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「あ、元就公~。ねえ、今晩泊めてよ」

戯れに奥から現れた毛利の長・元就を見た途端、半兵衛は出迎えた隆景の肩越しに酷く馴れ馴れしい様子でそう告げた。
午後から降り出した雨の中やってきた来客は、隆景にとってあまり好ましい客ではなかった。
約束もなく、密会するような事情もなく、ただただ遊びに来たていの竹中半兵衛が元就のお気に入りの一人であることは、毛利家の中では周知のことだ。
大人の都合で回される不運な幼少期を経験したせいか、元々元就は子供好きで、実子に対しても家臣の子に対しても基本的に愛情深く、民の子に対しても、特に祭などで幼子があちこちで楽しそうにしている景色を見るのが好きな性分である。
また、幼子の笑顔が平和の証という考え方と同様に、賢く聡い者は平和の支えと好ましく思うところがある。
数々の戦で間接的に相対し、豊臣の進軍に「この戦略はどこぞの誰が」と疑問に思っているところ、その正体が実年齢に不釣り合いな程に幼い外見をしている半兵衛だったものだから、元就は一目まみえた時からすっかりこの青年を気に入っていた。
実年齢を知ったときは些か驚いたようだが、生来体が弱いことを知れば、驚きは納得となった。
白子だ。
色白虚弱にて短命。益々、元就の気に入りとなる。
雨の中、水が滴る笠と、袖や裾を濡らしてやってきたのが半兵衛と聞きつけるなり、こうして元就自ら表へとやってきたというわけだ。
応対していた隆景を挟んで、板の上からにこにこと元就が微笑む。

「その様子だと、火急というわけではなさそうだね。よかった。豊臣に何かあったのかと思ったよ。…ああ、それならいいよ。勿論だ。雨の中ようこそ、半兵衛」
「やったー! も~びしょびしょ…。早速風邪引きそうだよ」
「少し季節外れだが、火鉢を用意させようか。あとは食事だね。…まあ、とにかく体を拭いて温まるといい。隆景、頼むよ」
「はい、父上」
「温まったら、私の所へおいで」
「はーい」

元就は、うん、と一人頷くと、機嫌良く再び奥へと消えていった。
この場を任されてしまった隆景が、相変わらず感情をおくびにも出さずに父に頭を下げてから、半兵衛へと向き直った。
世話女を数人呼び、小柄な客人を布で拭かせ、雫が滴らなくなったところで、温めだした部屋へと通す。
着替えを済ませると、すっかり我が物顔で半兵衛はごろりと畳へ横たわった。

「あーあ~…。つっかれたぁ~」
「お茶をお持ちしましょう。休まれたら、父上のもとへご案内いたします」
「ありがと、隆景殿」
「しかし、一体どのような用件でこんな夜分にいらしたのですか? 火急でもなさそうですし」
「それは元就公に話すよ」

半兵衛は年下であるが、礼節として敬語で話しかける隆景の様子は万人に対してのそれと変わらない。
そんな丁寧な年長者を、布団の上で頬杖を着いて、半兵衛はじっと見上げた。
小早川隆景。
名は、ずっと前から知っている。
毛利元就の三男だが、早くに小早川に養子に入り、若くして小早川の主を務めてみせた。
以来、ずっと小早川家臣、民、各国諸大名の信頼を勝ち取り続けている。
先見の明があり、軍略は静かで表立ってはいないものの、「抜け目がない」という点では一際目を惹く。
表立っている策の短所を確実に埋め、長所を確かなものにする一手を常に用意している。
全体的に油断のならない毛利家の中でも特に軍師の才があるものだから、余程だろうなと思っていた。
さてどんな男がと思い馳せたが、戦場で会った時、「ああ…こういう感じかぁ…」と、些か半兵衛の予想を外してきた。
切れ者だから油断はならないが、腹黒でも、陰険でもない。
その容姿も、立ち居振る舞いも、静かな秋の椛を思わせる。
自分とタイプは違うが、なるほど、"これは好みだ"と、思う。

