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その物語は名作ということになってはいるが…。
本人に言わせてしまえば、それはもうやけくそ&鬱状態で書き殴ったもんらしく、大して好きじゃないらしい。
今では表紙を見るんも嫌とか言っとるが、上司が一応とっとけっつーからってんで、本棚の奥の奥の奥の奥辺り…たぶん、どっかその辺に一応あるはずだ。
…けどまあ、そんなことはどうでもいい。
今となってはどうでもいい。

Little Mermai



「よう、お姫さん! んなトコでな~にしてん?」
「…」

距離のある背後からかかるそんな声にげんなりして振り返りもせずにため息吐いた。
桟橋の先に座ってる俺んとこに来る気らしく、歩いてくる度にギ…ギ…と鳴る木の音を聞きながら、水に浸してた両足のうち右足を軽く上げると目の前の静かな海面に波が立つ。
海辺。
月夜。
…不思議と星は出てない。
今日の予定として、南で会議があった。
ちっと遅くなったから帰るんが面倒くなって、阿呆の家で休んどったらいつの間にか夜になっちまって、もう今晩は泊まることに決めた。
元々予定になかった宿泊で、泊まるからには料理だとか手伝う気だったが、いいから夕食まで時間潰してろって言われたんで彷徨いてた訳だ。
さっきから響いてた足音がすぐ背後まで来た所で、漸く肩越しに振り返る。
両手を腰に添えてギャルソンエプロンしたまんまで、丁抹がそこに立っていた。
…まあ、この桟橋もこいつん家の庭っちゃ庭だが、エプロンくらい取って出てくりゃええのに。

「…夕飯?」
「ん。ぼちぼちな」
「あっそ…」
「っつーか、おめ家ん中いねえから焦っちったべな~。帰っちったんじゃねえかってよ。外出る時ゃ一声かけちくろや」
「…窓からすぐ見えんべ」

丁抹の更に後ろ。
桟橋の入り口奥が、丁度こいつん家の裏正面になる。
こっち側向いてる窓なら、家にあるどの窓からだってこの桟橋は見えるだろう。
それに泊まるっつってんだから。
喧嘩でもしねえうちは何も言わずに突然帰るなんて礼儀知らずなこたまずしねっつー話だ。
片手を額に添え、丁抹が今まで俺が見てた海の先へと覗くように視線を投げる。

「何か面白ぇもんでもあったけ?」
「今更おめん家で面白ぇも何もあっか」
「あっはっはっは!だよな~! ガキん頃遊び来すぎてっか!」
「…」

真後ろででけえ声で笑う阿呆に眉を寄る。
…遊びに来てたガキん頃だけの過去ならええけど、他の色んな事には触れない気らしい。
ちっと調子ええんと違うかとも思うが…まあいい。
何だかんだでこいつん家には出入りしてっから、実際何処に何があるとか、この部屋は何の為の部屋だとか、庭のあの木は何の木でどの季節に実がなるだとか、そういうんは把握してるんで、確かに昔ガキの頃は一緒んなって探検しまくったが、この歳になると新たな発見的なものはてんでご無沙汰だ。
海面に映る月が綺麗なんで見てたと素っ気なく返してやったが、本当は、海の向こうにぼんやり見える自宅を眺めていた。
勿論常々承知しているつもりだが、改めてこうして先っちょに座ると結構近ぇな…と妙に浸った。
帰るのが面倒いから泊まるとか…そんな距離じゃ当然なくて、何かちっと…自分の言い訳くせえ言い訳がガキっぽくて軽い自己嫌悪にも入ってた。
どうにも上手くいかない。
…まあ、ええけど。別に。
自分で可愛げねえの知ってっし、もうここまで来ちったら性格なんてそう簡単に変わんねえべ。
さっさか諦め、小さく息を吐いて立ち上がろうと海中に放り出していた両足を膝曲げて引き寄せ、片手を桟橋に着く。

「お…?っと。ちっと待っちろな。バスタオル持って来っから」
「ええよ」

腰を上げかけた所で丁抹が踵を返してタオルを取りに戻ろうとしたが、それを制した。
はたっと足を止める彼を一瞥する。

「取りに戻んの怠ぃべ。…ええよ。裏口んとこまで歩いてっちまうから、そこでタオルくれりゃ」
「そーけ? おめがええんならええけど…。下着とかべちゃべちゃして気持ち悪くねえけ?」
「そこまで濡れとらんわ。膝下だ膝下。…おめこれだけ持っとけ」
「お?」

