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「いーい、カネキチ!しっかり働きなさいよ!?」

びしっと人差し指を突き付け、ドレスアップしたイトリさんが僕に告げる。
露出の高いナイトドレスやアップした髪が女性的で綺麗だ。
場所はイトリさんのバー。
それほど広くはないけど程々に広く、僕なんかでも落ち着く配色。
"趣味のいい隠れ家的なバー"とでも言えばいいのだろうか。
窓の向こうは夕暮れでお店の開館時間は今からだというのに、ここのマスターであるイトリさんは今からお出かけなのだそうだ。死んでも外せない用事があるとかで。
綺麗にマニキュアの塗った指を突き付けられ、ドアの前から距離のあるカウンター内側という場違いな場所に立っていた僕は、曖昧に人差し指で頬を撫でる。

「はあ…」
「ダーイジョウブ。一日バーテンくらい、できるって!」

軽い調子で冗談のように言うけど、これが本気だから逆に僕の方が、これでいいのかなぁ…なんて心配になってしまう。
月山さんの所属していた、会員制の喰種レストラン。
僕も食べかけられた忌まわしいあの場所に集う快楽主義者の人達を葬り去ったことに、今更後悔はない。
生きていく上での食事というのなら構わないけれど、その対象を屠るのにショーめいた施設も行動も必要ない。
そんな喰種は死んでいい。
そう思って…月山さんもいいって言ったし…喰種レストランを襲撃し、その場に集まった会員の人達を屠ってから暫く…。
どうにかハトたちにもバレなかったみたいだしよかったよかったなんて思っていたら、あっさりイトリさんにバレてすごく怒られた。
まあ、僕らの活動の指針は元から彼女にはバレているのだし、肯定はしなかったけどほぼ確定だろう。
情報屋をやっている彼女にとっては、あの場所は新しい情報を得るいいポイントだったようだ。
けど、イトリさん自身は行ったことがないような口ぶりだったし、きっと知り合いとかが潜入していたのかもしれないし、又聞きで情報を得ていたのかもしれない。
…とにかく、僕が喰種レストランを潰したことは、イトリさんにとって痛手だった。
その痛手分「償え!」…なんて言われても困ったし、実際償う必要なんてないのも分かってはいたんだけど、悪かったかなと思う気持ちも僕にはあって、試しに因みに何をすればいいですか?…と聞いたところ、"店番"だった。
いい情報が集まるパーティがあって、そこに参加したかったから元々行くつもりだったらしい。
けど、稼げるのなら店の方でも稼ぎたいという。
事前に常連客には店を休むことは伝えているようだけど、全員が知っているわけじゃないから来る人もいるかもしれない、とのこと。
商売人だなあ…と呆れると同時に感心した。

「ウチの店に来る奴は、大体情報メインだからね。勿論、アルコール飲む奴もいるけどさー。アタシがいないって分かったら、大体は帰るか、一杯だけ飲んで帰るからさ。何かそいつが話したそーだったら付き合ってやって。暇だったらグラス磨いてくれてもいいからねー。その上に垂れ下がってるやつ」
「けど…。僕、お酒の種類とか全然分からないんですが…」
「客が知ってるって、客が!」

ひらひらと手を縦に振りながら、イトリさんが笑う。
まあ、そうなんだろうけど…。
…一応、未成年なんだけどな、僕。
今更法律なんかを使おうという気にはならないけど。

「じゃあ、まあ…。頑張ってみます」
「そーしてちょうだい。それにアンタ、結構似合ってるよ。夜の男」
「いや、夜の男って…」
「成長したわね~、カネキチ」

ハンドバックを片手に両手を腰に添え、うんうんとイトリさんが頷く。
褒められているのかどうかは微妙なところだろうな…。
苦笑していると、気を取り直したように彼女はドアノブに手を添えた。

「じゃね。行ってくるわー。何事もなかったら、真夜中過ぎには戻るからー」
「行ってらっしゃい。気を付けて」

片手を上げて出て行くイトリさんを見送り、僕もあげていた手を下げた。
…途端に静かになった店内を、ぐるりと見回す。
落ち着いたシックな店内は、なるほど、どちらかといえばグループで来るというより、一人客が多いであろうことを予想させた。
初めて入ったバーカウンターの内側は、思ったよりもごちゃごちゃしている。
まずは何がどこにあるかから、ざっくり見ておこうかな…。
イトリさんの代わりなんて当然できないけど、万一お客さんが来たときに、最低限に対応できないと困る。
ざっと見回したカウンターの内側。
グラスや食器が並んでいる棚の中に、とても少ないけれど、コーヒーカップを見つけた。

