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「おにーちゃん。これ何て読むの?」
「うん?」

平日の昼下がり。
戦闘の参考になるかどうか、何となく人体百科事典を読んでいた僕のところへ、ヒナミちゃんが一冊の本を手に歩み寄ってきた。
見せてもらうと、それは芥川龍之介の『蜘蛛の糸』だった。

「どれ?」
「これ」
「ああ…。"カンダタ"だよ」

ヒナミちゃんの細い指の先にある三文字を読み上げる。
蜘蛛の糸の主人公、カンダタ。
「陀多」は読めるかもしれないけど、その前の「カン」は難しい漢字だ。
建設の「建」の左側に牛部の部首がついている。
僕が答えると、ヒナミちゃんは感心したような声をあげた。

「へえ~。見たことない漢字だー」
「僕もここ以外ではあんまり見ないかな。とっても難しいよね」
「"かんだた"さんだね?」
「そうだよ。…ごめんね、ちょっと読みにくいね。もう少し簡単な表記のものはなかったかな…」

僕は少し昔の堅苦しい文体も好きだから、原作に近い表記のものを選んできてしまった。
本や物語にだって、生まれがあって、誕生日がある。
流石に日までは追えないけど、生まれた年が分かっているのなら、なるべくその本の本来の文章で読んで、文体と語感が持っているリズムのようなものも感じたいからなのだけれど、ヒナミちゃんには当然難しい。
現代訳されているものや、少なくとも現代表記されているものでないと、近代小説は難しいかもしれない。
案じる僕に、彼女はにこりと笑いかけてくれた。

「大丈夫。読めるよ」
「そう? …また分からない漢字があったら聞いてね」
「うん、ありがとう!」

また一つ読める漢字が増えたことが嬉しいのか、ヒナミちゃんは大切そうに本を抱えると隣の部屋へ戻っていった。
その小さな背中が消えるまで、あたたかい気持ちでそちらを見送る。
目を伏せて、数秒。
長い瞬きの後、瞳を開く。
…肩越しに背後を振り返ると、今僕がいるソファセットの向かい端に腰掛けて僕らのやりとりを眺めていた月山さんと目が合った。

「…月山さん」
「何かな?」
「機会があったら、『蜘蛛の糸』の絵本か現代語訳されているものを買ってきてください」
「他ならぬ君とレディの為だ。明日にでも」
「お願いします」

にこりと微笑するその顔を淡々と見据え、やがて溜息を吐いて視線を反らして再びソファへ腰掛ける。
途中になっていた読書を続け、ぺらり…と一枚捲ったところで、月山さんが口を開いた。

「正解って、あったと思うかい?」
「…? 何がですか?」
「蜘蛛の糸さ」

月山さんが組んでいた足を組み替えながら、片手を軽く振って僕に問う。
彼の雑談に耳を貸す気は基本的にないのだけれど、その問いかけには興味が湧いた。
他の亡者が昇ってくるせいで糸が切れやしないかと、彼らを蹴落とそうとしたカンダタ…。
その行動を取った途端に切れる糸。
…少し考え、馬鹿馬鹿しくなって、目線を下げて文字を追った。

「…ありませんよ。正解なんて」
「おや」
「あれは切れるようにできていたんです」

一見すると、"他者を蹴落とし自分だけ助かりたい"という人間のエゴや強欲を咎める話に見える。
だが、逆にカンダタがあのまま昇り続けたら、無数の亡者を連れて極楽に昇れたというのだろうか。
勿論解釈は人それぞれだろうけれど、僕は有り得ないと思っている。
御釈迦様だって、広い意味では仏教を構成する一人の登場人物だ。
彼のできることは無数にあるだろうけれど、彼一人の意見ではどうにもできないこともあったはず。
死後の世界は今となってはあまり信じていないけれど、もし極楽も地獄もあったとして、地獄の亡者をカンダタに着いてきたからという理由で全て救いはしないだろう。
仮に、上まで昇ってきたカンダタのみを救って他の亡者を再び堕とすのなら、今彼に試そうとした"慈悲"って何だっけ?という話になってくる。
物語に、"もしも"はない。
カンダタは救われない。
正解の行動なんて有り得ない。
…僕の答えは、どうやら月山さんにとって面白いものだったらしい。
何故か嬉しそうにくすくす笑い、片手を口元に添えて僕を見据えた。

