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「そうじゃ、小十郎。マグロとは何じゃ」
「…」

大きな戦も一段落し、比較的穏やかな束の間。
城下町の様子や近況などの報告を一通り聞き終え、久し振りにゆっくり茶でも点てようと茶室へ向かう流れになった頃、報告用の書を取りまとめていた小十郎へ、上座の政宗が問いかけた。
書を箱に入れていた小十郎は、はたりと若い主の問いかけに動きを止めたが、

「……残念です。政宗様」

間を置いて、はぁ…とこれ見よがしにため息を吐く。

「伊達家当主としてあまりの知識不足…。恐れながら、少々頭が弱すぎるきらいがございます。これ全て小十郎の不徳の致す所というわけではございませんが、伊達家の沽券の為、微力ながらお力添えいたしましょう。"鮪"とは――、」

指先で眼鏡のブリッジを持ち上げ、もう片方の腕でバンッ…!と背後の何でもなさそうな壁を叩くと、いつどんなことを考えて準備していたのか、ぐるりと回転したその壁に、立派な鮪の墨絵が描かれた和紙が貼ってあった。
慣れた様子であるらしい政宗がそれに驚くことはなく、小十郎がどこからか取り出した指し棒で、ピッとその墨絵を示す。

「ススキ目サバ科マグロ属の海魚の総称でございます。全長約1~3m。大型の回線魚であり、肉は美味なものが多くございます。政宗様のご記憶力で果たして覚えていらっしゃるかどうか小十郎めには分かりかねますが、政宗様も三度召し上がったことがございます。有名なところでクロマグロ、メバチ、キハダなどですが、旬の季節は冬ですので、今すぐ召し上がりたいと申されましても――」
「馬鹿め!そんなことは承知しておるわ!!」

明らかに"知らない"前提で解説してくる小十郎に、座していた政宗は肩を上げて声を張った。
些か遠慮がなく、また同時に拗ねたような声色も含まれているのは、室内に幼き頃よりの守役である小十郎しかいないからではあるようだ。
いつもより幾分幼さが目立つ気がある。
伊達家の殿ともあろう方が本気でマグロも知らないものだと思った小十郎は、はてと手を止め、政宗を見た。

「ご存じでございましたか。ですが、先程は"鮪とは何か"と仰ったように記憶しておりますが」
「魚のマグロは知っておる!そうでなく、わしが問うたのは人柄としてのマグロじゃ!」

再度言い直す政宗。
だが、小十郎には伝わらない。
折りたたみの効くらしい指し棒を手の中に収め懐にしまい、もう一度背後の壁を同じように叩いて何食わぬ顔で鮪の絵を引っ込めてから再び尋ねる。

「人柄…と、申されますと?」
「何じゃ。貴様も知らんのか。懐深い、狡猾、短気といったようなその者の人柄を表す言葉は数多くあろう。その中の一つとして、"マグロ"というものがあるようなのじゃ。わしはおそらくそれに属するであろうという話が出たが――」
「政宗様」

政宗の言葉を遮り、小十郎が妙に冷めた声で名を呼ぶ。
プライドの高い政宗のことだ。
自分の知らない単語をその場で「知らない」とは言えなかったのだろう。
話を合わせて帰ってきたのだが、元々知的探究心は強い性分であるので、最も尋ねることに抵抗がない小十郎にこうして問うてみたというわけだ。
大凡見えてきたらしい小十郎は、至って真顔で、平然と核心を問い返す。

「それは何方に?」
「相手か? 孫市じゃ」
「――左様でございますか」

半拍程妙な間があったような気がするが、政宗は気づかない。
急に興味を無くしたように目を伏せた。

「知らぬのなら良い。民の使う言葉であったのかもしれぬ。どのみちわしには必要のない……?」

顎を軽く引き、小十郎は指先で眼鏡のブリッジを再び持ち上げると、徐に政宗の正面に座した。
急に背筋を伸ばして向かい合う小十郎に、何事かと肘掛けに肘付いていた政宗も身を起こす。

