高槻さんのサイン会にヒナミちゃんと行ってから、久し振りに太陽の下を歩いて、久し振りに真っ当な人の中を歩いて…思った以上に気晴らしになった。
たまには、こういうのもいいんだろうなって。
両手を血で染めている僕でも、歩くくらいは、いいかな…って。
いつもだなんて云わない。
何もしないから、ほんの少し、明るい場所を歩かせて欲しいんだ。
だから、一週間に一度くらい。
本当に僅かな、三十分くらいを。
本と、アイスコーヒーをポットに淹れて。
アジト近くの公園へ行くのが、僕の小さくて大切な習慣になった。
…。
このポットのコーヒーがホットになる季節まで、続けていけたら…いいな。
夢を見た。
赤と黒がどろどろに溶けた夢だ。
リゼさんとヤモリがいたようないなかったような気がするけど、トーカちゃんが泣いている映像があってそれ以前のものは何を見ていたか忘れてしまった。
すぅ…と呼吸を思い出して、肺へ酸素を送る。
それから、ゆっくりと目を開いた。
…公園で座る場所はいつも決まっている。
藤棚…ではないけれど、植物が屋根をつくっている場所の下に、古びたテーブルセットがある。
誰も座らなそうなこの場所は誰も気にしなくて、いかにも自分にぴったりだろうと思っている。
誰もこの公園の片隅には気を配らない。
それでも…テーブルを挟んだ真正面に、見知った顔が座っていた。
「…」
「おはよう、カネキくん」
ずっと目を瞑っていたせいか、太陽が眩しい。
覚醒しきらない右目を細めて、もう一度ゆっくり瞬きをし、僕と同じ木漏れ日の中にいる相手を見た。
月山さんだ。
…いつからいたんだろう。
気になるけど、寝起きの頭はぼんやりしていて大した問題でないことを考えることを放棄している。
うっすら空けた瞳が、相手が知っている人だと分かるや否や、再びうとうとと閉じていく。
「いい場所だね。…今日は暑すぎず寒すぎず、いかにも好い気候だ」
「…」
月山さんは声がきれいだ。
整っている。
こうやって目を伏せて彼の声を聞くと、日頃は意識しないその事実を思い出す。
…僕もこんな声だったらよかったな。
斜め下に沈むようなイメージの僕の声と、逆に斜め上に飛ぶような彼やヒデの声は随分違う。
聞いていると安心するんだ。
「だが、こんな場所でうたた寝だなんて…少々不用心ではないかな? 君は一部では有名人だからね。疲れているのなら、戻ってベッドで休みたまえよ」
「…。風に…あたりたいんです…」
目を伏せたまま声に応える。
自分の声が、寝起きの鼻声であることが分かった。
もやもやした曇った声でも、月山さんには聞こえたらしい。
「なるほど。我が主はこの爽やかな風を愉しみたいというわけだ。それから、木漏れ日や葉の音もかな?」
「…はい」
「確かにそれは室内では得られないからね。では、いつ頃起こせばいいだろうか」
「…。あと、十分だけ…」
「了解」
「…」
彼の云うとおり、こんな場所で眠るなんて不用心かもしれない。
僕の顔を知っている人は知っているだろうから。
けど、"剣"プラス目覚まし時計がいてくれるのなら安心だ。
あと十分は、こんなにも穏やかな木漏れ日の中にいられる…。
意識が浮いたときと同じように、またすぅ…と息を吸った。
…不意に思い出す。
ああ、僕――…月山さんの前で、眠らないようにしていたのに…。
いつ喰べられるか分からないから、彼の前では絶対に眠らないようにしていた。
だから夜も、アジトから彼を追い出していたのに。
これじゃあ本当に、本末転倒だ。
そうは思うけれども、座ってうとうとしているだけだった体が、何を思ったかテーブルに両腕を重ねてそこに頭を置いてしまう。
「…」
学校にいる時の、ちょっとした休み時間のように。
両腕に頭を重ねてテーブルに伏せて眠る。
僕はいつから、こんなにもこの人を信頼するようになったのだろう。
いつ裏切られるかも分からないのに。
次に目が覚めることはないかもしれない。
そんなことを思いながらも、残りの数分、初夏の風に誘われるまま意識を手放した。
僕は知っている。
僕は何をされるでもなく、十分後に優しく起こされ目を覚ます。
僕が寝ているということは、彼にとってチャンスであるはずだ。
けれど彼は今、僕を殺すことはないだろう。
何故なら、僕がまだ彼の"理想"ではないからだ。
目の前にあるチャンスを見逃される時はいつだって――…。
「そろそろ時間だよ、カネキくん」
ぽん…とごく自然に肩に手を置かれる。
寝惚け眼を僅かに開いた。
…また喰べられなかった。
月山さんにチャンスを見逃される時は、いつだって少し哀しくなる。
まだ今の君では不十分と云われた気になるんだ。
何度だって云われた気になり、何度だってこうして胸に雲がかかるから、また僕は彼を苦手になる。
…。
どうしてなんだろうと自分で思うけれど…。
僕は、おそらくこの人を好きになってしまったんだろう。
馬鹿だなと自分でも思うのですけど…。
貴方が喰べるのを我慢できなくなるくらいの、僕になれたらいいのにな…って、こんな時いつも思うんです。