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『さあ、永らくお待たせ致しました。本日のメインの登場です。
 おそらく、今世紀最大にして最高の鉱物となるでしょう、
 アフリカ南部で昨年採掘されました、"レオン・エメラルド"。
 世界を騒がせたその鉱石と同時に採掘されたもう一つがあることを、ここに集う皆様はご存じの
 はず。
 表には報道されておりませんこちら、"アンダーレオン・エメラルド"!
 もちろん、品質はレオン・エメラルドと同等です。保証書もございます。
 天然鉱石にして、この不純物の少なさ、大きさ。ご覧下さい、この透明度。
 年々希少となっておりますエメラルド。この奇跡の石を、是非その手に!
 こちらは原石での出品です。
 ご希望があれば、細工師を紹介し、望んだ形に仕上げることも可能です。
 または、ご自身好みの細工師にお任せするのもいいでしょう。
 宝石はカットによって生まれ変わります。
 後世に残る美術品を、貴方の手でこの世に誕生させてみてはいかがでしょう。

 それでは、まいりましょう!』

 

仮面を着けた無駄に明るい青年が、片腕を会場へ差し出す。
次々と手が上がり、値段が跳ね上がっていくのを、少しの間傍観していた。
挙手が落ち着いたところで、組んでいた両腕を解く。

「36億ユーロ。36億でよろしいですか?」
「40」

挙手する。周囲がざわめいた。
青年の片手がソファに座るわたしを示す。

「40億が出ました。…さあ、いかがでしょう皆様。よろしいですか?」
「60」

闇に沈む客席の中から、声と手が上がる。
ざわっ…、と再び周囲が揺れた。
一つ一つのシートは離されており、司会者から顔は見えるが、客同士の顔は見えない程度に照明は落とされている。
どうやら、わたしの斜め前に座る男が挙手したようだ。
…60?
思わず、顔を顰めた。
随分物を知らない輩がいる。ユーロ価格とはいえ、60億は、表に出回ったレオンエメラルドの落札価格を超えるというのに。
再び、挙手する。

「65」
「70億」

厄介だ。どうやら、拘りのある輩がいるようだ。
金なら、いくらでもある。相手が破産するまで釣り上げてやろうかと思ったところで、斜め前に座る男が、大胆にもこちらを振り返った。顔の輪郭が判明する。
これでもかという程細工の細かい、趣味の悪い仮面を着けていた。

「きみ。悪いけれど、どうかわたしに譲ってくれないかな。どうしても、友だちにあの石をプレゼントしたいんだ」
「…」

ウインクをする男。声と言葉を聞いた途端、虫唾が走った。
仮面を着けているが、見事な金髪と身のこなし、声に、反吐が出る程覚えがあった。
自己嫌悪に呵まれながら、片腕で相手を静かに示す。

「メルシー!」

白いスーツの男がウインクを投げる。フランス語で嬉しそうに返すと、機嫌良く前を向いた。
司会者の声が張る。
しかし、ハンマープライスが決まる前に、わたしは軽く首を振って席を立つことを選んだ。
会場を出たところで、背後から拍手が起こる。
どうやら、そのまま白スーツの男がアンダーレオンを落札したらしい。
酷い頭痛に呵まれながら、出入り口にいたスタッフにナンバー札を返し、そのままエレベーターへと乗った。


エメラルドの時間




地下の会場からエレベーターで登り、直行で上階へ。
会場と繋がるエレベーターは、このホテルの最上階にしかない。
プレジデントホールと銘打って日頃は立ち入り禁止エリアとなっている、決して他者に貸さないこの貸し会場から、別のエレベーターに載り、二階程下がる。
隣国の夜景まで望める高層ホテルの上階へ降りると、控えていた黒服の男達に偽名を告げた。
異様にがたいのよい男に案内され、一室へと通される。
入って来たわたしを見て、重厚なソファに腰掛けて本を読んでいた少年が、礼儀正しく本を棚に戻してから歩み寄ってきた。
別室にいるであろう少女たち程ではなかろうが、男性的装飾品であるタイピンや時計やカフス、ブローチなどの他、これ見よがしに高価なネックレスなど、装飾をじゃらじゃらと着けられ、デザインシャツで襟を開いてはいるが、それ以外は年相応の正装を強いられているパイカルくんが、わたしの片腕へ親しい様子で身を寄せる。
何度か演技させているうちに、猫かぶりもすっかり板に付いてきたようだ。