「…」

食器棚を開けて、何となくそのカップをそっと取る。
…コーヒーは、アジトでも日常的に淹れているけど、それとは違う感覚がある。
そもそも、今日は店番をするという話を聞いていたから、私服もそれっぽいのを選んでみた。
白いシャツに黒いジレとタイ。黒のパンツに革靴。
もう眼帯がなくても平気だから、それは置いてきたけど…。
あんていくの時の制服とは随分違うしお店の雰囲気も違うけど、カップと合わせて酷く懐かしい気がした。

「…お客さんが来なかったら、コーヒーを淹れさせてもらおうかな」

ぽつりと呟いて、ソーサー付きの白いカップをカウンターの端に飾り、早速カウンター内側の物色を始める。
人が来なかったら、マスターから教えてもらったことを思い出しながら、たまにはゆっくりコーヒーを淹れてみるのもいいかもしれない。



静かな夜の時間潰し




開店時間になり、表にかかっているプレートを「OPEN」にし、ネオンの電源を入れる。
たったそれだけの作業をして再び店内に戻ろうとすると、早速お客さんと思しき男の人が僕に声をかけてきた。
イトリさんは外出中で自分は代理、彼女への用事は後日お願いしますと伝えると、残念そうな顔をして帰ってしまった。
その際、彼が自分の知っている飲み仲間にはお店がお休みのことを伝えるよと言ってくれたので、これで無駄足を踏む人は少なくなるかもしれない。
店内に戻って、イトリさんに言われた通りにまずはグラスを磨いてみる。
きゅっきゅ…と何度か続けていると少し楽しくなってきた。
単調作業は心が落ち着く。
それに、磨けば磨くたび本当にグラスがぴかぴかになるので、やりがいもある。
バイトしていた時にカップを磨いたことはあるけど…グラスって、流石グラスだけあって、コーヒーカップよりも綺麗になった感がよく分かるなぁ。
手元を休めないまま、ちらりと頭上を見上げる。
カウンターの真上に逆さにしてグラスを下げておく場所があって、今もそれなりの数があった。
…あれを全部磨き終わったら、コーヒーを淹れさせてもらおう。
イトリさんもテキトーにやっていいって言ってたし、たぶん多少コーヒー豆やお湯をもらっても怒ることはないだろう。
いい方に解釈させてもらって、今一度手元のグラスに視線を戻した。

 

 

 

 


「…今、何時だろう」

無心で磨いていると、それなりの時間が経った気がした。
ふと顔を上げていつもの調子で時計を探してみるけど、店内にはどうやら無いようだ。
所謂バーとかクラブは快楽殺人主義者の喰種を襲うようになってから馴染みがないという程疎遠ではなくなったけど、かといって自分がそういった店に入って楽しむわけではないから、やっぱりこのイトリさんのお店以外は滅多に店内を見回すようなことはない。
けど、恐らくこういう系のお店では時計を置かないのがセオリーなのかもしれない。
時間を気にするなんて野暮なのだろう。
見たい人は腕時計を見ればいいんだろうな。
ポケットから携帯を取り出し、時間の確認をすると、いつの間にか九時を過ぎていた。
今のところ誰も来ないし、僕にとっては"もう九時かぁ…"と早く感じるけど…夜のお店としては、もしかしたらこれからなのかもしれない。
…けど、考えたら僕がたまにここに来る時も、あまりお客さん見かけたことないかも。
あまり会いたくない喰種の人には時々会ったりもしたけど。

「…。静かだな…」

最後のグラスを上の棚にかけ、とん…と背中を内側からカウンターにかけてよりかかり、片腕をカウンターに置いて店内を振り返る。
アジトも決して賑やかではないけど…やっぱり複数人がいるから完全に一人という感じではない。
例え部屋にこもってみても誰かの気配は常にあるから、それとここでの一夜は随分違うものになりそうだ。
寂しいわけじゃないけど…。
今頃、みんな何してるかな…って思う。
…。
アオギリのアジトを脱出してから、あまり"眠りたい"と思うことがなくなってしまったから、眠気というものは今の所ない。
流石に睡眠は必要だけど、起きていろと言われれば結構平気になってしまった。
ただ、夜に一人でいると考え出ることはどちらかといえばマイナス思考のものばかりだから、あまり長い間起きているのも好きではないのだけれど。
…お客さんが来たらどうしようとか思ったけど…ここまで来ないのではどうしようも何もない。
残りの長い時間を何して潰そうかという方が深刻な問題だ。
…まあ、ひとまず。

「コーヒー淹れよう」

わざわざ口にすることもないけれど、ぽつりと呟いて凭れていた背を浮かせる。
早速、例の真っ白なコーヒーカップを棚から取りだそうと両手を上げると…。
チリン…と、すっかり忘れていた入口のベルが突然鳴った。
背中から聞こえたそれに、右腕だけ伸ばしたまま、左腕を下げて半身で振り返る。
相手を認識する前、振り返ると同時に、アルバイト時代に培った条件反射で口から声が出る。

