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「…まったく」

吐き捨てながら、タイヤの一つを欠いたトラックのドアを、手の甲で小突く。
南ヨーロッパの小国。
治安も衛生も悪いこの国の農業地帯など、サバンナ以上に何もない。
隣家まで数キロという田舎の農道は当然人気など殆どなく、交通量も極端に少ない。
現地で中古車を買い上げここまで運転してきたはいいものの、タイヤ一つに穴が空けば走行は無理だ。
車の調達が難しい地域ではあったが、時間がかかってもどこかから車を輸入してくるんだった。
…まあ、どのみち時間の制約があるので間に合わなかったとは思うが。
計画通りに行かないと、どうにも苛立つ。
諦めて背広の襟を整えながら、農道から反れる。
踏みならされただけの粗末でだだっ広い農道の左側には木々が覆い繁っている。
人の手入れなど知りもしない自然の植物は好き勝手に成長し、奥へ踏み込めはしないものの、高温のこの地帯で有効な日陰を作りだしていた。
大きな葉を持つ木々の木陰で、膝を抱えてうずくまっていた助手が、足音に気付いて顔を上げる。
この国の日差しと湿度にやられたのか、はたまた乗り物酔いか、車が止まった頃から珍しく不調を訴えた。

「車の調子は、どうでしたか?」
「どうもこうも、お手上げだ」

私も日陰へ踏み込み、発言通りのジェスチャーをする。
パイカルは膝を抱えたまま、小さく頷いた。

「残念ですが、パンクでは仕方がありませんね」
「予備も積んでいないとはな。時間を無駄にするのは惜しいが、次に車が通るまで、少し休むとしよう。ヒッチハイクで乗せてくれるなら、それでいい」
「乗せてくれなかったり、目的地側から来た車だったら、どうしますか?」
「少々拝借するとしよう」

何はともあれ、次に来た車に乗ればいいのだ。
淡々と言った私の言葉に、パイカルが愉快そうに僅かに口元を緩める。
反応が、日頃と比べ鈍い。

「水分を取った方が良さそうに見えるが?」
「はい…。さっきから、飲んでるん…ですけど…」
「では、少なくとも脱水症状や熱中症ではないわけだな。車が来るまでに回復しなければ置いていくから、そのつもりでいるんだな」
「はい…。…」

何かに耐えているようだったが、次第に助手は眉を寄せ、揺らぐ体のバランスを取るように片手を地面に着いた。

「ウァドエバーさん、すみません…。ちょっと…ぼく、本当に体調が悪いようです…」
「それはさっき聞いた。辛いなら横になっていろ。どうせ暫く車は通るまい」
「もし、通ったら…。ぼくはここで、休ませてもらい…ます、から…。先に、現場に……」

…と、そこまで言って、ジャラリと小石の音を立てて横に倒れると、そのまま動かなくなった。

「…」

はあ…、と思わずため息を吐く。
仕方ないので隣に屈み、様子を観察した。
ぐったりと横たわる助手は力なく、目も開けず、指先で瞼を開けても反応がない。
酷い発熱と発汗をすぐ見て取れた。脈を測り、改めて口内と眼球を軽く診て、意識が回復しないことを確認する。
寝ているとは思えない程呼吸が荒く、時折体を折る程深く咳き込む様子が特徴的だ。
舌打ちしてブラッククイーンに変ずると、使えない助手を左の肩に抱えて地を蹴った。
真上にある太い枝を選んで片手を掛け、くるりと回転して枝の上に回ると、そこを足場に、体重を支えられそうな次の太い枝へ飛び移る。
木々を足場に道沿いの林を移動し、使えないポンコツ車で来た農道を引き返していると、古びた車が一台止まっているのを見つけた。
持ち主は、ボンネットに寄りかかり一服しているようだ。
彼の視界に入らない場所でエッグの力を解除し、スーツ姿に戻って助手を抱え直してから、声をかける。

