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カネキくんが消えて、世界が暗転した。
彼一人いなくなるだけでこんなにも絶望の淵に叩き落とされるなんて、思ってもみなかった。
僕のカネキくん。
愛しい彼。我が主。
僕のカネキくんはもう、この世にはいないのだろうか…。
生きていて何の意味があるのだろう。
しかし生きていなければ、彼を想うことすらできない。
例え苦しい記憶であり絶望であろうとも、彼をこうして想うことができているのは、生きているからこそなのだ。
涙だっていい。
哀しい記憶であってもいい。
彼と僕との繋がりを断ちたくは無かった。
…おお、イデオット。
あの時僕が、彼を止めてその場で殺せるくらいに力があれば…。
何もかも彼の剣たる僕の力不足。
カネキくんに会いたい…。

「…習様。お食事をお持ちしました」

床に伏せている僕の元へ、叶がカートを運んでくる。
乗っている食器はスープ皿だ。
…以前は自身で食材を探し出して厳選していたこともあったが、今となっては気力も起きない。
叶たちが用意してくれる食事は当然良質のものであろうが、食事の愉しみというものもここのところ随分忘れかけている。
…何だっていい。
カネキくんを想える程度の栄養が取れれば。
彼を想って、生きていければ…。

「ありがとう、叶…」
「御加減はいかがですか?」
「ああ…。今日は、少しはいいかな…」

サイドテーブルに用意されるスープを一瞥し、目を伏せる。
…何もかも色褪せている。
目の前の食事に心は微塵も動かない。
いや、食欲すら失せている。
億劫であることこの上ない。
人とは何と主観的な生き物なのだろう…。
僕の人生そのものであった美食への道。
しかし、カネキくんが失せた今では、まるで義務のようにスプーンを手に取った…。

 

 

 

 

――…さ、ん…。月…さ――。

深夜過ぎ。
どこか近くで僕を呼ぶ声が聞こえた気がして、ふ…と意識が目覚めかける。
それでも目を伏せたままでいれば自ずと眠くなるもので、再び寝入るべきだと沈みかけた意識に、今度は先程よりもはっきりと声が聞こえた。
聞き覚えのない、少し高くて舌足らずな張りのある声。
…子ども?

「月山さん…。起きてください」
「…ん」

しつこいとは言えないながらも妙に耳に残る声に、シーツの上で仰向けに返ると片腕を目元に添えた。
目を開けるなんて馬鹿げている。
ここは僕の寝室だ。
コールガールでも呼ばない限りこんな深夜に僕の部屋を訪れる者は無いであろうし、まして子どもの声など幻聴に決まっている。
それでも、幼い声は傲慢に続ける。

「別に構いませんけど…。起きないと、後悔すると思いますよ。…知りませんからね」
「…?」

眉を寄せながら薄目を開ける。
そこで何かがピンと来た。
高圧的で威圧的。
しかし選ぶ言葉はいつだって微かに甘みを含んでいて、印象としては残らぬものの拗ねた子どものような緩みがあるから、そのアンバランスな魅力に対峙する者は悉く釣られてしまう。
ああ…。発言のチョイスがまるで――。
…そう思って瞳を空け、淡いランプでは照らし切れない室内の一角に、人影を見つける。
ベッドから程々の距離のある、本棚の傍のデスクの前の一人掛け用の椅子へ、子どもが姿勢正しく座っていた。
子どもだ。
白髪で、隻眼の…白いシャツとサスペンダーを着けた黒いパンツを穿いていて…。
…。
招き入れた記憶のない子どもを目にし、ぎし…と力ない身を起こした。
呆然と、改めて数秒、少年をただ見据える。

「…」

当然、そんなはずはない。
僕と出逢う頃、彼は黒髪だった。
つまり、幼少時には当然黒髪であったはずだ。白髪の訳がない。
…いいや、そもそも子どもになる訳がない。
けれど、本能が告げる。
僕は、この少年の名を知っている。

