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目下、僕は悩んでいた。
僕の親友のカネキくんが、一切食事をしてくれないのだ。
お陰で体調を崩し、すっかり憔悴し衰弱しきってしまっている。
ぎりぎりで繋いでいるようだが時々支離滅裂なことを言ったりやったりする程度に精神に異常を来している様子は、見ていてとても辛い。
それでも人肉を食すのは嫌だと僕が用意する食事を拒み続け、芳村氏から送られてくるキューブばかりを口にする日々…。
しかし、そろそろ限界だと思うのだ。
鍵はかけていないというのに、まるで自らを危険な存在だとばかりに部屋からは出て来ないし…。
無理矢理抑え付けて口にさせようと思いもしたけれど、彼の赫子はなかなか厄介で、本気で拒まれれば近づき取り押さえるのは、僕でもなかなか骨が折れる。

「困ったものだ。…ふぅ。僕は何て無力なんだ。僕が彼の為にできることは、何も無いのか…」

あんていくのカウンターで首を振り、片方の頬杖をついて溜息を吐く。
自らの無力に嘆いている僕を、クールな霧島さんはくだらないとばかりに鼻で嗤った。

「つーかアンタの家にいるから余計ヒッキーになってんでしょ、アイツ」
「心外だね、霧島さん。カネキくんは自ら僕の協力を求めたというのに」
「引きこもる部屋よこせって使われただけだっつーの。しかもマスター経緯で知り合ったってだけじゃん」
「まあまあ…」

僕らの会話を横で聞いていた芳村氏が、カウンターの内側から柔らかく笑って僕らを止める。

「確かに顔見知りにしたのは私だが、カネキくんが選んだんだ。当分は様子を見てみよう」
「芳村氏…。申し訳ないが、カネキくんに例のキューブを送るのを止めていただけますか」
「…何でよ」

芳村氏に伝えたつもりが、霧島さんが半眼で僕を睨んで返してきた。
レディにはどうやら不服のようだが、同じように僕だってキューブで餓えを凌いでいるカネキくんの今の状態には大変な不満があるのだ。

「そもそもあんなものが目の前にあるから、彼はそこに縋ろうとするんだ。傍で見ていてご覧。効果が切れた途端、まるで薬が切れたように再び苦しみ出すその様子は、見ていて胸が締め付けられる。彼に一刻も早く食事をさせるためにも、あんなまやかしの品を口にするのは良くない」
「アンタはただカネキの肉質が心配なだけでしょ。喰う気でいるのバレバレだから。…言っとくけど、カネキのこと喰ったらぶっ殺しに行くからね」
「ふ…。心外だね、lady。約束は守るさ。だが、カネキくんが"食べてもいい"と言ってくれたら話は別だ。同意は許される約束でしたね、芳村氏?」

芳村氏へ視線を投げると、彼は困り顔ではあったがゆっくり頷いた。
半喰種となってしまったらしいカネキくんには後見人が必要だ。
変にちょっかいを出されないよう、ある程度この20区で顔の利く…ね。
前に店内で何度か会ったことがあるとはいっても、人を避けているカネキくんと話をしたのは数える程であり、そんな中でこの僕に声をかけてくれた芳村氏には感謝をしている。
未だ受け入れがたい現実に苦しんでいるようだけれど、カネキくんはとても魅力的な人物で潜在能力も高い。
そんなことは彼を見れば……いや、彼の香りを嗅ぐだけで分かる!
赫子の様子が多少嫌な記憶を呼び覚ますが、あの傲慢な女と違いカネキくんは謙虚で控えめで博識で、実に物腰も柔らかく僕好み。
故に、僕としては何とか喰種として立派になって欲しいものだ。
そして完璧に管理し素晴らしい肉質にして、時折食させてもらえるような間柄になりたいものだ。
その為に時間は惜しまない。
こういうものは、数十年先を見越して動くものだ。
一日二日で良い味になるのなら世話はない。だがそこが醍醐味!
半喰種にして隻眼だなんてこんなにも素晴らしい逸材を僕に託してくれるなんて…芳村氏には感謝をしなければ。
…が、キューブはいただけない。

「何とかカネキくんが、食事を口に運んでくれればいいのだけれど…。まずはその極端に閉じてしまっている心を開く方法を探らなければならなそうでね」
「アンタ相手じゃ開くもんも開かねーから」
「いけないね、レディにあるまじき言葉遣いだ。恋でもしたまえ、霧島さん…」
「キモ…」
「そう、この僕のようにっ!」
「死ねッ!」
「おっと」

