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それを言われたのは随分昔だが、気の遠くなるようなと表現するには足りない気もする。
まだ自分の家以外の何ものも知らずに細く唄を歌っていた頃。
目の前を通りかかった海船から少年が手を振った。
人と知り合うことに怯えていた俺の第一次思春期独特の感性を一切無視して、手を引かれ船に乗った時に、少し伸びていた髪が靡いた時だ。

「なあ。おめぇの髪よ、すんげー綺麗なんな!」
「…」
「ええなあ~。俺んは癖っ気でよー」

声がでかくて喧しかった。
そう言って、同じく風に当たるも靡くまではいかず、重そうに肩に掛かっているブラウン色の髪を指で抓んで眺めていた。
他人とどう話して良いのか、どう接して良いのか、理解するまでにガキの頃は相当な時間がかかっていた。
だからそん時も、船に乗せてもらった時も、その後花を一輪寄こした時も、感謝のことばなんぞ出ては来なかった。

ありがとうの代わりに、髪を少し伸ばすことにしてみた。
長くなった俺へ、奴は髪留めを寄こした。
そん時も上手く感謝ができず、尚のこと俺は髪を伸ばした。
昔はよく俺の伸ばす髪のことを気にかけて、綺麗だの長くなっただの何だのと嬉しそうにほざいていたが、最近はそれが少なくなったなと思う頃には、既に奴は北の海を牛耳っていた。

いつだったか。
髪を撫でるその手に血が付いているのを見て以降、その手が嫌いで堪らなくなった。


De er forelsket




複雑な造りをした城の庭を精一杯、息を切らして走る。
少し離れた場所から衛兵の笛の音と何か叫ぶ声が聞こえた。
金属を叩いて兵を呼ぶ音。
他人とちょいちょいの喧嘩をしなくなってからというもの、日常的に着るものといえば主に宮廷で一般的な私服として珍しくない簡素なドレスであって、婦人用程ではないが走るのには勿論適さない。
片手でスカートを軽く持ち上げて走らないと、腿が引っかかってすっ転ぶ。
もう片方で帽子も押さえねえと吹っ飛ぶ。
腰にかけた金粒連なった飾りベルトが、走る度にキンキンと音が鳴った。
…乗馬着で出てくりゃ良かった。
今更後悔しても遅いが、思わず舌打ちをした。
いや、日頃運動などしねえ俺が乗馬着など着て出歩こうものなら、尚更人目に付いたのだろう。
塔を駆け下り、階下を人目を避けてすり抜けてきた。
奥の廊下までは上手くいったと思うが、キッチン横を通る時に通いのメイドと目が合った。
彼女が、俺が此処にいるのは珍しいと暢気に声を上げたのを機に、偶然傍にいた衛兵が俺に気付いて声を上げ、今に至る。
奴が城を開けている今がチャンスだと思ったが、日頃と比べると人数は減っているとはいえ、衛兵の数はそれでも撒くには多い。
全力疾走なんて久し振りすぎて話にならん。
思った以上に息切れが早く足が縺れ、激減している自分の基礎体力に愕然とした。

「脱走だー!!」
「囲め囲め!」
「逃がすな!捕らえろ…!!」

背後から衛兵たちの声が響く。
うぜえ。
ほんにうぜえ。
城は城でも、今拠点にしているこの城は言うなれば城砦だ。
入り組み、強固で、外壁の厚みと厳重さには呆れ返る。
…氷島が離れにいるのは知っている。
知っているが、今迎えに行ったら揃って捕まる。
最近の奴が如何に冷徹であるとはいっても、まだ幼い氷島に手を上げることは流石にないだろうし、見ている限り囲うだけ囲っているが、今の所弟に興味は一切なさそうな感じだ。
俺が一旦出て、スウェーリエんトコにでも助けを求めて、それから…。
…などと考え事をしながら走っていたせいで、靴の爪先を地面から頭を出していた大きめの石に取られた。

「…!」

がくんっと予期せぬブレが視野を襲う。
次の瞬間には、前のめりに倒れ込んで芝の表面を軽く擦っていた。
咄嗟に顔を背けたので地面とキスせず済んだ代わりに、左の頬を擦って土が付いた。
走るのを止めた途端にどっと汗が出て、乱れた呼吸が酸素を深く吸うのを邪魔する。

「っ…てぇ……」

全身で呼吸しながら両手を付いてむくりと上半身を起こし、頬に付いた泥を手の甲で拭う。
突っ掛かった瞬間に靴が脱げたらしく、左足の靴が躓いた石の少し手前に明後日の方向いて落ちていた。
…今日はここまでか。
はあ…とため息を吐いて自らの服を見下ろす。
日常的に着る私服とはいえそれなりに上等なドレスはすっかり土で汚れていた。
もう着られはしないだろう。
地面に尻付けて長い髪の間に入った土と小さな草の葉を指で梳いて取り除いていると、血相変えた衛兵達が大袈裟な人数で走る音が近くなる。

