったままだし目線を逃がした状態だけど、確かに薫さんから甘い声が零れてくる。
その表情を観察しながら、何がいいのか探りながら肌を撫で、舌で濡らして痛くない程度に吸って刺激する。
やっぱり、乳首感じるんだ。
…可愛い。
ぽぉっと頭の中がぼやけてくる。
薫さん…聞いたことないけど、彼女とかいたことがあるのかな…。
普通に考えたらいないなんてことないと思うけど、こんなに敏感で反応が可愛い人が、女の人を抱く側だったっていうことに得体の知れないぞくぞく感を覚える。
きっと、女の人の前ではすごく格好いいんだろう。
きらきらしているに決まっている。だって薫さんだ。
けど、だからこそ今のこの受け身状態の薫さんを見たことがある人なんて……もしかして、今はまだ世界中でオレだけかもしれない。
そう思うと、かーっと体が熱くなってくる。
続けるうちに、段々薫さんの表情も緩んできたようだ。
零れる声も増えてくるけど、それでも手の甲を口に添えたりして押さえている。

「ぅ、あ…」
「ぁ…声、出しても大丈夫ですよ?」

もっと聞かせて欲しくて、横からお腹に乗り上げている状態で、薫さんを上目に見上げて微笑みかけてみた。

「両隣、空いているみたいですから」
「…!」

言いながらシーツに片肘を着いて、くっついていた上半身を少し起こす。
起こしながら口を押さえていた薫さんの手を取って退けてもらい、顔を寄せて伸び上げるように、またキスをさせてもらった。
必要ないとは言われたけど、怒るほど嫌でもないみたい。
本当は舌も入れたいけど、それは我慢することにする。
子供みたいな表面に触れるだけのキスなんて久し振りだ。
おかしな話だけど、何だかこっちの方が"きれい"な気がして、薫さんにはいい気がした。
二度三度、微妙に逃げが入る顔を追いかけて交わして、鎖骨を少し甘噛みして、満足した頃に膝立ちになり、オレも腕をクロスして着ていた上の服を一気にばさりと脱いだ。
ボタンもチャックもついていなかったから、頭から脱ぐしかないんだけど…。
ベッドの上でどこかとろんとしていた薫さんが、オレが服を脱ぎ払う頃には、少し驚いた顔でオレのことを見ていた。
目が合う。
目が合うだけで、ぐんとまた自分の中で熱が上がる。

「…薫さん――」

薫さんを気持ちよくさせるだけなら、オレが服を脱ぐ必要なんてない。
だけど、せっかくこんな機会だもの。
少しでもこの人の体温を、オレも感じたい。
間に服なんて、邪魔なだけだ。
そんなに隣にいるのに、好きな人に腕が届くわけがないから近寄らないようにするなんて、そんな寂しいところにとても一人で置いてはおけない。
本命が他にいても構わない。
だって輝さんは素敵な人だ。
今までの人生で出会った中でも、断トツに心惹かれる人。それはオレも同じだ。
強力な引力みたいなもので、人の作った壁を取り払ってぐいぐいと引っ張り込んでいく、輝きの強い人。
薫さんが心惹かれるのだって当然だ。
邪魔なんてしない。
だって、輝さんのことが好きな薫さんが、薫さんなんだから。
薫さんの恋は薫さんのもの。
それで、オレの恋はオレのもの、だ。
こんなに真面目で純粋で可愛い綺麗な人なんですから。
目の前で寂しがっていたら、放ってなんていられない。
両腕で思いっきり抱き締めて、オレがいますよ、大好きですよって、伝えたい。

「…」

目を伏せて、はあ…と一度大きく息を吐く。
それから、ゆっくり眼を開いた。
油断すると勢いに任せてしまいそうな自分が分かるから、なるべく優しく柔らかく、組み敷く薫さんに声をかける。

「本当にされて嫌だったりダメなことは、"ストップ"…って、言ってくださいね。絶対止まりますから。…でも、」

シーツを握っていた薫さんの片手を取り、ぎゅっと握る。
目を伏せて、そのままその手の甲へ甘えるように額を押しつけた。
どうかどうか。

「嫌じゃなかったら……お願いです。何も言わないでください。それだけでいいですから。…今夜は、オレと一緒にいましょう?」

 

 

ギシギシとベッドが鳴る。
オレが膝立ちになると、ほんのちょっと動くだけで「重いよ!」って、ベッドの悲鳴みたいにそれが響いた。
壊れるんじゃないかと一瞬心配になったけど、本当に一瞬だけで、もう今はどうでもいいかもしれない。
壊れたら壊れたで、もう少し大きくて頑丈なベッドを買うのもいいかもしれないし…。
少なくとも、いくらベッドが軋んで壊れそうになったって、今目の前にある幸せを中断するなんてできない。

「ん…。っ……はぁ…」

我慢する声がぽろりぽろりと零れてきて、聞き漏らさないぞって耳を澄ませる。
薫さんの甘い声は脳に響く。
一定間隔でずっと聞いてると、何も考えられなくなっちゃいそう。
上半身の服を脱ぎ捨てたオレとは反対で、薫さんは着崩したシャツはそのままに、下を脱いでもらってしまった……というか、オレが取り払ってしまったんだけれど。
体を横に向けて両腕で思いっきり枕を抱いて、そこに顔を押しつけている薫さんを後ろから抱き締めながら、ローションで滑りのよくなった前を握って刺激し、同時にアナルを指先で撫でてみる。
オレ相手で勃つかどうか心配だったけれど、前戯である程度反応してくれていたし、第一、直接触って反応しない男性は、滅多にいないと思う。
最初はいつ"ストップ"になるかと思って恐る恐るだったけど、続けていくうちにもっと声が聞きたくてついつい手が早くなってしまった。
薫さんも、段々我慢できなくなってきているというか、声が抑えられなくなってきたというか…最初の頃より、オレのやることにちょっぴり素直に反応してくれるようになったような気がする。
目の前にある髪とうなじから、甘い匂いがする。
鼻先を黒い綺麗な髪へ押しつけるだけで、オレも反応してしまう。