他の客が少ないのをいいことに、ぶん…!と霧島さんが僕へ布巾を投げつけた。
目を伏せて片手の甲でそれを遮り、少し湿った手の甲をハンカチで拭く。
…まったく。
相変わらず手癖が残念なladyだ。
まあ、その好戦的なところが彼女の魅力のひとつなのだけれど…。

「そうだねえ…。彼は今、自分のことを大切にできていない。…とても難しいところだ」

カップを磨きながら、芳村氏が困ったように眉を寄せる。
彼の言うことに頷く。
全くその通りだ。
カネキくんは自身を尊ぶことを知らない。
芳村氏の言葉に、僕は胸に手を添える。

「僕が何度"君を愛している、君がいないと生きていけない"と告げたところで、飢餓に苦しむ彼は耳を貸してはくれないのです」
「逆効果だろソレ…」
「おや、何故?」
「うーん…」

にこにこと相槌を打っていた芳村氏は、やがて磨いていたカップを置いて、静かに頷いた。

「そうだね…。それなら、何か育てさせてみるとかはどうだろうか」
「カネキくんにですか?」
「植物とか小鳥とか…うん、動物の方がいいかな。…彼は優しい子だから、自らが何かの命を預かっているともなれば、自分を蔑ろにしない子だと思うよ」
「ふぅん…。なるほど…」

顎に手を添え、納得する。
確かに、一理ある。
さすが芳村氏。
とても現実的なご意見だ。
胸に片手を添え、軽く頭を伏せた。

「さすがは芳村氏でいらっしゃる。…素晴らしいアドヴァイス、感謝致します」
「…チ」
「舌打ちとは頂けないね、霧島さん。そんなに僕の気を惹きたいのかい?」
「は? バッカじゃないの?」
「気持ちは嬉しいのだけれど、今の僕の全てはカネキくんのも――」
「帰れ!」

再び飛んでくる布を、イスから立ち上がりつつ避ける。
芳村氏に挨拶し、霧島さんにウインクを添えてあんていくを出た。

 

 

…さて、果たして何がいいだろうか。
カネキくんを笑顔にさせる為に手段があるというのなら、どのような手も尽くさなければ。
駅までの道を歩きながら、考えを巡らせる。
小鳥、犬、猫、リス…熱帯魚?
室内で飼えるものがいいだろうけれど…個人的な好みを言えば、獣はご勘弁願いたい。
カネキくんの豊かな香りの邪魔になる。
…となると、魚がいいだろうか。
イメージではあるが、彼はアクアリウムとか好きそうだ。
リラクゼイション効果もあるだろうし。
大きな水槽を用意して、熱帯魚をいくつか…。

「キャ…!」
「…! おっと」

考えながら歩いていたせいで、向こうから通行していた女性にぶつかってしまった。
蹌踉けた彼女の手を取って胸の前にもう片方の手を添える。

「失礼。考え事をしていたもので…。お怪我はありませんか、レディ」
「え、ぁ…は、ハイ…」
「それは良かった。…では」

そっと彼女の手を離し、背を向けてまた歩き出す。
…。
ああ、そうだ…。
今のことで、はた…と盲点に気づく。
飼い人でいいんじゃないだろうか。
僕はあまり飼い人に魅力を感じないから自身で飼ったことはないけれど、愛好家は多い。
それに飼い人ともなれば、カネキくんにとっては愛情は湧きやすいだろう。
…ああ、けれど、突然目の前に差し出したら飢餓のどん底にいる今のカネキくんではあっというまに食してしまうかもしれない。
例えどんなに本人が拒絶していても、目の前の食事は口にせざるを得ないものね。
それはそれで僕としては大いに有りなのだが。
何なら混ざりたい。
食事をしているカネキくんを、僕が食べたい。
…ああ、けれどその為には彼の同意を得なければ。

「ふーむ…。…まあ、いいだろう。ひとまずカネキくんの為のペットの下見をするとしよう」

丁度駅に付き、自宅へ帰るつもりでいた足で別のホームへ出る。
カネキくんが通っていた大学は、確か上井大学だったはずだ。

 

何でもない顔で堂々と正門をくぐる。
今の時間帯、どちらかといえば帰路に着く生徒が多いようで、人の流れもその様だ。
彼らの流れに逆らって、ひとまず一番大きな校舎を目指して歩いていると、校門を入って程なくした所に大きな掲示板があった。
イベントや休講情報、留学生募集にサークル員募集などの様々なポスターや張り紙が貼ってあるそれを眺めながら、歩いていく。
――と。

