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人を殺すとは、どういう感覚なのだろう……と、単純な好奇心と探究心で考えたことは、何度もある。
今のぼくは、その感覚が分からない。
例えば、目の前を歩く猫に石を投げられない。可哀想だと思うからだ。
ぼくは、理由のない暴力をしたくないし、傷つけられたものを哀れに思うことができる。
でもそれは、目の前を歩く猫の非を、何も知らないからだ。
例えば、ぼくの目の前に何人も人を殺した犯人がいたとして、ぼくはその事実を知っているけれど、法律上無罪になり、放っておくと次の犠牲者が確実に出るような場合……この場においての"正義の行使とは何か"――という、話になってくる。

着けたテレビの中で、ヒーローものの映画が流れている。
雰囲気に呑まれてあまりちゃんと意識しないけど、ヒーローはヒーラーたちを容赦なく殺害している。
けど、彼らは許される。
それは、ヒーラーを放っておけば、より多くの人が殺され、多くの被害が出るからだ。
それを抑える。予防する。例え、人に知られなくとも。
"本当の正義"とは、そういうものだと思う。

それなら、"本当の正義"を実行した場合、と"法律上の悪"とは、大して差違のない、親戚のようなものですね――と言ったら、陳腐な表現だと嗤われた。


優しい人の殺し方




ぼくの名前はパイカル。
まわりからは、"スキップのパイカル"と呼ばれている。
今年の春、飛び級制度を使って十五歳で大学を卒業したからだ。
世界刑事警察機構――通称ICPOの探偵卿になるという夢を叶えるために、今はウァドエバーという探偵卿の助手をしている。
ICPOの探偵卿の数は、十三人と決まっている。
何らかの理由で探偵卿の数が欠けた場合、通常なら、その助手から一人が昇格することになっている。
だから、探偵卿になるためには、まずは助手を務めるのが近道だ。
ぼくが助手を務めることになった探偵卿のウァドエバーは、国籍不明、年齢不詳。
探偵卿になる前に何をしていたかも、データには残っていない。少なくとも、他の探偵卿の助手はしていなかった。
彼と話す過程でぼんやり前に何をやっていたか見えてはいるけれど、不確かな情報だから敢えて明言しないことにする。
外見は、眼鏡をかけた中年男性で、背が高く、きっちりとしたヘアスタイルとスーツを着ている。
その一番の特徴は、いつもはとても影が薄く、人の印象に残らない、ということだ。
背が高いから目を惹くはずなのに、別の話題に移った瞬間、そんな人がいたことなど忘れてしまう。
どこにでもいる人のふりをして過ごしているけれど、決してそんなことはない。
少し難があるけれど、能力としてはウァドエバーは有能な探偵卿だ。
ぼくは、彼を尊敬している。いつか、彼のように有能な探偵卿になりたいと思っている。
けれど最近は、そんなに早く探偵卿にならなくてもいいかな、とも思いはじめた。
ウァドエバーの助手という今のポジションは、ぼくにとってとても興味深く、勉強になるからだ。
ウァドエバーに同行し、色々な場所、色々な事件を捜査するのは、楽しい。
改めて何かを教えてくれるような人ではないけれど、殆どの捜査に同行はするので、どうやら「現場で自分で学べ」という指導方針のようだ。
現場まで同行させてもらえないこともあるけれど、安全が保たれるなるべく近くまで同行させてもらえている印象はある。
今も、アジアの小国に同行させてもらっている。
ウァドエバーは莫大な財産を持っていて、常に私費で捜査をしている。
今のベースは、新婚旅行に人気の、有名ホテルの一室だ。
最上階とはいかなくても上階の部屋で、毎日夜景がきれいだ。
ちなみに、ホテルに連日待機のぼくを、ホテルスタッフがよく気に掛けてくれて声をかけてくれる。
人の印象に残りづらいウァドエバーだけれど、流石にプロのホテルスタッフには効果が薄いようだ。
ただ、はっきりと顔は覚えられないらしいが、「お金持ちで、仕事で忙しい人」というイメージは持たれている。
印象が統一されていないと困るので、ウァドエバーと相談し、仕事で海外へ来た父親と付いて来たけれど放置されている可哀想な息子という設定にしたけれど、そう見えているかどうかに自信はない。信じてくれる人がいることを祈っている。

