「…あれ? 有馬さん、白秋読んでるんですか?」
デスクの片隅に置いてあった文庫。
ちょっと遅れての昼食を取っているって聞いたから部屋を訪れてみると、僕も好きな本が置いてあった。
白秋かあ…。
小説ほど読まないけど、詩も好きだ。
詩だったら、やっぱり戻るところはここだなあ、僕も。
好みが近くて嬉しくなる。
無造作に本を手に取る僕を、部屋の端のコーヒーメイカー傍にいた有馬さんが振り返りもせず頷いた。
「ああ…」
「いいですよね、北原白秋。この間も置いてありましたよね?愛読書ですか? 最盛期と晩年、どっちがいいですか? 僕、晩年の方が好きなんです。彼の自然を視る目はとっても澄んでいて、素敵だなぁって思うんです」
「…」
ぱらぱら本を捲る僕がいるデスクへと、有馬さんが戻ってくる。
珈琲を注いだカップを置いて、す…とそのまま違和感を感じるくらい僕の傍に来た。
「…!」
びくっと思わず震えた肩に気付かない有馬さんじゃないだろうに、そのまま、片手を頬に添えられる。
広い手に触れられると、ふにゃりと全身から気が緩んでしまう。
僕は有馬さんが好きだ。
できることなら、彼の役に立ちたいし彼の求めるものをあげたい。
だから、こういうことをされると思わず無条件に自分を差し出したくなってしまう。
…け、ど!
「やーですよ!」
「…」
さっと一歩後退して、有馬さんの手を逃れる。
踊るように引いた僕が意外だったのか、彼は淡々とした無表情ながらも、彼を取り巻く空気というか気配というか…そういうものが揺らいだのが分かった。
ここでキスしたら気持ちいいだろう。
僕だってそれが嫌なわけじゃない。
一度されてしまうと、もっともっとと強請るのは僕の方だから。
でも…。
距離を取って、両手を腰に添えて怒った振りをしてみる。
「キスは、ちゃんと"僕"にしてください!」
「…」
指に持った文庫をひらひらさせながら、苦笑してみる。
…そのまま、本を置いてドアの方へ向かった。
退出して、閉める直前、顔だけ室内に覗かせる。
相変わらずの無表情。
デスクの前で、凜と咲く一輪の花のような容姿。
僕は彼が大好きだ。
「それじゃ、有馬さん。失礼しまーす!」
ピッと敬礼して、有馬さんの部屋を後にした。
僕には、二年以上前の記憶がない。
最近になって思うのだけど、きっと…有馬さんは、その時の僕が好きだったよーな気がする。
もしかして恋仲だったのだろうか、なんて思わなくもない。
過去の僕はすごく荒れた半喰種だったと聞いている。
時々頭の中に響く、あの誘うような暗くて甘い声の主がそうなのかもしれない。
あの有馬さんがそんな人を好きだったのかどうかと半信半疑だったけど、よく考えたら局内で囁かれる噂なんて局側から視た真実なのだろうし、現実はどうだったか分からないもんなぁ。
どういう関係だったのかは知らないが、あの人にとってその時の僕は特別だったようだ。
そんなに想われるなんて、羨ましい。
…でも、だからって代替品になるつもりはない。
僕は、僕に負けたくないんだ。
――が。
「…キスしたかったなぁ」
帰り道の廊下で足を止め、がっくりと壁に体の横を寄りかからせてうじうじする。
有馬さんからのキスは貴重なのに。
我慢できなくていつも僕から強請るから。
実際しなくても、彼のそのモーションだけで今の僕はぞわぞわしてる。
よく拒否れた、僕。
偉い。
「…。はあ…」
がっかりしても仕方ない。
あそこで許しちゃうと、有馬さんの浮気を許すようなものだしなあ。
溜息を一つ吐いて、しょんぼり廊下を進んだ。
「佐々木一等。今日は定時でお帰り下さい」
「え…。僕ですか?」
「残業が多すぎると、上から」
「う…」
廊下を通り際、事務の人に言われてしまってぐさりと刺さる。
やることやらないでぐだぐだ残ってるわけじゃないんだけどなぁ…。
けど、確かにちょっとここ最近局に残っていることが多いかもしれない。
今日は早めに家に帰ろう。