「あ、いらっしゃいま…」

…が、"いらっしゃいませ"と言い切る前に相手を知って言葉を止めた。
入ってきた相手を見て驚いたということもあるし、相手を知ったからこそ歓迎したくないなという理由もあった。
入ってきた人物を見た途端、一気に自分の表情が硬くなったのが分かったから、逆に今までは無意識に気が緩んでいたんだということがよく分かる。
入口を振り返って一瞬止まった僕と同じく、入ってきた人物も意外そうな顔で足を止めた。
決して大きくはないドアをほぼほぼ塞いでしまう長身、すらりと長い足…と、片腕の薔薇の花束。
カーネーションとかならまだ分かるけど、絵に描いたような薔薇の花束を現実に片腕に持って登場する人を、僕はこの人以外に見たことがない。

「おや…。Bonsoir、カネキくん。奇遇だね」
「…」

入ってきた相手は月山さんだった。
相手が顔見知りで、しかもあまり遠慮しなくていい相手だと分かれば僕は僕の予定を変える必要はなく、ふいと再び入口に背中を向けて、目的のカップを両手に取った。
それを大切にカウンターの上へ置く間に、月山さんは後ろ手にドアを閉めて店内へ入ってくる。
嫌だなぁ…と思いながら、銀色のポットを見つけて水を注ぐ。
ドアとカウンターの真ん中くらいで一度足を止めると、月山さんは店内を見回した。
無人。しかも、イトリさんもいない。
そして僕が立っている場所はカウンターの内側。
これだけ揃っていれば予想が付くだろうに、外面の穏やかそうな顔のまま僕へ尋ねる。

「今夜はマドモアゼルはいないようだね。カネキくんがメートルを?」

"メートル"が何なのか分からないけれど、たぶんイトリさんの代わり的なことを言っているのだろう。
冷めた気持ちで、そうですよと頷いておいた。

「イトリさんが出かけるそうなので、一晩だけ店番をしているんです」
「ああ…!僕は何て幸運な男なんだ!」

突然芝居がかった仕草で片手を胸に添え、月山さんが感極まった感じで目を伏せて声を張る。
放置して、ポットを火にかけた。
感動し終わったらしい月山さんが、カウンターへやってきて薔薇の花束から一本抜くと、その一輪の花を自分の鼻先に添えて香りを嗅ぐ。

「この場所にカネキくんがいるなんて思いもしなかった。…許しておくれ、mon coeur。今の僕には、これくらいしか君に差し出せるものがない」
「いや、花とか別にもらっても困りま…」

手渡せる前に手早く断ろうと口を開いたけれど、それと同時に差し出された花は抜き取られた一本ではなく、ご丁寧に綺麗な紙とリボンで包装された束の方だった。
え…。こっち?
…――なんて考えて呆けてしまった一瞬を見逃さず、月山さんが少し強引に手渡してくるから、受け取らざるを得なくなってしまった。
バサッと豪華な花束を渡されてどうしようと思っている間に、彼は手にしていた一本をカウンター端にあった小さな花瓶へぷすりと生けた。
まさかそれがイトリさんへの分とか言うんじゃないだろうな。
主に白い花が多かった花瓶の花に一際赤い薔薇が血溜まりのように咲くのを見て、半眼になってしまう。

「こちらは留守のマドモアゼルへ」
「…」

あ、やっぱりそういう感じなんだ…。
何とも言えず、腕の中の薔薇の花束をカウンターの端へ置いた。

「もしも君がマドモアゼルの代わりというのなら、すまないけれどそこのボトルを取ってもらえるかな? 僕がキープしてあるものなんだ」

カウンターのイスを引いて、月山さんが座ってしまう。
指を差す先を見ると、ワインボトルようなものがあった。
追い出そうと思ったけどどうやら長居するつもりらしい。
溜息を吐いて腕を伸ばし、そのボトルを取る。
確かに、月山さんの名前が書いた札がついていた。まだ未開封だ。
キャップシールを剥がして、コルクスクリューを傍に置く。
何となく開け方は分かるけど、慣れない道具と作業でもたもたしてしまう。
何が楽しいのか、そんな僕を月山さんはじっと見詰めている。