 

 

「今夜は遅くなる。先に休んで構わない」と言い残してホテルを出て行ったウァドエバーが戻って来たのは、日付が変わった後だった。
カードキーで普通に部屋に戻って来た彼は、リビングのソファに座ってアジアの語学サプリ本(日本の"SAIJIKI"という単語集のようなもの)を読んでいたぼくを見て、不愉快そうに眼鏡の奥で目を細めた。
ぼくに、寝ていてほしかったのだろう。「先に休んで構わない」と発言する時は、大体そうだ。
そして、そう告げる時程、重要なことをしている。

「お疲れ様です、ウァドエバーさん」
「…どうやらきみは、人の一生における睡眠の重要性を理解していないようだ」
「一度はベッドに入りましたが、目が冴えてしまって困っているんです」

ウソだ。本当は、ベッドルームにすら行っていない。
バレているだろうけど、これがバレる証拠はないから、許されるはずだ。
ウァドエバーは投げやりに片手を振るった。

「枕が変わると眠れないタイプにでもなったか? だとしたら、いい睡眠薬をプレゼントしよう。すぐに処方できる」
「ありがとうございます。でも、そろそろ眠れそうな気がします」

怪しい薬を盛られる前に、本に栞をはさんで立ち上がるとウァドエバーの傍へ行く。
コートを受け取ろうと思ったけれど、ウァドエバーはぼくを待たず、まるで触るなと言わんばかりに自分で脱いでハンガーに掛けた。
揺れる袖と裾に、ふとした違和感を感じ、ぼくは上げかけた両手を下ろした。
この違和感は何だろう。
目の前にいるウァドエバーが、いつもと少し違う気がする。
ウァドエバーは変装の名人だ。
姿形だけではなく指紋や瞳孔や舌の形まで変えてしまうので、一般の人たちは簡単に騙せるし、生体セキュリティも越えていける。同じICPOの探偵卿たちも、変装したウァドエバーが目の前を歩いていても気付かないこともある。
けれど、ぼくはウァドエバーの変装を見抜けることが多い。
大体はぼくに伝えず変装していることが多いのだけれど、変装後も、見れば何となく気付くことができる。
この「何となく」という表現を使わなくてはいけないことが、歯がゆい。
本当は具体的に説明をしたいけど、今のところ自分がどうしてウァドエバーの変装に気付けるのか、解らないからだ。
ただ、感覚めいたもので気づけて、声をかけると正解、という状態だ。
無理矢理この「何となくとは何か?」に答えを押し込むなら、匂い、が一番近い気がする。
現実にウァドエバーの匂いがどうこうというのではないけれど、直感めいたこの感覚は、嗅覚が関係している気がする。
戻って来たウァドエバーから、いつもと違う匂いがする。
今は、そんな感じだ。