「すまないが、車を貸してもらえるかね。病人がいるんだ。礼はする」
「病人…?」

男は、私が抱えている助手を見下ろすと、醜悪な笑みで笑った。

「悪いが、今俺も仕事の最中でね。契約に遅れるわけにはいかないんだ。その坊やを引き取ってくれというのなら、話は別だがね」
「それは残念だ」

返答を聞いて、男の首筋に蹴りを入れる。
その場に崩れ落ちる男へ軽い暗示をかけてから捨て置いて、車を借りることにした。
後部座席にパイカルを寝かせようとしてドアを開ければ、いくつもの楽器ケースが積み上げられていた。
試しに一つ開けてみれば、中は火器の類。
後部座席は諦め、助手席に寝かせると、運転席に乗り込みエンジンをかけた。

「まったく…。こんな時に限って当たりを引く」

アクセルを踏んで車を発車させながら、ハンドフリーの通信機を片耳にかけた。
こんな時でもなければ送信しない相手に、通信をかける。
ギリシャの地が昼だろうが夜だろうが、人工知能には関係あるまい。
送信してすぐ、若い女のキンキンした声が耳に入ってくる。

[はあい。珍しいわね、あなたから直接連絡なんて。パイカルはどうしたのかしら? 先に言っておくけれど、アンゲルスなら今ネットのサバゲーに夢中だから、たぶん声をかけても出ないわよ。]
「アンゲルスに用はない。きみに用がある」
[わたし?]
「借りがないとは言わせないぞ」
[まあ…、そうね。確かにね。]
「至急、ヘリを一機寄こしてくれ。この通話後、わたしの場所が分かるよう情報を一部開放する。最寄りの中規模以上の病院を確認し、その病院の院内ネットワークを乗っ取るように。見ず知らずの医者の腕も人間性も、信用する気はない。きみの医療システムを送りつけ、院内の支配率を上げておいてくれ。必要なマニピュレーターや機器に関しても、急ぎ取り揃えるように。予算に上限は設けない」
[ちょっと待ってよ。一体どうしたの? 急患ってこと? ねえ、パイカルは?]
「意識不明だ。風土病である感染症の可能性がある」
[ウソ!? 大変じゃない!]

律儀に驚いてみせる人工知能。
驚く時間さえ無駄だ。これだから必要以上に性能が良すぎると困る。

「大したことじゃない。ワクチンさえ打てば、何てことはない」
[そういうことなら任せてちょうだい。医療システムはもちろんだけど、趣味で作った強盗システムにも、自信があるわよ。遠慮なく乗っ取らせてもらうけど、責任は丸投げさせてもらうからね。]
「構わん。期待しているよ」

通信を切ってから、一部のセキュリティを解除する。
これで、マガがわたしたちを見つけることは容易いはずだ。
彼女ならすぐに動かせるヘリを手配し、こちらへ向かってくるだろう。

「げほっ…、っ…」

意識のない助手席に横たわる体が、悪い咳をする。
そんなことはどうでもいい。さっきも言った通り、一定時間内にワクチンを打てば治る。
それよりも今さっきの己の発言を忌々しく思い、眉を寄せた。
"至急"…?
そんな単語を使うものではなかった。
車を走らせていると、やがて正面の空からヘリが一機飛んできた。

 

 

