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月のない夜。
アジアの一部にある都会。
高層ビルが建ち並び、まるで星よりも自分たちの方が輝けるとばかりにチカチカと闇夜を照らす人工的な明かりたち。
その中の、特別高いビルの裏で静かに待っていると、やがて遙か天上で、サイレンが響き始めた。
いくつかのサーチライトが光り、緊急を知らせる赤い点滅がビルの上部で踊っている。
声や物音は、離れすぎていて地面があるぼくには全く聞こえない。
…と、そのうち、ヒュ…!と風切り音。
その音を察知する前に、スタン、と軽やかに目の前に一人の若い男が降りてきた。
テレポートとかで、急に現れたわけではない。
飛び降りてきたのだ。超高層ビルの上部から。
飛び降りてきた漆黒の男は、その場で立ち上がると、額にかかった長い黒髪を片手で後ろへとながした。
すらりとした細身のスタイルを、黒いボディスーツが包んでいる。
長い髪と切れ長の黒い瞳。文句の付けようのない中性的な美貌。
カツ、と細い足を包んでいる踵のヒールが、一度音を立てた。

「ご苦労様です」
「任務完了だ。戻るぞ」

冷静な声と共に、ぱっとウァドエバーが変装を解く。
彼の周囲が一瞬蜃気楼のように揺れ、とても"変装"という二文字では片付けられないような現象だけれど、目の前の漆黒の男は、眼鏡を掛けた何でもない背広の、いつものウァドエバーの姿に戻った。
彼に、持っていたアタッシュケースを手渡す。
ウァドエバーはケースのロックを外して開き、片手に持っていたUSBをケースの中に入れると、再びロックを掛けていつものように片手に持った。
歩き出す彼に続いて、ぼくも付いていく。

「遅くなったが、夕食を取るとしよう。ルームサービスはまだやっている時間のはずだ」
「滞在しているホテルに連絡します」

スマホを取り出し、ホテルへルームサービスの連絡を入れる。
メインストリートに出て歩くぼくらのすぐ傍を、パトカーがサイレンを鳴らしながら何台も走って行った。

 

 

 

 

ぼくらがホテルの部屋に戻ると、既にルームサービスの用意は殆ど調っていた。
部屋付きのボーイが給仕をしてくれていたけれど、飲み物の用意だけが終わったら、食べ終わったら呼ぶといって、ウァドエバーは彼を追い出した。
イスに座って食事を取っている途中、正面に座るウァドエバーを見て、ふと思い至る。
部屋での食事だけれど、外にいる時と同じく、上着やタイを身につけている。

「部屋で食事の時も、上着やタイは取らないんですか?」
「今更な質問だな」
「実はずっと気になっていました」

言うと、ウァドエバーは傾けていたグラスを置いた。

「マナーを重視する性分、だと思うかね?」
「マナーを大切にする方だとは思いますが、それ以上に、隠し武器の類があるのかな、と思っています」
「なかなかいいセンスだ」

ウァドエバーが薄く笑い、グラスを口に運ぶ。
それなら、寝る時以外はスーツ姿を変えない理由が分かる。
もっとも、その気になればウァドエバーはブラッククイーンになって素手で風を起こし、刃物のように扱えるから、攻撃に使用する以外の便利なあれこれが隠してあるのかもしれない。
でも、疲れそうだ。
せっかく部屋に戻って来たのに。
少しくらいリラックスできればいいと思うけど…。

「今日だけでも、上着を脱いでみたらどうですか?」
「わたしに何のメリットがある」
「いつもより少しだけ、リラックスできます」
「…」

ウァドエバーは無言でグラスを回していた。
やがてグラスを置いて指先でタイを緩めたのを見て、食器を置いてイスから立ち上がった。
部屋付きスタッフを呼んでもいいのかもしれないけど、ウァドエバーは行く先々で無関係の人が部屋やホームに必要以上に立ち入るのをあまり好まないから、このくらいならぼくがやった方がいいだろう。
傍まで行くと、丁度上着を脱いだところだったので、そのまま預かる。
ぼくもウァドエバーが上着を脱いだところはほとんど見たことがなかったけれど、上着の下にジレを着ているのは知っていた。
だったら、尚更上着を脱ぐのを渋らなくてもいいのに。
シャツだけでいるのは確かに少しラフ過ぎるし抵抗があるにしても、上着を脱いだところで…。
…と思っているぼくの腕の中から、上着の胸ポケットに差してあったチーフを抜き取って、ジレの胸ポケットに形を整えて差した。
そして、一度緩めたタイを、またぴしりと締め直す。
上着の袖で隠れていたシャツの袖には輝く宝石が使われたカフスボタンが使われていた。
…うん。
少しはリラックスできたらと思ったけど、上着を脱いだところで、ぼくが予想したリラックスには程遠い感じだ。
疲れないのだろうか。

