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例えば、彼が常日頃兄弟に虐められてなくて、日常的に拗ねてもなくて、何気なく足下の小石を蹴飛ばす癖がなく、そこまでプライドが高くなく、そうでなくても偶然そこを歩いていた暴君の踝にそれが当たらなかったら。
僕たちは、きっとずっとひとりきりだったんだと今でも思う。

…内緒だけど、僕はあの時のあの瞬間まで、彼と親友になれると思っていた。



Nasta barn




『ふざっけんなよ…!離せばかっ!!』

離れはいつも静かだから。
馬鹿が怒った時以外そんな大声が響いたことはなくて、そもそもあんまり使用人の人数もいないけど、それでもこの場所にいる誰もが一斉にそれぞれ行っていた手を止めて顔をあげたと思う。
一番奥の部屋。
床一面に敷かれた毛皮の絨毯の上で僕と同じように座り込んでいたお兄ちゃんも、その声を聞いた大方の奴らと同じように顔を上げ、声の響き方からまだ距離があることを確認するためにドアの方を一瞥すると、慌ててあちらこちらに散っていた積み木を手の届く範囲だけでも急いでまとめて片付けだした。
さっきまで折角2人で高く積み上がっていた積み木のお城は、あっけなく崩れてボックスの中に戻される。

「アイス…。こっち来」
「…」

両腕を伸ばされて抱っこされ、座ったままでいたお兄ちゃんの膝に座る。
ふわふわした大きめの一枚服はあんまり飾り気がないけど、肌触りがいいから嫌いじゃない。
抱き上げられる瞬間、お揃いの首飾りのトップが当たってカツン…と小さく音を立てた。
その辺で翼を動かしていたパフィンも僕が移動したので、小さな足で床を蹴ってお兄ちゃんの膝傍へ僕に寄り添うようにして腰を下ろす。
ドアの向こうでカツカツという自惚れに満ちた早いリズムの足音が大きくなり、それと同時にきゃんきゃん叫いている甲高い子供の罵声も近くなっていった。
いつも足音が近づく度に僕を抱くお兄ちゃんの腕がぎゅっと締まり顔を顰めるから、よく事情は呑み込めてなかったけど、とにかく最初から僕はあいつが大嫌いだった。
やがて勢いよく…本当に勢いよく、片腕で丁抹がドアを開ける。

「ぃよう、ノル~!!戻ったぞーっ♪」
「…。おかえり…」
「…」

開け放たれたドアは軋んで内側の壁にぶつかり、少し跳ねて壁を欠いた。
いつもは彼が来る度に怖くてお兄ちゃんにしがみつくけど、その日はドアを開けると同時に彼が左腕で脇に抱えているぐるぐる巻きにされた子供に目が行ったので、怖さはあまり感じなかった。
まだまだ全然小さい子で、僕と同じか、僕より少し年上かといった感じの男の子っぽかったけど、僕は自分とお兄ちゃんと、馬鹿を含めたほんの少しの国としか会ったことがなかったから、珍しさにそんな気はなかったけど、当然にそれに目が行った。
さっきまでぎゃんぎゃんここまで響くくらいにうるさかったくせに、叩かれたか何かされたみたいで、碧眼の両目は涙目で髪はぐちゃぐちゃになっていた。
…。

「遅くなっちまって悪かったな。…さ。本宅帰っぺ!」
「…そいつは?」
「ん? …ああ。これけ?」

まるで僕が見えないようないつもの素振りのまま、丁抹はお兄ちゃんにだけ話しかける。
お兄ちゃんからの質問を受けて初めて、彼は小脇に抱えていたぐるぐる巻きの子供を片手で軽々と持ち上げた。
途端にじたばたその子が暴れ出す。

「止めろばか…!この…っくそ!離せツンツンあたま!!」
「そいつの遊び相手に丁度ええんじゃねんかなーってよ。捕まえて来たんだわ。…ほれ」
「…! …いでっ!」
「あとこんにゃろ、チビっこのくせしやがって俺に喧嘩売りやがったかんな。こいつが蹴りくさった石が踵に当たってよー」

