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「あ、スーさんお帰りなさい!」

玄関に鍵を差し込んで回そうとしていたスーさんの後ろ姿を見つけ、遅れて庭先に飛び込みながら慌てて声をかけた。
もうスーさんが帰る時間だったんだ。
まだ空は明るいからすっかり油断してしまった。
あまり鳴かない花たまごが一足先にスーさんに駆け寄り、僕の声に気付いて振り返ったその片足に飛び乗って前足でたしたしとスラックスを引っ掻いている。
き、傷にならないといいけど…。
柵を閉めてポストを確認してから、漸く僕もその側へ到着する。

「ごめんなさい、遅くなっちゃって。ちょっとエストニアの所に出てまして…。あ、洗濯物は畳んでおきました!あと夕食も温めるだけなので、すぐ食べられますから」
「…ん」
「ダメだよ、花たまご。スーさんの服汚れちゃうからね~」

言い聞かせながら花たまごを掬い上げる僕の横でスーさんが家の鍵を開け、その瞬間冷たい風が頬を撫でた。
誰もいないでちょっと空けると、この時期家の中は凄く寒くなる。



「…あいっど、何がしちゅうが?」
「え?」

食後の一時。
火のない暖炉を中心に円上に並んでいる2つのソファのうち片方に座って、まだ時間があるクリスマス様の飾りを縫っていると、対になっているソファで本を読んでいたスーさんがぽつりと口を開いた。
…。
顔を上げて反射的に聞き返しはしたものの、あまりの珍しさに少しの間瞬いてしまって言葉が出てこない。
だ、だってあんまりスーさんから話を切り出すことなんてないし…。
数秒後、はっと我に返って慌てて質問にお答えすることに。

「え、えっとですね…。今度また新しいお祭りを作ろうと思って、色々相談してるんです。クリスマスも近いですから忙しくはなっちゃってるんですけど…」
「…。…そけ」
「…。あ、あの…。もしかして、ダメでしたか…?」

不機嫌とは言わずとも肯定的ではないような気がして、針を持つ手を下ろして恐る恐る聞いてみる。
ところが、スーさんはすぐに首を振って否定した。
膝に抱いていた花たまごを一度持ち上げると組んでいた足を組み替え、そのまま本のページを捲る。
後はいつも通りの沈黙。
いつもの反応と言えば反応だけど…。

「…」
「…」

ちらりと横を盗み見ても、普段通り。
…。
…ちょっと聞いてみただけだったのかな。
気を取り直して再び縫い物を続けつつも、どこか後ろめたさが拭えなかった。
…えーっと。
別に悪いことはしていないつもりだけど…。
ひょっとしたら、黙って出かけちゃったのがよくなかったのかもしれない。
行き先を告げなかったのが悪かったのかも。
若しくは、きちんと鍵は掛けたけど、やっぱり家を留守にするっていうのが良くないかな…。
色々と考え、結局、次の日からちょっとした改善を試みることにした。
取り敢えず、出かける予定がある時は朝食の時にさり気なく言っておこう。
遅くなる時も伝えておけば、家に帰った時に僕がいなくても驚かないだろうし。
…と言っても、予定と言えばエストニアとお祭りの相談くらいなんだけど。





「スーさん、あの…。今日も僕エストニアの所に行ってきますね。遅くなるかもしれませんから、夕食はまた作っていきます」
「…ん」
「花たまごも連れて行きますから、鍵はかけて出ますね。エストニアが一度見てみたいって言うんで…。あ、カップどうぞ。エスプレッソもう一杯如何ですか?」

翌日から数日間。
スーさんにきちんと伝えることを始めた。
朝食の時に出かけることを伝えて、遅くなる時は遅くなると言っておいて…。
けれど家事はご迷惑かけないようにしないとね。
…えっと、今日は出かける前に洗濯物やって料理を仕込んで。
あとはエストニアに頼まれていた物を買いがてら出かけて…。
頭の中で予定を組みながらのんびり朝食を食べている間に時間になり、スーさんが先に食卓から立ち上がったので僕と花たまごも席を立って玄関までお見送りする。
ドアを開けるとぴゅうっと凍えた北風が家の中に吹き込んで、抱き上げていた花たまごがぎゅっと目を閉じて小さく震えたので、風から覆ってやろうと両腕で深く抱え直す。

