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「君が何故そこに罪悪感が生じるのかは、僕にはいまいち理解はできないのだけれど…。罪悪感なんて、そんなことのために食を放棄するなんてよくない。我々だって生物なのだから、食べて然るべき。それは罪ではないはずだ。…だろう?」
「ひっ…!」

首筋に突き付けられたナイフ。
斬られる――!
肩を上げて目を瞑り身構えたが、肉を斬る衝撃は無い。
…そろりと目を開けると、僕がそうするのを待っていたらしい月山さんが、ふ…と笑った。
徐に自分の左袖を捲り上げ、晒された二の腕に、手にしているナイフを添える。
刃に親指を添え、リンゴの皮を剥くように…ゆっくりと、自分の肉に刃を入れる。

「…、ぁ…」

目の前で皮膚に薄く刃が入って細胞が割かれ、血が流れ出すのをスローモーションで凝視していた。
身体が緊張して動かない。
月山さんのナイフは、自身の腕を薄く剥いでいく。
皮膚を一本削ぐと、桃色の筋肉が僕の視線を奪った。
遅れて、匂いが鼻孔を擽る。
…人程ではないけれど、十分甘い香りが食欲をそそる。
生々しい削ぎ傷。
そこから目が離せない。
無意識に喉を鳴らす僕に、囁くように彼が柔らかく告げる。

「奪うのでも殺すのでもない。僕だったら、君のために美味なる食事を提供できる。…君は野蛮な輩ではない。食器で食べたいタイプだ。見栄えも食事の楽しみ方の一つ。そうだろう? 実にいいと思うよ。僕だって本来そちらの方が好みだ。君はやはり理解ある男だ。君の好みは最大限尊重する。趣味のいい食器と素晴らしい見栄え。それからフィリット…切り身の方が好みだ。そうだろう?」
「…」
「可哀想に…。今までの君が食事嫌いであるのは、与える輩が粗野であったからだ。君が共食いに抵抗が無いのであれば、僕が君の食材となろうじゃないか。…美しい食器、整った見栄え。決して食べられたものじゃないが、野菜も飾り菜としては必要不可欠の代物だと僕は思うよ。ナイフとフォークを使って食べたまえよ。傍らにコーヒーを置いて、音楽も流そう。食後には本の話をしようじゃないか」

桃色の、向こう側が見える程薄い肉をつけたナイフの先を僕に突き付ける。
刃の向こうに、笑顔の月山さんがいた。

「んー。芳村氏に頼まれたのは初歩的なレクチャーだけだったのだけれど…。さて、どうだろうカネキくん」
「…っ」

タンッ…と持っていた指でナイフを下から上へ弾き、銀色の閃光が回転しながら宙を舞う。
そのナイフが重力に従って足下の床に刺さると同時に、パチン…と月山さんが指を鳴らし、流れる仕草で僕に片手を差し出す。

「この僕とパートナーにならないかい?」
「…。ぱ…となー…?」

あまりにも喰種らしからぬ単語に、呆けてしまう。
間を置いて、胡散臭そうな…けれどやっぱりモデルのような綺麗な笑顔でにこっと月山さんが笑った。


最高のパートナー




「カネキくん。そろそろ上がっていいよ」

仕事に夢中になっていた僕に、マスターがカウンターの内側から声をかけてくれる。
時計を見ると、確かにもう仕事終わりの時間だった。

「あ、はい。ありがとうございます」

応えて、目の前のお客が返ったテーブルへ向き直る。
…うん。ここが終わったら、あがらせてもらおう。
食器を重ねてテーブルを拭いていると、来客を告げる店のベルが鳴った。
ぱっと顔を上げ、そちらを向く。

「いらっしゃ……あ、月山さん」
「やあ」

ドアがぎりぎりのすらりとした長身。
相変わらず見栄えがする月山さんの登場で、店にいたみんなの視線が彼に集まる。
それは若い女性のお客さんもそうだし、僕と同じくフロアにいたトーカちゃんやマスターさんの視線もだ。
マスターさんに向けて軽く片手を上げて目配せすると、月山さんは窓際の席を片付けていた僕の所へ真っ直ぐ歩いてきた。
傍まで来て、両手を後ろで組む。

「段々ウエイターが様になってきたんじゃないかい?」
「え…。そ、そうですか? ハハ…」
「ああ。似合っているよ。以前よりもね」
「ありがとうございます…。…あ、ていうか…コーヒー飲みに来たんですよね? どうぞ、お好きな席に座ってください」
「まあ、飲んでもいいんだけど…。カネキくん、仕事はもう終わりそうかい?」
「え? …あ、ハイ。僕もう時間なので」
「だろうね。…うん。このくらいの時間に終わるんだろうなって予想をつけて来たんだ」
「…へ?」
「迎えに来たんだよ。早く帰ってきて欲しくてね。今日は僕との食事の日だから」

