一覧へ戻る



「…兄さん。ごめん」

小さなアパートの一角。
家に帰ってテーブルに荷物を置くなり、廊下との境界線に立っている弟が片手をドアに添えて申し訳なさそうに謝ったので吃驚してしまった。
生まれて気付けば片親で、母も亡くしてしまってから僕らは二人で肩を寄せ合って生きてきたけど、弟は僕よりずっとしっかりしている。
だから彼が謝るなんて、よっぽどのことだと思ったんだ。
少し不安になりながら、振り返って尋ねてみる。

「え…。何、どうしたの?」
「月山さんのことなんだけど…」
「月山さん?」

月山さんというのは、僕のバイトしているカフェに出入りする喰種の人だ。
ちょっと変わっているというか変人というか変態というか…何だか物凄い勢いでアプローチされているような気がするけど、勿論僕も彼も性別は男だし僕にそんな気はないわけでっていうか月山さんに本気でそんな気があるとは到底思えないんだけど、でもそれっぽいから日常頑張って避けているつもりだ。
それに、そのことに気付いてくれている弟が、事あるごとに月山さんと僕の間に入ってくれるので安心できているという現状。
僕と違って赫子を持っている弟は喧嘩がとても強いから、この20区を他の地区の喰種が荒らしにきたり知り合いのテリトリーに割り込んだりすると追い払っているガードマンのようなことを請け負っているんだけど、最近それに月山さんが付き合ってくれているようで、結構二人で一緒にいるところを見かける。

「月山さんがどうかしたの?」
「それが…。僕が冗談半分で言ったこと、あの人ができちゃって…」
「…? ごめん、話が見えないんだけど…」

弟は喜怒哀楽があまり激しくないけど、どうやら微妙に悄気ているようだ。
話を聞けば事は簡単で、ルールを守らない喰種で、ちょっと厄介な組織があったらしい。
作戦を立ててから他の知人も誘って襲撃しようとしていたようだけど、その過程で弟が冗談交じりに月山さんへ「一人で潰してこれたら兄に頭を撫でてもらってもいいですよ」と言ったらしいのだ。
弟は冗談のつもりだったらしいけど…。

「…できちゃったんだ?」
「まあ…。何かできちゃったみたいで…」

青筋立てて脱力気味に尋ねる僕に、似たような感じで落胆している弟が溜息を吐く。
…うーん。
厄介な敵をたった一人でやっつけちゃうなんて、月山さんが強いということは聞いていたけど、本当に強いんだなぁ。
赫子を持たないし喧嘩も弱い僕からすると、弟や月山さんは本当に凄いと思う。
僕なんか、生まれてこの方本気で人を殴ったことすらない。
僕のような平和呆けしている奴や戦えない喰種たちの日常を守ってくれているのは、弟たちのようなルールを大切にしてくれる強い喰種のお陰だ。
いつだって感謝している。

「結果的に治安は守れて良かったんだけど、まさか本気でやるとは思わなくて…。言葉遊びのつもりだったんだ。…けど、それで…まあ、約束は約束だし…すごく嫌だろうと思うんだけど…」
「僕が月山さんを撫でてあげればいいの?」
「…できれば」
「分かった。いいよ。ちょっと恐いけど、それくらいなら僕にもできそう」
「嫌なら、破棄してくれるようお願いしようと思ってるんだけど」

そう言って、弟が癖でパキ…と垂れ下げていた両手のうち右手の指を鳴らした。
ちょっと暴力的な方法を取る時の癖だって分かってるから、何をどうお願いするんだか聞いてみたい気もするけど、弟は本当に強いから、それは流石に月山さんが可哀想だなって思う。
頭を撫でるくらならどうってことないと思うし、大丈夫。

