「それじゃあ月山さん、おやすみなさい気を付けて」
カネキくんが棒読みで口早に告げてから、ピシャリとアジトのドアを閉めた。
時刻は23時。
アジトへの宿泊が基本的に許されていない僕は、大体この辺りで追い出されてしまう。
今日もそうだ。
一応玄関口まで見送ってくれるあたりに彼の愛を感じはするものの、やはり目の前で締まる扉というものは哀しいものがある。
しかも、今日などは見送るカネキくんの肩越しにムッシュ・バンジョイが立っていて彼と同じく僕を見送ってくれたが、ムッシュの何とも言えない哀れむような表情が気にかかって仕方がない。
…ああ、カネキくん。
何故!
何故、この僕よりもムッシュ・バンジョイを傍に置こうとするのか!?
ああ分かってる!分かっているとも…!
それは僕が君にナイフを向けてしまったからだ!
ここまで深い君の魅力に気付かずに、早計に君を食そうとしてしまった過去の僕を今は猛烈に恥じている!
今更ここで君に愛を語ったところで、出だしを躓いてしまった僕が君の信頼を勝ち取るには長い時間が必要なことも分かっているが、だが!それにしてもこんな夜は――…!
「はあ…。ロンリネス、だ…」
家へ帰り、自室のテラスに頬杖を着いて深く息を吐く。
健全な肉体の為にも精神の為にも睡眠は正しく取るべきだと分かっていても、今夜は眠れない。
…はあ。
カネキくんを愛したい…。
あの端整な身体、美しい隻眼、背筋の凍る視線、僕を滾らせる香り…。
「ふぅ…」
「…おそれながら習様。そろそろお休みになられては。お体が冷えてしまいます。それとも、お飲み物をご用意いたしましょうか」
いつまでも夜空を見上げて物思いに耽る僕を案じてか、叶が傍にやってくると頭を下げたまま僕に告げる。
大切な使用人にまで心配をかけて…僕としたことが。
こんなことではいけないと分かってはいるんだ。
けれど、距離のある愛しいカネキくんを想わずにもいられない。
頬杖を着いていた腕を下ろし、肩越しに叶を振り返る。
「ありがとう、叶。…ああ。すぐに中へ入るよ。君ももう休みたまえ」
「…」
「…? 何だい?」
「…いえ。失礼致します」
「Bonne nuit」
おやすみと彼が部屋から出て行くのを見送って、僕は再び夜空を見上げた。
夜風が髪を撫でる。
見上げる夜空は同じだというのに、何故僕らは今宵別々の場所にいるのだろう…。
せめて僕もムッシュ程の信頼が得られたら。
ムッシュのようになれれば、カネキくんといつだって傍にいられるのに…!
例えこの寝室程度のハウスであろうともどんなに狭くても構わない、僕もカネキくんと一つ屋根の下で暮らしたい!
「ああ…!空に輝く星々よ!!」
熱を持った感情が言葉になり、感極まって夜空に片手を伸ばす。
「どうかこの恋に焦がれる男の願いを叶えておくれ…!!」
願いを叫んだ指の先で星が流れる。
まだカネキくんに信頼されるには足りない。
だが、いつかは勝ち取り、彼が僕無しではいられないような仲になってやるとも…!
そしていつかは…いつかは!
彼のその美肉を削ぎ落とし、是非ともカネキくんに自身の肉を食してもらい、そんな彼の首筋に僕が噛み付いて彼の肉体を共に心ゆくまで堪能したい…!
…などと考えてしまえば、体が昂ぶって仕方がない。
カネキくんの血の付いた例のハンカチを取りに、室内のクローゼットへ足早に向かった。
ぼんやりと微睡む意識の中で、漠然と自身が眠りすぎているような気がした。
…おかしい。
目覚ましは常に定時にセットをしているはずが、今日は鳴っていないのだろうか。
仮に鳴らないとしても、時間を過ぎれば一度は叶たちが起こしにくるはずだ。
それとも、まだ時間でないが僕が目覚かけているのか。
「…ん」
身動ぎして眉を寄せる。
どうにも体が軋んでいる気がする。
寝返りをして俯せるとシーツへ片肘を着き、手の甲を額に添える。
寝過ぎて頭痛がするのかもしれない。
ぼんやり薄目を開けたところで、ドアのノック音が聞こえた。
部屋の主である僕の応えを待たず、ドアが開かれる。
「あの…、起きていますか? もう十時になりますよ」
「…?」
その控えめな声には多分に聞き覚えがあり、起ききらない頭でも反射的に視線をそちらへ向けた。
ドアノブに手を添え、カネキくんが――…。
「珈琲を淹れたんですけど、よかったら下で一緒に飲みませんか」
「――」
間を置いて…。
カッ…!と途端に意識が覚醒し、一気に状況情報が頭に飛び込んでくる。
「…ッ、カネキくん!!」
「え…?」
ばっと布団を片腕で払い起き、彼の足下へ片膝立てて跪く。
何てことだ彼より後に起きるなんてそんなこと今まで一度も……ああっ、だが今はそれもどうでもいい!
彼が僕に、朝一で「珈琲を一緒に」などという誘いが未だ嘗てあっただろうか!?
否!!
