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最近、寒くなってきた。
まだ見えにくいが、今日も僅かに息が白い。
朝練がある毎日では、既にネクマが欠かせなくなった。
電車やバスの待ち時間に本が読み難くなるから、手袋はもう少し先延ばしにしたいが、いずれは読書よりも防寒を優先する日が来るだろう。

いざその日が来た時を想像するだけで、我ながら大袈裟な感情描写だが、何だか死ぬなら今なんじゃないかと思うことがある。

硝子生花の恋情




ドアが閉まり、一本、電車を見逃す。
あと十分後にもう一本来るからいいけれど、次に来るその電車が朝練に間に合うギリだ。
間に合わなかったら置いていく。
それは仕方がない。
ため息も吐かず、淡々とポケットから携帯を取り出す。
アドレスを呼び出す必要もなく、着信履歴から開いてくる。
通話で呼び出して耳に添えると、間もなく繋がった。

「――木兎さん。おはようございます」
『オ、オオオーッ!!』

些細なノイズ。
携帯の向こうで、ガコガコガコとバッグが揺れ動いている音がする。
荒い息の間からの声は焦っていて、いつものことながら、よく朝練前にこんな加重ランニングをする気になるなと感心する。
少しだけ早く起きる方がずっと楽だろうに。
けれど、そうやってこの人は無自覚に動いていて、こうやって今の基礎体力などを手に入れたのかと思うと、ぐるっと一周して必要最低限の行動を常に考えて効率よくを目指し動いている自分が相当な愚か者にも思える。

「間に合いますか?」
『ぐぬぅっ…。間に合わせて見せるぅうう!!』

ギリだな…。
声の調子で実際間に合わない時と間に合う時がざっくり予想できる。
木兎さんは夜に強いから、朝が弱い。
夜中指定された時間に起きろ、というのであればびっくりするくらい元気よく飛び起きるくせに、五時とか六時とか、程々の朝は弱い。
更に昼はもっと弱い。
授業は半分寝ているようなものらしい。
留年してしまえばいいのにと思いはするが、これはたぶん口にしない方が正解だし、その為に意図的に動いてはいけないと思うけれど、なったらなったで構わない。
だが、それが叶うほどこの人は才能が無い訳ではないので、結局は詮無いことだ。
どうせバレーの強い大学に行くに決まってる。
そしていいセッターに出会うだろう。
そんなことは分かってる。

「次来たら、すみませんが俺は乗りますので」
『あかーし、ヒデェ!』

"ガンッ!"という擬音が似合う声。
残念がる声が嬉しいのと同時に、どうせ一緒に登校できれば誰でもいいのだろうと冷ややかな自分がいて、こういうところが厄介で疲れる。
自分が面倒臭い。
一瞬の間に色々葛藤した挙げ句、

「間に合うといいですね」

今朝もお決まりの、無難な言葉を吐いて通話を切った。
通話してる間に五分が経過してしまい、喋りながら走らせてしまったことを後悔する。
気が利かなくてすみません。

 

 

 

 

五分経ち、律儀に電車はやってくる。
アナウンスが響き、いつの間にかまた増えているホームの人間はそれとなくざわつき始める。
都内とはいえ、早朝のローカルは普通に席も空いているしラッシュにはまだ早い。
人は疎らだから、来ればすぐに分かる。
そもそも、場所が改札からの階段下すぐ。
遅刻常習犯に合わせやすいいつもの場所に立っているし、何より木兎さんは目立つ。
だが、ちらりと見た階段上にはまだ姿は無い。
ゴー…と勢いよく電車がホームに入ってくる。

