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人の温度が恋しくなることがある。
こんなに崩れた僕であっても。
…いや。
人が単なる冷たい物体になることを随分知ってしまったからこそ、そう思うのかもしれない。

今夜は、人の温度が恋しい。


角砂糖一粒の夜




誰もいない室内。
ヒナミちゃん以外、基本的に踏み越えることを許していない境界線の内側で、独りベッドに腰掛けたまま、もう二時間が経つ。
時刻は十一時を過ぎ、物音もしない。
時計の秒針が動く音はとても味があると思うけれど、不眠症気味になってからは更に気になってしまうからデジタルに買えてもらった。
無音の室内。
世界に僕だけのようだ――などと、安っぽい文章が浮かぶ。
…そうであったらどんなにかいいだろう。
そもそも群れることを思い立ちもしなければ、案外幸福であったかもしれない。
人に傷付くこともないし、人を傷付けることもない。

「…」

パジャマ変わりにしているラフな格好で、背を少し屈め、じっと自分の右の掌を見詰めた。
…夕方、ヒナミちゃんと少し絵本の話をした。
万丈さんが、外出を控えている彼女に気晴らしにと、買い与えたものらしい。
既に一日目にして十数回読み返したようで、更に僕に読んで欲しいのだと言ってくれた。
非日常の中にある日常。
ヒナミちゃんといるとほっとする。
誰かに絵本を読んであげるのは久し振りで、上手くはなかったけど、とても喜んでくれた。
ページを捲る時に、些細だけれどヒナミちゃんの手に僕の手が触れた。
ぽ…と、キャンドルに火が灯るような、そんな一瞬のあたたかさ。
たったそれだけだ。
たったそれだけ。
たったそれだけの触れ合いが、こんなに、眠れないほど頭に残っている。
…誰かに普通に触れたのは、久し振りな気がした。

「…。まだまだ弱いな」

溜息を吐いて、その右手で白髪となった前髪を掻き上げる。
…人恋しいとか、馬鹿みたいだ。
全然懲りない。
そんな気持ちを残していて、この先動けるはずもない。
この感情が大切なものであることは分かっているけれど、今の僕にはあまりたくさん必要ない代物だ。
ヒナミちゃんの存在には本当に救われている。
彼女がもし男の子だったら、ひょっとしたら「たまには一緒に寝ない?」と軽く誘えたかもしれないが、如何せん女の子だし、そんな誘いは投げられない。
少し、落ち着こう…。
珈琲でも飲んで――。
…そう思ってドアの向こうへ意を向け、ふ…とその気配に気付く。

「…」

閉じられたままのドアを見詰め、双眸を鋭くした。

「…月山さん、何をしているんですか」
『Oups…』

僕の一声で気配を殺すのを止めたのか、ドアの向こうで、急に本来の気配が現れる。
外国語での小さな呟きがドア越しに聞こえ、その後これ聞けとばかりにノックが生じた。

『Bonsoir、カネキくん』
「何をしているのか聞いているんです」
『君の部屋の灯りがなかなか消えないものでね。もしかして消し忘れているのではないかと思って、案じて足を運んでみたというわけだ』
「僕の聞き方が悪いんでしょうか。…確か九時頃に帰ったはずですが、何故またここに戻って来ているのかと聞いているんです」
『忘れものをしたのさ。慌てて取りに戻ったというわけだ。…ああ、僕としたことが。うっかりしていたよ』
「…」
『因みに、忘れものは無事に回収済みさ。心配ご無用』

ため息を吐く。
…いいや、止めよう。
相手にすると疲れる。

「僕はここで貴方が一晩過ごすことを許していません。…0時までいたら殺しますよ」

言いながら時計を見た。
あと一時間くらいでその0時が訪れる。
それまでに帰ってくれればいいのだ。
ドアの向こうから残念そうな息が零れたのが聞こえた。

『ドアを開けても?』
「部屋には入らないでください」

言ってすぐにドアノブが回った。
廊下と繋がるドアが開き、月山さんの姿が現れる。
トン…と弾いた彼の指先を離れたドアが部屋の内側に折れるも、彼自身踏み込みことはなく、その場から僕へ視線を向けると指先で整えられている自らの横髪を撫でた。
入ってこようとはしない。
…弁えてはいるんだよな。
こちらの地雷やスイッチを押してこないぎりぎりの立ち位置で動くから、彼を相手になかなかキレる機会もない。
そういう微妙に聡いところが、地味に苛つく。
…けど、苛つくだけだ。
ちらりと横目で彼を見てから、ふい…と窓際へ視線を移す。