「お帰りなさい、旦那様」
「どうやらいい子にしていたようだ」

背を屈ませ、彼の耳元で小さく舌を鳴らせ、キスを演じる。
裏社会でこの年頃の少年を連れて歩くには、愛人にしてしまった方が効率的であることを、パイカルくん自身もよく解っている。
白々しい笑みを作って指の背で彼の顎を一度撫で、近くにいたスタッフへ、可愛いドーリィの安全を担保するに適した額のチップと仮面を渡す。

「さあ、仕事は終わった。待たせてすまなかったね。食事を取ってから部屋へ行こうか」
「はい」

聞こえよがしに言い放ち、片腕に助手を貼り付けたまま、部屋を出る。
三度、無人のエレベーターに乗ったところで、パイカルくんが腕に寄せていた体を引いた。
しかし、エレベーター内にカメラがあるからだろう。両手はわたしの袖から離さないまま、彼はほ…と息を吐き、改めてわたしを見上げると、小声で語りかける。

「ウァドエバーさん、お疲れ様でした。対象は出品されていましたか?」
「今夜は出品されていなかった。リストが事前に出ない分、手間がかかるな。…だが、会場で実に嫌な顔を見たな」
「誰ですか?」
「ネアが来ている」

驚いた顔をするパイカルくん。
あの引き籠もりがわざわざヨーロッパの地下オークションに来るとは、一体何を考えているのか。
わたしになくて彼にあるものは、"名家"という輝かしい足枷のはずだが。
もちろん、オークションでの匿名は万全だ。
また、格式高いこの地下オークションで相手の素性を探るなどという野暮なことをする輩はいないはずだ。いたとしても、消されるだけだろう。そういう場だ。
ホテル内部に常設されているレストランに入り、吹き抜けのフロントホール側の個室を取る。
暫く食事とワインを楽しんでいると、パイカルくんが小声で告げた。

「来たようです」
「…」

ちらりと視線を送る。
ホールにある赤絨毯が敷かれた巨大な大理石の階段を、我が物顔で白スーツの男が二人降りている。
一人はネア。そしてその背後に従っているのは、執事のシドだ。
ほんの少し、殺気を送る。

「――」

わたしが気を送った直後、執事の方が鋭くこちらへ視線を向けた。
人が行き交い、階を違えるこの距離で、それでも的確に目が合う。
だが、我々だと気付けば途端にその双眸は緩み、穏やかに微笑むと再び前を向いて主人に従って階段を降りていく。

「同じ指令を受けたんでしょうか?」
「盗難品の売買ルートを、奴が直接探りに来ると思うかね?」
「愚問でした」

パイカルくんが淡々と己を省みる。
彼も頭では分かっているはずだ。ネアがそんな指令で動くわけがない、と。

「では、別の指令の可能性がありますね」
「理由などない。ショッピングに来たのだろう」
「ネアさんがですか? ですが、彼なら最高級ブランドの責任者でも家に呼べますよ」
「だからこそ、"地下オークション"に来たのだろう」

ただのショッピングなら、パイカルくんの言う通り、ネアは専門業者をモナコの自邸に呼びつけるだろう。
奴にとって、地下オークションは物見遊山だ。
そして、奴が一言「行きたい」と言えば、例えそれがどんなに無謀であろうと危険であろうと底なしの愚行であろうと、危険性を限りなくゼロに近づけ、完璧に叶えるのがあの執事だ。

「どうやら、欲しいものがあったらしい」
「彼は何かを落札したんですか?」
「石呼ばわりの宝石をな」
「ひょっとして、その宝石はエメラルドではありませんでしたか?」

「石」としか表現しなかったその種類を的確に助手が言い当て、思わず口の端を緩めて嗤った。
奴が落札したエメラルドの話をすると、パイカルくんは興味津々という様子だ。

「随分、察しがいいな。理由を聞こうか」
「今夜の落札物は、シドさんへのプレゼントだと予想できます」
「あの執事へかね?」
「ネアさんは、エメラルドをシドさんへプレゼントするのが趣味のようです。シドさんの瞳はグリーンですから、彼に似合う宝石をいつも探しているようです。今までは既にカットされた装飾品の話をよく聞いていましたが、今世紀最大なんて謳われたのであれば、原石を欲しくなったのだと考えられます」
「…」