「っ…ふ…。く…」
「はあ……。薫さん…? 気持ちいいいですか?」
「……」

問いかけてみても、返事はない。
でも、早くなる呼吸と掌の中の反応は見せてくれるし、今だけは、無言は肯定だって考えることにする。
…男の人を好きになったのは初めてだから、オレ自身の気持ちもどういうものか分からなくて不安だったけど、実際に抱き締めてみて、全然問題なんてなかった。
どうしよう。
薫さんを気持ちよくさせるのが目的だけど、最後までって思っちゃう…。

「人の触るのって初めてで……どうなんでしょう。気持ちいいといいけど…。こうしてほしいとかあったら、言ってくださいね。…ぁ、でもオレ、こういうのちょっと久し振りで…。オレの方が気持ちよくなっちゃいそうで――」
「――ッ」
「わっ…!」

会話まぎれに、ずっ…とアナルへ指をちょっとだけ差し入れると、びくっと薫さんが震えて枕から顔が浮いた。
指がローションで濡れていたし滑りはいいから痛くはないんだと思ったけど…やっぱり痛かったかもしれない。

「す、すみま――!?」

枕から浮いてようやく見えた薫さんの顔だけど、目溜まっていた涙がその拍子にぽろりとこぼれ落ちてたのが見えて、ビクゥッ…!と全身が総毛立った。
な、泣かせちゃった…!?
ばっと両手を離し、背中から薫さんの肩へ片手を添えて、もう片方の腕でお腹を抱き締める。
顔をよく覗き込むと、眉を寄せて痛みに耐えるような顔をしていたので、必死になってその頬から指先で涙を拭った。

「ご、ごめんなさいごめんなさい…っ!痛かったですか!? すみません!!」
「……。君、は…」

オレと目線を合わせないまま、荒い呼吸の合間から、薫さんが声を振り絞る。

「僕に…欲情しているのか…?」
「え…」

今更の問いかけ……に思うけど、薫さんからすれば今の今、確信が持てたのかもしれない。
寂しいのなら…って薫さんの自慰を手伝うとかいう名目だけど、普通はやっぱりなかなかそんな話に発展しないし、よしんば今日みたいにそういう流れになっても、雰囲気で硬くなるのはともかくとして、アナルに指を入れようとした段階でそれはかきあいじゃなくなる。
何か自然とやっちゃったけど……当然だ。
抱き合おうなんて思わなければ、男の人のそんな場所に指なんか入れるわけがないんだから。
一瞬、口がごまかしかけたけど、止める。
薫さんに嘘は吐きたくない。

「……はい」
「…」
「薫さんがオレの手で気持ちよくなってくれるの、嬉しいですし、興奮します。…感じてくれている姿が綺麗で可愛くて……オレも男ですから。可愛いなぁって思うと、あとこういう雰囲気だと、どうしてもそうなります…。さっきも言いましたけど、こういうの最近なかったですし…」

小さな声で白状する。
好きだ、とまでは言えなかった。
白状してこの後どうなるかは分からないけど、だって今それを言ったら、どうなるか分からないじゃなくて、絶対に「止める」って言うはずだ。
今自分の体に触れている手や指に本気の気持ちが入ってるって知ったら、真っ直ぐな薫さんはきっと途端に汚らわしく感じてしまうんじゃないかって思う。
上手く説明できないけど、きっとそうなんじゃないかな…。
…ちくちく胸が痛い。
"嘘は吐きたくない"とか直前に思っておいて、好きだって気持ちは隠してる。
声のトーンが下がっていくオレに気づいたのか、間を置いて、今まで背中しか向けていなかった薫さんが、ふ…と僅かにオレを振り返った。
近距離で目が合う。

「――まさか…僕を抱きたいとでも?」
「――」

思考が止まってしまった。
だって想像して欲しい。
眼鏡を外した素顔の薫さんが、白い肩の向こうでとても弱々しい困ったような顔で、枕を抱いたまますぐ鼻先でこっちを振り返ったんだから。
少し乱れている息とか、ほんのり解けている顔とか…。
我慢できなくて、頭が真っ白になる。
スイッチが切り替わった気がした。
真っ白になった頭からの指揮がなくなって、薫さんを見詰めたまま、口が勝手に動き出す。

「ぁ、の――…練習に、なるんじゃないかな…って…」
「……何?」
「オレ、練習台になります。オレなら、薫さんの気持ち知っていますし、絶対に誰にも言いません。適任だと思いませんか? いつかきっと、輝さんとこういう関係になる日が来るんですから」
「……っ」

薫さんの顔が、かあっと耳の先まで赤く染まる。
それが自分に対する反応じゃないと分かっていても、こうして誰かを好きな薫さんが可愛くて、その相手が輝さんなんだっていうことがやっぱり何だか嬉しくて満足で、でも今こうしているのはオレで…今の全ての要素が、興奮せずにはいられない。

「…っ」

もう一度そろりと手を伸ばして、硬くなっている薫さんの下肢へ触れてみる。
ぴくっと反応して、薫さんがオレの腕に片手を添えたけれど、止めろと主張するジェスチャーとしては、全然力が足りない。
掌で包んでゆるゆると上下に扱って、カリの裏を指の腹で擽る。

「ん…」
「ですから…どうでしょう。あの…少しだけ、やってみませんか?」
「…い、や…ぁっ…だが…」
「嫌だったり痛かったら止めましょう? ね、薫さん」
「ゴムも、ない…っ状態、で…っは…、男性、同士の…っ性交は――」
「大丈夫ですっ。オレ、持ってます!」
「持…」

片腕を伸ばしてベッドヘッドに付いている小さな引き出しを開ける。
たくさんは入ってないし実際そんなに使う機会もなかったけど、入れっぱなしにしておいてよかった。
背中を丸めて、閉じ込めるみたにぎゅぅ~っと思いっきり薫さんの背中に抱きついて、髪に頬ずりして甘えてみる。