ずいっと詰め寄られ、覗き込むようにされて反射的に背を反らす。
にこにこと屈託無く微笑む月山さんの肩の向こうで、トーカちゃんが、おえ…と胸に手を当てて吐き戻すようなジェスチャーをしていた。
…うん、まあ。
気持ちは分かるけど…悪い人じゃない、と思う……んだ。
でも、どちらかといえば逃げ出さないかどうか心配で捕まえに来たといった方が正しいんだろうなって、最近思う。

「ぁ、えっと…。でも僕、着替えとかあるので…」
「ああ…。そうか、これは失念していた。至極当然だ。終業時間だからといってすぐに帰れるものではないというのに。君と会えるのが嬉しくて、気ばかりが急いでしまう。ふふ、すまないね」
「あ、あはは…」
「時間がかかるというのならば、コーヒーでも頂いて待っていようかな」

ぽん…と僕の肩を叩いて、片付け途中の目の前のテーブルに座ってしまう。
文庫本を取り出して足を組み、当然という流れで待つ気でいるらしい月山さんに気圧されして、食器を抱えたまま少し固まってしまった。
どう反応していいか分からない僕に気付き、彼がにこりと微笑する。

「ほら。早く食器持っていかないとダメなんじゃないのかい?」
「え、あ…。ハイ、じゃあ…」

追い立てられるように、または逃げるようにそそくさと空いた食器を下げる。
カウンター内側に戻ると、すぐにトーカちゃんが呆れた顔でやってきた。

「何座らせてんだよ。とっとと持ち帰れよ、あんな奴」
「持ち帰れって…ものじゃないんだから。コーヒーを飲むみたいだよ。…あ、マスター。ブレンドひとつお願いします」
「噂通り、最近随分落ち着いているね、彼」

新しく入った注文の用意をしながら、マスターが穏やかに言う。
"美食家"が落ち着いた。どうかしたか。…というのは、ここ最近よく店で囁かれる噂だ。
20区でも屈指の美食家が、ここ最近活動を半減させている。
最近飼い人を飼いだして、その飼い人にご執心…という噂もある。
知らない振りしているけど。
合っているとは言い難い。
…僕ももう、たぶん"人"ではないみたいだし。

「…」

自然と俯いていた視線。
僕の横で、マスターの言葉を聞いたトーカちゃんが、半眼でこっちを睨んだ。

「あんまりナルシー臭くなったら店から弾くかんな」
「え…!匂いとか移るの!?」

初耳だ。
慌てて片腕を上げて自分の匂いを嗅いでみる僕を見て、マスターが珍しく苦笑した。

 

 

 

 

月山さんの家は分かりやすく大きく広い。
西洋風のデザイン建築で、毎回お邪魔する度にこの人は何をやってる人なんだろうといつも思うけど、未だ聞けずにいる…が、どうやらお金には困ってなさそうだ。
喰種にも家系みたいなのがあるらしくて、月山という姓はちょっと有名だという話だ。
一大勢力…みたいな。
喰種は家族関係を成立し続けることが難しいし珍しいみたいだから、人間と比べるとどちらかといえばグループや一派というような血を越えた大枠があるような気がする。
一室で僕んちのアパートよりも広いリビング中央に置かれたソファに座らされたはいいものの、背中に張り付いている月山さんの鼻呼吸の音が聞こえていて全然リラックスはできない。
玄関に入った直後からずーーーっと背中に張り付かれて僕の首の後ろ辺りの匂いを嗅いでいるけれど、そろそろ飽きないものかといつも思う。
もう数分経つ。
数分って結構な時間だと思うんだけど…。
何回目かになるから段々慣れてきたとはいえ、背中に張り付く男の体というのは鬱陶しいし気持ち悪いものは気持ち悪い。
もぞもぞする。
…まあ、かといって女の子の体の温かさを知っているわけでもないんだけど。

「…あの。月山さん」
「…」
「そろそろ離れて欲しいんですけど…。あの、匂いを嗅ぐの止めてもらっていいですか?」
「…」
「…。…月山さん!」
「…!」

声を大きくして呼ぶと、僕の首筋に鼻先を着けていた月山さんがびくっ…と肩を震わせた。
漸く我に返ってくれたらしくてほっとする。

「ああ…。すまない、ぼーっとしていたみたいだ。何だい?」
「いや、何だいじゃなくて…」

別に乱れてもいない前髪を揃えながら、切れ長の目が瞬く。
何だいじゃないよ…。
それに、ぼーっとしていたんじゃなくて、僕の匂いを嗅ぐのに夢中だっただけのくせに。
彼の変なスイッチが入らないように気を付けながら、引きつった笑みを浮かべる。

「あの…そろそろ中に入って食事にしませんか? 僕、お腹空いていて…」
「ああ、勿論だとも!Quickly!」

食事にしようと促すと、ぱあっと露骨に笑顔になって僕の肩に手を置き、もう片方で広い廊下の奥を示す。
…存外、分かりやすいタイプなんだよな。
親しくさせてもらって分かったことだけど。

