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例えば、傷口から滴る血を愉しむこともできるのだと教えられたり、
例えば、花はひとつでないのだと与えられたり、
例えば、底なしに思えた暗い微睡みから引き上げられたり、
酔いに狂った日々でした。

酒と禁果と煙管と日落ち



本格的に引き篭もってからというもの、生活習慣がすっかり乱れた。
けれど、さして大事でもない。
薔薇を片手に訪れていた賓客が足を絶やしてからというもの、私にとっての重客は無いに等しい。
昼とも夜とも問わず伏せ入っている間に、私の中の時計はすっかり狂ってしまったらしい。
外側の襖は閉ざして久しく、内側を開けても灯りは乏しい。
日中であろうと、ぼんやりと淡く柔らかな日差しが飾り障子と欄間から滑り込むだけで、そんな室内で日が昇る頃に眠りにつき、日が落ちる頃に起床する。
差し込む西日も随分暗くなり、遠くで烏が鳴き出した頃、人気を感じてふと目が覚めた。
枕の上で頭だけ動かし部屋の壁際を見ると、既に灯された蝋燭が夕日に溶け込んでさして意味を成していない横で、見知った人影が黙々と手にした書物を読んでいた。

「……和蘭さん?」
「おう…。起きたんけ」

小さく呼びかけてみると、読んでいた書物から一端私の方を一瞥したが、そのまままたすぐ文字を追い始めた。
布団の上でゆっくり身を起こし、横に畳んで置いてあった羽織を一枚引き寄せて肩にかける。
寝間着姿で申し訳なくもありましたが…。
そんなのは口ばかりで、正直、どうでもよかったのも事実です。
あちこちに跳ねていそうな髪を手櫛で整え、少々乱れていた寝間着の合わせ目を指先で整えてから、改めて彼へと向き直った。

「すみません、寝入ってしまっていて…。起こしてくださって構いませんでしたのに」
「どーせほんうち起きんやろ。ほんなん後回しや。それよか、こっち終わさんとあかんでの」
「そうですか。…まだ当分は読み終わらなそうですね。何を読んでいらっしゃるんですか」
「…ん」

相変わらずの素っ気ない態度に苦笑しながら尋ねてみると、不意に読んでいた書物を閉じ、軽く腕を振るってそれを放った。
低い位置を滑るように回転しながら飛び、私の膝傍の布団へ音を立てて落ちた。
雑な扱い方に表紙や留め所が痛んでやしないかと案じて、指先を伸ばそうとしたところで気付いた。

「風説書…」
「今回の報告や。チェック途中やが、まあえやろ…。最近は表ぁ荒れとるで。どこぞの海賊が特にの」
「…」
「何やかんや言うとって、また来るんやろ」

気遣いなのか何なのか。
まさか関係が表に出て噂になっているとは思えないが、我が家に出入りしているほんの数人の方々は、薔薇の君が去ってからの私の態度を見て感じるにあたり、ひょっとしたら、気付いた方もいらっしゃるのかもしれない。
その中でも殊更、目の前のこの方は察しが良い。
あまり油断せぬ方がいいことは分かってはいたが、その時は無意識に、呼吸を吐き出すように小さく鼻で笑ってしまった。
…目を伏せ、軽く首を振っては少し長めの瞬きを終える。

「風説書、ありがとうございます。上司に渡しておきますね。…お茶でも飲んで行ってください」

布団から立ち上がり、肩にかけた羽織に袖を通すことなく屋敷の奥へ繋がる襖に手を添えた。
和蘭さんがのそりと立ち上がるのを待ってから、相生いの松が描かれた襖を、間を割って開いた。

「日が落ちてきましたね…」

茶室への細い内廊を、寝間着のままひたひたと歩く。
低めの天井に頭が当たらないように少し背を屈めるようにしてついてきていた和蘭さんが、中庭に差し掛かった際に足を止めた。