「………本気か?」
「本気ですっ」
「…。どうしてそこまで…」
「薫さんが、オレを信頼して正直に教えてくれたからですよ。オレにできることなら、何でも」
「……」
「なんて…。正直、オレも気持ちよくなっちゃって…」

冗談めいて小さく笑ってみるけれど、それきり、また薫さんは沈黙してしまった。
薫さんの手が触れている場所が、じんじんと熱を帯びる。
…さっきは突然入れてしまって驚いたみただから、今度は入れずにアナルの入口を撫でてみる。
前に触れながらそろそろと中指の腹でアナルに触れるくらいなら、痛くない…はず。
ローションで濡れた指を往復させると、ぴくんと薫さんが目を伏せて肩を上げた。
首筋や耳の後ろを舐めたりしながら繰り返しているうちに、入口が柔らかくなった気がして、ゆっくり少しだけ指を入れてみると、本当に先っぽだけだけど、さっきよりもずっと柔らかく入った。
さっきは殆ど無理矢理押し込んだって感じだったけど……本当に入るんだ。
ぽーっとした頭で、ぼんやり実感する。
すごい。
女の人なら分かるけど、男の人に指がこんなに柔らかく入るとは思わなかった。
同性のパートナーの人もいるって話は聞くけど、周りにそんなにいなかったし、具体的に想像も難しかったけど……それじゃあ、もっと解せば、やっぱり本当に男の人と抱き合えるんだ。

「……」

熱い息をしながら、ちらりと視線を上げる。
オレの与える快感に戸惑いながらも感じてくれていて、それに必死で耐えている、腕の中の薫さんを捉える。
…じゃあ、現実的に、本当にこの人を抱くことができるんだ。
一度そう思うと、更に欲情が沸き起こってしまう。
薫さんに「ストップ」とか「痛い」とか、絶対言われないように、時間をかけて後ろを解していった。
最初は人差し指の先が入るか入らないかだったのに、気づけば指の中程まで入るようになって、やがては驚くことに人差し指と中指が入るようになる。
女の人みたいに愛液が出るわけじゃないから、もちろんローションのおかげだろうけれど、それでも今まで男の人とこういうことをしたことがないオレからすると、感動っていうか、感心してしまう。
それに、ちょっと経験がないことだから、単純に興奮もする。
でもそれよりも、もちろん、好きな人ってことが大きい。

「わぁ…」
「っ…。ン、ぁっ…」
「段々柔らかくなってきましたね。…すごいんですね、人間の体って」
「…ん」

時間をかけているからだけど、指が二本、三分の二くらいまで入る。
これくらいなら…。
ろくに考えず、そのまま中に入れた人差し指と中指を、ぐっと中で左右に開いてみる。

「っひ――!」
「…!」

途端、抱き締めている薫さんの全身がガクンッと引きつった。

「す、すみません…!!」

慌ててアナルを広げるのを止めて一本に戻して、またゆるゆると抜き差しする。
もうダメ!って言われちゃうかもしれないと思ったけれど、その一言は薫さんから出て来なかった。
…よ、よかった。
でも、もう開くのは止めよう…。
薫さんは優しく撫でてあげる方が好きみたいだ。
ちょっと痛いのとか刺激的なのが好きな人もいるけど、そういうのは止めておいた方がよさそう。
背中からぺっとりくっついて、唇じゃない一方的なキスを、耳や首や肩とかあちこちにたくさんして、すっかり硬くなっている前や柔らかくなってきた後ろへ、丁寧に触れていく。
触るごとに甘い声が零れて、目を伏せてシーツにくたりと横たわりながら感じる姿が本当に可愛い。
感じ方も静かで、その静かさが、抱く側にもっともっと声が聞きたい!反応させたい!って思わせる。

「はぁ…。っ……ぁ…」
「薫さん…、薫さん…」
「……かし…わ ぎ――」

夢中になって薫さんの体を解していると、やがて、そっと薫さんの片手が折れの腕に触れた。
中を解していた手を止める。
…ああ。
もうこれ以上はダメかな……なんて瞬時に思ったけど、触れた手が、ぎゅっとオレの腕を腕を掴む。
すぐに言葉が来なかった。
どういう意味なのか、分かりかねて、そのまま止まった状態が続く。
本当はストップって言われる催促なんてしたくなかったけど、数秒沈黙が続いたから、我慢できなくて、オレの方からそっと声をかけて言葉を促す。

「…薫さん?」
「……。も…」

名前を呼ぶと、枕を握っていた薫さんのもう片方の手が、ぎゅっと強くそれを握った。
流れるような黒い髪の間から見える赤い頬の上で、涙目がこっちを捉える。

「もう…、もういい…。も…」
「ぇ…」
「限界……だ。は…早く…」
「――…ッ」

ぼっ!と、顔が真っ赤になったのが自分で分かった。
え、えっ…!?
そ、そんなこと言ってくれるんですか…!?
嬉しいんだけど、嬉しさがちゃんとついてこられないくらい嬉しい!…ってああもう何言ってるか自分でも分からない!
どうしよう!熱がでそうっ!
は、早くって言われた…っ。
わたわたと、薫さんから指を抜く。

「ッん、あ…っ」
「わ…!」

指を抜いたのが急すぎたみたいで、比較的大きな薫さんの甘い声が上がった。
オレの方がびくっとしてしまう。

「ご、ごめんなさい…!」
「ちょ…、急に抜く……うわっ!」
「~~…っ」

とても我慢できなくて、ばっと横になっている薫さんの脇下に後ろから手を入れて、一気に持ち上げた。
体を起こしながら薫さんにも起きてもらって、胡座をかいた所に降ろさせてもらうと、後ろからぎゅううううっと全力で抱き締める。
顔を目の前にある左肩に押しつけて、両腕で思いっきり、中途半端にシャツの開けている薫さんを腕の中に捕まえる。