「政宗様」
「…何じゃ」
「私めも詳しくは存じませんが、政宗様の仰る通り、民の使う言葉であり政宗様がお使いになるものではないように思われます。あの傭兵は確かに技の者ではございますが、度々申し上げておりますよう、あまり不用意にお近づきになり伊達の名折れにはなさいませんよう。…それから、これだけは申し上げますが――」

きりりとした顔で、小十郎が断言する。

「小十郎めはマグロは好いておりますので、何らご心配には及びません」
「貴様の好みなぞ聞いておらんわ!だから一体それは何じゃと問うておるのだ馬鹿めっ!!」

館の一室から、竜の咆哮が響く。
話が通じないと判断した小十郎を捨て置いて、どすどす大股で政宗は出て行った。
残された小十郎は小さくため息を吐き、眼鏡のブリッジを上げると、早速彼の傭兵を締め上げに政宗とは正反対の方角へと歩を進めた。

 

 

 

民草の使う言葉。
そういった認識であっても、意味が分からぬ言葉というのは気持ちが悪いものだ。
破天荒な言動が目立つ政宗だが、元々は教育熱心な父親の基、幼い頃から知的探究心の強い男だ。
だが、孫市の前では知った振りをしてしまったし、小十郎へは「もうよい」と言ってしまった手前、もう一度知りたいから調べて来いなどとは言いにくいし、絶対に馬鹿にされるし、どうもこの一件に関しては会話のキャッチボールが出来ていない感がある。
長い付き合いだ。政宗は知っている。
あれは、小十郎が政宗に教える気のない時のやりとりだ。
合わせた刃をすっとかわされ、当たるには当たるが、狙ったとは別の場所を擦るような、そんな感覚。
恐らく、"マグロ"という言葉はあまり善くないものなのだろうと推理する。
小十郎はそれを政宗に悟られたくないのだろう。
色々とツッコミ所満載な男だが、あれでなかなか有能で政宗からしてみれば幼少時よりの世話役だ。
彼の気遣いを無碍にするようなことは、あまりしたくない。
お互い、"手がかかる"と思っているところが竜とその陰の面白いところだが、やはり気になるものは気になる。

「…そういうわけで、貴様なら知っておろう。教えよ!」
「知らん」

思いっきり迷惑そうな顔で、石田三成は応えた。
さて何か知る機会はないかと考え歩いていたところ、落とした城の後処理の為城内にとどまっていた三成が本当にたまたまそこを通りかかった。
頭でっかちなどと称される豊臣の若軍師は、年齢こそ政宗と比べれば年上だが、家名家禄を思えば敬うような相手でもなく、兼続程に腹立たしい相手でもない。
この男なら知っているかとも思ったが、あっさりと無知である旨が返ってきたので、一気に会話が終了した。

「フン。何じゃ、使えん奴よ!」
「…」

捨て台詞を残し、どかどかと我が物顔で去って行く政宗。
突然魚の説明を求められたかと思ったら、そうではなく、人柄を例えたものであるからそれを説明せよと詰め寄られ、全く意味が分からず流れも分からず、三成は改めて眉を寄せた。

「一体何なんだ…。鮪は鮪だろう。人として善いも悪いも――」
「マグロはよくないよね~」
「…!」

突然背後から声がして、弾かれたように三成が振り返る。
一番に視線に入ったのは、黒衣の軍師、黒田官兵衛だった。
ぎょっとする。
だが、両手を後ろに組んでいる彼との距離はそれなりに開いており、とても真後ろから発せられたように感じた今の声の主とは違う。
三成は視線の中心を手前に引いた。
声の主は本当に三成のすぐ背後にいて、単純に振り返った高さに相手の顔がなかっただけだったようだ。
竹中半兵衛が、にっと露骨に幼げな表情で三成に微笑んだ。
決して高いとは言えない背丈、今は屋内で高下駄も履いていない為に尚更だ。
空かさず距離を取り、頭を下げる。