「……ふぅん」

隆景の質問には答えず、半兵衛は頬杖を解いて腕を重ね、その上へ顎を乗せた。
それでもあどけない大きな瞳が射貫くように見詰めてくるので、隆景は首を傾げる。

「私の顔に何か?」
「あのさ、俺よく童顔って言われるんだけど、こーやって間近で見ると、やっぱり隆景殿も、歳の割に童顔だよね」
「…」

いつもの、微かな笑みらしき表情のまま、隆景は黙った。
ずば…と、正面から斬られたような気がした。
今まで誰にも言われたことがなかったが、恐らく誰もが思っていたことであろうということは自覚している。
悪いことではないと思っている。なにせ、父が元就なのだ。
毛利家の血筋は皆、実際の年齢よりも総じて若い。だがそれは、心身の健康に気を使っている結果であるのだ。
いつまでも心身共に若々しい。優秀な特性ではないか。
そんな中でも確かに、隆景は多少抜きん出て若々しく、且つ童顔であるかもしれない。
だが、しかし。
間違っても、目の前の、父を誑かす外見詐欺の青年にだけは言われたくない!自分はそこまで童顔ではないはずです…!
…と、隆景は強く思っている。
実際は半兵衛も、見た目青年の中年である隆景だけは、よもや反論すまいと思っているわけだが。
心に波風立てられ、しかしそれを表には出すまいと気を取り直し、隆景は柔らかく返した。

「実年齢より年上に見られることはないので、どちらかと言えばそうかもしれませんね。我が毛利家は総じて若く見られるようです」
「あー。元就公も、いつまで経っても元気だしね~」
「お陰様です。…さあ、いかがでしょう。そろそろ父上の元へ参りましょう」

手短に済ませてしまおうとでも思ったか、隆景は早々と半兵衛を奥へと案内した。
元就の趣味の為だけに用意された、いわば書斎のような書に埋もれている室へと歩を進め、折り目正しく隆景はその前で膝を着いて、中へと声をかけた。
その様子を、半兵衛が後ろで両手を頭の後ろで組んで見下ろしている。

「父上、失礼致します。半兵衛殿をお連れしました」
『ああ、ご苦労様』

いつものように隆景が襖を開けようとした矢先、その襖が内側から開かれた。
僅かに開いて、ひょいと軽く着流している室の主が顔を出す。
座している隆景の頭上で、やってきた半兵衛に笑みを向ける。

「やあ」
「元就公、火鉢ありがとう」
「どういたしまして。少しは温まったかな。さあ、どうぞ。話を聞こうか。久し振りに碁を打つのもいいね」
「今から? まーいいけどさ」
「隆景、案内ありがとう。下がっていいよ」
「…はい」

元就は、半兵衛の為に片方の襖を開けて入室を促した。
半兵衛が何の抵抗もなく、まるで猫のように我が物顔ですんなり元就の部屋へ入っていくのを、隆景は汐らしく控えて見送る。
自分でさえ、この部屋へ入るのは一呼吸整えるというのに…。
立ち上がった隆景の前で閉まりかけた襖の隙間から、背を向けた元就が見えた。

「隆景」

ぼそりと…甘い小声が耳をかすめる。

「きっと官兵衛が来るはずだ。来たら、君が応対しつつすぐに私に知らせを寄こしてくれ」


望月夜



勢いのあった雨が些か収まってきた日暮れ。
元就の言があったお陰で、一刻程後にやってきた黒田官兵衛の姿を見ても、さして驚かなかった。
その言葉が無かったら、唐突にやってきた彼の来訪をさぞ驚いたことだろう。
しかし、父が言ったからには来るのだろうと、隆景は部屋をもう一つ暖めておき、簡単な茶と茶菓子の用意までして待っていた。

「ようこそお越し下さいました、官兵衛殿」

半兵衛の時と比べれば些か好意的に、隆景は玄関で官兵衛を出迎えた。
相変わらずどこか陰鬱としており、好んで身につけている黒衣も陰った表情も、背後に見える雨が余程似合う。
傘を畳んでいた官兵衛は、礼節通りに一礼した。