「忘れもの、見つかったようで良かったですね。おやすみなさい」
「もしも眠れないというのなら、下で珈琲でもどうだろう」
「結構です」
「つれないね」
「そうですね」

素っ気なく返す。
本当は珈琲を飲みに行こうとしたけど、それもできなくなってしまった。
沈黙する僕に、月山さんが探るような声をかける。

「…今夜は違ったかな? 君の求めるものを察して動こうと思ったのだけれど…どうやら今日はハズレのようだね」
「…」
「まだまだ君を理解するには足りないようだ。日々是精進、というわけだ」

ふ…と月山さんが肩を竦めたのが分かった。
そんな彼の様子を見て、視線を外したまま、僕は内心落胆していた。
そのまま押してくれればいいのに。
彼の察しは合っている。
僕は今日、他者の温度が恋しいし、それを自分で理解している。
…けれど、それをこの僕からどう伝えろというのか。
そんな方法は知らない。
相手が正しく察してくれるのを待っているだけなんて、これじゃ本当に小さな子どもみたいだ。
注目してもらう方法も知らない。
しかも、例え正しく察してもらえたとしても、素直に受け取れもしない。
僕が、ワガママで、可愛げがない、ダメナコドモだから。
こんなところでも、もっと強くならないとと思う。
そして、それが益々僕を黙らせる。
キィ…と、音がした。
月山さんが開いてあったドアノブに手をかけ、少し引いた音であるのは想像に易い。

「休息中に邪魔をしたね。申し訳ない。…それじゃ、改めてaurevoir」
「――」

ドアが閉まったら終わりだ。
そう思って反射で動いたのは、足でも手でも唇でもなく、赫子だった。
出そうと思って出したわけではない赫子が一本、腰から床を這うように伸びて、素早く閉めかけられたドアを遮る。
ドアを押さえる感覚が赫子から伝わり、当然、ドアを引こうとしていた月山さんが引っかかりを覚えて動きを止める。
それでも僕は、彼の方を向けなかった。
素知らぬ顔でカーテンが覆っている窓を頑なに見詰める。

「…」
「…」

数秒の沈黙があってから、諦めて、ドアを押さえていた赫子を一度そろりと離し、それで月山さんの片方の足首に触れる。
先で緩く足首の周囲を取り囲み、じわじわと狭めていき、彼の足を絡め取る。
…行かないで欲しい。
たった八文字すら声にならない。
そんな僕を一番知っているのは貴方なのだから、それくらい、察して欲しい。
更に数秒の沈黙を経て、月山さんが柔らかい声で言う。

「これは…合っていたのかな?」
「…」
「ああ…。そうなると、僕の誘い方が好みではなかったのだね。これはいけない。すまないね、カネキくん。どうか機嫌を直しておくれ」

急に機嫌良く語り出す月山さんに呆れて、ため息を吐く。
窓から視線を外し、意味もなくベッドヘッドの時計を眺めてぼんやりと唇を開く。

「…疲れませんか。僕なんかといて」
「愚問だね。君は、今自分がどれだけ可愛らしいことをしているのか、自覚がないようだ」
「イっちゃってますね」
「そうとも。君が僕をそうさせたのさ」
「…」

そこでようやく、彼の方を見る。
月山さんと目が合うと、彼は悠然と微笑んだ。
微笑し、足下に絡んだ僕の赫子に片手を差し出す。
そんな気はなくても、手足よりも本能性の強い赫子は、自然と彼の足下から離れその手に先端を添えた。
月山さんの手を撫でる感覚が、赫子越しに僕に伝わる。
体温…。
ざわりと、腰から背中に痺れが走った。
あたたかい、人の温度…。
するりと彼の掌を撫で、けれど付け上がられるのが嫌で、離す時にピッ…とその掌に一線入れる。

「…」
「おやおや」

再びそっぽを向いたままの僕の視界の外で、月山さんが小さく呟いた。
ふわりと血の匂いがする。
僕の割いた彼の掌から、血が流れたのだろう。
月山さんの血は、さっぱりした甘みがあっていい匂いがするからすぐに分かる。

「部屋に入っても?」
「…入りたければ、どうぞ。今だけですけど」

溜息混じりに言ってみる。
フランス語か何かで「ありがとう」と告げると、月山さんが一歩二歩と音もなく僕の部屋へ踏み込んだ。
ゆったりとした仕草でドアを閉め、ベッドに腰掛けていた僕の前にやってきた。
傷は塞がったようだけど、流れた血の残る片手を胸に添え片足を立てて跪き、忠誠を誓う騎士の如く僕に跪いて、こちらを見上げる。