「今夜はイトリ嬢は戻らないのかい?」
「…さあ」

気のない返事をする。
本当は深夜少し過ぎで戻るだろうと聞いてはいたけど、何だか答えたくなかった。
どうしてか、今の月山さんの質問は一瞬凄く腹立たしく感じたからだ。
そもそも、月山さんがイトリさんの店に客として来るような間柄だったと、僕は知らなかった。
だからこうして、薔薇を持って店にやってくるようなこともイメージできなかったし、ボトルをキープする銀のプレートがわざわざ作られていたりするのも知らなかった。
キュポン…!と妙に間の抜けた音を立てて、ワインボトルのコルクがようやく抜ける。
さっき磨いたばかりのワイングラスを一つ取って、そこに浅く注いだ。
普通のワインのように見えて案の定違う。
少しどろりとした赤いその液体。
僕は飲まないけど、彼にまで飲むなと強いることはできない。
しかも、対価を払っているのならば尚更だ。

「どうぞ」
「Merci。君に注いでもらえるなんて夢のようだよ」

ワイングラスを受け取って少し持ち上げ、自然な仕草で色を見て香りをかいでから一口飲む月山さん。
彼から離れて、コーヒーの準備を続ける。
少し迷ったけど、何気ない口調で尋ねてみた。

「…月山さん、よくここに来るんですか?」

僕も情報を仕入れに何度か足を運んでいるけれど、頻繁にではない。
イトリさんのお店だし、何も他の人のテリトリーに喧嘩を売りに行く訳ではないので月山さんや万丈さんを連れては来ないし、だからその二人はこのお店とは殆ど縁がないと思っていた。
けれど、月山さんはこうしてお店に来ている。
しかも慣れた感じだ。
もしかして、知らないだけで今までもそうしていたのかもしれない。
グラスを傾けていた月山さんはカウンターに両腕をかけ、いかにも機嫌良く僕へ語る。

「頻繁ではないけれどね」
「イトリさんと知り合いだったんですか」
「知り合いといえば知り合いかな。アオギリに乗り込んだ時、彼女も協力してくれたからね」

アオギリ…。
意外な話に瞬いた。
そうか、みんなが僕を助けようと来てくれた時、ウタさんとは当日会ったし実際に月山さんは彼と四方さんと行動していたみたいだけど、その時イトリさんも情報をくれたって話を聞いた。
月山さんと顔は合わせていたっておかしくないことになる。
…とはいえ、イトリさんと月山さんの相性がいいとは思えないけど。

「…。仲、いいんですか?」
「ふ…。マドモアゼルは気の強い女性だからね。なかなか僕に心を開いてはくれないけれど、彼女が僕に与えてくれるのは何も陽気なアルコールばかりではないよ」
「それって…」
「勿論、情報さ」

ウインクを交えて、月山さんが僕に微笑みかける。

「…月山さんって、イトリさんから情報買ったりしていたんですね」
「彼女だけではないけれどね。彼女を含め、多方面から情報は受けているよ。基本的に重なっている部分を信用し、更に我が家の使用人にそういったことを調査するのに適した者が何名かいるのでね。確証が取れたら、君に伝えることにしているというわけさ」
「…」

さも当然とばかりに言う月山さんの言葉に、僕は内心驚いていた。
月山さんのことだから色々と情報を得るルートを持ってはいると思っていたけど、いつもさらーっと、割と素早く的確に目的の情報を持ってきてくれるから、そんなに時間を割いて厳選してくれているとは思わなかった。
それで、彼の名前のボトルがあるのか…。
しっかりしているイトリさんのことだから、お店にお金落としてくれる人じゃないと情報あげなそうだし。
それに考えたら、薔薇の花束も月山さんにとってみればスタンダードな女性への手土産なのかもしれない。
…驚いていたから、月山さんをただじっと見詰めてしまった。
たった一 二秒だけど、僕から彼を見詰めて固まることなんてあまりないから意外に思ったらしく、月山さんが嬉しそうに両手の指を組んで顎の下に添えると熱い視線で見詰め返されてしまった。

「何かな?」
「いえ…。…ありがとうございます、いつも。助かっています」

いつも情報を持ってきてくれる時は挨拶みたいに雑に感謝を伝えてあるけど、いいタイミングかなと思って、いつもより気持ちを込めて丁寧に伝えてみる。
ぽつり…と呟いた僕の言葉に、ぱあ…!と月山さんの表情が晴れる。
まるで褒めてもらえた犬のような分かり易い雰囲気だ。
たぶん尻尾があったらぶんぶん振っていそうな。

「カネキくん…!その言葉だけで報われるとも!君の力になれているのならば僕は嬉しいよ!」
「…」

カウンターの内側に添えていた僕の片手を取って、カウンターの上で改めてその手を取られる。
あ、キスされる…と思ったら案の定で、その手の甲に月山さんが口付けた。
まあ、いいけど…。
…と思って放置しておくと、何度も甲や指の背にキスされ、仕舞いには指をくわえられてしまうので、空いている片方の手でガッ…!とその顔面を鷲掴んで、ぎしぎしと腕力に任せて頭蓋骨を軋ませた後で引き剥がした。
唾液で濡れた手を、すぐに水道で洗う。
その頃には沸かしていたポットが沸騰し、急いで火を止めた。