べち…っと、丁抹がその子をぐるぐる巻きにしたまま床に投げ捨てる。
落とされて痛かったのか、それとも悔しかったのかは知らないけど、床の上に転がったまま俯いた顔がくしゃりと歪んでまたじんわり目元に涙が溜まってて、泣くかと思って見てたけど、僕と目が合ったら突然ぎ…っと強い瞳で睨み上げられた。
…少しして、お兄ちゃんが僕の両脇に手を入れて膝から退かせ、立ち上がるとその子の傍に歩いていった。
おそらく縄くらいは解いてあげようと思ったんだろうけど、伸ばした手は丁抹が取って引っ張り、両頬を合わせるただいまの挨拶に変えられてしまったんで床に転がった芋虫はそのまま芋虫だった。

「よっし、帰っぞ。もう遊び友達いりゃあそいつのこともえがっぺ。な?」
「えがっぺって…。そん訳あるか。アイスはまだ小せえべな。ひとりじゃこないだの庭も手入れもできんし…俺がおらんと」
「あーあー…。んじゃま、また会わせてやっから。とにかく帰って茶ぁ飲むべ。…つーかそれよか聞けって!こんガキええ宝石持っててよ~。加工しておめえにくれてやっから」
「ちょ…お!」

片手を引っ張られ、転ばないためにお兄ちゃんは丁抹に付いて部屋に残る僕の方を振り返りながら出て行くしかなかった。
…廊下を歩く足音が遠くなった頃、佇んでいた場所から窓際に移動して、背伸びをして袖の中にある両手を一杯に持ち上げて、指先でちょっとだけ窓を押す。
窓は何とか少しだけ開いたけど、そこから外を覗くには全然身長が足らず、背伸びを止めて部屋の端にある本棚脇に行き、そこから分厚い本を選んで一冊一冊運んで踏み台を作っている頃には、当然だけど、もうこの離れから出て行くお兄ちゃんと馬鹿の姿は全く見えなくなっていた。
やっぱり高さ的に窓から下を見下ろすということはできないから間にある庭と海峡は見えないけど、窓の縁に顎と両手を置くと、曇り空を背景に真正面に丁抹の本城であるお城が見えた。
そこまで遠くでもないが、かといって近くもない。
本城の窓が開いているかどうかくらいは目をこらせば辛うじて分かる程度の距離で、絵本の最後にある1ページみたいに、いつも通りそこに当たり前の顔して建っている。

「…」
「…………………おい」

僕が窓の向こうの本城を眺め出してから暫くして。
背後からぽつりと、曇った声が聞こえてきた。
振り返ってみると、芋虫が不愉快そうな顔で僕のことを睨んでいる。
…。
……変な眉毛。
何かどこかで見たことある眉毛かもしれない。

「おいお前。…早くこの縄解けよ」
「…。何で」
「は…? な、何でって……っておい!!無視して片付け出すな…!ちょっと待てよ!!」

部屋が散らかったままなのは好きじゃないから、積み上げてた分厚い本から降りてまた一冊一冊運ぶと絵本の棚へ戻していく。
何往復かしてる間、床に転がってる芋虫はぐるぐる体を揺らしてみたりうねうね動いて方向を変えようとしてみたり、視界の邪魔なことこの上なかった。
本を片付け終わってお兄ちゃんがボックスに片付けた積み木をまた絨毯の上にひっくり返し、中身を広げてからさっき途中でダメになったお城を今度はひとりでつくってみようと詰み始めたけど…。

「なあ!頼むから…!このままじゃ餓死しちまうだろ!?」
「…」

近くでどったんばったんやられる度に床が振動して積み木が崩れるから、3回くらいに崩れたタイミングで諦めて、おもちゃ箱のなかからハサミを片手に持ってうねうねしてる芋虫の傍に歩いていくと横に立ってその背中に片手を付いた。
俯せになってる芋虫の背に結び目はあるものの、かなり小さくてきつくて、上手く切れない。

「…切れない」
「ばーか。切れないわけないだろ。早くしろよヘタクソ」
「…」
「あ、こら…っ!」

せっかく切ってあげようとしてるのに生意気な芋虫の言葉にむっとして、ぽいっとハサミを彼の目の前に投げ捨てる。
カシャン…と乾いた音を立ててハサミは転がり、僕は背を向けた。

「何捨ててんだよ!」
「…自分でやれば」
「できねえから頼んでんだろ!?」
「知らない…」

 __まあ。いじわるな子!

「…」

不意に小さくて可愛くて、鈴を転がすような響きを伴った声がして、僕は肩越しに背後を振り返った。
…さっきまでいなかったが、芋虫の周辺に数人の妖精が淡い光を纏って浮いており、そのうち一人は縄の結び目の傍に立って仁王立ちして僕を見上げていた。
彼女は僕を鼻で笑い、周囲に浮かぶ仲間を振り返る。

