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ふ…と目が覚めると、既に日は高かった。
寝るときはいつも仰向けだけど、寝ている間に窓に背を向けて横になっていたらしい。
とはいえ、視線を窓の外へ向けることをしなくても視界に日差しが入ってくる。
…朝か。
横向きのまま、鼻先を枕に埋める。
ほんの僅か身じろぎしただけなのに、微かに鉄の臭いがした。

「…」

一晩過ごして細菌の増殖している口を僅かに開き、はあ…と息を吐く。
…もう、随分殺しているのに。
昨晩も隣の区に行って活動してきたから、比喩でも何でもなく血は浴びてきた。
いい加減、血の臭いくらい麻痺してくれてもいいような気がするけれど、こうして嗅覚が律儀に血液の香りを捉えてくるのが憎らしい。
勿論シャワーは浴びたけれど、それだけでは何故か取り切れない死臭を鬱陶しく感じながら、ちらりとベッドヘッドに置いてある目覚まし時計を見上げる。
実際にアラームとして使うのは携帯だけれど、ついつい置いてしまいその時計は、既に午前十時を指していた。

――ああ…。遅刻だ。

ぼんやりとそう思う。
だけど、それだけだ。
「遅刻だ」と思っただけで義務を果たしたような気になって、ごろりと仰向けに寝返る。
光に慣れない目を細めて、窓の外の空を一瞥した。
眩しいけれど、どうやら曇っているようだ。
…そもそも、はっきり約束を了承した覚えはないんだ。
もういいや。
疲れてるし、あんまり甘やかすのも良くないんだろうし、第一する必要は今はあまり感じないしな…。
つらつら自分なりの理由を並べて、再び目を伏せた。

最近は、すっかり殺戮にも慣れてきた。
肉体的にはそんなに疲れていないけど、やっぱり血で濡れてきたその日は、まるで心が逃げるみたいに押し寄せてくる睡魔に捉まる。
だから――今日は貴方に時間を割くことはできません。



rainy day




「…。東山魁夷展、か…」

…と、呟いた瞬間、自分でもしまったと思った。
たまたま、万丈さんたちもヒナミちゃんも出ていて、そんな時間帯に最悪にも月山さんがやってきてしまい(偶然かどうかは敢えてさておく)、いつものように人の私服をまた勝手に補充したり、別に飲みたいとも言っていないのにコーヒーを淹れてみたり、持ってきた薔薇をせっせと飾ったりしているのは分かっていたはずなのに、雑誌の裏表紙に掲載されていたその単語を、我ながら分かりやすく呟いてしまった。
案の定、さっきまでキッチン周辺にいたはずの耳敏い月山さんが、しゅば…!と僕が座っているリビングのソファ横へとやってきた。
片膝着いて、いつものように芝居がかって僕に片手を差し出す。
今、視線を動かしたら負けな気がして、僕はかたくなに膝の上の広告面を見詰め続けた。

「カネキくん…!それは来月よりの近代美術館の展示だね!」
「…」
「君が望むのならばすぐにでも手配しよう!上野の美術館や博物館には我が家の関係者が多く携わっているからね、お安いご用さ!!何なら、休館日に行ってみるかい? 誰にも邪魔されず、洗練されし美しい美術品の数々を君と二人で心ゆくまで堪能することもで――」
「触らないでください」

雑誌を持っていた僕の手に重ねてくる月山さんの手の首を持ち、ゴキッ…!と九十度回転させる。
特に悲鳴もあげず、逆にぶらりと力なく垂れ下がった自分の手首を恍惚と見下ろし、頬を赤らめる月山さんは通常運行だとしても、やっぱり気持ち悪い。
気を遣うような人は今は誰もいないし、少し行儀が悪いけど、背中を背もたれに預けて、ずるりと沈むように一人がけのソファに倒れ込んだ。
…"東山魁夷"。
神奈川県生まれの日本画家だ。
写実がベースらしいけど、幻想的で静寂に包まれた画風は魅力的だと思う。
昔はとても、素直に好きだったな。
けど、今は同じ好きでも少し違う気がする。
例えば、小説が好きな僕が、絵本も可愛くて好きだと感じる……とか。
上手く伝えられないけれど、何だかそんな、距離感のある"好き"だ。
何もかも、こんなに美しいわけがない。
そう感じてしまう心がほんの少し哀しいけれど…色々辛いけど、これに気づけてよかったんだと思う。