ドアに立つカネキくんの片手を取り、その手へ口付ける。
「勿論だとも!是非君の淹れた珈琲を僕に振る舞ってくれた、ま…」
顔を上げれば、冷たい氷の瞳ではなく円らな丸い瞳で僕を苦笑いして見下ろしていたので、邪気のないその表情に僕の方が驚いてしまった。
今日のカネキくんは特別に機嫌が良いようだ。
今なら付け入る隙も…と思いもしたが、微笑する彼の口から出た言葉は、僕を混乱させた。
「びっくりした…。どうしたんですか、急に月山さんみたいなことをして。寝惚けてるんですか?」
「…what?」
「月山さん式の挨拶をありがとうございます。…起きたのなら、珈琲が冷めますから下へ降りましょう? 寝過ぎもあまり体には良くないみたいだよ」
「…」
カネキくんが柔らかく笑って、僕の手を握り返す。
ぐいっと引かれれば、見かけにそぐわない驚異的な腕力で僕の身も引っ張り上げられるように立ち上がった。
…が、立ち上がって彼を見る視点がいつもと違う。
というか、彼の手を握る自分の片手が――…。
――。
「…」
「万丈さん?」
「…。バン、ジョイ…くん…?」
まじまじと自分の右腕らしきそれを見下ろし、開いたり閉じたりしてみる。
僕の手は間違ってもこれほど太くはないし、僕の指はこんな芋虫程に太くはないが…僕の"開いたり閉じたり"の動作に合わせて指は動いた。
察するものがあり、ざっ…と血の気が引いていく。
「っ…!」
「わ…!」
カネキくんの手を掴んで(僕に優しいこんな貴重なカネキくんと一秒とて離れたくはない!)、慌てて目の前のドアから飛び出す。
廊下の端に設置されている洗面台の場所まで行くと嫌が応でもミラーがあり、そこに写るは――。
「――ッ!?」
ミラーに写る自身の姿を見て、悲鳴を上げるため息を吸った。
「カネキ…!!」
それから三十分も経たないうちに、"僕"がアジトへやってきては慌てた様子で階段を登ってくる。
洗面台の前でへたり込むことしかできなくなってしまった僕の傍にいたカネキくんが、登ってきた"僕"の体へ向けて挨拶する声が聞こえるも、顔を上げる余裕が僕には無い。
涙が次から次へと零れて…。
「ああ…。お早うございます、月山さん。ちょっと今忙しいので、下にいてもらえますか」
「違っ…。月山じゃなくて、俺なんだよ俺!万丈……っつーかそこに居る"俺"とか絶っ対ェ月山だろ!?」
「…ちょっと」
ずかずかと歩み寄ってきた"僕"が、へたり込んでいた僕の襟首を掴み上げる。
「テメェえええ!今度は何しやがったぁああっ!!何だコレおかしいだろコレ!? 何で俺がテメェになってんじゃあああ!!」
「…ああ」
目の前で僕の襟首を掴んでいるのは紛れもなく血相を変えて乱れている"僕"だった。
…ぽろりとまた涙が零れる。
ということは、これは現実なんだね…。
何ということだ。こんな…こんな非現実的なことが起こるとは…。
それとも、ここはまだ夢の中だというのか…?
僕の襟首を前後に揺すり、僕の体に入っているらしいバンジョイくんがそれはもう目と鼻の先でわめき立てる。
「テメェ戻せ月山ぁあああっ!!何で俺がテメェに――…うおっ!?」
「…少し静かにしてくれたまえ」
僕の襟を掴んでいた手首と襟を取って足を払い、スパンッ――!と僕の体を一回転させて床に叩き落とす。
当然ながらバンジョイくん本来の体を投げ捨てるよりも僕の体を投げる今の方が軽く、受け身も取れない彼は醜く床に倒れた。
それを見て僕の方が哀しくなってくる。
…無様に床に倒れる自分の姿というのはあまり見たくはないものだね。
片手で顔を覆い、俯いて項垂れる。
「何てことだ…。僕がこんな醜い体になってしまうとは…。全く美しくないこんな…僕が長い間鍛え上げ磨き上げてきたボディが一夜のうちに…」
「俺だって願い下げなんだよっ!!」
「…。えっと…」
それぞれ悲劇に暮れる僕とバンジョイくんのやりとりを眺めていたカネキくんが、頬を指先で少し掻いてから困ったような顔で顎に手を添えた。
「今の動きで何となく察しはつきますが…。ひとまず、下に行って話を整理しませんか?」
アジトの一階に移った僕たちは、リビングのソファセットでひとまず話を整理することにした。
…だが、その前に何と言っても僕はバンジョイくんのファッションが許せず、汗臭さもあって何よりも先にシャワーと着替えを申し出た。
僕自身がシャワーを浴びて、バンジョイくんのクローゼットの中から比較的マシな服装を選び髪をセットする。香水も忘れない。
しかし、彼のクローゼットの中は全く面白味に欠け、どれも似たり寄ったりでアイデンティティが見えもしない。
第一シャツが無いなんて…全く、紳士としての身だしなみに必要なものが何一つないというのは大問題だろう。
まず襟付きの服が殆ど無いという無惨な状態であるし、辛うじて見つけた服もムッシュの首が太すぎて襟のボタンが締まらない。
バンジョイくんにも着替えるよう言って部屋に押し込んだが、ぶちぶち言いつつも着替えて出てきた彼の服はティシャツにジーパンと信じられないもので、髪などは櫛を通しただけのようでセットすらされておらず、無造作に流れてしまっている。
「ムッシュ…!」
遅れてリビングに現れた"僕の姿"を見て、何とも言えない感情が僕の体を這い上がり、思わず座っていたソファから立ち上がった。
そんな僕の姿をこの場にいるみんなに晒されるなんて拷問だ!
頭を抱えてバンジョイくんに叫ぶ。
「何て品のない格好だ!ああ止めてくれっ、僕のイメージが崩れてしまう…!!」
「うるせえ!!こんなん誰が着るか!」
僕の声に負けじとバンジョイくんが声を張り、おすすめした柄ティシャツとアウターなどの一式を床に叩き付けた。
他人事のバンジョイくん'sトリオから、ソファに座ったままパチパチと拍手があがる。
「おー。悪くないっスよ~。やっぱ顔はいっスわ美食家さん」
「新鮮ですねー。ラフな月山さんとかあんま見ないですけど、こっちのがフツーっぽくていんじゃないですか? そのまま雑誌載れそう」
「ねえ、カネキさん?」
「え?」
不意に話を振られ、僕らを無言で眺めていたカネキくんは我に返った様子でトリオへ視線を向ける。
それから、改めてムッシュを見た。
僕の姿をしたムッシュ・バンジョイを。
「ああ…。ええ、まあ…」
「服装なんてどーでもいいんだ、どーでも!一体こりゃどーなってんだよ!?」
「ムッシュ、僕の姿でそう取り乱すのは止めてくれたまえ。そろそろ状況を受け入れても良い頃合いだ。ひとまず冷静になって、それから話をまとめようじゃないか」
僕がそう言うと、一瞬場がしん…と静まりかえった。
皆が揃って僕の方を意外そうな顔で見上げている。
…?