「平気だよ。一人で会えって言われたら怖いけど、傍にいてくれるんでしょう?」
「それは勿論」
「なら、何の問題もないよ」
「…ごめん」

いつもどちらかといえば自信があるタイプだし落ち込んだり狼狽えたりしないせいか、珍しく気落ちしている弟が何だかちょっと可愛い気がした。
あったかい気持ちになって、テーブルの前に腰を下ろすと、手を伸ばしてクッションを引き寄せて隣に置き、ぽんぽん…とそこを叩く。
恐る恐るという様子で、弟がそこに同じように腰を下ろした。
…いつもは、わざわざ隣に座ることなんてないけど、たまにはこういう距離もいいと思う。
喰種として半端な僕は、赫子も出せなければ闘うこともできないし、弟のように両方の目を人間のような色にもできない。
ずっと眼帯をして隠している左の瞳は、今も黒くて赤い。
隻眼というだけで他の喰種には興味の対象であるのに、どういうわけか僕は狙われやすいようで、あれこれと絡まれているのを助けてくれるのはいつだって弟だ。

「謝る必要なんてないよ。いつも助けてもらっているのは僕の方なんだから」
「…こんなことくらいしか、僕にはできないから」
「十分だと思うけどなぁ」
「…」

安心させるように笑いかけると、弟はちらりと僕を見たあと、黙って俯いてしまった。
けど、何だかほっとしているようなのが分かるから、この話はこれで終わりにしようと話を切る。

「じゃあ、機会があったら言ってね。撫でるくらいなら準備とかいらないだろうし。…そうだ、これ。新しい本買ってきたんだ。僕まだ積み本あるから、先に読んでいいよ」
「…ありがとう」

書店の袋から新刊を取り出して渡すと、弟は両手で受け取ってくれた。
他の人と一緒にいる時のクールな弟は格好いいなと思うけど、こうやって僕と一緒にいる時の控えめな感じを知っているのは僕だけだと思うと、すごく可愛いなと思う。
身内贔屓ってやつかもしれないけどね。
早速ページを捲り始めている弟を隣に、最近お店にくる月山さんを思い出す。
…あの人、ちょっと変だからな。
心構えくらいは、必要かも…。

「ねえ。因みに、いつくらいになりそう?」
「来週くらいかな。流石に人目につくところであの人の頭を撫でるとか無理だから、月山さんのセカンドハウスみたいなので待ち合わせようかと思ってる」
「セカンドハウスなんて持ってるんだ。すごいんだね」
「作戦を練るときとか、ちょっと使わせてもらってるんだ」
「へえ…。そうなんだ」

弟の言葉が意外で、思わず声に感嘆が出てしまった。
…そうか、じゃあ家にお邪魔するなら手土産を何か持っていかないといけないかも。
お店で売ってる珈琲豆とかなら、喰種でも飲めるしいいかな。
僕らはあまり人間の社会に積極的に関わろうと思わなかったし、誰かの家にお邪魔するのはとても久し振りだ。
同年代の同性の家に遊びに行く…なんて、ヒデの家以外に行ったことがない。
彼は今どうしているだろうと、もう親しくできない友人を想った。


弟の好きな人




「…わあ」

目の前に建つデザイン住宅。
白を基調とした真新しい建物だけでも吃驚なのに、場所は高級住宅地だ。
月山さんとはいつもお店でしか会わないから、こんなにいい場所で暮らしているなんて知らなかった。
家を見上げて呆然とする僕の前に弟が出て、慣れた様子でベル……ではなく、鍵を差し込む。
しかも、鍵といっても普通の鍵じゃなくて、キーホルダーのようなものをセンサーに当てようとしている。

「鍵持ってるの?」
「時々僕も出入りするから」

さらりと言う弟。
改めてキーホルダーをセンサーにかざすとピピッと音がして鍵は空いたらしい。
すご…。
瞬いていると、弟はドアを片手で支えて中を示した。

「入って」
「あ、うん…!」

いや君のじゃないよね?と突っ込みたいような気もするけど、ごくごく自然な様子でドアを閉めると勝手にロックがかかって、少し驚いて手を引っ込める。
…あ、でも…すごい。
中も綺麗だな。
天井が高いや。
顎を上げて格好いい照明がある吹き抜けの天井を見上げていると、奥からこの家の主が顔を出した。
軽く両手を広げて、僕らを見るなりお店に来る時のように表情を柔らかくしてくれる。