「…月山さんも――」

そこまで口にして、はた…と止まる。
アジトにいる時の癖で、"コーヒー飲みますか?"と尋ねるところだった。
…けど、彼の前には今ワイングラスがあるわけだし、普通に考えて飲むわけない。
僕が急に言葉を止めたから、僕に頭部を鷲掴みにされて乱れた髪をどこからか取り出したハンドミラーとワックスの小さな缶でてきぱき整えていた月山さんが、少し回していたカウンターイスを戻して不思議そうにこちらを振り返る。

「何かな?」
「いえ、つい癖で…。コーヒー、いりませんよね」

そう言って、カウンターに置いてあるグラスを一瞥する。
月山さんは僕の止めた言葉を察せたらしく、ああ…と指先をグラスの足に添えた。
それを、す…とカウンターの上を滑らせて、自分から離した。
ちょっと驚いたけど、それが顔に出ないよう努めて淡々とする。

「淹れてくれるのならば、是非とも」
「お酒、飲んでるじゃないですか」
「この店のアルコールは愉快だけれど、君の淹れてくれたコーヒーに勝るものではないよ。…などというと、マドモアゼルに叱られてしまいそうだが」
「…まあ、殴られるでしょうね」

テンメェ…!などと言いながら月山さんの襟首を掴むイトリさんの想像が容易い。
少し考えたけど、今の月山さんの言葉が嬉しくないわけじゃない。
それにいつも持ってきてくれる情報が思いの外労力を使って仕入れてきてくれているのが分かった以上、今日は彼を無碍には出来ない気分だ。
コーヒーくらいいれてあげよう…。
無言で、再び食器棚に腕を伸ばすと白いコーヒーカップをもう一セット取った。
二人分を注いで、カウンターの上に一つを差し出す。
いつもアジトで淹れているけど、豆や器具や食器が違えば、勿論いつものとは少し雰囲気も違う。
バーに広がるコーヒーの香りというのは、不釣り合いなようでいてとても馴染む。

「どうぞ」
「Merci!…カネキくんも座りたまえよ」

カップを受け取った月山さんが、指先で自分の隣を示す。
早速淹れたコーヒーを飲もうとしていた僕は、口に近づけたカップを止めた。

「今日は店員側ですから」
「ふぅん…。イトリ嬢はそのような些細なことを気にする女性ではないように思うけれどね」

頬杖をついて、月山さん。
確かにそうだろう。
僕が情報を得に来るときも、イトリさんはカウンターの内側にいることもあるけど、顔見知りだけになればイスに座って横に並んで話すことの方が多い。
それに、缶ジュースとかなら別だけど、コーヒー一杯でも食器で口にするのならできれば座って飲みたいのが正直なところだ。
立ち食いとかは、本来あまり好きじゃない。
でもなあ…。

「おかしな話だね。君が僕しかいないこの空間で、僕に対して何か遠慮をする必要があるというのかい?」
「…」

大袈裟に自分の胸に片手を添えて芝居がかっている月山さんは無視しつつも、思わず少し丸めた片手を顎に添えて考えてしまう。
…確かに。
どうして月山さん相手に僕が遠慮をする必要があるのだろう。
何なら代わりに店番をやらせてもいいくらいではないのだろうか…って、流石にそれはしないけど。
というか…。
口元に片手を少し添え、今の彼の言葉を反芻する。
僕がじっと見ていると、月山さんは嬉しそうに首を傾けた。

「何かな?」
「いえ…。巧いですね、言葉選びが」

今の一瞬、ふと彼の巧みに気付いて嫌気が差していた。
今、月山さんは"遠慮をする必要があるのか?"と問いかけた。
これが例えば、"僕相手に遠慮する必要は無いよ!"と言われれば、僕は舌打ちをして彼の申し出を拒んだだろう。
本当に些細なことだけど、大きな違いに思う。
僕の言葉に、月山さんは何も言わず微笑するだけでウインクする。
そんな仕草は本当に様になるから、本当に勿体ない人だなと思う。
彼の笑顔とか仕草で彼に傾く女の人は多いんだろうな。
それなのに、月山さんは飽きもせず鬱陶しく僕を見ている。
…なんか、変なの。
小さく息を吐いた。

