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「驍宗様は、妻を娶らないのですか?」

問われ、驍宗は背後の泰麒を振り返った。
黒髪に黒衣の華奢な少年が、落ち着いた黒い瞳で驍宗を見ている。
出し抜けに問われたことも驚いたし、問われた内容も驚いた。

 

「宜しければ、息抜きに付き合って頂けませんか」と誘ったのは泰麒で、「ならば雲海を見に行こう」と決めたのは驍宗だ。
永らく疲弊していた戴。
救いが遠く雪と寒さと血鉄の臭いの中で眠っていた、北東の島国。
沈みきった天秤の片方に乗ったこの国を浮き上がらせる為に、もう片方の天皿には多くの時間と犠牲を乗せた。
驍宗が玉座に、泰麒がその爪先に伏せることができたから、現実具体的にそれで万事解決というわけではない。
一連の形が整い、国の行く末が希望と救いへ向いた、というだけで、そこからがいよいよ国が整う。
今、漸くその釣り合いは取れてきた。
官僚たちは一様に朝から晩まで働いている。止まった時を取り返そうと必死なのだ。そうしなければならない、ということもあるし、今まで耐えてきた者にとって、そうしたい、という胸の想いもあるだろう。
始めの頃は一様に高揚としており、眠るのが惜しいという感覚で皆務めていたようだしその感情も分かるが、いくら仙籍を得ている身とはいえいつまでも続くわけがない。
無理をして倒れる者が何人か出て来たりもしている。
しかし、「無理をするな」と言って回っている驍宗本人が、端から見ていると最も無茶な予定で日々を送っていた。
驍宗は自分なりに加減を心得ているつもりだし、決して無茶はしていないつもりだが、周囲から見ればそうではない。
身の回りを囲む者達が何を言っても、その場は聞いておいたとしても、気遣った者が期待する時間を休んでくれない。
どうも自分と他者とでは"休む"という言葉にかかってくる感覚が違うようだ、ということは分かるが、では具体的にどの程度休めばいいのかの加減が驍宗には分からない。
周囲に泣きつかれ、いよいよ泰麒が驍宗へ声をかけた。息抜きに付き合って頂けませんか、と。
泰麒に改まってそう言われては、最早それは民の総意だ。
未だにその考えが抜けていないし、実際にそうだと信じ、ある種の目安としている。
驍宗は執務室にやってきた泰麒を見詰めた後、観念したように深く息を吐いて立ち上がった。
ならば、雲海を見に行こう、と。

 

「唐突だな」
「そうですか?」

苦笑して言う驍宗に、泰麒は不思議そうに首を傾げる。

「すぐそこが後宮ですから」

なるほど、確かにすぐ近くには後宮がある。
彼らは白圭宮の奥にある雲海を臨む園林に面した露台に来ていた。
宮の奥にあるこの周辺は殆ど王のプライベートなエリアであって、王の親族の居住空間でもあるのだが、親族のいない驍宗の御世になって以降は一部を驍宗が使っているが、それ以外の多くの宮に灯りは灯らない。

「皆が言うのです。驍宗様に良縁があれば、尚いいのに、と」
「もうそんな話に移るか。欲深だな…」

泰麒に悪気はないのだろうが、今の驍宗には些か頭が痛い話題だ。
戴の民は驍宗の帰還を受けて歓喜に沸き、天に感謝しながら少しずつ日常を取り戻し、そうして些か浮かれ続けている。
まだまだ問題は山積みだが、常に話題は陽質のものが多かった。
民に陽の気があるのはいいことだが、彼らの話題はもうずっと、やっと戻った戴王とその周辺だ。
とても国を治め切れていないというのに、また違った角度から無理難題を投げられる。
正直、そんなことを考える余裕は全く無い。

「私も、そうであればいいのにと思っています」
「それは、私が適宜に休息を取るよう、監視役としてか?」
「それもあります」

ほんの少し微笑し、泰麒が肯定する。
数歩歩んで、露台の手摺りに片手をかけていた驍宗の横に進んだ。

「でも…それとは別に、驍宗様に近しく心を許せる方がいればいいのに、と思います。人間で言うと、それはやっぱり"家族"なのでは?」
「そうとは限らんだろう」

子を捨てる親もいれば、親を殺す子もいる。
夫を殴る妻もあれば、妻を殺す夫もある。
王師の時代、多くの現場でそれらを見てきた。
しかし、麒麟である泰麒に直接的に言うのは躊躇われ、驍宗は胸中に留めた。
泰麒の方はその返答が、少なくとも意外ではないようだ。驍宗の返事に、何故か安心したかのように少し気が抜けた様子だ。
間を取って小さく頷いたかのように見えたが、本当に頷いたかどうかは分からない。
何かを暫しの間考え、再び驍宗を見た。