「Bienvenue、カネキくん!」
「あ、月山さん…」

こっちに歩いてくる月山さんはいつも通り私服で、ただちょっと違うのはいつもと違って随分ラフな気がした。
たまにデザインが奇抜というか派手というか、そんな感じの時があるけど、今日は黒を基調としていて普通な感じだ。
少し離れて見てみると、やっぱり姿形は格好いい人なんだなと思う。
まず背が高いことが同じ男として羨ましい。
あれくらい足が長かったら、そりゃ運動オンチとかとは縁が無さそ……って…。

「ようこそ!待っていたよ」
「…!」

もやもやあれこれ思っている間に、すたすた笑顔で近づいてきた月山さんが、僕が思っていた以上の近距離まで来てものすごく自然に僕の右手を取った。
え…と思う間もなく、玄関ぎりぎりの所に片膝を着かれてしまい、ぎょっとする。

「わ、え…ぁ」
「来てくれたんだね、嬉しいよ!今日という日をどれほど僕が望んでいたかは筆――」
「月山さん。兄の皮膚にキスしたら殺しますよ」
「え…!?」

背後からの弟の冷めた一声に、ぴたりと月山さんが止まる。
言われて気付いたけど、喋りながら僕の手を口元に添えていたらしい。

「…」

あと少して月山さんの唇が触れるところだったらしい手の甲を驚いて見据えていると、俯き気味でいた彼の困ったような瞳と目が合った。
月山さんらしからぬ寂しげな瞳の色に絆されそうになる。
"駄目かな?"と問われているのが何となく分かるけど、無理ですから!
大体、月山さんはワールドワイドかもしれないけど、生粋の日本人である僕にはキスの挨拶は無理です。
今更青筋立てて首を振る…と、諦めたかのように月山さんは目を伏せてひっそり息を吐いた。
しょんぼりされてしまう。
…で。

「…Bienvenue!」
「ひぃいい…!?」

キスはしないでくれたが、ぴとっと僕の手に頬を添えてもう片方の手でこれでもかという程撫で回す。
ざわっと一気に鳥肌が立って声が詰まった。
…って言うか咄嗟に手を引こうとしたけど全然抜けない!

「うわッちょっ…!えっ、やだ!」
「今日という日をどれほど僕が望んでいたかは!筆舌に!尽くしがたいッ!!」
「違…っ。えええ!? や…離…!」

後ずさって腰も引けているのに手だけが抜けなくてパニックに陥る僕の背後で、ヒュッ…!と風切りの音がした。
直後、弟の赤い赫子が月山さんの腕を下から弾き上げ、同時にその体を、無駄な物が無く白くて長い綺麗な廊下の奥へ思いっきり吹き飛ばした。

 

 

 

 

 

廊下の壁が軽く崩れたけど、そこはスルーして僕らはリビングにお邪魔した。
広々とした空間に間取りの大きなリビングはそれだけで居心地が良く、案内されたソファはとても柔らかい。
そんな座り心地のいいソファでもまだ抜けない寒気に震えながら、さっき頬ずりされた手の甲をもう片方の手で無茶苦茶に撫でて何とかあの感触を霧散させようとするけど、なかなか取れない。
青い顔をしている僕の横に立っている弟が心配してくれる。

「大丈夫?」
「う、うん…まあ…」
「ごめん。僕の言い方が悪かったね…」
「あ、いや…。ていうかまずあの人の挨拶がおかしいと思う…」
「気分はどうだい、カネキくん」

廊下の方から声がして、振り返ると上だけ着替えた月山さんが入ってきた。
どうやら二階に部屋があって、そこから降りてきたようだ。
吹き飛ばされて寄れてしまったシャツと髪を気にして着替えてきたようだけど、「気分はどうだい?」って…それを真顔で言うあたり、やっぱり僕はこの人とは解り合えないような気がする…。
どう反応して良いか分からない僕の代わりに、敵意露わに弟がぎろりと彼を睨んでくれた。
その視線に気付いているのかいないのか、月山さんは芝居がかった仕草で胸に片手を添える。

