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平穏は長くは続かない。
さればこそ愛せ。
人を憎まず妬まず清らかに。
…それまで、理想的な道徳は嫌いじゃなかった。
必要に迫られて動き出す暴力というものも確かにある。
だが人の心は美しく正しくあるべきだと、せめて自分だけはそうあろうと、心から思っていた。


Varmt valkomna hem



フィンが家から連れ出された。
心配ありませんから。
すぐ戻ってきますから…と。
微笑んだ首に首輪のように東の、巨大な帝国のチョーカーが下がっていた。
いくら美しく形取ってアクセサリーに見せたところで無意味だ。
嘆き叫ぶことを思いつかないくらい呆然と佇み、後になって別れ際のその反応が彼を哀しませてはいないかと悔やみ抜いた。
明るさの消えたリビングで顔を覆う日々が続く。
それでも家の外では凛としていなければならない。
俺たちの場合、何をしたところで明確に公私混同を分けられるものではないが、それでもお互いが入り乱れないよう意を留めるべきだと思う。
襟を詰めてコートを羽織り、帽子を被ってグローブをはめ、胸を張って家を出る。
何気なく歩いていた街中の歩道。
通る人波の向こうに。

「なあノル。夕飯何かリクエストあっけー?」
「…何も」

並んで歩くふたつのシルエットを捉え…。

「…」

双眸を細めた。
今まで感じたことのないくらいの冷たく鋭い凍えた風が、内側に吹いた。





銃を取り、歩を進め。
馬が合ったことなどない、徐々に日和っていた彼へ銃口を向け。
彼の大切な、最愛という名をした宝の腕を掴み取って、その腕の中から奪い、引き裂いてやった。
…後程書面を交わし、サインし終わった所で絶望して顔を覆い喉を震わせる丁抹を見て、いくらか心が晴れた自分が心底嫌になった。






「…八つ当たり?」
「…」
「…。…幼稚」

軽蔑と一緒に吐き捨てられる言葉に、全くだと我ながら賛同する。
諾威が家にいたとしても、何が変わる訳ではなかった。
フィンと違ってこれといってものができる訳でもない。
昔ほどではないにしろ、未だに彼の所有する木材と海域は造船と戦においてどの国にとっても魅力的だ。
だがそれだけだと思う。
元が美しいというだけで、家事はできないしまだ生活能力もいまいち乏しいくせに道徳的プライドだけは人一倍高い。
正直あまり興味はなかった。
いてもいいがいなくても別にいい。
ただ自由にさせるのは不愉快だ。
一人で暮らしたいと言ってはいるが、どうせまた丁抹と親しくする。
…相変わらず家の中では顔を覆って窓際で伏す俺を見て、正面のソファに座って足を組む諾威が深く息を吐く。

「スヴィー。俺もあんこん変ない顔ばなかなかおもしっか思う。…ばって、もうよかろ。帰し」
「…。…おめぇ、あいっがこと好いだんが」
「…」

俯いたまま尋ねると、諾威は黙り込んだ。
最初から答えは期待してない。
ただこれを問いかければ黙るだろうなと思っただけだ。
煩かった。
…お互いあまり喋る方ではないためかなり長い沈黙が場に降りたが、やがて諾威が席を立ったんで俺も顔を上げる。
そんな立場でもないだろうに、完全に見下した目と目が合った。

「…俺じゃフィンの代わりばしきらん」
「…」
「とぜんなかだけばい。阿呆」

吐き捨てて、リビングを出て行く。
割り当ててやった部屋へ続く階段を上る音が聞こえてから、ソファの背に身体を預け、肘置きに右肘を着いてその手で目元を覆った。
諾威が来たところで、家に明るさは戻らなかった。
あのおっとりした笑い声も聞こえない。
…。

銃を持つ気になれなかった。
周囲が大喧嘩をしている時も遠巻きに眺めていた。
フィンが怪我をしていなければいい。
怪我をしたらしたで、ここに逃げ込んでくればいい。
…そう思って、逃げ込んでくる者は手厚く迎え入れ、介抱し、知った顔はないかと探し続けた。





始めは気が触れたらどうしようかと思っていたが、そのうちさっさと狂えないだろうかと願いだし、最終的にまだかまだかと待ち望むようになった。
丁度そんな頃だ。

「あ…。お、お久しぶりです、スーさん!」
「…」

ある日の早朝。
ドアを開けたら、フィンがそこに立っていた。
足下には大きなトランク。
…いつからいたのか。
何故ベルを押さなかったのか。
ドアを開けた状態で硬直していた俺を前に、何かをフォローするように両手を前に出し、ぱたぱた振るう。