「…」

小さく息を吐いて視線を戻した。
さっきより息の色は薄い。
些細ながら気温があがってきたのだろう。
目に見えない、気づきもできない変化の連続はどこか怖ろしくて好きじゃない。
車内は通話ができないから、LINEで「乗ります」と送らなければならない。
ポケットから携帯を取り出しつつ、ぽっかり開いた電車のドアに乗り込む。
車内は暖かくて、寒暖差から少し皮膚が痒くなる。
わざわざ座席に座る程の距離を乗るわけじゃないんで、ドア横のポールに寄りかかる。
本の続きを読もうと、指を挟んで持っていた本を開く。
カバーのかかった本。
参考書だ。
笑えることに三年数学の。
木兎さんが苦手で、前回の期末は赤点ギリギリで大変だった。
補習なんてことで部活動削られるなんて致命的だ。
部内で先輩方が何とか赤点だけは免せろと、それぞれ得意科目をまるで専属家庭教師軍団の如く日替わりで木兎さんに教えていたようだったが、それが外から見ていて酷く効率悪く思えてしまった。
教え方は統一した方がいい。
あの人は決して頭がいいわけでなく、それを必要とせず本能で察するタイプの人だから、教え方…というか、自身で察してもらうには少しコツがある。
もっと効率よくあの人に赤点を免せる為に、何かできないだろうかと思っただけで読み始めた参考書は、多少難しいが思ったほど難しくなかったし、たぶん木兎さんより理解できてる自覚はあるから、次は俺も少しはフォローできる気がする。
本を開くと同時に、発車メロディが鳴った。
間延びしたメルヘンチックなその音階が鳴り終わり、ガコン…という音を立ててドアが閉まる――直前に、四本の指が、ガッ…!とドアに引っかかる。

「ふんぐっ…!!」
「…」

気合い入れの声と共に、あろうことかその見知った指が、ドアをこじ開けた。
…まあ、実際は彼に気付いた車掌がドアを開けたのだろうけれど。
再び音と共にドアが開き、長身が飛び込んできて周囲の人間がぎょっとしたり迷惑そうな顔をしたりする。
走ってきたからだろうか。こんなに寒い日なのに防寒具らしい防寒具は無く、勿論タイは外していて襟はひらいているし、あろう事かブレザーごと袖を捲っている。
…間に合ったんだ。
すごいな。
思わず遠目になりつつ、せっかく開いた本を閉じて、寄りかかっていたポールから背を離して立つ。
車内には『駆け込み乗車はお止め下さい』という露骨なアナウンスが響いている。
車内の人間がじろじろと張本人を見て批難しているが、残念ながらそんな無言の圧力など、この人には通じない。

「…。飛び込み乗車は危ないですよ」

いつだって口から出るのはそんな言葉ばかりだ。
前屈みになっていた体をそのままに、木兎さんが顔をあげる。
目が合うと、一気にぐわっと上半身を起こし、ぜえはあしながらも、いきなり両手を腰に仁王立ちをした。
にぃっと笑う無邪気な笑顔を見ると、何だか胸がいっぱいになる。

「見たか、赤葦!間に合ったぞー!!」
「よかったですね。…けど、車内では静かにした方がいいと思います」
「ふおっ…!」

自分の声の大きさに気付いたのか、ばっと片手で口を塞ぐ。
肩にかけたショルダーバッグを外しながらこっちに来たので、すぐに場所を退いてポールを譲った。
向かいのポールに移動してもいいが、どのみち先輩と一緒にいる時に何かに寄りかかるということはしないので、すぐ傍の吊革を片手で掴む。
荷物を足下に置き、どかっと背中をポールに預けた木兎さんが、尚も袖を捲りながら得意気に主張する。
見ている方が寒い。

「今日はヤバかった!新記録かも!」
「柔軟してからランニングじゃないと筋痛めますよ」
「あ~。あっち~っ」

聞いてない。
ぱたぱたと汗の浮いている喉元に風を送るようにシャツの襟を掴むので、後ろ腰に提げていたバッグからスポーツタオルを取り出して差し出す。

「どうぞ」
「お、サンキュー…って、冷てェ!」

タオルを受け取る時、俺の指の触れた木兎さんが悲鳴を上げて指を一瞬引っ込める。
…が、その後で、がしっ!と俺の手を外から掴んだ。
木兎さんの手はかなり熱い。
当然だ。全力疾走してきたのだから。
確かに、かなり温度差がある。