「クローゼットに」
「はい」

ウァドエバーの上着を預かり、てくてくと広いホテルの室内をクローゼットまで歩いて歩き出す。
持っているだけで生地の手触りがいいことに気付くのは、初めてだ。
しっとりと腕に馴染んで、気持ちが良い。ずっと触っていたい気もする。
上着の、どこに何がしかけてあるんだろう?
持った感じ、普通の上着だ。重すぎもしない。

「…」
「きみにはまだ解るまい。無駄な時間を取らず、さっさと掛けてくるんだな。食事中だ。席に戻りたまえ」

そんなことを考えていると背後から声が飛んできて、慌てて掛けに行った。

 

 

ウァドエバーの上着をクローゼットにかけていると、あることに気付いた。

「ウァドエバーさん。香水を変えましたか?」

食事の席に戻りながら尋ねる。
ハンガーにかけていると、ふわりとウッド系の香りが立った。
いつも香りなんて気にしたことがなかったけど、今このタイミングで気付いたということは、少なくとも"いつもと違う"ということだ。

「変えたわけではなく、着けただけだ。今夜の任務はどうしても薔薇の匂いが纏わり付く。だったら、元に戻った時に別のものを使えば、より別人という印象が強くなる」

薔薇の匂いはブラッククイーンの時の香りだ。
強いわけではないけれど、変身するとどうしても薄い芳香が残るようで、無臭を好むウァドエバーは以前「使い勝手が悪い」と悪態を吐いていた。
別人になって動く捜査ならともかく、単純にどこかへ潜入する時に目立つ香りは邪魔だろうし、正体を特定する材料になってしまう。確かに、体臭はない方がいいだろう。

「確かに、そうですね」

納得する。
香りで印象付けを左右できる。
人間は無意識判断が多い動物だから、そういったことで印象も記憶も大きく動かせる。
それに、匂いが記憶を引き出す材料になることは、科学的にも証明されている。
ぼくも大人になったら着けたいところだ。
そう思っていると――、

「…そうだな。きみは、香水を付けた方がいい」

突然、ウァドエバーがそんなことを言った。
ぼくは首を傾げる。
今の自分が香水をつけることは、考えに及ばなかった。
大人になったら考えるかもしれないけど、ぼくくらいの歳の男子はあまり考えない気がする。

「ぼくもですか?」
「非力な者にはお勧めしよう。残り香があると、連れ去りや拉致に遭った時に捜す側が便利なのでね」

片手を軽く開いて言うウァドエバー。
なるほど、とぼくは思った。
香水を付けていれば、拉致などに遭った時に残り香を残せる。つまり、痕跡だ。
逆に、いつものウァドエバーのように無臭でいることは、潜入したり、行動する側にとって有効なのだろう。
あとは、今夜の彼のように、無臭の時に行動し、終わったらすぐに香水を付けることで、正体を隠すこともできるというわけだ。
何にせよ、一つ二つ使える匂いがあると、便利かもしれない。

「それなら、今夜のあの香りのような、ウッド系がいいです。落ち着いていて、癒やされます」
「癒やされる?」

ウァドエバーが、鼻で嗤う。
何か変だろうか?

「あれでいいなら、しばらく預けてやろう。好きにしたまえ。…まあ、あまりないとは思うが、もし拉致されるようなことがあれば、随所随所で体臭や証拠を残すよう、心がけるようにするんだな」
「分かりました」

食事の後、本当にウァドエバーが香水瓶を取り出してくれた。
リビングでは使うものではないと、ベッドルームへ移動した。
ウァドエバーが香水瓶を片手に、何もないところに二度プッシュする。

「…?」
「通れ」
「はい」

言われたとおり、香水液が細かい霧状になっている空間を、歩く。
香りはついたのだろうか?
自分じゃ、よく分からない。
だけど、プッシュしたこの部屋には、うっすらと香っていることが分かる。

「予備はある。好きに使いたまえ」

瓶を手渡された。
きらきらしていて、とても綺麗だ。

 

 

 

「よう、パイカル。久し振り」
「こんにちは、仙太郎さん。お久し振りです」

ICPOの廊下で、仙太郎に会う。
軽い挨拶を交わしながら擦れ違った……が、

「……おいおいおいおぉーい」
「?」

擦れ違ってから数歩したところで、仙太郎さんから声がかかった。
不思議に思って足を止めて振り返ると、人混みの中に消えそうだった彼が、ずかずかと戻ってくるところだった。
そのまま、がしっと肩を組まれて、有無を言わさず連行される。
人目の付かない廊下の端に来たところで、ようやく手を離してくれた。