「し、失礼しました…。半兵衛様、官兵衛様」
「やだなあ。そう焦った顔しないで。ごめんごめん。急に声かけちゃったから、驚いたよねー」

悪びれもなく半兵衛が笑う。
本当は、突然の声かけもそうだが、驚いた要素はこの突然の近距離であるのだが……と、速くなっていた動悸を抑えながら三成は胸中で呟く。
半兵衛が両腕を頭の後ろで組み、間延びした声で続ける。

「なーんか珍しい二人が面白い話をしてたからさ」
「ええ。騒がしくて困ります。…どうぞ」

正直、政宗が何を言いたかったから全く分からなかったが、手短に会話を収めるつもりで、三成はそれだけ言うと脇へ避けて二人へ道を開いた。
軍師という立場であるが、秀吉から請う形で誘われた半兵衛は、豊臣勢の中では少々独特の立場にある。
彼自身しっかりと秀吉を信頼し、慕って立ててはいるが、他の将が控えるような場でもなかなか自由に発言し戦場においても自由に策を巡らせ実行し、気づけば豊臣軍が有利になっているという、掴み所の無い人物である。
彼の軍策や軍略は優れているし、いつだって目を惹く。
だが、その才を尊敬している一方で、人柄はというと、把握しきれないところを三成は少々苦手としていた。
同時に、少し距離を置いている黒田官兵衛もまた、捉えきれない人物である。
容姿も性格も、献策する内容も重視するものも明らかに対照的であるにも関わらず、この豊臣が誇る陰陽たる双璧の軍師は、常に対立もなく共に在るのだから妙なものだ。
官兵衛の方は無闇に雑談に混ざるような性ではないので、単に廊下の中心に障害物が立っていたので、足を止めているというだけだったようだ。
三成が道を譲ったのを見て、すっと歩き出す。
しかし、半兵衛はというと譲られた道を歩き出すわけでもなく、両腕を組むと目を伏せた。

「誰かに言われちゃったのかもね。そんな感じには見えないけど、案外そういうタイプなのかも。政宗にそんなこと言える人って考えると、自ずと誰かは予想が付くけど…。俺なんかからすると、言ってる方もマグロなんじゃない?とか思っちゃうけどさ。どのみちそんなこと言われてちゃ、男としては立つ瀬が無いよねー」
「? はあ…」
「ま、泳げはするけど、泳ぎ出すまでに時間がかかる魚もどーかと思うんだけどね~、俺はさ」
「…半兵衛」

疑問符を浮かべている三成。
告げる半兵衛の背後を通った官兵衛が、歩も止めず顔も向かせずに静かに彼の名を呼ぶ。

「油屋の真似事など、している暇はないぞ」
「えー。油屋はいい情報源になることが多いんだから、ちゃんと聞いておいた方がいいんじゃない? 重要な情報かもしれないじゃん。官兵衛殿」

陰気に吐き出される声に陽気に返し、半兵衛はたっと三成から離れる。

「あと、三成もどっちかといえばマグロっぽいよね~、なーんて。あははっ、冗談だから気を悪くしないでよ。じゃーね!」

明るい表情と声で一方的に告げてから、半兵衛は先を行く官兵衛の隣へとまた駆け戻った。
一度として振り返らず何事か語らいながら遠ざかっていく二人を見送り、徐に眉を寄せた。
政宗が周囲に何と評価されていようが、直接自分に関係ない。
だが、自分も聞き及んだことがない表現。
そして、半兵衛曰く自分も「それらしい」と言われたことで、気になってしまった。
どうやら半兵衛の口ぶりからして、それは不名誉なことであるらしいというのは漠然と予想できる。
清正や吉継辺りに聞いてもいいのだろうが、あの軍師の冗談はおそらく冗談ではないであろうから、自分の欠点とおぼしきものを友らに告げ、万一「お前はこういう欠点があるということだ」とその場で答えが返ってきたら居たたまれないし、自分が立腹することが容易に想像できる。
もしや陸奥で使われている方言かとも思ったが、半兵衛も知っているとなるとその可能性は低そうだ。
一人廊下で視線を落として考え込んでいたが、やがて名案を思い至る。
今日の晩、左近が来ることになっている。
博識と策謀、更に武芸にと精通している三成に"過ぎたる者"。
左近に自分の近侍は役不足であるというこの表現は腹立たしいが、噂とはよくよく本質を見て通るものであるようで、その実、三成自身言われるのは仕方がないと思っているところもあった。
"頭が硬い""鼻っ柱が強い"と言われる自分が仕方がないと思っているのだ。他の者からすれば、嘸それは目立っているに違いない…と、三成は思う。
左近は頼りになる。
そして、政宗と同じくプライドの高い三成が、不思議と自分が無知であることを晒しても腹も立たなければ癇癪を起こすこともない相手であるのだ。
彼に聞けばいい。
自分が知らない言葉でも、ひょっとしたら彼が知っているのではないだろうか。