不思議に思って、カネキくんへ視線を送って尋ねた。
「何か妙なことを言ったかな、僕は」
「あ、いえ…」
「…。お、俺が…」
「万丈さんが…キリッとした顔でまともなことを言ってる…!」
「…なあ。ひょっとして月山さんていつもそれなりにまともなこと言ってたのか?」
「さあ…。変態が目立ち過ぎてるから…いいコト言ってても俺らじゃ気付けないしー」
こそこそと端の方から細かい声が聞こえた気がするが気にすることではない。
一番混乱しているらしいバンジョイくんが落ち着いたことでひとまず場は落ち着いた。
カネキくんが耳を傾ける下で僕とバンジョイくんがそれぞれ思い当たることを振り返ってみるけれど、昨夜僕が彼と別れたのはこのアジトを出る時、あの玄関での見送りが最後。
それ以降会っていないのは僕もバンジョイくんも同じであり、一体全体何故この様な状況に陥っているのか皆目検討も付かない。
昨晩、星に願ったことが多少なりとも引っかかりを覚えるが、まさかそんな訳が無い。
僕の秘めたる願いはこの場に晒すものではない。
「…でも、そんな小説みたいなことがあるんですね」
"原因が思い当たらない"という結果が出てから、カネキくんが感心したように息を吐いた。
確かに、フィクションとしては面白味も多少あるだろうが、現実ともなればそうはいかない。
この僕が、バンジョイくんにだなんて…!
僕の姿をしたバンジョイくんが、カネキくんに前のめりに尋ねる。
一瞬、カネキくんがさっと彼から身を反らしたような気もするが、きっと見慣れた僕の姿にバンジョイくんという現状が恐ろしいのだね、分かるよとても。
「なあっ、その小説ってのは最後はどうなるんだ? 戻るんだろ!?」
「ああ、はい…。僕が読んだパターンでは…ぶつかって戻ったり、一晩明けると戻ったり…。あとは、互いの願いが叶ったり、相手の苦労を知って理解しあってから最終的には戻りますね。そのまま戻らないという話は、あまりないかな…」
「ふむ…。では、最も試しやすいものは"ぶつかってみる"かな。ひとまず頭突きでも試してみるかい、ムッシュ?」
「断る!」
「おや」
すぐに試すかと思いきや、ムッシュは即答して僕を睨んだ。
カネキくんが苦く微笑する。
「きっと、意図的にやっても無意識に加減してしまうでしょうから意味はないのかもしれません」
「何を。全力でやるとも!」
「嫌だっつってんだろ!!」
額を両手で押さえてバンジョイくんが僕を睨みながらソファの端へ逃げる。
それはつまり僕の格好でそうしているわけで……ああ、見苦しい。
「小説では大体事故的なもので衝突するパターンが多いですし。…そうですね、取り敢えず一晩置いてみましょうか。それで戻らなければ本格的に調べましょう。医療的な処置が必要になるかもしれませんし」
カネキくんがそう言うので、一晩明けるのを待つという結果になった。
慣れないバンジョイくんの体は重くて疲れてしまう気もするが、考えようによっては面白い趣向だ。
一晩くらいならば耐えもしよう。
戻らないのならばシェイプアップを始めなければね。
こんな大きな体では動きにくいもの。
…とはいえ、もっと深刻にしなければいけない話題というものもある。
座るカネキ君の方を向き、軽く片手を上げて提案した。
「カネキくん。今日行く予定だった事前視察だけれど…」
「ああ…。はい」
今日は別区に僕とカネキくんで偵察に赴く予定があった。
僕としては、その後、ついでにその地区にある有名なカフェで一緒に珈琲を愉しむ予定に重きを据えて愉しみにしていたのだが…。
僕の言葉に、カネキくんは分かっているとばかりに頷いた。
「そうですね。取り止めましょう。月山さんの中身が万丈さんじゃ…」
「な…!大丈夫だって!俺が行ってやるよ!!」
「そういう問題ではないのだよ、ムッシュ」
事の重要性を理解できていないらしいムッシュの言葉に、額に片手の指先を添えてふう…と溜息を吐く。
カネキくんも曖昧に苦笑した。
僕とバンジョイくんとでは、基本的な戦闘力に随分な差がある。
中身がこうして入れ替わった状況下では、各々の肉体が持っている力量は…なるほど、反転したと言ってもいいかもしれない。
だが、所詮肉体は肉体。
ある意味、道具のひとつなのさ。
その道具の使い方を知っていなければ、結局のところ肉体の持つ実力すら発揮できずに当然だろう。
メンテナンスされた肉体×豊富な経験!
バンジョイくんに僕の洗練された体を与えたからといって、何ができるというのか。
現に、彼がここに来てすぐ僕に詰め寄った時、僕はバンジョイくんの体で軽く彼を投げられたけど、彼は僕の体で受け身すら取れなかった。
バンジョイくんにカネキくんは守れない。
お荷物なだけさ。
それに…!
カッと目を見開いて、自身の胸にバンジョイくんの太い指を添える。
「いいかい!最大の問題は、僕の中身がバンジョイくんという状態でのツーショットにある!!カネキくんの隣には僕たる僕がいてこそ様になるというものなんだよ…!如何に僕の姿をしていようと、今の君が横にいてはカネキくんの品位が損なわれる!!」
「…」
「何が品位だ!!テメェも大概残念な品位だろーが!」
「失敬な!僕は力任せにテーブルを叩いたりはしないよ」
憤り露わに、目の前で自分の姿が荒々しくテーブルを叩く。
ああ全く…。
何て見苦しい!
乱暴なバンジョイくんとソファに腰掛け途方に暮れる僕とのやりとりが落ち着くまで静かにアイスコーヒーを飲んでいたカネキくんは、やがて顔をあげた。
「まあ、とにかく…。今日は中止をします」
「カネキ…!平気だ、今夜は俺がお前の――」
「万丈さん…」
カネキくんが、困ったような表情でバンジョイくんを見る。
その一瞥だけで、彼はぐっと呻くように押し黙った。
「すみません。今日は少し疲れてしまっていて、元々中止しようかどうか迷っていたんだ。いい機会ですから、そうしてくれると」
「え…。あ、ああ…まあ…。そういう話なら…」
「ありがとう」
「ふ…。当然だね」
そんなやりとりを見ていて、鼻で笑ってしまった。
ぎろりとバンジョイくんが僕を睨むが、大したことではない。
あんなに吠えていた犬が、主の言葉で大人しくお座りをするのだから、こんなに愉快なことはない。
愛するカネキくんにあんな表情でお願いなどされようものなら、従う以外の選択肢が無いのはムッシュも同じだ。
大体、カネキくんが"中止"と言っているのだから、盾ごときが反論すべきことではないのだよ。
あと重ね重ねになるが、如何に僕の姿であろうと、カネキくんの隣がバンジョイくんなんて断じて許せない…!