「何でしょうか?」
「いや…。何でしょうか、の前にだな…、パイカル…」

仙太郎さんの言っている意味が分からず、首を傾げる。
前屈みになると、仙太郎さんはこっそりとぼくへ耳打ちをした。

「お前、ウァドエバーの香水の匂いがぷんぷんするぞ」
「はい」
「…"はい"?」

仙太郎さんが眉を寄せる。
ぼくは頷いた。
…それが分かるということは、この人は、たまにしか着けないはずのウァドエバーの香りを覚えているんだ。
やっぱり、洞察力と観察眼は侮れない。

「ウァドエバーさんの香水をお借りしたんです」
「借り…」
「ウァドエバーさんに、待機中は香水を付けるようにと言われて、選んでいる最中なんです。ぼくはこういうウッド系の香りがいいと思っているので、試しに少しお借りしました」
「…」

少しくらいは、紳士的に見えるだろうか。
何となく誇らしげにそう言うと、間を置いて、仙太郎さんががしっとぼくの両肩を正面から掴んだ。

「パイカル…。ICPO全職員の心の平穏のために、ウッド系は止めておけ」

きっぱり、と仙太郎さんが断言した。
その時は、ぼくの選ぶ香水がICPOの全職員に影響する道理が、全く解らなかった。

 

 

後日、ウァドエバーに香水専門店に連れて行ってもらえた。
個室が用意され、まずはカウンセリングから始まり、いくつか質問をされた。
ウッド系がいいです、と告げたぼくの意見を聞いていたウァドエバーが、目を通していた手帳を見詰めたまま軽く片手を上げ、部屋の端のソファから一言投げる。

「彼の希望ではなく、彼に"合うもの"を用意してくれ」
「…」

まるで宝石を扱うような丁寧さでスタッフは香水瓶を持って来てくれたが、彼のその一言でウッド系はトレイの上には一つもなかった。残念だ。
結局、店を出た頃には、ぼくの片手にはシトラス系の香水瓶を一つ入れた袋があった。
自分で購入するつもりだったが、ウァドエバー曰く必要経費に含まれるということで、支給してくれた。
支給と言っても、全てを私費で捜査している彼のポケットマネーに変わりはない。

「やっぱり、一定の年齢にならなければ、ウッド系は似合わないものですか?」

隣を歩くウァドエバーに問いかける。
ぼくは、素直に落ち着く香りだと思っているけれど、みんなことごとくぼくに「止めろ」と言う。
もしかして、ぼくの匂いの好みが変わっているのだろうか。
でも、そんな変わっている好みをウァドエバーが日常的に着けているとは思えない。一般的な香りだからこそ使用しているのだろう。

「確かに、年齢的には難しいかもしれない。しかし、きみにもウッド系の香水が、特別似合う時もある。着けるなとは言わんが、時と状況を選ぶんだな」

"時"…?
不思議な表現だ。

「状況は分かりますが、時というのはいつですか?」

問いかけると、ウァドエバーは、ふっと嗤った。

「私の愛人をしている時だよ」
「…」

一瞬、ぼくは言葉を失った。
今日に至るまでの、色々な人の「ウッド系は止めた方がいい」という助言の前の困惑ぶりを思い出し、腑に落ちる。
ぼくは、時にウァドエバーの愛人役になることがある。
怪しい場所に潜入する時、ぼくはウァドエバーみたいに大した変装が出来ない。
とても格好いい青年にもなれるけど、ウァドエバーは姿形は違っても、やっぱり中年男性でいる時の方がしっくりくるようだ。
もう少しぼくが大人になったら、シドみたいに"執事"で通る日が来るかもしれないが、今、彼がぼくくらいの年齢の少年少女を連れていくには、愛人役が最も怪しまれない。
愛人に香水が移る理由は、ぼくでも分かる。
たぶん、みんな変な勘違いをしたのだろう。すごくユニークな勘違いだけれど。
ぼくとウァドエバーがそういう振りをしていることがあることを知らない人でも、そう思った人がいるのだろうか。
だとしたら、浅はかだ。…いや、想像力が豊か、と表現する方がいいのかな。
いい大人……しかも、ICPOの人間たちが、揃って何の根拠もなく想像上の事実で踊らされているなんて。
呆れてしまう。
ぼくの心境を察したのか、ウァドエバーは鼻で嗤った。