「…おや?」

数メートル先に、張り出されている一枚のポスターを見据えている少年がいた。
軽めのファッションに明るい髪色。
それなのに、眼差しだけが鋭く遠く、やけに真剣だった。
…このまま歩いているとぶつかってしまうね。
す…と彼を避けて背後に回る。
その一瞬、この少年が何を見ているのか、確認しようと投げた視線の先に――カネキくんの捜索願のポスターがあった。

「――」

流れに乗ってそのまま足は進めるが、思わず口元が緩む。
少し離れてから肩越しに振り返れば、その少年はふい…と顔を背けて校門の方へ歩いていくところだった。
擦れ違った時の香りと骨格、後ろ姿を忘れないよう記憶する。
…うん。
まあ、容姿と香り共々悪くはない。
候補その一。
ああ、こんなにも早くにカネキくんに似合うペットが見つかるとは、僕はなんて幸運な男なんだ。

「…Moderate!」

名も知らぬその少年の背に静かに呟いてウインクし、改めて建物を目指した。


cadeau pour vous




あれから二週間の間、厳選に厳選を重ね、結局あの時の彼にすることにした。
本来ならばたっぷり一ヶ月二ヶ月取って決めたいところだけれど、そろそろカネキくんの方が本格的に危なくなりつつあるので、早々に食事をさせなければいけなくなってしまったのだ。
彼の生きる理由を早急に用意しなければならない。
背に腹は代えられない。
…ああ、カネキくん。
元々細身であったというのに、今やこんなに痩せてしまって。
可哀想に。
でももう心配はご無用。
きっと君は自らを尊ぶことを覚えてくれるだろう。
その為のペットを、彼の隣の部屋へ放り込む。
両手は拘束させてもらったが、ある程度動ける長さにしてあげた。
心ばかりの優しささ。
どのみち、彼が動けるか動けないかはあまり問題ではないのだ。
僕が彼を部屋から出す気がない以上、彼は出られはしないだろうからね。
今は窓程度の大きさあるマジックミラーから覗くだけだが、その分じわじわ弱っていく様子がカネキくんにはよく見えるだろう。
ミラーを凝視して佇むカネキくんに、ガラスの向こうを指し示して告げる。
気に入らなければ別の子を連れてくるけれど、果たしてお気に召したかな。
水もコーヒーも部屋にある。
惜しまず与えるが、ペットにそれ以外の食事は与えないよ。
君がそれを口にする、その日まではね。
…。

 

 

 

 

 

一度試しはしたものの、元々、僕は無理強いをするつもりはない。
無理に食させて、美食の魅力を伝えられるはずもないからね。
彼がその気になるまで、いつまでも待つつもりでいた。
――が、存外早くその日は来た。

 

「――ツっキぁ…っまア、さぁああァアアぁああああッ!!」
「おっと…」

ある日。
部屋に入ると、カネキくんが飛びついてきた。
暴れていることは多々あることだが、僕の名を呼びながらしがみついてくるのはとても珍しい。
ぐしゃぐしゃに泣きながら、僕のシャツを掴んで滅茶苦茶に掴み振るう。
爪が、シャツ越しに皮膚を引っ掻く。

「ずみ…スミマセ…ッ!ゴメンナサイ止めてくださいいッ!!」
「おやおや…。泣いていたのかい?」

闇雲に僕にしがみついて取り乱すカネキくんの両手首を取って離させる。
片手でそれらをまとめ、空いた右手で頬を撫でると親指で涙を拭う。
赤と黒のオッドアイ…。
その色を飾るように、黒い眼球と白い眼球の見事なモノトーン。
美しく珍しいジュエリーのような瞳が、涙で輝き濡れている。
泣き腫れた赤い頬と喉でしゃっくりを上げ、絶え絶えの荒い息で僕の手を逃れようと身を捩るも、力が弱すぎて微笑すら生じる。
敢えて手首を取る手を緩めてあげると、弾いて僕を突き飛ばし、猫のように飛び退いては頭を抱えて肩を上げ、怯えた獣の如く身を縮める。
…。
おっと…いけない。
仕草が本当に可愛くて、思わず眺めてしまうところだった。
涙を拭いてあげようと胸ポケットからハンカチを取る。