「わたしがシャワーから出てくるまでに、ベッドに入っているように」
「分かりました」

ウァドエバーはタイとシャツの袖ボタンを緩めながら、バスルームへと向かった。
彼の姿が見えなくなってから、タブレットでニュース速報をチェックする。
本当は、極力寝る前はタブレットを弄るなと言われている。ウァドエバーに見つかったら、ねちねちと嫌味を言われるに違いない。
ところが、せっかく彼の目を盗んで見たニュースに、今の所これといったものはない。
何か、トップニュースになるようなものがあるかと思ったけれど、違ったようだ。
寝る支度をし、部屋に備え付けられている小型のワインセラーから一本取り出して、氷いっぱいのワインクーラーへ入れる。ワイングラスも一つ用意して、ベッドルームへ向かった。
この部屋は、ティセットと同じく頼めばワインセラーの補充をしてくれる。
ワインは、ホテルスタッフが用意してくれたものだ。
エチケットに見覚えがある。レストランでウァドエバーが飲んでいたものだろう。
ワインの知識は蓄えているけれど、自分で実際に飲んだことはないから詳しくは分からない。
ウァドエバーは、ぼくが未成年であるうちは、飲酒はするなという。
決して、法律を守れという主義ではない。酔っ払いは美しくない、というのがその理由だ。
何故かぼくが酔っ払うことが大前提にあるようだけれど、もしかしたらとてもアルコールに強くて、食事と同じく、テーブルを囲って一緒に取れるかもしれないのに…。
けれど、試してみたいとは思わない。
「きみが酔っ払ったら、始末する」と言われているからだ。こんなことで命を賭けたくない。
成人したら飲んでみたいとは思うけれど、それまでは我慢だ。
でも、成人して飲んでみて、酔っ払ったら、やっぱり始末されてしまうのだろうか…。
飲めるようになっても、少しずつ飲んでみることにしよう。
ワイン一式を持ってベッドルームへ行き、窓際の一人掛けソファのサイドテーブルに置いてから、ぼくは自分のベッドに潜り込んだ。
寝具はどれもふわふわで寝心地がいい。
一人どころか、大人三人が寝ても余裕そうなベッドが二つ並んでいる寝室は、灯りを消してもカーテンを開けていれば夜景で明るい。
野宿なら何度もしたことがあるし、必要があれば寝床がどこだろうとそれは些細な問題だけれど、ベッドで眠れるのは、それだけで助かる。
こんなに良い部屋である必要はないのだけれど、ウァドエバーに同行費を出してもらっているぼくは、部屋や食事については何も言う権利はない。

「…。何か事件があったのかな…」

今夜は、何をしてきたのだろうか。
この国に滞在してから、ウァドエバーは忙しなく動いているが、ぼくに情報を与えてくれない。
正式な任務の時はぼくにも情報を下ろしてくれるが、一つ飛び越えた上司であるMに頼まれる裏の任務や、ウァドエバー自身の理由で動いている時は、殆ど何も情報を下ろしてくれない。
かといって、ぼくも何もしないわけじゃない。
目的が何かは分からない状態でも、ウァドエバーに調査するよう言われ、その結果を伝えることもあるし、任務が与えられない時は、自分でウァドエバーのしていることを調べるようにしている。
ぼくの予想では、今回この国に滞在しているのは、ウァドエバー自身の理由だ。
その証拠に、誰かと通信しているところを見かけない。
ウァドエバーは任務の内容を秘密にすることはあるが、任務の過程でMと通信しているところを、ぼくに特別隠すことはしないからだ。
そして、恐らく最近頻発している海路上のテロリスト組織が絡んでいる。
そこまでは掴めているのに、詳しくはやっぱり分からない。
いつもそうだ。
頭では分かっている。
今のぼくには危険すぎたり残酷すぎたり、足手まといになったり、そういった事件へ関わらせてくれないのは、互いの安全のためだ。
この先、ぼくが大人になっていけば、関わらせてくれる事件も増えるだろう。
でも今は、ここぞ、というところで、ぼくは何も知ることはできない。
「早く大人になりたい」――という願いは、ぼくには適さない。
ぼくは、普通の同年代の子たちより、随分ショートカットして社会人になり、今ここにいる。
大学を卒業して、就職し、社会を担う一人として探偵卿の助手をしている。
ウァドエバーは、ぼくが子どもだからという理由で危ない現場に連れて行かないわけじゃない。
大人だろうが子どもだろうが、足手まといはいらないというわけだ。
単純に、ぼくの心身が、共にまだ弱いのだと思う。