今日のスケジュールが空いたところで、一人座っていた横長のソファの上を、す…とカネキくんの方へずれて近づく。
一人掛けの玉座に座る彼はちらりと僕を見るが、いつも僕に向けるクールな瞳ではなくどこか甘い。
たったそれだけでいつもよりぐっと彼が幼く見えるのだから不思議だ。
いつもとはまた違う甘めの魅力に手を伸ばさずにはいられない。
「…何ですか」
「では、今日はここで君と一日過ごせるというわけだ。血や死闘は確かに僕らを興奮させ成長させるけれども、平穏な日常もまた尊い。さて、何をしようかカネキくん?」
「月山さんは帰ってください」
「そうとも!帰りたまえ、月山習…!」
「何で俺だよ!? テメェが帰れよ!」
カネキくんの言葉に、ビシッ…!と僕の姿のバンジョイくんを掌で示すと、彼は立ち上がって怒鳴った。
そんな彼に、指を振る。
「Non、non。今は君が僕の姿なのだから、僕の家でゆっくりしたまえ。それとも、本当にこの僕に月山家に向かえと? この体で今自宅へ戻ったりしてごらん。殺されてしまうかもしれないよ。我が家のSPは喰種の間でも有名だからね。お互い困るはずだ」
「テンメェ…!」
「つまり!僕は今日一日ここでカネキくんと過ごすっ!」
「…!」
肘掛けに置いていたカネキくんの右手に上から指を絡ませて握ると、びくっとカネキくんの肩が引きつった。
流石に一気に双眸が鋭くなり僕を睨む、が…。
ふ…。
口元を緩め、彼の背中からぞわりと威嚇するように這い出てきた美しい赫子を眺める。
「おやおや、カネキくん。いいのかな? ムッシュは見た目に反してとても脆いと思うけれど?」
「…」
「いつも君が僕にそうするように、愛の鞭を与えるにはこの体は脆弱過ぎる。治癒力も随分劣るから、戻ったときに悲惨な目に合うのはバンジョイくんさ。気を付けたまえ…よ」
「のぉおおおおっ止めろぉおおーっ!!」
自身の人差し指に一度口付けて、それでカネキくんの唇に触れてウインクする。
無反応なカネキくんの代わりに、横でバンジョイくんが大変耳障りな悲鳴を上げて頭を抱え、天を仰いだ。
彼のお友達が一部、珈琲を吹き出している。
「月山ぁあああっ!俺のカッコで変態かますんじゃねえええーっ!!」
「う、うわぁ…。万丈さんのウインク…」
「万丈さんがやると流石にキモいわ…てか、カマっぽい…」
「動画撮っとくんだったわー」
「月山テメェ離れろ!カネキ、ぶん殴っていい!いいから!!」
「おっと…」
真っ赤になったバンジョイくんが、僕とカネキくんとの間に片腕を差し込み、身を乗り出す。
狭いソファとテーブルの間を移動し、カネキくんを塞ぐように僕の目の前に佇んだ。
…赤い自分の顔というのはなかなかレアだね。
興味は覚えるけれど、それよりも今は彼が邪魔だ。
むっとしてバンジョイくんを見上げる。
「退きたまえ、ムッシュ」
「外見がどうだろうと一緒だ!カネキがウザがってんだろうが!!」
「…。まあ、そうですね。別に万丈さんの体だからって、月山さんと一緒に一日を過ごすつもりはありません。寧ろ…」
そう言いながら、カネキくんがバンジョイくんの背後で静かにソファから立ち上がった。
「万丈さん。よかったら、今から僕と運動しましょう」
「え…。俺?」
「はい。月山さんの体でいる間なら、赫子が出せるかもしれません。…因みに、今はどうですか?」
「え…。あ…」
「…」
カネキくんの言葉に、僕もはたりと思い立って赫子を取りだそうとしてみる。
…が、まあ当然のことだが赫子が出せないバンジョイくんの肉体から、赫子は出ない。
いつもの癖なのか肩胛骨の辺り…というよりも、もう少し上が若干熱くなったような気はするが、武器として露出するものは何もなさそうだ。
…これは困るな。
本当に"剣"として使いものになりそうもない。
ムッシュの戦闘力は人間の話でいえば体格も良いし十分なのだろうけれど、赫子の強さで雌雄が決まるような我ら喰種の中では弱き者だ。
今の僕が戦えるとしたら…このゴツイ拳になるのだろうか。
…そんなことを考えている間に、バンジョイくんも自身で赫子を感じ取ろうとしてみたらしい。
拳を握って背中に意識を送ってみているようだが、赫子を出せるはずの僕の肩から切れ味美しい自慢の赫子は姿を見せない。
"道具を使いこなす技術"が足りない典型だ。
「ふぅん…。やはりこの体では赫子は出せそうにないね」
「…? 俺も…む、無理…なのか? これ」
「君が無理なはずはない。コツを掴めていないだけだよ、ムッシュ」
「んなこと言ったってよ…」
「感覚を覚えないと難しいのかもしれませんね。今のうちに赫子の感じに慣れておけば、本来の体に戻ってから出せるかもしれないと思ったのですが…。仕方がありません。それなら、軽い体のうちに接近戦だけでも強化させましょう」
「お、おう…!」
「カネキくん、僕も一緒に――」
「月山さんはついてこないでください」
ぴしゃりとカネキくんが命じて、振り向きもせず運動用に用意した地下のワンルームへと向かってしまう。
その後ろ姿を見詰め、一人佇んだ。
…ああ、カネキくん。
何てことだ。
いつも彼の運動の相手は僕のはずなのに。
こんなに醜く弱い体では近寄りがたいのも当然だ。
特に現状では、カネキくんが僕に求める第一は単純な強さと財力であったろうに、バンジョイくんの顔と肉体ではそれらどちらも愛する彼に与えられない。
「…ムッシュ・イチミ」
「へ? …あ、ウィッス」
カネキくんが去ったドアを寂しく見詰めながら、ぴ…と片手を軽く挙げて近くにいたイチミくんを呼ぶ。
「ムッシュ・バンジョイはいつも日中何をしているんだい?」
「あー…。そっスね…まあ、万丈さんネットとかも弱いし、情報収集は月山さんからもらったモンをベースに基本的に俺らで動いてます。万丈さんが何してるっつっても…」
「掃除とか?」
「ヒナちゃんと遊んだりとかですかねー。まだ寝てるけど」
「…! 掃除!」
はっとして反芻する。
思わず無意識に右の拳を握った。
そうだ、掃除をしよう…!
カネキくんの部屋の!!
