肌寒くなった十一月の夜。
ぼちぼちに混み合う駅の改札前。
柱に寄りかかって、ぼんやり立ったまま電車が到着するのを待つ。
おれもう部活引退したから、学校終わって一旦家に帰ったから私服だ。
…けど、たぶん…ていうか、向こうは絶対制服。
学校が離ればなれになってから、久し振りに会う。
何の話するかな…なんて、今日の話題を考えるくらいに久し振り。
前は、話題考える必要なんてなかった。
三年前の、小学校と中学校で、離ればなれになった一年を思い出す。
「…お」
「…」
やがて乗っていたらしい電車が到着し、改札の向こうの段階で、クロが軽く片手を上げる。
おれも軽く手を振った。
けど、その身を包んでいる高校の制服姿はまだ見慣れない。
略服の、学校指定のセーターは紺色で、タイも中学のよりは格好いい。
おれもブレザーだし、クロも一年前までは同じの着てた。
服が変わっただけだけど、それだけでやっぱり何か違う。
改札を通って、真っ直ぐクロがこっちに歩いてきた。
「よー。おひさー」
「うん」
「お迎えご苦労。悪いな」
「別に。…おばさんたち旅行行ってるから、今日ご飯うちで食べるんでしょ?」
「ゴチになりまーす」
おどけて、クロが言う。
クロの家族は、今日は旅行。
だから晩ご飯はおれんち。
「クロが来るからさんまだってさ」
「マジか。流石おばさま。愛してる」
「腑のとこあげる」
「そこがうまいだろーが。ちゃんと食えよ。だがもらう」
「あげる。おいしくない」
「まだまだおこちゃまだな~、研磨クン」
合流してどちらともなく歩き出し、夜の住宅街へ出て行く。
東京って行ったって、都会もあれば田舎もあって、おれたちの家がある場所はわりと静か。
駅から普通の道通って住宅街抜けるのもあるけど、昔から、何となく川沿いの方に出て、川沿い歩くルート気に入ってるみたいだから、今夜もなんとなく爪先はそっちに向いた。
朝とか、ランニングしてたり犬の散歩してたりするそこまで高くない土手道を、てくてく歩く。
「…それ。制服、楽そうだね」
「あ? …ああ、これな。まあな」
「バレー部どんな感じ?」
「あー。…んー。正直微妙かもな。監督がやっぱ違ェし」
「あれ? 目当ての監督は?」
「言ってなかったか? 辞めちまったんだと」
「へえ…。なんだ。じゃあそこじゃなくてもよかったね」
「タメはいい奴多いぜ。先輩らも割と強ェっちゃ強ェんだろうが…まあ、ちょっと様子見だな。どんな感じか。それにやっぱ、自分でやり出さなきゃどーのこーの言えねえだろ。部員数多いからな。さすがにいきなりレギュラーとかねえし。うずうずする。…ま、二年までには意地でもなってやるけど」
「…。今日さ、三者面談あった」
言おうか言うまいか迷って。
やっぱり、言っておくことにする。
ぽつりと呟くと、クロは興味深そうな顔でおれを見た。
「へえ…。ちょっと変わった時期だな」
「特別に呼び出された」
「おやまあ。そりゃまたどーして?」
「進路変えろって」
「ドコへ?」
「開成」
言うと、クロが吹き出す。
隣で一頻り笑ってから、にやにやと改めておれを見る。
「さっすが研磨。…で?」
「別に。変えないよって言って終了。母さんもそれでいいって」
「担任キレてね? 学主とかも出てくんだろ」
「なんか勝手に騒いでる」
最近鬱陶しくなってきた担任の顔を思い浮かべ、小さく息を吐く。
おれの進路とか、あの人に関係ない。
今年度が終わったら、先生とか完全無関係な赤の他人だし。
たまにやたら先生と仲良くなる子とかいるけど、その人が学校という一定期間が終わってもおれの人生に必要なのか不必要かはこっちが決めるし。
「母さんちょっと担任に怒ってた。おれが志望校決めてるんだからぐだぐだ言うなって」
「ふはは。俺ん時は逆にお袋にもっといいトコ行けって怒られたな。"絶対に研磨が後を着いてくるから、研磨くんの為に少しでもいいとこ行っときなさい!"…ってな」
「…で? いいとこ? 何だっけ、名前。ねこの学校」
「音駒。受ける学校の名前くらい覚えろ。…バレーは強ェよ。偏差値もそこそこだしな。両方天秤にかけて、総合として近隣の高校で一番高い。上等だろ」
「ふーん…」
「あーもー絶対ェ春高出ようぜ、春高。俺とお前で」
にっと笑いながら、無邪気にクロが言う。
裏も表も無い。
小さい頃テレビで男子バレーの世界大会見てから、ずっとクロの夢。
邪魔なショルダーバッグを背中に回し、両手の親指と人差し指でフレームを作って、クロが正面にそれを突き出して片目を瞑る。
「こうな。トロフィーと賞状持った並んでる写真に写るわけよ、俺とお前が。青春の一ページ的に。俺が主将になれば、春高ともなればインタビューあるんだぜ。そこで言うわけだ。"長い間、俺とこいつの夢でした。それが叶って嬉しい!"ってな」
「テレビとかラジオとかやだけど」
