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約束は実に約一年前。
去年のその日から丁度一週間後に当たる十日の日に、庭先でいたって普通の会話をした。

「何や…。こん時期美せぇ言うんで来てみよったっけ、ほぉでもねえの」

昨年は寒波で落葉が早く、枯れ木ではないにしろ見頃を終えた紅葉の木を見上げ、煙草を咥えながら和蘭さんが詰まらなそうに呟いたのでこう返した。

"見頃には些か遅かったかもしれませんね。今年は寒かったもので"。
"丁度一週間前くらいが見頃でしたよ"。

…過ぎ去った今では、その何気ない言葉が引き出されたものであったとよく分かる。

翌年、十一月三日。
一年前からの約束通り、和蘭さんがお越しになった。
その頃にはすっかり逢瀬を重ねる仲となり果て、今少し早日に建国していたのなら…と、約束の日の数日前から何度胸中で呟いたか分からない。
誕生日、などと喜ぶ歳ではないが…。
それでも、その日に頂いたいつもより少し大きな花束と茶色いその小箱がどんなに悦ばしかったことか、言葉ではとても言い表すことはできません。
珍しい異国の品。
私の為だけにお作り頂いた小箱が光栄で、嬉しくて嬉しくて。
本当に嬉しくて。



自鳴琴



「…ええ加減にしね」

夕食もその後の語らいも一段落する頃には、すっかり夜は更けていた。
小さな中庭に面した寝室の障子を片面だけ開け放ち、そこに背を預けて室内と縁側との境目で座していた和蘭さんが、ぽつりと呟きながら咥えていた煙管を指先で取って口元から離した。
肘を引き寄せた己の膝に乗せながら、ふー…と細く煙を吐く。
その様子に、室内奥の布団で俯せに横たわっていた私は枕に乗せていた顎を僅かに上げて其方へ顔を向けた。
…今宵は満月。
夜は暗くはなく、明るい藍色となって我が屋を包んでいた。
逆光となって縁光る和蘭さんの声が別段いつも以上に低かった訳ではないが、何か不愉快げ…ではないにしろ愉快げではない気がして、内心僅かに慌てる。
敷き布団に肘付いて、上半身を浅く布団から離した。

「あ…すみません。すっかり寛いでしまって…」
「ちゃうわ。聞きすぎじゃ、呆け。…頭痛なるわ」

再び煙管を咥えて目を伏せる和蘭さんの言葉に、私はちらりと枕のすぐ向こう側…畳に置いていた小箱を一瞥した。
…和蘭さんから頂いた彫刻の美しい木彫りの小箱。
ただの小箱かと思いきや、摩訶不思議なもので、蓋を開けると箱が独りでに歌い出す。
水琴で一つ一つ鳴らした様な、少々歪な音色。
遊郭で舞われる曲を選曲されたのが何とも言えませんが、和蘭さんがご存じの私の家の曲というと、このくらいなのかもしれません。
以前ご紹介してから時折足を運び、運んだからには朝方まで入り浸っていらっしゃるのは承知の上なので、その際聞き慣れたのでしょう。
独りでに鳴くその箱がすっかり気に入ってしまい、蓋を開けたまま延々と聞き惚れていた。
音が切れても、一端蓋を閉じて再び裏底の発条を巻けば、また独りでに鳴き出してくれる。
引き篭もってから幾久しく、室内での娯楽は極めて少なく限られている中では、この小箱の価値など計り知れない。
一体どれくらい聞いていたのか。
そう言えば、随分和蘭さんのことを放置していたような気がしなくもなく…。
ですが、大概同じ室にいても各々好きなことをしていることが多いですから、いつものことと言えばいつものことで。
…寝転がっていた身を起こし、正座して両手で寝間着の合わせ目を整えてから、両手を膝で重ねて小さく笑った。

「すみません。とても美しい音色なもので、何度聞いても一向に飽きず…。"おるげえる"…でしたか」
「…」
「この様な素晴らしい品をいただけるとは。本当にありがとうございます。お花もとっても素敵でしたし、加えて此方の小箱に勝る品を未だ嘗て頂いたことはございません。独りでに鳴く箱なんて…。和蘭さんは本当に様々な…。…ああ。発条が」