ヘリに同乗し、最寄りの街の病院へ降り立つ。
ヘリポートがあるだけ幸いだ。それだけで設備の最低ラインは期待できる。
突然院内のシステムを乗っ取られた病院は、もちろんパニックに陥っていた。
始めにヘリポートに駆けつけた何人かに個人的に金を渡して、その数人にパイカルを病室へ運ばせると同時に、機器の準備をさせる。
つかつかと屋上から院内へ入り、フロアを進み、院長室をノックする。
少しばかり"話し合い"をしている間に、事前に連絡を入れていた通り、銀行から多額の現金が運ばれてきた。
行員がカートにケースを乗せて続々と入り込んできたことで、"話し合い"はスムーズに進んだ。
まあ、相手にとっても悪い話ではない条件は提示したつもりだ。
そもそも、この地域の衛生面を信用してはいないので、特別室のうち一室を処置室、一室を病室にするためにマガに消毒を施させ、臨時的ではあるが特定のフロアの衛生を確保する。
高性能のマニピュレーターとディスプレイ、ネット環境が整えば、後は人間などさして必要ない。
他のフロアに手出しはしない代わりに、必要以上にこのフロアへも踏み込まぬよう、院長へ念を押しておいたお陰で、高性能パソコンとマニピュレーターが一台あれば、瞬く間にマガ自身が支配率とマニピュレーターを増やし、動きやすい環境を整えていく。

[わたしを呼んで正解ね。この地域には、かなり悪質な抗体や偽物ワクチンが横行しているみたいね。この病院が確保しているワクチンも、何だか随分怪しい感じだったわ。まともなのもあるけど怪しいのもあって、当たり外れのあるクジみたい。でもまあ、安心して。隣国の大学から仕入れた本物のワクチンは、あと五分で届くから。今夜は高熱が続くでしょうけど、打って安静にしていれば治るわ。後遺症なしの完全な保証なんてできないけど、これだけは確実よ、命に別状はないわ。]
「だろうな。では、頼む」
「任せて!……と、言いたいところだけれど、即席のマニピュレーターじゃそこまで細かい作業ができないの。あと十五分もあれば性能を上げられるけど、時間が惜しいわ。悪いけど、また誰か医療スタッフを呼んで、点滴針だけ差してもらって。そのくらいだったら、流石に医者を名乗っていれば誰でもできるはずだから。]
「見ず知らずの医者は信用できない、と言ったはずだが?」

上着を脱ぎ、袖を捲って両手を消毒する。
院内服でベッドに横たわっているパイカルの袖を折り上げ、片腕を軽く撫でて静脈を把握し、消毒して針を差す。
点滴液自体はマガのマニピュレーターが用意をしていたので、それと繋げさえすれば、後は放置すればいいだけだ。
パイカルの顔はまだ青白くチアノーゼの症状が見られるが、一時よりは色が戻って来たようにも思う。
簡単なこの処置を、ディスプレイの中からマガが頬杖を付いて見ていた。
正確には、ディスプレイ上部で撮影される映像を見て、感心したようなジェスチャーをしている。

[やるわね。]
「注射もろくにできない宇宙一の人工知能のお褒めに預かり、光栄だよ」
[…。そう言えば、この病院を買い取ったんですって~?]

針の始末をしていると、むっとしたマガが、話を変えるようにギスギスした言葉を飛ばしてきた。
立ち上がり、上着を片腕にかける。

「後はきみに任せる。わたしは、用があるので少々出掛けてくる。明日の夜には戻るだろう。留守中入室した者で、きみが怪しいと判断すれば、麻酔でも実弾でも撃ってくれて構わない。病院の良い所は、死体がいくらあっても、不思議ではないところだな」
[え…。あ、ちょっとっ!]

 

 

 

 

翌日の夜…。
用事を終えて、夜に病院へと戻った。
相変わらず下の階は騒がしかったが、医療関係者と病人を取り除いたフロアは、不機嫌な人工知能の小言さえなければ静かなものだ。
主を追い払った院長室で、デスクチェアに腰掛け、足を組む。