「…月山さん。運動、付き合ってください。僕の肩を一度でも床に着けられたら、ご褒美をあげます」
「…! 本当かい!?」
「まあ、無理でしょうけど」

不意に体を動かしたくなって、目の色を変えた月山さんを連れて地下へ下りる。
今の僕には、幻想的で静かできれいな絵なんて、必要ないんだ。

 

 

そんな話も一瞬したけれど、その時ばかりの話だとすっかり頭の中からは消えていた僕へ、再び月山さんが持ち込んできたのは昨夜、襲撃前だった。

「カネキくん」

マスクを着け、そろそろアウターを脱ごうとチャックに指を添えかけたところで、どこからともなく近寄ってきた月山さんがそれをやんわりと奪う。
少々意味深な感じで、胸から腹にかけてのチャックを下ろしていく彼に対し、今更あれこれいうつもりはないのでそれは好き勝手にやらせるとして、呼びかけられた名の後に続きがあるような気がし、尋ねてみる。

「何ですか、月山さん」
「先日の美術館のチケットだけれどね」

彼がそう言った段階で、もう無視を決めた。
もう皆戦闘態勢でそれぞれ持ち場へ向かう途中だ。
確かに、今回襲撃するグループはそこまで大きいわけではないから多少の余裕はあるけれど、油断をするつもりはないしそんなことができる実力でもない。
だが、それでも昔は何となく怖かったバーの雰囲気とか路地裏で屯している柄の悪い連中とかが、実はそんなに殺し合いができるわけでもないということも、すっかり分かってきた。
喧嘩と殺し合いは、全く別物だ。
こうして地下に潜って柄の悪い喰種だとしても、もう数をこなしている僕や元々理由さえあれば同胞を殺害するのにあまり抵抗がないというイカれた月山さんという無鉄砲なたった二人の襲撃者で何とかなってしまう。
どかんと一発驚かせてパニック状態にさせてしまえば普通は脆いもので、出口に殺到する集団はイチミさんたちだって十分だ。
彼らに任せしているし、信頼もしている。
逆に、動じない場数を踏んでいる喰種は出口には目もくれず突っ込んできた僕らに対峙しようとするから、僕と月山さんで捌く。
必然的に最適な盤上はできあがるのだ。
なので当然、白兵は僕と月山さんであり、喰種潰しではこうして彼と行動を共にすることが多い。
僕にとってはそれ以上でも以下でもないのだけれど、月山さんが積極的に組織を潰して歩こうとしているのは、要するに今のように他者の邪魔なく僕と傍にいたいがためらしい。
いたところで、特別何をさせてあげるわけではないのだけど。
無視を決め、ふい…と彼を無視して歩き出す。
脱皮するようにアウターを彼に預けて、ついでに靴を脱ぐ。
血色のつま先を見る度に、これが現実だと再認識する。
少し先にあるドアから向こうが、今日の舞台だ。
赫子の性質上、出しやすいようにとぱっくり背中に風が通った。
背後からの視線がものすごいが、もう慣れたものだ。
僕の無反応に屈することなく、たった今脱いだ僕のアウターを抱きしめるようにしつつ微妙に匂いを堪能しているらしい月山さんは、べらべらと続ける。

「特別招待券を二枚手に入れたから、良ければ明日どうだろうか。本来であれば日が落ちる夕方から閉館が君にはいいと思うのだけれどね、返って人の多い時間帯の方が目立たないのではと思うんだよ。何、趣味のいい帽子でも被ればその白髪はハイセンスで君にとても似合うとも!折しも明日は雨という予報なんだ。晴れの日よりは彩度も低くなるし君だって多少は外出しやすいんじゃないかと思ってね。そうさっ、たまには外へ出よう…!こんな日ばかりではなく、いつか僕と時間を共有したカフェはどうだい? 何ならレディを誘ってもいい。ああ、カネキくん!君が遠慮をする必要など何もないんだよ!望みたいものを望み、得たいものを得ればいいんだ!僕は君の為なら何でも――」

――パァンッ…!!