「カネキくん、おいで」
「ぁ…。や、やだ…。やだ、です…。や…ゃあ……だだだァ、あ、ああア あ…っ!」
「いい子だ。さあ、怖くないからこちらへ。涙を拭いてあげよう」
「はぁ…、あ…っ。ぐ…。や、止メてェエ…こん、な…の、わっ」

肩で息をしながら、カネキくんが自らを戒めるように自分の体を抱く。
泣いているようなのに、口元が微笑してすらいる。
飢餓の中にいるのだから、感情すら定まらなくて当然だ。
不安定な足がふらふらと後ずさってしまったので、後ろ手にドアを閉めて鍵を掛け、一歩踏み出して部屋の奥へ追った。
手負いの獣のように、こちらを警戒しながらじりじりとカネキくんが後ずさる。

「たす、ぇ…。あ、ぐっ……で…、ひ、で…で……っヲ――」
「顔色が悪いよ。あまり動いてはいけない。ベッドで横にな…」
「ッ…、ヒデ、を…!助けてあげてくださぁあああいぃいいっ!!」
「…おっと」

自分を強く抱き締め、体をくの字に折った彼の背から、凄まじい勢いで影が広がる。
素早く飛び出た彼の美しい赫子が、一瞬前まで僕がいた床を力尽くで叩く。
バァンッ…!と酷い音がして、絨毯と床が削れて毛と砕石が舞った。
壁に当たればかけてあった絵画が落ち、天井に当たればシャンデリアのクリスタルを弾いて欠片が舞い散り天を剔る。
僕を攻撃する意思があるというよりは、とにかく闇雲に赫子を振り乱しているという感じだ。
上下左右に加えて平衡感覚も保っているか怪しいものだ。
矛先すら定まっていない。
両手で顔を覆い、カネキくんが天を仰ぎ、喉の奥から一度大きく叫ぶ。
曇った咆哮が、びりびりと部屋を振動させた。

「駄目だぁああのママじゃヒデがシんじゃう…う、う、動かないんですぅう今朝からッ!ごは、ゴハン…?って、なんだっけ…?? あ…れ? …あ、あ、あーアーアー。ァアア ア アアーっハハハハッ!違う誰か何かすぐに彼にヒトを食べさせてあげてくださぁあああぁあアアぁンもうッお腹空いたって云ってんでしょォオオッ!? ソレでいいからぁ~ッさっさと寄こシなさィよぉオオオオッ!!ジャな、い とォォオオーっ!ヒデが!オイしそうで僕はッ!一緒にはイられなぁあアアアアア――いぃイイイイイッ!?」
「…今日は随分とじゃれついてくるね」

その後も、鞭のように襲いかかる二本の赫子を何度か避けた。
どれも威力はあるが軌道が曖昧でそれでいて単調で、当たりそうになる何回かは避け、一部は腕でも払える。
赫子を出す必要も無いくらい軽く弾けた。
じゃれ合いのようなものだ。
望まれればいくらでも付き合ってあげたいが…。

「カネキくん、落ち着いて」
「っ、ぐ…。ぅ、あ……あ、あ、あーアア…ァ…」

すぐ横を撓った赫子をするりと優しく撫でて語りかけると、カネキくんは自分の頭を抱えたままふらりと後退した。
ガンガンと何度も自分の頭を左右から拳で叩き付ける。

「…違う。違う違うチガウチガウッ!!ヒデは違う!ヒデはッ違うッ…!!」
「ふぅん…。やっぱり知人だったんだね。今日の今日まで知らない振りをするなんて、いけない子だ」
「ヒデは違うッ!嫌だ!!死なないでッ!死んだら不味いしイッショにいられないぃいいいッ!!ヤダヤダヒデは僕が喰べ――!?」
「カネキくん…!」

頭を振って取り乱していたが、突然、かくん…っとカネキくんが足を引っかけた安物のオモチャのようにその場に崩れる。
抱き留めようとしたが流石に距離があって間に合わない。
…元々体力も限界なのだろう。
そんなに暴れたらあっという間に動く力もなくなる。
崩れ落ちて、そのままぐったり横たわってしまった。
途端に赫子が彼の背に収まる。
ヒュゥヒュゥと必死で浅く荒い呼吸を繰り返しながら泣いている彼の傍に片足を着き、くたりとした体へ腕を回し、抱き上げた。