それが今の僕に出来うる最大の――…。
…などと決意した矢先、僕の声が廊下まで聞こえてしまったのか、ガチャ…!と地下に向かったはずのカネキくんが凍て付いた目でドアを開けて顔を覗かせた。
「月山さん…。分かっているとは思いますけど、万丈さんの体になったからって、僕の部屋に勝手に入らないでくださいね」
「…。Oui…」
「お願いします」
言うだけ言って、ドアは無情に閉まった。
とたとたと足音が遠くなる。
…はあ。流石はカネキくん。
僕のことをよく分かってくれているね。嬉しいよ。
けれど、君と今日二人きりで汗を流すのは僕ではなくバンジョイくんなんだね…。
いつも君の相手はこの僕だというのに。
それが辛い…!
「ああっ、カネキくん…!!」
「…いやー、オモシロイっスねー。万丈さんの体が百面相してオーバーアクションだと。半ターンとかしないから、万丈さん」
「動画撮れてる?」
「うん。撮れてる」
「ふぅ…。仕方ない。では、ムッシュの日常に掃除というものが入っているのであれば、僕はそれをしようじゃないか」
ぴよぴよとうるさい外野は無視して、片手を腰に添えて顎を上げる。
あまり改めて見ないリビングをぐるりと見回し、どこから始めようかと少し考えた。
…バンジョイくんが日常的に掃除をしていると言っていたけれど、改めて見回すとどうしてかそこまで綺麗でもない気がする。
「月山さん、掃除とかできるんですか?」
「ふ…」
イチミくんの言葉に口元を緩めながら、バンジョイくんの硬い髪を撫でる。
馬鹿にしないで欲しいね。
確かに、"掃除"という行動は随分久し振りな気がする。
自宅は自室も含めて使用人に清掃を任せてあるが、それは彼らの仕事の一環として清掃という作業が含まれているからだ。
彼らの仕事を僕が奪ってしまっては、我が家で抱える愛すべき使用人の存在意義を奪ってしまう。
かといってそれがイコール"掃除が出来ない"に繋がるとは、何て極論だ。嘆かわしい。
何事も経験。
僕は常に刺激を求めるチャレンジャーでもあるのさ。
そして、やるからには極めて見せねばね。
「美しい環境は本来、己の手で整えるものだ!見ていたまえっ、僕の本気を…!」
部屋の端に立てかけてあった粘着性のカーペットクリーナーをフェンシングの剣の如く構えて見せると、背後から疎らな拍手が起こった。
リビングを始め、廊下や他のスペースも徹底的に。
途中でリトルレディが起きてくると、誰よりも早く事情を素直に受け止め、カネキくんがバンジョイくんの躾をしている間、一緒に掃除を手伝ってくれることとなった。
リトルレディが健気にも掃除をしていれば傍観を決め込んでいたトリオも手伝う気になったようで、結局大掃除と呼んでもいいような大事になってしまったが…。
「うっわ…」
「…。どうしてこんなに薔薇があるんですか」
日も傾いてきた夕刻。
ようやく一区切り着いた掃除の片付けが終える頃、そんな声に振り返るとリビングの入口にカネキくんとぼろぼろのバンジョイくんが立っていた。
地下から戻ってきたのだろう。
立ち姿に随分な差があるが、今のバンジョイくんがぼろぼろということはつまり僕の姿が草臥れているわけで、ぜえはあ言いながらドアに片腕をかけて寄りかかっている様子はとても見ていられない。
思わず深々と溜息を吐いて軽く首を振った僕の前を、たっ…!と可愛らしい花柄のエプロンをかけたリトルレディが両手を広げて飛び込んでいく。
「お兄ちゃん、おつかれさまー!」
「あ…。おはよう、ヒナミちゃん。お掃除のお手伝いしてくれていたの? 偉いね」
途端にカネキくんが表情を緩め、右腕に抱きつくレディの頭に片手を添えて撫でる。
…ああ、リトルレディ。
可愛らしい少女の特権だとしても、僕は君が羨ましい。
僕もカネキくんを抱き締めたいいつだって。
だが、今はとてもそんな気分になれないのだから仕方がない。
カネキくんの片腕を両手で抱いたまま、リトルレディがひょっこりとバンジョイくんを見上げる。
「…花マン、今は本当に万丈さんなんだね?」
「あ、おう…。まあ、何かどーしてこうなったのかは知らねえが…」
「へえ…」
丸い澄んだ瞳で、リトルレディはカネキくんと隣に立つバンジョイくんを見比べた。
それから一度ちらりと僕の方を見てから、また嬉しそうにカネキくんを見上げる。
「何だかお兄ちゃんが月山さんと仲良しみたいで、ヒナミうれしいな」
「…」
「…」
「はは…。まあ、月山の体も悪くねえけどな、実際。結局赫子は出せず仕舞いだが、すげえ動けるしよ。やっぱ軽いといいな。全然違う」
バンジョイくんが苦笑するのを、何となく眺めてしまった。
いつもだったら「僕は常日頃からカネキくんとは仲良しさ!」と全力で主張するところだが、何故かぽっかりと胸に穴が空いてしまったのだ。
唐突に、気付いてしまった。
今の僕は、彼にとって不必要な存在ではないのだろうか。
カネキくんの傍にいる為には、それなりの"価値"が必要になってくる。
僕は何も理想論を並べる気はない。
人間でも喰種でも、他人を傍に置き気を許すには性質は違えど相手に価値が必要だ。
その価値が清いものであれ汚れたものであれ、人間関係とはいつの時代も常に損益と打算だ。
カネキくんが未だ僕を心から信頼してくれていないことは、勿論僕も理解している。
だからこそ尽くして揺らいでいる彼の信頼を勝ち取ることに日々情熱を注いでいるというのに…。
…今、カネキくんが僕に最も感じているであろう魅力は、僕が"使える"ことだ。
財力と剣としての戦闘力。
これに尽きていたというのに、それらが消え失せ、今や重く美しくないバンジョイくんの体だなんて…。
「…」
突然、恐怖心が生じてくる。
つい一瞬前までは軽く考えていた自身の境遇。
このまま一夜明けてもムッシュの体であったら、僕はカネキくんの傍にいる価値が格段に減る。
…いいや。減るどころではない。
僕という人格にムッシュやリトルレディ程気を許してくれていない以上、実力が無いとなれば皆無に等しい。
…思わず、じっと太く肉厚のバンジョイくんの右掌を見下ろした。
赫子の出ない体では、剣にすらなれない。
「…」
「ねえ、万丈さん。ヒナミとオセロやろ?」
「おお。いいねえ。やるか!」
肉体が入れ替わったことは、どうやらレディにはさほどの衝撃でも障害でも無いらしい。
僕の体の手を引いて、ぱたぱたとリビングのソファの方へ向かってしまう。
…離れた賑やかさを何となく眺めるしかできなかった。
「…」
「…。掃除、すごいですね」
ぼんやり佇んでいると、不意にカネキくんが僕へ向けて無表情のままそう告げてくれた。
君からお褒めの言葉をもらうなんて…!
