その実、俺は幸運なのだと思う。
誰よりも先手で研磨に会えた。
最近、その事を妙に意識する。
「研磨に頼んだら、五球で逃げられた!」
さり気ないチビちゃんの発言に、内心ぎょっとした。
マジか。
あいつ上げたか。
驚けば驚く程、意外に思えば思うほど、喰えない性格の性分として平然を勝手に顔が装う。
「あいつが五球あげただけでもすげえぞ」
にやにや笑いながら言ってみる。
本当は、そんな笑えた話でもなかった。
「…おい」
割り当てられた部屋に戻って、片隅の布団でさっさと寝ている研磨を片足で突く。
電気もまだ付いてるし、他の連中は風呂上がり後のざわざわ時間だってーのに、とっとと一人だけ布団の中。
暫く呻ってもぞもぞしてから、ようやく研磨はぼんやり目を開けた。
かったるそうに俺を見上げる。
「…なに」
「チビちゃんの自主練に付き合ったんだって?」
「…?」
寝惚けちゃいないだろうが、研磨は俺の言葉にピンと来なかったらしく、そのままゆっくり瞬きした。
少し考えて、また布団に仰向けに寝っ転がったまま、俺を見上げる。
「ああ…うん。すぐ止めたけど…。翔陽がおれのボール打ちたいって、服ひっぱるんだもん…」
「にしてもお前、五球ってねェだろ。練習になんねーって」
「だって眠かった…」
うとうとしながら、手元の布団を研磨が緩く握って抱く。
…眠そうだな。
まあ、いつもの練習よりやっぱハードだしな、合宿。
それに、人がたくさんいる。
いつもの十数倍。
研磨本人に自覚はねーようだが、周囲に人間がたくさんいるだけで、どうやら無意識に情報を収集しているとこがあるらしい。
誰は何が得意で、誰と誰が仲がいい。
誰かさんは××が好きで、誰々はなんちゃらのサーブが得意でこれこれこういう状況下が出来上がった時に左のコースに打つ確率はだいたい何%でその状況下をつくるにはこういう準備が必要だからその為にはまず――。
…なんて、勝手に動き出す頭を持ってりゃ、そりゃあ疲れるだろう。
他人に興味持つのが嫌いじゃない奴はいいさ。
だがコイツは真逆だ。
自分の意識の矢印は懸命に内側内側へと折り込んでいるのに、広いアンテナは外の情報を無条件に拾ってくる。
横で立ってたのを枕元に屈んで、眼を伏せてしまった研磨に片手を伸ばす。
髪を撫でると、洗ってドライヤーしたそれはふんわりしていた。
気持ちよさそうに目を伏せる顔を見るのが好きだ。
だが、今日ばかりは、なんかみょーに痛い。
「…。チビちゃん、好きか?」
「…」
研磨の髪を撫でながらぽつりと聞いてみる。
何かを察したらしく、寝に入りそうだった研磨はまたぼんやり目を開けて、じっと下から俺を見た。
「なにそれ…。嫉妬?」
「んー…」
下から投げられる問いかけに、無関係の窓の方を一瞥して少し考える。
微妙なんだよなー、そこ。
研磨が懐けるようなダチが外に出来たっていうのはすげーいいことだと思うし、しかもバレーやってる奴だし、チビちゃんは勿論悪い奴じゃねーし、こいつに欠けてる熱いのとか持ってるから、些細だが思った以上に刺激をもらってる。
チビちゃんと研磨が仲いいのは悪くない。
それに、俺自身は全然揺らいでない。
研磨が誰かと多少仲良くなろうと、他の奴にこいつをかっ攫われるようなヘマはしないし、隙間も用意してない。
俺とこいつとは、たぶん今更揺るがない。
奪われる心配はしていない。
嫉妬とは微妙に違う気がしている。
…が。
「嫉妬っつーか…パラレルワールドを考える」
「なにそれ」
「んー。絶対ェ言わねー」
「…あっそ」
「いいから。…で?」
ぼふ…と頭の上に乗せていた掌を一度浮かせ、こしょこしょ指先で寝ている研磨の右耳を弄って擽る。