「…大丈夫かい?」
「は…、ぁ……」

驚くほど軽い。
まるで皮と骨だけみたいだ。
奥にあるベッドに向かって歩みながら、ゆっくりカネキくんに声をかけた。
殆どぼんやりしたものだけど、辛うじて意識があるようだから。
抱き上げている僕ではなく、真上の天井を遠い目で見つめている。

「…」
「彼の名前は何ていうんだい?」
「…――ヒデ…て、い……んで、す…」

乾いた唇から、ぽつ…と細い声が零れる。
素直な様子に口元を緩めて頷いた。

「そう。彼はもう君のペットだよ。僕からのプレゼントだ。気に入ってくれていたようだね。君の好みではないのかと心配だったのだが、安心したよ」
「…。ずっと……ぬ、が…か…たかった、けど…。…おかぁさ…が、だめって…――」
「僕が許してあげるとも。…たった二週間だけれど、どうやら君の大切な愛犬はお腹が空いているようだ。人間は貪欲だね。まあ、仕方がない。そろそろ彼にも食事を与えないと危ない。君と同じだ」
「…」

ぼんやりしているカネキくんをベッドへ寝かせる。
上半身を僅かに起こすよう枕とクッションを置いて、胸下まで布団をかけた。
僕の言っていることの半分は理解できていないのか、妙に幼い仕草で瞬きをする。
一瞬前の剣幕とは打って変わり、眠そうに濁った双眸でベッドへ腰掛けて足を組む僕を見た。

「さて…。僕が言ったことは覚えているかな? 君が食事をしてくれたら、彼にも食事を与えよう」
「……かって、いいん…ですか…?」
「ちゃんと世話ができるのならね」

混迷している彼の意識を脅かさないよう、今だけは幼い子供を相手にするよう接する。
片手を取って額にキスをすると、すぅ…とカネキくんの呼吸が変わって穏やかになった。
眠り姫になってしまう前に、ベッドヘッドに置かれているベルを鳴らす。
澄んだ音に伏せようとしていた彼の眼が、またうっすらとまた開いた。
やがて使用人が一人入ってきて、カートをベッドへ置き、一礼して去っていく。
カートの上にはスープ皿が一皿。
匂いで即座に気付いても良さそうなものだが、まさか嗅覚まで使い物にならないくらい底にいるのかもしれない。
これは何としても今日中に口にしてもらわなければ。
食器を手に取り、スプーンで緩く一混ぜして、横たわるカネキくんの口元に持っていく。
見ていても視覚した情報が頭に届きにくくなっているのか、唇に添えられる物体を不思議そうにカネキくんが見下ろす。

「…?」
「口を開けて。…これを飲んでくれたら、君の大切な飼い人には僕が代わりに食事を与えてきてあげよう」
「……さんぽ、に…いかなきゃ…。くびわ、は…なにいろ……」
「そうだね。元気になったらね。…さあ、甘くておいしいよ。召しあがれ」

薄く開かれた唇が逃げないことを肯定と受け取り、一方的に赤いスープを流し込む。
体が待ち望んでいた食事であろうに、過度な反応をする体力も無いのか、それともやはり現状を理解できていないのか、そのままただ受け入れるだけで奪い取って飲み下すことすら思いつかないらしい。
素直に口の中へ入れてくれる。
…が、注ぎ込まれたスープが喉の奥へ消えない。

「呑み込んで」
「…」
「ふぅ…。やれやれ」

呆けている彼の顎に片手を添え、く…っと上に上げる。
一瞬少しだけ苦しそうに眉を寄せたが、ごぼっ…と喉の奥から音がし、口内のスープが消えてくれた。
咳き込むカネキ君を待って、同じ事を繰り返す。
…無事飲んでくれてほっとした。
胸の支えが取れたよ。
厳選された臓物だけを長時間掛けて煮込んだスープは、液体であっても血液より栄養価が高い。
勿論味は保障付きだ。
如何に養生食とはいえ、ここを欠いてはいけない。

「…――」
「…カネキくん?」

いくらか飲んだところで、カネキくんは意識を失うように眠り込んでしまった。
幕が下りるようにとろんと瞼が降ろされ、そのまま開かなくなる。
急に閉ざされた唇に傾けていたスープが堰き止められ、顎下を伝ってぱたぱたと鎖骨に落ちた。

「Mince…」

反射的に親指で赤く濡れた唇の下を拭い、食器を置く。
眠り姫さながらのカネキくんへ身を寄せ、指で緩く着込んでいる彼のシャツの襟を引いた。
白い皮膚に浮いている赤い色。
カネキくんの体に、まるでソースのような美しい装飾。
…ああ。彼にソースをかけて食べたらさぞかし美味だろうな。
零れた液体を拭ってあげようと、血のように濡れ染まった鎖骨を中央から外側へ舌で舐めてみる。