「貴殿自ら出迎えとは…。突然の訪問になってしまった。この度は、誠に無礼を…」
「いいえ。お待ちしておりました」
「…」

にこりと微笑する隆景に、官兵衛は目を伏せて突かれた様子で肩を落とした。
感情どころか、疲労なども滅多に他人に見せることのないこの男が、疲労を見せる。
それだけで、何をしに来たのか分かるというものだ。

「半兵衛殿のお迎え、ご苦労様です」

自分も同じだが、滅多に動じないはずの彼に波風を立てられるのは誰なのか、分からないはずがない。
そういう意味では、やはり竹中半兵衛という男は常に周囲を揺らす側であって、目立たないながらも風の中心は彼である。
どこか面白そうに言う隆景の言葉に、官兵衛は伏せていた双眸を開けた。

「…申し訳ない。貴殿との約を断っておいて」
「いいえ。気にしておりません。どのみち、今日は雨脚もあり日が悪かった」

約というのは他でもない。
実は今日、官兵衛は午後に隆景を尋ねて来る予定があった。
隆景が珍しい南蛮の兵法書を入手したので、書き写しに来る予定だったのだ。
本来ならば余所者になど見せないが、官兵衛の人柄を信頼している隆景は進んでその存在を官兵衛へ告げ、招く形で自分の屋敷への訪問を約していた。
しかし都合が悪くなったからと、午前中に官兵衛から断りの使いが来たのだ。
見た目に反して情の厚い男であることを知っているし、官兵衛が自分のことを疎んでいないことも知っているため、隆景は「何か急ぎの予定でもあったのだろう」とすんなりと承諾したし、気分を害してもいない。
そんな前提があるから、「官兵衛が来る」と言ったのが元就でなければ、「用事があるそうだから来ないだろう」と意見を述べていただろう。
だが、他ならぬ父が言ったのだ。
元就が来ると言ったからには、間違いなく官兵衛が来るだろうと、隆景はこうして迎える準備を怠らなかった。
官兵衛を迎えると同時に、使いを奥の座敷にいる元就へと走らせる。

「どうぞ。父が来るまで、粗茶ですが、多少の用意はあります」
「いや、ここで結構。回収したら、すぐに戻る故に。……半兵衛は」
「父の私室におります」
「…」

隆景が言うと、官兵衛は沈黙した。
眉間に皺が寄るその表情を見て、隆景も静かに肩を竦める。
そう感じるのならば、しっかりと繋ぎ止めておいてほしいものだ。
こちらとても、懐深いのをいいことに、気安く父を取られるのは気分が悪い。
…と思う一方で、あの賢さと聡さに裏付けされ、意図的に奔放を気取る半兵衛を繋ぎ止めておくのは、なかなか至難の業なのだろう、とも思う。少なくとも、自分にはできる気がしない。
元就が彼を気に入ってしまっていること自体が、いい証明だ。元就は聡い者を好む。それは半兵衛の意図的な奔放を助長し、益々繋ぎ止めておくに難しくなる。
そう思えば微かな哀れみも湧き、隆景は優しげに官兵衛に声をかけた。

「貴方の用事は? 今日は何か、予定が入ってしまったのでしょう? そちらはよいのですか?」
「…。ああ…」

どちらとも取れる曖昧な返事で、官兵衛は明確な言を避けた。
それ以上追求せず、隆景は再び室内を示す。

「今、官兵衛殿の訪問を奥へ伝えております。すぐに半兵衛殿が来るかどうか知れません。ひとまず、中へどうぞ。ここに立っていても茶を飲んでいても、待つ時間は変わりません」
「…」

隆景に促され、官兵衛はのそりと毛利の屋敷へと上がった。

 

 

 

「…うん、そうか。ありがとう」

元就の私室で俯せになり、片頬を着いて黙々と歴戦書を読んでいた半兵衛は、部屋の主ののんびりとしたその声を聞いて、顔を上げた。
見れば、さっきまで文机にいた元就が襖傍へと移動しており、外から何かを伝えに来た者へ礼を述べていた。
来たか…、と思う。
待っていた気持ちは確かにあるのに、来たと聞けばどこかムッとする。