「…」

布団の中で、自分の両手を見る。
たぶん、小さい方だ。
同年代と比べても、華奢な方だから困っている。
ぼくはICPOの人間で、銃はもちろん持ったことがある。
練習しようと思ったけれど、まだ体ができていなくて肩が抜けるから、適齢期になるまで銃の訓練は止めておけとウァドエバーにも他の探偵卿たちにも言われた。
けど、本物の銃は撃てなくても、時間を見つけては、極力抵抗がなく撃てる銃の代わりとして、片手で扱えるレーザー銃をこつこつ秘密裏に開発調整している。
ぼくには、肉体的な力がない。ならそれを、知能と道具で補わなければならない。
ぼくにだって、いつかきっと、誰かを殺める日がくるだろうと思っている。
絶対に一般人は殺めない。けれど、世の中一般人ばかりが生きているわけじゃない。
一度でもそこを通れば、ウァドエバーはぼくを今よりも少しだけ頼ってくれるかもしれない。

 

 

 

色々考えているうちに、ウァドエバーがベッドルームに入ってきた。
灯りは着けないままだったが、まずぼくの方に来たのでぎくりとした。
眠ったふりをしようかとも思ったけれど、絶対にバレるので、諦めて見下ろす冷たい瞳を甘んじて受けた。

「薬が必要かね?」
「遠慮します…」
「さっさと寝たまえ。…まったく。きみは、実に聞き分けの良い悪童だな」

ベッドに入っているけれど眠っていないぼくを見て、呆れた様子で息を吐いてから、窓際の一人掛けのソファへ向かう。
置いてあるワインのエチケットを見て少し迷ってから、グラスに注いでソファへ腰掛けた。
窓際に向けて、斜めに配置されているソファに座ってしまうと、ウァドエバーの姿は見えるけれど、表情は見えない。
その背に問いかける。

「今晩は、任務だったんですか?」
「ちょっとした身の回りの掃除だ。きみが深く首を突っ込むようなことじゃない」
「少しですが、血液の臭いがしました。傍にいかないと、分からない程度ですが」

言ってみる。
ウァドエバーが、ちらりと視線をぼくへと向けた。
はったりだ。心臓がばくばくする。
ウァドエバーはぼくを一瞥した後、再び正面を向いて、グラスを軽く回した。

「…そうか」

ワインを一口飲むウァドエバー。
驚いたりする様子はない。
"当たり"だ。

「完全に消したと思ったのだが、致命的だったな。あのスーツは捨てよう。気に入っていたが、新調しなければならないな」
「…」

どうやら、今夜は人死にがあったようだ。
ウァドエバーが怪我をするところは滅多にないけれど、心配になる。
ぼくに心配されていると知ったら、きっとウァドエバーは怒り出すだろうけど。

「…ウァドエバーさん。聞いてもいいですか?」
「何だね?」
「人を殺すって、難しいですか?」

今度は、ウァドエバーは振り向かなかった。
沈黙が数秒流れる。
不安になって、もう一度ぼくから口を開いた。

「今じゃなくても……ぼくに、できると思いますか?」
「その点は心配しなくていい」

窓を向いたまま、ウァドエバーが片手を軽く挙げる。

「わたしが、きみが人を殺める覚悟ができたと思ったタイミングで、教えるつもりだ。今のきみはまだ、醜悪な犯罪者とはいえ、人を殺すことに抵抗を感じているだろう。その段階ではない」

数日後、確実にやってくるであろうタイフーンの予報を言い当てる程度の軽さで、ウァドエバーが言う。
ぼくは再度尋ねた。

「ぼくに、できるでしょうか?」
「人を殺すことをか? 無論だ。できるできないで言えば、人を殺めることは、連れ去るよりも作業としては簡単だ。心理的葛藤さえなければな。難しいのは、痕跡を残さぬように、バレないように成し遂げることだ。これにはセンスと経験が要る」