「先程はsorry。急に触れたから、驚いてしまったんだね…。以後気を付けるよ。物事には順序というものがある」
「い、いや…。急にとかじゃなくてですね…」
「月山さん。以後は僕の許可があるまで兄には触れないでください」
「おっと、何故だろう。どんどん今日の趣旨から離れる気がするけれど、僕の気のせいかな?」

さっきよりもぐっと冷たくなった弟の声は聞いている方が冷や冷やするくらいだけど、慣れているのか月山さんにはさしてダメージになっていないみたいで、微笑されてしまう。
…けど、彼の言葉に目的を思い出して、慌ててソファを立ち上がる。
変な人だけれど、お邪魔しているのは僕らの方だし、挨拶くらいしないと。

「あの、すみません、後先になってしまって…。お邪魔しています。これ、よかったら…」
「ああ…。気にしなくていいのに」
「…そこで止まってください」

月山さんが僕の方に歩み寄ってくるが、彼が近くに来ると、す…と弟が一歩前に出た。
持ってきた珈琲豆の袋を僕から受け取ると、袋の上の方を抓んで、弟が月山さんに差し出し、「どうぞ」とまるで恩賜のような態度で手渡す。
そ、そこまで…? と思ったけど、当の月山さんはさして気にした様子はなく、袋にキスをした。

「ありがとう。嬉しいよ、カネキくん」
「はは…」
「じゃあ早速ですけど用件を手短に済ませましょう」

僕と月山さんとの間で、弟がさっくり進行させる。
弟の発言に、少なからず月山さんが残念そうな顔をした。

「すぐにかい? …弟くん。僕もカネキくんのご褒美を心待ちにしているけれど、その前に折角カネキくんが初めてこの場へやってきたのだから、ひとまずお茶でもどうだろう」
「無駄な時間ですね。結構です」
「人間の眼球をいくつか用意してあるよ」
「え…」

思わずぽろ…と声が零れ、一瞬遅れてはっとし口を押さえるが遅かった。
目の前に立つ弟も月山さんも、揃って僕へ視線を向ける。
まるでお菓子に釣られる子どもみたいで、ぐっと唇を閉ざした。
…。
い、いや…だって…っ。
眼球、好きなんだけど、必要以上に人間を傷付けることを好まない弟は大体人体の片腕とか片足とかそういう所を持ってきてくれるから、眼球はあまり縁がない。
勿論、僕だって必要以上に人間は傷付けない方がいいかなと思ってる。
生きていける以上の食事は必要ないけど…けどやっぱり、味として眼球は甘くて美味しいしぷにぷにしていて食べやすい。
筋肉とか内臓とはまた違う特別感っていうか…。
距離のある月山さんが、嬉しそうに僕に微笑みかける。

「カネキくんは確か眼球が好きだったね。君の好みを僕は承知しているつもりさ。若い女性のものだけを集めたよ。どうだろう。きっと君の口に合うと思うのだけれど」
「い、いえ…!結構です!」
「遠慮は無用さ。君たちは自身で食料を調達しているようだけれど、とてもヘルシーなものばかりと聞いているが…。たまには甘味もいいものだよ。…ねえ、弟くん?」
「…」

突然矛先を変え、月山さんは弟に尋ねた。
この場の決定権が弟にあると思ったんだろう。
少し沈黙し、弟はふいと一度僕を振り返る。
…特に会話はしなかったけど、一瞬のアイコンタクトで再び月山さんへ向く。

「…ありがとうございます。では、お言葉に甘えて少しいただきます」
「Biensur!是非、そうしてくれたまえ!」
「え…!い、いいよ…っ」

僕は慌てて拒否してみる。
確かに女性の眼球はずっと食べていないし魅力的だけど、でもだって月山さんだし…!
それに、人の家にお邪魔する…ということ自体あまり経験が無いから、それだけで居たたまれない。
不安に思う僕を、弟が再び振り返った。