小さく息を吐く。
頭痛がしてきたこめかみに、軽く指を添えた。
どこか誇らしげだったパイカルくんが、不思議そうにわたしを見る。

「どうかしましたか?」
「いや…」

しばらく何かを案じるようにわたしを見ていたが、やがて気を取り直したパイカルくんが思い出したように添える。

「ですが、あまりに量が多いし高価なので、シドさんは少し困っていました。きっと、今回もそうなるでしょう。シドさんには、大切にしている、決めたピアスがあるんです」

それはおそらく笑い話の一種になるのだろう。
「感情を物や金額でしか伝えられない男だからな」……と告げようとしたが、止めた。
返答がないことに対して、特に違和感を持たないパイカルくんの前に、コースのデザートが運ばれてくる。
最後の一皿を断ったわたしへは、ソムリエが新しいワインを勧めてきた。
食事の終わりを楽しめるようにとの配慮か、個室の照明を僅かに落とし、テーブルの中央にあったキャンドルに火が灯される。
ゆらゆらと不安定に揺れる火は、テーブルの上にある食器や飾り花の影を目立たせる。

「きれいですね」

パイカルくんは気に入ったようだが、わたしは返事をせずにグラスへ口付けた。
思えば、食事の時に正面にこの少年がいる光景にも、慣れたものだと我ながら感心する。
基本的に、食事時にテーブルの向かいに誰かが座れば、景色が悪い。
食事のマナーのない輩などが座った日には、最悪だ。
食い汚い光景を見ながらの食事など、拷問の一種に等しい。
しかし、助手として長持ちしているこの少年は、マナーも一通り頭にはいっているようで、不愉快が生じることはない。
灯りを見詰める瞳は大きく、今は蜂蜜を溶かしたように輝いている。
だが本来、彼の瞳は知的で澄んでおり、且つ冷静だ。
色はと問われれば、ネアの執事であるシドと同じく、透明感のある明るいエメラルドグリーンをしていた。

「…」

再び、自己嫌悪で眉を寄せる。
…手土産にちょうどよいと思った。
今回の闇ルートを表沙汰にするには、落札して引き渡しまでが完了しなければならない。
ICPOの息のかかった品物が今回出品され、それを落札するのが目的だが、今夜は出品されなかった。
だとしたら、出品されるのは明日だろう。
だが、あのエメラルドを実物で見た時、手土産にちょうどよいと思った。
落札すれば、明日出品予定の目的物は「なかった」と報告し、このオークション主催者の逮捕は先延ばしにすればいいだけの話だったが、ネアが参加していたとは予想外だ。
敢えて知らぬ振りでまとめて捕まえてやりたいところだが、あの愚か者を捕らえたところで、名前に傷が付くことを嫌がるICPOは放逐するだろう。
全く、醜い。
今回は、どのみち流すことになりそうだ。
そのこと自体も不愉快だが、不快の原因としては些細なことだ。
何よりの嫌悪は、あのネアと、思考が一致してしまったという、直視するに耐えきれぬ現実だ。
助手に新しい装飾品を誂える必要があるのなら、あの原石は打って付けだ、と思ってしまった。
…ネアと同思考か。
ただただ、頭痛が酷くなる。

「…」
「ウァドエバーさん、部屋に戻りますか?」

飲まずに片手の指先で転がしていたワイングラスの中身を見詰めていると、パイカルくんがそう言った。
どこか心配そうにわたしの顔を観察している。
無言でナプキンをテーブルに置くと、彼も同じようにして席を立った。

 

 

 

何処かでオークション関係の者がこちらを監視しているとも限らないため、パイカルくんを片腕に貼り付けたまま部屋へと向かおうと、レストランを出たところで、正面から歩いて来る男女の客と擦れ違った。
何でもない宿泊客だろうが、擦れ違ってから、パイカルくんが顎を上げて私へ問う。
このホテルは客層が定まっているため、擦れ違う一般人もそのままパーティに出席できそうな外見をしている。
女性の首回りをと耳を飾っていた、大振りなアクセサリーが目を惹いたようだ。

「女性は、ネックレスやイヤリングというアクセサリーにできますが…。ネアさんは、落札したエメラルドをどのようにシドさんへ送るのでしょう? 男性用装飾品に、ストーン量は、あまりを必要としない気がします」
「そうとも言い切れないが、今まではどうだったんだね?」

どうでもいいと思いながらも、聞いてみる。
宝石などより、細部まで洗練されたオリジナルデザインの、半永久的に動く美しい腕時計を創る方が、余程金が要るというものだ。
時に腕時計や懐中時計は、豪邸を一棟建てるよりも金が要る。
…ああ。そう言えば、時計は持たせていなかったな。
タブレットやスマホのデジタル表記でしか時を知らぬなど、典雅に欠ける。
イギリスにでも赴いた際に、時計屋に寄らねばなるまい。