 

 

「――"マグロ"ですかい?」

晩に、西の情勢報告を伴ってやってきた左近に尋ねると、素っ頓狂な声が返って来た。
三成としては精一杯さり気なさを装ったつもりであるが、一般的にそれは"さり気ない"とは言い切れず、故に左近は報告が終わった直後にズバッと問いかけられた感を受けた。
そして、何を問われたか、その正体も、それについて三成が本気で知らぬから問うたのであろうことも、すぐに見抜けた。
その上で、一瞬瞬いてしまったことは仕方が無いとしても、その後はふむ…と顎に片手を添え、いつものようにゆったりと堂々と、いきなり雑談の域を飛び出ぬよう、主を刺激せぬよう、考えながら深い声で答える。

「ええ、知っていますよ。マグロは旨いですなあ。酒と醤油で。殿は魚がお好きでしたか」
「生では食わん。別に好きでも嫌いでもない。それと、どうやらそれは魚のことではなく、人の性を表すものであるらしい」
「ほぉ。そうですか。…ああ。でしたら、房事が苦手な方のことかもしれませんな」

さらりと何でも無い風に、左近が付け足す。
その言葉が足された瞬間、ぴたりと三成が書していた手を止めた。
虚を突かれた様子で、左近を見る。

「……房事?」
「おや。ご存じないですかい。一部ではそういう言い方はしますねえ。…ま、隠語ってやつですよ」
「…」
「そうですなあ。苦手というよりも…事自体は嫌いなわけではありませんが、如何ともしがたく常に相手任せ……ってところですかね、指し示すところは。出所が雑賀孫市というのなら、もしかしたらそちらのことかもしれませんな。あの傭兵は好色で有名ですからな。…ハッ、尤も、そちらの成功率がいいとは終ぞ聞き及びませんがね」

敢えて軽さを付けた左近だが、声が終わったのを最後に場に静寂が訪れてしまった。
左近を見ていたはずの三成はいつの間にか手元の書へと視線を戻しており、それまでと比べると随分のろりのろりとではあるが、書き足してはいるようだ。
出過ぎたか――と、左近は僅かに眉を寄せた。
生真面目な三成にとって、色事全般は苦手分野とも言える。
元々、色だけではなくあらゆる遊び全体を含めて禁欲的である若い主だが、特に房事にはトラウマめいたものがあるらしく、あれだけ富んでおり披露している知識がその分野になると突然欠け始める。
時々に出た話を断片的に繋げると、物心つく頃には檀那寺におり、それから秀吉が見いだすまでの十年以上留められていたようで、その間は三成の中ではあまり良いものないようだ。
直接何がどうと問い質したわけではないが、左近はそれを重々承知している。
だが、一方で三成の問いかけに、知っていることを嘘八百で返すということも心苦しい。
ここまで築いてきた信頼と情だ。
嘘八百で返すことは勿論できるが、万一それが嘘であったと知った時のに崩れる信頼を思えば――…いや、それよりも、三成がその時に受けるであろう傷を思えば、おいそれと嘘が吐けないくらいには、左近はこの若い主に入れ込んでいる。
どちらが良いかを先の短い間に考えて出し取った道であったが、あまり沈黙が長びくのならば何か気の利いた話に移した方がいいだろう。
さて、それじゃあ仕入れてきた城下町の方で聞いた噂を一つ……と口を開いた左近の声が音を取る前に、