「どうやら、お待ちかねの人が来たようだよ」

襖を閉め、元就が寝転がっている半兵衛の傍へ腰を下ろしながら言った。
どこか子どもを擽るような戯れが声の調子に含まれていて、半兵衛は思わず半眼になる。
軽く咳をしてから、ふて腐れたように返事をした。

「俺は別に待ってないけどねー」
「雨の夜道を来たんだ。健気だと思わないかい?」
「そう? ただの散歩じゃない?」

元就が笑った。
半兵衛は、我ながら幼い言葉遊びだと思う。
言いたくて言っているわけじゃない。普段ならこんな幼稚なことは言わない。こんな遠方までの散歩があるものか。
思わず言ってしまうのは……まあ、相手が何もかも見透かしている風を気取っている元就だからなのだろう。悔しいが。
片腕を伸ばし、元就は寝転がっている半兵衛の背を、猫の子をそうするように撫でる。

「追ってくるのは分かっていただろう? いけないよ、あまり困らせては。彼は真面目なんだから、全て真に受けてしまう」
「そーかなぁ。案外、一番手っ取り早い方法だと妥協して追ってきてるのかも」
「はははっ。まあ、手っ取り早い方法ではあるだろうね。…さて、そろそろ理由を教えてくれないかな。私が取り持てるかもしれないよ?」

愉快そうに笑った後、元就が軽く聞いてくる。
それでも半兵衛が口を割らないので、続けて、元就が手近な書を手にとって開きながら言う。

「それじゃあ、いいことを教えてあげよう。小耳に挟んだことだけど、今日、うちの隆景は、官兵衛と会う予定があったそうだよ」
「…知ってる」
「それが急に"行けなくなった"と文があったそうだ。隆景は急に時間が空いたから、私の所に顔を出しに来たんだろうね。…官兵衛は、隆景に一目置いてくれている。自分から約を違えることはあまり考えられない。しかしこうなったからには、当然だけれど、官兵衛にとって、隆景よりも優先することが生じたからだ」

そんなことは分かっている、という顔で、半兵衛は重なった数冊の書の上にに顎を乗せる。
官兵衛が、隆景との約束よりも優先すべきこと。
知っている。それは自分…"竹中半兵衛"だ。
自分は官兵衛に好かれている、という自信がある。
聡さと優しさに耐えきれず、自ら戦乱の世の必要悪を買って出て、基本的に他者に好かれることなど諦めている彼の為に、半兵衛は分かりやすく親しく振る舞ってやっているつもりだ。
お互いに腹の内が読める。手法は違うが、目指す所は同じだ。
互いに好感を持ち、尊び、刺激を得る。
それを隠そうとは思っていない。ただ、人前で積極的に主張していない、というだけだ。
お互いに認めているからこそ、献策のぶつけ合いもするし、互いの策の補完もする。
その後に、互いから得るものがあると知っているからだ。
対極的な軍師として、秀吉に付いていることも多かったが、最近、それとなく半兵衛が戦場を離れている。
理由は、体調不良。まだ一部の者しか知らない。
官兵衛にも言っていないのだが、察してはいるらしい。元より、騙せるとは思っていない。
ごほっ…と、再び咳が出た。
この男に弱みを見せるのもなぁ…と思いつつも、半兵衛はどこかに捌け口を見つけたかった。

「……本当は、今日、俺の方が先に約束してたんだよ」
「へえ…?」

元就が口の端を緩めて笑った。
幼い感情と思考だと半兵衛は自分で思う。
言葉にすると、ますます幼い。
それをこの腹黒爺に「可愛らしい」と思われていることが腹立たしい。
ああ…。何故、今、弱っている自分の隣にいるのがこの男なのだろう。
本当に隣にいて欲しい人物は、決まっているのに…。

「……月をね、…見ようって言ったんだよ。自分から」

 

 

 