「早速用意をしなければ。…ちょっと待っていてくれ。アペリティフを持ってくるよ」
「ひぃっ…!?」

僕の隣から離れる直前、れ…と首筋を舐められて震え上がった。
どっどっと警戒心を剥き出しに高鳴る心臓を片手で押さえながら、顔面蒼白でキッチンの方へ向かう月山さんを見送る。
冷や汗がすごい勢いで出てくる。
相変わらず危ない人だ。
…いや、危ない人なんて、喰種に関わってからたくさん見てきたつもりだけど、この人はちょっと別の意味で危ない人だ。
…。
アペリティフってなんだろう…?
…まあ、いいか。

「…とはいえ」

緊張を解いて、ほふ…と息を吐く。
…とはいえ、月山さんのお陰で助かっているのは事実だから、感謝はしないと。
喰種になって体が食物を受け付けなくなってから結構時間が経つ。
けど、元人間の僕にしてみたら人間を食べるなんてできなくて、まず食べる気がなくて飢餓状態になって、精神的にオカシクなってマスターに施しを浮けた、けど…。
けど、お腹が空いて堪らなく辛くて、目の前に食べやすいサイズのそれを用意されても、結局精神的拒絶から喉をモノが通らなかった。
食べたい、食べたくない、でも飢餓に耐えきれずどうしても食べたい。
無理してでも目を瞑って食べよう、と決意しても、今度は喉を通らずに吐き戻す。
その繰り返し。
体力を奪われてくらくらになって、立っていられなくなった僕にアドバイスをくれたのが月山さんだった。
僕が拒食症のような状態になっているという話を店で聞いたらしく、突然声をかけられたかと思うと「君は形から入るタイプなんじゃないかい?」と、お皿に綺麗に整えられた"食事"を用意してくれた。
それが何の肉なのか、分からない僕じゃない。
…けど、その皿の上にあるものは、嫌悪感を極力下げる見た目をしていた。
生ハムを花弁のように形取ったような。
食べられはしないけれど野菜も添えてあった。
ナイフとフォークでゆっくり食べるように言われて…そして、僕はようやく"食事"をするに至った。
喰種は基本的に生肉を好むみたいだけど、薫製にしてもいいし煮ても焼いてもいいらしい。
好意はとても嬉しかったけど、マスターが店で仲間に用意してくれていたものはやっぱり基本的に生肉の切り身だったし、今思うと初心者としてのハードルが高かったのかもしれない。
みんなと違う、途中から喰種になった僕だけの感覚なのかもしれないけど。
人間の時の食事の感覚があるから、月山さんの言うとおり、僕は"食事らしい食事"でないと受け付けないのだろう。
"牛を屠る所は絶対に見たくないけど、牛肉は好き"とか"ミミズには触れないし釣り鉤から取れないけど魚釣りは好き"とか、そんな感じだ。
偽善の上で生きている自分を恥ずかしく感じる時もあるけれど、マスターが言うには、珍しい方だけれどそういう喰種もいるらしい。
特に女性は、やっぱりナイフとフォークとお皿で食べたがる人がいるって。
…少数派らしいけど。
今では月に一回の月山さんとの食事で、僕は事足りている。

「お待たせ」
「あ、ハ…」

ハイ。…と、返事をしながら振り返るつもりで、その声が凍り付く。
月山さんはにこにこと機嫌の良い時の笑顔を保ったまま、ワイン瓶一本と空のワイングラスを二つ手にして戻ってきた。
一見すると違和感はない…けど。
ワイングラスから香る甘い匂いに、ぎくりとする。
喉が渇き出す反面、精神的な拒絶反応が出て、ひく…と頬が引きつった。

「…」

ぎゅっと膝の上に置いてあった両手に力を込め、背中が緊張する。
…あ、そうか。
思い出した。
アペリティフって、食前酒、か…。

「いつもは君が来る前に頂いていたんだけれど、そろそろ君も飲めるかなと思ってね」
「い、いや…。僕、お酒は…あんまり…」

どきどきしながら何とか抵抗してみる。
当然、太刀打ちできる抵抗でもない。

「ハハハ、面白いジョークだな。アルコールじゃないから、年齢制限は無いよ」

バチンとウインクされて青筋が立つ。
ですよね…。
ますます背筋が固まる。

「アペリティフといっても、気分的なものだよ。半分食事だ。…まあ、その後のメインディッシュに向けての舌慣らしという意味では人間使用と同じものだけれどね」
「はあ…。…いや、やっぱり僕は」
「君は何型が好きとか、好みはあるのかい?」

隣に腰を下ろし、さくさくと準備を進める月山さん。
グラスを置いてワインを開け、むわっとする甘い香りに思わず口と鼻を押さえる僕を尻目に注いでいく。
ごぽごぽと、普通のワインよりも僅かに粘度の高い赤い液体が、当然の顔をしてグラスに溜まる。
油断すると全力でそれに飛びついてしまいそうで、ぐっと自分を抑え付けて目を伏せる。
…これは、ダメだ。
すごくいい香りだ。
お腹空いた。
くらくらする。
ごくりと喉が鳴った。
…て、いやいや。
ちょっと、これは…ほんとに……。