「折角用意してくれているようだから、いただこう。僕も久し振りに食べたい気がする」
「そりゃ僕だって甘いものは好きだけど…。でも…」
「用意しよう。君たちはかけていてくれたまえ」
「お願いします」
「あ…」

どうしていいか分からず困惑している間に、月山さんが一度片手を広げてキッチンの方へ向かってしまった。
何となくその後ろ姿を見つめていると、弟がソファを示す。

「座ろう」
「え? …あ、うん」

促されて、黒い革製のソファに改めて腰を下ろす。
ふわふわだけど柔らかすぎず、本当に座り心地がいい。
改めて明るくて広い室内を見回すと、何だか場違いだなぁと思う。
…ていうか、弟がすごく月山さんに対して遠慮無くてびっくりする。
意外だ。

「…兄さん、眼球好きだったんだね」
「あ、うん…。好きっていう程じゃないんだけど、時々コーヒーと一緒に食べたくならない?」
「僕は味覚が壊れているから」
「あ…」

そこではたと思い出した。
そう言えば、弟は味覚を壊していたんだっけ…。
少し前にこの地区を荒らしに来た組織があって、更に追ってきたハトが来た。
どちらもうまく追い払えたみたいだけど打ち所が悪かったみたいで、体が回復した後も味覚は戻らないみたい…って。
…話してくれていたのに、すっかり記憶から抜けてしまっていた。
あんまり誰と何処で闘ったとかそういう話をしないから…。
それじゃあ、今まで弟は味のしない食事を食べていたことになる。
「おいしいね」と問いかければ、いつも頷いてくれていたから…。

「…。ごめん…。忘れてた…」
「いいよ。元々食に興味は薄い方だったし、まずさも分からなくて便利かもしれない。美味しくなかったりしたら、言ってね。僕じゃ分からないから。…今度は眼球も持ってくるよ」
「ありがとう。…けど、両方無くなったらきっと困るだろうから、片方だけにしてあげて。僕らで半分にすればいいんだし」

人間も両目とも無くなったら困るだろう。
そう言うと、弟は微笑して「そうだね」と同意してくれた。
ほっとする。
一息吐いて肩を下ろしたところで、ふと思いついた。

「あ、じゃあ…。僕がコーヒーを淹れようかな。飲み物もあった方がいいよね?」
「え…」
「えっと…。流石に僕が淹れた方が美味しい…と、思いたい…」

お菓子には飲み物が必須だろう。
眼球とコーヒーの組み合わせこそが理想だ。
ソファを立ち上がってキッチンへ向かっていった月山さんの様子を見に行こうと歩を進めると、後ろから弟も着いてきた。

「月山さん。よかったら何か手伝います」
「…単身であの人の傍に近寄らない方がいいと思うよ」

呆れたような声と顔の弟だけど…。
僕は僕で察することがあって、肩越しに背後を振り返り、思わず小さく笑ってしまった。

 

 

 

 

「はあ…。Tres bien…」
「あはは…」
「月山さん、邪魔です」

キッチンはやっぱり白が基調の綺麗なシステムキッチンだった。
絶対使ってないんだろうなぁ…と思う綺麗さだったけど、一応人間が使う一般的な器機は揃っていて、その端に立って腕を組み、どこかうっとりした溜息を吐いて僕らを見ていた月山さんの横腹を、僕のすぐ隣でカップを用意している弟が赫子で叩く。
バシッ…!とそれっぽい音がしたけれど、治癒力の高い月山さんだし全然傷付くことはなく、一歩横に蹌踉けただけで踏みとどまるどころか、その赫子を手にとってキスをした。
空かさず二発目がアッパーするように伸びた。
やっぱり変な人…。
けど、そんな月山さんの行動に弟はさして動じない。
…僕は赫子を持ってないから正確に感覚が分かるわけじゃないけど…今のって、要は手にキスされたようなものなんじゃないだろうか。
僕はかなり焦ったけど、それに全然動じないって…。
いいのかなぁ…。
横腹や顎を殴られても、すぐに傷が治っていた月山さんの目の前で、弟の赫子がザッ…!と床へ真横に線を引く。