「うわあ…。今日も寒くなりそうですね。…週末のお天気大丈夫かなあ」
「…何処ぞさ行ぐんが?」
「え?週末ですか?…あ、いえ。流石に休日までは行きませんよ。明日はガーデニングちょっと弄りたいので」
「…そか」
「はい。…あ、道滑りますから気をつけてくださいね。いってらっしゃ~い」

花たまごの前足を持ってちょいちょいと見送り、スーさんが庭を出てたのを見計らってドアを閉めた。

「さてと…。早く支度して行こうか。…ね?」

食器を下げて洗って、洗濯した後で掃除してお茶を飲んで。
少し早めにそれらを終えてから、マフラーしてコートを羽織って家を出た。
仲がよくてもなかなか話し合いっていうのはまとまりにくいものだけど、漸く話が大詰めになってきたし。
今日中に形ができあがるだろう。
頑張って早く企画を終わらせて、ぱーっとお祭りでみんなと騒ぎたいな。

って、思ってたのに…。


Yli vuonna ikkuna, jossa sataa lunta



「あ、おはようございますスーさん…!ごめんなさい、起こしちゃいましたか!?」
「…」

次の日。
リビングに出てきたスーさんに気付いて、スクランブルエッグをフライパンからお皿に落としていた手元から顔を上げた。
休日もしっかり平日と同じ時間に起きるスーさんだけど、今日はいつもより随分早い。
きっと音に気付いて起きて来ちゃったんだろうな。
早いのに身なりをしゃんとしてから部屋から出るあたり流石だなあ。
書き置きして行こうと思っていたから、休日に早起きさせちゃって悪いけど、ちょうど良かったかな。
サラダとスクランブルエッグが乗ったお皿に仕上げにちょんちょんとスライスしたチーズを手早く載せ並べてからダイニングのテーブルに置く。
それから急いでまだ僕の部屋で寝ている花たまご用にドッグフード缶を取りに行くためキッチンへ戻った。
端に置きっぱなしにしてある買い溜めしてある紙袋の前で屈み込むと、適当に一缶取り出す。
いつもは何味にしようか迷うんだけど、今日はちょっと急いでるからランダム。

「すいません、何かトラブルがあったらしくて今朝早くエストニアから連絡があったんです。もうすぐ迎えに来てくれるらしいんで、ちょっと午前中だけ行ってきますね。…あ、朝食は用意していきますけど…ごめんなさい、洗濯物は帰ってきてからやりますんで、そのままにしておいてください。掃除も後で…」

  __ビーッ。

屈んだまま蓋を開けているとベルが鳴った。

「あ、エストニアかな」
「…」

立ち上がりながらドアの方を向くと、スーさんが出てくれるようだった。
ドアの方へ近づいていく背を見て安心してから、僕の方は急いで準備しないとと思って、フード缶の蓋を開けてそれを花たまご用の食器に開けることにする。
ガチャリとドアが開く音の後で。

「あ、フィンおはよぉぉおぅうおわぁあああああああ…っ!!」

エストニアの悲鳴が響いた。
…ま、まあ、スーさんとは何回かしか面識ないからまだ恐いのかもしれない。
フォローに回るため、空になった缶をシンクに置いてから僕もリビングに出て行くことにした。
ドアを開けたスーさんの隣に僕が出ると、軒先から数歩後退して震えていたエストニアが明らかにほっとした顔をして、思わず笑ってしまう。
分からなくもないけどね…。
慌ててエストニアが軒先へ戻ってきて、胸元に片手を添える。

