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「あーあ。もうこんな時間だ~」

ジーンズパンツのポケットから取り出した懐中時計を見て、シドが残念そうに言う。
隣で聞いたジョーカーは、彼から視線を外して正面を向いた。
セーヌ川の上にかかるたくさんの橋のうち、このビラケム橋からはエッフェル塔がよく見える。
あちこちで二人組が足を止め、同じように風景を楽しんでいる。特に男女のペアが多い。
いわゆるデートスポットであるのだが、どうせジョーカーはピンときていないだろうし、シドも特に何かと期待するわけでもない。
デートスポットと言ったって、何もデートにしか使っちゃいけないわけじゃない。ただ単に、景色が綺麗だから見せたかった。
会えるだけで嬉しい。彼らにはそれで十分だ。
オススメの景色だと、ちょっと足を止めて話しているうちに、いつの間に空は青色でもオレンジ色でもなくなっていた。
周囲の街灯や店の灯りが目を惹くようになってきて、お互いそろそろ帰る時間だ。
シドはモナコへ、ジョーカーは雲の上の飛行艇トルバドゥールへ。
橋に寄りかかり、シドが隣を見る。

「楽しい時間はあっという間だな」
「ああ…。そうだな」

隣に立っているジョーカーは、小さく頷いた。
いつもの中国服ではなく、着ているのは周囲に適した大人びた私服だ。彼によく似合っている。
ちなみに、最初着ていた私服は、昨日の夜に「いいです」「遠慮します」「結構です」と断り続けるジョーカーを無視しながら、クイーンがかなりの時間をかけて上から下までコーディネートした服だったが、今日の午前中に会ってすぐ、シドが「こっちの方が街中では目立たないさ」と上から下まで押しつけプレゼントした結果、一新されている。

「服、ありがとう」
「どういたしまして。どうだ、たまにはこういうのもいいだろ?」
「そうだな。少し動きづらい気はするけど…」
「大丈夫だろ。今日はお前とやり合うつもりはないぜ。何て言ったって、プライベートなんだからな。万一俺たちの邪魔をするような奴がいたところで、俺たちなら返り討ちにできるぜ」

茶目っ気たっぷりにウインクするシドに、ジョーカーは無言で頷く。
探偵卿の執事と怪盗のパートナー。
同じ施設で辛い経験を共にしたのに、天地を分けるような今の互いの立場なのだから、人生は面白い。
今日はプライベートだ。互いに情報を引き出そうなどという野暮なことは一切ない。
ただ、普通の友だちとして、一日遊ぶ。それだけだ。
ただそれだけのことが、彼らにとっては貴重で夢のような時間だった。

「また遊ぼうな、ジョーカー。今日行った店もおいしかったけど、次は俺のプチングを食べてくれよ。絶対おいしいって言わせる自信があるんだ」
「ああ。楽しみにしている」

ふ…とジョーカーが微かに微笑む。
鉄仮面で表情が全くなかった昔を知っているから、シドにはその微笑みだけで満面の笑顔になれる。
トルバドゥールに戻るには天空から下がってくるワイヤーに釣り上げられるそうだから、この後ジョーカーは人気のない場所へ向かわなければならない。
付いていってもいいのだが、それもまた野暮な気がして、街灯の美しい橋の上で、シドは片手を挙げた。

「じゃあな!また!」
「ああ。…また」

パン!と軽く手を打ち合う。
橋の左右に分かれて歩きながら、シドは最後にまた大きく手を振った。

 

 

 

フランスからモナコへ飛ぶ飛行機の中で、シドは窓の外から夜景を見下ろし、息を吐いた。
一日遊んでみて分かったが、ジョーカーは、やはり今のポジションに不満はないようだ。
怪盗なんて響きはいいが、クイーンのパートナーなんて、一級の窃盗犯の仲間じゃないか。
最初は脅迫されているのかと思っていたが、どうもそうではないようだし、シドが「一緒に働こう」と誘ってもノって来なかったのだから、やはり今のポジションに一定の思い入れがあるのだろう。
ジョーカーが望んでクイーンの傍に居る、という事実は、何だか悔しいものがある。