…と、一度赫子を一本出してそれで床を叩く。
不機嫌を表す猫の尾のように一度。
黙れ、と。

「…」
「これは、失礼」

すぐに察してくれた月山さんは、くすりと口元を歪め胸に片手を添えて優雅に一礼した。
趣味の悪い仮面越しなので表情はよく見えないし見たくもない。
動きにくくないのか、彼は今日もやっぱり趣味の悪いスーツを着ている。
月山さんが僕の前へ出て、唇に人差し指を添えてドアノブを握る。

「話の続きは終わった後でね」

そんな暇ないと思いますけど。
…唇に添えた人差し指一本で器用に僕へ投げキスしてから、バッ…!とドアが開かれ、つま先で床を蹴って喰種だらけのホールへと飛び出して行った。

 

 

 

その日の襲撃は、思った以上に時間はかからなかった。
予想していたより肉体も酷使せず済んだし興奮状態にもあまりならなかった分、精神が疲れた。
ぶっ飛んでしまえばそれはそれで楽ではあるんだ。
妙に冷静さが残ると、あれこれ考え出す頭が煩わしい。
何を考える余裕もないくらい、泥のように眠れたらよかったのに。

「月山さん、今日は帰ってくださって構いません。おやすみなさい」

空が明るくなる前にアジトに戻って、どうしても体が疼く時は月山さんに相手をしてもらうこともあるけれど、その日はいらなかった。
だからさっさと出て行けと伝えた時の彼の落ち込みようは見物だったわけだけど。
それでも、ただで帰らないのが月山さんだ。
散々だだをこねたが悉く無視している間に万丈さんに追いやられて靴を履いたようだけれど、廊下の奥を通りかかった僕を見かけるとすぐに玄関前で人差し指を中指を額に添えて、敬礼のようなウインクを投げてきた。

「それじゃあ、カネキくん。おやすみ。明日また!」
「ご苦労様です。おやすみなさい」
「いい夢を!」

…見られるわけないでしょう。
胸中で突っ込みを入れながら、僕も部屋へ戻ってベッドへ横になった。
すぐには眠れなかった。
爆睡できる程疲れたわけでもなくて、けど考える頭は止まらなくて、何度も寝返りを打ちつつそれでもいつもと比べれば早めに眠れた。

 

 

 

――そして、今に至る。
二度寝して、その後起きたらもう少しで夕方という時間帯になっていた。
手すりに片手を添え、トントンと階段を下りた。

「あ、おにーちゃん起きた?」

僕の足音を聞いて、リビングのドアからヒナミちゃんがひょっこり顔を出す。
昨晩の…というか時間的には今日だけど…出来事がまるで嘘のような穏やかなその言動に、胸がほっとする。

「おはよう、ヒナミちゃん。みんなはもう起きてる?」
「ううん。みんな、まだ寝てるよ。ヒナミだけ」
「…そっか」

少し言いにくそうにヒナミちゃんが両手を後ろで組んでそう教えてくれる。
みんな、やっぱり疲れたんだろうな。
繰り返すけど昨夜の組織は思った以上の手応えがなかったから、僕と月山さんに向かってくる人もそんなにいなかったし、殆ど万丈さんやイチミさんたちの方へ向かってしまったから彼らも大変だっただろう。
誰も起きてこなくてつまんなかっただろうな。

「寝坊しちゃったね。…ヒナミちゃん、コーヒー飲む?」
「うん!」

僕がそう尋ねると、ぱっと表情を明るくさせて後を着いてきてくれる。
リビングに入ると、レースのカーテンの向こうから雨音が聞こえてきた。
部屋にいる時は気づかなかったけど、いつの間にか雨が降っているらしい。
マグカップにそれぞれコーヒーを淹れて、今はヒナミちゃんだけだし、いつも座っている一人がけのソファではなく、横長のソファに並んで腰掛けて窓の外を見た。

「…雨、降ってるんだね」
「うん。お昼頃から降り出したんだよ」
「へえ…」
「…あ、そうだ。お兄ちゃん、月山さんから電話があったよ」

ヒナミちゃんの言葉に、傾けていたマグを戻す。

「何だって?」
「えっとね、"カネキくんはいるかい、りとるれでぃー!"ってかかってきたけど、まだ寝てるよって言ったら、じゃあいいよって」
「…そう」

何だかちょっと思い当たることがあるけれど、気にしないことにしてまたコーヒーを一口飲む。
約束らしき時間から、ざっくり六時間経過している。
…まさかな。
一瞬ちらりと考えたことを自ら鼻で笑い、頭から追い出した。
ヒナミちゃんが教えてくれる本の感想を聞いていたり、一緒にテレビを見ているうちに、程なく万丈さんたちも起きてきた。
やがていつものアジトの雰囲気も戻って来て、窓の向こうで日が落ちてくる。