「――…お、」

ぽつ…と一言が夜の室に小さく響いた。
書き終えたのか途中なのか、筆の先を紙から離し、俯き気味だった三成が一呼吸置いてから、再び左近を向く。
平素の彼を知る者が驚愕するような、どこか相手を伺うような瞳で。

「俺も そう……か?」
「――」

今度は左近が固まる番だった。
一拍固まって、しかし理性と年上のプライド、家臣としての礼が何とか勝り、微笑うという大人の逃げに入ることにした。

「どうでしょうねえ。正直、どちらかといえばそうかもしれませんが」
「…。よくない、性だと…半兵衛様が」
「さて。それは相手に依ると思いますが?」
「…」
「まあ、実際にそのような意味で使われたかどうかは分からないわけですから」
「いや…。意味を聞き、思い起こせば違和感がない…。おそらく、政宗が言っていたのはそれだろう」

至って真面目に納得されてしまう。
せっかく、逃げ道を用意したというのに…。
左近は苦笑いをする他なかった。
そういうところが、損であると同時に、左近にとってはたまらなく可愛らしく放っておけない。
難儀なお人だ…としみじみ思っている間の数秒間、場は静寂していた。
三成は、どこかむっとしたような顔をして、視線を僅かに下げている。
だが、怒っているわけでも、不機嫌になっているわけでもない。
困っており、焦っているのだ。
己が苦手な分野であるにもかかわらず、問題を直視しないということができず、彼なりに大真面目に解決策を列挙しているはずだ。
解決策は分かっているだろう。
だが、それを実行に移せるかどうかは、また次の問題だ。
不機嫌にも見える困惑した三成の様子は、それだけで左近を満足させた。
ここで自分がマグロか否かで悩み出すということは、つまり寝間において、三成は自分が積極的ではなく、左近がそれに不満を感じてはいないだろうかと不安になった為に考えだしたということだ。
それら全体の思考の流れは、延いては「左近が好きだ」という表現である。
直接的に、愛だ恋だ、好きだ欲しいなどと口にしない三成だが、どうやらこの思考の流れが行き着く先は隠すつもりはないらしい。それともピンときてないだけか。
半兵衛に諭された、左近の為に自分が動くべきか否か…という、そこを真剣に悩んでくれるだけで、左近は笑い出してしまいそうなくらいの幼さと可愛らしさを感じる。

「…」
「殿。そのように難しい顔をするものではありませんよ。なあに、半兵衛様がお相手の御仁に欲求不満というだけですよ。それに左近は――」
「…!」

そこまで言って、片手の拳を畳に着くと、ず…と畳を滑るように前に出る。
びくりと肩を震わせた三成の近くへ顔を寄せ、ぼそりと小声で。

「閨房にて殿にお任せ頂けて、嬉しく思っておりますよ」

言った瞬間、左近の肩越しに三成がこれ以上ない程不愉快そうに顔を顰めた。
眉を寄せ、口を一文字に結んだその表情が照れて居たたまれない時の顔だと気づく仲になるまでに、他の者達はきっとおそろしく時間がかかるのだろう。
端から見れば、左近から何か内密な報告を受け、三成がそれに対して機嫌を害したという、ただそれだけのものにも見える。
敢えて色を含めて言ってみたが、左近が思ったよりも三成には響いたようだ。
ぷい、としかめっ面を横へ向ける。
左近は近づけていた顔を離し、何事もなかったかのようにまた元の位置へと身を引いた。