「そこから入って来ないでください」
「そんな…!弟くん!今僕の目の前にあるこの光景がどれほど貴重なのか、君は分かってない…!カネキくんが我が家で僕のためにコーヒーを淹れてくれているんだよ!? 可能なら画家を呼びたい!!」
「ど、どうしてどこまで…」
「月山さん、邪魔です。あと一回言ったら背骨を折ります」
「おっと、それは流石に困る。ではキッチンへ入るのは諦めよう。…とはいえカネキくん。君の衣類が汚れてはいけない。エプロンをしてはどうかな?」
「そんな白いヒラヒラしたエプロンは断固着ません!…というか今どこから出したんですか!?」

何か凄まじい迫力で月山さんが片腕を前に出し力説するも、再三弟に叩き払われる。
それでもめげない月山さんは、流しの上にあるバーのようなオシャレなカウンターに片肘をついて、にこにことコーヒーを淹れている僕を凝視していた。

「君のコーヒーがプライベートで飲めるなんて…。嬉しいよ、カネキくん」
「いや、その…。これくらいでしたら…」
「遊んでいる暇があったらお菓子の用意をしていてください」
「してあるとも!」

弟に向かってウインクする月山さん。
気付けば、いつの間にかリビングにあった窓際のお茶用テーブルみたいな小さなセットのところに、お皿にのた眼球を始め、簡単なテーブルセットが出来上がっていた。
…何かナイフまであるけど、眼球相手にどうやって使うんだろう。
あんまり上等マナーで食べたことがないからぎくしゃくしてしまいそうだ。
抓んで食べられればいいのに…。
既に完璧に仕事をされてしまっていて、弟が無表情でありつつも不機嫌な顔になる。
その後も、カウンターに身を乗り出して僕にちょっかいを出してくる月山さんを弟が払う…という、そんな流れを二三度繰り返して、ようやくお茶に漕ぎ着けられた。

「わあ…」

テーブルクロスの敷いた窓際のセットで、女の人が憧れるようなイギリスの三段になっている小皿に色取り取りの人間の眼球や指先、耳など、甘めのものが形良く用意されている。
久し振りに食べた若い女性の眼球は、流石自称美食家の月山さんが用意してくれたもので、どれも普通のとちょっと違っていて本当に美味しい。
…何だかすごいや。
いつも休日っていえば、部屋やあまり人が来ないカフェで本を読んでいることが多いから、誰かとこういうお茶らしいお茶ってあまり経験が無い。

「美味しいかい、カネキくん、弟くん。おかわりは如何かな?」
「結構です」
「ありがとうございます。十分です。こんなにありますから」
「君の淹れてくれたコーヒーもとても美味しいよ」
「あ、ありがとうございます…。あの、でも…ちょっと見過ぎ…のような…」
「月山さん、すみませんが目障りです。ちょっと離れていてください」

丸テーブルを囲んで僕の右隣でコーヒーを飲んでいた弟が、座ってカップに視線を注いだまま、赫子で月山さんが座っている椅子を引いてしまった。
ずざー…と、月山さんだけテーブルから離される。
そのまま胴体と椅子を赫子の先でぐるりと囲んで抑え付けた。
反論してもよさそうなところ、月山さんは怒るでも焦るでもなく困ったような顔で優雅に足を組んだ。

「おや…」
「僕がいいと言うまでそこから動かないでください」
「弟くん。僕も同席したいのだけれど」
「すみませんが遠慮してください」

すっごい見られてたから助かるけど、でもこれ用意してくれたの月山さんなのにそれってやりすぎじゃ……と思ったけど、当の離された月山さん本人はすぐに気を取り直したらしい。
何かに気付き、は…!とした顔をする。