「…。カネ…キ……くん…?」
「…こんばんは」

椅子に礼儀正しく座ったまま、ふ…と少年が微笑する。
更に数秒固まり、そっと布団を折り返し、たっぷり時間をかけて僕はベッドから足を下ろすことを選んだ。

「ああ…これは…。どういう、趣向だい…?」

どう反応して良いか分からず、曖昧に微笑することしかできない。
目の当たりにする光景に、喜びの感情が追いついてこない。
どうせ幻聴と幻覚だ。
分かり切っている。
カネキくんがいなくなってから、もう何十回と見てきた。
けれど、子どもの姿は初めてだ。
…so cute。
何と表現していいか分からないくらいに気高く可愛らしい。
可憐な姿と子ども独特の肉の柔らかさを視覚からだけでも感じる。
頭から食べたいくらいだ。
デザートに適したその肉体を見るだけできゅぅ…と胸が痛いくらいに締め付けられ、思わず寝間着の胸元を片手で握った。
例え幻覚でも彼の前でこんなに乱れた髪でいるのを思わず気にし、無意識に反対の空いている手で伸びてしまっている前髪を掻き上げ後ろに流した。
狼狽えて大した行動もままならずベッドに腰掛ける僕と向かい合うようにして、闇を挟んでカネキくんのような少年は両脚をぶらつかせた。

「特に意味はありませんけど…。月山さん、どうしているかなと思って…」
「…ご覧の通りさ」

片手を開いて幻の彼に現状を示す。
情けないことこの上ない。
無意識に俯いてしまったのか、折角後ろへ流した髪が再び目の前に垂れ下がってきた。

「君がいないと…生きる気力も損なわれる…。君が僕の全てだった…」

両手で顔を覆って嘆く。
…ああ。本当に。
カネキくん…君が全てだったよ…。
愛しい彼を想い出すと涙が出てくる。
体の芯からじわりと感傷が涙になって滲み出てきた辺りで、寂しげな声が飛んできた。

「…過去形、なんですね」
「…!」

その声に驚いて、感傷がどこかへ飛んでいった。
ばっ…!と顔を上げれば、カネキくんの幻覚が寂しげに微笑している。
慌てて首を振って立ち上がった。

「違う…!今のは間違いだカネキくん!君は今も、僕の全てだ…!!」
「そうですか」
「そうだとも!」
「うそでも嬉しいです。ありがとうございます」
「何を…!カネキくん!!」

彼に勘違いされるのが心の底から嫌で、知らず知らずのうちに足を進めて彼の傍まで歩むとあその足下に跪いた。
椅子に座るカネキくんの前に両膝を絨毯に着き、膝の上に乗せられた小さな手を両手で握る。

「本当だ…!本当に、僕は今でも君が全てだ!!」
「どうだか」
「君が消えて、もう何も考えられない程に辛い!あれだけ鋭かった味覚が鈍くなり、自慢の鼻も利かなくなった…!君が僕の中でどれ程に大きかったか計り知れない!!」
「まあ、そうみたいですね。その辺は見れば分かりますけど。…」

冷静に告げていた彼の唇が、不意に閉ざされる。
そうして僕から視線を外し、握っている僕の手を見下ろしてから数秒、再び静かに顔を上げてくれた。

「…ごめんなさい、月山さん。こんな時も僕は貴方に素直になれない。…ありがとうございます。こんなに哀しんでくれているなんて、思ってもみませんでした。…最期に、止めてくれたのも」

膝に泣き付く僕の髪や頬を、小さな手が撫でる。
すぐにその手を取って掌へ口付けた。
ふわりと甘い香りと味。
カネキくんのものと似ているが年齢が違うせいか微妙に僕の記憶のものとは違い甘さが強い。
…これも夢?
いいや、夢でも構わない!
カネキくんがいてくれるなら、このまま僕が夢の住人になればいいだけのこと…!

「このまま僕の傍にいてくれるね、カネキくん…」
「それは無理ですよ…」
「何故だい!?」
「何故って、月山さんも分かっているでしょう? それは、僕が幻覚だからです」

カネキくんの口から直々に言われ、衝撃が走る。
分かってはいたが、それでも…と思ってしまっていた。
僕が見えているのならばそれは僕にとって現実であるし、夢幻であろうと構わない。
けれど彼の口からそう言われてしまえば、夢の住人になることも出来ない。
はらはらと涙が頬を伝い、彼の手を握ったまま泣き崩れてしまった。
この感触も幻だというのだろうか。

「そんな…」
「月山さん…。泣かないでください。…これでも一応、貴方を選んで会いに来たんですから。…今は無理でも、きっとまた会えると思います」
「それは…来世でという意味かい? 君がそう言うのなら僕は――!」
「死ぬのは結構ですけど、遠回りだと思いますよ。そこまでは待たないはずです。貴方が、このまま生きていてくれれば」