荷物を整理して、パソコンの電源を落とす。
みんなは…相変わらずのフリーだから、今は誰も局内にいないし。
果たして家にもいるかどうか…。
「はあ…。もう、みんな自由なんだから…」
でも、みんなの分のご飯は一応作っておかないと。
今日のご飯は何を作ってみようかな…。
そんなことを考えながら、エレベーターに乗って正面玄関へ向かう。
軽やかな音を立てて止まった機械の箱から一歩出た瞬間、ゲート前に立っている姿を視覚が捉えた。
「…有馬さん?」
瞬いて名前を呼んでみる。
相手も僕に気付いたようで、玄関の方を向いていた体をこちらへ向けてくれた。
向けてはくれるけど不動のままで、歩み寄ってこないところが有馬さんらしい。
僕の方から小走りで彼に近づいていく。
「お疲れ様です。お帰りですか?」
「…ああ」
今日は有馬さんも帰るの早いんだなぁ。
…でも、ここで立っているからには誰か待ちだろう。
一緒には帰れない。
「今日は早いんですね。よかった、たまにはゆっくり休まなきゃだめですよ? …じゃ、お先です!」
片手を上げて、懐からカードを取りだし、ゲートを通る。
くぐり終えて自動ドアへ向かう途中で…。
「…先約があるのか?」
「え?」
疑問を投げかけられ、振り返る。
腰までくらいのゲートの向こうで、有馬さんが淡々と僕を見据えていた。
僕もぽかんと彼を見据えてしまう。
…。
…ん?
あれ、もしかして…僕を待ってくれていたのだろうか?
てて…と足を戻して、ゲートで区切られた柵に両手を添えて、向こう側にいる有馬さんを見上げる。
「…有馬さん、誰かを待ってるんじゃないんですか?」
「佐々木琲世を」
「え…!僕!?」
無感情に言われて、僕の方が慌てる。
約束なんてしていない。
姿を見かけて一緒に帰れたらいいなと思ったけど、あんなあからさまに人待ちじゃ、誰か他の人を待っていたんだと思うのが普通じゃないか。
「えっと、じゃあ…。一緒に帰っていいんですか?」
「そのつもりだが」
「そのつもりって…。だって約束とか全然してないじゃないですかぁ…」
急に言われても困る。
有馬さんと比べると全然だけど、僕だって基本的に暇じゃないし、もし待ってくれてるのなら待たせたくない。
だから、一方的約束は困る。
今日はたまたま事務の人に帰るように言われたから出てきたけど…。
――と、そこまで考えて思い至る。
そういえば、あの事務の人…結構偉い人のような…。
「…」
有馬さんは中指で眼鏡のブリッジを持ち上げると、まだぼうっとしている僕を見た。
「…。白秋は、置いてきた」
「…え?」
「悪かった」
「…」
「…」
沈黙。
のち――、かあああ…!と顔が急激に熱くなる。
…やばい。
嬉しくて死ねそう。
わたわたと、両手を添えていた手摺りを無意味に叩いてみたりする。
「い、いや…ぁ…いえ!す、すみません!僕こそ、生意気に…!」
「詫びたいのだが。…うちで珈琲でもどうだ」
「行きますっ!」
シュビ…!と敬礼し、二つ返事で嬉しさ任せに尻尾を振る。
…ああ。こんな露骨な反応だから、彰さん曰く"有馬の愛犬"なんだろうなぁ。
でも、嬉しいものは嬉しい。
有馬さんが頷いてゲートを出てくるのを、うずうずしながら待つ。
出てきた彼の隣にならんで、自分でも分かりやすいくらいにはしゃいでしまう。
「あ、良かったらご飯作りましょうか? 何が食べたいですか? 今までに読んだものなら作れますよ」
「…そうだな」
悪いけど、メンバーのみんなには勝手にあるものですませてもらおう。
有馬さんが優先だ。
ちらちらと刺さる局員の視線を感じながら、彼の隣でビルを出る。
この人の隣を歩ける人は、少ない。
プライベートで歩ける人は、もっと少ない。
業務外で彼の隣を歩く時、いつも誇らしい気持ちになるんだ。
緩む口元は抑えられない。
二人になったら頭を撫でて、昼間はできなかったキスをして欲しい。
心の中で白秋相手に勝ち誇り、ガッツポーズをしてみせた
。