「――月、ですか?」

官兵衛の話を聞き、隆景が反芻する。
自然と、視線は中庭の方へと向いた。
しかし天候は生憎の雨で、雨戸も障子もしまっている。
言われれば確かに、今夜は満月のはずだ。見えていれば、だが。
ふう…と、静かに官兵衛が深く息を吐き、肩を下ろす。

「…事情があり、近頃半兵衛は室にいる時間が増えているのだが、隙あらば逃げだそうとする。曰く、退屈で死にそうとのことだ」
「書を勧めてみては?」
「それに飽いてきたのだろう」
「飽いて…」

そうだろうか、と活字中毒である隆景は首を傾げる。
戦などせず閉じこもり、毎日毎晩心ゆくまで活字だけを追う――…最高では?
書さえあればいくらでも時間は過ごせるというのに…。
心から不思議そうな顔をしている隆景の表情を見、官兵衛はこの男が自分や半兵衛以上の読書家…というか、活字中毒で愛字数家であることを思い出す。

「…兎に角、逃げ出す度に捕まえ、回収することを何度か繰り返したのだ。だが如何せん諦めが悪いので、仕方なく約を取り付けた」
「満月の晩に共に月見をしよう、それまでは外出は控えろ、と?」

隆景の復唱に、官兵衛が無言で頷く。
聞けば、半兵衛は提案されたその約束を渋々受け入れて、ここ最近は大人しかったそうだ。
それはさぞ愉しみだったのでしょうね……と、半兵衛の性格を思い、隆景は相づちを打った。
そして理解する。
今日は午後から雨が降った。今も、空は曇り星はない。
当然、月もない。
御符を創るには新月。隆景が戦で使用している武器を作れはしないが、満月の強い月光を受けて夜空を見上げなにごとかを思案する時間は、皆にとって尊い。
夜空我が物と輝くあの美しい、玉のような月を眺めるには、今夜は適さない。

「…なるほど」

だから…、と繋がるその先が読めて、隆景は困ったように半兵衛へ微笑んだ。

「いけませんよ、官兵衛殿。今夜月が見えないことが事前に分かっていたとしても、私との予定などを入れては」
「……」

官兵衛は黙り込んだ。
賢人と認める隆景の意見を受け、やはり己が悪かったのだと改めて思う。
今夜、月は見えない。月見はできない。
数日前からの空の調子で、予想はできていた。
そして、昨夜の空を視て、今朝の風を読んで、官兵衛は確信した。
半兵衛も、無論解っているだろうと思った。
最近汐らしく床に着いていた半兵衛を思えばこそ、酒の代わりに名のある器と茶葉、好物の甘味を用意してやっていた官兵衛とて残念に感じたが、仕方がない。天候は人にはどうしようもない。
では、空いた時間に用事を済ませてしまおう。賢人の元にあるという兵法書を書き写し、それを与えてやれば、半兵衛の新たな時間潰しくらいにはなるだろう。
他意なく、官兵衛はそう思った。

『明日は、月は見えぬだろう。残念だが月見はまた後日。私は、所用があるゆえ賢人の元へ出てくる』

そう言葉を紡いだ時も、罪悪感など全くなかった。
だが――、

『………へえ』

予想だにしない、そんな小さく寂しげな呟きを、背を向けていた官兵衛の耳は捉えてしまった。
内心驚きつつ静かに振り返れば、にっこりと半兵衛が微笑んでいた。
「どーぞ、ごゆっくり~」と、分かりやすく拗ねてみせて次の満月の晩は酒を飲んでやるー!などと嘯いていたが、その分かりやすい態度と、先のこぼれ落ちたような陰った呟きは、相反するものだった。
先の呟きは、本当にこぼれ落ちたものが耳に入ったのか、はたまた聞かせるつもりで入れたのか、その後の半兵衛の態度からは分からなかったし、官兵衛も改めて尋ねることはできなかった。
尋ねたところで、意地っ張りで天邪鬼の半兵衛は、もうその正体を教えてはくれなかっただろう。
半兵衛の態度が予想外だったので、官兵衛は月夜でなくとも茶でも振る舞おうと、急ぎ馬を走らせ隆景に予定のキャンセルを求めたが、時既に遅し。半兵衛は官兵衛の代案を丁重に断った。
隆景が、くすりと笑う。