 __もういいわ。私たちで解きましょ。
 __でも突然解けたらあの子不思議に思っちゃうんじゃない?
 __だからってこのままじゃアーサー可哀想でしょ。
 __どうせ見えないから大丈夫よ。
 __アーサー。いい子だからもうちょっと待っててね。すぐ解いてあげるから。

「ん…」

何種類ものベルが鳴り響くような耳障りな音と光の中央で、彼女たちの小さな手に髪を一房撫でられ慰められ、芋虫が急に勢いをなくして眉を寄せしゅんと項垂れる。
…。

「…何それ。あんたの友達?」
「へ…?」

足を止めて振り返ってから聞いてみると、芋虫は驚いた顔をして両目を見開いた。
彼に連動して、周りを漂っていた妖精たちもびくりと翼を震わせてそろって、さっきまでの生意気さが嘘みたいに芋虫の影に隠れる。
…さっきも少し思ったけど、目だけはそれなりに綺麗だ。
エメラルドみたいな水晶体が、アメジストには程遠い僕の目を凝視する。

「お、おまえ…。見えるのか…?」
「妖精のこと? …何言ってんの。当たり前だし。ここにも何人もいるし、お兄ちゃんの友達にもたくさんいるから」
「…。変だとか言わないんだな」
「変…? 何が。妖精が見えると変なの?」
「…」
「て言うか見えない奴なんているの? 鈍過ぎるんじゃない、そいつ」

言った後で、ずっと足下に付いてきていたパフィンが僕を見て低くギーって一声鳴いたから、その場にしゃがみこんでその頭を撫でた。
…妖精の友達もいるけど、一番は君だよって撫で撫でしてからまた立ち上がって、床に捨てたハサミをもう一度拾ってあげる。
人が見えてると分かった途端急に恐がりだしてる芋虫の友達たちは、僕が彼に近寄ると慌ててぴゅーっと天井近くに逃げていった。
見捨てられてぽつんと残った芋虫の結び目を、もう一度解こうと挑戦してみる。
やっぱり時間は少しかかったけど、今度は遅いだとかヘタクソだとか言われなかった。

紐を解いてやると、芋虫は普通の男の子になった。
手首を回したり首を回したり、格好付けて服を整えたり。
そんなことをしてから、結び目が切れてからすぐにハサミを捨てて部屋の窓辺近くで積み木をやり直す僕の方へ寄ってきた。

「あ…えっと…だな。その…サンキュ」
「…別に」
「おまえ何て名前だ? あのばかノルマンの弟か?」
「やめてよ」

そこだけは間違えて欲しくなくて、半眼になって速攻で否定する。

「僕のお兄ちゃんはさっき最初からこの部屋にいた方」
「じゃあどっちにしろノルマンどもの弟じゃないか」
「“ども”ってやめて。あの馬鹿とお兄ちゃん一緒にしないで」
「一緒じゃねえかよ…」

さっと積み木を片手にして投げつけようとすると、元芋虫だったその子は慌てて両腕で顔を庇うように前にだしてそれ以上その話には触れなかった。
その代わり、また話題が最初に戻る。
僕が積み木を持つ手を下ろしたのを確認してから、少し距離を空けた場所にちょこんとそいつが座った。

「で、名前は?」
「…何であんたに教えなきゃいけないの」
「何でって…。お礼は相手の名前を添えて言うもんだろ?」
「…。………氷島」
「氷島??」

当たり前って顔でそいつが言うから、少し迷ったけどここで渋るのも変な気がして、結局積み木でお城を組みながら応えてやった。
その後変な名前って一瞬笑われたから、空かさず傍にあって積み木より痛くない布人形を掴むと顔面狙って投げつけてやった。
不意打ちをくらって彼の顔面にそれは当たり、赤くなった鼻の頭に小さな手を添えて、むっとした顔でそいつが僕を睨んだから僕も睨み返した。

「…て言うか、普通自分から名乗るものなんじゃないの」
「あ、ああ…。それもそうだな。いいかよく聞け。俺は英国っていって…」
「それファミリーネームでしょ」
「あ…?」
「違うの?」