「…薔薇、引っこ抜いたんけ」
「ええ」

玉砂利に松と多少の苔という本来の庭に戻ったその空間は、最近まで一角に植えられた薔薇によって相当に華やかな庭になっていた。
お茶を点てることが多い私が入り浸る茶室に飾ればいいと手渡されていただいたものだが、生憎薔薇を茶室に持ち込むことはできずにお断りしたものの何故断るのか納得ができなかったようで、代替案として茶室手前にあるこの庭に苗を植えさせていただくことで何とか丸く収まった。
…と、そんなことも今は遙か。
私が頷くと、和蘭さんは適当に相槌を打ちながら、詰まらなそうにその場を一瞥して懐から煙管を取りだした。
咥えるだけでなく火を付けられたので、茶室に入るのは少し待とうと私も肩から滑り落ちそうになっていた羽織に袖を通すことにする。

「…くれたろか」
「え…?」
「薔薇や。ちっと待っとき。…ちゅか、先点てねま」

細い煙を一息吐き出した後で、ぽつりと和蘭さんが呟いた。
よく聞こえず聞き返したつもりでしたが、彼はさっと片手を低く上げるとそのまま今来た道を戻っていってしまった。
…。

「…薔薇なんか、もう見たくもないんですけどね」

一人残されて静かに呟いてから、一足先に茶室へと入って点てることにした。

 

 

こうなってしまうともう作法だとか何だとかは気にしないことにする。
抑も寝間着で彷徨っている時点で十分行儀が悪い。
女人ではあるまいし、誰から文句が来る訳でもない。
部屋の片隅にある蝋燭を灯し、無心で茶を点てていると少しばかり心が晴れる。
二人分点て終わり、コトリ…と畳に器を置いて一息ついたところで、ドアの向こうから足音が近づいてきた。
大して立て付けも悪くないはずなのに、雑にドアが開かれては和蘭さんが入ってくる。
そしてその手に、奇妙な草花を持っていた。

「…」
「ランプ持って出ぇへんかったんでの。…えらい時間かかったわ」
「…和蘭さん」
「あ?」
「何ですか、その…不気味な、というか…。寧ろ花ですか?」
「おめえ呆けたんけ。言うたやろが。薔薇や」
「薔薇って…」

和蘭さんが片手に持ってきた花と主張する花は、私には一切花に見えなかった。
少なくとも、薔薇と聞いて一番に想像するものではない。
…掌の上の鉢に茂った小低木が生えており、葉の下に垂れ下がるように鮮やかな赤をした実らしきものが下がっている。
膝を畳に折ると、和蘭さんはそれを置き、代わりに点てておいた茶の器を取った。

「Aardbei…。イチゴじゃ。正真正銘の薔薇科やで。…まあ、科で言うたらおめんとこの桜も梅もほやけどなあ」
「いちご…?」
「綺麗やろ」
「…まるで血の溜まりのような色味ですね」

羽織の中に含ませた片手を口元に添えて身を引く。
血を思わせる色と小粒で歪な形容はどこか怖ろしく、身の毛が弥立った。
手にした抹茶を一息に飲みきった後で器の口を拭い、端に寄せながら和蘭さんが鼻で笑ったような気がした。

「ほらええ例えやな…」
「…!」

言いながら、ブチ…ッ!という音を立ててその実らしきものを一つ、引き千切る。
その音が何ともおぞましく、また、その色からまるで人形や人の首を千切ったような気がして、びくりと両肩が痙った。
身を引き痙らせた私を見て、今度こそ確実に和蘭さんが鼻で笑った。
…臆病者と取られたろうか。
斬るなら兎も角、千切る音は耳に悪い。
咳払いする私へ、今千切ったそれを、片手を伸ばして差し出した。
慌てて両手を合わせ、掬いをつくってそれを受け取って引き寄せる。
…まじまじと見たところで、やはりあまり好感は持てない。

「普通は綺麗っちゅーんじゃが…。やっぱ変わっとるのお」
「そうでしょうか」
「爪で傷こさえて吸ってみ」
「え…」
「傷や」
「…」

さも当然という顔で言われても、戸惑う程にその果実は赤かった。
爪を立てれば果汁が出るであろう瑞々しさをしており、だからこそ躊躇う私を眺めていた和蘭さんは、間もなくため息を吐いた。
くだらない者でも見るような呆れた半眼が刺さる。