「なるほど。それで、半兵衛殿が屋敷を出てしまい、貴方は彼を追って来たというわけですね」
「…」

官兵衛が、無言で懐から和紙を一枚取り出す。

「……おや。…ふふ。これはこれは」

四つ折りされたそれを開いて差し出され、隆景は危うく声を立てて笑ってしまうところだった。
墨字で達筆に書かれたそれは『所用があるゆえ元就公の元へ出てきます。迎えは結構。』…と、何ともいじらしい紙だった。
これが、あの半兵衛の置き手紙とは。笑ってしまう。
こんな一面が彼にあるのかと、隆景は片袖で口元を抑えて暫く笑っていた。
余程、仲睦まじいと見える。
楽しそうな隆景の様子を受け、反対に、疲れ切った官兵衛が深々と息を吐く。

「半兵衛共々、泊を頂くつもりはない…。誠に勝手だが、連れ帰らせて頂く」
「ええ。そうしてくださると、私も家中の者達も、気が安まります」

和紙を返しながら、隆景は柔らかく答えた。

 

 

 

わざと足音を立て、隆景は官兵衛を連れて元就の部屋へと向かった。
襖の前で律儀に膝を着き、軽く頭を垂れて声をかける。

「失礼します。父上、官兵衛殿がいらっしゃいました」
「やあ。待っていたよ」

すぐに襖が開き、緊張感の欠けた様子で、毛利の長が顔を出す。
立ち上がった隆景の隣に立つ官兵衛へ視線を向けると、にこりと微笑んだ。

「久し振りだね、官兵衛殿。ちょうど、半兵衛に渡す書が見つかったところだよ。…いやあ、すまないね。すぐに渡すつもりが、すっかり時間がかかってしまった。たまには整理をしないと駄目だね」

後ろ頭を掻きながら、鷹揚に謝る元就。
この場にいる誰もがその言い訳の土台が見えているが、そういうことにしましょうか、と阿吽の呼吸で隆景は官兵衛に目配せをした。
毛利の長が気を使ってくれているのを、無碍にするわけにもいかない。官兵衛は静かに目を伏せ、了承した。
連れ帰れれば、それでいい。

「半兵衛。お迎えだよ」

部屋の中へ、まるで我が子でも呼ぶような気さくさで元就が声をかける。
とたとた…と、こちらもこれ見よがしな足音を立てながら、たらたらと半兵衛が元就の横から顔を出した。
不満を露わにした表情。その手には、理由付けになっている一冊の書が確かに抱えられていた。
じと目で、官兵衛を睨む。

「あれ~? 迎えはいいって書いたのになぁ~」
「貴殿が遅いからだ。毛利の方の迷惑となろう」
「迷惑じゃないよねー? 元就公?」
「んー? ははは、そうだなあ。迷惑ではないかなぁ」
「父上…」

あっけらかんと尋ねる半兵衛に、にこにこと応える元就。
小声で父を諫めてから、隆景は顔を上げ、片手を軽く開いた。

「しかし、お二方。本当に今から帰られるのですか? 日も落ちましたし、雨上がりで足場も悪く、おすすめできません」
「うん。そうだね。どうだろう、今夜は泊まっていって、明日戻ったらどうだい?」
「あ、それがいいなあ~」
「…。だが…」
「雨上がりの夜気は冷えますよ。離れをご用意できます。夕餉の後は、家の者達に近づかぬよう伝えておきましょう」

断りかけた官兵衛の言を塞ぐように理由を添えて、隆景はにこりと彼へ微笑んだ。
確かに、ぬかるみの強い夜道を戻るのは辛いものがある。
それ以上に、冷えた夜気に長時間半兵衛をあたらせておくことに負に感じ、官兵衛も渋々頷いた。