「話を聞いている限りでは、カフスやタイピン、ブレスレットが多かったように思います」
「なるほど。今、きみが身につけている装飾品と変わらんというわけだ」

言うと、パイカルくんは「そうですね」と笑いながら、片手を軽く持ち上げた。
シャツの袖を飾るカフスは、左右のそれだけで平均的な家が建つ価値を持つ。

「その程度の品なら、いくらでも作れそうだな。今回の品は量が多い原石だ。手に余るだろう」
「何百個も作るとは思えませんが、他の人へ行き渡るようなこともしないように思います」

その意見には同意する。

「もっと、シドさんがもらって喜ぶものが別にあるような気がします」
「ほう…。それは何だね?」
「プライベートな時間です。なかなか友達に会えないと言っていました」

当然という顔で、助手はそう口にした。
確かに、必要最低限のプライベートタイムはあの執事にも存在しているであろうが、少なくとも我々が行動を共にしたり見聞きする分には、奴にプライベートタイムがあるのかどうか疑わしい従事っぷりだ。
「全くだ」と、鼻で嗤った。
宝石よりも、奴にとっては面倒臭いご主人様から離れられるその時間こそに、価値があるというものだろう。
そう思えば、手土産にちょうどよいと思っていたあの今世紀最大の原石も、その程度の値しかないように思えてきた。
あの執事の「時間の使い方」が、「友達に会う」などという凡庸なものだとは思わんが。

「きみにも、その報酬は必要かね?」
「え…?」
「プライベートタイムだよ」

言ってやると、パイカルくんは意外そうに瞬いた。
それから、首を振る。

「ぼくにとって、それは報酬ではありません。待機命令には、従いますけど…」
「それは困ったな。では、きみへはエメラルドの方がよさそうだ」
「エメラルドも困ります。これらの装飾品だって、今すぐにでも外したいくらいです」

頭の天辺から爪先まで、総額いくらになろうかという装飾品の一部を示して、パイカルくんが疲れたような息を吐く。
わたしは、軽く片手を振るった。

「わがままな助手だな。では、何がいいというんだね?」
「ぼくも、時間が欲しいです」
「矛盾しているようだが、それはそれで結構。では、きみは帰国の準備を」
「帰りたいというわけではありませんし、友達に会いたいというわけでもありません。本当にぼくに時間をもらえるのなら…」

そこで、パイカルくんは言い淀んだ。
一呼吸分何かを考え、己の中で幾ばくかの葛藤の末、全く期待していない声でぽつりと呟く。

「ウァドエバーさんとチェスをしたいような気がします」
「…チェス?」
「前回は、ボロ負けでしたから。…ホットスプリングテーブルテニスにも興味はありますが」
「未成年のうちは――」
「アルコールは飲みません。奥が深そうなスポーツですから、興味があるだけです。それに、浴衣がありませんから」

言い訳のように付け足す助手を見て、わたしは肩を竦めた。
上階専用のエレベーターに乗り、階を降りる。
エレベーターを降りてすぐの所にあるフロア専用アテンダントのデスク前を通る際、軽く片手を上げた。

「ワインのボトルを一本、わたしの部屋へ。銘は任せるが、赤を。…それと、チェス盤を3つ」

 

 

 

部屋へ戻る。
上着をクローゼットへかけ、洗面台で、瞳の中に入れていた偽造の為のコンタクトと指先に貼っていた偽造指紋を剥がして、手を洗う。
リビングへ戻ると、パイカルがてきぱきと場を整えていた。
ガラスのテーブルの上を空け、自分のタブレットを操作して、何やら情報を引き出している。
どうやら、過去にわたしと対戦した時の情報を、律儀に取っていたらしい。

「数分程度、時間をください。復習します」
「数分で君の勝率が変わるとは思えんが、まずは香水臭いその服を着替えてからにするんだな」
「…失礼しました」

夢中になっていた己を恥じた様子で、僅かに頬を赤らめてパイカルが装飾品を取り外してく。
雑にしているわけではないが、何の未練も興味もなく時価数千万の装飾一式が、テーブルの端へ次々に置かれた。
身軽になると、自分の部屋へと足早に消える。