厚手の布地使ってる上着だけは濡れると厄介そうなんで、脱いで彼に放り投げる。
仮に受け取り損ねて落としたら空かさず橋に着いてる片手軸にして足払いでもかます所だが、不意打ちで投げたにもかかわらず阿呆は見事にキャッチした。
他に身に着けてるもんは濡れたとしても一晩放置しとけば乾きそうなんで、そのまま腰を浮かせながら両足をザバリと引き上げ、桟橋の上に立った。
何気なくいつもの癖で横髪払うと、そんなに居た訳じゃねえのに潮風にぱさぱさした。
少し離れた位置に置いといた靴下と靴を、丁抹が背を屈めて拾い上げる。

「おっこらしょ…っと」
「ジジくせえな…」

それらは彼に任せ、横を通って一足先にぺたぺたと桟橋を陸地へ向かって歩く。
水に浸してた膝下は十二分に水を吸っており、俺が歩く度に乾いてた板木に足跡どころか、垂れ落ちた水が太い線を描いて色の違う道を残していく。
まあそれも、橋の口に着く頃には足跡くれえの水量になってはいたが。

「…」
「…何しとん。はよ来」
「ん? ああ…へいへい!」

俺が陸地である裏庭の芝生に足を付けても、何ぼけっとしとんのか、丁抹は桟橋の先から一歩も動かず、何故か遠巻きにこっちを見てるだけだった。
促して慌てて大股で寄ってくると、そのまま裏口目指して歩く。
裏庭を濡れたパンツと素足で歩くとちくちくして痛かったり痒かったり、草は着くしであっという間に汚くなったが、両方とも洗えば落ちるし、大した問題じゃねえ。
裏口に到着すると一度丁抹が家の中へタオルを取りに行き、その間に横にあったガーデニング用の水道で足と裾を洗った。
洗い終わって裾を三つ折りにしてる所でタオルが手渡され、背中を屈めてそれで拭く。
…こんままバスルーム行っちまってもええけど、それよか腹減ったし。
片足が拭き終わって靴下履いてる間に、隣でひょっこり阿呆が水道の蛇口に片手を置いた。

「…。なー。ノルよ~」
「なん?」
「あーっと…。…いや、あのよ。すげえ馬鹿なこと言ってええけ?」
「おめえいつも以上にまだ馬鹿なこと言えんけ」
「ん。や、あんな…。あんま夜に海とか行かねえでくれっけ」
「…あ?」

そこまで相手にせず何気ない会話の一環として聞いていたが、また妙なことを言い出したんで足下から顔を上げた。
珍しく言い出しづらそうに目線反らしたまま片手の人差し指で頬を掻いてるもんだから、その反応に引っ張られるようにして一度屈めていた背を正す。

「…何。危ねえって? 落ちっとでも思ってん?」
「あ? ああ、いや。そーゆーんじゃなくてよ…。何か、ほれ。そのまま消えっちまいそうで…」
「…?」
「俺好かねんだわ。人魚姫」

はは…と軽く苦笑しながら、丁抹が後ろ頭を掻く。
意味が分からず眉を寄せてた俺は、その反応に暫し無言で呆けた。
…へらへらと阿呆が俯き気味で笑う。

「や、別にんな訳ねえの分かってんだけどよ、何っかな~! 嫌ぁでよ~」
「嫌ぁも何も、おめが書いたんだべ。何言ってん。…第一、泡んなって消えるとか、物理的に有り得ねえべな」
「へ? あ、いや。だぁら…泡がどうこうっつーより、スヴェーリエとかよ、またどっか他の奴が来て俺ら…。……」
「…」
「ぁ…。は、腹減ってっけ?」
「…あ?」

ぱたっと止まった発言の後、切り口替えて突然ぱっと丁抹が顔を上げる。
ずいと詰め寄られ、折角綺麗になった片足を靴下履いたまんまで後退したんで、早速足の裏にまた芝生が着く。
汚れた足下見て一回舌打ちしてから、眉間に皺寄せてぎっと阿呆を睨んだ。

「減ってる。…昼ぁ会食だったべな。あんなん全然食った気しねえし。大体、それで呼びに来たんだべ」
「でもそこまで減ってねえとか」
「はあ? 耳垢溜まっとんと違うけおめえ。だぁら減っ…ちょ、寄んな阿……!?」

更に一歩踏み込まれ、更にこっちが一歩後退してそのまま距離を空けようとした所で二の腕掴まれていきなり引っ張られた。
慌てる間も反発する間もなく、額を奴の肩にぶつけて反射的に目を瞑った時には暑っ苦しい腕が俺の両肩を抱いてて、急に投げやりになって、全身から力が抜けた。