「な…」
「ぉ…オレももぉっ、限界ですっ。薫さん…!」
「…ちょ、ちょっと待て。おい、柏木――」

ぎゅうっと抱き締めてくっついていた状態のまま、腕だけ前に伸ばして、薫さんの脚を抱える。
膝裏を持たせてもらって少しだけ持ち上げると、ずる…と顎の下にあった薫さんの頭が、胸の辺りに下がった。
けど、抱き上げられる。

「ゃ…何考えて……いや、流石にこの体勢は無理…というか、違…出すだけでい――…柏木? おい、待て。身体的にも衛生的にも君と最後までするのは……うわっ」

腿の裏を掴んで、ぐっと薫さんを持ち上げる。
アナルの先に、硬くなったオレの先端を宛がう。
指二本なんかと比べるとまた大きさが違うけど、あんなに解けていたのだから、全然入らないってことはないはず。
ちょっとでいい。
とにかく、本当にちょっとでいいから…っ。
腕の中で、薫さんが身を起こそうとする。
狼狽えて逃げに入られてしまう前に、耳にキスをして小さな声でお願いした。

「…っ、お願いします。傍にいさせてください。…もう止まれないんですっ」
「――!」

薫さんが振り返ろうとしたのを待てなくて、抱え上げている腕の力を緩める。

「いっ――!」

ぐっと薫さん自身の体重がかかり、オレのものの上に、薫さんの体が落ちてくる。
流石に一度に全部なんてことは無理だったけど、少しずつ…ちょっとだけ強く…押しつけていって、三分の一くらいというか、亀頭は少しずつだけど、何とか入った。
きゅぅっと柔らかい体内の狭さと温かさが、痛いくらいに締め付けてきて、すごく気持ちいい。
一番太い所が入ったのなら、あとはこのまま降ろしちゃえば全部いける気がする……けど、きっとそれは辛いだろうから、そこで保っておく。

「――っあ、はっ…。ぃ…ったぁ……、ッ」

薫さんは顔を顰め、ぽろぽろ涙が零れていた。
苦しそうに呼吸を求めながら、オレに抱え上げられた自分の膝の方へ、その涙目の視線を送る。

「君…っ。い…、れ――…」

弱々しくこぼれ落ちたその震えた声と、愕然とした…けれどたっぷりと快感に溶けている表情に、思わず口端が緩んだ気がした。
やってしまったのは自分なのに、可哀想になるっていう矛盾。
それに、その泣いている顔も可愛く見えてしまう。
やっぱり今夜は、薫さんの何を見たって可愛く感じる。
自分の口から出る呼吸が、すごく熱い。

「ごめんなさい、薫さん…。もう少しがんばって」
「ぁ…」
「きっと気持ちよくしますから…。もっともっと」

無責任な言葉をかけながら、薫さんの顎を取ってこちらを向いてもらう。
普段の薫さんからは想像ができない、とろんとした、けど辛そうな涙顔。
唾液の零れている唇に斜め上から顔を寄せると、しっとりと時間をかけてキスをした。
ごめんなさいって気持ちと、ちょっと強引になってしまったけれど、ちゃんとキスには控えめでも応えてくれるような、こんな機会をくれてありがとうございますって気持ちと……ああ、輝さんごめんなさい。
けど、輝さんが薫さんを向いてしまったら、オレなんかとても敵わない。
今だけの機会ですから、許してほしい。
それに、傍にいるこんなに可愛い人の気持ちに気付かないのは、ちょっとだけ鈍感だと思うんです。
強引になってしまったけれど、薫さんが本気の抵抗をしなかったのも事実なんだし。
だから、意識無意識はどうか分からないけど、オレとこういうことをしてもいいかな…って、ほんのちょっとでも、これっぽっちでもいいから、思ってくれた…ってことですよね…?
殴って蹴って暴れて逃げることだって、できたはずですもの。
腕がちょっと疲れるけど、薫さんをそれ以上沈めないように気を付けながら、小さく上下させる。
完全に抜けない程度を保ちながら、入口だけでほんのちょっと出入りして、慣らすように何度も。
浅い挿入だけど、入れる度に中がきゅって温かく迎えてくれて、頭の中が溶けそうになってくる。
出入りの度に繰り返される、水が跳ねるみたいな吸着音。
小さな音が、鼓膜から脳内に響いてきて、理性が持って行かれないように気を付けた。
両腕塞がってしまっているから…けど、薫さんを少しでも気持ちよくしないと…って、首や耳や顎のラインを、舌で丁寧に愛撫する。

「ん…は…。薫さん…」
「っ…。っ……」

毛繕いでもするみたいに舐め上げるのと体内に挿れすぎないように気を付けていると、オレに両膝を抱え上げられていた薫さんが、そっと自分の片手を硬くなっている下肢に伸ばした。
最初は握るだけだったそれが、じわじわと自慰に繋がる。

「っぁ…、っく……」

もう片方の手の甲で口を覆っているけど、利き手で我慢できなくて自分でする姿に、ぐわっと血圧が上がる。

「ふ…わぁ…」

ちかちかと目眩がした。
息が上がって苦しいくらい張り詰めるけど、ほわっと気持ちが解れる。
予想以上に色気のある現状が衝撃的で、自分のものがすぐんと硬くなったのが分かった。
…よかった。
てことは、薫さんも今、我慢できないくらい気持ちよく感じてくれているんだ。
とろとろと溢れ出るカウパー。
綺麗な指が先走りで濡れているのを見ると、堪らなくなってしまう。

「は…っ、ぅ…っんぁ…、ぁ…っ」
「…薫さん。…薫さん、こっち向いて?」
「ふっ…」

敢えて自分でしていることには触れず、けどすごくキスがしたくなって、鼻先で甘えてみる。
顎筋や首筋を舐めない限り、薫さんは俯いてしまう。
声を聞けるのは嬉しいけれど、ちらちらと見える口の中の舌や糸を引く唾液をそのままにしておくのは勿体なくて、またちょっと強引に顔を寄せてキスを交わした。