「なるほど。そうかもしれないね」
「生前、盗人だったんです。蜘蛛一匹助けたのが唯一の善行だったくらいですから、相当だったと思いますよ。…それだけのことをしたんだ。教訓を与える良い短編だとは思いますが、主人公本人についてのみ限定すれば、死後くらい素直に地獄に堕ちるべきです」
「カネキくん。今自分のことを言ったね?」

月山さんが悪びれもせず、指の腹を上にして、ぴっ…と人を指差して問いかける。
気分を害して、僕は少しだけ視線を上げ、前髪の陰から彼を睨んだ。
…本当に苛々する。
月山さんのこういう妙に聡いところ。
睨み上げる僕の視線をものともせず、月山さんは目を伏せて軽く息を吐いた。
次に目を開けるとき、全く見当違いの方を向いては両手を軽くあげる。

「高々盗人と高尚なる目的あっての犠牲あるである君とでは、雲泥の差だよ。感傷的になり、傷付く必要はない」
「誰も傷付いてなんていません」
「そうかな? 僕には自分で自分の喉に、言葉というナイフを突き付けたように見えたけれど。…ああ。君には自虐癖のようなものがあるから、君の下僕たる僕は不安でならない」
「そうですか。たくさん心配してくださって、ありがとうございます」
「礼には及ばないよ。当然のことさ」

嫌味で言ったのに真正面から受け止められ、胸に片手を添えて頭を下げる月山さん。
分かっていてやっているのか本気で分かっていないのか…どちらにせよ厄介で鬱陶しい。
僕の方はそれで話を終わりにしたかったので、わざわざ彼に移した視線をページに戻す。
…どこまで目で追ったか分からなくなってしまった。
一枚、ページを戻す…と。

「抱き留めてあげるから安心したまえ」

まだ話を終わりにしなかったらしい月山さんが、ぽい…と言葉を投げてきた。
無視することにするけど、彼は続ける。

「この物語の主人公が君だと仮定しても、なるほど、正解など有りはしなかったのかもしれない。…が、カンダタに無くて君にあるものがある。分かってくれるね、カネキくん。そうとも」
「赫子ですね」
「Non…!この僕さ!!」

…文字を追う目が半眼になる。
言って欲しいの分かっていて避けたのに強引に主張された。
顔を上げる気にはなれないが、きっと得意気に自分を示してきらきらしていることだろう。
そうですか…。
はいはい。
嬉しいですよまったく…。
どうしてこの人はこうも自分に自信があるんだろう。
時々羨ましくなる。

「糸が切れたとして、それが何だというのだ。君がどれ程の高みから堕ちようと、僕が受け止めてあげるから心配ご無用」
「結構です。僕に構わず、月山さんは遥か彼方のエリュシオンへどうぞ。そっちの方が似合いそうですよ」
「おや。君が地の獄へ堕ちたいというのなら、僕も従うまでさ。今更だろう?」
「…」
「君が孤独に哀しむ必要なんてない。今だってね。…だが、これを識るには時間がかかる。いつか気付いてくれればいいのさ。尤も、君の場合気付くには底まで落ちる必要があるだろうから、気付かなくてもそれはそれで構わないけれどね」