「付き合えよ、そん時くらい。かぶれるところはかぶりまくって、人生遊び倒さねーと損だろ。…ま、大学までは問題なしだろうがな」
当然みたいに言う。
真っ直ぐ前の夜を見つめながら、真横でただ聞いていた。
…まあ、いいけど。それでも。
「お前、行きたい大学あるなら先言っとけよ。そこ行くし」
「先に受けるのクロじゃん。クロの好きでいいよ。…けど、そこから先は難しいんじゃない? 就職まで一緒って厳しいと思う」
「あー。確かにな。…ま、ダメだったら裏技を使う」
「裏技何?」
「恋人になる」
さらりと一言。
流石にちょっとびっくりして、瞬いた後にようやく隣を歩いているクロを見上げた。
…全然普通の顔をして、冗談めいてクロが首を傾げおれを見下ろしている。
「どうよ。裏技」
「裏技過ぎる」
呆けるようにぽつりと呟くと、またクロが笑う。
それから、片手でおれの髪をくしゃくしゃと撫でた。
空気が冷たいから、クロの大きな掌があったかくて、顎を引いて目を伏せる。
…びっくりしたけど、でも、冷静に考えるとそれが一番楽な肩書きで理が通る気がした。
因みに、おれの恋愛スキルはレベル零。
恋愛感情自体、話聞くだけで鬱陶しそうで、全然魅力を感じない。
初恋もまだだし、別にしなくてもいいと思ってる。
…ていうか恋愛っていうキモチの状態がよく分からない。
「…ねえ。恋人的に"好き"ってどーゆー感じ?」
「あ? …ふーむ」
おれの頭に置いている手とは反対側の手で、それっぽく顎に手を添える。
「そーだな…。ま、気持ち的にはそいつと何時間いてもいたりないとか、一緒にいて気が楽とか。同じ場所に自分がいるのに他の奴と喋ってると何か気になるとか。あとはスッゲェ疲れた時に顔見たいとか。肉体的にはキスとかが生理的に無理じゃねーとか、その程度じゃね? 抱けるか否か。あとはホルモンか。匂いが無理じゃねえ奴…かねえ? 体臭は結構インとアウト分かりやすいけどな」
「へー…。案外ハードル低い」
「だがそのハードル飛び越える奴がいねえんだろ?」
「うん。他人とか、どうでもいい。極力人と一緒にいたくない。めんどくさい」
「ん」
そこでクロが自分を指さす。
…。
…ああ、うん。
今更ここでめんどいとかそういうのは、確かに無い。
匂いとかも平気。
寧ろ家とかでごろごろしてる時、寄りかかって寝るの好き。
クロの背中は広くてあったかい。
暖かい日のひなたっぽい。
「まあ…クロは平気だけど」
「あー。じゃあ裏技使えますねー。その気になりゃ」
「でもおれがよくてもクロがダメだったらダメじゃん」
「別に。俺平気。…つか、たぶんお前より俺のが裏技使える」
「何それ。告り?」
「つーか伏線?」
「伏線ていうか予防線っぽい」
「うわそれ心外だわ」
「だって予防線じゃん。クロもてるんだから、ハードル越えてくる子たくさんいるでしょ」
「…っぽく見えるだろ? ところがどっこい、やっぱりそう簡単にいねえもんなんだよなあ」
「…今のどっこいって何」
お互い軽いテンポでそんな会話をしながら歩く。
クロはどうか知らないけど、その実おれはこのタイミングで沈黙になるのが何でだかとても嫌で、敢えてそうした。
…けど、そんなことしても限界はあるわけで。
会話が一段落着いてしまった。
…。
なんかやな予感がする…。
ぼんやりそんなことを思いながら、ちらりと土手下に広がる住宅地のほそぼそとした灯りを見下ろす。
もうすぐ家だから。
それまで何事もない方がいい。
もし今この流れでクロが妙なこと言ったら――…。
「…!」
ぼんやりしているところ、不意に頭が揺れる。
ずっとおれの頭の上に置いていたクロの手が、ぐわしとボールを掴むようにおれの頭を掴んで、住宅地の灯りを遠目に見ていたおれの顔を自分の方に無理矢理向かせた。
灯りがなくなる。
クロの後ろにあるはずの川は、真っ暗で何も見えない。
微かな星の灯りだけ。
そんな光源の中で、クロがいつもの感じで笑う。
「試しに、キスでもするか? 研磨」
「――」
突然の落下感。
――"落ちる"。
なんでか、唐突にそう思った。
たった数秒の実験にして証明。
世界ががらりと角度を変える。
人の世界を勝手に変えておいて、「な?平気だったろ?」と得意気に笑うクロに少し苛っとして、片手でべしっと一発その腕を叩いておいた。
そのままべしべし叩いて、両手でぐぐっとクロを向こうへ押し出す。
おれに押され、クロは笑いながら歩道から少し外れて一度土手の斜面に片足突っ込んだが、またすぐ歩きながら上ってきた。
自然な動作でいつものように頭を撫でるその手が、ついさっきまでと微妙に違う。
ふわっと軽くて、背中がぞくぞくくすぐったい。
小さな痺れが走る。
変な感じ。
なんか変だから振り払おうといよいよ上げたおれの腕を、ついさっきまで笑っていたクロがぐっと引っ張る。
勢いよく抱き留められた先が、狭くてあったかい。
…クロにこんなにぎゅってされるのは何年ぶりだっけ…と、思わず胸の中で年数を遡った。