「あ、えと…すみません、朝から。あの、露西亜さんがもう帰っていいよって言ってくれたんで…。か、帰って来てみたんですけど…。で、でもあの、ほら。長かったんで…。今更ご迷惑かなあ~とも思いましたし、第一もう僕のこ……あ。そ、そうだ!ごめんなさい…!って言うか後先ですよねっ!そうなんです、まずその前にその…っ」

突然のことで俺が上手く状況を呑み込めていないのと同様に、フィンもいくらか混乱しているようだった。
青筋立てて辿々しくまくし立てた後、ぱん…!と胸の前でフィンが両手を打ち、そのまま祈るようにグローブのはめた両手を組んで顔を上げた。
真っ直ぐなアメジストの双眸と目が合う。

「ぼ、僕のこと…。覚えてます…か?」
「……」
「とか、言ってみたり…」
「…」

懐かしいその双眸に、殆ど状況反射のように瞬間的に心が解れ、驚くほど簡単に胸の内が温かくなった。
後になって声を上げて歓喜しなかった分こっちの狂喜が伝わらなかっただろうなと後悔もしたが…。
兎も角、その時は両腕を伸ばすありきたりな礼しか出てこなかった。
一体どれくらいこの場に佇んでいたのか。
冷えた身体を両腕で抱いてハグし、左右の頬を合わせる。
そこでフィンがほっと安堵の息を吐き、俺が頬を離した後、追って彼からも左右頬を合わせた。
…顔が離れて、フィンが笑う。

「た、ただいま帰りました…!」
「…。ん」

太陽のような笑顔に頷くことしか出来ず、こくりと一度首を下げた。
一歩退いてドアを押さえながら入り口を譲ると、もう一度満面の笑みで笑てから足下のトランクを持とうとしたので、その手が取っ手を掴む前に奪っておいた。

「あ、いいですよスーさん…!」

持ち上げようと前屈みになった所に、同じように屈んだフィンと距離が詰まる。

「…」
「これとっても重いんで……ぅ、わ!」

無意識に目を伏せ、近距離にあった額に唇を当てた。
短い悲鳴を上げ両肩を上げてフィンが身を退いた所で我に返った。
ぱっと顔を離すと、額を片手で押さえて瞬いているフィンの顔があった。
…一瞬にしろあまり理性を失うという経験がなかったので、内心狼狽えながら目を反らす理由として、真下を向いてトランクを持ち上げた。

「え、あ…あの」
「…グリョッグとショコラード。どじさす?」
「え?の、飲み物ですか? え、えーっとえーっと…。じゃ、じゃあ、ショコラードで!」
「ん…」

トランクを持っていない方の手をフィンの背へ添え、軽く中へ促し、ゆっくりドアを閉めた。
あそこまで陰気だった家の中が、彼一人迎えるだけで明るくなった。



俺はあまり、会話というものが得意ではない。
「おかえり」と言うタイミングが掴めず、お茶にして荷物の整理をし、久し振りに夕食を一緒に作り…。

「…。フィン」
「あ、スーさん。おやすみなさい。 ベッドありがとうございます、そのままにしておいてくれて。てっきり片付けられていると思ったから、僕すごく」
「…“おかえり”」
「嬉……はい?」
「…と、おやすみ」

自分の部屋への往き道。
開け放たれたままだったフィンの部屋の前で、寝る前に何とか伝えるのがせいぜいだった。

明日は彼が戻ったことを記念して、一緒に写真を撮ろうと思っている。



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公式夫婦のいちゃいちゃ。
この2人はもう邪魔する気すら起きない。
2012.1.18

余談:フレデリクスハムン和平条約。

芬蘭で行われた、瑞典と露西亜の芬蘭戦争の決算条約。
露西亜が勝ち、瑞典が負けた。
その為、それまで瑞典の属領として一緒だった芬蘭が、戦争で勝った露西亜の所有となることを決めた条約で、これ以降芬蘭は暫く露西亜のものになり、いい貿易相手であったとともにかなりの脅威でもあり、露西亜に対する暴言などは控えて縮こまっていた。

因みにその5年後。
丁抹・瑞典・英国の間でキール条約が結ばれる。
ナポレオン戦争でナポレオンを支持してた丁抹から、瑞典が諾威を、英国がヘリゴランド島を奪う。






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