うざそうに研磨が俺の手を払い、布団を口のところまでかぶりなおす。
「翔陽はすきだよ…」
「ま、そーだよな」
「うん…。…もう寝ていい?」
「おー。しっかり休めよ。…起こして悪いな。やすみ」
「ん…」
もう話は仕舞い…と、ぽんと顔を叩く。
叩いた俺の手が引っ込む直前、研磨が少しだけ首と顎を上げて俺の指先に鼻を寄せるような仕草をした。
実際、引き上げた指先に研磨の鼻先が追いつくはずはないわけだが、人の手を追うような、名残惜しむようなその仕草を可愛いなと思う。
今日は"可愛い"止まりだ。
欲情には発展しないんだから、やっぱちょっと調子が狂ってる気がする。
体調が悪いか、テンションが落ちてるか。
…ま、後者なわけだが。
「…」
研磨の枕元から立ち上がって自分の布団へ戻る。
他の連中は済ませたようだが、俺は今から風呂だし。その準備だ。
「…おい。クロ」
がさごそ荷物を漁っていると、隣の布団で携帯を弄っていた夜久が、胡座をかいたまま俺に声をかけた。
ちらりと横を見る。
「あ? 何?」
「何かあった?」
「…? いや、別に。何で?」
ワザと"は?"みたいな感じで言うと、夜久は気のせいかと思ったらしい。
何か違和感感じたが、何でもないならいーや…とか言って諦めてくれたんでほっとする。
…やだなー。
コイツそーゆーの敏感なんだよなー…てか、ウチのチームそーゆーの得意な奴多いし。
コイツらは大切な仲間だが、弱みはあまり見せたくない。
人に心配されるのは昔から苦手だ。
…つーか、一応主将とか言ってる柱が弱みとかそう簡単に見せるもんじゃねーだろ。
見せるとしたら、その時その時で適した相手を、必要最小限で選ぶ。
夜久を信頼してないわけじゃない。
今は違う。
それだけの話だ。
「風呂行ってくるわ。お前ら疲れ溜まってんだろーから、寝たい奴からしっかり寝とけよー」
後半、声を大きくして連中に言うと、ウィース!とか適当な返事が返ってくる。
一人で部屋を出た。
研磨が、チビちゃんにせがまれてボールを上げた。
自主練嫌いの研磨が、自分の時間を割いてボールを上げる。
天秤の片方に睡眠とかゲームとか面倒臭さとか疲れただとか、そんなものをどかどか積み上げてあったとしても、チビちゃんの「ボールあげて!」の一言が重かったわけだ。
…まあ、実際そこはボール五球分だったわけだが、重要なのは球数じゃない。
"チビちゃん"で研磨が"変わった"ことだ。
今まで俺が首根っこ掴まえて強制的にやらせない限りは自主練なんて一切しなかった研磨が、他校の選手の一声に反応して自主練に参加した。
…。
(…山本ん時もあったな。このザワザワ感…)
研磨が突如金髪に染めた時と、感覚が似ている。
染めた事自体は別にいい。
"なんとなく"とかいう理由だったら感じなかったであろうザワザワ感は、髪を染めた理由が前日の山本との会話だったと知った時から始まった。
…人は、人との出会いで変わってく。
当然だ。
研磨がいかに他人が苦手で小さく閉鎖的になっていようがいまいが関係ない。
小さければ小さいなりの変化が入ってくる。
これも、変化自体はどうでもいい。
どんなに他人との出会いで研磨が変わろうと、俺らは揺るがないだろう。
だが、それは先に俺と会っていて、俺のカゴができあがっていたからで…。
仮に、俺と会う前にチビちゃんと会っていたら"どうだっただろう"――?
さっきから気になってるパラレルワールド。
もし、俺よりも先にチビちゃんと会っていたら、山本と会っていたら…。
研磨は、きっと今とは随分違うタイプの奴になっていたんじゃないだろうか?