「…はあ。……おいし」

殆ど無意識に、ぽつりとキスしたばかりの唇から気持ちが溢れる。
唾液が甘い気がした。口の中が甘い。
声ごと呼吸ごと、食べたくなる。
…唇を離して、薫さんを抱え直す。
もう頭がぽーっとして、いつの間にか、当たり前みたいにこの先を続けようと思っていた。
薫さん…可愛い。
もっともっと、気持ちよくなってもらわなきゃ。
自分の手で弄る姿は魅力的だけど、自分でやらせてなんておけない。オレがやらなきゃ。
上も下も、右も左も分からないくらい、メチャクチャに乱れた薫さんを見てみたい。

「はっ…。はぁ…、あ…」
「はぁ…。っん…。それじゃあ、動――…」
「――っっ、す…"ストップ"!!」
「…!?」

けど、それまでにない強い"ストップ"を受けて、薫さんを抱えたまま反射的に体が止まる。

「ストップだ、柏木っ。ステイッ!」
「え? …え??」
「だ…ダメだ、動くな…!君とはもうこれ以上進めることはできな……うわっ」
「そんなっ…!」

オレの腕の中から出ていこうとする薫さん。
思わずその両足を抱えるのを止めると、両足の間のシーツに片手を着いていた薫さんは、そのまま途中までしか入りきれていないオレのものを抜いてしまった。
そのまま逃げ出されてしまいそうな気がして、後ろから再度抱き締める。

「っ…。こらっ…」
「こ、ここで止めるのは流石に悲しいし辛いです…!!」
「っ、離れろ…!もういいっ、これ以上は君と繋がる気はない…!これ以上は強姦に値する!」
「ご、ごうか…」

"強姦"という二文字の石でできた漢字が、頭の上にドンドンと落ちてきた気がして、腕を引かざるを得ない。
ぶわっと悲しみが押し寄せてくる。
か、薫さんに強姦…。
それは絶対したくない…!
泣く泣く胡座の内側にいる薫さんから手を離して、しょんぼり肩を落とす。
…ていうか本当に泣くかもしれないくらい悲しい。

「ぅ…。す みませ…」
「……」
「…オレとは、そんなに嫌でしたか?」
「…違う。いいとか……はぁ…。悪いとかじゃ…」

眼鏡をかけている人の癖なのか、今は外しているそれをかけ直すみたいな仕草を左手でして、けれどそこに物がないことに気付いて、バツが悪そうに視線を反らした。
眼鏡がないことを諦めたみたいで、裸眼でちらりとオレを見上げる。
目が合うと、ぱっと顔を反らされてしまった。

「…僕が悪かった。変に気落ちして、君を困らせた。……こんな、ことをしなくても…。今夜君がいるだけで、僕に虚無感など訪れるわけがないと思っただけだ…。傍にいて、話を聞いてもらうだけで十分だった。なのに…」
「…薫さん」
「こんな…、こんな…。……く、くだらないことをした」
「く、くだらないですか…。オレは嬉しかったですけど…。その、興奮しましたし、気持ちよかったですし…」
「……」
「ぁ…」

薫さんが涙目を両方の掌で拭うのを見て、考える前に手を伸ばした。
左手を細い肩に置いて、右手の指先で目の下を撫でるように左右の雫を掬うと、薫さんはまるで小さい子みたいに、オレの指を黙って受けてくれた。
涙を拭って指を離す瞬間、その指を追いかけるみたいに視線を向けてくれて、胸がきゅぅっとする。
恐がらせないように、そっと小さな声で、もう一度語りかけた。

「…オレは、嬉しいですよ。薫さんとこういう、秘密のことができて」
「……」
「とはいえ、無理強いはしたくありません。薫さんが止めたいのであれば、今夜は……つ、辛いですけど…止めましょう」

言っていてちょっと泣きそうになる。
うう…。
ここで"待て"は本当に辛い…。
でも、薫さんも絶対こんな中途半端な形だと、同じくらい辛いはずだ。
それでも「止めたい」というのだから、そこは、オレは絶対止めなきゃいけないと思う。
薫さんが、居たたまれない様子で、俯けた顔を背けた。

「……。悪かった…」
「悪くないです…!オレが勝手に進めてしまって……ええ、止めましょうねっ。頑張りますっ。クールダウンしますっ!…でも」

はあ…と熱い息を吐きながら横髪を耳にかける薫さん。
両手の指を合わせながらそれを見ていたオレは、間を置いてちらりと薫さんの下半身を盗み見る。
シャツの裾を引っ張って隠しているけど、さっきまで触らせてもらっていたそれは、十分硬くなってしまっていたし、オレはいいとしても薫さんをこのままにしておくのは可哀想な気が…。

「…どうしましょうか、それ」
「言うな…。君も同様だろう。…放っておいてくれていい。自分で処理する。トイレを借りるぞ」
「…! ま、待ってくださいっ!」

オレの膝の上から立ち上がろうとする様子を見て、咄嗟にその腕を掴んだ。
浮きかけていた薫さんの腰が、再びすとんとオレの右腿に落ちる。
少し焦れた表情で、薫さんがオレを見上げた。
その顔に余裕がない。
真っ赤で潤んでいて、目に見えて色気が湯気みたいに出ている。

「…何だ」
「さっき痛くさせてしまいましたし、やりすぎてしまいました。せめて、オレに出させてください!」
「いや、だからい――…いいっ!おいっ、いいと言って――!」

薫さんをがっと一瞬だけまたお姫様抱っこして、オレもそのまま一緒にダイブ気味で寝転がる。
片腕で薫さんの上半身を抱き押さえ、張り詰めている熱を早く解放してもらおうと、脚を開いてもらうため、上側になっていた左脚を、肘にひっかけるみたいにして抱え上げた。

「…!」

びくっと一瞬固まった後、薫さんが焦って顔をあげた。

「君!いい加――っ!」

片腕でオレを押しのけようと振り返ったけど、その前に脚を持ち上げた手で反り返っている中心を握って思いっきり上下に動かした。
ローションの音が響いて、掌の滑りがいい。
ぺろりと耳の後ろを舐めてみる。