「本来、それが正しいことでしょう。殿は左近にとっては唯一の御仁でございますから。殿にあれこれとやらせるのは、家臣としての面目が立ちません。可笑しな話です」

目を伏せた左近のすまし顔を一度横目で見るも、目が合うのが嫌で三成はまた視線を反らす。

「ま、そういうわけで。気にしないことですな」
「……俺には無理だと思っているのだろう」
「おや…。そう来ますか」
「当たり前だ!」

余裕のあるそんな返し方も、三成には挑発される。
左近が自分を宥めて話から反らして行こうとしてくれていることを、頭では分かっているのだが感情それに従わない。
まるで子供扱いだ。
確かに、年の差に加えて手練手管の左近と機会があまり多くなかった三成では大きな差があるのは仕方がないのだが、子供扱いされて嬉しいはずもない。
だが、売り言葉に買い言葉で飛び出てしまったが……この後、左近が「ではやってみますか?」などと煽ってきたらどう返すべきだろうか。
閨房でのことは、本当にその殆どを左近に任せている。
とてもできる気がしないが、言うのなら受けて立つべきか否か、などと本気で悩み始める。

「…では、」

悩み出した三成の予想通り、左近が口を開く。

「殿が左近任せではないということを、見せて頂けると?」
「いいだろう」

売り言葉に買い言葉。
咄嗟に出た己の声を聞きながら、乗せられたと三成は早速後悔していた。
そこまで分かっているのに、乗らざるを得ない自分の性格も心底愚かしく悔しい。
左近はくつくつと許される範囲で苦く笑うと、僅かに顎を上げる。

「それは嬉しいですな。でしたら…そうですね。事の始めと終わりに、殿から抱擁を頂けますかな?」

どのような無理難題が来るかと思ったが、左近が告げたのは三成の予想よりもずっとずっと軽いものだった。
一瞬呆け、三成が片眉を寄せて聞き返す。

「……抱擁?」
「ええ。そうですよ」
「腕を回せばいいのか、お前に」
「お分かりじゃないですか」
「…。馬鹿にしているだろう」
「そう思いますか? 簡単そうで、結構難しいと思いますけれどね。殿の性を考えますと」

意地悪くせせら笑うかのように左近が言うので、三成は今度こそ本当に不機嫌な顔になった。
左近に腕を回す。簡単だ。
少なくとも、予想していたあれこれよりはずっと。
座しながら、緩く左近が両腕を開く。

「やってみますか?」
「…」

朗らかに広げられた信頼できる家臣の腕に応えるのは、その時の三成にはとても容易く感じられた。
膝を左近へ向け、自らずいと傍へ畳を滑り出て…実はこの時点で既に相当珍しいことではあるのだが…近寄って行くと、膝立ちになり僅かに腕を開く。
徐に、左近の両腕下から背中へと腕を回した。
てっきり首に抱きついてくるかと思っていた左近の予想をいくらか裏切り、またその裏切り方がよくよく左近を突いてくるのだから面白い。
ぎゅ、と背中の着物を引っ張ったかと思ったら、すぐに腕は離れてしまった。
ただ、身を戻される前に、左近が広げていた腕でやんわりと三成を包む。
左近の左の肩へ片手を置き、若い主は先程の左近のように軽く顎を上げた。

「どうだ」
「ええ。容易そうですね。左近の読みが外れましたな。殿を刺身にするには難しそうだ」

言ってやると、僅かに得意げに目元が緩む。
日頃のつんとした三成を知っていれば知っている分だけ、この差違が愛しく感じる。
左近が面白そうに笑ってやれば、今度は口元も少しばかり緩んだ。
この気を許した微笑みを僅かばかりでも他の者に見せてやれば、この面立ちが整った青年はもっとずっと生きやすかろうに。
だが、限られた者が見られるからこそ、価値も一入というものだ。
気をよくした左近が、のったりと立ち上がる。

「さて、と。…では、参りましょうか」
「…? もう戻――!」

左近が自室へ戻る為に立ち上がったのかと思ったが、見上げてていた三成も片腕をぐっと掴み上げられた。
咄嗟に片足着いて立ち上がってしまった主の傍に一瞬屈むと、そのまま流れるように、軽々と抱き上げてしまう。
横抱きにされ、ざわ…と三成の四肢が構え始める。
こうして抱き上げられるのはそう多くはないものの一度や二度ではなく、次にどういう流れになるのかも予想が付けられる。
反応を待たずに歩き出す左近の襟を、慌てた様子で三成が片手で掴む。