「あ、し、失礼しました瑞典さん…。おはようございます。芬蘭をお迎えにあがりました」
「…」
「おはよう、エストニア。ちょっと待っててね、今コート持ってくるか…」

そう言って背を向けた途端。

  __バン…ッ!!

という、大きな物音に驚いて肩を震わせ息を呑んだ。
…。
…一呼吸置いた後、そろりと振り返る。
さっき折角開けたドアが閉まっていて、エストニアの姿は見えなくなっていた。
ドアを正面に、片腕を軽く振った後のようなスーさんの背。

「…」
「……」

…今のはドアを閉めた音…なの、かな?
…。

「……あ、あの。…スーさん…?」
「…!」

間としてはだいぶ長かったかもしれない。
数秒間経った後、何とか勇気を振り絞って怖々声をかけると、ぱっとスーさんが顔を上げて振り返った。
一瞬目があってから、すぐに正面へ向き直ると一度閉めたドアを開ける。
開け放たれたドアの向こうに、僕と同じような感じで驚いた顔をしてるエストニアの顔があった。
唖然とする僕らの視線から逃げるように、スーさんはドアを開け留めてからその場を離れ、暖炉側のソファにかけてあった僕のコートを持ってきてくれた。

「…ん」
「え…。あ、はい…。ありがとうございま…」
「気付けへ」
「え? あ、でもまだ…うわっ、とっと…!ちょ、え!?」

スーさんの片手に背中を押し出され、一歩庭に出た瞬間すぐに背後でドアが閉まった。
両手でコートを抱いたまま、暫くぼんやり家のドアを眺めていた。





「…大丈夫なの?」
「うーん…」

移動中、暫く無言だったけど、車のハンドルを握りながらエストニアがぽつりと尋ねてきた。
それに曖昧な返事をしつつ窓の外を眺める景色を見送っていく。
ドアは壊れなかったけど…。
あんなに荒々しくドアを閉める所は見たことがない。
緩やかにハンドルを回し、車がカーブを曲がる。

「…何だか、凄く怒ってたみたいだけど」
「やっぱりエストニアにもそう見えた?」
「え、っと…。失礼な話僕にはいつも怒って見えるけど…。今日は特に。ドアをあんな風に閉めるんだからさ。あれが普通だったらそれはそれで怖さ倍増だよ。…って言うか、僕じゃあの人の機嫌はよく分からないよ。フィンはどうなの?」
「え、ええ~っ!僕だってよく分からないよ。…けど、いつもはもっと普通にドアを閉めるから…。朝早く起こされて機嫌が悪かったのかも」
「でも出かけるって伝えてから来るようにしたんでしょう?…家での仕事に何かミスが出た?家での仕事を蔑ろにされて怒っているのかも」
「ううん、ちゃんとやったつもりだよ。迷惑かけちゃいけないとは思っているし、今日だって朝食も作ってきたし…。そもそも基本的に何でも自分で出来る人だから、休日とか僕が買い物出て帰ってくると部屋が綺麗に掃除されてたりするし…。結構家事は好きみたい」
「へえ…。意外だね」
「たぶんエストニアが想像してるよりはずっといい人だと思うんだけど…」
「…。寝起きはいい方?」
「え?スーさん?…うん。いつも身支度してから起きてくるし、どっちかっていうと朝の方が機嫌がい…うわっとと!?」

話している途中で急にエストニアがハンドルを切り、大通りから脱して細道に入っていった。
きょとんとしてる花たまごの無事を確認して抱え直してから横を見る。
石造りの道は年季が入っていて通りが悪いのか、エストニアが視線を下ろし、ギアをローに変えていた。

「え、何?どうしたの??」
「この先に小さいカフェがあるんだけど、そこのチョコレートケーキが美味しいんだ。買って帰るといいよ。生クリームは家にある?」
「へ? だって、お祭りの準備…」
「あー…えっとさ…。理由が分かってるならともかく、怒ってる理由が分からない喧嘩は長引かせちゃダメだよ。美味しいお菓子を挟んでテーブルに着いて、何を怒っているのかきちんと聞かなくちゃ。…て言うか、たぶんね」