そうかもしれない。ぼくは頷く。

「心理的葛藤をいかに抑えるか。これに、芸術性を持たせればいい。いくらかは軽くなるからな」

ウァドエバーの話を、真剣に聴く。
例えば、五年前の十歳のぼくなら、そんなことはしてはいけない、と考えていただろう。
ぼくの頭の中には、まだ正義のヒーローと悪の組織がいたからだ。
けれど、今は違う。
世の中には、表に出ない悪がある。
人の命を何とも思わず、腐敗していて、更生できない人がいる。
個人だけで収まるならまだいいが、周囲を巻き込まないといられない人がいる。
一人で悪いことをして、その業が完全に自分に還ってくるなら、それは自由だ。構わない。
問題は、被害者が出てしまうこと。
勿論、まずは逮捕だ。
けれどそれだって、法を守らない悪を捕まえるのに、法を守っていたら捕まえられない。ウァドエバーの言うことは、良いか悪いかを別にすれば、もっともな話だ。
そして明るみに出ても裁かれない悪を裁くには、別の方法が必要だ。
表に出ない悪がある。
なら、表に出ない正義がある方が、より公平だと、今は思う。
若しくは、善悪でなくても必要犠牲がある場合がある。
どこかで決断しなければ悲劇を止められない時、常にそれを判断する覚悟くらいは持ち合わせていないといけないはずだ。
人は、生きていれば、きっとどこかで一人くらいが死ぬ理由にはなるのだと思う。

「最初の一回が、肝要だ」

ウァドエバーが、挙げていた片手の人差し指を立てる。

「それさえ乗り越えれば、後は何てことはない。この一回を成功に導く最も重要なキーは、適したタイミングに他ならない。心理的葛藤が最も薄くなる時を見極めれば、誰しもトリガーを引くことは容易い。そんな気はなかったのに、咄嗟にやってしまったという事例は掃いて捨てる程ある。しかし、それにも抵抗があるというのなら、他者がそうするよう誘導する、という手もある。こちらの方が、きみには合っているかもしれないな」

どうだろう。
他の人を巻き込むのは避けたい。他の人にやらせるくらいなら、ぼくが自分でやるべきだ。
それが責任というものだと思う。

「きみには、わたしの全てを教えるつもりだ。習得するかどうか、また、使うかどうかは、きみ自身の判断だがね。……とはいえ、まだまだ先の話だ」
「まだまだ先、ですか?」
「…」

ワイングラスを置き、静かにウァドエバーがソファから立ち上がった。
横向きに寝ているぼくのベッドへ、足音もなく近づいてくる。
それまでの罪悪感と核心めいた問答に、ぼくの心臓は高鳴っていた。今夜は眠れないかもしれない。
ベッドの傍まで来ると、ウァドエバーはサイドチェアを引き寄せ、そこに腰掛けた。
小さい子に絵本を読んでくれるようなポジションだ。本当に読まれたら、夢に出そうだけど…。
バスルームに備え付けのソープの匂いは、少し前にぼくの体にもあったものだ。

「いいかね、パイカルくん」

後ろめたいぼくを見詰め、ゆったりと足を組んだウァドエバーは、静かに諭す。

「きみは快楽でスイッチが入る人間ではない。最良のタイミングは、きみが心の底から誰かを憎んだその時だろう……つまり、憎悪だ。悪を許せないという気持ちでも構わない。しかし、それがきみにいつ訪れるかは、誰にも分からない。もちろん、わたしにもな。きみにその幸運が訪れないならないで、結構なことかもしれないが」
「それは……困ります」

それでは、ウァドエバーのようになれない。
布団に口元を隠しながら言うと、ウァドエバーは呆れたように目を伏せた。
間を置いて、再び目を開ける。
気のせいだろうか。いつもより、その視線が優しい。