「何が怪盗だ。俺の親友を盗りやがって…」

拗ねた調子で呟いてから、ふて腐れて途中で買ったチョコレートに齧り付く。
やはり、早期にクイーンを捕まえなければ。
それも、主であるネアに捕まえさせなければならない。
そうでなければ、警察に引き渡す前にジョーカーだけを助け出すことができない。他の探偵卿に捕まってしまっては、彼も一緒に裁かれてしまう。
右耳のピアスに触れながら、ジョーカーのことを考える。
今日一日一緒にいたことで、また色々な新発見を入手した。
やはり彼は、プリンを始め、甘いものが好きなようだ。今も変わらない。
今日一日は休日だ。
また明日から、執事としての仕事が早朝から始まるが、今夜は時間が空いている。
何か甘いものを作ってみよう。
シドはレシピだけ読めば、例え初めてであろうと大体のものを完璧に作れるが、試行錯誤してよりよくしようと思えば、終わりはない。
プリンの他に、ジョーカーが好きそうなもの…。
シドは顎に片手を添えて考える。
ケーキ? 胡麻団子?
まあ何にせよ、万遍なく作れるようになっておくに越したことはない。何を言われても、おいしく作れるようになれていればいいだけの話だ。
次に会った時に繋がることは、明日からの生活に潤いが出る。
機嫌良くニース空港で降り、モナコへと鉄道で乗り継ぐ頃には、すっかり夜になった。

「シド様…!」

駅の改札を出ると、待ちかねたように男が一人シドへ駆け寄ってきた。
ネアの屋敷の使用人だ。どこかほっとした顔で、まるで主にそうするように……というか、主以上に心から恭しく、シドを出迎える。
シドも礼儀正しく会釈をした。

「シド様、休日に申し訳ありません。何度も連絡を入れてしまって…」
「そうだったのですか。気付きませんでした。本日は大切な友人と会っていたので、電子機器を切っておりましたので。わたしの方こそ、申し訳ありません。何かありましたか?」
「いえ、その…。その、ネア様が……」


白狼の巣穴




モンテカルロにある三階建ての大邸宅。
与えられた特別な執事服に着替えて、主の部屋へ向かう。
ノックをすると、やけにひやりとした冷たい声が内側からかかった。

『…誰だ?』
「ご主人様、失礼致します。シドでございます」
『入れ』

許しを得てから、室内に入る。
部屋は、とても広い。床全体には金の刺繍のある赤い絨毯が敷き詰められ、奥には大理石の暖炉がある。その暖炉の前にソファセットがあり、その片方にネアが座っていた。今入った扉から暖炉まで、かなりの距離がある。
ネアは暖炉の火を見詰めていたようだが、シドが閉めた扉の前で一礼したタイミングを待ってから、肩越しにシドの方を振り返った。

「やあ」

扉越しに聞いたひやりとした声はもうない。
外見だけは麗しい紳士であるネアは、いつもの親しげな瞳で部屋にやってきた執事を見ていた。

「どうしたんだい、シド。今日は休暇を取ったはずだが?」
「はい。お休みを頂き、ありがとうございました」
「いいんだよ。権利だからね。きみは、いつもよく働いてくれている。たまには休まなければならない。リフレッシュはできたかい?」
「ええ。全てご主人様にご配慮頂いたからに他なりません」
「そうか。何よりだ」

微かに微笑み、ネアは再び暖炉の火へと向いた。

「しかし、今夜までがきみの休日のはずだ。わざわざわたしの所に来なくともよかったのに」
「お時間を頂いてしまい、申し訳ありません。ご主人様のお顔を拝見したいという、わたしのわがままでございます。お許し下さい」
「はは…」

シドの言葉を聞いて、ネアが小さく笑う。

「本日は外出をさせていただきましたが、お陰様で用も済みました。もしお許しいただければ、今からご主人様がお休みになるまで、お仕えしても宜しいでしょうか?」
「構わないよ。許そう」
「ありがとうございます」

再び一礼して、シドが部屋へと進み入る。
シドの座っている一人掛けの重厚なソファの傍へ、主の邪魔にならぬよう、視界に入らないように立つ。
ネアは振り返らずに、問いかける。

「今日は何処へ出かけていたんだい?」
「パリの方へ」
「パリ?鉄道と飛行機でかね? …なんだ。それなら、わたしのジェット機を使えば良かったろうに」
「プライベートにご主人様のものを使うわけにはまいりません」
「何を言う。わたしときみとの仲じゃないか」