…特にチビちゃんだ。
研磨の性格はたぶんあのままだろうが、もし俺と会う前に、クラスメイトとかにあいつがいたら。
積極的で意欲的で、バレーが大好きでもっともっとと高く跳ぶ。
空だけ見て、前だけ見て、必死こいて。
小さな翼で高く速く飛ぶその黒い鳥を、きっと研磨は本来軽いその四肢で、前を行くその黒い影を見ながら追って走れた。
チビちゃんと俺は真逆だと思う。
俺は研磨の前を歩く。
けれど、いつも距離を気にする。
常に研磨が追って来られる距離を保って歩いてきた。
急がなくていい、慌てなくていい。
ついてこられる距離を気にして、時々離して見せても絶対追いついてこられる距離を用意して歩いてきた。
歩き癖のついた俺の通った路を、歩きやすいように見せて歩かせてきた。
そうやって、ゆっくり寄ってくるのを傍で見ていた。
だが、チビちゃんは違う。
接する機会なんてちょこっとだが、その少ない機会でも分かる。
あいつは、結構クールだ。
月島とかいうあの一年に対する態度だって、ちょっとしたもんだろ。
いつも自分が本気だから、本気じゃない奴のことを待たない。
"アイツはアイツのペース、俺は俺のペース"で割り切って先に行く。
もし、こっちに来いと手を引く相手がチビちゃんで、チビちゃんと一緒にいるのが研磨も好きで楽しくて、しかもそのくせ自分を待ってはくれなかったら…。
研磨は、チビちゃんの為に努力する奴になっていたかもしれない。
他の奴だったら、きっと、研磨は今頃――。
…。
「…あ?」
ふと我に返る。
目の前に、明らかに裏口っぽい寂しいドアがぽつんとあったからだ。
今歩いてきたとこを振り返る。
少し手前に、風呂場の引き戸があった。
「…おおおー」
目的地に気付かない…という分かり易い放心状態に自分で感動しながら、のこのこ数歩分戻る。
風呂場のドアを開けると、中はがらんとしたものだった。
各校の主将連中が来ているかと思ったが、いなげ。
…ま、その方がゆっくり入れるけどな。
特に木兎とか超うるせー。
あいつも大概メンバーにちやほやされて育ってっからな…。
梟谷の連中の朝とかすげーからな。
夜型で朝弱い木兎に対して、あれしろこれしろなにはまだでそれはやったか等々。
面倒見良すぎだろって話。
…荷物をカゴに置いてティシャツを脱ぐ。
脱いだところで一部の指にしていたテービングを思い出し、剥がしにかかった。
うまく取れず、苛々する。
「…」
自然と舌打ちが出たところで、苛ついてる自分に気付いて両肩を竦めてため息を吐いた。
…いやいや。これしきのことで何苛ついてんだっつーの。
自分のペースが崩れることは好きじゃない。
軽い自己嫌悪に浸って、ぼんやり動きを止めていると、ガラ…と風呂場のドアが開いた。
誰か来たらしい。
ちらりと横目で見て、暖簾をくぐるって来る奴が誰なのか把握しようとして…入ってきた顔に驚く。
「…。研磨?」
「…ねむい」
目を擦りながら、俯き気味でたらたら脱衣所に入ってきたのが研磨だった。
おいおいどーした…と思ったが、その手に持っているものを見て瞬時に納得する。
掌上にして、片手を研磨に伸ばす。
「悪ィ…。忘れてた?」
「忘れてた…」
ぼやー…と寝起きのテンションのまま、手に持っていた俺のチューブ型の洗顔料を俺の掌に置く。
荷物から取り出して一旦畳の上に置いた記憶はあるんだが、そこで置いてきたらしい。
届けてくれたというわけだ。
だが、あの時寝に入っていた研磨が自主的に起きるなんて奇跡が起こる訳がない。
「誰に起こされた?」
「夜久」
さらりと研磨が答える。
ですよねー。
お節介で面倒見のいいタメの様子が想像に易すぎて、思わずにやける。
「わざわざサンキュ。悪いな。戻って今度こそ寝ろ」
「うん…。…。…ていうかさ」