「ぅ…。…ぐ……」
「ん~。いい香りだ。…ねえ? そうは思わないかい? 僕は個人的にAやABが好きなんだけれどね、今日のものはOにしてみたよ。万人向けという点では癖が無く入りやすい。…ああ。Aといってももう少し好みを語らせてもらえば色々とあるのだけれど」
「え、ぁ…」

口を抑えていた両手のうち、片方の手をやんわりと月山さんが取る。
指先を握って、ゆっくり僕の手にグラスを持たせた。
始終にこやかな彼を、据わった目で僕は凝視する。

「遠慮せずに飲みたまえよ、カネキくん」
「…っ」
「味が好みでないというのなら他にも揃えてある。…ああ、勿論君にその手の抵抗があるのは承知しているが、そろそろ君にも食の奥深さを知って欲しいんだ。君が食事する姿は僕しか見ていないから、大丈夫だよ。僕の前では何ら遠慮はしなくていい。ありのままでいようじゃないか!今日のノルマだよカネキくん!…さあ!さあッ!!」
「や、ちょっと…」
「他でもない僕の前でッ、存ッ分に飲みたまえ!!」

無意識に弱々しく首を振る僕に、ずい…と月山さんが詰め寄る。
半ば押し倒されるように体が横に低くなる。
…い、いや…でも…。
誰のものとも知れない血液はとても飲めない。
本当に、本当に偽善だって分かってるんだけど…それでも、極力意に反して奪われた血肉を口にはしたくなかった。
僕の口元にずいずいグラスを押しつけてくる月山さんはもうすっかり夢中で、すごく必死に僕にそれを飲ませようとしている。
唇にグラスを押しつけられ、グラスに指を添える僕の手ごとしっかりグラスを支えながら、傾けられてしまう。
いつの間にか顎まで押さえられ、どろどろとした赤い液体がガラスの容器を伝ってゆっくり唇に近づいてくるのを察して、慌てて視線だけ近距離の月山さんへやる。

「ちょ、ちょ…っと!…待ってください!!」
「…ん?」

口を着けられた状態で発した僕の声は、ワイングラスの中に少し曇って響いた。
興奮した顔の月山さんが、どこかうっとりとしたその顔を傾げる。

「どうしたんだい。香りが好みじゃない?」
「じゃなくて!」

食欲に屈しそうになる精神で、必死に言い訳をする。
僕は血なんて飲みたくない。
飲みたくないんだ。
だけど飲まなければ生きていけないというから必要最低限を口にする。
そして、ここでいう僕の"必要最低限"というのは、つまり、要するに本人の意思を無視して強奪したものは含まない。
含みたくない。
…何処の誰かから奪ったのか分からない血肉なんてダメだ。
そんなのは他の喰種と一緒じゃないか。
そうじゃなくて、自分であげてもいいよ…って言ってくれる人のものじゃないと嫌だ。
今更何を言っているのかと、自分でも思う。
反吐が出る偽善だ。
…けど、やっぱり保障の付いた安心が欲しいんだ。
人間定規の"悪いことをしていない"という保障が。
だから――。

「つ、…月山さんのが、いいかな……って…」
「…」
「思っ……たりして…。あ、あはは…」

あらぬ方向を見ながら乾いた笑いを付け足してみる。
それが広い部屋に広がり、数秒。
…。
……。
沈黙。
違和感を生じる沈黙秒数。
…。
…あ、えーっと。
沈黙に耐えきれなくなって、俯いて両手の指を合わせて弄る。

「…。その…。えっと…」
「…カネキくんッッ!」
「ぎ…っぎゃああああああっ!?」

取り敢えず上から退いてもらおうかと口を開きかけた僕に、月山さんが全力で抱きついてきた。
ポイと投げ捨てられたグラスが、すぐそこの床に投げ付けられて割れる。
元々押し切られるように斜めになていた体がそのままソファに倒れ込み、完全に組み敷かれる。
いやいやいや…!
生まれて初めて押し倒される相手が男って!しかも喰種って…!
謎の剣幕にあわあわと狼狽える僕の手を軽くいなして、月山さんがハイテンションのままに横たわる僕のシャツのボタンを外していく。
す…と鎖骨に風が当たってビックリする。
女の子みたいに、慌ててボタンの外れたシャツを両手で掴んで胸を隠した。

「へ…ちょ、ちょっと…!いきなり何するんですか!?」
「安心したまえ!君の分の食事は既に用意してある!僕の肉をスライスした素晴らしい出来映えのものがね!君が望むならいくらでもあげようじゃないか!!…ああ、そうだね僕の血でワインを作れば良かったんだ!気の利かない男ですまないねカネキくんッ!!次回は用意しておくよッ!」
「いやいやいや、だからワインはいいでっ…ちょっと!服引っ張らないでくだ……うわ!?」