視線を積み木に戻しながら言う。
黙々と作業をしながら数秒間沈黙。
本名教えたくないのかと思って、なら別に知らなくてもいいから話はこれで終わりと思った矢先に。

「…。…ぁ。…お、俺」

その子がぽつりと口を開いて、てててと傍まで来ると僕が詰んでる積み木の反対側に立った。
両手で自分の服の端をぎゅって握ったまま、それまでの声とはちょっと違う、照れ臭そうな声で何だかとても柔らかく笑う。

「ほんとは…。“英蘭”…って、いうんだ…」
「あっそ」
「…ん」
「…」
「…」
「……何」
「え…! あ、いや…。その…。……お、俺も手伝ってやってもいいぞ!それ!」

もう話は終わりで顔を背けたけど、いつまで経っても彼はそこにいた。
直前まで縮こまってた英蘭がびしりと目の前にある僕の積み上げていたお城を指差して声を張る。
僕は呆れてその指先を一瞥してから、ため息を吐いた。
…うるさい子。
オンオフが異様にはっきりしすぎてて、長い間一緒にいると疲れるタイプだ。
あの大嫌いな馬鹿と同じタイプ。

「…別にいいけど、邪魔しないでよね」
「む…。あ、あのな。黙って聞いてりゃさっきから何だよお前。口悪す……あ」
「……」

英蘭がびしりと積み木に突き付けていた指を大きく右に振ってオーバーアクションした拍子に、積み上げていた木の1つにそれが当たり、ころりとそれが床に落ちる。
それを追うように、バランスを崩した積み木たちが次々と落下していくと、僕と彼の周りの床に散った。

「…」
「…」
「わ、悪……うわっ!?」
「邪魔だからあんたあっちいって!」
「何だよ…!ちょっと当たっただけで崩れる積み方してるお前がヘタなんだろ!?」

今度は容赦なく積み木を掴んで投げてみたけど、英蘭は思ったより反射神経がいいみたいで生意気にも避けた。
その後も一緒に遊ぼうぜという誘いを何回か受けたが、僕はすっかり気分を害され、背中を向けたまま壁に向かってひとりでいつものようにお城を作って一日を過ごした。
…寝室にある広いベッドはたぶん僕たちくらいの子供なら5,6人一緒に寝たって余裕があるけど、寝られるかどうかという問題とそこに寝せるかどうかっていうのは全く別問題。
当たり前みたいな顔して隣に並べた英蘭の枕を蹴り飛ばしたら、お返しに顔面にクッション投げられて、それからお互いが腹を立て、枕投げ大会が始まった。
いつの間にか僕の友達も嘴で枕を切ったり、英蘭の妖精たちも参加したりで収集がつかなくなってたはずだけど、気付いたら寝てしまっていたみたいで、翌朝揃ってぐちゃぐちゃになったベッドの上で2人して仰向けに寝転がっていた。

朝食を運んできたメイドが悲鳴をあげたあとで怒ってきたから、英蘭のせいだよって隣を指差した全く同じタイミングで彼も僕を指差し、それが余計に彼女を怒らせたみたいで何でか僕までげんこつをもらって最悪だった。
静かにしなさいって言われたことも、げんこつもらったことも、今まで一度もなかった。
すごく痛くて、両手を頭の上に添えてもう少しで泣きそうだったけど、同じように泣きそうになってた英蘭より先に泣くのは絶対に嫌で我慢した。

「…泣いてもいいぞ」
「……うるさいんだけど」

メイドがドアを閉めた後、ぽつりとそんな会話をして数秒後。
やっぱり同じタイミングで同時にクッションを投げつけ、彼は避けたのに僕だけ顔面に当たった。
さっきのげんこつも合わせて悔しくて、じんわり涙がにじんで泣きかけたけど、僕の変わりに僕の友達が彼の頭に飛び乗ると、慌てる彼の金髪を何本か無理矢理嘴で抜き取ってくれたので、先に涙を流したのは英蘭の方だった。
だから安心して、僕はその場に座り込むと長い袖で目元を擦りながらちょっとだけ泣くことにした。
…暫くして英蘭が僕にハンカチを差し出したけど、汚そうだったから断って自分のハンカチを棚から取りだしてそれで涙を拭くと、何だか知らないけど怒ってた。




それから少し経った。
どれくらい少しかというと、僕らの身長がそろって10センチ伸びたくらい。
英蘭とは相変わらず合わないが、相変わらず同じ部屋にいた。
離れの鍵は丁抹が持っていて、高い位置にあるこの一室では、僕らには脱出する術がないから。