「ん?」
「おれ、ちゃんとクロすきだから」
寝起きのぼんやりした口調で、ゆっくり瞬きしながら研磨が今にも寝そうなローテンションで言う。
「なんか、あんまり心配しなくていいよ。…嫉妬じゃないらしいけど」
「…」
「確かに、翔陽と先に会ってたら分かんなかったけど…。"もしも"とか、止めた方がいいよ。いつもそっちの方が良さそうに見えちゃうし、無駄なこと考えるし。…おれ、ちゃんと翔陽と分けてクロすきだけど…なに。不安になるの?」
数秒、固まる。
とはいえ、ここでも喰えない性格が表れる。
俯いて、首の後ろを掻きながら喉で短く笑った。
「…んなふらふらうとうと加減で言われてもなぁ」
脱力気味に苦笑しておく。
受け取った洗顔をカゴの横に置いて、何気なく爪をかけたテービングはすぐに外れた。
…外れたテーピングを丸めて、洗顔の横に置く。
手を棚に置いたまま、立ったまま寝てそうな研磨を向いた。
「んー…。…じゃ、キスでもするか、研磨」
「しない。帰って寝る」
「ノってこいよオイ」
ふら~と方向転換して、猫背でぽてぽてドアの方へ向かう背中がいつものように素っ気なくて安心する。
苦笑いしながら、その背中にもう一声。
「んじゃーハグ」
「…」
ハグに方向転換すると、研磨が足を止めた。
ヤラシー意味じゃなく、ただ抱き合うってのなら好きなはずだ。
面倒臭そうに目元を擦りながら、それでも数秒考えて俺をじっと伺うように見る。
「…。止まる?」
「止める」
「絶対?」
「絶対」
「…」
「ヘイ、カモン」
パンッと一度両手を打って、そのまま左右に緩く広げる。
にやにやしながら待っていると、更に少し考えてから、やる気無く戻ってきてそろりと俺の腕に入ってきた。
ぽふ…と人に軽くぶつかるようにして、お前そのまま寝る気だろっつー感じで入ってきたその体を、きつくない程度に緩く抱き締める。
俺が本気でこれ以上進まないというのが直感的に分かるのか、研磨も積極的に擦り寄ってくるし。
さり気ない、ふわっとした嬉しそうな顔が死ぬほど胸にくる。
「…」
「気持ちいいか?」
「ん…。ふわふわする…」
「はは。かーわいー」
肩を抱いたまま、その指先で研磨の右耳を後ろから擽る。
指の背で頬を撫でてやろうと一度耳から手を離すと、体から浮いた俺の手にぴくんと反応して、研磨が胸んところから真上に俺を見上げた。
「…。おわり?」
「…」
無表情。
けど、残念そうな空気とかだだ漏れですけど。
呆れて、研磨を見ながら一度浅く溜息を吐く。
これで"待て"とか…普通は無理だから。
今日はやらんけどね。
ぐったり、気が抜けて脱力する。
「はあ…。ホントドSなー、お前」
「は? なんで。Sはクロじゃん」
「いーや。絶対ェお前だから」
「意味わかんない」
一度皮膚から離れた指の背で、頬を撫でてやってから抱き直す。
両肩を少しあげて気持ちよさそうに縮こまる研磨の髪の間に鼻先を埋めた。
…慣れた匂いと温度に、胸が痛くなる。
腕の中の存在。
何処へも逃がすつもりの無い、可哀想な可能性の塊。
…お前と誰よりも先に出逢えて良かった。
お陰でこうして、俺程度でも閉じ込められる。
翼の無い俺の隣にいる限り、こいつに翼は生えない。
お前は猫。
飼い猫だ。可愛い家猫。
元は野良だったかもしれない。
けれど、今は温かい、安全な屋根の下。
せいぜい窓越しに、高く飛ぶ小烏と遊べばいい。
上を舞う、チラチラする黒い影はお前にとってそれはそれは興味深いものだろう。
…けれど、お前は飛べない。
ここからは出られない。
「…」
目を閉じて、薄く開いた口で息を吸う。
少し、泣けてきた。
俺は幸運だったのだと思う。
この幸運に感謝して、箱庭の鍵はいつだって責任を持って締めておく。