「…」

病院は好きではない。
同時に、もうわたしの人生には必要のない建物だと思っていた。
嫌な記憶が頭を過ぎる。
ベッドに横たわる幼い人物を、横から眺める…。
いつかどこかで体験したシチュエーション。
しかし、当時と違うのは、今のわたしには莫大な財産があり、どんな薬も医療環境も揃えられるということだ。
金に糸目さえ付けなければ、多くの病は克服できるか、それに近づいていける。
今は底なしにあるこの金が当時あれば、或いはわたしは真っ当な道を歩いたかもしれない。
しかし、夜の道を歩いてきたからこそ、この底なしの金を手に入れることができた、とも言える。
…今考えれば、弟を救うために必要な金など、本当にちっぽけな額だった。
だがその額を、わたしは払えなかった。
この記憶は、わたしを呵ませる。
何よりの嫌悪は、もう忘れたつもりでも、今尚そのことをこうして思い出す自分自身だ。
この静寂を打ち破るように、スマホが震えた。
ルイーゼだ。
普段なら出る価値もないその通信を取ったのは、この記憶と思考から逃れるためだったかもしれない。

「…はい」
『あら。珍しいわねえ、ウァドエバーちゃんが通信に出るなんて』

ころころとした妙齢女性の流暢なフランス語に、フランス語で返す。

「ご用件は?」
『パイカルちゃんと連絡が取れないの。彼に何かあった?』

柔らかい声の奥に、静かな観察眼が見え隠れする。
いつもわたしと彼女との間を繋ぐのは、助手のパイカルだ。
彼と連絡が取れなければ、すぐに彼女が異常に気付くのは、当然だ。

「彼なら、ちょっとした風邪をひきましてね。今、地元の病院に預けているところです」
『まあ…!大丈夫なの?』
「さあ? 取り敢えず、生きてはいるようですが」

肩を竦めて言っておく。
ルイーゼは呆れたようなため息を吐いた。

『もうっ。困った子ねえ。ウァドエバーちゃんが付いていてあげなきゃ』
「わたしが、病気を患った他人を、気遣うと思いますか?」

思わず、鼻で嗤ってしまう。

『そうねえ。他の子たちなら思わないけど、病気になったのがパイカルちゃんだったら、ちょっとは気を回すんじゃないかしら…とは思うわ』
「…」
『ほんのちょっとでいいのよ。対象の人数が少ない分だけ、あなたのほんのちょっとは、きっと十分だから。…ねえ、ウァドエバーちゃん。"それ"を探し出すのは、とっても大変なのよ~。あなたもなかなか見つけられないだろうし、わたしにももちろん難しいわ。代わりがすぐに用意できるか分からないのだから、大切にしてちょうだい。じゃないと、連絡の取りようがなくて、困っちゃうわ』

陽気でおっとりとしたフランス語を崩さず、のほほんとした声に心底嫌気が差す。
憤りが、胸から全身へと広がっていくのを感じだ。

「…。ルイーゼ…。今夜、しみじみ思いましたよ」
『あら。何をかしら?』
「よくも、わたしに余計な足枷を付けてくれましたね」

殺気を含め、低い声で告げる。
返ってきたのは、陽気だが、どこか冷ややかさの残る声だった。

『うふふ。可愛い足枷で嬉しいでしょう? ホント、気に入ってもらえてよかったわ』

通信を切った。
ぐっと握った手の中で、通信機が割れる。
音を立てて足下に落ちる破片。どす黒い感情が胸を支配する。

「…<伏兵>め!」

 

 