「ああ…!けれど少し離れるとこれはこれで素晴らしい眺めかもしれないっ!」
「…」
「兄さん。気にしたら負けだから。いないものと思って」
「あ、うん…」

それが最大のコツかもしれない。
弟に言われて、僕はなるべく月山さんを気にしないようにして、お菓子に専念することにした。
いつもは手で抓んで食べてしまうようなお皿の上の小指に、フォークを差してぱくりと口にする。
すごく美味しい。
ちらりと横を見ると、僕よりも食べる速度は圧倒的に遅いけど、弟も眼球を一つ静かに口に運んでいるところだった。
何となく様子を窺ってしまう。
何度か咀嚼して呑み込んだようだけど、美味しそうという感じではない。
…味覚がないのなら、当然か。
弟にとっては、栄養になりさえすればいいのかもしれない。

「…。ねえ…」

タイミングを計って、弟へ身を寄せ、ぽつりと声をかける。
弟が不思議そうに僕を見た。

「何?」
「仲が良いんだね」
「…」

弟と月山さん。
…言うと、弟は少し固まった。
それから、はあ…と溜息を吐いて、投げやりに皿の上のさして大きくもない目玉を、ナイフで切った。

「そんなわけないよ…」
「そう? すごく馴染んでる感じだよ。遠慮しない相手って、珍しいと思って。ちょっと意外」
「鬱陶しいだけだよ」
「最近は月山さんと見回りをしてくれているんだよね。マスターから聞いてる」
「使える人だから使ってるだけ」
「僕もそうだけど、戦える喰種ばかりじゃないから、すごく助かっているって。弟さんは強くて優しい人だねって褒めていて、僕まで嬉しくなっちゃった。月山さんも強いって有名だったらしいけど、そういうの興味ない感じだったみたいだし…。『彼に首輪をつけられるのは弟くんだけだよ』って感謝してるお客さん多かったよ?」
「…僕はつけた覚えないけど」

クールに、突け離したような言い方をする弟。
顔色一つ変えないし、声のトーンもそのまま。
けど、そういう耳の先だけが微妙に赤くなっていることに、彼の動揺を感じ取る。
あんまり感情が面に出ることがないから、耳の色が見分けのコツってことを誰も知らない。
…気付けるのは、きっと僕だけだろうな。

 

 

美味しいお菓子とコーヒーに満足した頃、月山さんリクエストの"頭を撫でる"を実行してみた。
縛られたままなのは可哀想な気もするけど、両手両足自由な彼の頭を撫でる度胸が僕にはやはり無く、弟が彼を椅子に縛り付けた状態だったので、そのままたどたどしく手を伸ばして撫でた。
人を撫でるという行為をあまりやったことがなかったので、たまにお店にくるヒナミちゃんを撫でるような感じになっちゃったけど…。
自分より身長も年齢も上の男性の頭を撫でるということに軽い抵抗を感じたけど、本人は何がそんなに嬉しいのか、相当喜んでくれて、微妙に引いてしまう。
…うん。
人間は主観的な生き物だから、自分以外はみんな"変わった人"だと思うけど、月山さんは特別に変な人だ。
分かってはいてもちょっと気持ち悪……いや、止めよう。この地区の治安を守ってくれている人なんだから。
何のプレイだろうこれ…とは思うけれども。
とはいえ、嬉しそうに僕の手を受けて大人しくしているのを見ると、まるで大きな犬の頭を撫でているような気分になって、こんなことを思うのは失礼だと思うけど、ちょっと可愛い気もする。

「…えっと。あのですね、月山さん」
「何だい? …おっと。手は離さないでくれたまえ。そして出来れば君の美しい指を鼻先に欲しいのだが」
「話は無視していいから。どうせ噛むと思うし」
「え…!?やだ!」
「おっと…。流石弟くん。僕のことをよく分かってくれているね!」
「もう十分だから止めていいと思うよ」

本当に欠片も月山さんを相手にせず、弟が僕に言う。
横で聞いていつか怒り出しやしないかとはらはらするけど、月山さんも月山さんで慣れている感じだ。
…流石に噛まれるのは嫌だな。
もしかしてこの人はまだ僕のことを食べたいのだろうか…。
そろり…と手を離す。