「安心したまえ。きみがわたしの傍にいる限り、わたしは、きみのそのタイミングを、決して逃しはしないだろう。残念ながらな」

それを聞いて、ぼくはほっとした。
きっと、そうだろう。
それなら、今と変わらず、ウァドエバーの傍にいればいいのだ。
…ああ、でも、万が一ぼくが探偵卿になれたらどうしよう。探偵卿同士でバディを組むこともあるけれど、それは頭脳派と武闘派が多い。
ぼくとウァドエバーだと偏りが酷いから、きっと組ませてもらえない。
そんなことを考えていると、少しだけ口元が緩んだ。

「ありがとうございます。楽しみです」
「きみに、その幸運が訪れないことを祈っているよ」
「訪れることを、祈ってください」

笑うと、ウァドエバーは何故か僅かに眉を寄せた。

「…喋りすぎたな」

片手で眼鏡を一度外し、深々とため息を吐きながら、わずかに湿気の残る髪を片手で掻き上げる。
いつもセットしてある髪が、今は少し柔らかそうだ。
中年の姿をしているが、こういう時、たまにだけどもう少し若くも見えることがある。今はそれだ。
疲れているところを悪かったなと今更気づき、ぼくはこれ以上質問しないことにしたけれど、今度はウァドエバーから声をかけられた。

「急な質問に感じたが、何かあったのかね?」
「いえ、これといっては…。ただ、最近は何もお手伝いできていないなと思って…」
「馬鹿馬鹿しい。元々、きみに手伝いができるとは思っていない。今回は個人的な掃除だと言っているだろう。無駄に遅くまで起きているから、そんな馬鹿げたことを必要以上に深く考え出すんだ」

確かに、そうかもしれない。
ぼくはすみません、と謝った。自惚れていたかもしれない。

「わたしは今夜、これ以上きみに付き合う気はない。睡眠薬は不要だったな」
「遠慮します」
「ふん。まあ、いいだろう。きみが血の臭いを嗅ぎ付けたというのなら、どのみち薬では役に立たない。…さあ、もう眠りたまえ。明日は望み通り、こき使ってやろう」

ウァドエバーが前屈みになったかと思うと、ぼくの目の前で長い指を左から右へと素早く動かし、何をと思う前に、指を耳元でパチンと鳴らす。
途端、ふ…と瞼が落ちた。

 

 

 

 

翌日…。
ぼくはいつもの時間を少しだけ遅れて、目が覚めた。
アラームを設定していたはずだが、気付けば消音になっていた。
しかし、体内時計によって多少の時差は生じたが、似た時間に目が覚めたようだ。日頃の正しい習慣の賜だ。
何だか楽しい夢を見たような気がするが、夢の内容は覚えていない。
昨日の夜は、遅くまでウァドエバーを待っていたことは覚えている。
戻って来て飲みたいかなと思って、ワインの用意をしたような……あれ? 彼は帰ってきたんだったかな?
身支度を調えてベッドルームから出ると、ウァドエバーが朝のコーヒーを飲んで、普通のサラリーマンよろしく新聞を読んでいた。
だけどテーブルの上には、おそらくこのホテルが取っているであろう全紙とおぼしき新聞の束がまとまっている。
ぼくも後で読ませてもらおう。まだ習得していない言語があるなら、読んでみたい。

「おはようございます、ウァドエバーさん」
「ああ。おはよう」

素っ気ない挨拶もいつもの通りだ。
ウァドエバーは、ぼくより遅く寝て、ぼくより早く起きていることが多い。
自分の分のコーヒーを用意して、新聞を読むより先に、日課であるwebニュースを網羅するため、タブレットを用意する。
目の前で、ぱらり、ぱらり…と、読んでいるとは思えない一定のスピードで新聞をめくりながら、コーヒーを飲むウァドエバー。