「…!」

思わず双眸見開いて、バッ…!と片手で口を抑え、近づけていた顔を理性で彼の体から引き離す。
今はそんな気は全く無かったのだが、スープの味とカネキくんの皮膚の味が絶妙に絡み合い何とも形容しがたい素晴らしい味が舌に…!
最近は薄らいでいた彼を食したい情熱が一気に湧き上がり、必死で堪える。
…あああぁっ、マイルドで爽やかな味わいがゆっくりと四肢に染み込む!
堪らない…!

「っ…、ぐ…」

口を抑えたまま片手をシーツに着いて俯き、溢れ出て止まない食欲を耐える。
…肩胛骨が疼く。
ああ、赫子を出して今静かに眠る彼を貫けたらどんなにいいだろう。
皮膚を裂いて筋肉を骨から丁寧に剥がしひとつひとつを確認しながら口に運べたら。
…いやいや、ダメだ。
calmato…!
calmato、僕!
駄目だ、同意がないのなら彼を食してはいけない。
大体、今の状態のカネキくんを食したところで、それは本来の彼の旨みの僅か何%に当たるか考えろ。
冷静になれ、月山習。
人体にも、"旬"というものがある。
カネキくんの旬は今じゃない。
第一、今彼を食してしまうには場所が良くない。
血の一滴だって無駄にはできない。
流れる血も一箇所にまとまるような特別な寝台が必要だ。
必ず彼の血でワインを作り、記念すべき年月を刻み、僕のコレクションの一つに加えることは最早天啓だ。
こんなにも素晴らしい逸材。
パーフェクトに食べずにどうする。
一生の悔いが残るに決まっている。
…ああ、本当に、どんな食べ方が最も良いだろう。
良い肉体は良い精神から。
まずは彼の心を開くところからではあるが、そればかりが僕を悩ませる。
ああ、しかし本当に――。

「…。旬でなくてこの味…か」

口を抑えていた手を下ろし、うっとりとカネキくんを眺める。
汗で湿っている彼の横髪に指先を伸ばし、耳にかけてあげる。
…が、今さっき痺れたあの味をもう少しと思い、唇から伝っているスープを遡るように舐め上げた。
微動だにせぬ彼の寝顔は無垢で、尚更それに煽られる。

「はぁ…。ああ…カネキくん…」

最後にヴェーゼを交え唇も綺麗にしてから、ようやく顔を離す。
…が、無意識に喉が鳴った。
熱を持ったようにどことなくぼんやりする頭を、軽く振る。
…あまり長時間ここにいるのは良くないね。
うっかりカネキくんを食してしまいそうだ。
彼を起こさぬよう立ち上がり、少々考えたが、スープはこの場に置いておくことにする。
彼がスープを口にしてくれたことだし、隣の部屋で気を失っている彼にも食事を与えないといけない。
…けど、とにかくカネキくんが一口でも食事をしてくれて安心した。

「…さて」

片手を腰に、この部屋から隣を覗けるマジックミラーの方を向く。
アンティーク調で周りを飾っているそのミラーの向こうでは、床に倒れたまま動かない少年が一人。
カネキくんが元気になるまでは、"ヒデくん"の食事も僕の仕事かな?
尤も、気を失っているようだから口からの栄養補給は難しそうだ。
薬品で保たせて、ある程度回復したら食事を与えることにしよう。
カネキくんが食事をしてくれたことだし、ひとまず…そうだな、一ヶ月間の食事は用意してあげようか。

「口にしてくれて良かった。…いい子だね、Chéri」

横たわるカネキくんの汗で湿った髪を撫でて整え、額にキスをして灯りを消し、部屋を出た。

 

寝て起きると、彼はある程度考える力を取り戻していたようだ。
使用人の報告によると、相変わらず泣くことと嘔吐を繰り返しながらも、一晩かけてスープ皿を空にしてくれたらしい。
言ってくれれば新しい温かいスープを出してあげたのに。
冷えたスープではそれは戻したくもなるだろう。
…変わらず衰弱はしていたが、翌朝は久し振りに彼とまともな会話ができて、とても悦ばしく素晴らしい朝になった。

 

 

 

 

 

 