やばい。スイッチ押したかも…!
逃げようと横向きに体勢を変えた僕の鎖骨を、月山さんが舐める。
一瞬の舌の温かさ。
けど、すぐにその場所が特別空気を感じて悪寒が走る。
…喰われる!
急に現実味を帯びて、心臓が暴れ出す。
もう何回か月山さんとの"食事会"は続けている。だから慣れた。
…そう思ってみても、やっぱり本心を騙すのはなかなか難しいし、思いこめない。
すぐに治るし何度かやったことがあるからといって、噛み付かれる瞬間はやっぱり恐怖に震えるくらい痛いし、肉を噛み千切られるのも、傷口に集まる血を音を立てて吸われるのも、未だに嘔吐感がある。
食道を登ってくる胃液に血も混ざっているから、結局吐血もする。
…けど、それは、月山さんも同じはずなんだ。
僕のために、毎月自分の体を削いでくれている。
そこにはやっぱり、僕より慣れているとはいえ痛みがあるんだから…。
こんな僕に付き合ってくれる物好きな喰種は、たぶんすごく珍しいんだろう。
大切にしないと。
両肩を上げて膝を折り、目をぎゅっと瞑る。

「…っ」
「ふふ…」

全身を縮ませて緊張していると、すぐ耳元に感じていた月山さんの息遣いが更に近づいた。
ぞくぞくする悪寒に怯える僕の肩に、彼の手がねっとりとかかる。
触れる他者の体温の温かさ。
ぬくもりの代名詞のようなその体温と、本能的危険信号からアドレナリンが大量に分泌される。
異常な環境下に置き据えられれば、何をされても興奮状態。
安易なものだ。肉体なんて。
耳打ちするような小さい声で、月山さんがぽつぽつと僕に語りかけた。

「君の血肉が僕を創り、僕の血肉が君を創る…。素晴らしいね。まるで僕らは小さな宇宙じゃないか。これぞ食の真髄だ。…ねえ、カネキくん?」
「ゃ、その…。ぁ…どうで、しょうね…」

鳴り止まない心臓と耳元の声。
それから密着する人の体温。
露わになった僕の肩を、うっとりと月山さんが指の腹で撫でる。
相変わらず抑え付けられるように組み敷かれながら、まな板の上の鯉状態で怯え固まる。
…けど、逃げだそうとは思わない。
これは取引だ。
月山さんは、僕に痛みを伴う血肉をくれるのだから…僕だって、等しくあげないと。

「そうだな、今日は…Basses côteを頂こうかな」
「ぁ…。ハ、ハイ…」

"ばせくーつ"(と聞こえたような…?)が何処の部位なのか具体的には分からないけれど、意味深に撫でられている場所が大概そうだ。
引っ張られるのが嫌だから、やんわりと彼の指先を僕の服から離しながら、自分で少しシャツを下ろす。
注目される中で肩を晒す気まずさはあるけど、別に何をされるわけでもないし。
…いやまあ、食べられるんだけど。
本当は麻酔でもあればいいけど、それは月山さんが断固嫌がるし。
彼曰く、酷く臭みが出るらしい。
ナイフで僕の肉を削いで皿に盛りつけて一緒に食事をするという案も出されたけど、痛みとしてナイフなどの刃物の方が痛かったし、月山さんも直に食べる方が好みだとかで、噛み付かれる方がどうやらマシそうだという話で落ち着いた。
ほんの少しだけど。
五十歩百歩だけれど…。

「背中を向けて」
「…こう、ですか?」
「そう。いい子だ」
「…!」

ソファの上と月山さんの下でもそもそ身動ぎする。
言われたとおり俯せになると、そ…と柔らかい手付きで頭を撫でられてちょっとどきっとした。
…人に撫でてもらうなんて、いつぶりだろう。
瞬時に、母さんを思い出した。
それくらいしか記憶が無い。

「…」
「まだ慣れないかい? 少し痛いかもしれないが、我慢したまえ。君ほどの力なら、すぐに治るじゃないか」
「あ…ハイ…」
「…いずれは快感にしてあげる」
「…」

一瞬だけ跳んでいた意識が、耳元での月山さんの声ですぐに戻ってくる。
とても同性に向ける声だとは思えない台詞と色声にぞわっと鳥肌が立った。
何で一々こうなんだろう、この人…。
僕の下ろしたシャツを更に少し下に引っ張り、ぴとりと首の後ろから肩にかけての部分に鼻先を添える。
大きな掌が、反対側の肩を掴んだ。

「ああ…。本当に君は香しいね…」
「…っ」
「んー…。…落ち着け月山習。自己管理は大切だ。自分で自分を制御できなくてどうする。喰べすぎないように、喰べすぎないように…」

僕にはいまいち分からない僕の香りを堪能してから、目を伏せて妙に真剣に、ぽつぽつと自分に言い聞かせるように小声で囁く。
こんなところは、まるで無邪気な子どもみたいだ。
…そろりと肩越しに盗み見ていた月山さんの俯いた顔が、不意に上がる。
気付いた彼と目が合ってにこりと微笑され、肩が跳ねた。
慌てて正面を向き、ソファの革を意味もなく凝視する。