「…昔な、花を食った女がおったんや」
「花…ですか?」

私の手からいちごを奪い取ると、ポケットから白い布を取りだして実の表面を拭き始める。
大きな掌の中で次第に輝き始めるその実を、ただ見詰めていた。

「窓に飾った飾り用のなあ、花の実ぃが食いとおてしょーもない。ある日食ってみるとんめかったやと。…ほんで食いだしたんやけど、食用でもねえもん食うなんぞどうかしとるやろ? ほやから内緒にしとって、ほんに親しいもんにだけこん花はんめえんやと伝えてみたんや」
「…」
「したらもう感染や。聞いたもんも食ってみると確かにええ味やっちゅーんで、次から次へ隠れた享楽が広まって…んで、食用として定着したんやと。…今じゃもうジャムにしたり何だり、すっかりフルーツ扱いやけどなあ。…ん。こんなもんやな」

表面を磨いていた和蘭さんが覆っていた布を取ると、驚くほど光り輝いた実が現れた。
紅玉とはまた違った主張の強い実を見詰めている中で、最後にピッ…と親指の爪で一文字を入れる。
美しさに一瞬好感を持ったが、そのせいでまた身を引いた。

「ん…」
「あ…いえ、ですがこれは…」
「ぶっ込んだろか」

再度それを眼前にずいと差し出されて戸惑う。
入れられた傷口から、本当に血のようにゆっくりと、赤い液が浸みだしていた。
…迷ったが、いつまでもそのままで放置しておく訳にもいかず、片手の指先を和蘭さんの腕に添えると、背を傾けてめいっぱい双眸を瞑り、思い切って吸ってみた。
途端に酸味の強い甘さが口に広がって、思わず眉を寄せる。
顔が、酸っぱい梅干しを食べた時のように皺寄ったのが分かった。
…舌がぴりぴりする。

「お、思った以上に…酸味が強いんですね」
「後でこないだやった砂糖でもちいっと付けて食ってみ。それなりやで」
「…そんな豪勢な味わい方はちょっと」

それは確かに美味かもしれない。
想像だけで毒そうな甘味を断ろうとしたところで、吸った時に口元に赤が着いたのか、投げやりに伸ばされた和蘭さんの親指が唇を横に拭ってくださった。
ありがとうございます…と言いかけた所で__。

「…!?」

が…っ!と、その指が突然根本まで口内に差し込まれ、一瞬、息が止まった。
思わず身が引きつる。
…口中に押し込まれた酸味の一方で、唐突な行為に反応できず目を白黒させて固まる私に、和蘭さんが顎を軽く持ち上げて冷たく言い放った。

「花なんざ何種類もあるもんや。…枯れて消えたんやったらうじうじしとらんと、次のにせえ」
「…」
「始終泣き顔みてえのしくさって…。阿呆か。どーせ籠もっとんじゃ。泣きたいんやったら酒でも飲んでぱーっと好きなだけ泣かねま。こっちまで暗なるわ」

唾液の糸を引いて指が抜ける。
払うような手振りで引いた指の一方で、指の背で寝癖のついていた横髪を一撫でしていった。
…どうやらこの方は、立ち去った方との関係を察した上で、私が弱っていることに嫌気がさしているようだった。

「…あ、あの。別に泣」

このままでは良くない。
毅然としていなくては侮られると思って、言い訳を探して口にした最初の言葉から、驚くほど安易に声が震えた。

「泣きたい程では ないんですよ…ただ…、数少ない貿易相手でしたので…。経済的に惜しいことをし…」
「…」
「した…と、思」

震えているのだから語るを止めれば良いものを。
そのまま平然を装って続けたものだから、上下に上がり下がりする妙なイントネーションのままつらつらと恥を晒し、仕舞いには黙り込んで両袖で顔を覆う羽目になってしまった。
どうしようもない。
この歳になって人前で泣くことになるとは、思いもよらなかった。
…心底呆れるようなため息を、鼓膜が捕らえる。
遅れて、ばさりと頭上に何か大きな布が落ちてきた。
涙目のまま少し袖から覗き見ると、少し重みのある薄鳶色の和蘭さんの上着が、私の頭を覆っていた。
立ち上がる畳を擦る音と戸を開ける音。
軋む廊下の音を残して、和蘭さんはそのまま帰ってしまわれた。
きっと、それはそれは呆れ果てて、見限られたのだろう。
…少し前に立ち去った、あの方と同様に。