「ノーグ公…!!」

ばたばたばたと、複数人の衛兵たちが途端に俺に追いついた。
一様に槍や剣を持ってはいたが、切っ先を俺に向けるんはあんましいない。
なめてんのか馬鹿にしてんのか。
…いや。馬鹿にされたところで何も返せねえんだから、苛つくだけ無駄だ。
衛兵のリーダー格と思しき男が傍まで来て膝を付くと俺を覗き込んだ。
思い切り顔を背ける。

「ノーグ公…。勝手に出歩かれちゃ困るんですわ。俺ら丁さんにボコられっちゃいますって」
「…」
「頼んますから、部屋戻ってください。何ぞ不自由があんなら言ってくれりゃやるっけ」

控えめに気遣ってはいるが、数人の衛兵が俺の四方を囲む。
…ああ、うぜえ。
もう一度思い切り全身でため息を吐いて、立ち上がろうとすると女人宜しく手を差し出された。
力一杯振り払って自力で立ち上がる。
汚れたスカートの裾を軽く叩き、頬にひっついてた草を払って、肩に流れ落ちていた髪を背中に払う。
しょっ引かれる罪人のように、しかし罪人にしては尊大に、大股で不機嫌露わに部屋へ戻った。
俺を部屋に入れると同時に、この塔入口に鍵を掛ける音が聞こえた。
暗い空を鐘が鳴る。
部屋のイスを蹴り倒し、クッションを投げつけてから涙の出ない目で泣き伏せるようにベッドに落ちた。

 

 

 

奴が戻ってきたのは次の日だ。
最近、南のがきんちょどもがちょっかい掛けてくるっていうんで、一発シメに行っていたらしい。
お前一発シメに行ったにしては手土産多すぎんだろと突っ込みたくなるような戦利品と確約を持って帰ってきていた。
その間に何とか抜け出せないかと思ったが、奴が戻ってきたのならタイムリミットだ。
また嫌な日常が来る。

「ノール~!ほーれ、見ちろ見ちろ!すんげキレーだっぺ!?」
「…」

ベッドに腰掛けて意図的に興味の無さを見せつけ、足を組んで本を読む。
部屋の中央にあるソファセットの上にいくつかの装飾品を並べ、その中の一つである赤い大粒の宝石が組み込まれたごてごてしいネックレスを左右の人差し指で広げて見せ、阿呆は満面の笑みで笑う。
無視してページを捲った。
この距離でこんだけ無視してんだから察せなと思うが、奴が空気なんぞ早々読めるわけもなく、自慢らしいそのネックレスを広げて正面に差し出したまま近寄ってくる。

「んな、な、なっ。ほれ。おめえにやっからな!」
「えらんわ。阿呆」
「あとドレスー!!」
「…」

…表現を間違えた。
"空気なんぞ早々読めるわけもなく"ではなく、"一切読めないから"とすべきだった。
薄く大きな木箱を両腕で抱え、満面の笑みでテーブルにドレスを追加する。
戦利品として、俺にドレスを宛がうのは珍しい。
どうやら、先日俺の衣類が一着駄目になったことを、こいつは知っているらしい。
ということは、当然、俺が脱走を試みたことも耳に入っているはずだ。
そこに突っ掛かって来ないのは、俺が脱走なんてできっこねえと思っているからだろう。
若しくは…。

「…あ、なあ。ところでよ、さっき小耳に挟んだんだけっどよー」
「…」

来た…。
ぞっと一気に身体中が冷える。
荒くなりそうな息を抑えて、再度ページを捲る。
俺の座るソファの背に片手を置いて、デンがにこやかに横に立った。

「何かおめえ、また"散歩"に出たんだって?」
「…。ちっとな」
「その空気吸いてぇんけ? …なーに。中庭があっぺな。ん?」
「…」

これ聞けとばかりの朗らかな声が返って空怖い。
ソファの背に添えていた奴の手が、ぽんと頭上に乗り、反射的にひくっと肩が震えた。
絶対奴にも分かっただろうが、無理して俯き加減のまま、ひたすらに本の文字を追う。
尤も、内容は殆どはいってこなかった。
当然だ。
…呵られるガキのように沈黙をしていると、ぽんぽんと宥めるように肩を叩かれた。
直後。

「…ッ!!」

首の骨がすっぽ抜けるくらい、唐突に顎を取られて引っ張り上げられた。
一瞬、ソファから腰が浮くくらいに、本当に力任せに上へ。
首から変な音がした気がしたが、そんな音よりも痛みよりも、微妙な距離を挟んで真っ直ぐこっちを見下ろしている、へらへらとした気の抜ける笑顔から視線が動けなかった。
困ったような、嬉しそうな、そんな中途半端な顔。
血の気が凍る。
全身が凍り付いた。
呼吸が止まる。
絞めるだけでなく、首を持ち上げるだけでも人は殺せるのだと、この時初めて知った。
…俺には死ぬなんてことはできないのだが。
いっそ終われるものなら終わってみたい。
しかし"俺"が終わるとしたら、その時はたぶん、リアルに考えれば考える分だけ、こいつに喰われる終わり方しか、今は無い。
顎の皮膚に指が食い込む。