そこでエストニアが青い顔をして眉を寄せ、肩を落とす。
僕のことを一瞥したけど、疑問符を浮かべて見つめ返すとすぐに向こうを向いてしまった。

「フィンが帰れば大丈夫だから。…うん、絶対。…97.67%くらいで大丈夫だと思う」
「な、何その確率…。高確率すぎて気休めにならないよ」
「…痛いらしいから気をつけてね」
「何が…!? 今さっき大丈夫って言わなかった!?」
「いや、大丈夫だよきっと。大丈夫だと思うから気をつけてねってこと!」
「えええ!? 言ってることおかしいよエストニア!何で目を反らすの、怖いよっ!せめてこっち向いて言ってよおおっ!!」
「おかしくないよ正論だよ!世の中知らない方が幸せなことって結構多いよ!」

狭い車内でわあわあ言い合っているうちに車はがたがた荒っぽく進み、エストニアお勧めのカフェに着いた頃には二人揃ってぜーはー言いながら車を降りた。
驚いたお店の人が水をくれて、一息吐いてから店内に入ろうとしたけど、花たまごがお断りされてしまったのでケーキのセレクトはエストニアに頼んで僕は外で待つことにした。
店先の花壇にやってきたチョウチョと遊んでいる花たまごを眺めてから視線を上げぽけっと空を見上げると、ここ最近にしては珍しく快晴。

「…バスタオルとか干しておいたら夜気持ちよかっただろうなあ」

何気なく呟いた一言。
けど、その些細な一言に自分の仕事の欠落を感じて、じわりと自己嫌悪が胸に広がっていった。
…そうかあ。
料理とか掃除とか洗濯とか、やってるつもりでも、やっぱり自分の生活に何かを入れると当然だけどそれまでの何かが少なからず欠けてしまうんだ。
することやしたいことが増えたからといって、時間が増えてくれる訳じゃない。
自覚していないだけで、仕事が雑になっていたのかも。
スーさんは僕よりもずっと色々なことを知っていたりやっていたりで経験あるし、ずっとしっかりしてるから、中途半端にされるのが嫌だったのかもしれない。
僕はもともとマイペースな方だしなあ…。
…。
てことはやっぱり…。

「……怒ってるんだ」

さーっと血の気が引いていく。
いつも顔が怖いから判断が付きにくいけど。
今更になって怖くなってきた僕の背後でチリンとドアが開くベルが鳴り、吃驚して肩を震わせ振り返った。

「お待たせ、フィン。…どうしたの、青い顔して」
「…エストニア。今までありがとう…。今生の別れになっても僕のこと忘れないでね…」
「何で突然鬱なの!?」
「い、いや何か…。生きてまた会えるかなあみたいな…」
「大丈夫だから!絶対大丈夫、僕が保証する!」
「さっき痛いっていったじゃないか!ぁああぁあどうしよう、きっと殴られるんだ…!君は怒ったスーさん間近で見たことないからそんなこと言えるんだよ。スーさん怒るとめちゃくちゃ怖いんだから!」
「ものっすごく近くで見たことあるよ…って言うか殴られたよ僕実際に!…はいほらケーキ!こっちは僕からの差し入れのコーヒー豆!早く帰って早くっ。じゃないとまた近いうちに僕が殴られる羽目になる気がするから!お祭りなんか来年でもいいから僕の保身のためにも帰って!」
「ま、待って待って!帰りに防犯チョッキとかマウスピースとか買って帰りたいから一度町中に戻…」
「そんなのいらないってば!」

エストニアに押しつけられたケーキ箱とコーヒー豆を抱えて片腕を引っ張られ、再び車に乗せられて今来た道を戻っていった。
そして、カフェに至るまでの時間ときっかり同じ時間を要して、エストニアの車は家の前に留まった。
運転席から両腕を伸ばしてしっかり僕にケーキ箱とコーヒー豆を持たせ直すと、ぺいっと車外に放り出し、自分はシートベルト締めたまますちゃっと片手を上げる。