ぺら…。
指先がページを捲る音が、彼の言葉を遮るように響く。
…そんな気はないのに。
絶対半分くらい嘘なのに、じわじわと胸があたたかくなってしまう僕は、本当に容易い。
気障ったらしいそんな言葉がぼんやり嬉しいなんて、どうかしてる。
けど、彼が僕の傍にいてくれるのはそろそろ解ってきている。
僕は孤独だけれど孤独ではなく、孤独ではないがとても孤独だ。
どうやっても埋まらない、奈落に続く穴はある。
だが、仲間がいるのだ。
…分かってる。
分かっているから、崩れつつも立っていられるんだ。

「…。月山さん」

エサをあげようかな、と思った。
たまには。
…名前を呼びながら栞を挟み、本を閉じる。
ようやく顔を上げると、彼は突然顔を上げた僕を少し意外に思ったのか、不思議そうに様子を眺めてたが、目が合うと、微笑してくれるのはいつものことだ。
そこに特別何を思うわけでもないけれど…その事自体が、既に僕が孤独でない一つの証拠でもあった。
お粗末なパンの欠片のような。
…それでも、僕にとっては貴重な"あたたかさ"だ。

「何かな、カネキくん?」
「キスでもしますか」
「…!」
「もしよかったらですけれど。…どうぞ、こちらへ」
「…。何の罠かな?」
「少し甘えたいだけです。気分でないのなら結構です」

微妙に警戒されるあたり、ちょっとだけ自分の態度を後悔する。
たまに甘えてみると罠だと思われるくらい、僕は日頃冷たいかな。
自覚はあるけど、そこまでではないと思ってるんだけどな…。
何だか気が抜けて苦く笑うと、月山さんが席を立って近寄ってくる。
いつもなら隣に座るのもあまり好きじゃないけど、今はいいかなって思える。
…僕は決して幸福とは言い難い。
けど、一緒にいてくれる人たちがいるし、僕の為に確かに血を浴びて手を汚してくれている人も、こうしているのだ。
不幸とも言い難い。
絶望の底にいるからこそ、気付ける些細すぎる幸福がある。
本の表紙に添えていた僕の手を、月山さんが取る。
いつも低温を感じさせる切れ長の双眸が、見るからに熱っぽい。
僕みたいなのに入れ込んで、趣味の悪い人だなぁといつも思う。
月山さんだったら、その気になればもっといい人たくさん見つかりそうなのに。
…とっても、助かってるけど。

「…キスで止まれないかもしれない」
「安心してください。殺してでも止めます。そこまでじゃありません」
「だがね、カネキくん…」
「止まれますね」

有無を言わさず、命じる。
近距離で見つめ合う…というよりは睨み合うが正しいような眼力の応戦が一瞬ある。
困ったような顔で何か言いたげな月山さんにもう一度。

「止まれますね。貴方は、僕の気分と機嫌を、よく知っているはずです」
「…」
「何なら、予め両腕を折っておきますか。その方が、月山さんも安心して僕にキスできますよね」

パキ…と右手の指を鳴らしながら提案してみる。
やっぱり何か言いたげな月山さんは、しかし付け足した僕の言葉に僅かに微笑した。
…やがて、諦めたように息を吐いて切れ長な双眸を伏せる。
次に開ければ、目の前にいるのは素直で凶暴でそこそこ可愛い、僕の愛剣だ。

「…dolce」

片手を頬に添えられ、顎を親指で軽く持ち上げられる。
ひやりと冷たい掌と唇。
キスをあげる時はいつも殺されそうで、心臓が高鳴る。
その悪寒がちょっと癖になっていて、気持ち良くて目を伏せた。


蜘蛛の糸と白椿




たまに死にたくなる。
何もかも捨てて、死んでしまえたらどんなに楽なんだろうなと思う。
今、貴方が首の骨を折ってくれたら、僕は楽になれる。
けど、まだこの人にその気はなくて、鬱陶しいくらいに監視されて、僕を支えてしまうから…。

たまにそれがちょっと辛くて、そうしてやっぱり、とても嬉しい。



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ちょっと殺害願望。
「白椿」=カネキ君の首折りの意です。
一応いちゃいちゃしているつもり。
2015.4.13





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