「…なあ、お前さ。何でいつも外ばっか見てんだ?」

昼食を終えてまったりする時間帯。
不意に声をかけられ、窓に片方の頬杖ついて向かいの本城を眺めていた僕は背後を振り返った。
部屋の一角にある簡素なテーブルセットに腰掛け、英蘭が剣を磨いていた。
僕が振り返ってから、彼も剣から顔を上げる。
窓から本城を眺めるのは癖だった。
毎日の日課と意識しないくらい習慣になっていたかもしれないけど、“いつも”と表現されるくらい行っているという自覚もなかった。
…たった10センチだけど、その伸びた10センチで足場に本を重ねる必要もなく窓の外を眺めることができるようになっていた。

「何か見えんのか? そこから見えるのって向こうの城くらいだろ?」
「…まあね」

剣を持ったまま、英蘭が傍までやってきて僕の隣に立ち同じように窓から正面に見える本城を眺める。
抜き身の剣は磨き抜かれて綺麗に輝いていた。
…最近、剣ばっかり磨いてる気がする。
片手を腰に添え、鼻で笑いながら眉を寄せ、それから剣を両手で持つと窓から出して真下に向けた。

「今あの馬鹿が向こうから歩いてきたらいいのにな。そしたら、俺はここからこれを落としてやるんだ」
「来る時はお兄ちゃんも一緒だから止めてよ。当たるし。…あいつ1人で帰る時にして」
「…。前々から聞こう聞こうと思ってたんだが…。お前、兄貴好きなんだな」
「…」
「お前の兄貴ってあれだろ。いっつも馬鹿の傍にくっついてるあの暗い奴だろ?」

英蘭の口の悪さはこれまでで十分知ってるつもりだったけど、流石に今の発言はむっとして、頬杖を解くと横を睨んだ。
…そこまで本気になったつもりはないけど、僕の顔を一瞥してから彼は少し慌てて両肩をあげた。

「な、何だよ…。本当のことだろ?」
「…別に、好きであんな奴と一緒にいる訳じゃないから。捕まってるだけだから」
「へえ…。まあ、あんなクソ野郎と一緒になんて誰もいたくねえよな。…けど、捕まってるって言う割りに俺らと違って何で本城住まいなんだ? 結構自由も利いてるっぽいじゃねーか」
「…」

…ガキ過ぎ。
心の底から呆れて、一緒に喋ってるのも疲れてきた。
本気で不思議に思ってるらしく、小首を傾げて窓縁に片腕をかける様子を一瞥してから目を伏せた。
両手を置いていた窓辺を押すようにしてその場から離れると、イスに座って読みかけの本を開いた。

「おい…?」
「知らない。…て言うかあんたもお兄ちゃんいるんでしょ。何で助けに来ないの」
「あ…? あんな連中兄貴じゃねーよ」
「…」

さらっと英蘭が否定する。
あまりにあっさりしてるから、突いていいのかどうか少し迷った。
少し前に兄弟がいるって話は出ていて、だから彼に僕と同じようにお兄ちゃんがいるのは知っていた。
けど、僕とはまた違った意味で兄弟の話を極端に嫌ってるみたいだったから、こうして話題に上るのは珍しい。
例え上ったとしても、今みたいに軽く流そうとする。
だからこれは僕の予想だけど、あんまり兄弟仲がよくないのかもしれない。
そう言えば、“こんな所早く出たい!”とはよく言ってるが“帰りたい”とは聞いたことがない。
まして“家族”という単語は一度だって出てこなかった。
…家族がどうとか兄弟がどうとか、お互いそっち系の話が嫌なら、避けるに限る。
一区切り付けるためにため息を吐いてから、話題を変えることにした。

「まあ、どうでもいいけど。…それより、その剣危ないからしまってよ」
「ああ。これか? …へへ。いいだろ?」

話題を逸らすために利用した剣だけど、それを指摘すると嬉しそうに英蘭は笑った。
それから、窓から少し離れて格好付けて2、3回振ってみせる。
…まあ、それなりに形になってなくもない。
まだ扱いは慣れてないみたいで荒っぽいけど、お上品な剣をやってたって意味ないのは分かり切ってる。
大きく横に振り切って空を裂いてから、英蘭は剣の柄を両手で持って先を天井へ向けた。
窓から差し込む日光を受けて、剣がきらりと誇り高く輝く。
それはとても綺麗で、興味ない素振りをしてた僕も釣られて引っ張られ、掲げられたその矛先を見上げた。
彼の友達の妖精たちが、くすくす可憐に笑いながら白銀の周りを飛んでは光を反射して七色に光って見えた。