「じゃあフィン、お祭りはまた今度ね」
「ひええぇえっ、薄情者おおおっ!」
「そ、そんな涙目にならなくても…。仕方ないよ。代わってあげられるんだったらちょっとは考えるけど、瑞典さんを前に君の代わりなんて誰にもできないんだから。僕がフォローに出て行ったって苛立たせるだけだよ」
「ふぇ…?」
「仲直りできて落ち着いたら連絡入れて。待ってるから。ね? …それじゃあ」
「あ、エストニア…!」

言うだけ言ってエストニアはアクセルを踏み、彼を乗せた車は僕の目の前から去っていった。
両手にケーキと袋を持っているので、片手をその背に未練がましく伸ばすこともできない。
時間をおいて、ちらりと背後を一瞥した。
どちらかと言えば家の裏手。
庭に入るには正面に回らないと行けない。
塀沿いにそろそろ歩きながら正面に回りこっそり片目を覗かせてみると、後でやると言っておいたはずが、庭に洗い終わった洗濯物が並んでいて布団まで干してあった。
しかも端からしっかり種類別に分かれて干してある。
…。
…ううう。
言い様のない罪悪感にちくちく胸を刺激されながら、まるで泥棒みたいに庭に滑り込み、どうにかこうにか玄関まで進んでいって数段の階段を上る。
…当然だけど、鍵は持ってる。
それ以前にノックすればいいだけなんだろうけど、とてもとても入れない。

「ど、どうしよう…。怒ってるかな…。すみませんで許してくれるといいけど…」

誰か別の人に見られたら勘違いされそうだけど、ドアの前に佇んだままおろおろうろうろしていると、不意にカリカリと妙な音がどこからか聞こえてきた。
ネズミが床を走るような小さな音。
…何だろう?
無意識に音源を探ろうと目の前のドア足下へ視線を移し、一歩後退した所で。

  __ガチャ。

「うわぁああああああっ!?…と、お、わわわ…っ!?」

突然ドアが開いてびっくうと全身を攣らせて飛び退いた。
背後にある段差の存在をすっかり忘れ、後退した片足が予想した場所に踏み場はなく、そのままずるっと数センチ落下して大きくバランスを崩す。
いけない…!と反射的にケーキ箱と豆袋を持った両腕を高く持ち上げ、ぎゅっと目を瞑りコンクリートに尻餅をつく覚悟をして傾いた身体を自覚したけど…。
数秒経っても、痛みはやってこなかった。
その代わり、がしっと勢いよく捕まれた左の二の腕がちょっと痛かった。
…何となく予想を付けて、そろりと目を開ける。
予想を裏切らず…て言うか当然なんだけど…。
内側からドアを開けたスーさんが開いたドアノブに片手を添えたまま、右腕を伸ばして転びそうになっていた僕を掴んでくれていた。

「…」
「あ…えっと…。た、ただいま戻りまし…た」

遅れて片足に重みを感じ、視線を下げると花たまごが小さい尾を振って、爪のない前足で僕のスラックスを引っ掻いていた。



「…忘れもんが?」
「え? あ、えーっと…」

片手で上着のファスナーを開けながら答えようとするも、視界に入ったぴかぴかの部屋の状態に上の空になる。
う…。
そ、掃除も終わっちゃってる…。
塵一つ落ちていない床を一望して数秒呆けてからリビングのテーブルを見ると、お仕事をしていたのか書類とパソコンが並んでいた。
更にちくちく罪悪感。

「…なした」
「い、いえ…。何でもないです。…それであの、これ」

頭を下げて両腕を真っ直ぐ伸ばし、少しよれてしまったケーキ箱と豆袋を差し出す。
無言のまま受け取ったスーさんに一端ほっと息を吐き、両手が空いたところで僕は足下にくっついていた花たまごを抱き上げた。
心境的に何かに縋りたかったので、いつもよりちょっと抱えるようにして花たまごを抱っこする。
コーヒー豆はすぐにそれだと分かるけど、ケーキ箱の方を不思議そうに眺めているスーさんから一歩後退し、しどろもどろで口を開く。