軽く両手を広げてネアは言うが、シドはにこにこと微笑んでいるだけで否定も肯定もしなかった。
足を組み替え、ネアが開いていた両手を組む。

「しかし…、きみの熱意が嬉しいよ、シド。休日だというのに、わたしの様子を見にこうして来てくれるのだから。きみは、代わりとして数人を置いていってくれたようだが、実を言うとね、代わりの者達の仕事ぶりはきみの十分の一も満足にできなくてね。全くわたしの意を汲んでくれない。困っていたところだ」
「ご迷惑をおかけして、申し訳ございません」
「いいんだよ。きみのせいではないからね。無能な者が悪い」

微笑んで言い放ち、ネアは暖炉から背後に立つシドへ肩越しに振り返った。
首が辛そうだと見て取って、シドはソファに座るネアの斜め前へ移動し、片膝を着いた。
シドの態度に、ネアが微笑む。

「何か褒美をあげよう。きみの熱意と、わたしへの友情に対して。何か望むものはないかい?」
「恐れ多いことでございます。わたしは、ただご主人様にお仕えする身というだけです」

"友情"に突っ込みを入れたい気持ちを必死に抑えながら、丁寧に応えるシド。
ネアは軽く首を振った。

「困った子だ。わたしの言うことが聞けないのかい、シド。わたしは、何か望むものはないか、と聞いているんだ。答えるのが、きみの義務だと思うがね」
「失礼致しました。では、恐れながら…。本日、ご主人様がお決めになられた数人の使用人の解雇を、無効にしていただくことは可能でしょうか」
「解雇…? そんなこと、したかな?」

シドに言われて、不思議そうな顔でネアが顎に片手を添えて考え込む。
シドが一日不在の間に、数人の執事と使用人が解雇を言い渡されていた。駅で泣きついてきたのは、その一人だ。
今日一日の、ネアの機嫌は最悪だった。
彼は自分の期待にそぐわない者へ、その場その場で「もうきみは来なくていい」と言い放った。
結果、今日だけでこの広い屋敷の、比較的ネアに近しいところで働いていた有能なはずの十数人が、片っ端から解雇を告げられていた。
しかし、当のネアには記憶がない。
取るに足らないことなので、覚えていないのだ。
そんなネアに、あくまで丁寧に、シドが希う。

「言い渡された者たちに、任せていた仕事があるのです。もし、ご主人様がお許しいただけるのでしたら、彼らに続けてもらいたいと思っています」
「構わないよ」

二つ返事で、ネアが頷く。
これで働く十数人と、その家族の人生が救われた。

「ありがとうございます」
「しかし、そんなことでいいのかい? きみ自身の望みは?」
「十分です、ご主人様」

胸に片手を添えて、恭しくシドが頭を下げる。
その様子を見て、ネアも表情を和らげた。
愛しげに、足下に伏す青年を見詰める。

「…本当に、きみは聡い子だ。わたしの扱い方を、よく分かっている」

シドが視線を上げると、冷たい、色素の薄いの瞳が、それでも優しげな表情とともに視界に入る。
まるで、何もかも解っていると言わんばかりだが、敢えてシドも微笑みを返した。

「わたしはそれでいいと思っているよ。わたしのことを、よく理解してくれている、ということだからね。…わたしはね、あまり他人に興味がないんだ。知らない奴が生きていようが死んでいこうが、どうでもいい。実のところ、まだ思っているよ。そういう風に生まれた奴が悪いのだ、とね」
「…」
「わたしはわたしとして生まれ、育った。これが事実だ。そして、わたしの傍にきみが来た。これも、事実だ」

サイドテーブルから、ネアがワイングラスを取る。
中に注がれていた赤い液体を軽く回し、対峙している者を称賛するように、グラスを持ち上げた。

「"わたしに好かれている"……それが、きみの最も魅力的なところだよ、シド。大切にしなさい」

 

 

 

ネアがシャワーを浴び、夜着に着替えてベッドルームへ入るまで、シドはいつものように彼の身の回りの一切を一人で整えた。
主人の体を拭き、オイルを塗り、服を着せて髪を乾かした。
ネアの機嫌も随分戻った。戻った後、機嫌は良好に転じていた。
明日のスケジュールは何だったか、とか、明日の服はどれがいいと思うか、とか、詩を朗読して欲しい、とか、オススメの本はないか、とか、いつもは気にしないようなことまであれこれとシドにせがんだ。
やっと眠る気になったのか、ベッドに腰掛けたネアが言う。