「おい左近、ちょっと待て!」
「何ですかな?」
「俺はそんなつもりはっ……書も途中で――」
「火急ですかい?」
「いや火急ではない、だが…!」

確かに急ぎではない。
平素の調子で尋ねられれば、嘘の不得意な三成は咄嗟に馬鹿正直に返してしまう。
喉で笑い、左近は彼を抱えたまま器用に肩で閨への襖を開ける。

「さっき言ったでしょう。事の始めと終わりは殿の抱擁といたしましょうと。終わりも忘れないでくださいよ。まあ、気をやってしまうでしょうから明朝でも構いませんが」
「違う!今のは――」

反転して、また器用に肩で閉める。
襖が閉まり、暗い閨に入ってしまいさえすれば、三成の反発は途端に弱くなった。
諦めが付いたとも言えるし、この様に半ば強引に放り込まれなければ流れに乗れないというのもある。
普通に考えれば、主従でこのような関係は有り得ない。
まして、あの石田三成だ。
ご自慢の優れた右腕を得たとしても、それと情を通じているとは考えにくいし、それを三成が許しているとも思えない。
だが、何とも巧く噛み合ってしまったのだから仕方が無い。
左近としてはこの若く美しい青年を言いくるめて押し倒すのは言ってしまえば容易いことだが、間違いなく現実に主であるのだから、家臣である以上"お許し"がなければただの狼藉。
とはいえ三成からすれば、左近を閨に誘うなどできるわけもなく、結局戦帰りの熱情に身を任せることが多い。
だが、機会が少ないだけで、多少礼を欠いて左近が閨へ入ると、驚くくらい大人しくなるのが三成だ。
敷いてある布団の上に三成を下ろし、部屋の隅の明かりを細める。

「自分で言うのも何ですが、玄人には玄人の愉しみ方というものがありましてね」
「…!」

布団へ戻って来た左近が、三成の背後に腰を下ろすと、胡座を掻いた己の膝の中に三成を引き寄せた。
左近の刀など間違っても振り回せそうもない細い体を、主好みに緩く優しく抱きしめ、左肩へ顎を乗せる。

「外野は気にすることはありませんよ。マグロだろうがイワシだろうが、殿はこのままで大いに結構。…俺の手練手管で乱れてくだされば、十二分に満たされますよ」


鮪の話



「政宗様」
「うぐっ…!?」

戦もなく、気持ちの良い奥州の午後の日和。
すやすやと寝ていた政宗の敷き布団の端を持ち、勢いよく小十郎が引く。
加減を心得ているのか、テーブルクロスよろしく見事に背後に放った布団はそのまま三つ折りになり、ついでに跳ね上がった政宗は、小十郎が的確に投げ入れた紫座布団の上にぼとりと腰を落とした。
寝ぼけ眼の政宗が、自然と寄りかかる前に、そこにそっと肘置きを置く。
置かれた肘置きに片肘を乗せ、くしくしと隻眼をかきながら、ぼんやり口を開く主の開けた着物を整えた後で、ようやく小十郎は彼の正面に座した。

「ふぁ…。何じゃ…喧しい…」
「島殿より物品が届いております」
「島…?」
「年甲斐もなく、かの石田三成に付いて回っている上がり者にございます」

自分も一回り年下の政宗に首ったけの生活のくせに、他人事に小十郎が告げる。
欠伸をしながら、寝起きでぽやっとした政宗もその顔を思い出した。

「ああ…。三成に過ぎたるあの切れ者か。…ん? 何故、彼奴がわしに?」
「存じません。捨ててしまおうかとも思ったのですが、生憎生意気にも一等品のようでございましたので、一応お持ちしました」

唐突とも思える左近からの贈り物を受け取り、政宗が首を傾げたのは後日の話。



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久し振りの無双の左三…と、小政。
どっちかというと伊達家主従が書きたかった(笑)
左近はいい男だとプレイする度に思います。
2017.10.17





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