「あ、あの…。勝手言ってすみませんが、今日出かけるのは止めました…」
「…」

両肩を上げて恐る恐る言い出した僕にスーさんがケーキ箱から顔を上げた。
目が合ってぎくりと肩が震え、更に一歩後退してしまう。
今にも殴られる気がして逃げ出したかったけど…。
な、何とか主張しよう…!
いや大丈夫だよっ、悪い人じゃないんだから話せば分かってくれたり何かしちゃうかも!
花たまごを抱えたまま両手を拳にし、深呼吸ついでに発音の為息を吸う。

「こ、ここ最近外出ばかりしていてすみません…。あ、えっと…家のことを蔑ろにしていたつもりはなかったんですが、考えたら甘かった気もします。浅はかでした…。それで、最近は…あの、お祭りの準備とかクリスマスの準備とかであんまりお話とかしてなかったような気がするんで…えっと。……あ、いえあの、スーさんが話すの苦手なのは知っているんで無理はなさらなくていいんですけど…!でもその、不満とかあるんだったら時間を取って話し合わないと、僕ぼーっとしてるから気づけないので、そういう時間も必要じゃないかなと…。だからその……ぁ」

言っているうちに徐々に声も小さくなってきてしまう。
あああっ、紙に予め書いて練習一回くらいしておくんだった…!なんて後悔してももう遅い。
恐怖で軽く目を回し、冷や汗流しながらパニックの状態に追いやられて漸くある種の度胸が付く。
意を決してきっと顔を上げ、眼鏡の奥の、とても綺麗なブライトシーの双眸を見据える。
右腕をぐっと引き寄せ、ガッツポーズにも似た拳を立てた。

「そ、それケーキなんです!!美味しいらしいんです!お茶にしませんか!?」
「…」
「…とか言ってみたりし……う、うぎゃあああああああああっ!!嘘です嘘です!すいませんごめんなさい!!」

ところが意を決したのも一瞬。
無表情でケーキ箱と豆袋をテーブルの上に置いて一歩踏み出したスーさんに心臓が跳ね上がり、どたばたと後退していって背後の壁にどんっと背中をぶつけた。
驚いて背後を振り返り、逃げ場がないと判断してから花たまごを抱えていない方の手を前に出してぶんぶんと振る。

「忙しいですよね!? ええ忙しいですよ冗談です分かってます!これ以上僕の都合でお時間は取らせません!!ごめんなさいごめんなさいごめ……ひ…っ!!」

真ん前に立たれて右腕を伸ばされ、あまりの怖さに片腕で顔を覆いぎゅっと目を瞑って横を向いた。
喉が攣って声が呼吸と一緒に止まり、殴られる…!と構えたけれど…。
やってきたのは低くて微かなおかえりの声と、ハグと額へのキスだけだった。

「…」

心身共に硬直して震えている僕から離れると、スーさんは背を向けてコーヒー豆の袋だけ持ってキッチンへ向かっていってしまった。
…。
…スーさんが離れて漸く止まっていた呼吸が戻ってくると、遅れて思考も戻ってくる。
緊張と恐怖から軽く目眩が生じてふらつき、背を背後の壁にとんと預けて体中から力を抜いた。
時間を置いて、今キスされた額に怖々片手を添える。
…。
…うん。キスだった。
まさか青あざになっていたりなんてことはないと思う…。

「…。……。あ、あれ…?」

僕の腕から肩に乗り上げようと花たまごがじゃれつく中、そのまま呆然と佇んでしまった。
そんなに長い間呆けていたつもりはなかったのに、気付くとリビングにまでコーヒーの香りが立ちこめ、そこで慌てて我に返る。
自分から誘っておいて、お茶を淹れてもらうつもりなんて毛頭無かった。