「…」

考えた末、僕はカップをカウンターの上に一度乗せてから、カウンターから出た。
月山さんが立ち上がり、隣の席を引いてくれたのでそこにいつものように座る。
…他の誰かが来たら店員に戻るべきだと思うけど、月山さんだけなら別にいいかなと思った。
彼もイスに座り直したけど、隣に座った僕の方へ体を向けて、相変わらずの執拗な視線が僕の頭から爪先までじろじろ撫で回すように絡みつく。
みんなといる時はそうでもないのに、二人きりになると途端に月山さんの視線に気付くのはいつものことで、あまり気にしないようにしてコーヒーを一口飲んだ。
今日の午後は殆ど飲まなかったせいか、口の中に染み入る日常的な味に妙にほっとする。
月山さんの方を見ず、カップをソーサーの上に置く。
場凌ぎに意味もなく指先でカップの縁を撫でた。

「イトリさんがいないのなら、今夜は情報は得られませんよ。それ飲んだら帰ったらどうです」
「君の時間を僕が占める。こんなチャンスを放棄する程イデオットではないよ。対価を払ってもいいくらいだ。…それに、君は一人になると途端に酷く寂しげな顔になってしまうからね。剣として主の傍にいたいものだよ」
「…」

鬱陶しい。
…そう思いはするものの、彼の言っていることを否定できないくらいに自覚はある。
空間に一人置かれると、途端に自分が自分じゃないみたいに冷徹になれるし虚無感が溢れ出したりもして、"自分は今、何をしているんだろう…?"と頭の中が変な感じに白くなってしまう。
逆に、こうして誰かがいれば普通でいられるのに。
時々僕の自主的な鍛錬を邪魔しに来る月山さんは、そのことをよく知っている。
アジト地下のフロアで、一人ぽつん…と僕が虚空を見ていることなんて、何十回とあるのだから。
だから、その時彼に声をかけられて我に返ることだって、同じ数の分だけある。
僕を白い濃霧の中から引っ張り出すのは、悔しいけどいつだって月山さんだ。
今日だって、実を言えば店内に一人待っている時間が怖くて、グラスを磨いたりコーヒーを淹れたり、必死ですることを探している。
何かやることがないと、また沈んでいくのは目に見えているからだ。

「僕といたって、今夜は何もさせてあげませんよ」

相変わらず彼の方を見ず、カップの内側の、夜の海のようなコーヒーを見詰めながら呟いてみる。
彼に支払う対価は、今夜の僕の手持ちに無い。
直裁に言ってしまえば気分じゃない。
逆に、もう今夜は今すぐ誰かの首を絞めないと僕が僕じゃなくなるとか、誰かの骨を折って遊ばないと人間を襲ってしまいそうとか、誰かに優しく滅茶苦茶に慰めてもらわないと壊れてしまいそうな衝動の波がある日とか、とても人には見せられない精神のブレがあり、どうしても彼が必要な時もある。
自分というちっぽけな存在の気分に振り回される月山さんのことを、時々少し哀れに思うけど、彼の最終目標が僕の犠牲を必要とするのならば、僕は彼という"外敵"に一生物として容赦をしなくていいはずだ。
そう自分に言い聞かせているけれど…。
正直、やっぱり微かな情は移っていってしまう…気がする。
なるべく冷めた言い方を選んで呟いた僕の言葉を、月山さんは何でもない風に彼らしく受け止める。

「comme vous voulez…。僕はカネキくんの傍にいるだけでも十分さ」
「…嘘ばっかり」

は…と肩の力を抜きながら告げると、月山さんが小さく笑ってコーヒーを飲んでくれた。
そんな姿を横目で盗み見て、彼を毒殺するのはとても簡単そうだなと妙な安心感を得る。
本来、僕みたいな子供が彼を掌の上で弄ぶなんて、土台無理な話なのだ。
月山さんが僕に興味を持ってくれたのなんて、たまたまだ。
この人は変な人だから、その"たまたま"で僕はとても助かっている。
けど、いつこの気紛れが終わってしまうとも限らない。
だから時々、僕は意図的に月山さんを振り回さなければいけない気になる。
今日みたいに、イトリさんに花束を持って来たような日を目の当たりにしてしまえば尚更だ。
僕の他に、僕以上に気があるのかと、心配になる。
これは決して恋愛的な意味ではないと思うし、嫉妬と呼ぶほど感情的なものではないと思うけれど、今更、僕は月山さんを手放せない。
こんな便利な人、もう二度と手にできないだろうと思う。
だから…。

「…イトリさんは真夜中過ぎに帰ってくるそうです」
「Ah je vois…。思ったよりも早いね」
「ですから、それまでは僕と二人きりですよ」
「そうだね。嬉しいよ」
「我慢できるんですか、月山さん」
「…!」