「人間とは、得てしてそういうものだ」
「みなさん、とても想像力豊かですね」
「他者にイメージを植え付けるとは、そういうことだ。巧く操れるようになれば、人を動かす時に便利だ。イメージの方向性だけ示してやればいいのだから、そのくらいの方が都合がいい」

なるほど、と思ったので、ぼくは同意した。
少しの間無言で歩いて、ふと再び顔を上げてウァドエバーを見上げる。

「では、今後は必要な状況におかれた時は、ウァドエバーさんの香水を付けてもいいですか?」
「好きにしたまえ」

どうでもよさそうに、ウァドエバーが言う。
匂いが同じ。
たったそれだけで「ぼくが愛人」という信憑性が上がるというのなら、潜入捜査の時は、有効的に使った方が、もちろんいい。
それに、ぼくはぼくで好きな匂いの香水を付けられるのだから、一石二鳥だ。
また少しの間無言で歩いて、三度、顔を上げてウァドエバーを見上げる。

「近々、潜入捜査をするような指令はありませんか?」

問いかけると、ウァドエバーが肩を竦めた。

「当面は予定にないな」

薄く笑うウァドエバー。
その反応を見て、失言だったと思った。
勘だけれど、あったとしても、今のぼくの発言で先延ばしにされた気がする。
黙って待っていた方が、きっと早くに機会があっただろう。
これ以上何も言うまいと決意して、ぼくは黙った。
毎日着けるようになったシトラスの香水も悪くはないけど……やっぱり、ぼくはウッド系のあの香水が落ち着く香りだと思った。


perfume of lover




正式に機会があったのは、それから三ヶ月も後だった。
ウァドエバーは単独で裏の世界に潜入してしまうから、ぼくを伴って行くことは希だから仕方ないとしても、こんなに後になるとは思わなかった。
その分、ようやく活用できる。
裏社会に潜入捜査するといっても、ぼくが一緒に行くときは、比較的穏やかな会談の場か、いかがわしいパーティの時か、だ。
いかがわしいパーティの時は別室待機していることが多いけれど、入口は一緒に潜る必要がある。
普通のパーティは女性同伴がよくあるけれど、愛人同伴とか、奴隷同伴とか、そういう条件がある会合もある。
なんなら、そのまま人身売買(性奴隷や臓器等)の商談に至る場であることもある。
ところが、服装はというと、至って正装であることが多い(部屋の奥はそうではないことが多いけど)。
身につけるものは全て一等品で、ネックレスや装飾の類はいくつか着けるように言われる。
会場の入口で外すためだけの腕時計なんか、これ一つで家が建つ。
一部の女物のアクセサリーさえ身につけていなければ、このまま正規のパーティに出席できそうな服だ。
「上の集まりになればなる程、こんなものだよ。品性のない下の輩は、連れに露出をさせたがる者も多いがね」…というのが、ウァドエバーの言葉だ。
醜い犯罪者に上も下もないような気がするけど、確かに一部の犯罪者は、一般的な人たちよりもずっと教養高く、一見すると人格者に見える人もいる。
頭の先から飴色に光る靴の先まで整えてから、例の香水瓶を取り出す。

「今夜は使ってもいいですか?」
「今夜は使うべきだな」

準備を終えて、いつもの姿とはまた違う、ロマンスグレーの髪色をした中年男性姿のウァドエバーが、ソファに座ったまま退屈そうに言う。
教えてもらった通り、目の前に香水液をプッシュして、そこをくぐる。
香りが薄い気がしても、"自分に分からない程度"で、十分らしい。
でもこれで、今夜はウァドエバーと同じ香りがするはずだ。
匂いを上手く使っていなかった頃を思えば、少しは信憑性が向上しただろう。

「愛人に見えるでしょうか」
「そう見せてもらわねば、困る。…まあ、今夜はターゲットを確認し、交流が深そうな顔を覚えたらなるべく早く出るつもりだがね」

鬱陶しそうに立ち上がり、ウァドエバーが片腕を差し出す。
ぼくはその腕を取った。
いつもより、ずっと近距離にいるよう心がけながら、ウァドエバーの隣を歩く。
部屋を出て、ホテルの前に止まっている黒い車に乗り込む時、ふわりと自分の襟から香りが広がったのが分かった。
ちゃんと香りは着いていた。嬉しい。

やっぱり、落ち着く香りだ。
緊張感なくそんなことを思っている自分に驚いて、慌てて気を引き締めた。



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愛人の香水。
パイカル君が望むものは基本なんでも支給してくれそう。
仕込んでくれたらいいけど、ウァドさんは絶対しないだろう…。
2020.7.19





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