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「“Good evening”」
「…!」

急いで車から降りて玄関へ急ぎ入ろうとした途端、不意に聞きたかった声が聞けて、死ぬ程心臓が跳ね上がった。
慌てて振り返る。
門端に日本が静かに佇んでいた。
…急いでいる所を見られたくなかった。
体裁を取り繕って冷静を装いながら、足を止めてそちらへ歩む。

「よ、よう…。何やってんだ、こんなところで。中にいろよ、寒いだろ」
「少々人に酔いまして、涼んでいたところです。…英国さんこそ随分お急ぎでしたね。講筵前にどなたかお会いになりたい方でも?…何でしたら、本日はキャンセルでも結構ですよ。私への講義ばかりでは、折角の宴も退屈でしょう」
「ば…っ!」

反射的に声をあげそうになって、ぐっと押し黙る。
焦りたくもなければ、感情的にもなりたくない。
特にこいつの前では。
…咳払いをしてから、深く息を吸って顔を背けた。

「馬鹿にするなよ。俺はお前が英語を教わりたいっていうから…」
「その割には、お気づきでないように思いますが」
「へ?」
「冒頭のご挨拶、発音如何でしたか。ご意見をば」
「…」

言われて思い出そうとするが、そもそも声をかけられて驚いたことは覚えているがなんて声をかけられたかとか、発音とかまで気にしてなかった。
ただ日本の声だということが理解っただけで。

「あ、う…」
「冗談です。…昨晩お教え頂いた単語でしたら、書室の方で繰り返しますので、諸注意とご意見はその際で結構ですよ。その方が此方も書に書き留めておけますし」

小さく笑いながらそう言うので、ほっと胸を撫で下ろした。
中に戻るつもりなのか、俺の方へ一歩踏み出る仕草が妙に幻想的で思わず目を引く。
反らしていた顔を変な力に引っ張られ、日本の方を向いた。

「連日申し訳ありません。お仕事もありますでしょうに」
「ま、まあ…お前は勤勉だからな。教えがいがあるからまだいいさ」
「…ご褒美が欲しいだけですよ」
「…」
「実の所、お待ちしておりました。寒かったです。…さあ、参りましょう。ご鞭撻の程、宜しくお願いします」

一別だけ投げてすぐ横を通り、遅れて日本の独特な芳香が鼻先を擽った。
脳が揺れる。
俺を横切るとそのまま振り返らず、日本が扉を開けた。
鳴り絶えぬ音楽、踊り続ける人形の様な人々。
どれも陳腐な飾り物だ。
二階じゃ今晩もダンスパーティだろうが、大体ここの連中は誰一人ダンスなんて踊れやしない。
…が、どうでもいいんだ、そんなことは。
二階になんか上がったことはない。
それなりにざわめく談話室を横切り、端に立っていた従者らしき男へ日本が何事か告げると、奥へ続く廊下をふさぐように立っていた男は退いた。

「どうぞ」

足を止めた日本が一度だけ振り返ると、すぐに背を向けた。
薄暗い廊下の先。
…嘘じゃない。
ちゃんと教えてる。
勉強を見てやってるんだ。
それでもどことなく後ろめたさが残るのは否めない。
一人で軽く首を振り、つま先を向けた。

Rokumei-kan


誘われるまま、書室へ。



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祖国が誘い受け全開の鹿鳴館。
明治村は素敵でしたよ。
はしゃいじゃった。
2011.10.20

余談: 鹿鳴館

東京に建てられていた西洋風の社交場。
一階が談話室、書室、食堂。二階は舞踏会場。
日本文化を偏愛していた英国人コンドルが設計し、煉瓦造りの二階建て。
不平等条約改正の為、日本が西欧に追いつける文化の状態にあることを見せつけるのが主な目的に造られ、華やかに催し物をするのが仕事のような場所。
舞踏会、音楽祭など国内外の上流人の社交の場となった。
…が、当時の日本人に西洋のマナーを知る者は極めて少なく、招かれた西洋人は日本の必死さを嘲笑う傾向にあった。
また、ダンスを踊れる者も殆どおらず、欧羅巴の女性は日本人男性と踊るのを嫌ったらしい。
因みに、「鹿鳴」とは、賓客をもてなす酒の宴を意味する。






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