「あ、スーさん…!僕やりますから!」

慌てて花たまごを床に下ろしキッチンに向かうも、入り口にて問答無用でケーキ皿とフォークと生クリームを手渡され、すごすごリビングに帰ってきた。
庭からハーブをちょっとだけ取って、水で軽く洗ってケーキ皿を並べて飾る。
ぱかっとケーキ箱の蓋を開けて、やっぱり端が崩れていたのを見てちょっとがっかりした。



「…。…あ」
「…」

お茶の支度が調い、テーブルを挟んでコーヒーを一口飲んだ瞬間、ぽろりと口から声が漏れてしまった。
間髪入れず、向かいに座って膝の上に乗せていた花たまごの頭を撫でていたスーさんが、でんっと端っこにあった砂糖瓶とミルクやハチミツ、ココアやシナモンといった小瓶がセットになって入っていた容器を出してくれたので、慌てて首を振る。

「あ、いえ…!違います、砂糖もミルクも丁度いいです」
「…。…そけ」
「は、はい…」
「ん…」
「……はい。…ちょうどいいです」

エストニアがくれたコーヒー豆は僕もよく使っているものだったけど、今日のコーヒーは僕が普段淹れているよりも断然美味しかった。
…。
…と、取り敢えず、明日ちょっと本屋に行って本を買って、コーヒーの美味しい入れ方勉強しよう。
恥ずかしくなって両手でカップを包むように持つと、泳ぐ湯気を一息吹いた。
湯気の行き先をぼんやり見送っていると、イスの背もたれに身体を預けたままじいーっと僕を睨んでいるスーさんと目が合い、不意打ちだったのでびくっと肩を震わせてしまった。
こ、怖…っ!
…って、あ…そうだ忘れてた!
コーヒーとケーキが美味しくてすっかり忘れていた話し合いを思い出し、背筋を伸ばした。
両手は膝の上。

「あ、す…スーさんじゃあ、不満とか叱咤をどうぞ」
「…?」
「ですから、何かこう…。僕にもっとこうしろとかあると思うんで…」
「…。…んー…」

怒られる前に言葉で注意してもらった方が正直ありがたい。
萎縮して言葉を待つ僕を前に、スーさんは片手を顎に添え、目を伏せてたっぷり時間をかけて何を言おうか考えているようだった。
やがて顎から手を下ろし、真っ直ぐに僕を見る。

「…あんまし遅ぐななや。寒びし、危ぶねがら…」
「は、はい。…分かりました」
「ん…」
「…」
「…」
「…え。終わりですか?」

何を言われるんだろうとどきどきしていたが、終了とばかりの頷きに僕の方が身を乗り出して尋ねる。

「…? …まねべが?」
「だって他にもっと…。エストニアが来た時ものすごく怒ってたじゃないですか。僕スーさんに比べるととろいので、きっともっと色々…」
「…。ああ、あれは…。…何もね」
「そ、そうですか…?」
「…ん」

視線を下げてチョコレートケーキを少しフォークで突いた後、食べずに足下に来ていた花たまごを抱き上げるために背を屈めた。
…。
……か、勘違いかあ…っ。
間を置いて、へにゃりとテーブルに俯せる僕を、スーさんが不思議そうに眺めていた。
…後でエストニアにも教えてあげないと。
あんなにドアを荒っぽく閉めたから…何だ、僕に向けての当てつけなのかと思っちゃった。
一方的な困惑を今更ながらに恥ずかしく感じ、頭を起こすと横髪を指先で弄りながら軽く笑った。

「良かった…。実は、僕スーさんが怒っているんだと思っちゃって…。エストニアが今日は帰ったらって言ってくれて戻ってきたんです」
「…」
「話し合った方がいいよって。コーヒー豆は彼がくれたんですよ」
「…そか。…。……ん」
「…? どうかしたんですか?」
「何も」