「今までに、どなたかへ恋慕を抱いたことはないのですか?」
「私がか?」
「はい」

こんなことを聞けるのは、泰麒だけだろう。
先王の時から、気付いたら既に軍の中で地位に就いていた驍宗に、直接こういったことを尋ねてきた者は今まで少なかった。
王師になった頃には既に話題にものぼらなくなった。気の許せる部下ですら、酒の席ですらない。
それは気を回して聞かなかったのか、それとも聞くまでもないと思われていたのか…。
恐らく後者だろうと予想をしつつ、驍宗は笑った。

「今日はどうした。質問攻めだな。誰かに言われてきたか」
「いいえ。確かに、そういう意見が複数あります。しかし、それとは別に、本当にそうであればいいのにと思っているのです」

泰麒は顔を上げ、雲海の遠くを見回した。
空にある海は、今日も変わらず美しい。
驍宗が玉座に戻ってから、安定した波が続いていた。

「私は、"恋慕"や"情愛"という言葉を知っています。蓬莱にもそれらはあって、知った気でいました。…けれど、最近になって思うのです。きっと麒麟である私が考えているそれらと、皆さんが現実使っている言葉の意味は違うのだろうな、と」

いやに真剣味を帯びる泰麒の言を、驍宗は静かに聞いていた。
然もありなん。恐らく、泰麒の思うところは正しいだろう。
麒麟は善の生き物だ。
天が地上に遣わした神聖なる存在。各国に一体ずつ下り、王を選ぶ。
彼らには雌雄があるが、子を残すことはできず、番にもならない。
麒麟が他者に恋い焦がれるなど今のところ聞いたこともないし、必然、人間と比べれば、恋情や肉欲も薄かろう。道理だ。

「考えたら、私は誰か、女性に特別な想いを寄せたことはありません。ここで言う"特別な想い"の感覚も、皆さんと合致しているのかも分かりません。ですが、親愛や敬愛とは、きっと違うんだろうなと思います。私には、それらが本当の意味で分からないかもしれませんし、きっとこの先も得られないでしょう」

恋慕や情愛が麒麟にもあったとして、それらはおそろしく美しく清らかで、尊いものに違いあるまい。
一点の汚れもないような、清んだ美徳としての感情であって、肉欲色欲などには至らない。

「けれど、恋慕や情愛は善いものだと思っています。それらが実って、驍宗様にご縁があれば素敵なのにと思っています。…他の方とは多少認識の違いがあるかもしれませんが、いずれにせよ、人にとって悪いものではないのでしょう?」
「悪いものではないだろうな」

泰麒の問いかけに、驍宗は頷いた。
悪いものではない。そう答えた主に、泰麒はどこかほっとした顔をした。
それも束の間。

「だが、私は妻は持たん」

続けて断言され、泰麒がその表情を曇らせる。

「何故です?」
「戴が私という王を失い、次の王が起った時、扱いに困るからだ」

はっきりと告げる驍宗の言葉は、ますます泰麒の顔を曇らせた。
永久の王は有り得ない。
長く続く王朝はあるが、永久はない。
記録に残る最長の王朝、そのくらいまでは歩んでやるという気概でいるが、何らかの理由で道を外れることもあれば、命を終えることもあるだろう。広い意味ではそれが王と王朝の寿命であり、やがては潰える。
驍宗は自我が強いことを自負している。
故に、正しいと思って歩む道が、誤っていることもあるだろう。
仮に泰麒に病が出た場合は、即座に己の首を落とす覚悟もある。
必ずや麒麟を遺し、次の王を早期に見つけさせる。遺言のように言ってやれば、この健気で強かな黒麒は全力で次の王を捜すだろう。酷だと思うが、必ずそうさせる。
今回のように、空位が長く続き民が虐げられることを思えば、己の命を早期に投げ打つ方が、余程良い。
さて、その時に前王の妻や子が遺っていたら、どうなるか。
断言しよう。必ず、一悶着がある。
本人たちにその気は無くとも、周囲が勝手に派閥争いを始めるだろう。そうでなくとも、扱いに困るはずだ。いる、いないで言うのなら、いない方が手っ取り早い。
幸い、驍宗は独り身だ。
泰麒と会う以前に妻や子がいれば話は別だが、独り身で王になった以上は、もう持たない方がいい…というのが、驍宗の考え方だった。
己の玉座だけでなく、戴の未来まで見通し考えている。
だが、それでは驍宗は戴の礎になるばかりだ。尽くして尽くして、そればかり。
王も麒麟も、そういう天啓の下にある。呑み込んでいるつもりでも、麒麟は王の安寧を願う。
良き王だ。良き国になるだろう。
この王朝は永く続く。
だからこそ、驍宗が"次"を考えていることが、泰麒には苦しい。
真に戴のことを思えばこそだということは分かっている。
驍宗の考えを理解してしまうが故に、泰麒は苦い顔を作った。