「美食家さん、今日はどーしたんスかね」

窓の向こうを見て、ジロさんが何気なく口にした。
どこかを襲撃して各々落ち着いた次の日というのは、決まってアジトに集まってミーティングを行う。
仕入れた情報や対峙した相手の特徴、何か掴んだものなど、一人一人気づいたことを共有する時間を持つことは必要不可欠だ。
…とはいえ、全身運動した後にそうできるようになるまでは各々の回復時間が必要だから、大体こんな時間になるんだけど、僕や万丈さんよりも意味もなくタフな月山さんは翌日もしっかり朝から起きていつもの調子でここへやってきて、誰かが起きると既にいる…という印象が強い。
みんな内心では気になっていたんだろうけれど、「月山さんどうしたんだろう?」というその言葉を口にするのは何となく癪なものがあるので、ジロさんが言ってくれた今の今まで誰も気にしていないそぶりを貫いていた。
ジロさんの言葉を受けて、万丈さんが太い腕を組む。

「…ったく!あの野郎、まだ寝コケてるんじゃねえか?」
「昨日、結構ハってましたもんねー、月山さん。思ったほどじゃなかったんで欲求不満とか?」
「あー。思ったほどじゃなかったんで、カネキさんの手ェ煩わせる程じゃない、僕がやるーっつってたわ。そーいや」
「あ、そっち?」
「どーする、カネキ。連絡してみっか?」
「…」

いつもの一人掛け用ソファに座り、少し考える。
ミーティングは必要だけれど、正直それは月山さんがいないと話にならないことも多い。
サンジさんの言うとおり、昨夜は彼が随分捌いてくれていたので、あれこれ見聞きしている可能性が高いのも月山さんなんだ。
もう一度、窓の外を見た。
そんな僕の視線に気づいたのか、傍で本を読んでいたヒナミちゃんも窓の外を見上げる。

「雨、強くなってきたね」
「…」

彼女にそんな気がなくても、その一言は僕の踏ん切りを付けるには十分だった。
はあ…とため息を吐いて、立ち上がると部屋へ向かうため足を向けた。
リビングを出て部屋へ戻り、クローゼットを開ける。
中には、またいつの間にごっそりと入れ替えたのか、見覚えのない服や小物が追加されていた。
その中からまともなセンスのものを適当に選んで袖を通す。
再びリビングに戻ると、その場にいたみんなが不思議そうな顔で外出準備の僕を見た。

「カネキ? 出かけるのか?」
「はい。少し、出かけてきます。ミーティングは戻ってからで。それまではのんびりしていてください」
「オイ待て。出かけるなら連れを――イチミ!」
「うぃーっす」
「ああ、いいです。すぐに戻りますから」

暗に"着いてこないで欲しい"というニュアンスを入れて軽く片手を上げると、僕はアジトを出て上野へ向かった。

 

 

 

 

「――ハチ公は、渋谷駅にエサをもらいに来ていただけだそうですよ」
「そうかな? 主を待っている傍ら、心ある人たちに食事をいただけていたのだろう」

しとしと降り続く雨は本降り。
通り雨でもなければ霧雨でもない。今からも暫く続くだろうという安定的な雨だ。
それでもそこそこ人が多い駅前。
改札を出てすぐに気づけるような場所に、相変わらず個性的なセンスの、それでも持ち前の無駄にいい外見から"おしゃれ"としてカテゴリー分けされてしまうような私服姿で、月山さんは立っていた。
幸い、屋根がある場所ではあるけれど、一体ここに何時間いたんだという話だ。
たまたま僕が来た今の瞬間が立っているというだけで、まさか途中でカフェに入ったり休んだりしたんでしょうね。
じゃなかったら、本当に長い間、しかも雨の降る中を待っていたことになる。
いつもは見るからにぱりっとしたシャツやセットされている髪が、湿気を吸っているのか少しくたびれてみえた。
少し乱れた横髪を指先でそれとなく直す仕草は様になるから、内面を知っている僕とすれば宝の持ち腐れ感が半端ない。
向かい合うわけでなく、微妙に距離を開けた隣に立った僕を見、月山さんが胸に片手を添えて微笑する。