 

 

それから暫く誰も訪れることはなかった。
あまりにすることがなさ過ぎて、和蘭さんの仰るとおり気晴らしに酒でも飲んで忘れようかと、朝から酔い潰れては寝間着に羽織姿で寝室から出ず泣き伏せていた。
次第に涙が涸れて泣くこと自体にも飽きて来た頃。
…ふと、窓際に置きっぱなしだった血色の果実に目が行った。

「…」

敷きっぱなしの布団の上でまずは何とか四つん這いに身を起こし、覚束ない足取りで歩み寄ってみる。
崩れるように鉢の前に座ると、そのままそれが置いてある棚に両肘を乗せて頭を寄せた。
眠気と戦いながら実の一つを真似て千切ると、やはり人形か人の首を引き千切るような嫌な音がした。
そのまま握り潰してみると、さしたる力もいらずに掌が真紅に染まる。
赤い赤い液体が、手首を伝って寝間着の袖を染めた。
…しかしてこの色は、今となっては羽織の色にも、酔いの回った私にも、とても似合う気がする。

「…甘い」

酒で舌が狂っているのか、以前吸った時とは比べものにならぬくらいにその汁は甘く感じた。
桜も梅も、これも変わらず薔薇で花。
…きっと元々、私にあの花は美しく気高すぎたのだろう。
そうではないかと思わなかった訳ではなかった。
少しだけ鼻を啜ってから両目を伏せて、そのまままた酔いに潰れて夜を迎えた。

 

翌朝。
和蘭さんが久し振りに訪問され、目も当てられぬ状態の私を見て呆れるようにため息を吐いてから、片手に持っていた小さな鬱金香の花束を此方に向かって放り投げた。
本来の香りは彼の吸う煙管の匂いで消されてしまっていて、少し焦げたようなツンとする妙な香りのする花束になってはいたが、その香りは長い間微睡みの中にいた私の目を久方振りに覚ましてくれた。
また来てくださるとは思わなかった。
急に我に返り、流石に赤の飛び散った寝間着では汚かったので、身体を拭いて久し振りに着物を選んで着替えてみた。
いつまでも泣き伏せてはいられない。
家から出るつもりはないが、それにしてもそろそろ立ち上がらなくては。

「…今優しくされると、和蘭さんが代わりになってしまいますよ」
「阿呆か。代わりなんぞあらへんわ」

やはり朝っぱらから酒を酌み交わしながら、会話の途中、畳に片肘着いて横向きにごろ寝していた和蘭さんへ冗談めいて言ってみると、てっきり鼻で嘲笑われると予想していた反応とは違っていた。
気怠げに冷めた顔で私とは無関係な掛け軸の方を向いていたが、横目が不意に此方を一瞥する。
…そんなことは今まで気にしたこともなかったが、何処かの誰かさんと同色の、美しい碧眼と瞳が合って、何故か身が強張った。

「代わりっちゅーんはなあ、爺さん。要すんに、似たようなことが務まる実力のある"同格の別もん"っちゅーこっちゃ」
「え…? …ぶわっ!」
「…酒臭ぇのお、こん部屋」
「ああ…っ!後生です開けないでください!!」

真正面から突然煙りを吹きかけられ、膝の上に持っていた杯を慌てて畳に置いてから、思いきり咳き込んだ。
両手を畳に着いてげほごほ噎せる私を鼻で笑い、咳が収まった頃に片腕が伸びて髪を梳く。
あの方が見せていた満面の笑みとは程遠い、人を嘲笑うかのような微笑であるにも関わらず、それに誘われて、思わず私も久方振りに口元を緩めた。
…それまでの速度とは違い、ゆったりと酒を飲む。
寝室は酒の匂いと窓際の赤い実の熟れた香り、そして煙管の甘みで充たされ、それら全てが呼吸を通して肺に入り、ひょっとしたら四肢に染み入ったのかもしれない。
それまでは、至って普通の会話をしていたはずですが…。