カッと一瞬パッションが僕の体を滾らせるが、何となく気が引けて頷くだけにしておく。
「ムッシュの仕事だと聞いてね。それならば、今日は僕がやらなければと思ったまでさ」
「ぴかぴかです。薔薇はどうかと思うけれど。…一日、どうでした? 体調は?」
「…!」
そう言いながら、カネキくんが一歩僕の方へ踏み出す。
彼が自主的に僕に歩み寄ることはとても珍しく、またしても反応として彼をエスコートしなくてはと片腕を出しかけようとぴくりと肩が震えたが、やはり途中で思い留まり、思わず一歩彼を避けるように後退してしまった。
…極普通の雑談?
果たしてそれだけで終わるかどうかは怪しいものだ。
次に彼から出る言葉が「このままでは貴方はもう要らない」であったらと思うと、いつもは恋しいその唇から溢れるあらゆる言葉すら怖ろしい。
その一歩に気付かぬ訳もなく、カネキくんが足を止めた。
「…。今、逃げましたね」
「まさか!僕が君から逃げるなんてことがあるはずがない!」
「今日一日、月山さんとても大人しいですね。地下にちょっかいをかけにくるでも無く、あまつさえ僕を避けるんですから」
「な…。避けてなどいないとも!僕はいつだってウェルカムさ!…だが!」
「だが?」
カネキくんが問い詰めるように僕に聞き返す。
…そんなこと。
続けなくても、君が一番分かっているだろうに…。
「…。今、僕はバンジョイくんだ…」
言葉にすれば、それは考えていた以上に重みがあった。
現状を呑み込んだ振りをしてこれは夢かとも午前中のうちは思ってもいたが、流石にこうも一日が終わってしまえばそんな甘い考えを持ち続けることは難しかった。
"剣"になれない僕にはきっと、カネキくんから見て価値がない。
項垂れる僕へ、カネキくんが呆れたような声を向ける。
「そんなこと、分かっていますよ」
「…」
「…月山さん?」
沈黙する僕を気にしてか、カネキくんが再び距離を詰めると、僕の額へ手を伸ばした。
「大丈夫ですか? やっぱり体調が…」
「触らないでくれたまえ…!」
「…!」
伸ばされた手を、音を立てて払う。
そこまで大きな音ではなかったのでバンジョイくんたちには聞こえなかったようだが、僕ら二人の間には一瞬ピリッ…と冷たい空気が流れたのが分かった。
驚いた顔の後、カネキくんが目に見えて不快そうな表情をする。
「…珍しいですね。月山さんが僕を拒むなんて」
「頼むから、今は僕に触れないでくれたまえ…」
「気味悪がったりなんかしていませんよ。ここまではっきりしているんですから」
「"僕が"、嫌なんだ…!」
「…」
感情のままに叫んでしまうと、カネキくんが呆けた瞳で僕を見上げた。
自身で何を告げたのか、その意味が全く理解できていないらしい。
こちらばかりが感情的になってしまう。
「ムッシュの手が君に触れるのを、他ならぬ僕が許せというのか!? カネキくん!君は無情だ!!」
「別にそんな…。万丈さんに触れるくらい、日常生活でいくらでも…」
「抱くという意味でだよ!」
「…ていうか何勝手にすること前提で話をしてるんですか」
カネキくんが力ない表情で僕に淡々と尋ねる。
何故って、愚問というものだろう。
「…? 僕が泊まる時は必ず君と愛し合っているじゃないか」
「…。…ああ。ええ、まぁ…」
顔を反らしながら、カネキくんが他人事のように曖昧な相槌を打つ。
僕がアジトに宿泊する際は、十中八九カネキくんと愛し合っている。
まあ、一度彼にナイフを向けてしまった僕は欠いた信頼が埋まるまで基本的にはここに泊まらせてはもらえないけれど、喰種の集団を襲ったりハトと闘ったりした後で時間的にも肉体的にも余裕が無い夜は泊まらせてもらえる。
そして、そんな日にカネキくんの昂ぶった感情を受け止めるのは僕の役目…!
だから僕がここに泊まる日に、彼を寂しがらせるようなことは心苦しいのだが、今夜の僕はムッシュだ。
この指が僕のもので無い以上、カネキくんに触れさせたくはない…!
しかもムッシュ!
力もなく美しくもない!断じてお断りだ!
カネキくんに相応しく無い…!!