「お願いします。やらせてください」
「ゃ…っ」
「だって、もう限界なんですよね…?」

今度はさっきと違ってちょっと本気で逃げようとされるから、オレもぐっと力を込めて押さえつけてしまう。勿論、痛くないようにだけど。
体を捻って、シーツに片肘を着いて起きようとしていた薫さんが、オレが手を動かすごとに、どんどん体から力が抜けていくのが分かる。
掌の中がびくびくと震えて、夢中になってぐちゃぐちゃに弄ってしまう。
自分のものだってもうすっかり硬くなって張り詰めている。
そんなに弄っていないし決定打がなくて痛いくらいだけど、こうして薫さんを気持ちよくさせるだけで、何故かオレもうっとりと気持ちよくて充たされる。
…ダメだ。
さっき一瞬落ち着いたはずなのに、また再熱。
…うん。
クールダウンは無理だ。諦めよう。
オレだって男だから、こんな状況、耐えられない。

「はあ…。…いいですか?」
「っ…ばっ…、っの――ぁっ、待……か し、ぁ、っ……ゃっめ」

俯いて、垂れた黒髪で顔が見えないけど、切羽詰まった鼻にかかる甘い声が堪らない。
こんなことを思ってしまうのは申し訳ないけど、体勢だけなら、後ろから挿れてるみたいだ。
…ああ。
この人の中に入れたらいいのに。
オレの手が自分の力で離せないと分かると、シーツを力任せに握って耐えようとするけど…きっともうすぐ。
殆ど触ってない状態のオレが、薫さんより先にイっちゃうなんてことはさすがにしたくないけど、このままだとオレの方が先に出そう…。
そういう意味でも、早く射精してもらわないと。

「…薫さん。イっていいんですよ?」

オレだってそうだけど、余裕なんてない丸くなっている背中に、ぴっとりと張り付いて耳元で内緒話をする。

「たくさん出してください。我慢しないで。オレが役に立てたなって、安心させてください。…ほら、ね? もう苦しいはずですよ?」
「は…、ぁっ…。…ぃ」
「他に誰も見てませんから…」
「っ――ぃ、やっ…だ!」
「わ…っ」

抑えられている無理な体勢で、薫さんが片腕を振り上げた。
咄嗟に首を引いてかわせたけど、すぐ鼻先を指先が上から下へ通り抜けた。
かわせなかったら、きっと引っかかれていたに違いない。
けど、その腕はオレには届かなかったから、ぱたりとシーツに落ちるしかなくて…。

「っ…、」
「――」

ちょっとだけ怯えた薫さんと目が合った瞬間、ぞくっと背中に何かが走った。
嫌だって言われたのに、嬉しいような、誇らしいような…。
…誇らしい?
何だろう、よく分からないけれど、我慢ができなくて落ちた腕の手首を握って、それもベッドに押さえさせてもらう。
膝で両脚の間を刺激して、絶対痛くないように……だけど、絶対逃げ出せないように。
本当に、全身で抱え込むようにして、ぐちぐちとまた勢いよく扱く。

「っ…、こ の…っ」
「ん…。もうちょっと…ですよね? このまま…」
「はあっ…、あぁ…っ。く…ぅ、っ――」

熱い呼吸を必死に抑えつつ囁いた直後、それまでシーツを握っていた薫さんの両手が、ばっと自分の口を塞いだ。
顔思いっきり伏せたかと思うと、掌の中のものが、びくびくっと大きく震える。

「――ッ!!」

直後、暗がりの中、白い液がシーツに飛んだのが分かった。
掌に出たばかりの精液の熱さを感じたし、密着していた薫さんの体が緩んだからだ。
それが視覚じゃなくて、触れている肌で感じられているっていうのが嬉しい。

「…」

汗をかいた体から出る呼吸音が、暗がりの中暫く響いていく。
自分がすごくぜえはあ言っているのが聞こえる。
…静かなんだなぁ、薫さん。
気付いたら、自分の口元が小さく笑っていた。
それが何かは分からないけれど、何か充実感が胸に広がる。
無言のまま、目の前の白い肩にキスをした。
汗の、少ししょっぱい味がする。
…名残惜しくて、二度三度と力をなくした掌の中の薫さんのものを根元から先端まで丁寧に撫で辿ってから、抱えていた脚をゆっくり下ろした。

 

 

 

 

 

 

 

「………」
「………」

はああぁ~…という、深々としたため息が聞こえ、おどおどしてしまう。
背を向けてベッドの端に横たわって、きっちり布団にくるまっている薫さんが、片手で顔を覆って沈んでしまっている。
…ああ。
や、やりすぎたかな…?
けど、あのままにしておくのは辛いだけだし、触れさせてもらってすぐに熱は出せたし…。
射精した余韻でくたりとする薫さんを残してオレはトイレで処理したけれど、戻って来てから薫さんはずっとこの状態だ。
下着とパンツだけ身につけて、そそくさと見える範囲で軽く拭き取り、ベッドすぐ横の床に正座をして様子を窺う。

「…薫さん? えっと……何か飲みますか?」
「……いらない」

振り返りもせず、突っ慳貪に返されてしまう。
暫くしーんと静かな暗い室内で正座を続けていたけれど、この状態が続くのはよくないと思って、ぽつりぽつりと語りかけてみる。

「あの…少し強引になってしまって、すみません…。けど、薫さんに気持ちよくなって欲しくて…」
「誰も頼んでない」
「はい…。気持ちよくなって欲しいっていうのは、オレの傲慢でした…。でも薫さん、一人でもやもやと考えるようなことがあったなら、オレの傍で考えたり迷ったりしてください。一人だと、きっとネガティブな考えしか出てきませんから」
「……」
「悩んだり落ち込んだりする時は、おいしいものを食べながら、誰かにそのことを言葉で伝えて、その後睡眠を取るべきなんだって、何かで読みました…。感情的な話でなくて、身体的にも精神的にも、それって医学的に証明されていることみたいです。セックスだって、いい気分転換になります。本当に、練習にだってなります。…きっと、その方が薫さんの為になるから」
「……。一つ問うが」
「…! ハイっ」