「助けなんて期待してねーよ、ばーか。…俺は自分の力で抜け出すんだ」
「…」
「俺のことコケにしやがって…。今に見てろよ。全員ぶん殴ってやる…」

低く悪びれもなく呟くその声に違和感を持たなかったかと聞かれればそうでもない。
ただ、その時鼻で笑えもせず馬鹿にもできなかったのは、何も彼の相手が面倒になったからではなく、彼が実際にそれを成し遂げる力があるのを知っていたからに他ならない。
彼が丁抹を殴ってくれればすっきりするのにとは思っていたけど、でも本当にできる訳ないし。

だから、本当に彼が久し振りに来た丁抹に不意打ちで斬り込んでその手から剣をはじき飛ばした時は、脳が処理できなくて、全身が硬直して突然世界が遠くに感じた。
…瞬間的にしろ音が無くなったその世界で片腕を引っ張られ、訳も分からないまま、バランスを崩していた丁抹とその背後にいたお兄ちゃんを横切って部屋を飛び出した。






果てなく続く階段を、驚く程延々と駆け下りていく。
連れてこられた時はもうずっと昔だしお兄ちゃんに抱き上げられてきたから、僕らがいたその部屋がそんなに高い場所にあったなんて思わなかった。
もう日も暮れかけた時間帯。
灯りになる薪の代わりに妖精たちがいつもより低く周囲を漂い、青白い灯りを灯してくれてた。
足下が危なくて何度も転びそうになったけど、その度に英蘭が強く引っ張って無理矢理バランスを取らされる。

「転ぶな!殺されるぞ…!!」
「殺され…って…」

背後を振り返る余裕はなかったけど、遠い石壁に響く自分たちの足音以外の足音と甲冑の金属音が確かに耳に届いた。
急にぞっとして、背筋が寒くなる。
丁抹が恐い恐いと言ったって、実際に矛先を向けられたことなんて今までなかったから、生死に関わるとか…有り得なかった。
…急にやり過ぎな気がして、怖くなって。
駆け下りながら歪めた顔を上げ、前を行く英蘭へ声を張った。

「ねえ…!どこ行く気!逃げられると思ってんの…!?」
「知るか! でも独立したいだろ!?」
「ど、独立…?」
「自分で動かなきゃどうしようもないだろ!」
「で…でも…!僕なんてひとりじゃ外に出たって何もできな…」
「うるさい!お前ひとりくらい俺が守ってやる!!」

震える声を遮る声量で振り返らないまま怒鳴られ、びくりと肩が震えた。
英蘭のことを知らないわけじゃない。
短い間だけどずっと一緒にいたから、口は悪いしがさつだしデリカシー欠片もないしガキだし詰め甘いし性格破綻してるし音痴だし味覚おかしいし捻くれてるけど…。
それでも悪い奴じゃないことは知ってるつもりだった。
守ってくれるとか言ってる戯れ言も決して僕を卑下してる訳じゃない。
…でも、その時は。

「…」

急に自分の腕を引っ張るその手と背中が、悪魔みたいに大きく暗く見えて。
…悪魔とまではいかなくても、いつもお兄ちゃんを引っ張っていく自惚れたどこかの暴君みたいに見えて。
そう意識した瞬間、石段に着いた片足の爪先が一瞬ブレーキを掛けた。

「…!」

僕が止まったせいで、がくん…っと僕の手を引いて走っていた英蘭の身体が予期せぬブレーキに小さく攣って足を止める。
すぐ離せばいいのに、まだ僕の手首を掴んだまま弾かれたように振り返って、驚愕に満ちたエメラルドの双眸が僕を射抜いた。
…振り返った彼は、やっぱり低い身長の小さなただの子供で、今さっき何で彼の背中が怖かったのか不思議でならない。