「昨日は、何時頃に戻ったんですか?」
「きみが涎を垂らしながら夢の中にいる頃だよ」

思わず、片手を口元に添える。さっき顔は洗ったから涎の後なんて今はあるわけないけど、咄嗟にぬぐってしまった。
ちらりとワインセラーへ目をやると、少ないホルダーの中は一本分だけ空いていた。
ということは、ワインの用意はしたんだ。ベッドルームに痕跡はなかったけど。
どうやら、ぼくはワインを用意してからそのまま寝落ちしてしまったらしい。
日付が変わるくらいまでは起きていたのに。
ウァドエバーの読み終わった新聞から、ぼくも読んでいく。
時間は彼の三倍くらいはかかってしまうが、ぱっと見、語学的には問題がなさそうだ。
英語の新聞は後でいい。中国語、マレー語、インドネシア語……。
そうしてタミルを探し出して手にした頃、ウァドエバーは腕時計を見た。

「…さて、この辺りの掃除は一通りすんだ。フライヤーにでも乗ってから、そろそろ移動しよう」

フライヤーというのは、この国の海辺にある、とても大きな観覧車のことだ。
下手なビルより高く、隣の国まで見渡せる。
ずっと気になっていたので、さらりと言ったウァドエバーの言葉に内心嬉しくなる。
クイーンに会ってから、彼は目に見えて捜査ついでに観光や遊びを入れるようになってきていた。探偵卿として観光ばかりでは困るけど、見識を広げるには何事も経験だ。
それに、どうやら今回の用事は、昨晩で終わったようだ。
次はぼくも役に立てるだろうか?

「フランスに戻りますか?」

ICPOの本部はフランスにある。
戻るのかと思ったが、ウァドエバーは首を振った。

「今回は任務ではないからな。戻るなら手土産の一つでもないと、ルイーゼに嫌味を言われそうだ。パイカルくん、この辺りの品のない犯罪者に、誰か心当たりはないかね?」

ぼくはタブレットを操作する。
ICPOのデータベースや、マガからもらった裏情報、個人的に集めている犯罪者や集団の情報を総括して、横断検索をかけられるようにしてある。
この国での国際手配されている未逮捕犯罪者リストを表示して、タブレットの向きを変え、座っていたイスに膝立ちになってウァドエバーの前に差し出す。
片手に取ったタブレットを一通り見て、ウァドエバーは退屈そうに顔を顰めた。

「どいつもこいつも…。全くおざなりで中途半端な輩だ。美しくない。こうして、きみに見つけられてしまうのだからね」

視線を投げられ、はい、と微笑んで応えた。
本当の犯罪者は美しい、というのが、ウァドエバーの主張だ。
足が付くような証拠も証人も残さない。スムーズに抜かりなく仕事をし、その遂行が称賛に値するような犯罪が可能な者こそが、真の犯罪者だ、という。
ぼくは、悪とは、醜いものだと思っている。
誰しも、他の生命や財産をある程度奪って生きているのに、更に意図的に他人の生命や財産を奪い、己だけが利益を得る、という、その考え自体が醜い。
けど、真の犯罪者が美しいのであれば、それは、ぼくにとって悪ではない。

「好きな数字を言いたまえ」
「9」
「では、コイツだ」

タブレットが返される。
この国で目撃情報が上がっている一人の犯罪者の情報が、そこに映し出されていた。

「朝食を食べたら、フライヤーに乗りに行く。その後で捜査に行くとしよう。それまでにマガに連絡して、最新情報を整理し、わたしに伝えるように。彼女は、きみを気に入っているようだ。わたしが連絡するよりも、確実に速く多く信頼できる情報を得られるだろうからな」
「分かりました。お願いしてみます」
「期待しているよ、パイカルくん」

心底どうでもよさげに片手を振って、そんな言葉を投げられる。
それだけで誇らしくなるぼくは、単純なんだろうな。
新聞を放り出し、タブレットを手元に戻して、さっそくマガに連絡を入れることにした。



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パイカル君視点だとウァドさんが優しめ。
数年後に天才犯罪者兼探偵卿になっていればそれはそれでいい。
若しくはウァドさんと共に忽然と表歴史から消えてもいい。
2020.5.6





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