「よく眠れたようだね、カネキくん。今日は無理かと思っていたよ」
「無理かと思っていたのならこんなところで油売ってないで家に帰ってください。大体、はっきりと約束はしてないはずですよ」
「けれど、君がこうして現れる可能性はあったのさ。恋の奴隷の僕としては、そこに可能性がある限り、待たぬわけにはいかなくてね」
「時間の浪費だとは思わないんですか。この数時間、何ができたか考えてください」
「君のことを思う存分考えていられたね!」
「…」

気持ち悪い。
鬱陶しい回答に反射的にボディブローを叩き込みたくなったが、往来では流石にできない。
せいぜい睨み上げる程度だ。
だが、僕の殺意を込めた視線はどうやら月山さんにとっては好物らしく、まるでご褒美を前にした忠犬のような期待の眼差しが返ってくる。
暫し睨み合いが続いて、やがてふ…と月山さんが目を伏せた。

「僕の予想では、君もそうだと思うのだけれどね。僕にとっては君を待つことなど何の苦でもないけれど、こんな雨の中、僕がここで待っていやしないかと心を配ってくれたのではないかな?」
「僕がですか?」
「Non…!答えは求めていないよ、カネキくん!今こうして目の前に君がいる以上、言葉を求めるなどデリカシーの欠いたことはしないさ」
「…」

思わず半眼になる。
夢の見過ぎだ……と突け放したいけれど、ここにいる以上は説得力もない。
特に反応せず、改札へと踵を返した。

「戻りましょう」
「美術館へは行かないのかい?」
「時間見てください。もうやってないでしょう」
「パパンの知人が良くしてくれるはずさ!」

ばっと両腕を左右に広げる月山さん。
周囲を歩いている人たちが、一瞬だけ不思議そうな顔をしてこっちを見た。
人間の集団の中ではこの人といると無敵状態になることはままあることは分かっているし、正直ここまで出てきた以上は人気のない美術館を独占して鑑賞するという魅力は大きい。
けど、そんなことより…。
静かに目を伏せ、肩を落とす。

「…風邪ひいて使い物にならないと困るんですよ」
「What?」

小さな僕のつぶやきは、月山さんの耳には届かなかったらしい。
二度言ってやる義理はない。
瞳を開けて、侮蔑の眼差しで彼を見上げる。

「万丈さんたちがミーティングの用意をしているんです。貴方がいないので迷惑してるんですよ。さっさと戻ってください」
「何を。バンジョイくん達など、どうとでも――」
「僕の言い付けは守れませんか」
「…! まさか!」

放るように片手を払った月山さんへ、ぴしゃりと告げる。
はっとした顔の後、彼は二つ返事で頷くと着いてきた。
…ほんと、犬みたい。
改札をくぐり、ホームへ出る。

「君の気晴らしになれると思ったのだがね…。日を改めようか」
「もういいです」

再度機会を見つけて連れ出そうと思っているらしい月山さんの誘いを断る。
本人は残念そうな顔をして僕を見ているけど、そういう意味じゃない。
展示に興味はあるけど、僕にとって微妙に価値があるのはその展示自体じゃない。
懐だかどこにあるかは知らないけれど、要は今彼が持っている二枚のチケットの用意と、馬鹿の一つ覚えみたいに僕を待っていた今日の時間分を考えると、呆れるくらい時間の無駄だ。
その時間の無駄が、全て僕にかかっているのなら……僕はどうやら、その無駄に一番価値を感じているらしかった。
だから…。

「もういいです」

もう一度、冷たく言い放つ。
本当にもう呆れています相手にできませんもうこれ以上僕の手を煩わせないでください帰りますよ、くらいのニュアンスを持たせて。
ものすごくしょんぼりしているのは見れば分かるけど、一生勘違いしていて欲しいから何も言わない。

 

アジトに戻ったらミーティング前にシャワーを浴びさせて、コーヒーくらいは用意してあげよう。
そう思いながら、後ろを振り返らずに来た電車に滑り込んだ。



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最近雨の日が多いので雨の話を。
濡れた月山さんとか絶対いい男ですし、一歩間違えなければ普通の紳士なのに。
何だかんだカネキ君には月山さんがいないとですね。
2016.9.30





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