「…会ってあげないのかい?」

ソファから立ち上がり、彼の傍に行くと囁くように尋ねてみる。
隣の部屋が覗けるマジックミラーに片手を添えて立っていたカネキくんは僕の言葉に首を振った。
ガラス越しの飼い人は、一応健康を取り戻してはいるが、ゲージである部屋から出しはしない。
だが、それ以外の不自由はさせていないつもりだ。
何よりカネキくんがそれを望んでいるのだからね。
たかだか人間一匹。
いくらでも替えの利く飼い人だけれど、余程気に入っているらしいカネキくんにとっては違うようだ。
元々顔見知りであるのなら、当然といえるだろうけれど。
…が、僕とてカネキくんと四六時中いるわけではないけれど、彼の部屋にやってくるたびに決まった定位置としてミラーの前で心配そうに飼い人を眺める様子は、僕の中の嫉妬心を焚きつけるには十分だった。
双方が回復すれば早々と会って撫でたいとでも言い出すかと思いきや、カネキくんは飼い人に一切姿を見せないことにしたようだ。
観賞用にするにしても、こうして眺めるだけだなんて、詰まらないんじゃないだろうか。
カネキくん付きにしたバトラーが、彼の言われるままに隣の"ヒデくん"の世話を任されているらしい。
人間一人が生活するに必要な用具は随時揃えてある。
退屈させないよう、大量の本やゲームや娯楽物も放り投げたが、まだ新しい部屋に馴染まないのか、カネキくんの愛人がそれらで遊んでいる様子を僕は見たことがない。
…まあ、十分だろう。
バトラーにもカネキくんの希望は極力叶えるよう伝えてあることだし。
遊ぶ遊ばないは彼の自由。
環境を整えるだけで、後は生きる死ぬも彼の自由だ。
カネキくんの飼い人それ自体は、僕の興味を惹くものではない。
だが食事だけは、カネキくん自身が作っているということだ。
この部屋の本棚には、純文学や小説の他に料理本が多く並んでいる。
我々では人間の料理には疎いし確かに彼が適任なのかもしれないが、僕としてはいくらか不本意だ。
人間など、悪食の雑食だ。
いかに飼い人とはいえ食事は適当に――という極論にはさすがに反対だが、主人の手作りなんて手が込みすぎている。
しかも、人間は一日に三回も食事を取る。
一日に三回!
信じられない。
単純計算で一週間に二十一回だ。気持ちの悪い。
どれだけ貪欲な生き物なんだ。
つまり、一日三回もカネキくんの手を煩わせるわけだ。
一体何様のつもりなのか。
そうは思わないかい?
第一、その分時間も取られる。
何度か僕のお茶の誘いを断っての料理とあっては、不快にもなって当然というものだ。
それに、包丁や器機で、僕の知らないところでうっかり指でも切ってしまっては、流れる血が勿体なさ過ぎる。
あまりに世話が過ぎる気がして、これもまた僕を焚きつけた。
…が、カネキくんの前ではなるだけ"理解ある親友"でいたい。
愛する人には良く見られたいという思うのは当然だろう?

「気になるのなら、彼の散歩へ行ってきたまえ。庭へおいで。可愛い飼い人のストレスが堪ってしまってはいけないし、君もずっと室内にいてはよくない」
「…」
「彼もきっとご主人様に会いたいのだと思うけれどね。体調がいいのならあんていくへ行くのもいいだろう。君の飼い人をレストランでお披露目するのもいい。噛み付かれないか心配だというのなら、事前に僕が調教師に依頼をしてあげよう。きっと聞き分けの良い、君に似合うペットになるさ」
「…月山さん、お願いです。…ヒデのことは…どうか全て僕に任せてください」

ぽつ…と、聞こえるか聞こえないかの細い声でカネキくんが口を開く。
彼のその唇から名前を呼ばれるだけで背筋が歓喜に震える。
けど…そうか、調教は不要なんだね。
確かに彼は最近飼い始めた飼い人としては大人しいかもしれないが、最低限の躾は必要なように思う。
…とはいえ、カネキくんが望めば彼の希望を優先するとも。

「勿論だよ。彼は君に贈ったのだから。今や君の可愛い飼い人だ。どうするのも、君の自由だよ。当初の約束以外はね。…けれど、散歩へ行くのなら彼のマスクは用意してあげないとね。それから首輪も。色は決まったかい? まあ、シルバーやタトゥや傷でもいいが、それは君の好み一つだ」
「……考えてみます」