「散歩は、俺がいる時にしとけな?」
「…」
「な?」

何も反応できず、硬直していると、遅れて痛みがやってくる。
顔を顰めた俺を見て、すぐに指が離れたが、絶対に痣になるだろう。
一気に呼吸が戻ってきて、背を丸め、咳き込んだ俺が収まるのを待ってから、奴が俺を縫い止めるように両足間に片膝を掛けた。
正面にあった窓からの明かりが遮られ、奴の影ですっぽりと包まれる。
距離が縮まる中で、さっきの一瞬の手付きとは全くの別の仕草で、恭しく俺の冷えていた手を取った。
そのまま口元に寄せ、唇が中指の背に触れる。
その表情が心底穏やかで、返って身が震えた。

「おめえが家にいっと、頑張れんなぁ…」
「…」
「ただいま…。ノル」

息が上がる。
上がるが、浅い。
深海にいるようだ。
…。
…言わなければ。
言わなければ。
迎え入れなければならない。
こいつが俺のことを愛しているらしいことは、流石に分かる。
ここまでされて発狂しないということは、俺の方も、たぶんそうなんだろう。
そう思わなければやっていられない。
ある程度狂っとかねえと辛いことは世の中多々ある。

「…、ぉ…。…」

肩で息をしながら、捕まった指先を見ながら、何とか口を開いた。

「……おか え り」

明らかに変な、カタコト気味の区切った四文字に、阿呆は満面の笑みで改めて手の甲に、明らかに冗談交じりの、吸い付くようなキスをした。

 

 

 

キスは嫌いじゃない。
触れ合う体温もそこまで嫌じゃない。
なのに圧倒的に怖ろしくて哀しい。
頭の中がぐるぐると回る。
感情が常に表裏で裏表。
自分が今嬉しいのか哀しいのか、安心しているのか怖いのか。
右も左も分からない。
全力で逃げたい昼のような時もあれば、今のように誰にも邪魔されずしがみつきたい時もある。

「ノル。ここんとこ随分詰まんねそうじゃねーけ?」

だだっ広いベッド上で何もせず天井を眺めていた俺の髪を、横からデンが梳く。
パラ…と髪がシーツに落ちる音が耳元で聞こえた。
随分冷え始めた体温を感じながら、横目で阿呆を一瞥する。

「…。そ?」
「んー。何かあんま笑わなくなったんじゃねーけ? そのうち鉄仮面になっちゃーぞ~。そーしてっとまるで…」
「…」
「…」

けらけらと続けようとした例え相手の名前は、今は口に出すのを躊躇う程度に嫌いらしい。
言葉を途中で止め、自分を嗤ったのか相手を嗤ったのか、鼻で笑ってから、腕を伸ばしてゆったりと俺を引き寄せた。
促されるまま、懐に身を寄せる。
…。

「今度なんか他のくれてやっからな。…もっとええやつ。おめえに似合うような…」
「…」

鼻先で前髪を分け、額にキスを受ける。
別に何もいらない。
何度言っても伝わらないから、主張はとっくに諦めていた。
要するに、俺の言葉は何も聞いていないのだろう。
あれこれと、美しい物が手に入る度に俺に投げつけるのは自己満足だ。
そう思えばやはり哀しかった。
高価な装飾品などに興味はない。
花一輪で良かった。
仕事の合間に描くような、風景の落書き一枚でも良かった。
もっと言ってしまえば、今よりもずっと小さく透き通っていた愛情だけで良かった。
…恐ろしくて哀しくて、でも俺に執着する浅ましい姿は見ていて安堵し、嬉しかった。

 

 

俺が笑顔を置いてきたのは、きっとその辺りなのだろう。
その事にある日突然気付くのは百十年後で、隠しているつもりなのかどうなのかは知らんが、気付いた後の奴の衝撃は凄まじく、懺悔はそのまま俺への感情へ加算され、今は随分落ち着きを得ているように思えた。
嘗てのように目に見えた束縛されることも無い。
だがこの自由が、やっぱり嬉しくて哀しく、不安で心地良い。
放し飼いのような感覚。
逃げ切らない程度に、緩い紐が首に掛かる。
結局、陰で奴の束縛症は直らず、俺の依存症も続いている。

愛は不安定なものであるらしい。
俺たちはきっと、実に上手く愛し合えているのだろう。




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昔も今も束縛家な丁さんと依存症気味な諾さん。
そんな関係が好きです。
げしげし踏まれている丁さんも可愛いですけどねw
2013.4.22





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