「二人とも、ゆっくりしていってくれ。何かあれば、近くの者に言うといいよ」

元就の歓迎を受け、両兵衛は一泊の恩を受けることになった。
隆景が近くの者を呼び、二人を離れへ案内させるよう命じる。
「俺、場所知ってるよ」と、案内の者より先行して歩き出しそうな半兵衛の後ろ襟を掴み、自分の隣へ引き戻しては官兵衛も元就と隆景へ静かに一礼し、大人しく移動していった。
二人が廊下の奥へ消えてから、元就が腕を組んで襖へ寄りかかる。

「はあ…。残念だ。久し振りに半兵衛と過ごすのもいいかなと思ったんだけどね…」
「後が恐いですよ」

隆景が苦笑する。
元就と半兵衛が密室で二人で話をしている……というだけで、例えそれが一見雑談めいていようと、互いに情報はどんな些細なことでも聞き漏らさないだろうから、情報戦且つ頭脳戦になる。
それとは別に、互いに本当に親しみを持っているのかもしれないが、何にせよ二人を密室に入れたくないのは、かねてからの隆景の考えだ。
それに、淡泊そうな官兵衛もああ見えてなかなか嫉妬心がありそうだ。遺恨は残さない方がいい。
無人になった室内へ、元就はつまらなそうな視線を向けた。

「碁が途中になってしまったよ」
「半兵衛殿と打たれていたのですか?」
「そうなんだ。始めたばかりだけどね。隆景、時間はあるかい? よかったら、一局どうだろう。中途半端で気持ちが悪いからね」

にこやかに誘われ、隆景が断るはずもない。
半兵衛が来た時は憂鬱な夜になるかと思ったが、読みが外れた。大いに結構。
あの幼顔の青年よりも、父の碁の、良き難敵となってみせよう。
両脚を揃え、元就へ丁寧に軽く頭を垂れる。

「お相手させていただきます」
「うん。早打ちで行こう。丁度夕餉になるだろうから。さ、お入り」

ぽん、と背中を叩かれ、若き小早川の長は足取り軽く父に続いて室内へ入った。

 

 

 

 

「あーあー。久し振りに元就公と遊ぼうと思ってたのになあ~」

離れに入るや否や、既に用意してあった二つ並んだ奥の布団に横断して寝そべり、半兵衛が不満げな声を上げた。
その周囲で、誰かが踏み込んできた時のことを考え、初めて入る部屋の全体的な間取りをまず見て回っていた官兵衛が、やがて落ち着いて布団脇の畳へと座した。

「……すまなかった」
「何がすまなかったか、分かって言ってる?」

布団の上で片頬杖を着き、半兵衛。
大きな瞳は半眼で、責める気はまだありそうだ。

「月見の本意は月を見ることである故、月が見えぬのなら約はなし……と、私が判断したことだ」
「だねえ」

はあ…と半兵衛が息を吐く。
"逢って時間を共有する"に重点を置いていた半兵衛は、月が見えなくともさしたる問題ではなかった。雲にかかっていようが何だろうが、その日の夜空を共に見られればいい。所詮は口実だ。
しかし官兵衛は違った、と分かった時の残念な気持ちと虚しさ。
本気で元就相手にどうこうするつもりはないが、官兵衛が元就を微妙~に警戒していることには半兵衛も気付いているので、少し振り回してやろうかと思った。
追ってくるであろうことは、端から分かっていた。
実際は、半兵衛の気晴らしにと隆景に書を借りに急いだ官兵衛だが、彼にとってはその事実は自ら口にするものではないらしい。
相変わらず表情一つ変えない無愛想な官兵衛を、半兵衛が見上げる。

「あのねぇ、例え月が見えないとしても、俺と過ごせる"満月の夜"は、どー考えてもあと何回もないんだからさー」
「…止めよ」

半兵衛が諭すように立てた人差し指を、官兵衛が片手で上から包み込むように下ろさせた。
包まれた片手を見て片頬を膨らませ、半兵衛はそのままぱたりと頭を己の片腕に落とした。