日の落ちと共に何方とも無しに顔を詰めたのが、まずは始まり。

 

 

 

 

 

 

「ん…、っ…」
「…」

少々の息苦しさと痛みを感じて顔を顰めると、下から片腕が伸びて髪を梳く。
あまり開きたくはなかったが、閉じていた双眸をゆっくり開けて、温度を持った目で横たわる和蘭さんを見下ろした。
…乗り上げてみたはいいものの、近々他者と交わることをしなかったせいでそれなりに辛い。
まだ半分も交わせていない気がして、唇を噛んだ。
橙の蝋燭を光源に灯りの落ちた室は、それだけで扇情的というもの。
そうでもなければ、私などの爺を相手に些かの食指も動かぬだろう。
乱れた着物に用はなく、それでも接部が晒されることに耐えかねるので、紐を失って腰まで滑り落ちていた長襦袢をそのままに陰りをつくる。
堅苦しい上着を脱ぎ払い、はだけたシャツの下から除けている引き締まった白い腹部に、襦袢の袖の下に含ませていた指先を添える。
僅かに身を屈めて、呼吸の間から請うた。

「あの…すみません…。もう少々お待ちください…今」
「……意外やな」
「な、何か…?」

浅く息を吐きながら半眼で和蘭さんがそんなことを言うので、ぎくりとする。
日頃、此方の御茶屋などで遊ばれているのは存じている。
その界隈では和蘭さんは本当に有名で、高等の遊女などと比べられては私にはどうすることもできない。
次に来る言葉でつく傷が深くならぬよう、頭の中を瞬時にいくつかの罵声が飛び交うが、予想に反して正反対のものが来た。

「おめえ見とるとそこいらの遊女なんぞ大したもんに見えへんわ。…成程、毒やわ」
「…え」
「寝とれ」
「わ…!」

腹の上に添えていた手の首を取られ、横に放り出される。
布団の上に肩から落ちて戸惑っている間に、横で和蘭さんが身を起こすと、立ち上がって背を向けた。
そのまま去られてしまうのではないかと慌てて肘付いた私の心配は徒労に終わり、和蘭さんは窓際に置いてあった例の鉢から赤い実を適当に数個引き千切ると、それらを片手に戻ってきてくださった。
…このタイミングで召しあがるつもりかと疑問を抱きかけたところで、いくつかをぽいぽいと布団の上に投げ落とすと、いきなりそれらのうち二粒を片手で握り潰した。

「…!」
「滑りがのうて辛いんやろ。…こんだオイルでも持ってこな」

甘酸っぱい香りが部屋を充たす。
私が飛んできた飛沫から片腕で顔を庇っている間に、和蘭さんがずいと私の片足を膝で跨いだ。
ここに来ても彼が一体何をするつもりなのか分からなかったが、襦袢の下で震えていたその場所に赤く染まった冷たい指が添えられて、驚きに目を見張った。

「や、まさ……っ!」

言い切る前にず…っと濡れた指が奥へ入り、空の悲鳴をあげて喉を反らした。
片手で口を押さえ、もう片方の手では和蘭さんの片腕を震え掴む。
長い指が、想像よりもずっと奥を掻き回す。
滑りとなるは果汁だけとは限らず、体内に紛れ込んだ柔らかい異物の片が指に合わせて湿った音を立てた。
一気に顔に熱が集まる。
天に向いて折った膝を合わせて閉じたいが、間に相手がいてはどうしようもない。
ぐちゅぐちゅという卑猥な音を聞いて涙ぐむしかなかった。
…耳から熔けてしまいそう。

「はっ…や…っ。和蘭さ…」
「…ほんに細っこいの」
「ん…っ」

布団の上で横に背けた顎の線に、冷たい唇が当たる。
…駄目だ。受け取るばかりでは。
何か返さなくては。
そう思って口を覆っていた片手を取り、接吻しようと顔を戻した頃にはそこにもう彼の唇はなく、貧相な胸板の上に移っていた。
転がっていた赤い実を新しく手にしては、私の上で潰す。
垂れ落ちた雫も果肉も、むっとする程の強烈な香りがした。
胸の上を唇が這う度、吸われる度に、背筋を快感が走る。