わざと挑発的に言って、月山さんを見上げる。
彼のツボがいまいち分からないのだけれど、いつも無視しているから取り敢えず相手をしてあげれば基本的に喜んでくれる(無視しても喜んでくれる時があるけれど…)。
どうやら今のはアタリだったらしく、月山さんが何とも言えない表情で僕を見詰めている。
熱っぽい双眸と固く握っている右手に彼の好意を感じ取って、内心ほっとする。
素直に煽られてくれた月山さんがカウンターに片腕を乗せ、僕の方へ身を乗り出してぐっと距離を詰めてくる。
反射的に体が少し反対側に逃げてしまった。

「蠱惑的な言葉だね」
「言ってみただけです」
「ああっ、カネキくん…!魅力的な君を前にそれはとても難しいことだ!…だが!他ならぬ君の為というのであれば、僕は敢えてその苦行に耐えよう!!」
「耐えてくれないと困……っ!」

呆れ半分に返していると、突然ぐ…!と後ろ腰に手を添えられて引き寄せられる。
イスに座ったまま月山さんの片腕の中に入ってしまい、ぎょっとした。
慌てて彼の胸に片手を着いて押し返す。

「ちょ、っと…っ」

僕が彼を突き飛ばすより早く、額に音を感じた。
顔を寄せた月山さんが、僕の額にキスをしたらしい。
力任せに抱き締められると思ったから、緩い腕の中での額へのキスは僕にとって意外だった。
キスが終わると、後ろ腰に添えていた片手はそのままに、ただし力は緩めてくれる。
見上げれば、見た目だけはいい月山さんが綺麗に微笑していた。
こんな場所でそれを見れば、中身が変態だと分かっていても自分にはとても無い男性的な色香に一瞬だけ見惚れてしまう。

「こんな二人きりの甘い時間に、君をその気にできないのは日頃の僕の落ち度…。Chéri、今夜は幸運にも君に出逢えただけで……ああ!その可憐なエプロン姿を今再び見ることができただけで、僕にとっては十分さ!」
「……は? エプロン?」

思わぬ月山さんの言葉に、呆けてしまう。
ふと座っている自分の腿を見下ろす。
アルバイトの時に使っていたギャルソンエプロンがあったから……持ってきてみただけだけど…。
そう言えば、さっきカウンターから出てきた時妙にじろじろ見られたのは、もしかしてこれなのか。
全然意識してなかったけど、月山さんはどうやらこれがお気に召しているらしい…って、あんていくで僕がアルバイトしていた時、よく見ていたでしょうに。
今の僕が身に着けると、そんなに前と違うだろうか。
それとも――。
…下半身をほぼほぼ覆っている黒いエプロンを両手で抓み、少し持ち上げてみる。

「…。これ…ですか?」
「Bravo!」

もう全肯定で月山さんが頷く。
周囲にはビシバシとハートマークを飛ばし、腰に添えていた手で僕の肩を抱いてきたので、叩き落とす。
僕のエプロン姿がお気に召しているらしい月山さんとは対照的に、僕の気持ちは早々と沈んでいた。
もしこれがただ珍しいというだけではなくて、"前の僕のようで"好ましいというのであれば、随分と意味合いが違ってくる。
…少し躊躇った後、それとなく尋ねてみる。
考えたら僕は、月山さんの好みをよく知らない。

「…前の僕の方が、よかったですか?」
「何がだい?」
「エプロンが似合っていて内向的で弱い僕の方が、月山さんにとってはよかったんでしょうね」
「おや…」

言ってから、しまった…と思った。
考えていた以上に、いかにもいじけているような台詞になってしまった。
そこまでのつもりはなかったのに。
案の定、月山さんは少し意外そうな顔をしてから、妙に機嫌良く僕の片手をごく自然に取った。

「今も似合っているし、君はいつだって繊細で過敏で傷付きやすく、だからこそ成長を望める。ハードモードになったところで、何ら変わりは無いよ。君は君だ。本質とはそういうものだよ、カネキくん」
「…。そうですか」
「そうとも」

少し目線を下げる。
…それはそれで困る気がする。
僕は、必死に強くなろうとしているけれど…それをあまり変わらないと言われれば虚無感を覚える。
けれど、それでも変わらないからこそ"本質"なのかもしれない。
僕は何をやっても弱い。
強い振りは出来るけど…。

「…」
「そんな顔をする必要はないよ、カネキくん。それに!スパイシーな君がゲストに奉仕するギャルソン姿という、そのアンバランスもまたそそる!」
「妙な妄想は止めてください」
「君が淹れてくれたコーヒーをより甘くしたい。君のシロップを僕へ分けてくれないかな?」
「……」

遠回しな台詞を吐いている月山さんを、脱力気味の遠い目で見る。
大体慣れてきたけど、所々やっぱり退いてしまう。
何かよく分からないけど、たぶん僕とキスをしたいのだろう。
唾液のことを言っている気がする。
…少し考え、ふと肩の力を抜いた。