「…dolce」

ちゅ…と肩口に音を立ててキスされる。
次の瞬間、ぞわっ…!と悪寒が走った。
本能的恐怖。
背後の気配が、一瞬にして別のものへと変わる。
目の色が変わったのかな…と思う間もなく、肩を灼熱が刺した。

「――ッ!!」

叫びたくないけど叫んでしまう口を、月山さんがしっかり片手で押さえる。
曇った悲鳴。
肉を割く感覚。
どこか近くて遠い場所で聞こえる含んだ歓喜の笑い声。
集まり出す血液と熱。
そしてそれを吸われていく感覚。音。
脈や血の流れる音がはっきりと耳で聞こえる。
舌が傷口を撫でる度に、温度が痛みになって刺さる。
いつだって、いつだってこんなにも痛い。
人間の血肉を食べるなんて、なんてバケモノなんだろう。
この人も、僕も。
…。
…ああ、でも。
いや、きっと――。

「…ッ!!」

涙の溜まった目を薄くあける。
水の膜が張って、目の前のソファの革目も見えない。
頭の中で鐘が鳴る。
うるさくて敵わない。
痛みを紛らわせようと噛んだ誰かの指は美味しくて、思わず前のめりに舐めしゃぶった。

「――っ!」

声にならない悲鳴をあげながらトぶ。
ぬくぬくと育ってきた。
"調理"という名を付け工程を知り得た人類は、まるでそれが一切の罪無いさして重要でないことのように振る舞う。
様々でいて娯楽を満たすため変動を求めそして富み、ふざけた量を口に運ぶのだ。
…ああ待って。
解ってる。
解ってるから言わないで。
僕は何を食べて生きてきた?
そうだ、解ってる。
決してベジタリアンではなかったんだ。
…ベジタリアン?
例え菜食主義だとして、だから何だというのだ。
それが善人の証か?
関係ない。
嘲笑してしまう。
それで避けられるつもりか?
そうだ、僕はいままで"生きて"きた。
則ち…。

――"肉"。

ぱ…と脳内に活字が出てくる。
頭が痛い。
止めて言わないで。
僕は解ってる、だから――。

『肉/にく/ニク/ジク/しし:動物の皮膚に覆われ骨に付着する柔らかい部分。一般に皮下組織と筋肉をいう。食用とするため切り取られれれれれた鳥・獣・魚介類の体の柔ら柔らかいか柔らかぁィいブブン。魚介類をノゾヰた、鳥獣類の肉についていうことが多多多多多多多――…』

心を活字が埋め尽くす。
誰かの指を強く噛んだ口元が、無意識ににたりと緩んだ気がした。

 

 

 

――パァン…ッ!!

耳元での唐突な破裂音。

「…!」

音で、はた…と目が覚めるように我に返る。
一瞬前まで自分が何をしていたか解らないが、自分の腹の上に馬乗りになっている月山さんは何とか涙目の視覚で確認できた。
彼が僕の片腕を掴み上げているせいで、横たわっているはずのソファから少し背が浮いている。
爛々と輝く凶暴的な赤い瞳。
月山さんの姿は確認はできたけれど、視界が狭く暗い。
どうしてだろうと思えば理由は明確で、残る一つの手で、僕は僕の顔を覆っていたらしい。
…我に返ったせいで、体中が痛い。
この部屋のソファはいつだって血で濡れる受け皿のようなものだ。
フルマラソンでもしてきたかのように体が悲鳴を上げて、熱く息が上がっていた。
は…と短くて血生臭い息を吐いた先で、月山さんが同じく血に濡れた唇で笑う。
笑いながら赤く濡れた手が、ゆっくり顔を覆っている僕の手を離してするりと頬を撫でる。
同じように乱れている彼の息が、首にかかった。
その頃になって、さっき気付けに頬を叩かれたことを知るも、甘い匂いにくらくらしてすぐにまたよく分からなくなってくる。

「ぁ…」

人を壊すには痛みか快楽が最も効果的だという。
痛みはとても強い力だけれど、快楽や欲望に太刀打ちするにはほんの少し力が劣る。
人間でも喰種でも、人はそうできている。
道徳は快楽だ。
美しく尊い。
笑ってしまうくらい美しく尊いから、まるでアクセサリーのように思わせぶりに身に纏う。
こんなに傷付いても、僕の天秤は、痛みよりもそれが重い。
ああ…。
反吐が出るな…。
僕は、僕がとても、気持ち悪い。

「っ…」

吐き気がした。
血が食道を上り、ぐ…と顔を顰める。
力なく緩んだ僕の口に、月山さんが人差し指の先をかける。
首を、鎖骨から顎のラインまで熱く濡れた舌が舐めあげた。

「ああ…。ふ、はは…。そんなに煽っちゃ責任が持てないよぉ、カネキくぅん…」
「つ…。ぅ…、は…。はあ……ったぁ…」
「君をずっと僕だけのものにしておくには、今ここで君の全てを喰べるわけにはいかないんだよ…。ねえ、分かるだろう? いい子だから、大人しくしててくれたまぇええ…! …っあああッこの色!香り!味!!堪らない…!!」
「…ッ!」