「眠るまで、誰かに傍にいて欲しい気分だ」
「かしこまりました。女性をお呼び致しましょう。どなたになさいますか?」

シドが言うと、ネアは口端を緩めてゆったりと首を振る。

「きみでいい。わたしが眠るまで、傍にいてくれるかい?」
「勿論です」

いつものように胸に片手を添えてシドが一礼すると、満足そうに、ヴァロア家の若い主は頷いた。

 

 

ぐだぐだ続くかと思われるネアの就寝前の時間は、実際は極端に短い。
かつて、ネアは寝付きが悪かった。
まず寝具の質にうるさいし、周囲の微かな雑音にも敏感だ。眠れないから、時間を潰そうと気まぐれで様々な遊びを行う。
捻くれていて自意識過剰で、これでもかという程自己中心的で傲慢な性格は、普通の人間と比べて、常に神経が昂ぶっていたのかもしれない。
しかし、シドが屋敷に来てからというもの、ネアの寝室周りを完璧に設計し直し、寝具と夜着を改め、ほんの少し密かに薬を含めたりして、見事に彼の体と心に休息を取らせることに成功した。
睡眠の質の向上。
振り返れば、まず整えたそれが、ネアの性格向上計画の実質的な第一歩だった。
ベッドサイドに置かれている一人掛けのソファに座ったシドが、困ったように苦笑する。
いつもはセットされている髪を下ろし、姿勢正しく眠っているネアは、まるで別人だ。
三十代後半には思えない、スタイルの良さと若々しさ。
高貴な外見は、お伽噺に出てくる王子様でも通る。

「…まあ、黙って寝ていれば、可愛げくらいはあるよな」

長い足を組み、片方の肘掛けに頬杖をついているシドの様子は、いつもの執事の態度とは随分違う。
人の気配をよく察せるシドは、当然ネアが熟睡しているかどうかも分かる。絶対に起きないということを確信して、気を緩めていた。
よく寝ている。
結構なことだ。そっと息を吐いた。
まるで、自分より幼い子をやっと寝かしつけた時のような気持ちになる。
ネアは、生まれた時から持ちすぎていた。
幼い頃は彼だって確かに知っていたはずなのに、周囲に溢れかえっている物や人を見ているうちに、本当は何が大切だったのか、どれが心から好きだったのか、そもそも「大切」とは何か、「好き」とは何かがすっかり曖昧になってしまったのだ。
シドが傍に来て、シドに与えるつもりで、彼が勧める通りに金や物を動かしているうちに何故かどうでもいい人間たちからも感謝され始め、そんな環境になりつつあって、ようやく長い間忘れていたそれらのことを少しずつ思い出せてきているのかもしれない。
普通の人間がやれば聖人レベルの慈善活動も、元々の性悪と悪評があったせいで、彼に対する世間の評価はやっと「イヤな奴」である。
ネアが世間からイイ奴と思われようがイヤな奴と思われようが、正直シドにはそこまで関係ない。
だが、ネアは金と名を持っている。
その有り余る金と名を、ただ貧しい子どもたちへ流すルートとして、都合がいいから彼の傍にいようと思った。
けれど最近は、この男こそが「貧しく寂しい子」のように思えることがある。
静かに胸を上下させているネアの寝顔に、にっとシドがヒマワリのような笑顔で笑いかける。

「最近はよく眠れているようで、良かった良かった。…まったく。血統書付きの黄金色のオオカミでも飼っている気分だよ」

少し戯けてソファから立ち上がり、無駄に広いベッドに無遠慮に片膝を乗せ、身を乗り出す。
それでようやく届くような場所に寝ているネアの髪を優しく撫で、改めて両手をシーツに着くと、主である彼へ顔を近づけて、兄が幼い弟にそうするように、祈るように目を伏せた。

「お休みなさい、ご主人様。また明日から、楽しい"調教"の日々ですよ…」

小声で言い聞かせるように囁いて、ネアにかかる厚い布団を整え直し、音もなく身を引く。
背筋を伸ばし、両手で執事服の上着を軽く整えると、その場で眠っている主人へ深く一礼し、静かに部屋を出た。

 



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ネア探偵卿とシドさんのモナコ主従。
主導権はシドさんが常に持っている。
だがシドさんはジョーカーさんLOVEが大前提。
2020.7.14





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