「…」
「氷…」
「氷島…!!」

英蘭の声を覆うように、上階からお兄ちゃんの声が響いた。
響いた声はお兄ちゃんのだったが、次の瞬間螺旋階段の上から数段飛ばして飛び降り姿を現してきたのは目付きを変えた丁抹で、奴の広がるマントとサッシュが視界に入った瞬間、英蘭は舌打ちして漸く僕の手を離すと、そのまま背を向け駆け下りだした。
…向けられた背中は、やっぱり全然恐くなかった。
童話のシンデレラみたいに服の裾と細い金髪を靡かせ、振り向く余裕もなく階段を駆け降りていく。
直後、立ち止まってた僕の横を疾風みたいに丁抹が抜き身の剣を片手に通り抜けた。
その時僕の後ろ首を掴み上げると背後に力任せに突き飛ばしたから、為す術もなく僕はそこで転倒した。
固い石段の上に尻餅を着いて痛かったけど、痛がる暇も文句を言う暇もなく、そのまま暴君は先に走っていった英蘭を追ってすぐ見えなくなった。
カンカンカン…という乾いた足音だけが冷たく反響する。
…。

「…氷島」

嵐みたいな丁抹が通過していってから放心状態で座り込んでいると、少し遅れてお兄ちゃんが階段を降りて来た。
僕の姿を見ると、駆けていた足を止めていつも通りゆっくり傍まで歩いてくる。
…連れてくる暇もなかったパフィンがお兄ちゃんの肩に乗ってて、僕の傍まで来ると僕の頭の上へ飛び乗った。
両手を伸ばされ、ぺたりと片手を頬に添えられ、ひんやりして冷たかった。

「…ケガねえけ?」
「…。…うん」
「…そけ」

ほっと息を吐くお兄ちゃんと手を繋いで、僕はまた降りてきた分だけ階段を上ることにした。
一度だけ振り返ったけど、もう段下は奥までずっと暗くて静かで、喧噪はあっという間に何処かへ去っていってしまった。




その日はずっとお兄ちゃんが離れにいて、翌朝丁抹が舌打ちしながら帰ってきた。
英蘭は無事に逃げ出せたみたいだったが、僕は喜ぶことも哀しむこともできず、ただ淡々と日常を過ごすことにした。
離れはまた僕一人に戻り、時々お兄ちゃんがこっちに来て過ごすこともあるけど、大体間を置かず丁抹が迎えに来るから、やっぱりいつも通りの日常と言って間違いはないと思う。
そのうち何でかスヴィーとかフィンがお手伝いさんみたいなことをし出して、その頃になると僕も部屋から少し出ても良くなった。
相変わらず本城に入れてはもらえないが、庭までならOKって話。
…外に出たり、人と会ったりすると色々な話が聞こえてくる。
南の方で暴れてる英蘭の噂を聞く度少し誇らしかったけど、その反面、やっぱり僕とは違う子だったんだな…って、少し安心に似た虚しさもあった。
…あの時、手を離してくれて良かった。
掴んでいたら、逃げられなかったから。絶対。
…。



誰も信じてくれないけど、その昔、僕にも親友になってあげてもいいかなって思う子がいた。
…でも彼はとても強い子だから。
きっともっと相応しい相手がいるはずだから手を引いた。
少なくとも、一緒に剣を持って戦える子じゃないと…きっとただの荷物になるし。
…僕、争うのとか嫌いなんだよね。
面倒くさいし、痛いし。
だから彼と親友とか、絶対無理だったと思う。

少し経って。
久し振りに偶然彼を見かけた時、みんなが家長になった彼を当たり前みたいにファミリーネームで呼ぶ中で。

「英蘭さん」

…って。
あんまり見かけない子が、内緒事みたいに英蘭を呼んでて、英蘭も照れ臭そうに隣で笑ってたから。
何だか、もういいやって思って、僕は次の日からみんなと同じように、彼を“英国”って呼ぶことにした。




今でも時々気が向いた時だけ一緒にお茶を飲んだりする。
それくらいでいいと思ってる。
だって彼の親友って、絶対疲れるに決まってるから。
まして恋人とか…有り得ない。
だから僕は、心からあの東の変な形してる島国を同情している。

「…」

ちょっと相手してやろうかなって思って覗いた庭先に彼らふたりがいたから。
鼻で笑って素通りして、家に帰ることにした。

…どうせそのうち着いていけなくて振られるだろうから、そしたら指を差して笑ってやろうと思ってる。






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氷島と英国です。
恋愛未満的な感じで。
氷島君は悉く失恋で諦めてると素敵かと。
2011.12.28






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