感謝の意を述べている最中、枕元の自鳴琴が徐々に弱くなり、やがて止まってしまった。
最初は呆けていたからか、一度巻くだけで随分長いこと鳴いていた気がしたが、こうして慣れてくると存外音が途絶えるのが早く、訪問時に頂いてからこの時間まで、何十回と巻き直したことか。
再び発条を巻かねばなるまい。
膝に重ねていた両手の指先を布団に添え、体を滑らせるように座したまま少し前に体を移動させると、小箱を大切に持ち上げて膝に置いた。
それから右腕を伸ばして同じく枕元に置いてあった発条巻きを取ると、箱を丁寧に閉じてひっくり返し、裏にある差し込み口に差し込む。
キリキリ…と巻いている傍ら、和蘭さんが縁側の方から立ち上がり、こちらへ歩いてきた。
深夜だからから、一歩一歩歩かれる毎に畳が小さく軋む。
室の端に置いてあった煙管箱に煙管を置くためか、布団の横にどかりと和蘭さんが此方に背を向けて腰を下ろした。
そのまま、カン…!と気持ちのいい音を立てて煙管の灰を払う。
いつもよりも強めに音が響いたきもしたが、偶々だと思っていた。
その頃には発条が巻き終わり、発条巻きを置いて再び蓋を開ける。
また透明感のある歌を歌い出してくれる小箱を見下ろしていると、和蘭さんが同じように横目で小箱を見詰めながら向かいで口を開く。

「ほんなに気に入ったんけ」
「ええ。とても」
「…ほけ」
「え? ……あ!」

和蘭さんがひょいっと何気なく発条巻きを取り、そして唐突に片腕を振りかぶると、発条巻きを開いた障子の向こうへ止める間もなく…投げた。
掌に収まるサイズの小さな発条巻きは、為す術もなく夜の中庭へ吸い込まれていく。

「何す……!?」

見つからなかったらどうするのかと。
反射的に膝付いて立ち上がり探しに出ようとした所を不意に右の手首を掴まれ、一瞬、やはり投げつけるような物凄い力で引かれた。
膝立ちになっていた不安定な身は為す術もなく力任せに放られた右腕に引っ張られ、枕がある本来とは間逆の方へ後頭部から仰向けに倒れ込む。
いくら布団の上とはいえ一瞬背中を打って顔を歪め、それと同時にカタン…!と、膝に乗せていた小箱が飛んでその辺りに落ちた。
それでも蓋は閉じなかったのか、音は止まなかった。

「…っ」

遅れて手首に痛みが走る。
小さく呻き、思わず閉じていた目を開けると、視界の端で布団の横に座していた和蘭さんが胡座をかいたまま、片腕一本だけを此方の手首へ伸ばし、肩越しに一瞥を投げていた。
冷えた半眼と目が合い、立ち上がることも忘れて双眸瞬き、呆ける。
数秒間、訳が分からず静寂だった。
ややあって、幾許か低い、先程と同じ言葉で沈黙が破られる。

「…ええ加減にしね」
「へ…?」
「日ぃ変わるわ」

もう一度同じ言葉を受けるも仰っている意味がよく分からず、瞬いている間に手首を捕らえていた手が離れると、その手で今度は仰向けに横たわっていた顎を緩く取られた。
背を向けていた身体を面倒臭そうにため息吐きながら反転させて膝着き、空いた片手が私の顔の真横に置かれ、背を屈めてお顔を詰められた頃に漸く気付く。
気付いたからには今の状況はとても正気ではいられず、ぶぼっと顔から火が出る。
僅かに両肩上げて膝を緩く折り立て、引き攣る指先をわたわたと近距離過ぎる和蘭さんの肩に引っかけた。

「ぁ…えと…。す、すみません。決して蔑ろにし……っ!」

言葉途中で上から与えられる接吻。
唇を合わせ、一度目の合わせにして舌が吸われて一気に体温が上がる。
舌の根がぴりりと痛み、怒ってはおらずとも不愉快を前面に出され、慌ててそれに応えた。
…頂き物が素晴らしすぎて、すっかり夢中になってしまいました。
蔑ろにしていた訳ではないのですが、そう取られてしまったのであれば少しでも挽回しようと、相手の肩に指先を掛けて一度唇が離れた後、少し葛藤した挙げ句に此方からも唇を合わせて許しを請うた。

何度目かの接吻を繰り返しながら鎖骨に置かれた手がそのまま下り、自然と帯が解ける間も足下に転がり落ちたらしい自鳴琴がやはり独りで歌い続けていたが…。
次第に緩やかになり、間もなく止まった。