「…」

タイを緩めながら、テーブル端に置かれた装飾品のうち、ネックレスを手に取る。
黄金色のシャラシャラとした落ち着きのないそれは、今夜のわたしの愛玩少年の首元と鎖骨を飾るものではあった。
これ一つで、成人した者ならば、残りの人生金に困ることはないだろう。
人にはそれぞれ、使い切れる資産と資金の限度額というものがある。
額は違うが、そういう意味では、これはネアの落札したエメラルドとそう変わりはないだろう。
ネアに同調する気はないが、こういった装飾品は金の次に万人が喜ぶものだと思っていたし、実際、ちらつかせれば大体の人間は釣れるものだが……どうも、わたしの助手は変わり者の部類のようだ。
部屋のベルが鳴る。
パイカルは着替えているようなので、億劫だがわたしが出ることにした。

「失礼致します。ワインをお持ちいたしました。それから、チェス盤を……3つ、と伺ったのですが…」
「リビングのテーブルへ置いてくれ」

ホテルマンは赤ワインとチェス盤を置き、出ていった。
チェアへ腰掛け、届いたワインのエチケットを眺めていると、私服に着替えたパイカルが部屋から出てくる。
テーブルの上に3つ並んだチェス盤を見て、一瞬、その双眸が輝く。
タブレットを両手に持ち、再び、わたしを見上げた。

「数分いただきます」
「では、十分後に始めるとしよう。どの盤も、先攻後攻はきみが決めるといい」
「はい」

かくして、十分間は部屋に静寂が訪れた。
わたしはワインを楽しみ、パイカルはタブレットと睨み合っていた。
やがて時間になり、わたしの座る正面へ、彼が腰掛ける。

「よろしくお願いします」
「エメラルドと比べれば、随分安い報酬だ」
「いいえ。ぼくにとっては、エメラルド以上に価値ある時間です」

きっぱりと告げてから、彼は静かに目の前に並ぶ3つのチェス盤を順に眺めた。

「先攻後攻は?」
「では、ウァドエバーさんから見て右と中央を、ウァドエバーさん先手で。こちらだけ、ぼくが先手でどうでしょうか?」
「いいだろう」

グラスを置き、端へと寄せる。
スタートの合図があったわけではないが、お互い、先手になった盤から駒を進めていく。
3盤同時に対戦する時の趣といえば、リズミカルなその音だろう。
盤の数が多い分だけ、まるで古時計の秒針のような部屋に響くその音は、小さく重なっていった。

 


 

 

「チェックメイト」

最後の盤のキングを取り上げてやると、パイカルは目を伏せて両肩を下ろし、深く息を吐いた。
勝率は、前回と変わらない。
彼の惨敗だ。
成長は見受けられるが、まだまだ読みが浅い。
惨敗した者の顔には見えない満足気な表情で、パイカルがわたしを見る。

「ありがとうございました。とても楽しかったです」
「勝率は動かなかったな」
「また違う対策を考えます」
「世界大会に出たらどうだね? なかなかいいところまでは行けるだろう」
「え? ぼくですか? ですが、特別チェス自体が好きなわけではありませんから。…ウァドエバーさんが出たら、すぐに優勝しそうですね」
「残念ながら、わたしもチェス自体にそこまでの熱意はない」

チェス盤をを片付け始めるパイカル。
それが終わると、すぐにまたタブレットへ向かい、真剣な顔で今のゲームの分析を始めたようだ。

「…」

テーブルの端には、例の装飾品の類が並んでいる。
ダイヤモンドをふんだんに使用しているブレスレットを、一つを手に取る。

「パイカルくん」
「はい」
「これはもう、わたしには必要ない。いるかね?」

彼は不思議そうな顔をした。

「次の潜入捜査などの時に、また使えませんか?」
「元々あまり良いデザインだとは思えない品だ。そろそろ変える頃合いかと思ってね」
「なるほど。生憎ですが、個人的にはぼくにも特に必要はありません」
「そうか…」

口端を緩め、ブレスレットを放る。
宙に放られ、落下途中のそれをを狙って、右手の人差し指で風を弾く。
パンッ!と発砲のような音を立て、壁に当たったそれは真下のゴミ箱へと沈んでいった。

 

グラスへ残りのワインを注ぎ、口に含む。
言い忘れていたが、ホテルが用意したワインの味と香りは、なかなかのものだった。



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ウァドさん視点。
高価な宝石をもらうよりも、一緒にちょっとだけ頭脳戦のゲームで
遊んでもらえる方が、きっと助手君は喜びそうですね。
2020.6.14





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