「お誘いありがとう、カネキくん。…光栄だよ」
「別に誘ってません。たまたま貴方が来たから、貴方でいいやと思っただけです」
「それも含めて、ね」

月山さんは笑みを深めた。
溜息しか出ない。
…分かっている。
僕の気持ちを機敏に察せるのは、この人だけだ。
だから、僕が揺らいだときに一番に僕を抱き留める権利が、この人には一応あるんだ。
真っ直ぐ刺さるような視線を、敢えて受け止め、尋ねる。

「…。弱いと思いますか、僕のこと」
「とんでもない」
「嗤っているんですよね。本当は」
「よくよく己のことを理解していると感心するよ。君はこうして、強い自分を補っているんだろう?」
「易いと思っているんでしょう。…でも僕は、貴方には喰べられませんよ」
「強くあるためには、bestなタイミングで気を緩め、適した最低限の相手にそれを見せる技術が必要だ。緊張し続け、昂ぶってばかりはいられない。負担になるからね。それは肉体でも精神でも同じことだ。極めて高等で難しい技術だよ。僕は君を尊敬するよ、カネキくん」
「…」
「愛しているよ。僕は髄まで、君の虜だ」
「…そうですか」

精神的にも肉体的にも、強い人間はいる。
強い喰種はいる。
…だが、それらの強さにはそれぞれの生物としての限度がある。
結局、最大限の実力と最大限の虚勢を活かして、如何に水面下に弱みを押し隠すか、そこにかかっている気がする。
姿勢そのままに、深く一礼してから月山さんが恭しく僕の素足を取る。
剥き出しの爪先…血の色が抜けてくれない黒い爪にキスしてから額に添え、数秒目を伏せて、ゆっくり下から両足を持ち上げる。
必然的に上半身が後ろに傾き、その傾いた背にも彼の片腕がかかる。
力ない僕の体を支えながらベッドに横たえ、月山さんが慣れた様子で片膝をベッドへ乗り上げた。
そのまま僕を跨いで、天を塞ぐ。
髪を撫でられると不機嫌になる。
子ども扱いされているようで、嫌じゃないのが嫌なんだ。
そして、それが目の前の彼に理解されているのが輪を掛けて僕を不快にさせる。
目を細めた僕に、月山さんが笑いかけた。

「僕がここにいることが不服かい?」
「そうですね…。本意ではないです」
「寝室にだって、剣は必要さ。時の要人の枕下には、いつだってね」
「油断していると寝首をかかれそうですけど」

軽く笑みが返ってくる。
否定しないのだから、何だかんだで正直な人だと思う。
…残念な人だな。
本当に。
僕を喰べようとさえし続けなければ、きっと僕は、この人のことを好きにならざるを得なかった気がする。

「けれど今から抱き合うと、0時を過ぎてしまうね」
「…今夜は、いていいですよ」
「本当に?」
「はい。…今日はそういう気分だから」
「…!」

ぐっ…!と驚愕した月山さんの顔が近づく。
四肢を無造作に布団の上に横たわったまま、腰から広がる四本の赫子で僕の上に跨る月山さんの肩と腰を掴んで力任せに引き寄せたからだ。
唐突な上からの圧力によって僕の上に無様に潰れかけた彼が、それでも反射的に僕の顔横に手を置いて抗った。

「…、っ…」
「…」

四つ足になったまま、僕の上で何とか耐えている様子を近距離で観察する。
…無様に落ちてくればいいのに、僕に。
みっともなく。
そうしたら、首くらいは噛み付いてあげるのに。
そのまま彼を僕の上に落とそうと、更に赫子に力を込めていく。
何なら、肩くらい壊してあげても一向に構わない。
貫通させてみるとか。
そうしたら、流石に倒れてくるだろう。
どうせ、彼もすぐに治るのだから。
大したことじゃない。
現実的な肉体損傷より、その表情に興味がある。
じわじわと力を注ぎ重くなる赫子に、月山さんが僕の鼻先で眉を寄せて笑った。
少し苦しげな彼の表情に、僕も薄く笑う。

「…情熱的だね」
「嬉しいですか?」
「ああ、そうだね。…嬉しい、よ」

押し潰されそうな体を両手で必死に支えながら、月山さんが僕にキスをする。
…へえ。
これだけ体に圧力かけられても、こんなに柔らかいキスができるんだ、この人。
素直に感心する。
いつもそうだ。
慣れてるな…って、いつも思う。
温かい、丁寧なキスに気分を良くして、赫子を彼から離してあげた。