"切る"なら今だ。
そう思って、夜の廊下を病室へ向けて歩いていく。
確かに、今の助手に非はない。
素直に「探偵卿になり大きな悪を取り締まる」という夢を抱き、真っ直ぐにその道を選んで歩くことに非はない。ある程度の努力も認めよう。
醜悪な悪を排除するには、法律上の正義を守っていてはできない、正義を名乗る者に正義はない、ということも理解できる、センスの良さも持っている。
だが、もういい加減うんざりだ。
非力な助手を連れ歩くのも、どこかのベースに放置するにも全く以て効率が悪い。
助手がいることで、わたしの行動も前よりICPOに把握されることが増えてきた。
彼を連れ歩くことに対するわたしのメリットなど、皆目見当たらない。
殺してどこかに――…いや。
暗示をかけて、ルイーゼに送り返してやればいい。
もう二度とわたしと関らぬよう、記憶の中のわたしの顔と名前に封をしてしまえばいい。
その他の多くの人間と同じように、再会しても記憶に留まらぬようにするのは、造作もないことだ。
他の探偵卿の助手に配置するよう、推薦状を書くとしよう。
誰がいい?
まともな人種など見当たらないが、比較的真っ当なのはマンダリンかマライカだろうか…?
少なくとも、ヴォルフとは合わないはずだ。
冥美に付くにはバランスが悪すぎるし、彼にも多少なりともプライドがあるだろう。
花菱は優秀ではあるが、あれは探偵卿という自分の立場を早々と見失っている。
ネア? 論外だ。
つくづくICPOの探偵卿が、笑わせる。
指導者という点ではマライカ――…いや、彼女のことはケニアで怖がっていたな。
では、マンダリンに押しつけるとしよう。
決まれば、善は急げだ。無駄な時間を費やす趣味はない。
ノックせず、病室のドアを一切の音なく開ける。
――…が、

「あ…、ウァドエバーさん」
「…」

ドアを開けた瞬間、エメラルドグリーンの瞳と目が合い、勢いを失うしかなかった。
病室のドアを開けて一歩踏み込むと、既にパイカルは上半身を起こしていた。
開きっぱなしのカーテンから、月光が青白く差し込む。
夜だからか、大型ディスプレイではなくテーブル上の小型ディスプレイに、胸を大きく開いた女医姿のマガも映っている。

[グッドタイミングね。今、目を覚ましたところよ。]
「ご迷惑をおかけしました」
[容態は安定したわ。もう大丈夫よ。あとは薬を飲みつつ、たくさんご飯を食べて、たくさん寝ること!]
「分かりました。マガさん、本当にありがとうございます」
「…」

力なく、青白い顔で無理して微笑うパイカル。
頭痛でもしそうだ。
顔を顰め、目を伏せて片手で眼鏡のブリッジを持ち上げながら、今度は微かな音を立ててドアを閉める。
静かに病室に踏み込み、ベッドサイドに一脚だけ置かせた革張りのソファへ腰掛ける。
体をソファの背へ預け、苛々と右の指先で肘掛けを数回叩いた。
わたしの様子を黙って見ていたパイカルが、タイミングを見計らって声をかける。

「あの…。病院まで運んでくれて、ありがとうございました。それと、病休になってしまい、申し訳ありませんでした。追っていた、例の取引現場はどうなりましたか?」
「確認できなかったが、銃は押収した」
「確認ができず、押収はできた…?」

パイカルが、静かに反芻した。
ちなみに、銃は道中押収してしまったため、無論、取引には至らなかった。
一方は仕方がないので逮捕して銃共々警察に押しつけてきたが、片方が取引現場に現れなかったのだから、現場を押さえるはずだった取引のもう片方の逮捕は叶わなかった。
…まあ、せっかくここまで来たのだ。見逃すつもりはそもそもない。
美学のない小者。正義を嘯く自己中心的思考。愚かな犯行と醜悪な犯罪。美しさの欠片もない金と道具の使い方…。
それらは、見るに堪えない。
逮捕ができないのであれば、別の方法で、この太陽の下からご退場いただけばいいだけだ。
逮捕より手軽な方法など、いくらでもある。

「ということは、片方は逮捕し、片方は始末したんですか?」

表情一つ変えず、パイカルが再び問いかける。
大した会話もせずにその結論に行き着いた助手に満足し、薄く口端を緩めてみせた。
パイカルが、安心したように胸をなで下ろす。
ディスプレイの中で、マガが半眼をしてみせた。

[物騒な会話ねえ。]
「会話? わたしは何も言っていない。…だが、そうだな。どうも取引の相手方の数人は、昨日忽然と姿を消したようだ。困ったものだ。続けていた捜査が頓挫してしまったからな。さて、この後はどうするか…」