床の上にへたり込む僕の片手を握り、椅子に座ったカネキくんが…よく、特別に機嫌が良い日にそうしたように…少し悪戯っぽく無邪気に笑う。

「だから、もし僕を見かけたら…ちゃんと僕を見つけて、真っ先に、僕の傍へ来てください」
「カネキくん…」
「彼、僕より動けはしないようなので…。一口くらいなら、月山さんでも食べられるかもしれません。それとも、もう肉は硬くなってしまって、貴方の希望にはそぐわないかもしれませんね。それに、他にも貴方好みの味の人が増えてしまっている気がします。それが少し心配で…。きっと今の僕よりも――」

そこで一度言葉を止め、彼は目を伏せた。
一呼吸置いて再び顔を上げるその瞳は、とても無邪気なものだった。

「このくらいの姿の頃の方が、月山さんにはよかったのかな…って」

そう言って、僕の額にカネキくんがキスをする。
…瞬間、異常ともいえる睡魔が僕を襲い始めた。

「か、ね…」
「おやすみなさい、月山さん。…また、あとで」
「嫌だ!!カネキくん…!」

悲鳴をあげてその小さな身体に縋り付く。
睡魔によって視界もままならない双眸で闇雲に手を伸ばせば、パシ…!と小さな手で容赦なく払われた。
追って、がっ…!と小さな足の靴裏が、僕の額を踏む。
威力はないが、止まらざるを得なかった。
僕が触れるも触れぬも彼の一存。
その頃を不意に想い出し、気持ちは逸るも僕の手は彼の所望のままに引いた。
微笑する声で、あの頃のように僕を窘める。

「あとで、です」

――。



Se réveille d'un rêve




「――習様!」

悲鳴を聞いて、ふと双眸を開く。
自分が横たわっているのは分かったが、目の前に膝を付く叶が血相を変えて僕の手を握り体を起こした。

「どうなさったのです、この様な場所で…!」
「…叶?」

叶の言葉に辺りを見回せば、間違いなく僕の寝室であった。
だが、寝付いたベッドではなく、部屋の端のデスクの前に倒れているようだ。
少し顔を上げれば、叶の向こうに無人の椅子が僕を見下ろしている。

「…」
「お立ちになれましょうか。…どうぞベッドへお戻りください」

叶の腕を借りてベッドへ戻る。
…幻覚?
本当に幻覚なのだろうか。
あんなにはっきりと目の当たりにし、且つ僕の記憶の外の子どもの姿であったというのに。
昨晩見たカネキくんは、最後に"あとで"と言った。
あとで。
…つまり、次にまた会う機会があることを前提にしていたはずだ。
カネキくんが僕に会いたがっている…?
ならば、僕は彼が戻りやすいよう、こちらから少しでも行動を起こさなければいけない気がした。
そうるすべきだ!と強く主張する心と、己の幻覚相手に何を真剣になっているのだと呆れる双方の心が揺れ動き、曖昧な感情のまま辛い顔をして僕を気遣ってくれている叶を見上げる。

「…叶」
「はい、習様」
「最近…隻眼の喰種の話などというものは、聞かないだろう…?」

隻眼の喰種など、そう簡単にいるはずがない。
カネキくんがいた頃から、過去にいたとはいえ"隻眼"はほぼカネキくんを示す言葉になっていたのだから。
もし仮にここに来て他の"隻眼"を見つけたとして、それがカネキくんに係わっている可能性は高い。
僕の問いかけに、叶はすまなそうに頷いた。

「ですが、お調べいたします」
「頼むよ。…苦労をかけるね」
「習様…。そのお心遣いだけで」

その言葉を聞いて、ふ…と体から力が抜ける。
己の片手を見下ろせば、この広い掌の中に触れた小さな手を感じずにはいられない。
…ああ、カネキくん。
主がいなければ、剣は錆びていくだけだ。
だが、幻覚の君が投げてくれた"あとで"という一抹の希望だけが、僕の火種…。

「…」

彼と繋いだ片手を口元に添えて目を伏せる。
己の掌を舌で撫でれば、昨晩の甘い風味を感じる気がした。



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公式での小さなカネキ君が衝撃でした。
あれ月山さんに見せちゃいけないやつです本気で。
けど会わせてあげたくて思わず書きました。
2015.8.30





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