ばっと片手で口元を押さえ、彼から顔を背ける。
「今夜は君に触れたくても触れられない…!ああっ、すまないカネキくん!!」
「いや、何も泣かなくても…。それに今日はそんな気分じゃありませんし落ち着いていますし…」
「どうしてこんなことに…っ。恋い慕う君と近しいムッシュのように長い間一緒にいられればと願ったことはあったけれど、君の剣としてこの身を削れないのでは意味がない。僕は君の力になりたい…っ」
「…」
カネキくんの力になってあげたいというのに、この身では荷物になるばかりだろう。
もし明日以降もこんなことでは、僕の存在意義が無くなる。
眉間に皺を寄せて唇を噛み締めた。
目尻に耐えた涙を見られたらしく、少し間を置いた後、背後からふぅ…と息を吐く音が聞こえた。
急にカネキくんが気遣うような声で、僕に語りかけてくる。
「…じゃあ、今日は何もせずに一緒に眠りますか?」
「――!」
思わぬ言葉に、ぴくりと顔を上げて背後を振り返る。
カネキくんが困ったような不愉快そうな顔で、はあ…ともう一度溜息を吐いていた。
日が傾き、シャワーを借りてカネキくんの部屋へ向かう。
僕より早く身を清めた彼は既にベッドに横たわっていて眠っているように見えたが、僕が傍まで来るとちらりと薄目を開けて僕を見て、また目を伏せてしまった。
これ以上進んでいいのか悪いのか迷ってベッドへ腰掛けて、目を伏せたまま仰向けに横たわっているカネキくんを見下ろす。
こんな無防備な姿を見せてくれるのは珍しい。
今すぐキスをして体中に触れ、その皮膚を舐めて唾液を吸いたい……が、今日は止めよう。
バンジョイくんの肉体にご褒美はあげたくないし、僕のカネキくんが穢れる。
…暫くして、横たわっていたカネキくんが唇を開いた。
「…寝ないんですか?」
「ああ…。やはり今夜は部屋に戻るよ。君とベッドを共にしたら、僕の理性が保たない」
「…。ケダモノ」
「そうだね。残念ながら否定できないよ…。それだけ君の虜というわけだからね」
「…」
またカネキくんが溜息を吐く。
布団から出してある片手を自らの腹部に乗せ、彼は続けた。
「…驚いていますけど、貴方が思っている程、僕は気にしていません。月山さんは見た目だけなら格好いい方だとは思いますけど、別に、僕は月山さんの見た目が特別好きなわけじゃありませんし…」
「か、カネキくん…」
気負いのない言葉に、胸が痺れる。
ぎゅぅっと一旦自らのシャツの胸元を握ってはみたが、そんなことでは僕の中の感動を霧散させることは難しく、身を乗り出して横たわっているカネキくんの傍へ手を着く。
鬱陶しそうに、ちらりとカネキくんが片目を開けて僕を見る。
「では、僕という人格を愛しているということだね…!」
「…」
「…? カネキくん?」
てっきり「そうですとも」という流れになるかと思いきや、カネキくんは気怠そうに双眸を開けると、遠い目で天井をぼんやり見据えながら不思議そうな顔をした。
…?
「カネキくん…。何故そう疑問符を浮かべるのかな?」
「いえ、そう言われると…。月山さんの場合、外面よりも内面が問題なのになと思って…」
「おや、初耳だね。僕に何か不満があるのなら遠慮無く言ってくれたまえ。直すよ」
「いやぁ…。治らないと思います…」
「そんなことはないさ。君の為ならどんな努力も惜しまないよ。…仮に明日この体が戻っていなければ、本格的にムッシュの肉体で戦える術を考えなければ。なに、鍛え上げればこれはこれで使い勝手もいいかもしれない。せめて君と並んで構わないくらいにシェイプアップは必須だけれどね。資金面ではムッシュが上手くやるだろう。僕は僕、彼は彼で君の剣として、何とか使えるようにしなければ」
「…」
言いながら、今一度自らの掌を見据える。
肉厚の掌。
朝、カネキくんに触れたときもそうだったが…皮が厚くて彼の体温を感じにくい。
大振りな肉体は、愛する人を抱くには随分と損をしているようだ。
そんなところ一つ取っても、僕は僕の体に戻りたい。
…やがて、カネキくんが寝返りを打って僕に背を向けた。
「もう寝ます。寝るなら寝る、出て行くなら出て行ってください」
「出て行くとも」
今夜の選択肢は決まっている。
名残惜しいけれどベッドから立ち上がった。
この肉体で彼自身にキスはできない。
だが…。
「Bonne nuit、カネキくん。…良い夢を」
上にされているカネキくんの肩に手をかける。
露出されている肌には触れないよう気を付け、パジャマ代わりの黒いティシャツの袖に触れて布地に口付けた。
前屈みになっていた背を戻し、ドアへ向かう。
「…戻らなくても、貴方には使い道がありますよ」
「…」
ドアノブに手を掛けた僕へ、カネキくんが振り返りもせずそう告げた。
たったそれだけの言葉に、救われた気になる。
小さく微笑し、常々恋しい彼の部屋から出てアジトの中の自室へ向かった…。
――。
――随分遠くで目覚ましの音を聞いた。
枕元でなく、別の部屋で誰かがかけた時計が鳴っているようだ。
そんな些細な音でも目が覚めてしまい、ふ…と瞼を開ける。
最初に目に飛び込んできたのは、寄れた飾り気のないシーツと潰れた枕だった。
「…」
ぼんやりと数秒。
その後、ばっ…!と覚醒する。
「体は…!」
膝立ちで起きあがりながら両手を見下ろすと、馴染んでいる僕の手だ。
表を見たり裏返してみたりして感動してから周りを見回すと、あちこちちぐはぐな雑貨が置いてある汗臭い部屋。
それでも何とか壁かかっている小さなミラーを見つけ、ベッドから飛び降りると直行した。
ミラーに映る自分という外見。
固めないと流れてしまう柔らかな髪、鼻筋、長い間探求している美食と嗜みとして鍛え磨き抜いた肉体…。
――僕だ!
「あ…ああ…っ!」
両手で自分の顔を包み、感嘆が溢れる。
良かった…!
本当に良かった!これでまたカネキくんの――…。
…と、そこで彼の存在を思い出した。
折角彼に昨晩誘いをもらったというのに断る羽目になってしまった、本来の僕に戻ったことの報告と今すぐその穴埋めにいざ行かん…!!
必要最低限の身だしなみを整える為、手早く服を脱ぐ。
飾り気のない白いティシャツとスウェットなどでよくもまあ眠れるものだねムッシュは…!
ああ時間が惜しい…!!
クローゼットからシャツを始め衣類を選び、だがタイを付けている時間は惜しく、ざっくり髪を整えて部屋を飛びだした。
「カネキくん…!!」
「お…。月山…」
バンと飛びだした廊下の先で、いつも僕が使っている部屋からバンジョイくんも出てきていた。
眠そうな目を擦りながら、よろよろと廊下へ出てくる彼に先は越されまいと、大股でカネキくんの部屋へと向かう。
「うお…。やっぱ月山戻ってんじゃん…。…あー? んじゃ何だ昨日の。夢…?」
「退きたまえ、ムッシュ!」
ムッシュを押し退け、カネキくんの部屋のドアをノックする。
二度ほどノックしてドアノブを回すが鍵がかかっており、ガチャガチャと鳴る。
しかしこの吉報を一刻も早く報告したくて力任せに回しきりノブを捻った。
「カネキくん…!」
「…なんですか。…るさい…」
「~っ…!」
部屋に飛び込むと、丁度ベッドから上半身を起こしていたカネキくんが目を擦っていた。
昨日触れられなかった鬱憤と可憐なその姿にぐあっと血圧が上がる。
「ああ…っ!カネキくぅぅん…!!」
「え…。ぁ、うわ…!?」
「ちょ、ちょっと待てコラぁあああ!!」
両腕広げて飛びつくと、カネキくんは勢いに負けて仰向けに再びベッドに倒れる。
背後でバンジョイくんが寝惚け眼から覚醒し怒鳴るも、知ったことではない。
ギャラリィがいるのも悪くない。
カネキくんを押し倒してキスをすると、びくっ…と彼の体が反応する。
舌を絡めかけた直後――ぐっと腹部にカネキくんの右足裏がかかり、一気に蹴り飛ばされた。
壁に背中を打ち付け、一時の衝撃に体が沈む。
アジト自体が一瞬揺れた気がするがそんなことは気にしていられない。
「ぐ…っ」
「…月山さん? …ああ、万丈さんも」
「お、おう…。大丈夫か、カネキ?」
「あ…はい…。…なるほど。戻ったんですね…」
僕が崩れている間、カネキくんは口元を腕で拭いながら傍にやってきたムッシュを見た。
それから、ギロリ…と目付きを変えて僕を見据える。
ああ…!