こっちを振り向かないまま、薫さんがぽつりと口を開いた。
びしっと背筋が伸びる。
何を聞かれるんだろうとどきどきしていると…。

「君は、元々性欲的な方か?」
「…え?」

予想外の質問で一瞬固まってしまう。
もしかしたら「君は僕が好きなのか?」とかくるかと思ったけど…。
…性欲的かどうか?
そんなの、いままで改めて考えたことなかった。

「えーっと…。ひ、人並みには…。けど、相手が誰でもいいってタイプではないと思います…」
「男性経験は?」
「え? ありません」
「…ない?」

意外だったのか、薫さんがようやくオレの方を振り返ってくれた。

「…。挿入までしておいてか」
「す、すすすすみません…っ!つい…!」

熱の残る双眸で真正面から見られて、両手を組み合わせ全力で謝罪する。
あ、あそこまでやるつもりは…つもりは……って、確かに途中から意図的になっちゃいましたけど!

「ご、ごめんなさいっ、その…。後ろ……嫌でしたよね…? オレ、オレ夢中になってしまって…」
「…あいにく女性ではないからな」
「で すよね…。…。…あの。もしかして、そっちは初めてだった、とか…」
「当然だろう…。僕は同性に性器を触れられたこと自体が初めてだ」
「…。そ、そう…です、か…」
「……洗浄をしなければ」

はあ…とため息を吐く薫さん。
疲れている様子を見ると申し訳ない気持ちが勿論あるけど、あるけど…。
…。
は、初めて…。
オレが初めてって…。
緩みそうになる顔を隠すために、正座している自分の膝へ視線を向ける。
…まずい。
にやけちゃう。そんな場合じゃないのに…。
必死で下を向いて表情筋を抑えていたけど、たぶん一見するとベッドでぐったりしている薫さんと、反省しているオレっていう状況で、暫く、しぃんと場が鎮まる。
やがて、先に口を開いたのは薫さんだった。

「……男性経験はないと言ったが…。その割には、妙に僕を相手に抵抗がないように思うが…」
「え? だってそれは、いつも一緒にいる薫さんですから」
「……僕?」
「はい。見ず知らずの人じゃありません。オレのよく知っている、大切な人ですから」
「…。なるほど。つまり君は、性質として相手が気心知れる人物でその痴態に興奮するのか…。自慰や性交に対してさしたる問題はなく、且つ雰囲気に流されやすいというわけだな」
「…」
「加えて、こういった機会は久しいと言っていたか」

…ん?
な、何かちょっと違う方向へ…。
――と思ったけど、ここでオレの気持ちを告げて薫さんの重荷になってもいけない気がして、薫さんがどこをどう取るのか、様子を見てしまう。
何か納得した様子の薫さんは、少し気が抜けた様子で、また背を向けると目元を片手で覆った。

「…まあ、君が積極的な理由は納得した。かく言う僕も久しいので醜態を晒したが――」
「醜態じゃありませんっ。こんなことを言うのは何ですが…とても可愛かったと思います!」
「……。――醜態をさらしたが、」

流された…!
がーん、とショックを受けるオレを見もせず、"可愛い"発言をスルーして薫さんが少し眉を寄せる。

「人が止まれと言ったら止まってくれ…。ケダモノか、君は」
「す、すみません…」
「全身が痛い。下半身に違和感を感じる。汗でべたついて気分は最悪だ。君とこんなことをするつもりはなかったし、第一泊まるつもりがなかった。僕が女性ではないからまだいいが、止まれと言って止まらないのであればそれは無理強いだ。少し触れる程度であればと気を許したのは確かに僕だが、今夜の君は暴走が過ぎる」
「す…みませ……」

謝ることしかできない…。
…でも、薫さんのあんな秘密めいた姿を見せられたら、どうしようもない。
暴走…?
暴走したかな、オレ…。
確かに夢中になっちゃったし押し進めちゃった感はあるけど、でも頑張って理性を保っていたような…。
何度目かになるけど、またまた、はあ…と薫さんがため息を吐く。
許してほしくて、何とか切っ掛けをを思って、おずおずと口を開いた。

「あの、でも…。久し振りで、気持ちよくなかったですか…?」
「……」
「オレも薫さんも久し振りだったなら…。…あ、えっと。あの、ほら…オレたちアイドルのトップを目指す身としては、たぶん当面は女性関係は控えた方がいいと思いますし…。かといって、全くそういう行為をしないっていうのも、健康に悪いと思うんです。誰かを抱き締めて眠りたい日だってあります。本当は輝さんと上手くいって、一日でも早くそういう日があればいいですけど、まだ難しいですよね? …そんなわけで!」

言っていることはメチャクチャだ。
こんなことは絶対よくない。
そう分かっていても、言わずにはいられない。
ぐっと拳を握って、再び振り返った薫さんの目を見詰めながら宣言。

「オレの体が必要になったら、いつでも言ってくださいっ!!」
「…………」

言ってるオレもどうかと思うんだから、言われている薫さんなんかもっとどうかと思っただろう。
呆れた顔を通り越し、いっそ哀れみの眼差しな気がする。
たっぷり沈黙して、今言った言葉が恥ずかしくなってきた頃、薫さんが困ったように口を開いた。

「…いや、柏木。それは……同じ男としてどうかと思うのだが…」
「お、オレもそう思います…!けどっ、オレ、薫さんと寝るの大好きです!!抱き枕程度でいいんですっ。オレでよければ、いつでも使ってくださいっ!」
「……。悪いが、ちょっと休ませてくれ…」
「ぁ…や、違うんですっ!大好きっていうのは体の相性がすごくよかったとかそういうんじゃなくて……あっ、そっちもオレはすごく良くてそのまま最後までいっても全然よかったんですけど!!」