「……次は本当に元就公と寝てやる」
「次は無い。同じ過ちは繰り返さぬ」

ぎゅ…と包む手に僅かに力が入ったのを感じ、半兵衛がちらりと官兵衛を見上げる。
死人のような冷たい瞳が、静かに見下ろしていた。

「雨の夜の外出など控えよ。…体が冷える」
「…もう冷えてるよ」
「…」

尚もふて腐れて見せる半兵衛に、官兵衛は目を伏せ、諦めたような息を吐いた。
音もなく片手を伸ばし、横たわる半兵衛の手を引く。
のそりと起き上がった小柄な体を引き寄せ、先んじて額へ冷えた唇を添えたが、ずいと向かい合うように膝の上に乗り上げ、首の後ろに両腕を回されて強請られ、仕方ないとばかりに官兵衛から顔を寄せ、口付けた。
夜気が冷えている分、接した他者の口内が熱い。
随分久しい行為に、多少は満足したようだ。半兵衛が半眼で、悪戯っぽく官兵衛を見上げる。
冷たい、死人のような指先がさらりと半兵衛の髪を梳いた後、首筋を撫でた。
労るような撫で方に微笑し、頭を首元へ預ける。
目を伏せると、再び降り出したらしい雨が屋根打つ音が聞こえてきた。
月などもう望めない。
帰らなくて正解だ……と、互いに思う。
元就の好意を蹴って夜道を帰れば、降られていただろう。
半兵衛の体は冷えきっただろうし、例え無事に屋敷に着いても、冷えていつもより体力が落ちた彼の体を、官兵衛は絶対に抱かなかっただろう。
正解だが、こんなつもりはなかった……と、官兵衛は後悔もした。
体力とは、文字通り体の力で、使えば減るものだ。病が体を蝕む半兵衛のそれを、無闇に減らすことはできない。
日々それを意識して気を使ってきたが、結果、こうして消耗させるのが己とは、皮肉が過ぎる。
当初の約通り、彼の元を訪れて茶と語らいに興じていたら、こんなことにはならなかった。
これは、約を破った報いだ。
元より、情が通じている間柄だ。求められれば心も動く。
確実に死期は近づいているだろうに、半兵衛の体に死臭は無い。
彼が傍に寄れば、今も若い甘い香りは常に官兵衛の鼻腔を擽る。
しかし、その交わりが確実に半兵衛の生命力を削いでいく。心の臓に負担をかける。
分かっていても、きっと今夜は避けられない。
己に非があり、場は整ってしまっている。
怖ろしいのは、それをどこかで悦ぶ己の本性だ。

「…」
「官兵衛殿ってば、今日は流石に断れないよね~?」

人の心を知ってか知らずか、にやりと半兵衛が笑う。

「…。いずれにせよ、夕餉の後だ」

せめてと思い、官兵衛が己の肩掛けを脱ぎ、膝上の半兵衛へとかけた。

「うーん…。満月の日の約だけど、今後も今日みたいに月が見えなかったらするっていうのはどう?」
「確約などできぬ。貴殿はまず、己の体のことを重ねて気に掛けよ。無理は禁物…」
「はー…。もうそろそろ耳にたこができそう…。そーだよ~? 俺、今虚弱なんだから…」

片頬を膨らませたあとで、官兵衛の襟を両手で掴み上げる。

「いつも以上に、丁重に抱いてくれなきゃね~」
「…」

半兵衛が戯けて言えば、官兵衛は目を伏せ、諦めたように息を吐いた。
間を置き、次に瞳を開けた時には、恐らく自分以外は知らぬであろう、気を緩めた優しげな視線だ。
この男を困らせるのは、なかなか愉しい。
半兵衛は得意気になり、顎を上げて目を伏せる。

二度目の接吻は、静かだが、一度目よりいささか吹っ切れたようだった。



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官半と毛利親子。
半兵衛さんは元就が嫌いじゃないし、隆景は官兵衛を認めてる…というクロス状態。
お互い軽い嫉妬が入っている前提で。
2020.4.27





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