両手を開いて肩を竦めてみせれば、マガが小さくため息を吐いた。

「理由はどうあれ、銃や火薬が渡らずよかったです。某国の内戦が激化せずに済みますね。死傷者数が全く違ってきます」

冷静にパイカルが言う。
死者数云々に関しては特別な関心はないが、正義を気取る者達が、見苦しい犯罪を調子に乗って行うに至らないことは確かだ。
若しくは、片方に過度な援助をし、一気に片付けるという方法が最も手っ取り早いような気もするが、そこまでしてやる義理もない。
ふと、パイカルが視線を上げる。

「そう言えば、もう随分夜遅いですが、ぼくに何か用でしょうか?」
[何言ってんの。休む前に、様子を見にきてくれたに決まってるでしょ。]

マガが、グロスの乗った唇で知った風に言う。
内心忌々しく思いながらも、薄く微笑んで見せた。

「ああ…。そろそろ、目覚める頃かと思ってね」
「え…」
[ほーら。まあ、普通、そうよね。]
「…」

聞いていたパイカルが、意外そうな表情の後で、何かを思案する。
しかし、やがて己の中で結論を着けたのか、背筋を正すと、わずかに表情を崩した。

「ありがとうございます。ぼくは、もう大丈夫です。ご心配とお時間をおかけしました」
「…」

実に複雑な気分になった。
しかしどちらかといえば不機嫌が勝り、片手の指先で暫く額を軽く押さえて目を伏せた。
…ああ。まったく。
何もかもが嫌になる。

 

 

翌日。
朝、十分であろう寄付金を投げて院長へ挨拶してから病室へ行くと、既にパイカルは早々と退院の準備を完了させ、室内のソファに腰掛けてわたしを待っていた。
マガは反対していたが、わたしが、今日の飛行機に乗る、付いて来てもいいし、来なくても構わないと言えば、無理を押して空港まで付いてきた。

「予定では、一昨日には出国するはずだった」
「足止めをさせてしまって、申し訳ありませんでした」
「特別気にすることはない。きみが、いつだってわたしの荷物であることに、変わりはないからな」

沈黙する助手を無視して、チケットを買う。
ラウンジへ移動する途中で、パイカルの持つ端末が鳴った。

「誰からだ?」
「ルイーゼさんです」

無言で、片手を差し出す。
パイカルは一瞬瞬いた後、わたしの手に端末を差し出した。
ごく自然な動作で、それを握り潰す。
破片がラウンジの床に落ちるのを、パイカルは淡々と見下ろしていた。

「そろそろ、機種を変える頃合いだと思ってね」

片手を開いて見せるわたしに、助手は小さく笑って同意する。

「確かに、モデルチェンジの時期ですね」

その受け答えに満足して、ラウンジのソファに腰掛けた。
隣のソファに、パイカルも腰を下ろす。
顔色はまだ悪いが、その動作は落ち着いており、察する脈拍数も呼吸も、いつもより多少速い程度だ。
体調が急変するならそれはそれでいい機会だと思ったが……必要以上の会話はなくとも、まだ暫く彼が生き続け、助手という立場でわたしに付いてくるであろうことは、容易に想像が付いた。
諦めて、足を組む。
…機を逃した。
これがやがては、致命的になるのだろう。


足枷




…まあ、いい。
なに。"切る"機会は、またあるだろう。
未成年は色々と使い勝手が良い。あの女に手綱の一本でも持たせた振りをして情報を得るのも、悪くはないことは確かだ。
小さく息を吐き、スタッフに持って来させた新聞を開いた。



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冷徹探偵卿の可愛い足枷。
「見舞いに来るわけない。ぼくを処分しに来たのかも」と普通に考え至るパイカル君。
ウァドさんの唯一くらいの弱点。
2020.7.21





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