オレに力なく片手を上げながら、薫さんがオレに背を向けて横になる。
ここであやふやにしたら、絶対壁を作られちゃう…!
直感的に察して、ぱっとベッドに乗り上げると、横になった薫さんに寄り添うように隣にすとんと正座する。
最後まで行ってるだろっていうツッコミがあるだろうけど、オレの中の最後っていうのは、もっと本当に奥まで届くようなセックスで今日のはちょっと違うっていうか…。
ここまで寄れば殆ど上から顔が覗けそうなものだけど、意図的にか、薫さんの表情は前髪と枕で見えない。
けど、布団から出ている背中と肩がすっごく綺麗で、ほんのり甘い匂いがして、それだけでまたくらくらしそう。
許してくれるなら、背中から思いっきり抱き締めたい。
っていうかもうふにゃふにゃしちゃう、顔が。
…て、ぽーっとしている場合じゃない!
ぶんっと一度首を振ってから、改めて正座した膝の上に両手を置いた。
綺麗な背中に、そっと声をかける。

「…誰でも、寂しくなる瞬間って、あると思うんです。オレだってあります。そんな時、ぎゅって誰かに抱きつきたい気持ちになりますし、それができると落ち着けます。そのくらいでいいんです」
「……」
「オレ、薫さんと輝さんが上手くいけばいいなって思っています。…けど、その上手くいくまでの間、薫さんに寂しい日があるのが嫌なんです。夜に一人で泣くような時間があるのなら、オレの手を握って、ちょっとだけでも落ち着いてほしいんです…。だから――」
「悪いが、」

オレのつらつらと続く言葉が、すっと水が通るような涼しげな薫さんの声であっさり切れる。
視線の先で背中が少しだけ動いて、ますます顔が見られなくなってしまう。

「君の言い分を今聞くつもりはない。再度言うが、眠らせてくれ」
「…! ぁ、は…はいっ。すみません!」

言葉を遮られて、思わず背筋を伸ばして謝る。
眠りたいという薫さんの意見を尊重して、ぐっと口を閉ざした。
…うるさかったかな。
確実に負担はかけただろうし。
オレ、止まらなくなっちゃう時あるから…。
ああ…。でも、あやふやにしたくなかったんだけどな。薫さんが起きてくれたあとででもまた話させてもらおう…。
しょんぼりしながら、寝るんだったら…と、露出している背中と肩、片腕が中に入るように、布団を整えて薫さんにかけ直した。
そろり…と、音を立てないよう気を付けながら、後退する。
…先に、シャワー浴びさせてもらおう。
水でも浴びて反省しよう…。
本当に、輝さんを好きな薫さんの気持ちを邪魔するつもりなんか微塵もないのに、勢い余ってしまった。
オレはすごく嬉しかったけど、薫さんがトラウマになっちゃったらどうしよう…。

「…」

自分を殴りつけたいようなどうしようもない気持ちのまま、そろそろとベッドから下りる。
片足を床に付けて立ち上がろうとした瞬間、ギ…とベッドが鳴った。
その瞬間、ふい…と、今まで背中を向けていた薫さんが少し仰向けに返り、オレを振りかえった。

「……何処かへ行くのか?」
「…!?」

どことなく窺うような小さな声と眼鏡のない優しい瞳の上目に、びっ…!と背筋が伸びる。

「ぃ…行きませんっ!」
「…。…そうか」

殆ど状況反射の勢いで、両手グーで否定してから、一度下りたベッドへまた上る。
いいのかな…と思いつつオレもそろそろと布団に入っていくと、それを見届けてから、薫さんはまた背中を向けてしまった。
…。
じりじり…と布団の中で距離を詰めていく。
腕を伸ばして背中から抱き締める瞬間だけは、一瞬肩がびくりとしたけれど、それだけだった。
動かない薫さんを、ぎゅうと抱き締めて目を伏せる。
両腕をお腹に回して、脚を絡めて、薫さんの頭の上に顎を添える。

「……」
「……ぇ、…!」

暫くそのままじっとしていると、急に腕の中でくるりと薫さんが反転した。
抱いている間もずっと背中だったのに、こんなに急に近距離。
白い鎖骨が綺麗だ。
そのまま、薫さんがじっと色香の残った瞳でオレを見詰める。
…と思ったら。

「…わっ」

布団の中から腕が一本伸びて、頭にぽんと置かれた。
反射的に目を瞑ってしまったけれど、すぐまた開いてみる。
ただ手を置かれただけだけど、どきどきと胸が高鳴るし、意味も無くさっそく嬉しくなる。

「な、何ですか…?」
「…いや。…ファンが君のことを大型犬のようだとよく言い、今まではピンと来なかったが…今夜それが納得できた気がする」
「え…。ぁ…そ、そうですか…」

何を言ってくれるのかと期待してしまったけれど、オレの予想していたいくつかの言葉ではなかった。
がっかりしたけど、薫さんがちょっとでも気を許してくれるなら…。
にこっと鼻先の薫さんに微笑みかける。

「薫さんが喜んでくれるなら、オレ、薫さんの犬でもいいですよ」
「いや…。…だからそれは、同じ男としてどうかと思うんだが…」
「ふふ」
「…。燃費の悪そうな犬だな…」

オレの笑みに釣られたのか、薫さんも苦笑気味にほんの少しだけ表情を崩してくれた。
たったそれだけのことで、胸の中に花が咲いたみたいに嬉しくなる。
二度三度、片手の手ぐしでオレの髪を軽く梳いてから、薫さんはまた背中を向けてしまった。
…けれど、さっきまでみたいに拒絶を感じない。
今度はオレも抱き締めなかったけど、隣で目を伏せて休むことにした。

「…」

今日はすごく幸せで大きな切っ掛けの一日になった。
寝る前の癖で、すぅ…と深く息を吸う。
…ああ。
甘い匂いがする。
オレはやっぱり、この人のことが好きなんだなぁ…って、改めてそう思った。

 


 

空に煌々と輝く青い星。
届かないながらも腕を広げる。
この広大な夜空で、貴方の隣はきっと数百億年前から決まっている。

けれどもし流れ落ちるとしたら――どうかどうか、真っ直ぐに、オレのところへ。

 



 


 





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