「…」
「…ふう」

体にかかる重さがなくなり、月山さんが息を吐く。
彼の頬を、一本の赫子の先でするりと撫で上げる。
少し汗が滲んでいて、面白い。
彼が僕のことで必死になるのは…鬱陶しいし信用ならないけど、やっぱりどこかで嬉しい気がした。

「…いつも思いますけど、手慣れてますよね」
「そうかい? そう感じてくれているなら嬉しいよ。格好はつけないとね」
「…」

僕の上で、冗談めいて月山さんがウインクする。
相手にすると付け上がるからそれは流しておくとして、ようやく僕自身の両手をベッドからゆったりと浮かせ、彼の肩に伸ばす。
月山さんは長身だし腕が長いから、四つ足になっている彼と寝ている僕とでは、まだ少し間が空いている。
手がぎりぎりで届かない。
僕の指先が彼の肩のシャツを引っ掻くと、僕の腕の長さに合わせるように月山さんが少し半身を低くしてくれた。
改めて、僕の手が彼の肩にかかる。
指先がじんわりとあたたかい。
いつも、時々自分ですらびっくりするあれだけ鋭く尖っている頭が、溶けるようにぼんやりしてくる。

「…一口だろうと、噛んだら殺しますので」
「心得ているよ、moncoeur。だが飲むのはいいだろう?」
「構いません」
「君の体液は何も血液だけじゃない。唾液だって、ほら…。…ああ。天にも昇る心地だよ、カネキくん。君は隅々までその全てが素晴らしい…!」
「…どうも」

どうせ生産性のない排泄物だ。
唾液や精液という名の芥が欲しいというのならあげてもいい。
僕が求める、"体温"というものをくれるなら。
…そこまで考えて、双眸を細める。
本当は、愛の行為なのに。
少なくとも、愛の行為だと思っていた。
本来の意味も経験しないまま…僕にとってこれはもう、単に懐かしいぬくもりの紛い物に触れる程度の意味しかない。
人の温度が恋しい。
そして手頃な人が傍にいる。
その手頃な人は、どうやら僕を抱くことに抵抗がない。
それだけになってしまった。
哀しいわけじゃない。
"なってしまったな"というだけだ。
…もう一度キスをして、いつもどこか強張っている四肢から力が抜けていく。
顔を離した月山さんが、は…と何かに気付いて目を見開いた。

「しまった…!」
「…何か?」
「ワイングラスを持ってくるんだった!カネキくんのものを注いで後で改めて味わ…」
「やめてください」

冷ややかに一喝してから、ゆっくり瞬きをする。
…次に目を開ければ、今夜の覚悟はできていた。
全てには天秤が用意されている。
僕は今、温度が欲しい。
だから僕を売る。
それだけだ。

「終わったらさっさと帰ると、約束してくれますか?」
「本当につれないね…」

月山さんが少し寂しそうに苦笑する。
つれて堪るか。
つれたら、僕は彼の腕の中を終点に終わってしまう。

「約束してください」
「…分かった。帰るよ。事が終わればすぐにでも。…大変不本意だけれども、君の希望というのなら」
「…」

自らを支えている両手のうち、片手を軽くあげて月山さんは首を振る。
約束を取り付けると、ほ…と肩の荷が下りた気がした。
気が緩んで、月山さんの肩に添えていた両手を、少し移動させて彼の首にかける。
残した二本の赫子で、今着ている自分の黒いティシャツの裾を、そろりと上へたくしあげた。
腹部にひやりと風が通る。

「…どうぞ」
「――」

淡々と開始を告げる。
月山さんが少し驚いて息を呑んで、けど、ふ…と一呼吸の後、噛み付かれるように重なるキスと、脇腹に触れる熱い手に満たされ、目を伏せた。
とてもあたたかくて、眠くなってしまう…。
誰かに抱き締められるそれ自体は、決して嫌いではないのだ。
だって僕は、群で生きるのがスタンダードとされているヒトという動物だから。
そういう風にできている。

 

 

人間の頃はそうだった。
味が崩れるのが嫌だから、いつも珈琲はブラックで飲む。
けれど、たまには気分で角砂糖を一つ入れる。
僕にとって彼を相手とする愛の行為は、その程度で丁度良いと思っている。

きっと、たまに飲むから、いつだって、こんなにも美味しく感じるんだ。



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月山さんが下僕になってからはそういう関係。
喰種相手に暴れた日とか、嫌でも体は昂ぶっているでしょうし。
カネキ君は白でも黒でも、基本が無自覚に上手な誘い受けだと思います。
2015.2.25





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