「そうならない為に、驍宗様の御心が癒やされる場所と人が必要だと思うのです。誰かいませんか?」

本気で案じているらしい泰麒に、驍宗は笑った。

「信頼できる仲間がいる。十分だ」
「ですが、彼らの前では"王"でなければならないでしょう? 息抜きの場所としては弱いのでは?」
「…やはり誰かに言われてきたな?」

返事はない。労るような色が瞳の奥に見える。
驍宗は肩を竦めた。その通りではあるだろう。
本当に疲労した時は、一人の方が楽だった。静かな部屋で目を伏せているか、夜に無心で剣を振るっているかのどちらかの方が、心が安まるのも事実だ。
その時間が増えるに連れて、確かに驍宗の気持ちは内側に折り込んでいるのかもしれない。
己を振り返りながら手摺りに背を預け、腕を組んだところで、ふと驍宗は泰麒を見た。
驍宗が答えないと決めたら答えないことを知っているせいか、案じてはいるが、元よりあまり深く問うつもりはないらしく、泰麒はもう海の向こうを見ていた。
どうやら答えを得ることを諦め、思索に入ったようだ。
邪魔してやれ、という多少の悪戯めいた気持ちもあって、驍宗は彼へ声をかけた。

「お前はどうだ?」
「私ですか?」
「そうだ。嵩里にとって、最も心安まる息抜きの場、若しくは、人。私たちは、周囲に人が居ることが多い。立場上仕方がない。だが、独りの方が気が楽なこともあろう」
「私は…」

泰麒は一瞬言葉を止めた。
しかしそれは一陣の風が吹いて揺らいだ横髪を押さえただけで、風が通ったら真っ直ぐ驍宗を見返す。

「私は、麒麟ですから。驍宗様が健やかな姿が臨める場なら、何処でも」
「なら、今は気が休めているのか?」
「…と、思います」

実際、今この瞬間、泰麒の気は楽になっている。
周囲の者達は好ましい。しかし、気を使うこともある。
…いや、気を使わなくとも、驍宗と二人きりの時と比べれば、また違う。
皆が席を外し、一時驍宗と二人になる瞬間が、日常の中で泰麒の息つく時で、更に言えば、今のように驍宗と二人で短い会話を交えることで安心する。
驍宗が戴王として、"彼本来の志と人となりを持ってそこにいる"。
それを傍で見ることが、泰麒の心を最も安くさせる。
今、泰麒にはこの場の空気が澄み切って感じる。体が軽く、心も安い…ような気がする。
泰麒の答に、驍宗は気が抜けたように、目を伏せて笑った。

「私もだ」

言って、露台に寄りかかったまま、天を仰ぐ。

「嵩里とここに来て分かった。私は、どうやら疲れているようだ」

泰麒と雲海を見に着て一息吐いた途端、どっと疲労が驍宗の体に乗ってきた。
それまでは、本当に平気だと思っていた。周りが言う程、自分は疲れていないと思っていた。
だが、物静かなこの麒麟と美しい雲海を見て、すっと胸が晴れた。深く息を吐けた。
ああ、今まで自分は肩を張り、息が詰まっていたのだ…と分かる。
意外そうに、だが、静かに泰麒は聞いていた。

「根詰めすぎるのは、古くからの私の悪い癖だ。私は、己を視るのが下手なのだ。これからも気付いたら、諫めて欲しい。…嵩里」

上げていた顎を引き、改めて、驍宗が泰麒を見る。

「私に妻は要らない。…私たちは、互いに良き息抜きの場になろう」

泰麒へ右腕を伸ばす。
何を言われたわけではないが、殆ど無意識に泰麒が一歩踏み込んで、その掌へそっと左首を寄せた。
少年の白い首を撫でてやると、騎獣が甘えるように目を伏せ、掌に皮膚を寄せてくる。
麒麟を騎獣に例えるなど、王たる者が不徳だ…と、驍宗は静かに自笑した。


双璧の双安



遠巻きに控えていた近衛に、文官が歩み寄ってきた。
どうやら、彼らの予想よりも長い休息であるらしい。時間がかかるから息抜きでもと追い出されたとはいえ、そもそも今は職務中ではあった。
戻ろう、という驍宗に従い、泰麒もその背を追った。
露台から通廊へ。数段の石段を降りる。
あと二段を残したところで、先に降りきった驍宗が振り返り、徐に片手を泰麒へと差し出した。

「仕事が残っている。だがあと半刻程したら、休憩にしようと思う。付き合ってくれ、嵩里」

はい、と答え、泰麒は段を降りるのにもう必要のないはずのその手を取った。
残りの二段を、その手を支えに無垢な幼子のように飛び降りる。大人びた、怜悧なこの黒麒には珍しい。

互いに微かに笑い合い、戴の王と麒麟は内へと戻った。



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驍宗様が戻ってきて良かった…。
しかも騎獣が色違いのお揃いになりましたね!
泰麒ちゃんの幸せを願っています。
2020.1.12





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