カネキくんが無言で俯く。
目にかゆみでもあるのか、彼は片手の甲でで一度目を擦った。

「おや…。目が痛むのかい?」
「…いえ。少し、ゴミが入っただけです…」
「大丈夫かい?」
「…大丈夫です」

見てあげようと僅かに上げた僕の片手を、す…と伸ばされたカネキくんの片手が制する。
その手を下ろし、彼は再びミラーの向こうを眺めた。

「…月山さん」
「何かな?」
「随分遅くなりましたが…すてきな贈りもの、ありがとうございます」

憂いを帯びた横顔は以前にも増して魅力的で、対峙する者を従わせる色ある気迫で溢れている。
彼に太刀打ちすることは、僕にはとても難しい。
陰る異色の瞳を見つめるだけでぞくぞくしてくる。
思わず片腕を伸ばして横から腰を抱く。
彼の髪に鼻先を埋めるも、最初の頃と違い暴れ狂うようなことはなくなった。
信頼の賜だ。
こんな日が来ることを、随分前から僕は知っていたよ。
彼とは良い関係を築ける自信があった。

「喜んでもらえて良かった。…しかし、毎日食事を取らねば体調を維持できないなんて、人間は不便だね。燃費が悪すぎる。とはいえ我々もそろそろ食事を取ろうか。美しい眼球の持ち主を見つけてね。是非とも君に味わって欲しいと思っているところだ。…もうすっかり苦手意識はなくなったかな?」
「はい…。ご迷惑をおかけしました」
「君が食に興味を持ってくれて何よりだ。こんなに嬉しいことはない」

俯いた顔を僅かに上げ、彼がミラーの向こうを見る。
簡素なソファに座った飼い人は、遠い目をして壁の一点を見つめていた。
彼の視線につられ、僕もそちらへ視線を投げる。
…一体、彼の何がカネキくんを夢中にさせるのだろう。
まあいい。
疑問は多々あるし飼い人相手といえど嫉妬してしまうことも多いけれど、あの飼い人を飼ったお陰でカネキくんは定期的に食事をしてくれるようになったのだ。
良しとしておこう。
カネキくんが彼に飽きるまでは。
彼の腰に片手を添えたまま、もう片方の手で細い手を取ると、ようやく彼は僕を見上げた。

「ディナーはいつにしようか?」
「お任せします」
「では、何か食したいものは?」
「僕は…いつものスープで」
「臓物のだね?」

ぽつりと呟かれた言葉に、気分が浮く。
カネキくんは肉や筋などよりも、臓器がお好みのようだ。
大変好ましい傾向だ。
一見肉質に目がいくところ、臓物に注目するとは…。
そうとも、臓器は種類も多く千差万別の味を持つ、人の醍醐味といえるだろう。
臓器は肉と比べ足が速いし、同じ部位でも味のランクはピンからキリまで。
"美味なる臓器"というものは、このご時世、なかなか入手が難しいし開けてみないと分からないことが多い。
だが、他ならぬカネキくんの為。
何としても入手させるようにしている。
しかも、どろどろに煮詰めて液状にしたスープがお好みときた。
体調が悪い時に食した感動が忘れられないのだろう。
その気持ちはとてもよく分かる。
美味を感じる舌での食事と、そこに添えられる想い出のストーリー…。
それらを同時に感じてこそ、至高の食事といえるだろう。
完璧だね。
僕は彼が誇らしい。

「すっかりお気に召したようだ」
「…はい」

僕の腕に手を添え、カネキくんが顔を上げた。
黒髪に陰っていた穏やかな瞳に僕が映る。

「とても、美味しいです…」
「それは何より。嬉しいよ」
「はい…。…。なんかもう…もう、それでいいです…」

目元と口元を歪ませ、は…と嗤うように微笑する。
以前の無邪気な笑みも魅力的だったが、この歪んだ微笑みがまた堪らない。

「…食事の後、君を少々頂いてもいいかな?」
「…少しでしたら」
「ああ…。嬉しいよ、カネキくん…」
「あの…まだ触らないでください。…困ります」

うっとりと、赤く濡れる唇を思い出す。
人差し指で少し乾いている彼の唇をゆっくり撫でると、カネキくんは困ったように笑いながら僕の手を両手で取り、パキ…と軽やかに中指を反らし折って戯れた。



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ヒデ君をプレゼント。
心理的圧迫による監禁とか大好きです。
カネキ君を閉じ込めたくなる気持ちはよく分かります。
2015.4.90





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