 

 

 

翌朝。
いつものことだが、高血圧で起床し、少し乱れた髪のまま羽織を纏うと逃げるように寝床を抜け出た。
冷たい廊下を足早に、朝食の支度をしにお勝手に向かう。
日頃、私の食事は部下に任せるものの、和蘭さん始め賓客がいらっしゃる際は召し上がっていただきたいものが多々あるので、自身で作るよう心がけていた。
上せた頭を振り払いつつなるだけゆっくりと時間を掛けて朝食を作り終え、対面する心構えをつけて膳を持って戻る頃には、大体起床を済ませた和蘭さんが縁側に座している。
すっかり身支度を調え、いつものように気怠げに煙管を咥えて早朝の空か、中庭の小さな池を泳ぐ錦鯉を見詰めている。
今朝もその様だった。
…何事も無かったかのようなその背中を見て、心底安心して深く息を吐くと、室に一歩踏み込んだ。

「おはようございます…」
「…ん」

咥えた煙管の先を僅かに動かし、素っ気なく返事が返る。
行儀が悪いのは分かっているが、極力自室にありたい私の我が儘で、拒否されない限りは同じ場所で朝食を取ることにしていた。
膝を着いて膳を畳に一度置き、膳を整える前に布団を片さねばと袖を捲りながら床の傍へ歩み寄ると…。
枕元にちょこん、と。
自鳴琴の小箱と、昨晩庭に放られた発条巻きが揃って置いてあった。
…思わず和蘭さんの方を振り返るも、相変わらず気怠げに煙を吹かす後ろ姿だけで、此方がお呼びしない限り振り返る様子も、何を伝える様子もない。

「…」

少々佇んでいたが、やがてそれらを拾い上げると、いそいそと床の間の端の端へ隠すように置くことにした。
折角頂いた素敵な品ですが、滞在なさっている間はあまり触れない方が良い気がして。
…膳の用意が整い、縁側に出て私もその場で膝を着く。
両手を前に添えて、朝餉の支度が整いましたのでどうぞと告げると、漸く振り返ってくださった。
縁側から室内へ戻られ、煙管棚に打ち付ける音が落ち着いているのを聞いてほっと胸を撫で下ろした。

 

箸を持つ前に、どうにも気になってちらりと床の間を一瞥する。

「…」
「俺が帰りよったら好きなだけ聞きや」

慣れない箸で煮物を突き刺しながらもずばっと正面で言われ、思わずびくりと肩が震えた。

「あ…。…はい」
「…」

的確に見抜かれ、慌てて俯いて膳に視線を戻す。
どうにも叱られた気がしてしまい縮こまっていたが、食事の途中で不意に一連のそれが傍目に見れば嫉妬の類であることに気付いてからは萎縮するのを止め、その代わり小さく微笑んでしまった。
不思議そうに私を一瞥するも何も問わぬまま、食事を終えた和蘭さんがまた煙管を片手に縁側に向かい、片付けを済ませた後私もお茶を持ってそちらへ歩み寄ることにしました。
…和蘭さんがお越しにならないと障子すら開けない。
隣に腰を下ろすと、中庭に植えられた紅葉がいつの間にか美しく染まっているのが見えた。
今年は時期的にも今が良い。
秋風に染まる木々や山。
紅く染まる大地は、日頃飾り気のない私を何とか栄えさせてくれる。

「…まあ、そこそこやな」
「恐れ入ります」

嬉しいお言葉に身を寄せたくもあったが、勿論叶わず。
宜しければ来年もお越し下さいね…と、静かに隣で付け足すのが精一杯だった。





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和蘭さんは基本が男前を目指しています。
英国とはお互い内心ライバル視してるくせに趣味が一緒っていうのがなんとも(笑)
2012.6.5

余談:オルゴール

和蘭語「Orgel」。
和名は自鳴琴。
手回しや発条仕掛けで自動的に楽曲を演奏する器具。
回転する円筒或いは円盤に植えた棘が櫛状に並んだ細長い音階版を弾いて音を出す。
日本には江戸初期鎖国期に渡来したと言われている。
初めは和蘭人がオルガンを日本へ持ち込み、その次にやってきた似たような、けど小型の自動音楽機は「おるげる」と訛ったらしい。
因みに、米国や英国では「Musical Box」。






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