「…」

…阿呆か。
髪の間に押しつけられる鼻先を意識しながら、半眼でため息吐く。
何が人魚だ。
何が他の奴だ。
いつまで経ってもうじうじうじうじ…過去なんざ振り返ってちゃ、やってらんねえべな。
時々あることだが、くだらない想像に蝕まれてねえで落ち着けな……って、んな改めて考えてた訳じゃねえけど、何気なく慰めてやろうと首筋と顔の輪郭の間辺りにキスしようと顎を上げたところで…。
夜風が吹いて髪を揺らして、はた…と我に返った。
…。

「いっ…でええええええっ!!」
「…重ぇんだよ」

思いっきり耳を真横に引っ張ってやると、無様な悲鳴を上げて丁抹が両腕を緩めた。
空かさず顔面を片手で掴み、向こう側に押し出す反動として俺も後退して身体を離す。
忘れずに掴まれた両肩の埃を払っていると、真っ赤な耳を片手で押さえながら涙目んなって丁抹が叫く。

「おんめ今耳ブチっつったぞブチって!」
「やがまし。はよ飯でも盛ってろ」

片足あげてその背中を蹴り飛ばし、蛇口から離させる。
鞭打たれて嫌々進む獣のように、丁抹は片耳押さえたまんまでとぼとぼ裏口のドアを開けたが、その途中で未練がましく振り返り。

「んじゃあ飯食い終わっ…」
「うっせ」

何かしらの提案をされたが、最後まで聞く気は全くなく、改めてその背中を蹴り押して家の中に放り込んだ。
独り裏口に残ってから、片手を腰に添えて鼻を鳴らす。

「…ったく」

舌打ちしてドアを睨んでから、またすっかり汚れた両足の裏を左右一本ずつ膝を折って肩越しに背後を見下ろすようにして眺めた。
それからもそもそと、また芝生の着いた靴下を脱ぐ。
また最初っから両足洗って、もう靴下履くんは諦めて素足の爪先を靴に押し込んだ。
片足の踵を入れる直前、またぴゅう…と、海沿いから一陣の冷たい風が髪をそよがせ、それに惹き付けられるように顔を上げたところに、もう一度風が吹き頬を撫でた。
月明かりでさっきまで美しく感じていた藍色の海。
俺が自分で付けた足跡っつーか…跡だが、芝生の向こうに海に向かって真っ直ぐ伸びる、何かを引き摺ったようなその水跡を乗せる桟橋が、そん時だけ、それはそれは不気味に哀しく見えた。
向こうに微かに見えてた俺の庭も、もう今は闇に沈んで見えない。
日頃あまりのあっけらかんとした態度に忘れるが、この…何か決定的な別離を暗示させるような風景の中、あの物語を書き上げた彼の心境を察し、急に胸が重くなった。
…そしてまた、夜の海から風が吹く。

「……」

発作的な不安に駆られ、踵を入れないまま歩き出しドアノブを握って回した。
鍵を閉め、廊下を足早に歩き、ダイニングへ向かう。
俺はここにちゃんといっから…なんてこた口に出して言える訳ねえから、心底面倒いが、取り敢えず視界には入っててやらんでもないと、リビングとダイニングへ繋がるドアを開けた。

別れと悲恋の代名詞。
そんなんにいつまでも例えられるんは心外で、キッチンでこっちに背を向け、無表情でぼんやり俯いてた阿呆のタイを掴んで引っ張ると、上着の掛け方がなってないとクレーム付けてリビングまで連行してやった。



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人魚姫と幸福の王子は小説で読むと泣けます、軽く読めない。
童話は大好きですよ。
2011.12.18

余談:アンデルセン

丁抹の童話作家にして詩人。ロマン主義。
丁抹での呼び名はアナセン。
感受性の鋭利な人物で、手紙魔。
人と話すのが苦手な反面、猛烈な量の手紙やメモを取る性格だったらしい。
靴職人の子供として貧しい生活を送っていたが、父親が文学好きだったので幼い頃から身近に物語が存在している環境で育ってきた。
支援してくれる人の援助で大学に進み、卒業後に王からも援助を得て一年間海外旅行をし、見聞を広げる。
帰国後に書いた『即興詩人』で名を上げ、童話集を出版。
『人魚姫』『親指姫』『醜いアヒルの子』『絵のない絵本』など、約150編の童話の他に、小説『わが生涯の物語』などがある。






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