片腕を掴まれたまま、ぐいと抑え付けられるようにまたソファに俯せにされる。
筋肉が動く度に傷口から血が溢れる。
けど、どくどくと…などと表現するには足りない。
…月山さんが背中の傷端を歯で噛み広げる。
まるで安いゴムを引きちぎれるように皮膚と筋肉が剥がれて熟れる。
新たに溢れた血液に口付けされて吸われながら、伏せた体でソファに爪を立てた。

 

…そう。
霊長目ヒト科独特の妙な美意識に包まれて育ったから忘れているだけで、本来、生物の"食"というものは…。
"生きる"ということは――ヴィジュアル的に解りやすくすれば、きっと、こういうものなのかもしれない。

 

 

 

 

 

「さて、君と僕との素晴らしい夜に…。Toast!」
「え? …あ、は、はい…」

ウインクついでに急にグラスを差し出され、慌てて僕もテーブルの上のカップを取って持ち上げる。
カン…と済んだ音を響かせて、その赤い液体を月山さんは飲む。
僕のカップの中身は極々普通のコーヒーだけど、目の前でそれを飲まれると飲む気が失せてしまい、液体に口を着けるだけでそっと元の位置にカップを置いた。
…月山さんが"食事"をして、結局僕は気を失った。
いつものことだ。
血が足りないのと、痛みに耐えきれずに意識を飛ばす。
ある種の逃亡だ。
月山さんの相手は疲れるし、痛みも疲れるから。
二時間弱眠っていて、目が覚めたらもう傷はなくて体も綺麗に拭いてもらっていたし、別室のベッドで目覚めたから、まるで悪い夢に魘されていただけみたいな気にもなってくる。
けど、それでも一応、シャワーを借りて血の匂いが残る体を洗わせてもらった。
バスルームから出ると何故か僕の服が一式無くなっていて、月山さん趣味の新しい服が置いてあるのもいつものことだ。
普段自分で買わないようなオシャレ(…なのだろうか。よく分からないけど)な服に袖を通し、出てくる頃には、今度は"僕の食事"の準備が出来上がっている。
さっきいたリビングは閉じられ、別室の、わざわざダイニングの方に洒落たテーブルセット。
花なんかも生けてあったりして、飾りもテーブルクロスもあるし、一見すると華やかな食卓だ。
別世界。
少し前の状況は一体何だったんだろうと、分かってはいても毎回理解に苦しむ。
痛みも引いてしまえば、さっきのは夢だったんじゃないかとすら思えるが、今目の前で広がるものはまるで堪え忍んだご褒美にも見えた。
…嘘でも何でもなく、お腹は空いてる。
飢餓は、辛い。

「君も空腹だろう。さあ、召しあがれ」
「あ、はい…」

…カップを置いて、目線を下げる。
目の前の皿には、いつも通りの綺麗に整えられた薄切り肉が、まるで自分は生ハムですよとでも言いたげな顔で並んでいる。
見た目だけならきっといいレストランでのオードブルで通るだろう。
絶対口にはしたくないが、皿の奥には生野菜も飾りに添えてある。
野菜が置かれているだけで視覚的に随分違う。
美味しくはないだろうが"美味しそう"で、"人間らしい食事"のように見える。

「…」
「僕は美味しいかい?」

既にナイフとフォークで一枚を食べ終わった僕を、正面に座った月山さんがにこにこと眺めながら聞いた。
彼も彼でシャワーを浴びて着替えるからか、僕の食事の時間、それでもきれいにセットされている月山さんの髪はすこし水気を帯びて柔らかくなっている気がする。
本人も身支度を調え直し、今はまた気取ったジレを違和感無く着ている。
…嬉しそうにそんなことを聞けるのだから、やっぱり変わっている人なんだろうな、この人。
自分の肉を食べている人を眺めて、気持ち悪くは無いのだろうか。
提供してくれているのに、まずいとは言いにくい。
それに実際、まずくはないのだ。
月一の食事は、残念ながら"不味い"と口にできる程、空腹的に余裕もない。
目の前に出されさえすれば、食べたくて仕方ない。
その食欲と、未練たらしい人間としての理性が葛藤し、行動としてはのろのろとした亀速度の食事になるのだ。
…けど、実際口で"美味しい"とも言いたくなくて、頷くだけにしておく。

「はい…」
「ふふ。それは結構。君には同胞喰らいの才能があるよ。君のような嗜好の者なら、何人か知り合いにいるからね。良ければ、今度会員制のレストランにでも…」
「いや、それはいいです」

十数回目になるお断りをして、ひっそりため息を吐く。
あれこれと"食事"への興味を引き立てようとしているのは分かるけど、一向にそれに見向きもしない僕を残念そうに見ながら、月山さんが頬杖をついて溜息を吐いた。