「え、何コレ。赤葦死んでる?」
「一応、生きてるはずですけど」
「いや!生きてるにしては冷たすぎるっ!」
「木兎さんみたいに乗り遅れそうで走るとか無いんで」
「手袋してねーの? …あ、本だな。本だろ? まーた読んでたな。俺はお前を根暗に育てた覚えはないぞっ!」
「はあ…。俺も育てられた覚えは無いですね…」
「あー…。でも冷たくて気持ちーわー」
「…」

ぎゅむぎゅむーっと機嫌良く手の甲から握られ、心中呆れる。
はあ…と溜息を吐いて、もう片方の手で木兎さんの手を離し、改めてタオルをその手に持たせる。

「汗、少し拭いておいた方がいいですよ。風邪引きます」
「おー」

素直に汗を拭き始めてくれたのでようやく落ち着ける。
平均的な朝だ。
学校に着いたら俺も柔軟して朝練に入るし、そうすれば握られた手以外の体も温まってくるだろう。
もそもそと本を曲がらないように気を付けながらバッグにしまい、息を吐きながらネクマの中に顎を収め直した。
…毎朝遅い木兎さんの為の"見張り係"。
先輩たちで順番に回していたらしいそれが俺で固定されてしまったのは、確かレギュラーになった頃からだったか。
けれど、それはずっと続くものではない。

「ほいよ。返す。サンキュ」
「はい」

タオルを受け取り、折り畳んで再びバッグにしまう。
顔を上げると、流れる窓の向こうを背景に、木兎さんがいかにも眠そうに大きな欠伸をしていた。
…。

「…最近、寒くなってきましたね」
「お?そうか? 俺、今あちーけど?」

些かの緊張感もなく木兎さんが脳天気に告げる。
そんな反応に苛っともしない。
この人はこういう人で、そのことをよく知っているはずの俺の今の尋ね方は、察してもらう気なんて無いに等しい。
大体、哀しむなんて馬鹿げてる。
音駒の部長のところみたいに幼馴染みだったらよかったというのか。
例え幼馴染みだとしても、あんなに上手くいってるケースは希だろう。黒尾さんが特別長けているんだ。
それに、現実に違うことを望めるような、夢見がちな思考は持ってない。
俺と木兎さんは、所詮"俺と木兎さん"だ。

「…」

ほんと、留年すればいいのに。
…けれどこの人は持ち前の自力で、難無く道を拓くだろう。

 

 

学校最寄りの駅で降りる。
いい加減、木兎さんは制服をちゃんと着た。
タイが曲がっているのが気になって直したくて微妙にうずうずするが、流石にそれは無いな。
気温が少しあがったのか、息はもう白くない。
けれどやっぱり指先は寒くて、手袋が欲しい気がする。
…春高試合が始まってる。
いずれ読書よりも防寒を優先する日が来るだろうその日に、先輩はもう朝練には来てない可能性だってあるわけだ。
春までいて欲しい。
冬を越して、ネクマも手袋もいらなくなる季節まで。
その為に極力負けるつもりは無いし、気持ちよくスパイクを打って欲しい。
俺の実力なんて高が知れているけれど、先輩を活かしている僅かながらの要素が自分なのだと思うと誇れる。
けれどどんなに勝っても勝っても、最後まで勝ち続けても、どのみち善いか悪いかで結末はある。

そこで思考が冒頭に戻る。
いざその日が来た時を想像するだけで、本当に、我ながら大袈裟な感情描写だが…。
何だか死ぬなら今なんじゃないかと思うわけだ。



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木兎さんと赤葦さん。
書き始めて意外だったのですが、赤葦さんが乙女…というか臆病になってしまう。
恋の幸せとかより現実的な可能性の無さに目が行ってしまう性分なのだろーか。
2014.12.26





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