「あ、じゃあそろそろ…」
「ちょっと待ってくれ、Moncoeur!早すぎやしないかい!?」
「十分でしょう。撫でてもらえるだけ光栄に思ってください。…兄さん、お菓子まだあるよ」
「流石にそろそろお腹一杯だよ」

弟が言葉で再びテーブルを促すけど、遠慮無く食べてしまったのでお腹は膨れている。
どれも本当に美味しかった。
哀れを誘うような目の月山さんから一歩離れる。

「ああ…。カネキくん…」
「いや、そんな目で見られても…」

困ります…。
今さっき彼を撫でていた手をもう片方の手で防ぐように抱いていたけど、それを下ろして両手を揃え、頭を下げる。

「美味しかったです。ご馳走様でした。…それから、いつも弟を助けてくれてありがとうございます。弟のこと、これからも宜しくお願いします」
「…!」
「…何それ」

僕が頭を撫でている間、僕の後ろで月山さんを赫子で拘束していた弟が、背後から冷たい目で僕を見る……と同時に、何かを猛烈に主張したがっている月山さんの口を赫子で塞いで、ぎりぎりとその体を縛っている赫子も締め付けた。
僕には分かる。
照れ隠しというか、どう反応していいか困ってるんだろう。
…けど、これくらい心配してもいいはずだ。
本当に何もできないけど、僕は君のお兄さんなんだから。
強すぎる弟はいつも殺伐とした世界にいて、僕の分も含めて身を投じてくれている。
非日常を彼が支えてくれているのなら、無力の僕は僕なりに精一杯、彼の分も日常っぽいことを維持して与えていかなきゃ。
だから、それが恋愛なのか友情なのかは分からないけど、人に懐きにくい弟の仄かな好意くらい、応援したい。
…恋愛じゃないと思いたいけど!
むすっとした顔で先にテーブルセットへ戻る弟の方へ急ぎ足で戻り、僕も自分の椅子に手を添える。

「あのさ、三人で普通にお茶にしようよ」
「あの人がいると普通にならないから」
「けど、月山さんが用意してくれたお菓子だしさ…。さっきから彼は食べていないし、一口くらい…」
「…」

食い下がって言うと、弟は椅子の背もたれに寄りかかったまま、気怠げにもう一本赫子を取り出すと、自分のお皿の上にあった半分食べ終えている人間の右耳を、器用にひょいと持ち上げた。
椅子に座りながら見守っていると、それが拘束されている月山さんの目の前に差し出される。
…あ。
これは解放してあげるとかそういうんじゃない……と、早くも青筋を立ててしまう。
弟が、蔑んだ目で距離のある月山さんを見る。

「今回はご苦労様でした。けど、今回の件、本当は冗談だったんです。条件を提示した僕がいけませんでした。今後は単独行動は控えてください。…死んでも知りませんよ」

言うが早く、ぱっと月山さんの口を拘束している赫子を取り外し、物凄く投げやりにその口に耳を放る。
…何だか、水族館のイルカショーとかを思い出した。

 

「泊まっていきたまえ!」「結構です」…のやりとりを月山さんと弟が五 六回繰り返し、やっと彼の家を出る頃には街は夕暮れでとても綺麗だった。

 

 

 

 

 

今日も弟は外出中だ。
たまに日中でも、町をぶらぶらして他の地区の喰種が紛れていたら声をかける…ということを、まめにしてくれている。
前は一人で大丈夫かなと心配していたけど、今は結構月山さんと回ることが多いみたいだから、安心だ。
あの二人を同時に相手にして喧嘩勝ちするということは、なかなかないと思うし。
終わったら二人でお店に来てくれるらしいから、二人にコーヒーを淹れることが、今からとても楽しみだ。



一覧へ戻る


カネキ君双子設定その2。
白カネキ君にはやっぱり月山さんの気がします。
黒カネキ君にはヒデくんで。
2015.5.22





inserted by FC2 system