「まあ…。いいですよ」
「本当かい!?」
「キスですよね?」
「ミルクを振る舞ってくれるのなら勿論それが――」
「絶対嫌です」

ミルクが何なのかはちょいちょい言ってくるからもう分かる。
こんな場所で何考えてるんだ、この人は。
少し残念がっていたが、気を取り直したらしい月山さんが僕に腕を伸ばし、頬を撫でる。
そういうのいらないのにと思いはするけど、やっぱり彼の指先が頬にかかると少し体が熱くなる気がした。

「…」

目を伏せる。
丁寧で甘いキスが一つ。
他者の舌が僕の唾液を器用に奪っていく。
舌を絡める気のない僕の舌を掴まえ、誘うように嬲るけど…乗るわけがない。
される一方ってだけで動かなければ、熱はある程度から上へは上がらない。
乗ってしまったらたぶん止まらないから、一方的にやらせておく。

「…」
「…dolce」

ちょっと苦しくなってきた頃、ちゅ…と唇に音を立てて月山さんが名残惜しそうに離れる。
器用に見せつけるように糸を引くから、唇が離れた瞬間、指で、こちらは名残惜しさなど欠片も無いのだと主張めいた速度で下から上へ切断する。
すぐに顎を引いて、口を手の甲で拭った。
溜息を吐く僕を月山さんがじっと見詰め、ふむ…と多少困ったような顔をする。

「…本当にその気になってはくれなそうだね」
「この程度で。なりませんよ」
「残念」
「終わったのなら離れてください」

余計なことをされて過度な反応がバレないように、片腕を払って彼の手から逃れ、コーヒーを口に運ぶ。
顔が熱くなったような気がして、飲みながらそれとなく彼とは違う方向を向いてみる。

「甘いシロップをありがとう、カネキくん。一段とコーヒーが美味しくなったとも。…では、今日は僕の持っている情報を君に捧げるとしよう」
「…情報?」
「ああとも。君の甘い唇の対価には値しないがね」
「そういうのいいですから」

物憂げな流し目で見られても、今更どうってことはない。
…結局、月山さんはなかなか帰らなくて、ああだこうだといつもはアジトでしないような雑談を含めて殆ど一方的に話していた。
けど、その中にはあんていくの最近の情報とかもあって、新人さんが入ったみたいだとか、それが可愛い女の子だけど僕の方がずっと魅力的だとか、西尾先輩のコーヒーは今ひとつだとか、トーカちゃんが髪を伸ばしているみたいとか…。

「髪を…。ずっとショートヘアだったって言っていた気がします。…あ、小さい頃は少し長かったって言ってたかな…」
「なかなかチャーミングだったよ」
「へえ…」

髪の伸びたトーカちゃんをイメージしてみようとするけれど、上手く想像ができない。
けど、きっと似合うだろうな…。
可愛めが途端に美人になるかも。

こういう、何気ない話を聞いているうちに時計は随分進んでいたから、僕はまた"時間潰し"という新しい彼の使い方を知った。

 

 

 

 

 

真夜中を過ぎ、イトリさんが戻って来た。
店内にいた月山さんを見て一瞬眉が寄っていたあたり、やっぱり二人の相性は良くはないのだろう。
帰る準備をしている間、彼女と月山さんがカウンターで何かを話していて、どうやら月山さんが求めていた情報は受け取れたようだ。
夜とはいえ、都内はまだ人気が多い。
ネオンの光る不健康な道。
豪華な薔薇の花束を雑に片手にして歩く僕の後ろを、月山さんがついてくる。

「…帰らないんですか?」
「帰るとも。君をアジトまで送ってからね」
「…」

振り返らずに聞いてみると、そんな言葉が背中から帰ってくる。
僕に何の危険があるというのだろう。女の子じゃあるまいし。
そう思うのに、悪い気はしないのだから、おかしな話だ。
月山さんがこうして僕を見ているから、反抗精神から、僕は何とか強く冷徹でいられる。
彼の有り難さを思ってしまえば負けなのだろうけど、やっぱり僕は、良くも悪くもこの人が必要なのだろう。

 

今夜は偶然にでも彼が来てくれて、毒々しい激情の後悔に沈む夜ではなくなった。
アジトについて、彼の帰り際にでも、不意打ちのキスくらいしてあげることにしよう…。
そう思って、律儀に後ろから付いてくる月山さんの気配を感じながら、振り返りもせず駅の改札を抜けた。



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白カネキ君のギャルソンエプロン姿は黒カネキ君と別方角で萌えます。
是非月山さんを踏ん付けるか、四つん這いにさせて背中に乗って欲しい。
カネキ君は月山さんがいないと困ると思います。
2015.10.17





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