一晩向けられなかったと思えばその視線すら愛おしい!昨日はムッシュの肉体であったせいか、僕を見る目はどこか優しかったから…!
この体は僕のもの。
当然、意を送れば肩から赫子が伸びて右腕に纏う。
ぎょっとしてバンジョイくんが僕へ向く。
「お、おいっ!月山何やって…」
「カネキくん!僕はもうムッシュであれたらなどと願わない!!剣としての僕を受け止めてくれたまええっ!!」
「勝手に人の寝起き襲うような剣はいりません…!」
剣としての強さを披露しようと飛びだした僕へ、カネキくんが片腕で払って布団を投げつけてくる。
ビュッ…!と、そこに一太刀。
可能なら彼ごと斬りつけて目眩く官能と美食の世界へと旅立ちたいところだが、僕の愛するカネキくんはこの程度で手に入るはずもないほど高みにいるのだから仕方がない。
布団を斬りつけた僕のモーションの隙を突いて、振り切った片腕の死角に彼が屈み込んでいた。
床にしゃがみ込んでいたカネキくんに気付いた瞬間、刃のような蹴りが下から上へ、ほぼ垂直に僕の顎を狙ってくる。
「おっと…!」
「…っ」
紙一重で半歩下がってそれを避ける。
外して不愉快そうに眉を寄せているカネキくんと一瞬目が合う。
この刹那の密やかな視線の交差が僕ら二人だけの世界だ…!
今更ながらに始めに斬った布団の羽毛が僕らの周囲に舞い散り始める。
白羽根の中、彼の魅力的な足をこの手にと蹴り上げられた足首へ手を伸ばしてみるけれど、床に手を着いたままバク転の要領で僕の指を避け向こう側に振られてしまう。
そのまま、タン…ッとカネキくんは僕から距離を取って、鬱陶しそうに僅かな寝癖も合わせて乱れた髪を片手で雑に流す。
改めて僕を睨み据えると、その背からずるりとワインレッドの赫子が二本姿を見せてくれた。
威嚇するようにカネキくんの左右に広がる美しい鱗赫。
…ムッシュ・バンジョイの肉体では受け止められない彼の力そのもの。
昨日はこの身に受けることもできなかったと思うと、僕には僕にしか得られないカネキくんの側面があることに気付けるものだ。
君が求めるのならばそれもいい!両腕を前に開いて、カネキくんへこの身を捧げよう!
「遠慮は無用だよ、カネキくん!君が望むのならば、その美しい赫子でこの僕を嬲りたまえっ!!」
「…今日は朝から随分と気持ち悪いんですね」
「Viens!」
「地下でやれ、地下で!!」
僕らが仲睦まじいことに嫉妬してかバンジョイくんが横から大声で叫ぶが、そんなことで止まるはずもない。
暫くじゃれ合っていたが、少々賑やかが過ぎたらしい。
リトルレディが目を擦りながらカネキくんの部屋に来たのを機に、一旦何事も中止。
各々着替えて朝のコーヒーを飲むことにした。
「ヒナちゃん。一昨日終わったし、そろそろこれ一緒に片付けようか?」
「あ、うん…!」
コーヒーを飲み終わりかけた頃、バンジョイくんのお友達がリトルレディに言いながら庭に面したドアを開けた。
カップを置いたレディが、急ぎ足でそちらへ向かう。
疑問符を浮かべてそちらを見れば、窓の向こうに一本の細い笹が立てかけられており、カラフルな短冊がいくつか下がっていた。
…おや。
そういえば…。
足を組んだまま顎に指先を添え、せっせと笹を横に倒しているリトルレディたちを眺める。
「一昨日は七夕だったかな、カネキくん?」
「そうですね…。新暦ですけど」
「ふぅん…」
「戻れたから良かったですけど…。結局、何だったんでしょうね」
カネキくんの言葉に、少し考える。
タイミング的には……いや、だがそれはあまりにもファンタジックが過ぎるし非現実的。
しかし、非現実的でファンタジックでも無ければ、昨日のような事例はそもそも起こらないのでは?
…。
「…今晩は行けますね」
「今晩?」
物思いに耽っていると、傾けていたカップをテーブルの上に戻しながらカネキくんがぽつりと呟いた。
何のことかと思わず聞き返すと、こちらを見もせずに彼が続ける。
「喰種組織の事前視察です」
「…!」
事前視察…!
そうとも。昨夜は予定が狂ってしまったが、カネキくんの剣として危険な場所を共にするのはこの僕だ。
これもまた、バンジョイくんでは務まらない役目の一つに違いない。
僕もまた、彼にとって特別な存在なのだ。
「勿論だとも、我が主!君の力になれることが、僕の悦びさ…!」
「助かります。触らないでください」
反射的に握ってさわさわ撫でていた彼の手が、するりとテーブルの上で抜けてしまう。
…だが、最後の人差し指を逃しはしまいと、がっと力を込めてその指を握る。
僕の手が彼に触れる。
こんな当たり前のことに幸福を感じる。
黒く美しい、血だまりのような爪が愛おしい…。
舌で思い切り堪能したい。
カネキくんが氷のような双眸で僕を見下ろす。
その視線も僕だけのものと思えば、愛おしい以外に何もない。
「…」
「ああ…。愛しているよ、カネキくん…」
「…どうも」
うっとり彼の爪に見惚れて人差し指で撫でていたが、数秒も経たないうちにカネキくんが僕の腕を弾くように音を立てて振り払った。
飲み終わった自身のカップを持ってキッチンへ向かう後ろ姿に、僕も慌てて席を立った。