「うーん…。できれば、君には多くの味を知って欲しいのだけれど…」
「いえ、僕は…。…。僕は、本当に…月山さんだけでいいです…」
「そうかい? さっきもそう言ってくれたね。熱烈な言葉だ」
「熱烈? …そうですか?」
「Oui。そんなに僕は美味しいかい? 気に入ってくれて何よりだよ。今度僕も自分を食べてみようかな。ハハハッ」
「は、はは…」

軽く笑ってるけど、笑えるジョークじゃないよ…。
乾いた笑いには気付いてくれなさそうな月山さんは、場が落ち着くと改めて指を組んだ両手を顎の下に添えて、じっと僕を見た。
視線に居たたまれず、僕は僕で目の前の皿を俯くようにして見詰める。

「…」

…食べないと。
残すなんて月山さんに悪いし、食べないとあの地獄のような飢えがくる。
両手に持った食器で、薄い肉を食べやすいよう折り畳む…が、元々テーブルマナーなんてガラじゃないし、緊張のせいもあっていつも上手くいかない。
手を動かすと月山さんの興味もそっちに移ってくれたのか、危なげな僕の手元を見下ろしながらぼんやりと口を開いた。

「君はあまりテーブルマナーが得意じゃないみたいだね」
「そう、ですね…。あまり機会もないですし…。…へ、ヘタですかね? あはは…」
「僕でよければ、今度教えてあげよう。君が求める高尚な食事に、マナーは必須だからね」
「はあ…」
「しかし、光栄だがいつも僕の味で飽きは来ないのかい?」

飽きなんて、欲しくない…。
それこそ、この食事という行動が娯楽になり下がった証のような気がした。
僕には、食事が苦痛で丁度良いのだ。
それが一番、安心する。
上手くいかない手元を見下ろしたまま、ぼそぼそ口を開く。

「いいです、僕は…。月山さんのくれるもので、足りていますから…」
「ふーん…。…でもねえ、カネキくん。仮に、君がこうして僕を食べ続けたとしたらだよ?」
「え? …あ」

ひょい…と僕の左手からフォークを奪い、それ一本でうまく一口サイズに肉を折り畳んでいく。
最後にす…と閉じ抑えるように横にフォークの先を通すと、折り畳まれた薄肉を軽く持ち上げて僕の口の高さへ持ち上げた。
…差し出された生肉の向こうに、愉しそうな月山さんが笑う。

「君の躯をじわじわと、僕だけが占めていくことになる。…僕も君だけにしようか。そうしたら、僕らはどこまでも融け合える」
「…」
「まるで夢のようだね」

笑顔のまま、ん…と口元でフォークを揺らされ、数秒の後、真っ白くなった頭で震える唇を開けた。
虫を与えられる雛鳥のように吐き戻すことを思い立ちもせず、素直に数回、咀嚼する。
口の中に広がる味と香り。
これを元に、僕の体は僕をつくるのか…。

「…」

思考が変な領域に迷い込む。
互いの細胞を互いで補い支えられたら…確かに、それはとても完成された小宇宙かもしれない。

一枚食べ終わった僕に、月山さんが丁寧に食器を返す。
差し出されたフォークの柄を、左手でしっかりと握った。

 

 

 

食事が終わり、すぐに帰ればいいものを、先々月くらいから何となく一泊していく流れができてしまった。
一回泊まっただけで、月山さんちに何故か僕の部屋ができてるし。
案外この人も、必死に何かから逃げていて、必死に何かを求めているのかもしれない。
人間も喰種も、人って、結局変わらずそんなものなのかも。

「それじゃあね。お休み、カネキくん」
「はい。おやすみなさい」

ドアの前で、ぺこりと頭を下げる。
下げた頭を上げると、珍しく妙に普通の人みたいな穏やかな顔で、月山さんが僕を見ていた。

「…」
「…?」

疑問符を浮かべたら、急に彼がにこっと笑う。
いつもとは随分違う無邪気さすら見える微笑みに虚をつかれる。
…この人、こんな笑顔できるんだ。
そう言えばこの人、造形的には整ってるんだよな。
最初お店に来た時は、てっきりモデルさんかと思って…。
そんなことを今更のように思い出していると――。

「今宵いい夢を見るように、ヴェーゼをあげよう」
「ヴェ…?」

言うが早く、僕の首の後ろにふわりと重さのない手を回して添え、月山さんが頬にキスする。
信じられないくらいのナチュラルさで。

「…」
「Bonne nuit、カネキくん」

ビャッ…!と全身が固まった僕からすぐに離れてまるで演劇のワンシーンのように投げキス一つすると、片手を上げて自分の部屋へ向かってしまった。

 

冷たい廊下に残されて数秒。
はっと我に返り、真っ赤な顔で頬を押さえて慌てて部屋に逃げ込んで、しっかりと…しっっっかりと鍵を掛けた。



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漫画『東京喰種』の月カネ。
いきなりif設定で申し訳ないけど…何とか甘くしてみたくて。
カネキ君が黒か白かで、CP雰囲気がガラリと変わるのが月カネの魅力です。
あまり読まないジャンルの漫画なのではらはらどきどきしています。
2015.1.23





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