「…後で風呂入れたるわ」
「…」
「ん…?」

猫の背を撫でるように滑らかに横腹を大きな掌で辿られ、目を伏せてその手を受け止めた。
辿られた場所が、赤く染まる。
…無言のままそっと彼の手首に指先を添えると、辿っていた片手を私に預けてくれた。
濡れた指をひとつ選んで、舌の上に乗せて浅く吸ってから舌と唇を使って愛撫を試みる。
例の甘酸っぱい酸味が口内に広がり、私の口が汚れる代わりに和蘭さんの指先から色が落ちていく過程は、見ていて何故かとても充たされた。
人差し指から始まって薬指が終わる頃、沈黙していた和蘭さんが不意に手を引き、私の髪を掻き上げるように撫でてから二度目の長い接吻を交わす。
舌の根を交えて唾液を吸われ、身体中から力が抜けていく…。
…口付けの仕方がよく似ていた。
恐らく、彼方の方の手法なのだろう。
堪らず続きを請う。

「あの…。もう、挿りそうですか…?」
「…」

下から、太さのある首に両腕を絡めて抱き寄せて、耳元でこっそりと聞いてみる。
絶えず緩めてくださっていたその場所は、もう十分解れた気がした。
久し振りに触れた他者の温度が、心地良すぎてどうしようもない。
…淫乱と思われたらどうするつもりかと思考の一部分が訴え続けているが、それよりも何よりも、早く交わして寂しさを吹き飛ばし、同時に決別を得るつもりでいるも、ちらちらと影が重なってしまう。
白い首筋に低い鼻を押し当てて唇を寄せた。

「…さっきっから影追うとるやろ」
「…!」

妙な数秒間の沈黙の後、私の腕を解くとぐいと指先で顎を持ち上げられた。
図星を指され、青くなる。

「あ…。す、すみませ…」
「構へんで。あん眉毛と比べよっても」
「…え」
「負ける気ぃせえへんからの。…これでも引く手数多で張っとんじゃ。品定めでもしとれや」

不快を与えてしまったかと恐れる私に見えたのは、いつもよりも若干柔らかい気がする鋭い碧眼だった。
口にしたら瞬時にすぱんと叩かれそうですが、こんなにも雄々しい方であるにもかかわらず、その一瞬だけ可愛らしく見えた気がした。

 

そのまま顎を取られて口付けし、布団に両肘着いて少々きつい体制で正面から長らく交わす。
霰もない声を上げて縋り付いて果ててから、ざぶん…!という風呂の中に放り込まれる音と水の恐怖に瞬間的に覚醒するまで、どうやらそれなりの時間気を失ってしまっていたようで、前後はよく覚えていない。
一度は頭の上まで浸り、湯の中から慌てて縁に両腕をかけたずぶ濡れの私を見て、風呂場の入口に左肩を寄りかからせて煙管を咥えていた和蘭さんが、両腕を組みながらくつくつと喉で笑われていて。
…その苦笑が平素の彼らしくなく無邪気であり、荒い息の中、こんな顔もするのかと、随分驚いたことだけは覚えている。

騙し騙し受け入れたはずが、今となっては夜毎蜜月。





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久し振りの蘭日小説。
あの時代、クールな彼の激甘な態度にくらくらしますね。
たぶん和蘭さんはできる人だから、“無邪気で無知な美人”が好きな気がする。
2012.10.15

余談:苺

和蘭語「Aardbei」。
薔薇科の草または低木。
平安時代には自生していた日本の野苺があったが、一般的な苺は江戸時代になってから。
江戸時代末期に和蘭人が持ち込んだ為、オランダ苺ともいう。
尤も、赤い色合いが血を連想させることから、欧羅巴でもトマトと同じく、初めは観賞用としての植物だった。
本来食さないその植物を、貴族の娘が密かに食し、密かな趣味として広がりを見せる。
やがてそれが一般的になり、フルーツとして食べられ始めた。






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