首を振るスーさん。
心からほっとする。

「よ、よかった…。スーさんにいらないとか邪魔だとか言われたらどうしようかと思って…」
「…」
「よかった…。あ、あはは」

朝の不機嫌?さはなりを潜めているようだったので、ほっと胸を撫で下ろし、改めてカップに口を付けた。
胸の支えが取れて、いきなり呼吸が楽になった気がする。
そう思うと、コーヒーもケーキも、美味しさを増した。
せっかくのお茶なんだから。
リラックスして楽しまないと、お茶じゃないよね。
カップを置いて両手で一度自分の頬を包むように押さえ、緩んでいるのを確認してからほふぅ…と一息改めて吐いておいた。

「美味しいですね、このケーキ。…花たまご~。ケーキはダメだよ。ほら、ビスケットあげるね」

テーブルの端に常備されているガラス瓶から一つ犬用ビスケットを取り出し、スーさんのケーキに前足を伸ばしかけていた花たまごへ差し出して注意を引く。
あっという間に注意は引けた。
花たまごはすぐに鼻先をこっちに向けて、小さな前足ふたつでたしっとビスケットを掴んでくれた。
可愛いさに思わず頬が緩み、そのまま食べやすいように指先で持っていてあげることにする。

「…。フィン」
「はい。何で…っわ!」

両肘をテーブルに着いて少し身を乗り出した僕の眼前にスーさんが片腕を伸ばして上げた。
反射的に身が強張って身を引きかけたが、その前に指先が前髪に触れて、すぐに離れた。
慌ててそこを押さえる。
何かと思ったら、離れたスーさんの手に小さな落ち葉が抓まれていた。
髪に引っかかっていたみたいだ。
ありがとうございますと言う前に、抓んだ落ち葉をコーヒーカップの受け皿に落とし、それを見下ろしながらぽつ…とスーさんが呟いた。

「…邪魔っけなんぼ」
「え?」

すっと顔が上がり、目が合う。

「…ねはんでな」
「…」
「…ん」
「え? あ…。は、はい…!」

花たまごを差し出され、慌てて受け取った。
腕の中に軽い重みと温かさが戻ってきて、急に落ち着いてくる。
…面と向かって言われたのは初めてで、スーさんにコーヒーのお代わりはいるか?と言われるまでずっとぼーっとしてしまった。



その日の夜は雪だった。
真夜中に明かりを落とした部屋。
自室の窓だけってわけじゃなくて、静かで綺麗な雪の降る夜は二階から窓の外を見ると、今でも時々外の庭から片手を伸ばしてくれたスーさんを思い出す。
窓辺に足をかけて、痛みと支配しかなかった大邸宅の二階から飛び降りた。
そのまますとん…と雪の庭に降ろされ、あとは深夜の暗闇を、その背中だけ見失わないように必死に歩いた。
毎日丁抹さんが怖くて震えてる中で、その矢面に立って声を張り返すスーさんも十分恐かった。
絶えず自分の一歩前に出てくれていたのだと気付いたのはかなり後になってから。
それからは、スーさんの後ろ姿が妙に好きで…って、こんなこと言うと変な子だと思われるから絶対言わないけど…。
窓辺に寄りかかったまま、顔を上げて隣の部屋とを遮っている壁を見詰める。
たぶんお互い嫌いではないから、きっともっと普通に仲良くなれればいいのに、接し方が未だによく分からなくて毎日たくさん困惑する。
…いつかきっと、ちゃんとお互い支い合える相方になれればいいな。
…。

「…ね?」

腕の中でおねむの花たまごの首元へ指の背を添え、一撫でしてから枕元に置いてあるカゴの寝床にそっと置いて寝かせてあげる。
寒いし、明日は早いから僕も寝ればいいんだろうけど、ベッドに腰を下ろし、開け放った窓の外を落ちていく雪を暫くの間眺めていた。



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我が家の瑞さんは案外嫉妬深い…が、女房を責められない。
所謂駄目男です。ええ、はい駄目男です。
2012.1.18






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